見出しは理解力を深める?
見出しを使うことで得られる一番の効果は、読者の瞬間的な理解力を促進し、短い時間で記事の内容を把握してもらえることです。
昨今、書かれた文章を、紙面、インターネットを問わずじっくり読む人は少なくなりました。情報が氾濫し、より早く、より効率的に取捨選択をするため、というのが一般的に言われる理由で、そのために情報の発信者も見出しを初めとする「目に訴える」様々な手法を取り入れ、「早い」「旨い(有用)」「安い(ページが軽い)」のサイクルを加速させているわけです。
しかし、私は以下のようなことも考えてしまうわけです。
判り易すぎるという弊害
見出しは本来、瞬間的に記事の内容、押さえておくべきポイントやキーワードを把握させ、後に続く本文の内容を理解しやすくするために機能します。もっと言ってしまえば、見出しを読めば本文を読む必要はなくなるのではないでしょうか?
あるいはそのインパクトを利用し、本文を読ませる訴求力として利用している文章もあります。
このように、ぱっと目を惹き、本文を読まずともある程度の内容を把握できてしまう、そんな便利な見出しが世に氾濫すると、どうなるでしょうか。というか既に氾濫していますよね。
だからこそ人は文字を読まなくなったのではないでしょうか?
文字好きの叫び
私は文字を読むのが好きです。新聞だろうとチラシだろうと、そこに日本語が書かれていればついつい読まずにはいられません。そして書かれた本文をただ読み込むだけでなく、その文章を書いた人の味や雰囲気、ひいてはその記事が載せられている媒体の社風までをも感じようとします。あくまで文章から想像される作者の背景であって、実際に作者の人となりや、履歴を調べることはほとんどありません。
私のようなマニアックな読み方はせずとも、ただ単に「文章を読む」という行為すら、最近では文章製作者の方が読者に対して遠慮しています。「長くならないように」「出来うる限り簡潔に」「とにかく読者に飽きないでいて欲しい。この文章を読みきるまでは」
文章は、会話の延長線上にあったっていいじゃないですか。普段、口と声で行う会話は、無意味なものがほとんどじゃないですか。
(とか結構なことを言っていますが、私だって人間、面白くない長いだけの文章を読むことほど苦痛なことはありません。)
文章にはどうしても、書かれている事の意味を変換して脳にしまうという、一手置いたプロセスが必要になります。
理解力の差で、画像や動画に劣る部分があるわけです。この瞬発力が、現代の社会のニーズと合致しているのでしょうね。
世界一特殊な日本語を、皆にもっと使いこなしてほしい、と思う今日この頃です。
見出しと脳の作用
話が逸れてしまいましたが、詰まるところ本文にはそこに書かれている事以外にも様々な情報が隠されています。見出しをベースに本文から情報を抜き出す作業に慣れてしまうと、本文部分は情報以上の価値がなくなってしまうのです。
そして、見出しと本文と合わせて情報を合致させ、即座に有用性のみを判断する、また次の情報へ……と忙しく駆け回っていると、古い情報のことなどすぐに忘れてしまうわけです。
最初の見出しに「見出しは理解力を深める?」と?マークをつけました。
このような情報の取捨選択をしていると、瞬間記憶の能力は高まっても、それが本来の記憶に定着せず、古い情報は思い出すことが困難になります。
その時記事を読んで「わかりやすい!」と思っても、次の日には何だかぼんやりしてしまって、そこに書かれていた適当な一文さえ浮かんでこない、ということになります。
家庭教師や学校の先生の中に、とても面白く分かりやすい授業をしてくれる先生はいませんでしたか? わからないことは何でも聞くと、打てば響くように的確に答えが返ってきてその時間はまるで魔法がかかったようにすらすらと問題を解くことができます。せっかく習ったその公式、解法を、後でもう一度復習しようと、自発的に机に向かったことはあるでしょうか?
「すごくわかりやすかった。実際わかったんだから、復習の必要はない」と、考えませんでしたか?
見出しの効果は、これに似ていると思います。
主役は本分、見出しは脇役
勿論、このブログ、特にレビュー記事はもっともっとより多くの人に読んでもらいたいです。そのため、普段文章を読まない人でもすらすらと読めるような、あるいは読みたくなるような見出しを使うのはとても効果的なのかもしれません。
しかし、そもそもですよ?
そもそも私の書く記事に、「ここは絶対押さえておくべきポイント」やら「今知っておきたい明日から役に立つキーワード」なんてものは皆無です(笑)。
すべて駄文です。
駄文をわざわざ飾り立てても、無意味ですからね。
私は所詮、本の一冊も出したことのない「自称」作家ですから、読者に教え諭し、人生の行く末を指し示すような大層なことは書けません。
ですから小説・創作カテゴリに、「作家を目指すならやるべき10のこと」とか「○○大賞攻略講座〜これを守れば二次選考突破は確実〜」なんていう記事は絶対に出てきませんよ(笑)。
しかし同時に一介の物書きとしての矜持を持っています。どのようなジャンルにせよ、クリエイターというのは、自分の作品の隅々まで、そして書かれていない空白部分にも自分の思いを汲み取ってもらいたいという願望を持っています。
分かりやすく言うと、私の書いた文章を全部読んでもらいたいのです(笑)。
そして読んでもらうために、記事内でのエピソードの順番や表現の仕方、起承転結、段落や行空け等々、自称作家なりの小さなプライドと拙い技術で計算して演出しているつもりです。
それならもっと簡潔に書けるのでは? ということも言えそうですが、そこはそれ。
文章が長いのは 趣 味 ですから(笑)。
文字がぎゅうぎゅう詰まっていて、長い文章を読むのが、その流れを、リズムを感じながら読むのが好きなんです。
と、サービスとエゴのバランスにも自分なりのこだわりを持ちつつ、このような思考プロセスを経まして、このような結果に落ち着いたわけです。
見出しは使いません。
が、これもケースバイケース。より良い文章を演出するためには考えるべきものでもあります。
ほら、普通の小説にだって見出しの効果は出ているんですよ。目次とか、副題とか、第三章〜真実の愛〜とか、ね。
使わないったら使わない。ではなく、もしも使うならベストな方法を、という感じで柔軟に考えていきたいです。
はふぅ。
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