日本の歴史では、縄文時代の後に弥生時代をあてている。この弥生時代は、稲作による水田経営によって人々は土地と深く結び付き、やがて広い土地を有し、収穫の多い人が支配するような社会構造を生ずるに至った。
古代の王権担当者は、国家権力というおのれの支配下に、どれだけの民人がいるかを、簡単に掌握する方法として、水田農耕を国の大本と定めたにすぎない。
戸口に編入して定住させる。居住地からの離脱、つまり亡命逃散は、これを罪と見なし処罰する。これによって権力者は、否応なく農民からの年貢を徴収することができた。
最終的に、それぞれ耕地を割り振って、人々を泥田にはい回らせる。コメが取れようが取れまいがである。それを「政治」と考えたらしい古代王権の支配が及ばなかった東北・北海道は縄文時代後期末にコメの存在は知っても、長く狩猟・漁撈・採集を主たる生業として平和に暮らしていたようだ。
本州に稲作文化が普及した後も、東北では北海道を代表する土器が各地で造られ、使われていた。
青森県下全域、総計二十カ所以上の遺跡から発見され、南下ルートとしては、函館の東の汐首岬あたりから下北半島大間?アあるいは尻屋?アに入り、八戸をへて岩手県へ下るコース。または渡島半島白崎岬あたりから竜飛?アに入り、岩木川をさかのぼって秋田北部へ下って行くコースなどが考えられている。
古墳時代にほぼ併行する時代になると、北の続縄文文化の後北式に代わって北大式と呼ばれる土器が広く使われるようになり、宮城県北部まで分布が見られる。
十世紀頃には、「防御性集落」というものが見られるようになる。これは、集落を環濠や土塁で囲むことを最大の特徴としており、おおよそ三つのタイプがあるという。
第一のタイプは、十世紀半ばに成立したとされているもので、その集落の支配者(首長層)たちの竪穴式住居のみを空堀などで囲み、集落の主体部はその外側に広がるものである。だいたい40~50メートルあたりの丘陵(ないし急な崖)の先端部に空堀をめぐらして囲郭したりするものがある。
第二のタイプは、やや遅れて十世紀後半に成立したとされ、集落全体を環濠や土塁などで囲郭するようになり、環濠自体もかなり立派なものとなる。土塁が堀の外側に設けられているところに特徴があり、これは弥生時代の環濠集落を共通するつくり方であって、実践本意ないし軍事優先の場合の典型的な集落のつくり方であるという。
第三のタイプは、おもに岩手県域にみられるもので、海抜400メートルをこえ、麓との比高差でも200メートルをこえるような高い山頂か尾根筋につくられた、典型的な高地性集落ともいうべきものである。堀や土塁はあまり発達しておらず、集落というよりは戦時の避難場所ないし逃げ城的性格をもっている。
東北北部から北海道南部までの「北緯40度以北」の地域にかけて100近く確認されているが、北海道には今のところ、渡島半島南部の原口館遺跡(松前町)・ワシリ遺跡(上ノ国町)・小茂内遺跡(乙部町)の三ヶ所しか発見されていない。
これは北方産品をもたらす擦文人との交易関係を確立し、その権益を守ろうとする津軽蝦夷が、そこに介入する国衛・城柵・王臣諸家各勢力に対して防御のために造営したものと推定することができる。つまり、擦文人と津軽蝦夷の主たる交易の場とはならなかった道南地方には、本格的な防御性集落をつくる必要はなかったのだろう。
阿倍比羅夫の「北征」で都に知られた粛慎(あしはせ)は、何者だろうか。
推測されるのは、大陸東北部から樺太・北海道北部に渡ってきたツングース系部族。彼らは鳥の羽を木にかけて旗印としたり、滅亡に際してみずからの妻子を殺すといった風俗を持っているという。
五世紀から十三世紀にかけて、サハリン南部・北海道のオホーツク海側・千島列島に展開したオホーツク文化の担い手であり、食料の多くを海に依存した海洋民族ではないか。
道北を拠点にした粛慎は、日本海を還流するリマン海流・対馬海流にのって航海したらしく、『日本書紀』欽明天皇五年条には、佐渡に粛慎が現れて、その異様な風体から、彼らを「鬼魅」とよんでおそれたとみえる。この一族は、中国や朝鮮・日本が鉄器文化の時代に入っても、なお石鏃を使う習慣を保持しており、その石鏃をつけた?矢という強力な武器を持っていた。
北海道には、続縄文文化の時代にオホーツク文化をもつ粛慎が渡来していたようだ。
阿倍比羅夫の三度目の「北征」の際、一行は渡嶋蝦夷の拠点・岩木川あたりに到着した。すると対岸の海辺に渡嶋蝦夷1000人余りが軍営を構えて「粛慎の水軍がたくさんやってきて、我等を殺そうとするので、川を渡ってそちらの軍の配下に入れてほしい」と大声で叫んだ。そこで比羅夫が船を対岸に出して、粛慎の居場所とその船の数を聞きだし、使者を粛慎のところにやってよびだしたのであるが、出て来なかった。
その後「沈黙交易」は失敗し、戦闘に至るのだが、比羅夫軍は粛慎を打ち破り、粛慎は柵にいた妻子をみずから殺して滅亡したという。
渡嶋蝦夷の視点からは、北から南下する「粛慎」に対して、北上してくるヤマト王権の軍事力を利用して対抗するという図式が成り立っていた。
これ以降、渡嶋蝦夷は古代国家の強い影響を受けながら独自の社会を形成する途を模索することになる。
これと同じように、「日本」の歴史として残っているものとは別の「地方」の歴史は数限りなく存在していることと思う。
九州の熊襲、沖縄王国、他にも名を知られていない独自の物語がひっそりと伝承やおとぎ話、習慣や習わしなどとして受け継がれてきたことだろう。独自の文化や慣習が大事に守られていた時代には守護となっていた神々が大化の改新やGHQの政策に寄って、抹殺され、貶められてきた。
日本の自然崇拝による信仰が薄くなってしまい、信仰と崇敬に寄って力を得ていた神々の力も弱くなっている。つまり、日本の守りはどんどん薄くなってしまっているということだ。
戦争を語れる世代も少なくなってきた今、日本固有の数々の歴史を掘り起こすことはもはや不可能に近い。
それでも、日本国土固有の血を受け継いできた我々日本人は、その血が示す通り、内側にある聖なる祈りの文化を、自ら学んで継承していくことは出来る。禅や瞑想に代表される「氣」の文化や、仏教の経典、神社の祝詞など神社・仏閣の教えの真髄を学ぶことは出来るだろう。
『国家の品格』を著した藤原 正彦氏の言葉に、「ああ、その通りだ!」と感銘を受けた文章がある。
「人間中心主義というのは欧米の思想です。欧米で育まれた論理や合理は確かに大事です。しかし、その裏側には拭いがたく「人間の傲慢」が張り付いています。
欧米人の精神構造は「対立」に基づいています。彼らにとって自然は人間の幸福のために制服すべき対象であり、他の宗教や異質な価値観は排除すべきものです。これに反して、日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化しています。この自然観の違いが、欧米人と日本人の間に本質的差違を作っています。
日本人は自然に調和して生きてきましたから、異質の価値観や宗教を、禁教令のあった時期を除き、頑なに排除するということはしませんでした。それをいったん受け入れたうえで、日本的なものに変えて調和させてきました。
精神に「対立」が宿る限り、戦争をはじめとする争いは絶え間なく続きます。日本人の美しい情緒の源にある「自然との調和」も戦争廃絶という人類の悲願への鍵となるものです。
日本人はこれらを世界に発信しなければなりません。欧米をはじめとした、未だ啓かれていない人々に、本質とは何かを教えなければなりません。それこそが、 「日本の神聖なる使命」 なのです。」
★ちょっと変わったユニークなギフト。
☆オーストラリアのスプリングブルック天文台が提供する世界で唯一の『オンリーワンギフト』
一つの星には、一つしか命名できないので重複して何人もの名前がつくことはありません。
☆彡『星命名証明書』とお客様ご希望のメッセージをカードに印字し、セットでお届けになるそうです。