2011年07月31日
真木和泉守保臣と水田天満宮
真木和泉守保臣と水田天満宮(筑後市)
真木和泉守保臣銅像(久留米水天宮境内)
明治100年を記念して新しく建てられた銅像
文化十(1813)年三月七日、誕生。筑後の人。母は中村柳子。父は真木左門施臣(としおみ)。
保臣が誕生した時、すでに姉二人がいたが、はじめての男子誕生であった。
保臣は、幼名を湊といい、やや長じて久寿、または鶴臣と称し、のち、保臣と改めた。通称、和泉守。号は紫灘(したん)。紫灘と号したのは、利根川の坂東太郎に対し、筑紫次郎と呼ばれる筑後川が水天宮の社殿の近くに大きく澱んでいるのに因んだという。
文化十四(1817)年、五歳。弟の亘(のちの大鳥居敬太信臣)、誕生。
文政元(1818)年、六歳。十一月、有馬筑後久留米藩主頼徳の命により、江戸芝赤羽の久留米藩邸内に水天宮を分祀した功によって、父・左門は、中小姓格に列し、年額米六十俵を扶持されることとなり、以後、真木家に伝えられた。
文政二年、七歳。弟の登(のちの小野加賀氏伸)、誕生。
文政四年、九歳。末弟の摩須男(のちの真木外記直人)、誕生。
文政六年、十一歳。父・左門(34歳)が、急病死。わずか11歳になったばかりの保臣が家督を相続し、真木家を代表することとなった。久留米水天宮の祠官であったが、江戸・水戸に遊学し、会沢安の影響を受けた。
保臣は、身長五尺八寸。しばしば、力士に間違われるほど肥満した体躯で、角張った赤銅色の顔、広く秀でた額、はねあがった薄い眉、威力のある目、大きな耳と口、太く短い首、そしてやや猫背の容姿をしていたという(山口宗之『真木和泉』)。
天保元(1830)年、保臣、十八歳。弟・理兵衛(14歳)は、水田天満宮先代信宜(八兵衛)の養子となった。
水田天満宮鳥居から神門を望む
水田天満宮は、嘉禄二(1226)年、筑前太宰府より水田庄(筑後市水田)へ勧請され、菅原道真を祭神とした。天文〜天正年中には、社地六百二十三町余を持ち、豊臣秀吉時代、小早川秀包から一千石、慶長六年、田中吉政より一千石、田中氏の改易後、元和七年、幕府上使板倉豊後守より更に一千石、有馬筑前久留米初代藩主より二百五十石、立花筑後柳川藩主宗茂より五十石の寄進を受け、都合三千三百石の社領を有した。十八代神官信岩の時まで水田において太宰府の司務職を兼ねたが、久留米藩主忠頼の臣梶村覚左衛門の子利兵衛を得て、別家大鳥居家として水田の社領二百石を分知し、天満宮の留守別当とし、これに対し、藩庁は馬廻格の待遇を与えた。
天保五年、保臣、廿二歳。妻睦子、男子(長男)を出産。麟太と命名した。
天保六年、廿三歳。十一月廿七日、妻睦子、男子(次男)を出産。幼名時次郎。通称主馬。名を佐忠・道文・?・文臣という。
天保八年、廿五歳。妻睦子、男子(三男)を出産。彦三郎と命名した。
天保九年、廿六歳。保臣には、妻睦子との間に、長男麟太・次男主馬・三男彦三郎の三子があったが、この年、長男麟太(5歳)・三男彦三郎(2歳)が共に夭折した。
天保十年、廿七歳。長女小棹、誕生。
天保十四年、卅一歳。九月十九日、四男菊四郎、誕生。名は道武、弦。主馬より八つ、小棹より四つ若く、末っ子であったが、保臣は二男と呼んていたとう。
天保年間(1830〜43)、久留米に、水戸学が伝えられ、天保学と呼ばれた。水戸義公に淵源する水戸学は、幕末に至り、水戸斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖、合沢正志斎らにより、形成された。木村三郎、村上守太郎によって、この水戸学が久留米に伝えられ、当時、藩の青年武士等、将来有為の人々は、この斬新な学風に惹かれた。藩内に広がった新しい学風は、おのづから旧来とは異なった一派を形成し、世間では、これら一派の人々を称して、天保学と呼んだ。
天保十五(1844)年、卅二歳。四月三日、有馬筑後久留米第9代藩主頼徳(48歳)、死去。
六月、有馬頼永(よりとう)が、久留米第10代藩主に就任した。頼永は、頼徳の四男ではあったが、幼少時代から聡明で、文政9年に世子に指名されていた。
保臣は、水戸遊学から帰藩し、水戸における直接の見聞、合沢正志斎らの人々との意見交換を素材として、天保学派の人々と、一層の自信と抱負とを以て互いに切磋琢磨し、あるいは積極的にそれらのグループを指導し、従前よりも一層活発な活動を見せ始めた。保臣は、まず、久留米藩において武士道を振起することに意を注いだ。島原の乱を最後に戦争と呼ぶべきものは一つもなく、町民の文化は目覚ましい興隆を見せたが、反面、武士はとかく利益にひかれて本分ともいうべき道義を忘却し、その気風は質実剛健をはなれて甚だ惰弱となり、華美となり、まことにあさましい風俗となり果てていた。
木村・村上・真木保臣の三人は、天保学派の指導者の立場にあり、一般からも天保学の三尊と呼んで尊敬されていた。保臣らは集会を催し、武士の武士たる所以、武士のあるべき姿を説き、それは第一に忠孝という道徳の根本を理解し実践すること、武士たるものは先ず志を高く大きく立てて学業に励むべきこと、利害によって左右されることなく節操を守るべきこと等を、若い人の心によく沁(し)みこむように懇切に具体的に指導した。
七月、オランダ軍艦が、長崎に来航し、使節コープスは、開国を勧告するオランダ国王書翰を呈した。ここに、久留米藩では、藩の兵制改革を藩主に進言すべく同士の二藩士が脱藩するという事件が起こり、それは久留米藩内に衝撃を与え、ひいては一般の士気を鼓舞することともなって、保臣らの指導の効果を倍加させた。保臣ら天保学派は、藩政刷新運動の中で、有馬頼永の襲封・帰国に期待を寄せた。頼永は、世子時代から将来を嘱望され、彼自身、村上を水戸に派遣して研究するなど政治について、かねて考えていた。
久留米・水天宮鳥居を望む
十二月二日、弘化と改元。
弘化二(1845)年、卅三歳。久留米藩主頼永、帰国。頼永の帰国にあたり、保臣は、科戸風(しなどのかぜ)なる一文を呈して天保学派の登用希望を述べていた。一方、かねて天保学派の勃興を悦ばない人々は、これを撲滅すべしと藩主に陳情したが、頼長はむしろ天保学派の材を登用した。保臣らは、藩政の改革を構想する機会に恵まれた。頼永は、藩の財政難を再建するため、5年間の倹約による緊縮財政、綱紀粛正、軍制の近代化、外国情勢の入手、海防の強化、有用な人材の登用など、藩政改革に乗り出した。
弘化三年、卅四歳。春、保臣は、さらに敢言、総論、四部箇条とそれぞれ題する献言書を呈し、藩政の眼目について、意見を述べた。上書の目的は、改革の目的でもあった。何よりも人材任用すべきこと、それらの人材を藩政府、郡官および刑官に重点をおいて配置すべきことを説き、十八項目に亘る至急に検討実施すべき事項、三十七項目にのぼる長期構想の項目を列記してこれを示した。幕末における諸藩の改革が財政の建て直しを直接意図したのに対し、保臣の久留米藩政革新の目論見(もくろみ)は、一藩の改革を日本の国全体の改革の雛形と考えて、やがて幕府政治が排除され、皇室が日本の政治を執行されるようになった時には、そのままで日本中に実施できる模範的な藩政を実現すべきであるというところにあった。明治維新より二十五年も前に、幕府の廃止と王政の復活を前提に藩政改革の計画を試みたのは、真木和泉守保臣以外には無い。
真木和泉守保臣銅像(久留米水天宮境内)
明治100年を記念して新しく建てられた銅像
文化十(1813)年三月七日、誕生。筑後の人。母は中村柳子。父は真木左門施臣(としおみ)。
保臣が誕生した時、すでに姉二人がいたが、はじめての男子誕生であった。
保臣は、幼名を湊といい、やや長じて久寿、または鶴臣と称し、のち、保臣と改めた。通称、和泉守。号は紫灘(したん)。紫灘と号したのは、利根川の坂東太郎に対し、筑紫次郎と呼ばれる筑後川が水天宮の社殿の近くに大きく澱んでいるのに因んだという。
文化十四(1817)年、五歳。弟の亘(のちの大鳥居敬太信臣)、誕生。
文政元(1818)年、六歳。十一月、有馬筑後久留米藩主頼徳の命により、江戸芝赤羽の久留米藩邸内に水天宮を分祀した功によって、父・左門は、中小姓格に列し、年額米六十俵を扶持されることとなり、以後、真木家に伝えられた。
文政二年、七歳。弟の登(のちの小野加賀氏伸)、誕生。
文政四年、九歳。末弟の摩須男(のちの真木外記直人)、誕生。
文政六年、十一歳。父・左門(34歳)が、急病死。わずか11歳になったばかりの保臣が家督を相続し、真木家を代表することとなった。久留米水天宮の祠官であったが、江戸・水戸に遊学し、会沢安の影響を受けた。
保臣は、身長五尺八寸。しばしば、力士に間違われるほど肥満した体躯で、角張った赤銅色の顔、広く秀でた額、はねあがった薄い眉、威力のある目、大きな耳と口、太く短い首、そしてやや猫背の容姿をしていたという(山口宗之『真木和泉』)。
天保元(1830)年、保臣、十八歳。弟・理兵衛(14歳)は、水田天満宮先代信宜(八兵衛)の養子となった。
水田天満宮鳥居から神門を望む
水田天満宮は、嘉禄二(1226)年、筑前太宰府より水田庄(筑後市水田)へ勧請され、菅原道真を祭神とした。天文〜天正年中には、社地六百二十三町余を持ち、豊臣秀吉時代、小早川秀包から一千石、慶長六年、田中吉政より一千石、田中氏の改易後、元和七年、幕府上使板倉豊後守より更に一千石、有馬筑前久留米初代藩主より二百五十石、立花筑後柳川藩主宗茂より五十石の寄進を受け、都合三千三百石の社領を有した。十八代神官信岩の時まで水田において太宰府の司務職を兼ねたが、久留米藩主忠頼の臣梶村覚左衛門の子利兵衛を得て、別家大鳥居家として水田の社領二百石を分知し、天満宮の留守別当とし、これに対し、藩庁は馬廻格の待遇を与えた。
天保五年、保臣、廿二歳。妻睦子、男子(長男)を出産。麟太と命名した。
天保六年、廿三歳。十一月廿七日、妻睦子、男子(次男)を出産。幼名時次郎。通称主馬。名を佐忠・道文・?・文臣という。
天保八年、廿五歳。妻睦子、男子(三男)を出産。彦三郎と命名した。
天保九年、廿六歳。保臣には、妻睦子との間に、長男麟太・次男主馬・三男彦三郎の三子があったが、この年、長男麟太(5歳)・三男彦三郎(2歳)が共に夭折した。
天保十年、廿七歳。長女小棹、誕生。
天保十四年、卅一歳。九月十九日、四男菊四郎、誕生。名は道武、弦。主馬より八つ、小棹より四つ若く、末っ子であったが、保臣は二男と呼んていたとう。
天保年間(1830〜43)、久留米に、水戸学が伝えられ、天保学と呼ばれた。水戸義公に淵源する水戸学は、幕末に至り、水戸斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖、合沢正志斎らにより、形成された。木村三郎、村上守太郎によって、この水戸学が久留米に伝えられ、当時、藩の青年武士等、将来有為の人々は、この斬新な学風に惹かれた。藩内に広がった新しい学風は、おのづから旧来とは異なった一派を形成し、世間では、これら一派の人々を称して、天保学と呼んだ。
天保十五(1844)年、卅二歳。四月三日、有馬筑後久留米第9代藩主頼徳(48歳)、死去。
六月、有馬頼永(よりとう)が、久留米第10代藩主に就任した。頼永は、頼徳の四男ではあったが、幼少時代から聡明で、文政9年に世子に指名されていた。
保臣は、水戸遊学から帰藩し、水戸における直接の見聞、合沢正志斎らの人々との意見交換を素材として、天保学派の人々と、一層の自信と抱負とを以て互いに切磋琢磨し、あるいは積極的にそれらのグループを指導し、従前よりも一層活発な活動を見せ始めた。保臣は、まず、久留米藩において武士道を振起することに意を注いだ。島原の乱を最後に戦争と呼ぶべきものは一つもなく、町民の文化は目覚ましい興隆を見せたが、反面、武士はとかく利益にひかれて本分ともいうべき道義を忘却し、その気風は質実剛健をはなれて甚だ惰弱となり、華美となり、まことにあさましい風俗となり果てていた。
木村・村上・真木保臣の三人は、天保学派の指導者の立場にあり、一般からも天保学の三尊と呼んで尊敬されていた。保臣らは集会を催し、武士の武士たる所以、武士のあるべき姿を説き、それは第一に忠孝という道徳の根本を理解し実践すること、武士たるものは先ず志を高く大きく立てて学業に励むべきこと、利害によって左右されることなく節操を守るべきこと等を、若い人の心によく沁(し)みこむように懇切に具体的に指導した。
七月、オランダ軍艦が、長崎に来航し、使節コープスは、開国を勧告するオランダ国王書翰を呈した。ここに、久留米藩では、藩の兵制改革を藩主に進言すべく同士の二藩士が脱藩するという事件が起こり、それは久留米藩内に衝撃を与え、ひいては一般の士気を鼓舞することともなって、保臣らの指導の効果を倍加させた。保臣ら天保学派は、藩政刷新運動の中で、有馬頼永の襲封・帰国に期待を寄せた。頼永は、世子時代から将来を嘱望され、彼自身、村上を水戸に派遣して研究するなど政治について、かねて考えていた。
久留米・水天宮鳥居を望む
十二月二日、弘化と改元。
弘化二(1845)年、卅三歳。久留米藩主頼永、帰国。頼永の帰国にあたり、保臣は、科戸風(しなどのかぜ)なる一文を呈して天保学派の登用希望を述べていた。一方、かねて天保学派の勃興を悦ばない人々は、これを撲滅すべしと藩主に陳情したが、頼長はむしろ天保学派の材を登用した。保臣らは、藩政の改革を構想する機会に恵まれた。頼永は、藩の財政難を再建するため、5年間の倹約による緊縮財政、綱紀粛正、軍制の近代化、外国情勢の入手、海防の強化、有用な人材の登用など、藩政改革に乗り出した。
弘化三年、卅四歳。春、保臣は、さらに敢言、総論、四部箇条とそれぞれ題する献言書を呈し、藩政の眼目について、意見を述べた。上書の目的は、改革の目的でもあった。何よりも人材任用すべきこと、それらの人材を藩政府、郡官および刑官に重点をおいて配置すべきことを説き、十八項目に亘る至急に検討実施すべき事項、三十七項目にのぼる長期構想の項目を列記してこれを示した。幕末における諸藩の改革が財政の建て直しを直接意図したのに対し、保臣の久留米藩政革新の目論見(もくろみ)は、一藩の改革を日本の国全体の改革の雛形と考えて、やがて幕府政治が排除され、皇室が日本の政治を執行されるようになった時には、そのままで日本中に実施できる模範的な藩政を実現すべきであるというところにあった。明治維新より二十五年も前に、幕府の廃止と王政の復活を前提に藩政改革の計画を試みたのは、真木和泉守保臣以外には無い。