発作
娘の由梨はバレーだダンスだと騒いだ割には勉強好きだった。特に語学に堪能で英国に1年留学した。やっと帰ってきたと思ったら商社に就職してシンガポールに赴任している。親を寂しがらせる娘だった。
親としてはそんなに大活躍しなくても、日本にも語学を生かせる仕事はあるだろうにと思うのだが、本人はとにかくキャリアがキャリアがとうるさい。まあ、安全な場所で機嫌よく働けるならどこでもいいとあきらめるしかなかった。
昼間は真也の家族の出入りがあって騒がしい。それでも孫たちが大きくなるにつれて、俺たちは二人の時間が増えた。夜は静かなものだった。梨央の関心は俺の健康状態に移ってきた。
相変わらず横並びで食事をするのだが、「お醤油かけすぎよ。お酢にして。」「脂身は外した方がいいのよ。」とうるさい。基本こういうことで梨央に逆らうことは無かった。ただ、梨央が席を立ったスキに醤油をたっぷりかけたり、脂身にかぶりついたりした。
ある朝、とても気分が悪い。どう気分が悪いと聞かれると、言葉で言い表せないように気分が悪い。と思っていたら突然胸が苦しくなった。それからは何も覚えていない。気づいたときにはベッドに寝ていた。
梨央が顔のマッサージをしている。「あなた乾燥肌だからすぐ荒れるのよ。」といいながら、手のひらで俺の顔をゆっくりさすっている。俺は何か言いたいが何も言えない。唇がかすかに動くだけで言葉にならない。
梨央が「はっ、あなた、あなた、ああ、あなた、あなた」と何度も呼ぶのだが他のことばが出ない。「あの、あの、今動きました。動いたんです。唇が少し。」と大声を出した。
それから、徐々に意識がはっきりしてきた、と同時にものすごく嫌な感じがした。何も動かなかった。
それなのに梨央は「よかった。よかった。」と何度も言った。看護師も、「これで一安心ですよ。今晩ゆっくりしたら、病室へ移りましょう。」といった。聞こえているのに、何もわからない。何が起きたのかわからない。梨央がいなかったら不安で叫びだしていたかもしれなかった。しかも体中が痛かった。
個室に移ってから、梨央に説明されて状況が呑み込めた。発作を起こしてそのまま手術を受けていた。心筋梗塞だ。梨央は毎日朝から夕方まで病院に居た。ここでも看護師に「奥様、私たちが要るからだ丈夫ですよ。奥さまも少しゆっくりなさらないと。」といわれた。「そうですね。」といった梨央は俺のベッドにうつぶせになってうたた寝をした。
手術の傷が治ってくるとリハビリが始まった。これがけっこうな苦痛だった。二か月半寝ていた体にとっては、ただ歩くだけのことが大仕事だった。だが、このころから入院生活にリズムが付いて気持ちが楽になった。梨央に「退院したら正式に退職してね。ずっと家に居てね。」と頼まれた。
「梨央、病気の年寄りが一日家に居たら大変だろう。」というと「甘やかさないわよ。退院したら庭の手入れ、掃除、色々することはあるのよ。料理は許してあげる。その代り梨央婆ちゃんのお守りをしてもらいます。やっと、独占できるんだから、いっぱい話し相手してもらうわよ。」と楽しそうに言う。
しかし、俺は知っていた。もう一度発作がおきたらもうダメだろう。梨央は医者にくぎを刺されているはずだ。
続く
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2019年11月04日
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