すみません。
今回はどうでもいい思い出話しです。
すみません。
田中商店という店が
昔、山口県徳山市(現、周南市)栗屋にありました。
昔と言っても、日本昔話しに
出てくるほど遠〜〜い遠〜〜い昔ではありません。
この爺が小学生だった頃の話です。
つまり、昭和30年代です(^_^;)
みる人によってはと〜お〜い昔です、やっぱり。
で、この田中商店ですが、この店は
奈切(なきり)というところに行く
道の途中にあります。
奈切には日新製綱の研究所とか
分工場のような建物がありました。
地元ではテッパンと呼んでいました。
また、出光興産の原油貯蔵タンクも
有り、大型運搬車やトラックが
通る道でもあります。
右手に田中商店がありました(グーグルマップより借用)
この道を五十数年前、リヤカーを
母親と押して歩いてる子がいました。
貝掘りをするために。
貝拾いと言わなければ、今の時代は
判らないですか(笑)
あの時代に貝拾いと言ってたら笑われたな、きっと。
リヤカーってなに?という方の為に(笑)
田んぼで使う四つ鍬とトウマイ袋(もともと米を入れる袋だったと記憶)
と云う貝を入れるための入れ物と篩と。
篩は砂、土と貝を仕分けるために
必要でした。
その貝掘りする場所は母親の実家がある
大踏(オオブミ)という地名で
そこよりも五百メートルくらい手前は弁天町と呼ばれる場所でした。
昔も今も、道の両脇には家がポツンポツンと
建っています。
行きの道の右手に田中商店がありました。
もう、どんなものを売ってた店かは、
忘れてしまいました。
たぶん、雑貨屋さんだったと思います。
おばあちゃんがひとりでいつも店にいました。
ただ、おもちゃのピストルがぶら下がって
いた少年の記憶は五十年経っても
消えることはありませんでした。
リヤカーを押しながら、欲しいと
通る度に思っていたものです。
プラスティックで出来た当時の
ピストルです。
おそらく、粗悪品だったでしょうが、
母親からモノを買い与えられることが
なかった少年にとって、それは喉から
手が出そうになるくらい欲しいものでした。
喉から出た手を必死で抑えながら、
少年はリヤカーを押しました。
一生懸命、貝を掘っての帰り道、こんどは
来た道を逆に帰って行くのです。
弁天町に差し掛かり曲がり道を
行き過ぎれば、
あの田中商店が左手に見えてきます。
少年は左を向かずに
まっすぐに視線を向けてリヤカーを
押します。
それでも、
ぶら下がったピストルが時折吹いてくる
浜風にゆれているのが視界に入ってきます。
店のおばあちゃんが
笑っているような気配なのが
分かりましたが、
少年は気付かぬふりして通り過ぎました。
弁天町から少し離れた大踏というところで、生まれ育った母と、
このおばあちゃんは顔見知りのはずです。
声は出さなくても笑顔で通り過ぎて
いたはずです。
その母親は、今、介護施設のベッドで
寝ています。
認知症で要介護認定5の母親は
さっき「オオブミ」と言っていました。
息子の顔も認識出来なくなったらしい
母親の口から久しぶりの言葉です。
オオブミ・・・
きっと、自分の生まれ育った実家の
ことや、やさしかった母親を思い出してるんだろうな。
あの田中商店にぶら下がっていた
ピストルなんて、間違っても出ては来ないだろうな。
ピストルを物欲しそうな目で見つめていた
息子を知っていたはずであるが・・・
追伸)介護施設にいる母親の洗濯物を週2回の頻度で取りに行っています。
久しぶりに母の口から出た言葉を聞きました。
「オオブミ・・・」という言葉に母親が思っていたことが
読み取れました。同時に私の頭のなかも数十年まえの状況が
蘇ってきました。
おもちゃのピストルの代名詞でもある田中商店の名前は実は曖昧です。
ひょっとしたら、違う名前だったかもと・・書いた後で思うような
情けない状態です。
歳は取りたくないものです。
大いなる旅路 小椋佳さん
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