“武道”という観点から「氣」を考察すると、とおっしゃるのは明光武道の武道家、代替療法家の神田真澄さん。
日本では古来より江戸時代頃までは氣の考え方や文化、そして特に武道では、氣の使い手である達人(武道家)が存在していました。例えば江戸時代の剣豪の一人で柳生石舟斎もその一人です。彼は、新陰流(兵法、剣術、武術)の開祖で江戸幕府に指南役として仕えて欲しいと請われたほどの人物。かの徳川家康が自ら挑戦し、真剣を手に試合を行いますが、石舟斎は無手(素手)で立合い、そのまま相手を制してしまいます。これが世にいう「無刀取り」と云われているものです。
これは合氣武道(合氣道)の開祖・植芝盛平翁の、戦場で鉄砲の玉(実弾)を避けた話にもつながります。鉄砲の発射される間際に閃光が感じ取られ、それを避けることで実際には玉(実弾)を避ける事に繋がったとの実話があります。
合気道は優れた護身術という印象ですが、似たようなこと—「自分の中心(丹田)を据える」、「相手の中心を取る」それから「呼気に合わせて鍼を刺入する」等似たようなことは鍼灸施術の場でもあります。
しかし、江戸時代から、明治時代に移る歴史背景時に「氣」の考えは明治維新から起こる「文明開化」の運動に寄って意図的に廃れさせられていきます。
さらには昭和に入って諸悪の根源であるGHQの介入により、日本人には完全に氣の考え方を取られてしまう教育を受けます。身体の動かし方一つとっても、西洋体育を強制的に学ばせられ、日本独自の正中線を軸とした身体の動き(和の操体法)を変えられてしまったのだと、神田さんはおっしゃいます。
このとき日本人が奪われたのは、日本人の「魂」と呼ばれるべきものすべてだったと、各分野の専門家の嘆きを聞いてshuroは思います。
ではそもそも氣とは何か。
確かに実際見えるものでもないですし、いまだ現代科学では完全には実証されてません。
しかし神田さんはおっしゃいます。
科学という誰か(彼ら・支配層の人間たち)が決めた小さい枠の中に入らないと、それは虚偽、存在しないと考えることは、今まで彼らに洗脳され続けてきた、それこそ“科学教”の信者ではとも思います。
意念、想念は東洋武術ではほぼ同じ意味で「氣」=「意念・想念」と考えます。
ひとつの例として、長嶋茂男氏が手にデッドボールを受け、指がちぎれそうになったときに、その指を抑えながら「ちぎれるな!くっつけ!」と強く念じたことで、その後奇跡的に指は欠損せずに済んだということがあったそうです。
これは肉体は滅びかけても、それを結ぶ氣の力で肉体を繋げ、再生させたとも考えられる事実の一つと考えれられます。
Shuroの勝手な解釈としては、絶体絶命の危機、たとえば崖から落ちそうになったとき、間一髪で手が木の枝を掴んだとする。手を離したら落ちて死んでしまう。掴んだ木の枝をよじ登らなければならない。心の意志で「手を離さない。掴んでよじ登る」と念じ、そのエネルギーが心の中で「言葉」となって現実の力となり、その結果実際にそのように手が動く。そんな感じ。
そう、心(魂)と身体(肉体)を結ぶのが氣(意志想念の言葉)なのです。
言葉は氣であり、力の源なのです。
この源こそが神であると神田さんはおっしゃる。
そして、聖書にも記述があります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と。
東洋医学の考えでは、氣はないと死んでることになります。人は生きている限り氣は人体の経絡上を巡っていると考えます。つまり生命エネルギーが活動しているということです。
はい、これは鍼灸師にとってはごく当たり前の考えです。氣が巡ることに寄って血を動かすのです。氣の巡りが途絶えることは血流も止まることになります。氣が巡らないと血が滞り、病が生じます。
武道で行う「瞑想」は、氣を直接鍛錬する方法の一つです。
では、瞑想とは?
瞑想とは一般的に「瞑目して、心を静め無心に、または想いをめぐらせること」と定義されています(Wiki)。
東洋では古来より武術と医術は根本は同じ理論という「武医同術」の考えがあります。
武術のメソッドを武術的に実践すれば強健な身体となり、それを養生的に健康法として実践するならば長寿の源ともなりという考え方です。
そのメソッドの中の重要な一つの分野が「瞑想」・「禅」なのです。
瞑想の効果は、現在様々な研究機関(UCLAやエール大学、マサチューセッツ大学などはじめ世界の研究機関)で実験が行われ、もう約半世紀も経っています。
1970年頃から瞑想について本格的に研究が行われており、エビデンスをもって瞑想の身体への有効な効果を続々と発表しています。
実験結果を何点か紹介します。
・瞑想を実践することで、ストレスホルモンの分泌を抑制できたこと。
・体温が一度上昇し、その結果免疫活動が盛んになること。
・心拍数が下がっていくが、それに反比例して循環血流量は増幅すること。
・高血圧の患者群が瞑想を実践することで血圧低下に繋がっていったこと(アメリカ心臓医学会)
・長寿遺伝子に関わるテロメアの老化を防ぐことで、アンチエイジングに繋がること。
・大脳辺縁系への直接的な刺激により直観力が強化されること。
・不安や強迫観念からポジティブな影響をもたらしたこと。
など、さまざまな方面で研究が行われています。
このように「瞑想」の身体への“効果”はエビデンスをもって証明されており、海外を中心に実践者が増えているのも事実です。しかし、上のような“効果”を求める「瞑想」ではなく、「氣」の考えから「瞑想」を考察すると、「瞑想」の核は「自分を見つめ直す」こととなります。
「冷静に今の自分を内観する」こと。自分自身の”軸”を創っていくことが、古来から云われる「肚を鍛える」ことなのです。“自分軸”が定まっていれば、周辺で何が起ころうとも、何をしようともビクともせず、怖れもなくなります。
また、自身を見つめ直すことから、自分を苦しめている“症状”を改善できる可能性もあります。これは東洋医学でいう「心身一如」にも通ずること。自分を見つめ直すことで、その症状のもととなっている“傷”がなぜできたのか、どうすればなくなるのか、その鍵は自分自身が持っているし、自分自身にしか解決出来ないのです。
神田さんはおっしゃいます。「明光武道では「瞑想」とは“肚の教育”、つまり「丹田(臍下丹田)」を直接練る氣の鍛錬であるということです。古神道でも古来より伝わる「鎮魂」は“御霊鎮めの御技”として、「瞑想」に近い形であります。瞑想は古来より、例えば「礼拝」という形で大自然と人とを結ぶ時間だったのではと考察しています。そうして、大自然の氣、エネルギーと自分が繋がることで、自身の力(氣)を根本的に高めていくことで、様々な事象が可能になっていくのではと考えています。」と。
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