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2021年01月05日
映画「忠臣蔵」- オールスターキャストで挑む熱演の“忠臣蔵”
「忠臣蔵」
昭和33年(1958年) 大映
監督 渡辺邦男
脚本 渡辺邦男
民門敏雄
松村正温
八尋不二
撮影 渡辺孝
音楽 斎藤一郎
〈キャスト〉
長谷川一夫 滝沢修 市川雷蔵 山本富士子
鶴田浩二 京マチ子 淡島千景 若尾文子
日本人に最も親しまれ、現在でも語り継がれる「忠臣蔵」。
大映創立18年の記念として(18年は中途半端な気もしますが)、オールスターを配して挑んだ大作。
時は元禄、五代将軍徳川綱吉の時代。
江戸からの急使が早駕籠で播州(播磨国・現兵庫県南西部)赤穂へと向かって駆けつけます。
急使の報を受けた赤穂城筆頭家老の大石内蔵助(長谷川一夫)以下の赤穂城家臣たちは、城主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)(市川雷蔵)の江戸城における刃傷(にんじょう)事件を知らされ、その後届く内匠頭切腹の顛末(てんまつ)などを知らされることになります。
正式な審議は行われず、喧嘩両成敗が本当であるはずなのに、相手の吉良上野介(滝沢修)には咎めはなく、一方の内匠頭だけが罪人のように腹を切らされたことへの幕府に対する怒りと抗議から、城に籠って討ち死にをしようと言う者、いや、短慮は謹んで裁きに従おうと言う者、二派に分かれて評議が続きますが、最後は家老大石内蔵助の判断を仰ぐことになります。
大石の策として、内匠頭の弟である浅野大学を立てて城主とし、まずはお家再興を幕府に願い出ようとするものでした。
城明け渡しも整い、お家再興の嘆願書も幕府に届きましたが、当時の権力を握っていたのは綱吉の信頼の厚い老中柳沢出羽守吉保(清水将夫)。
上野介の実子、綱憲(船越英二)は上杉家の養子でもあり、出羽守という職掌柄、上杉家とつながりのある柳沢吉保は吉良家の養護にまわり、赤穂事件の処理にあたっていた脇坂淡路守(菅原謙二)から受け取った大石による浅野家再興の嘆願をはねつけてしまいます。
城を明け渡すということは、その日から家臣たちは職を失い、家族共々露頭に迷うことを意味します。
浅野家再興がかなわないと知った大石は、幕府を相手に討ち死にをしようと言う者だけを集めて、かねてから腹案のあった吉良上野介仇討ちへと舵を切ってゆきます。
よく知られた赤穂浪士四十七士による吉良上野介仇討ち物語なのですが、少し分かりにくいのが、事件の発端となった浅野内匠頭と吉良上野介の関係から起こった江戸城松の廊下における一連の流れ。
事件は、元禄14年3月14日(現代の暦でいえば1701年4月21日)、巳の下刻(午前11時40分ごろ)、江戸城本丸大廊下において、吉良上野介義央(よしなか)と留守居番・梶川頼照が儀式の打ち合わせをしているところへ、浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか!」と叫び、脇差で吉良に切りつけたというもの。
事件をさかのぼること約一カ月前の2月17日、京都の東山天皇から勅使が派遣され、江戸へ向かいます。
柳原資廉、高野保春をはじめとする勅使の一行は3月11日に江戸・品川の伝奏屋敷に到着。
その翌日、3月12日に勅使の江戸城登城。白書院において将軍・徳川綱吉に下賜の儀式が執り行われます。
その京都朝廷の勅使の饗応役、つまり接待役にあたったのが浅野内匠頭で、勅使に対する礼儀・作法を指南していたのが高家(幕府の儀式・典礼を司る役職)の名門吉良家。
ところが、吉良義央は浅野内匠頭に対して何かと嫌がらせをしたり、田舎侍とバカにした態度を示したりと、浅野の饗応役としての役職を貶(おとし)めるような振る舞いに及んだため、とうとう堪忍袋の緒が切れて…。
時間をかけた審議が行われなかったので、浅野内匠頭がどのような遺恨で刃傷に及んだのかは実際にはハッキリとしないのですが、映画にも出てきたように、吉良に対する賄賂の少なさなどが尾を引いて、浅野への嫌がらせ等につながり、それが吉良への悪感情になって暴発したのではないかと考えられますが、実際的な問題としては、なぜ一方的に浅野内匠頭だけが罪人のように屋敷の庭先で腹を切らされたのか。
“生類憐みの令”のような悪政と非難された法を作った五代将軍綱吉は、また一方で尊皇心の篤いことでも知られ、そのため、勅使一行への饗応には細大の気を使い、勅使から下された聖旨・院旨に対する勅答の儀は、幕府の行事の中でも最も格式の高いものとされていました。
その奏答の儀が行われたのが、元禄14年3月14日。
綱吉としては、こともあろうに最も重要な日に刃傷事件を引き起こした浅野内匠頭に対する怒りは生易しいものではなかったのでしょう。一方の吉良家は名門であり、浅野家は五万三千石の大名。
由比正雪の乱(慶安の変)や“伊達騒動”に見られるように、江戸幕府による大名取り潰し政策は幕府初期から行われていたことから、“刃傷事件”は浅野家取り潰しの格好の口実となったのかも分かりません。
それはともかくとして、綱吉の怒りは内匠頭に向けられ、即日切腹、というのはいかにも片手落ち。
まして“仇討ち”は江戸時代にあっては美徳以上の絶対的な義務。幕府の失政に対する反省を促す意味と、主人浅野内匠頭を死に至らしめた相手、吉良上野介を打ち取るため、旧浅野家家臣団は窮乏と貧苦の中で結束を固めてゆくことになります。
現在では考えられないような豪華絢爛たる配役の映画「忠臣蔵」。
大石内蔵助に今や伝説的なスター長谷川一夫。
浅野内匠頭には、歌舞伎から転じ、後に「眠狂四郎」シリーズが当たり役となった二枚目の市川雷蔵。
内匠頭の妻・瑤泉院(ようぜんいん)に第一回ミス日本にも選ばれた美人女優山本富士子。
憎まれ役、吉良上野介に名優滝沢修。
そして、「座頭市」シリーズで人気を博すことになる若き日の勝新太郎、鶴田浩二、京マチ子、若尾文子、淡島千景、木暮実千代、二代目中村鴈治郎、さらに、清水将夫、小沢栄太郎、内蔵助の息子大石主税(ちから)に川口浩など、そうそうたる顔ぶれの中で、個人的に注目したのが大高源吾を演じた品川隆二さん。
テレビシリーズ「素浪人 月影兵庫」や、その続編のような「素浪人 花山大吉」で近衛十四郎との名コンビの相手役、焼津の半次のコミカルでけたたましい三枚目の強い印象があって、品川隆二といえば焼津の半次のイメージがあったから、大高源吾のような二枚目は意外でしたが、考えてみれば、テレビ時代劇「忍びの者」ではかなりシリアスな主人公・石川五右衛門を演じていましたから、やはり正統派の俳優なんですね。
見応えのある映画「忠臣蔵」なんですが、このころの時代劇の特徴として、歌舞伎からの影響が抜けきっていなくて、市川雷蔵のメークアップなどは歌舞伎の隈取りを連想させますし、殺陣(たて)などもヒラリヒラリと体をかわして刀をよける、芝居小屋の引き写しでリアリティーに乏しい(さすがに後半の討ち入りのシーンは違っていますが)。
そんな欠点を物ともせずに魅せるのが、火花を散らすような俳優たちの演技。
内匠頭に寄り添い、切腹の場面では庭先で嗚咽をもらす片岡源五右衛門(香川良介)。
遊郭で遊び呆ける大石に迫り、「腰抜け!」と罵り、切りつける浪人・関根弥次郎(高松英郎)。
吉良上野介の身辺を守り、吉良邸で討ち死にをする腕利きの武士清水一角(田崎潤)。
大工・政五郎(見明凡太朗)、娘婿の勝田新左衛門の不甲斐なさを嘆く大竹重兵衛(志村喬)、大石の東下りに立ちふさがる垣見五郎兵衛(二代目中村鴈治郎)など、その配役とそれぞれの持ち場での熱のこもった演技は見もの。
特にラスト、仇討ちが成って引き上げる大石たち一行を拝むようにぬかずく白装束の遥泉院(山本富士子)の姿は、何度見ても感動を覚えます。
増上寺の畳替えや、山科の別れ、赤穂城明け渡しか討ち死にかで評議が続く場面など、様々なエピソードを織り交ぜて構成された「忠臣蔵」は、上映時間3時間にも満たない映画では中途半端になってしまうのは致し方のないところですが(1982年のNHKの大河ドラマ「峠の群像」では、そのあたりはけっこう詳しく描かれていたように思いました)、映画「忠臣蔵」は、艱難辛苦に耐えて本望を遂げる、浪花節的醍醐味をタップリと楽しめる映画です。
監督 渡辺邦男
脚本 渡辺邦男
民門敏雄
松村正温
八尋不二
撮影 渡辺孝
音楽 斎藤一郎
〈キャスト〉
長谷川一夫 滝沢修 市川雷蔵 山本富士子
鶴田浩二 京マチ子 淡島千景 若尾文子
日本人に最も親しまれ、現在でも語り継がれる「忠臣蔵」。
大映創立18年の記念として(18年は中途半端な気もしますが)、オールスターを配して挑んだ大作。
時は元禄、五代将軍徳川綱吉の時代。
江戸からの急使が早駕籠で播州(播磨国・現兵庫県南西部)赤穂へと向かって駆けつけます。
急使の報を受けた赤穂城筆頭家老の大石内蔵助(長谷川一夫)以下の赤穂城家臣たちは、城主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)(市川雷蔵)の江戸城における刃傷(にんじょう)事件を知らされ、その後届く内匠頭切腹の顛末(てんまつ)などを知らされることになります。
正式な審議は行われず、喧嘩両成敗が本当であるはずなのに、相手の吉良上野介(滝沢修)には咎めはなく、一方の内匠頭だけが罪人のように腹を切らされたことへの幕府に対する怒りと抗議から、城に籠って討ち死にをしようと言う者、いや、短慮は謹んで裁きに従おうと言う者、二派に分かれて評議が続きますが、最後は家老大石内蔵助の判断を仰ぐことになります。
大石の策として、内匠頭の弟である浅野大学を立てて城主とし、まずはお家再興を幕府に願い出ようとするものでした。
城明け渡しも整い、お家再興の嘆願書も幕府に届きましたが、当時の権力を握っていたのは綱吉の信頼の厚い老中柳沢出羽守吉保(清水将夫)。
上野介の実子、綱憲(船越英二)は上杉家の養子でもあり、出羽守という職掌柄、上杉家とつながりのある柳沢吉保は吉良家の養護にまわり、赤穂事件の処理にあたっていた脇坂淡路守(菅原謙二)から受け取った大石による浅野家再興の嘆願をはねつけてしまいます。
城を明け渡すということは、その日から家臣たちは職を失い、家族共々露頭に迷うことを意味します。
浅野家再興がかなわないと知った大石は、幕府を相手に討ち死にをしようと言う者だけを集めて、かねてから腹案のあった吉良上野介仇討ちへと舵を切ってゆきます。
よく知られた赤穂浪士四十七士による吉良上野介仇討ち物語なのですが、少し分かりにくいのが、事件の発端となった浅野内匠頭と吉良上野介の関係から起こった江戸城松の廊下における一連の流れ。
事件は、元禄14年3月14日(現代の暦でいえば1701年4月21日)、巳の下刻(午前11時40分ごろ)、江戸城本丸大廊下において、吉良上野介義央(よしなか)と留守居番・梶川頼照が儀式の打ち合わせをしているところへ、浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか!」と叫び、脇差で吉良に切りつけたというもの。
事件をさかのぼること約一カ月前の2月17日、京都の東山天皇から勅使が派遣され、江戸へ向かいます。
柳原資廉、高野保春をはじめとする勅使の一行は3月11日に江戸・品川の伝奏屋敷に到着。
その翌日、3月12日に勅使の江戸城登城。白書院において将軍・徳川綱吉に下賜の儀式が執り行われます。
その京都朝廷の勅使の饗応役、つまり接待役にあたったのが浅野内匠頭で、勅使に対する礼儀・作法を指南していたのが高家(幕府の儀式・典礼を司る役職)の名門吉良家。
ところが、吉良義央は浅野内匠頭に対して何かと嫌がらせをしたり、田舎侍とバカにした態度を示したりと、浅野の饗応役としての役職を貶(おとし)めるような振る舞いに及んだため、とうとう堪忍袋の緒が切れて…。
時間をかけた審議が行われなかったので、浅野内匠頭がどのような遺恨で刃傷に及んだのかは実際にはハッキリとしないのですが、映画にも出てきたように、吉良に対する賄賂の少なさなどが尾を引いて、浅野への嫌がらせ等につながり、それが吉良への悪感情になって暴発したのではないかと考えられますが、実際的な問題としては、なぜ一方的に浅野内匠頭だけが罪人のように屋敷の庭先で腹を切らされたのか。
“生類憐みの令”のような悪政と非難された法を作った五代将軍綱吉は、また一方で尊皇心の篤いことでも知られ、そのため、勅使一行への饗応には細大の気を使い、勅使から下された聖旨・院旨に対する勅答の儀は、幕府の行事の中でも最も格式の高いものとされていました。
その奏答の儀が行われたのが、元禄14年3月14日。
綱吉としては、こともあろうに最も重要な日に刃傷事件を引き起こした浅野内匠頭に対する怒りは生易しいものではなかったのでしょう。一方の吉良家は名門であり、浅野家は五万三千石の大名。
由比正雪の乱(慶安の変)や“伊達騒動”に見られるように、江戸幕府による大名取り潰し政策は幕府初期から行われていたことから、“刃傷事件”は浅野家取り潰しの格好の口実となったのかも分かりません。
それはともかくとして、綱吉の怒りは内匠頭に向けられ、即日切腹、というのはいかにも片手落ち。
まして“仇討ち”は江戸時代にあっては美徳以上の絶対的な義務。幕府の失政に対する反省を促す意味と、主人浅野内匠頭を死に至らしめた相手、吉良上野介を打ち取るため、旧浅野家家臣団は窮乏と貧苦の中で結束を固めてゆくことになります。
現在では考えられないような豪華絢爛たる配役の映画「忠臣蔵」。
大石内蔵助に今や伝説的なスター長谷川一夫。
浅野内匠頭には、歌舞伎から転じ、後に「眠狂四郎」シリーズが当たり役となった二枚目の市川雷蔵。
内匠頭の妻・瑤泉院(ようぜんいん)に第一回ミス日本にも選ばれた美人女優山本富士子。
憎まれ役、吉良上野介に名優滝沢修。
そして、「座頭市」シリーズで人気を博すことになる若き日の勝新太郎、鶴田浩二、京マチ子、若尾文子、淡島千景、木暮実千代、二代目中村鴈治郎、さらに、清水将夫、小沢栄太郎、内蔵助の息子大石主税(ちから)に川口浩など、そうそうたる顔ぶれの中で、個人的に注目したのが大高源吾を演じた品川隆二さん。
テレビシリーズ「素浪人 月影兵庫」や、その続編のような「素浪人 花山大吉」で近衛十四郎との名コンビの相手役、焼津の半次のコミカルでけたたましい三枚目の強い印象があって、品川隆二といえば焼津の半次のイメージがあったから、大高源吾のような二枚目は意外でしたが、考えてみれば、テレビ時代劇「忍びの者」ではかなりシリアスな主人公・石川五右衛門を演じていましたから、やはり正統派の俳優なんですね。
見応えのある映画「忠臣蔵」なんですが、このころの時代劇の特徴として、歌舞伎からの影響が抜けきっていなくて、市川雷蔵のメークアップなどは歌舞伎の隈取りを連想させますし、殺陣(たて)などもヒラリヒラリと体をかわして刀をよける、芝居小屋の引き写しでリアリティーに乏しい(さすがに後半の討ち入りのシーンは違っていますが)。
そんな欠点を物ともせずに魅せるのが、火花を散らすような俳優たちの演技。
内匠頭に寄り添い、切腹の場面では庭先で嗚咽をもらす片岡源五右衛門(香川良介)。
遊郭で遊び呆ける大石に迫り、「腰抜け!」と罵り、切りつける浪人・関根弥次郎(高松英郎)。
吉良上野介の身辺を守り、吉良邸で討ち死にをする腕利きの武士清水一角(田崎潤)。
大工・政五郎(見明凡太朗)、娘婿の勝田新左衛門の不甲斐なさを嘆く大竹重兵衛(志村喬)、大石の東下りに立ちふさがる垣見五郎兵衛(二代目中村鴈治郎)など、その配役とそれぞれの持ち場での熱のこもった演技は見もの。
特にラスト、仇討ちが成って引き上げる大石たち一行を拝むようにぬかずく白装束の遥泉院(山本富士子)の姿は、何度見ても感動を覚えます。
増上寺の畳替えや、山科の別れ、赤穂城明け渡しか討ち死にかで評議が続く場面など、様々なエピソードを織り交ぜて構成された「忠臣蔵」は、上映時間3時間にも満たない映画では中途半端になってしまうのは致し方のないところですが(1982年のNHKの大河ドラマ「峠の群像」では、そのあたりはけっこう詳しく描かれていたように思いました)、映画「忠臣蔵」は、艱難辛苦に耐えて本望を遂げる、浪花節的醍醐味をタップリと楽しめる映画です。