日本に対する脅威は、昔からあったのだ。
しかし、海外の兵は強くない。と認識していても
数では圧倒的に不利だったはずだが、それでも、全く臆することのない
日本の武将たちは、やはりすごいと思う。
ただ、ここでも、先の大戦と同様に、補給物資に苦労している。
他国を侵略するだけの力は、日本にはないのであろう。
ならば、鎖国となるのだろうか?
興味深い。
清正宛て秀吉の朱印状発見 愛知・刈谷、朝鮮出兵命令
豊臣秀吉が1592年の朝鮮出兵(文禄の役)の際、重臣の加藤清正に出兵を命じた朱印状が、愛知県刈谷市の寺で見つかり、同市歴史博物館が28日までに発表した。
博物館によると、朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチ。直径3・8センチの朱印が秀吉の他の書状と一致していることや、他と同じ高級和紙の大高檀紙を使っていることなどから実物と判断した。
3月23日の日付で、「(第1陣の) 小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、おまえも出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断はしないように 」と伝えているほか「城の守りを固め、皆で相談してつつがなく進めるように」との指示も記されている。
朱印状は江戸時代に刈谷藩士が入手した とみられ、子孫が昨年、菩提寺にあった資料を博物館に寄贈していた。
豊臣秀吉の「朝鮮出兵の命令書」発見
愛知県刈谷市の市歴史博物館が秀吉が清正に朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかったと27日発表したと、同紙が伝えた。
横125.5センチ、縦21.5センチの朱印状には、「 小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように 」という内容が記されている。「 先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように 」という指示もある。
朱印状には、 竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印が押され、作成日は3月23日だった。博物館側は朱印があることや書状の紙質などから本物と断定 し、文禄の役が起きた1592年のものと推測した。しかし、文禄の役が1592年4月13日に日本軍が釜山(プサン)に上陸して始まったことから、 この朱印状は戦争直前の準備と関連したもの と推定される。
同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出されたと推測されていたが、3月23日付の命令書の実物が発見されたのは初めてだと、同紙は伝えた。
BY いいとこどり
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