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ミャンマーの旅6 by mari (11/22)
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15年前のアジア放浪記をまとめております。 世界は広いです。一歩踏み出せば、そこは日本では通じない モラルが待っています。

2014年09月20日

中国の旅37

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昼の時間に広州に着いた。大都市だが、旅するには小さい街の方が小回りが効いて楽しめる。駅から出たが乞食は見かけないが、公安がたくさんいる。恐らく乞食を排除しているのだろう。広州の宿は予め決めておいたのだが、駅からかなり遠い。道も混んでいてタクシーやバスなど使ったら時間がかかりそうだったが、バイクタクシーがあった。いよいよ南に来たんだなと感じさせてくれる光景だ。バイクタクシーとは最初に地図を見せて料金交渉する。最初はぼってくるんだろうなと思っていたが意外と安い。大都市は物価が高いはずだが、交通機関は安いのか?とりあえず2台同じ値段で宿まで行ってもらう事にした。広州の道はどこも渋滞その渋滞の中をバイクは飛ばして行き先に向かってくれる。これは便利な乗り物だと関心した。20分ほどで宿に着いたが快適で素早く届けてくれるなんてバイクタクシーは、これからの旅で使う事が多いんだろうなと思わされた。宿は白い建物で、昔にイギリスが統治した時に造られたような建物だった。建物に入るとレストランになっており、その奥がフロントだった。チェックインを済ませると部屋に通された。部屋には二段ベッドが4つの8人部屋になっていた。全員が日本人のバックパッカーで、1人はラップトップを持って来ており、何時でも袋に入れて大事にしていた。何でも猿岩石が香港からイギリスまで同行したと言っていたが、どうも嘘臭い。日テレを辞めて旅をしていると言っているが相手に出来なかった。色んな人がいたが、もっと強烈なのがいた。体は細くて小さく人懐っこい感じですぐに話掛けてきた。自分より5才年下で、中国に着いた時にパスポートを売って欲しいと中国人バイヤーに言われて、30万円ほどで売ってしまったと言う。おー面白いのー、こやつは。と思った。まだ、20才で海外も初めての割にはパスポートの大切さが分からず金目的で売ってしまったらしい。この宿には一ヶ月ほどいるらしく当局と日本大使館から、この宿にいるように言われているので動けないとの事。奴のパスポートは、すぐに使わられてしまい購入した中国人が成田空港で捕まってしまい、その因果関係を警察が探っているみたいで、日本人でありながら日本にも帰れない奴がいるのには頼もしかった。お金も底をついてきたみたいで、みんなからおこぼれをもらっていた。朝は、みんなでお粥屋に行って食べていて30円ほど。帰ってきて、二度寝して昼に弁当屋で50円ほど。夜はその日によって違う。ベトナムに入るのにビザが必要なので、陸路で行くには広州が最後の取得出来る都市となる。早速、在中ベトナム大使館へバイクタクシーで向かった。古い雑居ビルに入ると薄暗く、小さい事務所が大使館だった。
ビザが降りるまで5日掛かると言う。そんなに待たないといけないのか!共産主義の国だから仕方ないと、またバイクタクシーで宿に戻った。宿にいる日本人は、1人でもいなくなるとどこに行ったのか気になるらしく、ベトナム大使館に行っただけなのに、行動力あるね!とか言われる。大理に行ってきた話をすると、マリファナ持ってるの?とパソコン野郎が言ってきた。大理以外に持ち出して捕まると大変だから持ってないよ。と言うと、あー欲しかったな!と言っていた。自分で行けばいいのに、なんで広州から出ないのか良く分からないが、それなりの付き合いをして過ごした。やっぱり面白いのが夜にレストランが閉まると奥だけバックパッカー用に電気を付けてくれる。そこでパスポート売人野郎とビールを飲みながら話すのが楽しかった。しかも、ビールだけは奴がどっかから仕入れてくる。今考えると不思議な事だが誰からもらっていたのだろうと考えてしまう。


中国の旅36

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陽朔ともお別れの朝がきた。とっくに飽きていた街ではあったが、日本人の友達が出来たので、それなりに楽しめた。陽朔から桂林にバスで向い、そこから電車に乗った。桂林から陽朔に来る時は真っ暗だったので、外の景色が見れなかった。桂林へ向かう途中の景色は圧巻だった!陽朔で見た山々が更にたくさんあり、これが見たかった!と言う景色でした。これで充分に桂林は見たと心に刻んで桂林をあとにした。広州までは一泊二日の旅。日本人の友達がいるので、そんなにヒマではなかった。また、広州駅周辺には田舎の内陸部から出てきている乞食がいて危険との情報があった。湾岸の都市部は栄えてきていて、仕事が溢れていると言う情報から田舎の人が出てきたのはいいが仕事が見つからないので駅でたむろしているらしい。なんか危ないが、それも旅と思い危険な時には何か匂いを感じるようにもなってきたので、西安の時ほど気にはならなかった。


中国の旅35

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1人の日本人、おそらく自分と同じ年くらいの男性が近づいてきた。日本人ですか?そうですよ。と答えると、良かった〜。と彼は言った。やはり日本人がいると自分も安心する。彼に座るよう促したら、前の椅子に座った。彼が安心したのは、旅を始めて間もないが中国から早く出たいとの事だった。中国には合う人と合わない人がはっきりするので、彼は合わない方だったのだろう。せっかく来たのだから、2泊くらいはしてはどうか?と言ってみた。自分は前金で、あと1泊分の宿代を払ってしまっているので同じ所に泊まらないと損をする。自分の部屋はツインだから一個ベッドが空いてる事を彼に告げると彼は宿を探す手間もなく助かったと言う感じで、宿に行きチェックインを済ませた。先に自分が部屋代を済ませているので150円ほどで言いとフロントが言ってくれたが、明日チェックアウトしてくれないと、自分の部屋は予約が入っていると言われた。明日は、また宿を探すと言う事で話はまとまった。2人で街中を散策したり、自分が行った山ではない他の山に行ったりして、その日は過ごした。意外と1日で気があってしまい、夜はカフェでビールを飲みまくった。次の日も晴天。中国に来てから、雨に遭遇したのは2日くらいしかなかった。それも小雨で合羽を使う事は1回もなかった。朝、カフェで朝飯を食べてチェックアウトした。宿は昨日に探してあったバス乗り場近くの宿にチェックインした。1人300円ほどでツイン、テレビ、シャワー、トイレ付き。ちょっと古いが自分のランクでは普通より上だった。昨日に色々と見たので、自分達はすでに飽きてしまっていた。明日、バスで桂林に戻り、桂林から広州までの電車のチケットを買わないといけないが、この街で電車のチケットが手に入ると知ったので買いに出掛けた。歩いて5分ほどの所にチケット売り場があり、ついでにバスのチケットも買っておいた。外に出たついでに船着場に行ったり、カフェで時間を潰して一日を過ごした。


2014年09月19日

中国の旅34

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朝起きると、街全体が部屋から見えた。船着場が近かったので、ぼーっと川と船を見ていると、昨夜宿まで案内してくれた子供が来た。お礼の言葉を伝えると、子供は自分が桂林に着いてバスを探している所から見ていたとの事。しかも、不安そうにしていて降りてからも迷子になっていたから助けてあげた。と言う。なんとも一本取られたような感じだった。なんで英語が話せるのか聞いていると、家は貧乏で旅行者が多いので必然と欧米人と話しているのを覚えたらしい。それで通訳をして稼いでいるとの事。確かに英語や日本語使いの中国人は貧乏や少数民族に多い。生活がかかっているから他言語を覚えるのだろう。ご飯でも食べに行くか?お金は出すよ。と言うと、3元欲しいと言う。50円ほどでいいのか?あんまり子供に大金あげるとクセになると思い、昨日助けてくれたチップだよ。と言って3元を渡した。子供はニコッとしてお金を握り締めて帰って行った。朝ごはんをカフェで食べて街中を散策して、あのポコポコしている山が至る所にあるので、1番近い所に行ってみた。ドラゴンボールのアニメに出てくる山々だ!ちょっと登ってみるかな。と上にあがる道があったので登ってみたが結構辛い。上まで登ると景色が良かった。1時間ほど上から見ていたが、なんか桂林も飽きたかな。と思った。感動はあったが、早く飽きるくらいの場所でもあった。
カフェでゆっくりするくらいしかないのでジュースを飲みながらストリートを歩く人を見ていたら1人の日本人が声を掛けてきた。


中国の旅33

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なぜか久しぶりの1人の電車は寂しかった。中国語が分からない自分と、英語が通じない中国人とでは会話が難しい。物を買う為に数字を覚えたくらいの中国語は、ほぼ役に立たない。いきなり1人になってしまった自分がホームシックになっていたとは気づかなかった。そういえば、18才でアメリカに渡った時も1年経ったくらいでホームシックになった。それが分からずに単にシアトルと言う街に飽きてしまったのだと勘違いして、サンフランシスコに移った。サンフランシスコに引っ越ししてから新天地というのもあり、ホームシックは治っていた。でも、サンフランシスコは自分には合わなかった。それは、日本人が多くて日系も多くいたので新鮮味がなかった。その時に受けたホームシックのような気分に似ている。桂林に昼に着くはずが予定が遅れて夜に到着した。桂林では船で漓江(りこう)下りをするのが有名だが、かなり高いので金銭的に貧乏旅行している自分には、船の終着点の街の陽朔まで行く予定だったが外は暗くバスが走っているか分からない。とりあえず、駅を出るとあっさりと陽朔行きのバスを発見。外人価格なのか分からないが400円ほど払い陽朔へ向かった。2時間ほどは走っているだろうか、やたら長く感じた。夜10時半頃に到着。安宿の客引きなどいない。バスを降りると同じバスに乗っていた幼い中国人の子供が英語で話し掛けてきた。宿を探しているのか?予算は?と聞いて来た。なるべく安い宿がいいと伝えると、陽朔の小さいけどメインストリートにきた。その子は宿に入り値段の交渉をしてくれた。しかも、二泊で500円でいいと言う。一緒に部屋を見たらツインでそれなりに綺麗だ。ここに決めたと伝えると前金を払うように言われてチェックインをした。子供にお礼を言おうとしたら、その子はすでにいなくなっていた。チェックインした後に、外に出れば欧米系のカフェばかり。よほど欧米系のバックパッカーが来るんだな。と思いながら開いてるレストランに入った。メニューも英語で分かりやすい。困った時の炒飯を頼んだ。かなり美味しく、よく周りを見たら欧米系のバックパッカーがあちらこちらにいるではないか。その日は、ぐっすりと宿で寝る事が出来た。


中国の旅32

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昆明にバスで帰っている中、長距離長時間の移動となるのでトイレ休憩や食事休憩が所々であり停車する。自分達はバスの1番後ろの2段式の上を占領していた。中国なのでバスの中でうるさくしても周りがうるさいので気にされない。3人の日本人が一緒になると、かなり楽しい旅にもなる。途中の食事休憩もかなりの品を頼んでもシェア出来て安くなるので経費が抑えられる。中国の米は日本と基本的に同じだが、決定的に違うのが小石が混ざっているのだ。日本では考えられない事だが、中国ではよく小石が混じっている。食べてる時に『ガリッ』と歯で砕く音も周りに聞こえるほどだ。この移動中の中での夜ご飯を食堂で食べている時にも小石が入っていた。中国に慣れてくると白米を食べる時に小石が入っていると思って食べるようになる。非常に嫌な食感であった。夜が開けて、早朝に昆明に着いた。また、昆明の安宿にチェックインした。これで昆明に来るのは3回目。さすがに慣れたが飽きもきた。見る所は見たし、宿の中での生活が2日ほど続いた。一緒に来た仲間とは、ここで別れの時がきた。大理で一緒になった人は、まだ昆明に当分いると言う。成都から一緒だった同じ年の彼は上海から日本に帰るとの事だった。自分は広州を目指して南下する予定だが、その前に桂林に寄ってから広州に行く事にした。あのドラゴンボールで見た山がポコポコとある景色が見て見たかった。噂では桂林も西安と同じく治安が良くないと聞いたので、日中に着く電車の切符を買いに昆明駅に行き、あっさり買う事が出来た。今の所、駅で切符が買えないのは西安だけである。出発当日の朝、みんなに別れを告げて昆明駅へと向かい桂林行きの電車に乗った。


2014年09月18日

中国の旅31

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麗江(リージャン)は、大理よりも古都が強く見られる。何千年前からあるのか分からないが、中国の新しい街よりも整備されてる感じがした。まず、臭いが少ない。中国は大都市でも汚物の臭いは当たり前。だが、リージャンの街は古いのにインフラが良いのか臭いがほとんどなく歩きやすい。昔の人達の街作りが素晴らしかったのだろう。リージャンは立派な観光地となっている。トンパ文字で印鑑を作ってもらったが、二件で自分の名前を作ってもらったが、全く違う絵文字だった。と言う事は、当て字になると分かったのだ。アルファベットの文字を日本の漢字で書くのと同じって事になる。印鑑はたいした金額ではなかったが、15年経った今でも大事に持っている。宿は部屋は良かったが、トイレとシャワーが同じなのは嫌だった。トイレの便器の上に、シャワーの蛇口がある。つまり、シャワーの排水は便器になる。リージャンの気候は冬へと向かっており、朝夕はかなり冷え込んできた。シャワーを浴びるのも寒かった。リージャンの街は小さいので2泊もすれば充分と判断して、直接バスで昆明へと帰った。


中国の旅30

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大理に来てから4日になった。自分も沈没者になってしまったのか。それとも、この街が気に入ってしまったのか。沈没者の人達とも仲良くなったが、普通の人だった。変人かと思ったが、特にごく普通の人達であった。仕事が嫌いで、お金がなくなったら日本に帰り、新聞配達や引っ越し屋で1年間働いて、3年以上は有意義に中国、インドなどで過ごしている人がいた。
確かに1年ガムシャラに日本で働けば、3年以上は楽に過ごせる。こんな生き方もあるんだなー。と感じた。
やはり、沈没者はマリファナにハマっている人が多かった。ただ、自分が大理に着いた時に、マリファナ所持で当局に連行された人がいたみたいで、ベランダで日中やるのは危ないと言われた。夜に部屋の中で、みんなやっていた。中国の公安なんかに捕まったら何されるか分からない。こんな場所からは早く出た方がいいなと思い、リージャンへバスで向かった。リージャンに着いた時は、大理で一緒の部屋だった3人でいた。宿も決めており、3人一部屋の値引きも出来た。この頃から旅に慣れてきた感じがした。


中国の旅29

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大理には日本人の沈没者が多いと聞いたが街中ではあんまり見かけなかった。宿近くの日本食に入ったら、日本人がかなりいた。この人達が沈没者なのかな?と思いながら、カツ丼を注文。待っている間に旅ノートなる物を発見。これは、バックパッカーが情報を載せたりしている履歴を残すノートであった。旅をしていると旅ノートを目にする事があるが、自分は初めての旅ノートを見た。結構面白くて、大理の話やら遠くはアフリカの情報まで載っていた。大理の沈没者がいる情報の意味を知ってはいたが詳しく書いてある文章を見つけた。ここ大理では、自然にマリファナが生えている。街中でも街外でも至る所にマリファナが生えている。それを目的に白人、日本人旅行者が多く集まる。質のいいのは、どこの門を出た所から、山に入るとマリファナだらけの所がある。なんて書き込みがあった。沈没者はタダで手に入るマリファナと宿が安いので留まってしまうのだろう。冬になると寒くなるので、南下してインドに行く人もいる。ノートを読みながら、出てきたカツ丼を食べた。日本人を相手にしているのか、日本人から作り方を教えてもらったのか分からないが美味しい!さらに沈没者が多い意味が分かったような気がした。食べ終わって、ぶらりと街中を歩いていると、マリファナらしい物を発見。こんな街中にうっそうと生えているのか!とビックリした。宿の前でパイプを売っていたのを思い出すと、なるほどねー。と思った。
2人で宿に戻り、またシャワーを浴びてゆっくりしていたら、突然ノックがした。宿のフロントの人だった。英語が堪能で、こちらのミスで部屋を間違えてしまいました。お客さんの部屋を案内しますのでバックを片付けて下さい。と言われた。やっぱりオカシイとは思ったが、早々にバックを片付けて部屋を移った。そこは4人部屋で、1人だけ男性の日本人がいた。
ベッドが4個、テーブル1個のシンプルな部屋でトイレとシャワーは共同。
3人とも同じような年だったせいか話が盛り上がり、フロントが部屋を間違えてた話をしたら、その人は一回見て見たかったと話していた。もう長いのか聞いてみると、まだ2泊しかしてないよ。と言う。この後にリージャンに行く予定だと言う。その夜は旅の話で盛り上がった。


中国の旅28

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大理に到着。古風な街並みで、日本で言う京都みたいな感じである。ここの街には日本人旅行者がたくさんいると聞いてきた。沈没者と呼ばれている人達も多い。沈没者とは長く同じ街にいて他に移動せずに留まっている人を指している。沈没者は、インドやネパールに多いらしいが、中国だと大理になる。早速、バスを降りたら宿の客引きが待っている。自分達は、日本人の多いとされる街中の宿に決めていたので、地図の通りに歩き宿にたどり着いた。フロントは安宿にしては立派なイメージがあり、早速1番安い部屋をリクエスト。空きがあるので、すぐに通された。部屋に入ると??ものすごく豪華でツインの部屋!シャワーもトイレも部屋に付いている。この街では二流くらいに入るんじゃないか?と言うほどの部屋だった。じゃあ、早速シャワーを浴びて、移動の疲れをフカフカのベッドで仮眠。2人で2時間くらい疲れを取って街へ繰り出した。街の1番大きい通りは配管工事で至る所に深い穴があった。落ちないように気をつけなければ足を怪我してしまう。中国では安全策を講じてる所が少ないので自分が気をつけなければならない。目抜き通りにはお土産屋など色々と目に入ってきて意外と歩いてるだけで楽しい。宿のレベルもバックパッカーには最高レベルだし、街並みも何か昔の日本みたいな所もあるし、沈没していくのが分かると思いながらウィンドウショッピングをしていた。宿の前に帰ってくると、ここの少数民族なんだろうか、ちょっとした土産物を路上で売っている。主にパイプが多い。タバコを吸うパイプなんか売れるのかな?と思い宿の近くにある日本食レストランに入った。


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