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2015年05月20日
ニートは悪くない
このブログの主、僕(ともなりたかひろ)は小説家・物書きなのである(もちろん無名だが)。
そして、現在、収入がまったくないのである。
いや、それは語弊がある。
僕が出版した著作の印税が、200円ぐらい収入としてあるばかりだ。
バイトも今年の2月にバックレてしまった。
つまり、僕(ともなりたかひろ)は、物書きの仕事はしつつも、ほとんどニートである、と言えよう。
ただ、一つ言いたいことがある。
僕は、ニートになったのではなく、元々ニートであったのだ 、という一事だ。
なぜなら、例えば、高校という教育機関に属していなければ、僕はニートになっていたに違いないのである。
あるいは、大学という教育機関に属していなければ、僕は完全にニートなのである。
僕は子供の頃から疑問に思っていることがあった。
それは、よくある質問、『 将来の夢はなんですか?』についてであった。
まず、この質問の間違いは、 『将来の夢』=『職業』という潜在的な決め付け にある。
なぜ、『将来の夢』=『職業』でなくてはならないのだろう。
もし仮に、『将来の夢』=『職業』であれば、こう言い直さなければ適切ではない。
『将来の夢』とは、『将来の“現実問題”である』と。
その点に気付いた僕は、もう、現実世界ではやっていけない、と思わされた。
なぜなら、子供心にも僕はなんの職業にも就きたくなかったのである。
それは、なぜか?
ここで、僕のもう一つの性癖を明かさなければならぬ。
僕は、普通の人と違うのである。
もちろん、悪い意味で。
普通の人の人生プランは、大学に入って、就職して、30ぐらいで結婚して、家庭を持って、子供を2、3人出来て、そんで、50、60ぐらいになれば、もう息子・娘たちは自立し、自分たち夫婦も退職して自由な時間が出来たから、何か好きな趣味を楽しんで余生を過ごそう、といったところだろう。
しかし、僕の場合は違う。
僕は、大学生の頃から、“精神的”には「老人」あるいは「晩年」だったのである。
理由は、——一言でいえば、エラン・ヴィタール(生きる力)が欠如していたから、としか言えないだろう。
ゆえに、普通の人が「これから人生を始める人間」だとすると、僕は「これから人生を終らせる人間」だったのである。
つまり、当時20代そこそこの僕にとって、残りの人生は「 余生」だったのである。
20代で「余生」の域に達していた僕にとって、先述の、就職やら結婚やら子供を持つやらは、もう通り過ごしてきた「過去のこと」であって、まったく執着する対象ではなかったのである。
だから、就職に失敗して自殺してしまった青年の話などをきくと、不憫に思う。
なぜなら、 「就職して会社で働いて過ごす時間」など、「人生」の中での「一期間」でしかないからだ。
ほとんどの人は、この点に気付いていない。
ほとんどの人は、「就職して会社で働いて過ごす時間」が、「人生」のメインだと思いこんでいるのだ。だから、就職に失敗したぐらいで、自殺するのだ。
考え直してみて欲しい。
先述の「ふつうの人」の人生プランを再考してみても、どうだ、「人生」の晩年には、働かず、「余生」を楽しんでいるではないか。
これはつまり、大人も誰もがニートになりたく思っている、という証左なのだ。
言い換えれば、 大人たちは、将来ニートになるために日夜必死に働いている、とも取れるのである。
僕の場合、精神的にすでに「晩年の老人」なので、人生プランの中盤をすっ飛ばして、「余生」=「ニート」を楽しんでいるのだ。
そして、「余生」を送っている精神状態だと、「 どうせ死ぬのだから」という観念が頭に去来するようになる。
ここで、小説家としての僕に話を戻すと、なぜ僕が小説家・物書きを志したか、と言えば、答えは簡単、「 どうせ死ぬのだから」せめて美しい芸術作品をこの世に残したい、という動機に他ならない。
問題は、どうやって「世の中」から逃避するか、にかかっている。
近親からの批判の声。
お金のやりくり。
僕は、これらの問題を、自身を「精神病」にわざとかかることによって、回避し続けた。
その余の話は、次の記事で、するかもしれぬ。
とりあえず、今日は、『ニートの歩き方』という本(1706円)をご紹介して、筆を置く。
ここまでの記事で、意の一端が通じた読者は、ぜひ買って頂きたい。
そうでなければ、——僕は、次の記事が書けないかもしれないのだから(金欠で)。
ニートの歩き方 ——お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法
そして、現在、収入がまったくないのである。
いや、それは語弊がある。
僕が出版した著作の印税が、200円ぐらい収入としてあるばかりだ。
バイトも今年の2月にバックレてしまった。
つまり、僕(ともなりたかひろ)は、物書きの仕事はしつつも、ほとんどニートである、と言えよう。
ただ、一つ言いたいことがある。
僕は、ニートになったのではなく、元々ニートであったのだ 、という一事だ。
なぜなら、例えば、高校という教育機関に属していなければ、僕はニートになっていたに違いないのである。
あるいは、大学という教育機関に属していなければ、僕は完全にニートなのである。
僕は子供の頃から疑問に思っていることがあった。
それは、よくある質問、『 将来の夢はなんですか?』についてであった。
まず、この質問の間違いは、 『将来の夢』=『職業』という潜在的な決め付け にある。
なぜ、『将来の夢』=『職業』でなくてはならないのだろう。
もし仮に、『将来の夢』=『職業』であれば、こう言い直さなければ適切ではない。
『将来の夢』とは、『将来の“現実問題”である』と。
その点に気付いた僕は、もう、現実世界ではやっていけない、と思わされた。
なぜなら、子供心にも僕はなんの職業にも就きたくなかったのである。
それは、なぜか?
ここで、僕のもう一つの性癖を明かさなければならぬ。
僕は、普通の人と違うのである。
もちろん、悪い意味で。
普通の人の人生プランは、大学に入って、就職して、30ぐらいで結婚して、家庭を持って、子供を2、3人出来て、そんで、50、60ぐらいになれば、もう息子・娘たちは自立し、自分たち夫婦も退職して自由な時間が出来たから、何か好きな趣味を楽しんで余生を過ごそう、といったところだろう。
しかし、僕の場合は違う。
僕は、大学生の頃から、“精神的”には「老人」あるいは「晩年」だったのである。
理由は、——一言でいえば、エラン・ヴィタール(生きる力)が欠如していたから、としか言えないだろう。
ゆえに、普通の人が「これから人生を始める人間」だとすると、僕は「これから人生を終らせる人間」だったのである。
つまり、当時20代そこそこの僕にとって、残りの人生は「 余生」だったのである。
20代で「余生」の域に達していた僕にとって、先述の、就職やら結婚やら子供を持つやらは、もう通り過ごしてきた「過去のこと」であって、まったく執着する対象ではなかったのである。
だから、就職に失敗して自殺してしまった青年の話などをきくと、不憫に思う。
なぜなら、 「就職して会社で働いて過ごす時間」など、「人生」の中での「一期間」でしかないからだ。
ほとんどの人は、この点に気付いていない。
ほとんどの人は、「就職して会社で働いて過ごす時間」が、「人生」のメインだと思いこんでいるのだ。だから、就職に失敗したぐらいで、自殺するのだ。
考え直してみて欲しい。
先述の「ふつうの人」の人生プランを再考してみても、どうだ、「人生」の晩年には、働かず、「余生」を楽しんでいるではないか。
これはつまり、大人も誰もがニートになりたく思っている、という証左なのだ。
言い換えれば、 大人たちは、将来ニートになるために日夜必死に働いている、とも取れるのである。
僕の場合、精神的にすでに「晩年の老人」なので、人生プランの中盤をすっ飛ばして、「余生」=「ニート」を楽しんでいるのだ。
そして、「余生」を送っている精神状態だと、「 どうせ死ぬのだから」という観念が頭に去来するようになる。
ここで、小説家としての僕に話を戻すと、なぜ僕が小説家・物書きを志したか、と言えば、答えは簡単、「 どうせ死ぬのだから」せめて美しい芸術作品をこの世に残したい、という動機に他ならない。
問題は、どうやって「世の中」から逃避するか、にかかっている。
近親からの批判の声。
お金のやりくり。
僕は、これらの問題を、自身を「精神病」にわざとかかることによって、回避し続けた。
その余の話は、次の記事で、するかもしれぬ。
とりあえず、今日は、『ニートの歩き方』という本(1706円)をご紹介して、筆を置く。
ここまでの記事で、意の一端が通じた読者は、ぜひ買って頂きたい。
そうでなければ、——僕は、次の記事が書けないかもしれないのだから(金欠で)。
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タグ: ニート 余生 晩年 芸術 小説