〜参考文献、高橋克彦氏、山崎純醒氏、伊藤孝博氏、沢史生氏の著書より
享保年間(1317〜19)に書かれた『十三湊新城記』に十三湊の繁栄振りが書かれている。
「福島城は八十余町(九キロ)四方の規模を持ち、周囲に濠や土塀をめぐらし、築地を設け、その中に数千の家臣の家と数万の領民が甍を並べて住んでいた。白棟五七〇、出城一二、水軍船七〇隻、堂宇宿坊百社、異国の教会とインド人、中国人の館が建ち並び、十万の人々で繁栄していた。城外の草原には。数千頭の馬が放牧され、湊には、出船入船が賑やかに、水夫たちの唄声や囃し声をひびかせ、アイヌ・朝鮮・京からの船が群れをなして舳先を並べている」
昭和三十(1955)年、東京大学の江上波夫教授(当時)らの福島城柵発掘調査が行われた。
その際、城址は六十五万五千平方メートルの規模だったことが明らかになったほか、出土した磁器などから土三湊が博多港並の国際貿易港だったことも分かったという。
平成三(1991)年から平成五(1993)年にかけて、富山大学と青森県教育委員会・市浦村教育委員会・中央大学などが行った発掘調査では、十三湊の全貌が明らかになっている。
それに寄ると中央部を幅四〜六メートルの直線道路が町屋の中央部の道路と交差し、砂嘴の北端から南八百メートルほどのところに、高さ一・五メートルの土塁が造られ、南側に武家屋敷や短冊形の町屋敷が整然と並んでいたことが分かった。
十三湊の山王坊の僧、弘智法印(1363没)が貞治二(1363)年に著した『十三往来』によると、十三湊は、インドの王舎城、中国の長安、我が国の平安京に匹敵する大都市であったという。
十三湊にはサセラン人もいたといわれており、湊の遺構から中国の白磁、青磁、サセラン文様の陶器が多数出土している他、越前焼、珠洲焼、古瀬戸焼、唐津焼なども出土していて、国内中とも交易していたことが窺える。中国鴨緑江河口近くには、安東王国の分庁舎(大使館)とされる安東城が建っていたと中国の歴史書にも記されているそうだ。安東水軍の蓄えた富は、奥州藤原氏の富をはるかに凌ぐものだったと『安東水軍抄』(寛文二年著)に記されている。
さて、津軽の民が古代から信仰していた神にアラハバキがある。御神体は黒光りする鉄の塊という謎めいた神で、未だに正体は解明されていない。
ヒッタイトでは鉄製品をハパルキと呼んでいた。アラジャ・ホユックのハパルキが転じて、アラハバキになったのではないかという考えもあり、土器の類似性から、相当古い時代に龍を崇める民が日本に渡って津軽辺りに住みつき、縄文時代を作り上げた可能性があるのではないかと考えられる。
そして津軽を中心に東北のアラハバキ神社を調べていくと、御神体はほとんどが鉄鉱石である。岩木山の麓にある岩木山神社もアラハバキを祀っているが、御神体は黒い鉄のような石だ。十三湊に近い荒磯崎神社も鉄鉱石を御神体にしている。
それからこんな神々からの視点での物語もある。
神武帝の時代、大和で神武帝の軍勢に徹底抗戦したナガスネの兄をアビといい、神武帝が東征に出て安芸の経営に七年の歳月を要したのは、このアビの軍勢に苦戦を強いられたからという『東日流(つがる)外三郡誌』の伝承がある。
武運つたなく、東北の津軽地方に落ちのびたナガスネ(記紀ではナガスネは大和で誅殺されており、アビは登場しない)は、「たとえ、わが身は敗るるとも、日向族へのこの恨みをば、子々孫々に伝え伝えて撃ちてしやまむ」とうたい、大和奪還を誓い合ったという。のちの朝廷が、都から東北(うしとら)に当たるみちのくの津軽を、鬼門と定めたのはこれに寄ってではないかと言われている。
『備後国風土記逸文』には、昔、北の海にいた武塔の神が、南海の神の女子(むすめ)のところへ婚(よばい)に行き、蘇民将来の家に泊まった。このとき武塔の神が「おれはスサノオである」と名乗ったことが記されている。
この武塔の神が泊地としたのは疫隈(夷住の意か)の国社で、広島県郡山市から芦田川をさかのぼった同県芦品郡新市町江熊の疫隈神社だという。疫宮(えのみや)(疫病神の神社)である。そこにはアビがいた。
そのアビのところには、武塔の神ことスサノオが婚にきている。恐らくスサノオはアビの地を奪いにきて、和議が成り、アビの妹を妻としたのだろう。ここにスサノオはアビの義弟となり、アビの地を安堵したうえ、おのれの前線司令官に任じた。このはなしが『東日流(つがる)外三郡誌』のいうアビとナガスネの兄弟説なのではないかと考えられる。つまりスサノオとナガスネは同一神だったということである。
スサノオの武塔天王は、「タケアララ神」とも呼ばれる。一方のナガスネには「アラキ神」、「タケアラキ神」、「アラハバキ神」の名がある。
王権が未開野蛮の地としたみちのく津軽には、十三湊という日本海随一の良港がはやくから開かれていた。しかも徐福伝承まで残されているように、朝鮮や中国との古代の往来は、中央での想像以上ににぎわっていたと考えられる。
学識者による従来の対蝦夷観は、「みちのくには個々の部族首長がいて、それぞれ独立戦を行っていた」といいうものだった。しかし、北倭・津軽の十三湊に、彼らの本拠があったと考えるべきではないか。そして伊治公砦麻呂にしても、大墓公阿弖流為にしても、彼らは北倭前線の防衛司令官として、王権の侵略を阻止する任に当たっていたのではないだろうか。
按察使・紀広純を殺害したあと生死不明となった砦麻呂や、胆沢を脱出して十カ月も姿をくらましていたアテルイが、実は津軽に立ち寄って、ナガスネヒコ以来のアラハバキ王・安東丸と、事後の方策を協議していたと見れば、脱出以後の彼らの空白に納得がいくのではなかろうか。
中尊寺のある平泉町西南に達谷窟(たっこくのいわや)がある。坂上田村麻呂の討伐を受けた蝦夷の首領・悪路王の本拠があった場所といわれ、悪路王をアテルイに擬する史家もいる。その達谷窟は、洞窟の奥が津軽・外ヶ浜に通じていたという。外ヶ浜は津軽半島の陸奥湾沿岸の海岸である。十三湊を(北倭の)執政府と考えなければ、この地名は誕生しなかったであろう。
その道は洞穴の通路ではなく間道だったと思われる。達谷窟からの抜け道は、多くの間道の一筋であり、すべての間道は十三湊に通じていた。砦麻呂やアテルイは、こうした間道伝いに十三湊に到達したのではなかったのだろうか。
しかし、その十三湊は、南朝年号の興国二年、暦応四(1341)年十月十一日に二十メートルをはるかに超える未曾有の大津波に襲われ、都市全体が泥に埋まり、一夜にして滅んだと言われている。
安東官僚代官の調書によると、人命十二万余、牛馬五千頭、船舶二百七十艘、黄金三十万貫、米六万俵、水田六百町歩、家屋三千二百十七戸、出雲大社並みの宏壮ぶりを誇っていた浜の明神をはじめ、神社仏閣二百七十棟がことごとく狂涛にさらわれ、消失している。そして大津波以降の十三湊は、アラハバキ王国の富と力を昔日に挽回させるべくもなく、一地方豪族として衰退の一途を辿って行ったのだ。
最後に、奥州藤原氏の時代。藤原泰衡は、源義経を殺していない。亡き父秀衡の遺命どおり義経を逃がし、十三湊へ向かわせたのではないか、という源義経北紀行伝説がある。義経一行は、最終的に十三湊の福島城で、安東(藤)秀栄(ひでひさ)・秀元父子の出迎えを受けたのだと。
負けた側の歴史は抹殺される運命にある。
文字を持たなかったアイヌや蝦夷の東北の歴史は残っていない。