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2020年12月13日

蝦夷の阿弖流為、アイヌのコシャマイン、シャクシャイン、クナシリ・メナシの戦い〜大和人による侵略の歴史

蝦夷の阿弖流為、アイヌのコシャマイン、シャクシャイン、クナシリ・メナシの戦い
〜大和人による侵略の歴史

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 阿弖流為は、中央政府の侵略に対して戦った東北蝦夷のヒーローである。

 宝亀十一年(780)、アテルイの戦いの前景としてアザマロの乱があった。陸奥国伊治郡一帯の俘囚長だった伊治公砦麻呂(これはるのきみのあざまろ)が反乱を起こしたというものだ。伊治は此治などとも記され、やがて栗原に転じたともいわれる。現在の宮城県の栗原地方である。

 俘囚とは大和国家の支配下に組み込まれた蝦夷を指すが、いったんは大和国家に帰服を余儀なくさせられた人々には鬱積した怨みが積もっていたのではないかと言われている。

 アザマロの蜂起は個人的恨みが切っ掛けで起こったというのが通説らしい。

 宝亀十一年(780)二月、陸奥国府から朝廷に対し、「覚?城を造りたい」との申し出があり、造営の勅が下った。胆沢地方の蝦夷の反抗を防ごうとするもので、予定地は今の宮城県北部か岩手県南部だったと見られている。

 同年三月、陸奥守(陸奥国の最高位)の紀広純(きのひろずみ)が、伊治城に入った。

 これを迎えた伊治公アザマロが、広純と彼に同行してきた牡鹿郡の大領・道嶋大楯を殺害したのが始まりとなる。大楯も元は蝦夷出身の俘囚長だったが、アザマロを「夷俘」と蔑んでいたからだという。


 アザマロの乱が勃発し、朝廷はなかなか平定出来ずにいる間に九年後の延暦八年(789)、いつの間にか姿を消したアザマロと入れ替わるかのように、アテルイが記録に登場する。

 アテルイは大墓公阿弖利為や大墓公阿弖流為などと記されている。年齢や前半生のことは全く分からないという。朝廷側の記録が東北先住民のリーダー格の名に「〜公」や「〜候」などを冠する場合、その人物が勢力圏にしている地名であることが多い。通説では、「たも」は、今の奥州市水沢区羽田町あたりの旧名である「田茂山」にかかわると考えられている。

 大和政権のあからさまな領土拡張と制服への夢に振り回され、犠牲になった大和軍とアテルイの郷の人々。

 アザマロの乱の平定時も、アテルイの郷への侵略も、大和軍はやる気がなかったらしい。無理やり動員されて前線に送られ、何の恨みもない俘囚の人々と戦わされるのだから、士気が上がらないのも当然だったとのこと。


「夷俘たちは、攻めれば山や藪に逃げ込み、手を緩めれば城塞を襲ってきて掠め取る。伊佐四古(いさしこ)、諸絞(もろしめ)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)ら賊軍の首領たちは、一人で千人の兵士に相当する」


 胆沢城建設工事に寄ってその地方一帯が朝廷による行政管轄下に置かれることを強く印象づける作戦に出た田村麻呂に、「停戦和平」を働きかけられたアテルイとモレ(「盤具公母礼」(いわぐのきみもれ))は、田村麻呂とともに大和に赴いた。そして、延暦二十一年(802)八月十三日、河内国杜山で斬首された。

 アテルイたちが武器を置いて都に赴いたのは、一種の「朝具儀礼」の形で帰順の意を示し、せめても胆沢地方の同胞の安寧な暮らしを願ってのことだったろう。


 コシャマインの戦いは、「アイヌ民族の歴史」関口明・田端宏・桑原真人・瀧澤正 編 山川出版社によると、1457(長禄元)年五月に勃発した。きっかけは前年アイヌの男性と鍛冶屋との間でマキリ(鉄の小刀)の善し悪しをめぐる争いであり、鍛冶屋が男性を刺殺したことにあった。

 コシャマインをリーダーとするアイヌ軍は、道南十二館のうち、二館を残し、つぎつぎと攻め落とした。個人間の些細な諍いが大規模な戦いに発展するほど、「三守護体制」成立期にはアイヌ民族と和人の交易に軋轢が生まれていたのであろう。これは、アテルイの時代の蜂起とよく似ている。大和朝廷の侵略が招いた悲劇。

 この戦いを指導したコシャマインは『家記』によると、「頭部の酋長」とあり、根拠地は亀田半島の東部から、噴火湾沿いの地とみられる。おそらく「日ノモト」アイヌが戦いの主体であったのであろうと言われている。

 『記録』によれば、この戦いは武田信広がコシャマイン父子を射殺し、他のアイヌを惨殺したことによって、「凶賊悉く敗北」したことになっている。ここでも勝者に寄る歴史は一方的な正義を語る。


 不平等な交易に虐げられてきたアイヌ。シャクシャインの戦いは、松前藩がアイヌの人々が松前へ出向いて交易することを禁止したことに寄って引き起こされた。当時、三守護体制が敷かれた渡嶋半島(北海道)では、アイヌは蝦夷地各地を訪れる和人の商人を待って、その商人とのみ交易をしなければならないとなっていた。その和人優位の仕組みのもとでは、「押買」(無理に安値で買い取る)などの横暴も目立ち、数量や金額を誤魔化したり騙したりは日常茶飯事だったらしい。

 抗議のために松前へ出向いたヨイチアイヌの長老は、首を切る、ひげを切るなどと脅され、憤慨して帰郷し、蜂起を呼び掛けたこともあったという。

 すでに不満は積み重ねられており、シャクシャインに呼応する勢力も多かった。1669(寛文9)年六月下旬からは各地で和人への襲撃が始まり、東蝦夷地ではシコツ(勇払郡、千歳市)〜シランカ(白樺)の間の八ヶ所、西蝦夷地ではヲタスツ(歌棄)〜マシケ(増毛)の間の七ヶ所で和人が襲撃され、三百数十人以上が殺害された。

 松前藩はクンヌイを固め、鉄砲の威力でアイヌ勢を撃退し、城下をうかがわれる危機を乗り切っている。そして、鉄砲の威力でアイヌ勢を威圧、シャクシャインの本拠地シブチャリ(静内)へ迫った。

 シャクシャインは和議交渉の場に出て行かざるを得なくなり、その和議成立の祝宴の際に殺されてしまった。これも、アテルイの最期を彷彿とさせる。騙し打ちだ。


 1789(寛政元)年五月初め、クナシリのトマリで目付竹田堪平が殺害され、クナシリの各地でも襲撃が始まり、殺害された和人は二二人、クナシリ対岸の北海道側メナシでも五月中旬に蜂起が始まり、各地で四九人が犠牲となったという。

 蜂起の理由とは、アイヌの人々は自家用の食料準備の暇がないほどに和人に使役され、その割には手当はひどく少なく、クナシリ惣長人は毒酒で殺され、薪でたたかれたり、薬を飲まされたりで、殺された者もいたという。女性に対する理不尽な「密夫」もひどく、抗議するとかえって脅され、理不尽な扱いが続いていたことに寄る。

 ここでも最終的に出頭してきた者たちは取り調べのあと、斬首。斬首執行中に牢内に残っていた者たちが暴れたため、鉄砲を撃ちこまれて全員が殺害されたという。


「エミシ」の語義について。「ユミシ」=「弓師」がエミシに転訛したのではないかと言われている。

「エゾ」は樺太アイヌの「エンチウ」(enchiw=人・男の意)によるといわれているそうだ。もともとは擦文人(渡嶋蝦夷)が使っていた「夷語」ではないかと。それが「エンジュ」になり、「エンジョ」、「エゾ」に転訛したのではないか。

 八世紀後半頃から、朝廷側ではということだろう、「蝦夷」の表記は、次第に「賊」や「敵」という表現に変わり、九世紀以降には「異類」。

 蝦夷の狩猟民性から本来は「ユミシ」と呼ばれたものが、音の類似性から水底を動き回る「蝦」と、中国の方位に基づく野蛮人の表現法「東夷」の合成語として「蝦夷」が成立したのではないかという。


 1646(正保3)年に、松前景広が編纂した『新羅之記録』によると、源頼朝が藤原泰衡を追討した時に、多くの人が「糠部津軽」から蝦夷へ渡り、一部は「奥狄」に逃れ、その子孫が狄(アイヌ)化したと記されている。

 つまり、東北の蝦夷と呼ばれた人々とアイヌは同じ時代を同じ場所で生きたことがあったのかも知れない。そして、混血が進み、同じ縄文人の流れを築いていったのではないだろうか。



追記として。『閉ざされた神々』黄泉の国の倭人伝 沢史生 著 彩流社 より

 桓武帝の蝦夷掃蕩への意欲というか、その執念には物狂いのような異常さがあった。
 先帝(光仁帝)の780年、伊治砦麻呂が紀広純を殺した乱は、国家的叛乱というより、差別による怨恨がらみの私闘が、みちのく大乱への引き金になったと考えられる。
 事件の発端は、みちのくにおける最高行政長官(按察使)である紀広純が、牡鹿郡大領・道島大楯を重用し、上治軍大領・伊治公砦麻呂を軽んじたことによる。大領は郡の首領であるが、砦麻呂に伊治公とあるように、王権から公姓を与えられた和夷(にぎえびす)であった。
 実は大楯も和夷と見られるのだが、大楯は広純の寵をいいことに、砦麻呂を俘囚といやしめた。砦麻呂は屈辱を鬱積させたあげく、耐えがたい憤りを爆発させたのである。
 事件にいたるまでの経緯は、いささか巷説の忠臣蔵的であり、今日のサラリーマン社会的な、同輩を押しのけ、おとしめてでも昇進したがるような、いやらしい要素をも含んでいた。
 広純の大楯偏重には、それなりの見返りが期待できたからであり、大楯は財物を献ずる贈賄の手段で、広純の歓心を買い、砦麻呂より優位に立とうとした。その優位とは王権が和夷を俘囚と称したように、大楯が砦麻呂を俘囚といやしめ、見下すことであった。
 王権的な階級差別が人間をすさませた悲劇といえよう。砦麻呂の叛乱は、私刑を優先するのあまり、公正を欠いた広純の失政に起因する。
 砦麻呂が大楯のみか、広純まで殺害した原因を探り、適切な方策を講ずれば、せっかく帰順した和夷の離反など起こりえなかったのである。ところが王権は砦麻呂がみちのくの大官である按察使を殺した罪科のみをひたすら重視した。
 王権側はもともと俘囚を人間扱いしていなかった。その人間以下の俘囚が、政府高官を殺害した。国威をかけても放置できぬ—砦麻呂の人間的憤りと、砦麻呂を人間以下と見なして憤る王権との間には、埋めようのない溝が当初から横たわっていた。
 砦麻呂の軍勢は大楯、広純を血祭りにあげたあと、多賀城を襲撃して武器糧食を奪い、城内の建物を焼き払った。城将である大伴真綱や石川浄足はいち早く逃走し、指揮官を失った城兵たちも四散してしまった。砦麻呂の叛乱は官軍の抵抗をまったく受けなかったようである。
 砦麻呂は城郭に放火したのち、遠く北方の夷地に退却したとされている。

 この乱で頭を痛めた光仁帝は桓武帝に譲位し、朝廷は中納言・藤原継縄を征夷大使に、紀古佐美らを副使に任じて征夷体制を整えたが、みちのくでの作戦行動は、まったく思うにまかせなかった。砦麻呂は王権の名誉にかけて誅殺できたのか、それすらも明らかではない。北方に退いた砦麻呂の没年は宇屈波宇同様に不詳である。
 桓武帝は即位の翌782年(延暦元年)、戸籍を厳しく作成させるとともに、浮浪人狩りを徹底的に行っている。これには狩り立てた浮浪人をみちのくに送り込む意図が含まれていた。彼らはみちのくの軍事基地に、屯田兵の形式で移住させれたのである。
 こうした策は750年代からすでに行われており、浮浪人のほか没官の奴婢なども、賎民の身分を良民に引き上げる条件で、みちのくに送り込んでいた。彼らの懐く屈辱感は砦麻呂のそれと変わるところはなかった。

 787年(延暦六)、王権は蝦夷との決戦を目指し、みちのく良民とエミシとの交易を厳禁した。翌788年には多賀城におびただしい軍糧が搬入され、東海、東山、坂東の諸国から五万二千八百余人の軍勢が動員されることになった。この年七月、桓武帝は紀古佐美を征夷大使に任じ、迅速に甚大な打撃をエミシに与えるよう注文をつけ、「坂東の安危はこの一挙にあり」と小佐美を激励した。いわばZ旗を揚げたのであり、帝の気の入れようは、これをもってもうかがい知れる。
 征夷軍の攻撃目標は胆沢の地に置かれた。今日の岩手県水沢市付近である。『東日流外三部誌』によれば、雄略帝の十六年にアラハバキ王がみちのくの長老を胆沢に集め、大和遠征をはかったが挙兵にはいたらず、このときに“エミシ側”の胆沢柵が築かれていたという。その胆沢には王権側から奥地の賊魁と憎悪される大墓公阿弖流為が蟠踞していた。大墓公といわれるようにアテルイもまた、一度は和夷として帰順し、王化による安穏なみちのく維持への希望をつないだ人物であった。
 彼が叛乱軍の首魁に擁立されたきっかけは、伊治公砦麻呂の挙兵であったろう。王化の内容が人種差別と搾取以外の何者でもないとわかったとき、首長としてアテルイは、同胞への危惧から大きく動揺した。
 アテルイは砦麻呂決起の口火を、タイマツに移して立ち上がった人物である。
 砦麻呂の乱が起こるまでは、王権側が手馴づけた和夷を荒夷の集落に潜入させ、動静を探らせるスパイ網が、ある程度完成されていたようである。しかし砦麻呂が按察使。紀広純を殺した上、多賀城を灰燼に帰せしめた“快挙”は、エミシとさげすまれ、屈辱を忍んできたみちのくの人に、同胞愛と決断心を喚びさました。
 砦麻呂が北方に退き、行方不明のままであったのも、胆沢のアテルイが砦麻呂を迎え入れ、無事に逃がしたからではなかったろうか。そして、いま一大決戦の目睫にして、官軍の動静はすべてアテルイの元まで筒抜けとなっていたのである。
 789年三月、多賀城を発進した官軍六千は約二十日を要して衣川に達した。鈍足をきわめた進軍ぶりだが、この地点から北上川を東岸に渡る作戦は一カ月も留保されている。敵情がさっぱりつかめなかったからだが、中央からは戦況報告をしきりに催促してきた。
 後方から督戦の役人どもにやたら追い立てられ、官軍はやむなく渡河作戦に踏み切った。戦略なき戦闘の帰趨は明白であった。
 北上川とその東方に連なる烏兎カ森、観音山、駒形山、束稲山など、東山連峰の傾斜に圧しひしがれたミミズのごとき細径を歩む官軍は、いきおい金魚の糞さながらの隊列を組まざるをえなかった。当時の北上川本流は、いまの流路よりはるかに東山連峰に寄っていたのである。
 狭隘な地形に阻まれ、咄嗟に兵を展開できぬような状況にあっては、伸び切った大蛇が、脇腹を白日にさらしたにも等しい。図体が大きいだけに頭尾の連係は惨めなばかりに鈍化してしまう。こうなっては兵力が何千あろうと、その部分、部分は、一個班の能力さえ発揮することはおぼつかない。アテルイがこの機を見逃そうはずはなかった。
 山腹に息をひそめ、頃合いを図っていたエミシ勢は、喊声をあげるまでもなく官軍を襲い、黒豹の軽捷さで脆弱な官軍の横腹を食い破った。動揺と脅えが波のごとく官軍をの前衛と後陣に到達したときは、進路を塞がれ、退路を断たれた兵が、ひたすらうろたえるばかりであった。
 エミシの術中に陥ちた官軍は、もはや統率を失った烏合の衆であった。官兵たちはクモの子を散らすの形容どおり、けものの判断で流れに活路を求め、われ先にと北上川に飛び込んでいった。青黒く、豊かな水量をたたえた本流の流れは疾い。その流速のありようが、一途に助かりたいと希う敗軍の兵には、余りにも非情であった。
 武器をかなぐり棄て、軍服を脱ぎ、辛うじて泳ぎ帰った戦闘員は千二百五十七人にすぎない。官軍の損害は戦死二十五人、負傷二百四十五人、泳ぎ切れずに溺死した兵の数は一千三十六人と記録された。大惨敗であった。

「征夷軍の数を十万にしよう」—。王権は躊躇なく増員を決断した。790年から795年にかけての征夷大使は大伴弟麻呂であった。そして副使には坂上田村麻呂ら四人が任ぜられている。
 田村麻呂を指揮官とする官軍の第二次攻撃は794年六月から十月にかけて行われた。
 征夷大使は戦果を賊軍の斬首四百五十七人、捕虜百五十人、分捕った馬八十五頭、焼き払ったエミシの村は七十五カ所と報告している。
 だが、アテルイの本拠・胆沢は、この戦闘でも遂に陥落させることができなかった。

 796年一月、桓武帝は田村麻呂に陸奥出羽按察使兼陸奥守という最高のポストを与え、その年十月にはさらに鎮守府将軍をも兼ねさせたうえ、翌797年には征夷大将軍に任じている。帝の蝦夷に対する憎念は、ここにきわまったといえよう。
 田村麻呂による第三次攻撃は、西方の兵を動員し、801年に開始されたと見られるが、「赤面黄髭にして、勇力人に過ぐ」と畏怖された征夷大将軍・坂上田村麻呂が、いつ戦端を切り、どのように戦闘を展開して、アテルイを胆沢から駆逐したかについては、皆目わかっていない。

 まことに不透明な第三次攻撃ではあるが、ここでアテルイの奇妙な行動が目につく。胆沢を放棄していずこかへ逐電していたアテルイが、翌802年七月になると、兵五百余を率いて、ひょっこり田村麻呂に“降伏”してきたのである。
 田村麻呂は礼を尽くしてアテルイを遇し、彼をしてみちのくの王化に役立たしめるべく、都に同行したという。だがアテルイを憎悪する帝や公卿どもは「野生獣心、反復定まるなし。(略)奥地に放置するは、いわゆる虎を養いて患いを遺すものなり」(『日本紀略』八月十三日条)と田村麻呂の主張を退け、同年八月、河内国杜山でアテルイの首を刎ねてしまった。

 田村麻呂の戦ぶりを見ると、彼はアテルイ戦に備え、まず胆沢以南のエミシに位階を与え、恩典を餌に手なづけている。彼らをアテルイから離反させることで、田村麻呂は胆沢への進路を確保した。十万の大軍をもってしても、取りつくことさえできなかった胆沢の地は、いまや丸裸同様となって田村麻呂の前にあった。
 アテルイの胆沢放棄は戦略上当然であったろう。それほどのアテルイが、十カ月も経ってから五百の軍勢を率いて現れたのには、理由がなくてはなるまい。
 考えられることは、のちの元慶の乱(878年)に秋田城にやってきた三人のエミシが、出羽権守・藤原保則に対し「秋田河以北をわが領土となさむ」と宣言したように、アテルイもまた「胆沢以北の領有」を条件とする和睦を申し入れたのではないかという点である。
 田村麻呂は彼に栄誉を約し、都に連れて帰った。王権が田村麻呂の約したアテルイの名誉保持や助命など、聞き入れるはずがないことを、田村麻呂は関知していなかったとは到底思えない。何にもまして、田村麻呂は「これがわたしの生捕った賊の首魁・アテルイにござします。過去二十年にわたり、宸襟を悩ませましたるあのアテルイこそ、この男にございます」と、披歴したかったのではあるまいか。
 漁師の前に獲物をくわえて走り戻る犬、田村麻呂を得意にさせた心情は、そうしたものであったろう。
 権力に魅せられた人間は、あさましいほどに人間の心を失う。それが見抜けなかったアテルイは、余りに、余りに正直すぎた。
 アテルイが斬られてから一年半後の804年四月一日、田村麻呂は再び征夷大将軍を拝命している。アテルイの死を心から悔やんでいた男なら、彼はこの任命を固く辞していたであろう。第四次蝦夷攻撃は正に行われようとしていたのである。
 だが、騙慢な公卿の中にも眼の見える人物はいた。
 805年(延暦二十四)暮、桓武帝の御前で、参議の藤原緒嗣と菅野真道が「天下の徳政」を論じた。この席で緒嗣は「方方、天下の苦しむところ軍事と造作なり。此の両事を停めれば百姓安んぜむ」と主張している。
 勇気を要する発言であるが、緒嗣の主張は容れられ、ここに第四次征夷計画と、平安京の造営は取り止めとなったのである。征夷に異常なばかりの偏執の念を燃やした桓武帝は、翌806年(大同元年)三月、怨霊にさいなまれながら七十歳の生涯を閉じた。


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