あぃ あむ ひむか人 http://fanblogs.jp/takeharu0220/ 宮崎県の北部、ひむかエリアで生まれ、暮らす、地元大好き人間が、日々の仕事、暮らしの中で学んだこと、ひむかエリアの魅力などを発信します。 ja http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/19/0 「ひふみ祝詞」について 前回ブログ「猿田彦と庚申塔」で陰陽五行説のことを書きました。その補足を少しします。干支もそうですが、五行に関しても日本人にはすごく身近な存在というか、暮らしの中に自然と浸透している思想です。五行とは、木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)のことです。これに日と月を加えると、月、火、水、木、金、土、日。つまり1週間の曜日になります。また、前回のブログで、「干支」の組み合わせには陰と陽があり、十干では音読みの語尾の「え」が陽、「と」が陰になりますと書きました。「干.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-07-16T12:43:07+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/18/0 猿田彦と庚申塔 サルタヒコノカミ(猿田彦命)は、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が高千穂に降臨する際、道案内を務めたことから行路の安全を守る神、?道祖神?として祭られています。道祖神は路傍の神様で、集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀(まつ)られます。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されています。延岡市など宮崎県北部では特に、庚申(こうしん)塔に「猿田彦大神」と書いたものが散見されます。以前、祝子地区の庚申塔を調査した際には、大.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-07-12T15:15:49+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/17/0 「のぼりざる」と猿田彦神 「チキなん番長」と並ぶ延岡の2大マスコットキャラクターといえば、「のぼるくん」です。毎年秋に行われるイベント「のぼりざるフェスタ」のマスコットキャラクターで、江戸時代から伝わる「のぼりざる」(宮崎県伝統工芸品)がモデルになっています。この「のぼりざる」が、日向神話に登場するサルタヒコノカミ(猿田彦神)に由来する郷土玩具ということをご存じでしょうか?「のぼりざる」は約200年前、内藤時代の武士の妻たちの手内職として始められたとされていますが、その由来には幾つかの説があります。そ.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-07-11T13:03:57+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/16/0 チキン南蛮の日に寄せて2 延岡発祥チキン南蛮党はこれまで、あの手この手で発祥のまちをアピールしてきました。その中でも大きかったのがご当地グルメの祭典「B-1グランプリ」への出展でした。B-1グランプリは、愛Bリーグ(ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会)が主催する全国規模のご当地グルメイベントです。南蛮党は平成22年(2010)4月の愛Bリーグ総会で準会員として加盟が正式に承認されました。南蛮党の名称は、加盟時に「NAN BAN TRY」ではどこの街の何のグルメの団体が分からないと指摘されたことを受.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-07-09T11:30:32+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/15/0 チキン南蛮の日に寄せて1 チキン南蛮発祥のまちシンポジウムオープニング今日、7月8日は何の日がご存じですか? 延岡市民の皆さんはよーく知っていると思いますが、「チキン南蛮の日」なんです。7(なん)と8(ばん)の語呂合わせで平成21年(2009)に制定しました。延岡発祥チキン南蛮党(永野時彦代表)が毎年、この日に合わせ様々なイベントを開催しています。かわまち交流広場で7月6日には「ちきなんピック」?チキン南蛮愛選手権?が開催され、本日は北方学園小学校でチキン南蛮授業が行われています。2年前には、記念日登.. 宮崎、延岡、チキン南蛮、ご当地グルメ、延岡発祥、 ばばかずひさ 2019-07-08T10:37:37+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/14/0 日向神話の本舞台13  天孫降臨と新興の母 日向神話研究会副会長の杉本隆晴さんは、宮崎県北の日向神話の聖蹟を語る上で最も重要なのが、笠沙の岬(笠沙山=愛宕山)だと話されます。笠沙の岬が延岡にあることで、ニニギノミコトが天孫降臨した西臼杵高千穂から、亡くなって埋葬された北川町俵野の御陵墓に至るストーリーの信憑性が高まってきます。愛宕山が今日まで江戸時代と同じ?笠沙山?の名称だったとしたら、明治政府が日向三代神陵を鹿児島県内に比定した時や、その後の日向神話の聖蹟を巡る論争もかなり様相が変わっていたかもしれません。愛宕神社は.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-07-05T11:46:26+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/13/0 日向神話の本舞台12 神武東征 神武天皇の東征出発日向神話のフィナーレを飾る人物が、カムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)、後の初代天皇・神武天皇になる人です。ニニギノミコトの孫に当たるウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)とタマヨリビメ(玉依姫)の間に生まれた4人の皇子の一番下の皇子です。記紀によると、イワレビコノミコトは45歳の時、吾田邑の高千穂の宮で、兄のイツセノミコト(五瀬命)らと「葦原中国(日本)を治めるにはどこにいくのが適当か」と相談しました。そしてシオツチノオジ(塩土老翁)から聞.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-07-04T14:20:01+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/12/0 日向神話の本舞台11 伊勢は日向の「伊勢」?天孫降臨に際し、ニニギノミコトの一行を先導したのがサルタヒコノカミ(猿田彦神)です。サルタヒコノカミは役目を果たした後、アメノウズメノミコト(天鈿女命)を伴い、「伊勢之狭長田五十鈴川上」(日本書紀)に向かったとされています。通説では、その場所が三重県伊勢市とされています。ご存じのように、伊勢市にはアマテラスオオミカミ(天照大神)をお祀りする伊勢神宮があります。その近くには五十鈴川が流れています。しかし、降臨した高千穂が西臼杵郡の高千穂であり、笠沙の岬や御.. 神話、日向神話、延岡、笠沙 ばばかずひさ 2019-07-03T13:34:29+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/11/0 日向神話の本舞台10 ニニギノミコトと西郷隆盛の「時空を超えた出会い」昨年のNHKの大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では、終盤の第46話と第47話(最終回)に延岡が登場し、大きな話題となりました。その舞台となったのが、北川町俵野にある「西郷隆盛宿陣跡資料館」(県史跡・西郷南洲翁寓居跡)です。明治10年(1877)8月15日、国内最後の内戦となった「西南の役」で西郷隆盛率いる薩摩軍と政府軍は、延岡市の和田越で最後の激戦を繰り広げましたが、薩摩軍は善戦むなしく敗れました。敗れた西郷が宿陣したのが旧児.. 神話、日向神話、延岡、笠沙 ばばかずひさ 2019-07-02T10:47:02+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/10/0 日向神話の本舞台9 可愛山陵はどこか延岡市北川町にある可愛岳(えのたけ、727メートル)の頂上付近に鎮座する「鉾岩」を見たのは、2010年11月3日に地元が主催して開いた登山会が最初でした。高千穂に降臨した天孫・ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が笠沙の岬でコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる3人の子供たちが生まれます。しかし、永遠の命の象徴だった姉のイワナガヒメ(石長比売)を送り返したことで、天つ神に寿命ができました。ニニギノミコトに死が与え.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-07-01T11:40:10+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/9/0 日向神話の本舞台8 今回は延岡市内の町名と、前々回書き切れなかった一部の川の名称について紹介します。「安賀多(あがた)」は、延岡が縣(吾田、英田)だった名残です。安賀多町のほか、古川町には「安賀多神社」があります。愛宕山の南側に当たる「片田(かただ)」は、愛宕山の旧名「笠沙(かささ)山」が転じたものとされています。「小野(この)」は、笠沙の姫・コノハナサクヤヒメにちなむ地名と思われます(私見です)。「三輪(みわ)」は、スサノオノミコト(須佐之男命)の6世孫に当たるオオクニヌシノカミ(大国主神、オ.. 神話、日向神話、延岡、笠沙 ばばかずひさ 2019-06-28T11:54:15+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/8/0 日向神話の本舞台7 延岡の地名、名称に関する話の続きを書こうと思いましたが、Facebookの方に延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから「笠沙の岬」に関するコメントをいただきましたので、ご紹介します。??「愛宕山は江戸時代のはじめまで『笠沙の岬』と呼ばれていたと言いますが、一般的にはほとんど知られていなかったようですね。戦後初めて高千穂論争に手をつけた安本美典でさえ『瓊瓊杵の尊は、笠沙の地に至ったことになっているが延岡方面には、笠沙に当たる地を求めにくいようである』と『邪馬台国はその後ど.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-06-27T13:37:08+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/7/0 日向神話の本舞台6 地名・名称について 日本神話にちなんだ地名・名称「笠沙山(笠沙の岬)」以外にも、日本神話にちなんだ地名、名称が延岡にはたくさんあります。まず川の名前です。「大瀬川」が「逢瀬川」だったことは前回紹介しました。「五ヶ瀬川」もウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)とタマヨリビメ(玉依毘売)との間に生まれた4人の皇子の長兄・イツセノミコト(五瀬命)の名前にちなんで「五ツ瀬川」と名付けられていたようです。一番下の弟がカムラヤマイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)、後の神武天皇です。何度か紹介する江戸.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-06-26T11:44:20+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/6/0 日向神話の本舞台5 笠沙の岬2 「笠沙の岬はどこか?」の続きです。「古事記」や「日本書紀」になじみのない人に、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)とコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)の出逢いの話をかいつまんで紹介します。ある日、ニニギノミコトは笠沙の岬で、麗しい美人に出逢い、一目で恋に落ちてしまいます。ニニギノミコトが「あなたは誰の娘か」と尋ねると、「オオヤマツミノカミ(大山津見神、大山祇神)の娘で、コノハナサクヤヒメと申します」と答え、続けてニニギノミコトが兄弟について尋ねると「姉のイワナ.. (カテゴリなし) ばばかずひさ 2019-06-25T11:15:59+09:00 http://fanblogs.jp/takeharu0220/archive/5/0 日向神話の本舞台4  私は延岡市大貫町、それも大瀬川畔の集落に生まれ、育ちました。 実家に隣接した堤防に上がれば、眼下に大瀬川、その先に愛宕山を望むことができます。今も変わることのない原風景がそこにあります。 しかし、その大瀬川がかつて「逢瀬川」と呼ばれ、愛宕山は「笠沙山」と呼ばれていたと知ったのは10数年ほど前のことです。そして今は、その「笠沙山」の存在が、日向神話を語る上でいかに重要かを痛感しています。 ご存じのように、笠沙の岬は高千穂に天孫降臨したニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が伴侶.. 神話、日向神話、延岡、笠沙 ばばかずひさ 2019-06-24T10:41:36+09:00
Build a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: