鶴ヶ城の次はやっぱり飯盛山ですね。
入り口にトイレがあり、駐車スペースには重機らしい働く車が一杯並んでいたので、最初は市営の駐車場とは分かりませんでした。
しかし、その車両を良く見てみると、除雪車でした。本来この時期はフル稼働しているはずですが、今年は出番がないらしく、寂し気に待機していたのでした。
会津若松の人たちは、この光景を見てほっとしているかどうかは分かりませんが、観光客のおやじとしては「除雪車さ〜ん。元気に働いているところをと〜ちゃんは見たかったぞ〜。」と叫びたい気分でした。
観光客のエゴかも知れませんが、冬は冬らしくないと寂しい気がします。
すみません。つまらないおやじのつぶやきとして、聞き流してください。
さて、本題の飯盛山に着きました。
観光としてはオフシーズンでしかも平日だったため、旅行客はまばらでした。
小学校の修学旅行の時の記憶として残っているイメージは、川と水門でしたが、はたしてそれらしきものが有るのでしょうか。
こんなに寂しいところで、若き戦士たちが自害を果したのですね。自害という言葉を知ったその頃(小学校)の僕は、状況を全く想像できませんでした。
そして還暦を迎えた今は、正義を信じて戦ってきた末に自分の軍が破れてしまった。全てを失いつつあるその時に、大いに悲嘆することはよく理解できます。
しかし、自分は自害を選ばないと思います。それは生きていれば何とかなると思っているからです。
皆さんも自殺する人の気持ちが分かる人は少ないと思います。
でもそれは心身ともに健康な時は、正常な判断ができるからであって、多分自殺する人の頭に中は、もはや正常な判断ができないのだと思います。
つまりそれは、病気であったり、過度の疲れや、精神的なショックが、正常な判断を妨げているのだなと感じます。
だから常に正常な判断ができるように、ストレスや疲れを貯めないように健康的に過ごしましょう。
すみません。また話がそれてしまいました。
若い白虎隊の戦士は、大いなる落胆と負の集団心理が働いて、自決の道を選ぶしかなかったのでしょう。とても不幸で残念な話です。
人気(ひとけ)のない冬の白虎隊の戦士の墓は、とても寒々としていました。
また、イメージに有った川と水門は「戸の口堰洞穴」(とのくちせきどうけつ)と呼ばれていて、かんがい用水を猪苗代湖から引くための穴でした。
猪苗代湖から豊富な水は今も流れていて、観光案内の資料には、「白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため飯盛山に向かう際、この洞穴をくぐりました。」と記載されていましたが、実際の用水路の流れを見ていると、こんなところを通ることが可能なのかと思えます。
寂しげな飯盛山でしたが、一応建築を専門としている僕を熱くさせた建物が有りました。
「さざえ堂」と呼ばれるこの建物は、修学旅行での記憶は全くありませんが、観光用の公式サイトの説明は以下の通りです。
その形がさざえの殻に似ていることから俗に『さざえ堂』と呼ばれ、階段のない螺旋(らせん)通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる世界にも例のない建築で、国の重要文化財に指定されています。
白虎隊の戦士のことを思いながら、何の前知識もなく建物に入りました。
すると入るなりスロープで、延々とらせん状に続いていました。なるほどそれでサザエか〜と思っているうちに、今度は登りから下りにらせん状のスロープ変わりました。「え」
そして「あっ!!」
そこでようやく今まで何気なく歩いていた僕の頭の中に『さざえ堂』の構造が浮かんできました。頭の中は、白虎隊から『さざえ堂』に切り替わった瞬間です。
このらせん状のスロープは一方通行で、入り口〜登りスロープ〜頂上〜下りスロープ〜出口となっていて、一回も交わることなく、1本のらせん状のスロープで繋がっていました。
「凄い!!」いつ作られたかは分かりませんが、こんなにユニークな建物が、遥か昔から有ることに、とても驚いたと共にとても感動しました。
不謹慎かもしれませんが、白虎隊の戦士の悲しいイメージは吹き飛んで、興奮してしまいました。
下に降りて、慌てて観光用の小冊子を見てみると、『さざえ堂』は『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』といい、寛政8年(1796年)に飯盛一族の先祖である飯盛山正宗寺(せいそうじ)第12世郁堂和尚(いくどうおしょう)によって建立され、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂です。
と記載されていました。230年以上も前に建立されていたことを知り、改めてその素晴らしさに感激しました。
そして僕もやっぱり建築家の端くれなんだなと、少し嬉しくなりました。
皆さんも飯盛山にお越しの際は、『さざえ堂』を是非、体験してみて下さい。
野口英世記念館へ続く。
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