古くからフィレンツェで金融業を営む パッツィ家は、ローマ教皇の信任もあって、同地では高い地位と権力を誇り、また金融と貿易で巨万の富を築いていましたが、新興の メディチ家が財力だけでなく政治力や外交力も兼ね備え、同じフィレンツェで頭角を現しました。
ローマ教皇は依然として通りパッツィ家に信任を置き、反メディチ派を通していましたので、フィレンツェでは両家の対立がより激化して、4月26日、その陽を迎えることになります。
この日はカトリック教会における復活祭で、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサが行われました。ミサでは、聖職者だけでなく、財界や政界の高位者も出席し、パッツィ家からも営む銀行のローマ支店長フランチェスコ、パッツィ家を支持されて教皇よりピサ大司教に任命を受けたサルヴィアーティ等が出席しました。一方メディチ家からも当主でフィレンツェの統治指導者(シニョーレ)である ロレンツォとその弟ジュリアーノらが出席しました。
突然、サルヴィアーティ大司教とパッツィ家のフランチェスコらが、メディチ家のロレンツォとジュリアーノ兄弟を襲撃します。ロレンツォは傷を負うも命は取り留めましたが、弟ジュリアーノは亡くなりました。この事件は事前にパッツィ家内で計画された陰謀であることがわかり、当時のローマ教皇も、権力が拡大するメディチ家に不満であったことでこの計画を黙認していたとされています。
ロレンツォは、フィレンツェにおけるシニョーレの立場として、パッツィ家の陰謀事件について関わった人たち厳罰に処し、襲撃の実行犯だけでなく、100人に及ぶパッツィ家の関係者が捕らえられ、処刑されました。パッツィ家を支持していた当時のローマ教皇シクストゥス4世はフィレンツェと断交、破門を言い渡し、メディチ家との対立を深めていきますが、ナポリ王国の仲介やシクストゥス4世の逝去でもって事態は収束に向かいました。この事件でパッツィ家の規模は縮小していきましたが、一方のメディチ家はロレンツォの下で最盛期を迎え、ミケランジェロやボッティチェリら芸術家を支援、奨励して、イタリア・ルネサンス黄金時代の現出に一役買うのでした。
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タグ: パッツィ家
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