毒親に育てられた。
母親が毒親だと気付いたのは20代後半ぐらいだったと思う。
それまで『毒親』という言葉が無くて、たぶん毒親って言葉が浸透し始めた頃だったんじゃないかな。
幼少期から私はすごく良い子で育っていて、近くのお店の店員さんにも『よく出来た子ですね』『偉いねぇ』って褒められていた。
そうなると当然『お母さんの教育が良いのね』『教育のタマモノね』なんて言ってるのを聞いていて、母親のことがずっと自慢だった。
すごいと思ってた。偉いんだと思ってた。
たぶん、他の『自分勝手に振る舞うお母さん』に対して『悪い奴だ!』と思っていたし、『ダメな育て方だ』と思っていた。
あるとき、たぶん私が物心ついた頃だっただろうか。母親に『あなたは私の最高傑作の作品』と言われた。
私はそのときすごく嬉しかった。
思春期、中学生の頃になっても私は相変わらず優等生で、先生にもよく褒められていた。
母親がそんなに勉強出来るタイプじゃなかったからか、勉強やテストの点に関しては全くと言って良いほど放置されていた。
一度だけ実力テストで一桁台の解答用紙を持って帰った時があったけど、その頃の私は母親に怒られないように機嫌を取りながら事実を伝える術をすでに身に着けていたし、怒られなかった。
その後、母親からの提案もあり、しばらくの間だけ塾に通った。私はもともと国語だけはすごく点数が良くて、本来の理解力はそこそこあったのかもしれない。
地頭は良かったらしく、点数はすぐに上がって行った。
(いま思えばだけど。もしかすると私は、頭が悪い子供を演じていたのかもしれない。母親は大学に行ってなくてコンプレックスのようだった。それまで何度も聞かされていた事で、テストの点数が悪い時の方が母親は優しかった。女に勉強は必要ないとも時々言い聞かされていた。バカなくらいが女は可愛いんだから愛嬌を良くしろと。そんな母親の態度を見て、私はわざと勉強しなかったのかもしれない。)
先生からちょっとでも褒められるようなことがあればすぐに母親にも伝えた。
母親は喜んで、『だって私の子だもの。やれば出来るに決まってる』なんて本当に心から言ってくれたみたいだった。
私も私で『だってお母さんに育てられたんだから、当たり前だよ』と言って、私と母は仲良しだった。
ただ、ときどき、私は母親だけじゃなくて友達とも遊びたかった。けれどそれはほとんどの場合、良い顔をされなかった。
『お母さんがお金だしてあげるんだから、お茶しにいこう。』
『お母さんのお金で服を買いたいんでしょう?しょうがないな。買い物に行こっか!』
『友達と遊ぶのは良いけど、変な人じゃないでしょうね?変な事に巻き込まれるなんて絶対にやめてよ。』
『どうせお母さんが運転するんでしょ?もう〜。じゃあ行こう!』
どうやら私は、母親の機嫌を取ることがめちゃくちゃ得意になっていたみたいだ。
母親相手にまるでホストのように的確な返事をして、母親の求めている私を演じる。
ただ本物のホストと違うのは、私には相手が母親一人ぐらいしか居なくって。
つまり私は、知らず知らずのうちに母親に依存されていて、
私も私で、自分に依存させる術を得てしまったらしい。
最近きくようになったHPSという言葉があるけど、私はどうやらコレっぽいような気がする。
相手の考えてることや感情にすぐ影響を受ける。
私の場合は、的確に相手の感情を読み取って、さらに『最適化』出来たんだと思う。ある意味、HPSを利用出来ていたのかもしれない。ただし自分の感情の面倒を見るのは後回しにしていた。だからこそ、私自身の心が徐々にむしばまれていったようだ。
『お母さんの気持ちを分かってくれるのはあなただけよ』
『大好き!ずっとお母さんと一緒にいてね』
『あなたはお母さんの側にいるのよ。一人暮らしなんてやめてちょうだい』
『一人暮らしなんて、あなたが出来る訳ないでしょ。いい加減にして!』
料理を手伝おうとすれば異常に機嫌が悪くなる。『キッチンはお母さんの場所なんだから入ってこないで!』
『自分で洗濯ぐらいしたらどう?』と嫌味っぽく言われてやり方を聞けば『いいわよ。どうせお母さんがやることになるんだから!』と逆ギレされる。
母親だから、家の仕事をするのは当然だし、それが母親だと思っていた。
どこの家もそんなものなのかなと思っていたけど、同級生の友達の家に泊まった時、(人生のうちで2回ぐらいしかない貴重な経験!笑)朝ご飯で焼き魚を用意してくれた時には、かなり驚いた。
なんで朝ご飯なんて用意出来るんだろう?誰に教わったんだろうと疑問だった。結局私は飲食店のキッチンでバイトをしたことがチャンスとなり野菜の切り方や洗いかたを学んだ。きっと友達は、自分の母親に料理の仕方を教えて貰ったんじゃないだろうか。(私にとっては驚くべき事実である。)
純粋にスゴイ!と感動した私は、すぐに母親にそのことを言った気がする。
『すごいんだよ』と。『友達がご飯用意してくれたの。びっくりしちゃった』と。
すると母親は面白く無さそうな顔をして、『そんなの親がマトモに料理してくれない家なんでしょ』と悪く言った。
その頃の私は本当に純粋だったので、『そうか』と納得してしまった。『親が忙しくて料理できないんじゃないの?可哀想に・・・。』よく知りもしない家庭を勝手に想像して、私の友達に同情までしたのである。
その友達は、のちに『あんたの悪友ね』と私の母親に影で呼ばれることになるが、しかし。なぜか『あの子は自立してるしシッカリしてるものね。大人なのよ』とも言った。
本当に、その頃の私は純粋だった。母親の言うことをすんなりすべて受け入れて、『そうなんだぁ』と思春期に入ってもまるで子供のようだった。私自身は『反抗期は無かった』と自分に対して思うけど、母親からすれば『あんただって反抗期ぐらいあったわよ』と言った。
おそらく人生で数回、自分のやりたいことをやったり発言した記憶はあるが、(もちろん母親が望んでもない内容だった)反抗期のように激しいぶつかり合いなんて無かった。
そもそも自分の意見を言ったところで母親はまったく意に介さず、小馬鹿にして、たしなめて、『なに言ってんの!笑』と笑いに変換してしまって、反抗しようもない。こちらが本気になっても無意味なのだとすぐに気付いて、本来みんなが反抗期を迎える時期、私が頭を悩ませていたのは『どうして私はずっと親の言う事を聞かなきゃならないんだろう』ということだった。
親子の関係はどんどんおかしなものになっていって、今考えてみると異常だなぁと分かるんだけど。純粋だった私は気付かない。だって母親ぐらいとしかコミュニケーションを許されていないものだから、他の人の意見を聞くチャンスがまず無かったのだ。
シッカリ洗脳されたかのように、母親の感情を第一優先に動くパターンが完成してしまった私は、疑問すら覚えられず。お父さんもお兄ちゃんも私の味方になってくれない。味方は母親ぐらいしかこの世にいないのだと信じきっていた。
年上の人は『お母さんと仲良しで良いねえ〜』とか、『親孝行できるときに出来るって素敵だね』とか、『お母さんも嬉しいだろうね』と言ってくれた。
一部のマトモな友達には、『お母さん大好きじゃん(笑)』とか『お母さんの作ってくれたご飯だけが美味しいんだもんね?笑』と少々バカにされていたんだけど、そのときの私は本当に何も分かって無くて。純粋で。
きっと心の中に良く分らないフワッとした違和感だけを時々抱えていて、『うん。』と応えただけだった。
母が自慢だった私/毒親育ち
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posted by fanblog
2021年10月26日
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