『SEE ME SMILING』試聴↓
◆『SEE ME SMILIMG』の歌詞の参照
自分を当たり前のように支えてくれていた人が、何かの理由で10年前に別れる事になってしまった。
今自分は幸せだけど、それはその人が居てくれたおかげだと思っている。
その感謝の気持ちを伝えたいけど、できない。幸せになれたから安心して欲しい、それも伝えたい。
その人が居てくれた事は、今も絶対に忘れないよ。そんな気持ちが伝わってくる曲です。
今日は何の日か、多くの方は頭に浮かぶものがあると思われます。
私は今、愛知県在住ですが、実家は関東の北部の茨城県です。また茨城でも北部の海沿いで、福島県にもそう遠くはありません。
震災当時は宮城県、岩手県で特に甚大な被害が出て、また福島県では原子力発電所が危機的な状況にあったため、報道はこの3県についてが大半を占めていたように記憶しています。
それはしかたのない事かもしれません。
でも、茨城県でも津波が来て被害の出た地域がありました。
また揺れがひどくて、高所作業中の方が転落して亡くなってしまったという事故もあったし、
道路が地割れしたり、ライフラインが寸断されたり、ガソリン不足とかも起きていたようです。
水戸の県庁庁舎にヒビが入ったり、
日本三大庭園の一つ、偕楽園の土手が崩れてしまったり。
子供の頃、偕楽園にはよく家族で梅のお花見に行っていたのでショックでした…。
県内の東海村には原子力発電所も抱えているし、実家は福島の原発と東海村の原発にちょうど挟まれた位置にあります。次にまた余震でも
大きなものが起こったらと思うと、どうなってしまうのだろうと心配です。
私はmixiで日記を書いていて…(このところはかなりご無沙汰ですが)
3年前に、今日起きた出来事について書いた日記をご紹介させて頂きたく思います。
日記タイトル:【行動するということ】
2011年03月15日00:17投稿 (東北関東大震災より4日目)
地震、ひどすぎて言葉になりません。
宮城県、福島県、岩手県、そして茨城県…
何か悪いことでもしたかって言いたいくらい、ただいつもどおりの暮らしをしていた人たちが、一瞬で亡くなってしまいました。
地震が発生したとされる14:46、
小学校に荷物を納品しに配達へ行った帰り道で、車を運転していました。
会社に着いてからも、次に事務所でやる仕事のことを考えていて、車から降りたら走っていたので全く気付かず。
でも、事務所から明らかにいつもとは違う声が聞こえてきてから、嫌な予感というか異変を感じた。
いつもはニコニコ顔の事務員のお姉さんが「まだ揺れてるよ!大きいし、長いし。ほら、ホワイトボードまだ揺れてる!」というのを聞いているうちに、営業さんがネットで調べていて「宮城県沖が震源でM8.8の大地震だって!大津波が来たって!!」「福島とか茨城も大きかったし、東京とか千葉も揺れたらしいよ」「こっち(愛知)にも影響があるくらいだし、相当大きいんじゃない!?」と言う声が聞こえてきた。
「M8.8って…。でも宮城が震源なんでしょ。茨城までそんなに影響があるのかな?(宮城県の方、申し訳ありません)」と思って、とりあえず普通に事務仕事を始めました。
でも自分では「現代の天才」だと思っている上司が来て、「早く実家に電話した方がいいよ!」と言われました。それで、とりあえず母親のケータイに電話してみました。
その時はすぐに繋がって、一番大きい第一波が終わったところのようでした。「ああびっくりした。家が潰れるかと思ったよ。怖くて外に出たんだけど、車もすごい揺れてたよ。屋根瓦が少し落ちたかも。鉢植えも倒れたみたいだし。向かいのお宅は、壁が少し崩れたみたい。今は家の中なんだけど、お皿とか散らかっちゃってるし片付けなくちゃ。」
「とりあえず無事だったんだね、良かった…。宮城が震源のM8.8の大地震らしいよ。」
「宮城が震源なんだ!ずいぶん大きかったよ。こっちは停電しちゃってて、さっぱり分からないんだ。」
一応仕事中だったし、とりあえず無事が確認できたので、その時はすぐに電話を切りました。それから5〜10分くらいして休憩時間になったので、ネットで調べだすと「茨城県北部、震度6強」がトップページにあり、「気仙沼、まるで地獄のよう」「東北地方太平洋側全域に大津波警報」といったわけの分からない見出しが並んでいた。そして「余震」の文字も…
そういえば、神戸の時(阪神淡路大震災)か新潟の時(新潟県中越沖地震)か、肝心の当事者である現地の人々が、
情報から遮断されてしまい、不安だったという話を聞いた記憶がある。
それで、今分かったことだけでも母親に教えようとまた電話しました。
「青森から福島まで大津波警報が出てるよ!うちも気をつけた方がいいと思う。それから余震も広範囲で起こってるって!しかも大きな余震だよ。確かに外の方が安全かもしれないけど、上から何か落ちてくるかもしれないし、本当に気をつけてね!」
「津波?そうなの?うちは高台だから大丈夫でしょ。」
「だって宮城には10メートルくらいの来たってよ!?やばいって!」
そうこう話しているうちに、受話器の向こうから私の語彙力では表現できない不気味な響きが聞こえてきた。
「うわ、また揺れてる!!また来た!」
「こっちにも聞こえてるよ!やっぱり余震来た!」
揺れは数秒でおさまったけど、どうしたらいいのか分からなくなった。とりあえず「仕事中だし、そろそろ切るね」と言って「こっちは何とか大丈夫だから。ありがとう。また何か分かったら連絡ちょうだい。」と言われて話が終わった。
それから夜になり、電話は全く繋がらなくなった。回線が込み合っているとかで、「プルルルルッ」ていう発信音が鳴る以前にアナウンスに繋がるという状態。
メールは送れるけど、果たしていつ届くのか分からない。
アパートに帰ってからは、一晩中、全チャンネルで繰り返される地震のニュースに釘付けになっていた。ひどすぎる…なんだこれ…
静かな地鳴りのようなものを引き連れながら迫り来る海水は、一瞬のうちにかさを増す。
重いはずの車を、オモチャのように軽々と浮かび上がらせて押し流す。
白い波頭が一直線になって家や田畑、全てを呑み込んでいく。その後から、噛み砕いたけど消化はできなかったみたいに、たくさんの木材を内包した真っ黒な濁流が押し寄せる。
父親に送ったメールがいつ返ってくるのか、それも待ちながら眠るに眠れない夜を過ごした。
次の日=3/12の朝、父親からの返信が来ていた。「2人とも大丈夫だよ。電気・水道はまだだめ。」発信時間が前日夜の22:30頃。やっぱりメールも届きにくいのかな?
でもとりあえず無事でよかった。
東北地方の被災された方々、本当に酷いことになってしまい、なんという言葉を口にするのも軽々しく感じてしまいます。でも自分はテレビに映る悲しそうな人たちを、気の毒に思うことしかできません。
両親の所へさえも、行くのはかなり難しそうな状況です。JR常磐線は取手〜仙台までストップして、茨城県内は全く動いていないみたい。
高速道路も常磐道が通行止めみたいだし。
東京からレンタカーで行っても、燃料がもたないだろうな…。
まだ電気・ガス・水道のライフラインが復旧してないみたいなのに。洗濯もできないだろうし、お風呂にも入れないし、食料だって長くはもたないと思う。夜は寒いかもしれない。
入院しているおばあちゃんは大丈夫かな?父親と母親が1日おきくらいに交代で付き添っていて、洗濯物がたくさん出るって言ってたのに。
着替え、ちゃんとできてるかな?不安になってないかな?
まだ信号がついてないかもしれないし、道路が地割れしてる所もあるかもしれない。ただ病院に行くというだけのことが、こんなにも危険なんて。
今は、ライフラインが一刻も早く回復することを祈るのみ…。
こんな時にと思われるかもしれませんが、自分が好きな物語に次のような解釈(でいいのかな?)がありました。
「希望とは感情ではない。選択である。絶望のまっただなかにあっても、わたしたちは進み続けることを選択することができる。それより偉大な希望はほかにない。」
希望は‘存在する’‘存在しない’と「思う」ものではなく、より良い方向へ「行動する」こと自体を指すということでしょうか?結果がまだ分からないのに、ダメだと決めて「行動しない」のが絶望?
読解力不足の私には理解することも、なおさら説明することも難しいですが、登場人物の「There's always hope.」という言葉が一番分かりやすく教えてくれるように思います。
−自分から諦めなければ、希望は常にある。
どんなに大変な事だって、きっと乗り越えられる。
たくさんの時間がかかるかもしれない。
でもより良い方向を目指して行けば、きっと明るい未来へ向かえる。
続く⇒ 願いをのせて -2- 『SEE ME SMILING』 by YELLOWCARD
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