『オトナ帝国の逆襲』は名作だ、と言う人は多い。
彼らの思う「名作」というのは、「笑いあり涙あり」的な全ての要素を巧みな構成の中に包括しており、なおかつ、「“深い”普遍的なテーマ」を提示しており、鑑賞者にポジティブなバイブレーションを与える作品のことを指している。
そういう意味では、『オトナ帝国の逆襲』は確かに「名作」だろう。
だが、「完璧が完全じゃない」ように、「名作」も、商業映画という安心・安全なパッケージの中にすっぽり内包している時点で、「完璧に近い『きれい事』」であり、「真理追求」の立場から見れば、甘ったるい「たかが名作」に過ぎない。
僕は「作品自体」に文句があるのではない。
もちろん「起承転結」という「構造」自体がすでに「きれい事」だが、それが商業作品である以上、「起承転結」という「きれい事」の中にパッケージングするのは当たり前のことだからである。
僕はこの作品の持つ「テーマ性」に文句があるのだ。
『オトナ帝国の逆襲』が扱っているテーマを「普遍的」と評する人がいるが、2015年の日本の現実に照らし合わせると、なんら「普遍的」でないことが分かる。
少なくとも2015年の段階において、『オトナ帝国の逆襲』が提示した「テーマ」や「メッセージ」の方向へと日本は向かっていない。
まず、「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」自体、まず「現代のメインテーマ」とはなりえない。
なぜなら、今の時代、あるいは、若い世代にとって、「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)なことだからであり、「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」からである。
「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)である、という点については、余り説明の必要はないように思われる。
社会に帰属することや就職難もさることながら、経済面、コミュニケーション面、様々な面から見て「結婚する」こと自体「平凡」(簡単)なことではなく、一個人として非常に「困難な事業」である。
次に「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」という点は、多少メディア論を通過しなければならない。
僕は、若い世代が、90年代のJ‐POP黄金期の曲を聴いて、「懐かしいなぁ」などと「感傷」を漏らすことに「欺瞞」を見出している者である。
なぜなら、実際は90年代の「記憶・思い出」は、「失われた記憶」ではなく、ただ単に「薄まった記憶」だからである。
未だ潜在的に存続している「薄まった経験」を「懐かしい」とは呼べない。
0’年代の特色は、むしろ90年代の「薄まった経験」を「失った経験」と積極的に呼べず、あるいは、「現状と過去」として「切り離すこと」が出来ず、「懐かしいなぁ」と心の底から「“言えない”居心地の悪さ」だけが陸続きで存在している、という点にある。
音楽でもゲームの世界でも、「ハード」(形式)は、3D化やら、カバーソングやら、サンプリング(引用)やら、スマホによる通信・配信やら、変化・進化はしたが、「ソフト」(内容)自体は、殆ど90年代の「リバイバル」(再利用)であって、なんら「新しい展開」などなかった。
しかし、メディアは「新しい“意味”」を絶えず提供しなければならない。
“意味”とは、「流行」であり、「スター」のことである。
現在のメディアがやっていることは、実際は何ら画期的でもない「流行」や「スター」を勝手に祭り上げ、「組織化」することで、新しい「“意味”っぽさ」を「捏造」し、「停滞している現状」を「派手に停滞している現状」として「先延ばし」しているだけである。
「ごまかしの“意味”」=「流行」「スター」も、「組織化」する(毎日放送したり、全国民が無知を装いそれを信じ込む)ことで、やがて「新たな“価値”」に見えてくる、というメディアのトリック。
話がだいぶ逸れてしまった。
とにかく「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」は、全く「普遍的」ではなく、ある時代において「一般的」だった問題意識に過ぎない。
次に『オトナ帝国の逆襲』という映画に対して気にかかるのは、野原家の「未来志向」の動機付けである。
ひろしは、「自分の家族のため」に「未来志向」を選ぶ。「それの何が悪いんだ!」と反発してくる人が多数であろう。
確かにそれは、「健全」なのでしょう。
が、それと同時に、「自分の家族のため」という「美名」は、「他者のことを一切排除している」という意味で、健全でない側面が含まれていることは無視できない。
『オトナ帝国の逆襲』には、敵キャラと子供たちを除き、出てくる大人たちに「他者」がいない。「簡略化」され、みな「野原家」と「同一線上に存在するもの」と見なされている。
そんな「現実」こそ、存在しない。
別段、「家庭の幸福」のために生きていない大人もいて、つまり、「他者」がいて、はじめて「現実」である。
「家庭の幸福は諸悪の元」という言葉がある。
分かりやすく言えば、『今、あなたが自己中心的に手に入れた「家庭の幸福」の「せいで」、その裏で不幸になる人が出るかもしれないよ』という意味だ。
もっと突き詰めて言えば、『世の中、「救われる人」と「救われない人」がいて、「絶対に全員は救われない」』という真理だ。
ひろしの「未来志向」=「家庭の幸福」は、野原家という「一個人」の「家庭の幸福」という「未来」を保障するかもしれないが、日本の「社会全体」の「未来」を保障するとは限らない。
答えは簡単。
「家庭の幸福」だけが生きがいの人が「全員」ではないから。
仕事が生きがいの人もいれば、懐古趣味に引きこもるのが生きがいの人もいるから。そして、それらの人たちの多様な生き方は否定されるべきではない。
が、『オトナ帝国の逆襲』は、「多様な生き方」=「他者」を排除している。
つまり、『オトナ帝国の逆襲』において、「過去の感傷に浸らせてコントロールしようとすること」が「独善的」(自己中心的)であるのと同時に、「未来を志向し自己中心的に自分の幸福のために努力すること」もまた「独善的」(自己中心的)なのだ。
ベクトルが違うだけなので、野原家の言い分が「上位」なわけではない。また、独善的という側面から「完全に正しい」わけでもない。
しんちゃんの「未来志向」の動機は、「大人になりたい」からであり、なぜ「大人になりたいか」といえば、「みんなと一緒にいたい」からであり、「きれいなお姉さんとたくさんお付き合いしたい」からである。
「みんな」というのは「家族を含め自分の身近なコミュニティーに属する人々」のことで、「他者」は含まれていない。
こんな独善的な理由の子供が作る「未来」は「良い未来」なのだろうか?
僕は小説『ひとつになるとき』 http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
において、野原家に代表されるような「家庭の幸福」を守
ることだけにしか眼中がなく、それ以外の「他者」には関心を持たない、「罪のない独善的な大人たち」を描いた。
あるいは、以下の音楽動画で。
3.11以降、あるいは、パリにおけるイスラム国によるテロの激化以降、以上のような「家庭の幸福」さえ死守すればよい、「他者」はどうでもよい、というような「罪のない独善的な大人たち」が増えた気がする。
そういう大人たちは、究極において、醜く、頼りにならない人間である。
地震が来たら真っ先に引っ越すタイプだ。
語弊は承知で言うが、『オトナ帝国の逆襲』にて、「大人になりたいから」と言ったしんちゃんが育って、「大人」になり、「家庭」を持ったとしたら、3.11以降に目立った、自分の「家庭の幸福」(身近なコミュニティー)に固執し、それ以外の「他者」には関心のない、「罪のない独善的な大人たち」になったことだろう。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
以上である。
最後に、余談だが、「人前で泣いた」ことを、恥も外聞もなく、口外するのが当たり前みたいになっている風潮は、気持ち悪い。
宇多丸さんが言っていた通り、「人前で泣く」ということは、「人前でヌく」(人前でオナニーしている)ということだ。
——その「恥」に気付かない「神経」、、、考えられない。
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