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豊後國堅来村弁財天の由来

享保19(1734)年、豪珍大和尚は、松平民部武郷から禄を賜り、豊後国国東郡堅来村に、弘法大師御作とされる弁財天を安置して、天台宗明徳山浄満寺を草創した。

 弁財天は、弁才天とも書く。もと、インドで河川を神格化したもので、ヴェーダにおいては、インドの五河地方の河神として崇拝され、後に、梵天の妃とされた。音楽・弁才・財福・智慧の徳がある天女形で、吉祥天とともに最も尊崇された女神である。音楽・弁才・福智・延寿・除災・得勝を司る天で、大弁天・音妙天(妙音天)・美音天・弁天・大弁才功徳天ともいう。仏教に入って、『金光明最勝王経』大弁才天女品に詳述されて、古くから、造像された。後世、吉祥天と混同し、福徳賦与の神として弁財天と称された。
 日本では七福神の一として信仰された。もと河の女神であったから、日本でも、弁天の祀堂は、湖辺・海辺にある。

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 天台宗明徳山浄満寺(今の白砂山明徳寺)は、養老4年に仁聞菩薩の開基と伝えられているが、実際の創建年次は不明。千古の名刹も長い星霜とともに、頽廃していたという。

160614-1・20150917-1126・国東DSCF7047.JPG 明徳寺 仁王と山門


 浄満寺(明徳寺)の所在する豊後国国東郡堅来は、国東半島の東部、伊予灘に面し、堅来川と支流鳴川の流域に位置している。

 堅来日向に鎮座している稲田姫神社は、建仁年間(1201〜04)に、大友親秀が、出雲国簸川から、鎮疫のために勧請したと伝えられている。




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松平民部武郷 (まつだいら・みんぶ・たけさと 生年未詳〜元文3) その略伝


松平民部武郷 (生年未詳〜元文3)

元禄十三(1700)年頃、誕生。母は、松平正晴が女。父は、松平(能見)直堅。長男。通称、源七郎。織部。民部。

父・直堅は、松平直政の男。寛永8(1631)年に、誕生。翌寛永9年、松平重直(直政の父・武郷の曽祖父)は、摂津三田三万石から、三万七千石で豊前竜王に入封。同16(1639)年、領内の豊後高田に築城して移った。

重直は、寛永19年、領地高三万七千石のうち、二男重長に三千石、三男直政(武郷の祖父)に二千石を分知した。しかし、幼年のため、知行地はつけなかったという。重直は、この年11月に死去し、翌寛永20年1月、長男英親が、家督を相続した。

松平英親は、正保2(1645)年、豊後木付(のち杵築と書く)へ分知領を合わせて三万七千石で所替を命ぜられた。この時、旧領地のうち幕府領となった国東郡「高田領見目、香々地、都甲、田染」の一万七千八百十七石を預かることになった。しかし、この幕府領は、寛文9年に一万石余が肥前島原藩領となった。


松平重長・直政への実際の分知が、天和2(1682)年に行われたらしい。

武郷が誕生した頃、すなわち元禄13年11月、旗本庶子の拝謁および養子について?定された。

元禄十四年三月、播州赤穂藩主浅野長矩、江戸城中で高家吉良義央を傷つけ、切腹・改易された。

元禄十六年十一月廿三日午前二時頃、関東地方を巨大地震が襲った。江戸市中の被害は大きく、江戸大火により、湯島天神・聖堂などが罹災した。

この地震とほぼ同時に、豊後でも強い地震があり、府内領で潰家があり、由布院でも被害が著しかった。

宝永元(1704)年十二月、将軍綱吉は、甥の徳川甲府藩主綱豊を養嗣子に定め、家宣と改名させた。

綱豊(家宣)は、寛文3(1663)年の誕生で、母は田中氏、父は甲府藩主徳川綱重。長男。三代将軍家光の孫にあたり、幼名を虎松といった。

柳沢吉保は、甲府へ転封となり、15万余石に加増された。

宝永二年正月、間部詮房は、西丸側衆となった。

宝永三年正月、幕府は、武家奉公人不足につき、知行所百姓の使用を認めた。

宝永六(1709)年正月、徳川将軍綱吉(64歳)、死去。

この月、幕府は、新井白石を登用した。生類憐みの令を廃止した。

四月、幕臣の子息700余名を新規に召し出した(惣御番入)。

五月、徳川家宣、第6代将軍に就任した。

家宣は、間部詮房を老中として、生類憐みの令を解き、前代の権臣柳沢吉保を退け、新井白石を信任して政治の刷新をはかった。

六月、柳沢吉保、致仕。

十二月、前代までの幕臣の拝借金返済を免除した。

正徳元(1711)年三月十八日、武郷は、はじめて、徳川家宣(文昭院殿)に拝謁した。



享保七(1722)年七月十一日、武郷は、家督を継承し、寄合(よりあい)となった。

武郷が継承した領地は次のようなものであったと推測される。

石高二千石 豊後国国東郡のうち、
・鬼籠村  220石1斗2升
・伊美中村 424石1斗
・岐部村  532石6斗
・深江村  194石8斗
・堅来村  217石0斗2升
・岩戸寺村 217石0斗9升
・新涯村  194石2斗7升 (以上)

寄合は、旗本のうち、三千石以上ないし布衣(ほい)以上の者で無役の者ということであるが、武郷は、二千石でも寄合とされたのであろう。

享保十一(1726)年正月十八日、武郷は、御使番となった。

使番(つかいばん)は、若年寄に所属する職名で、戦時には側近にあって命令伝達を担当したが、平時には、将軍上使として、代がわりの時に諸国巡回して大名や遠国諸役人の監察、城の受渡しの立合い(監督)、大名火消の指揮、また、二条・大坂・駿府・甲府などの要地への目付として出張、などがその任務となっていた。

享保十一年十二月廿八日、武郷は、布衣を着する事を許された。


享保十九年五月廿八日、武郷は、駿府の定番に転じた。


元文二年七月廿三日、武郷は、御不審を被りて、秋田信濃守?ョ季に召預けられた。


元文二年九月十一日、武郷の罪を定められた。

『寛政重修諸家譜』によると、「武郷駿府の定番として守れる虎の四足門は、酉刻を過れば人の出入を許さゞる掟なるに、夜中に及びてもひそかに出入せしめ、また平日行跡よからざるよし聞召れ、かれこれ其罪輕からずとて采地を歿収し、永く信濃守?ョ季が許にめし預けられて家たゆ。妻は有馬攝津守純富が女」とある。

『杵築市誌』(昭和43年7月土井寛申ほか)には、「駿府定番だったが、取り調べを受け奥州三春城主秋田信濃守へ身柄を預けられ、九月十一日「永の御預け」の裁が下り、十月六日には、このことが杵築藩へ通達され、日田代官岡田庄太夫へ預けられた。知行二千石は没収され、十一月六日にこの引き渡しを終えた」とある。



元文三年五月晦日、武郷、死去。

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