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働き方改革の一環として耳目を集めるリモートワーク。在宅勤務に切り替えることが珍しくなくなった昨今だが、私もその1人だ。1年経ってようやく新しい日課に慣れてきた今、毎日絶対に欠かせないのは、朝の散歩。熱々のカフェラテを入手すべく、あえて家から少し離れたお店まで歩いて、30分ほどで戻ってくるというのがお決まりコースだが、こうした穏やかな日々を過ごしている中、意外な発見があった。
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持ち帰り用のカップを片手に周りを見渡すと、景色の一角がふと目にとまる。澄み渡った空に浮かび上がるアイコニックな輪郭、白い山頂……。そう、わが家の近くの高台から富士山がくっきりと見えるのだ。
引っ越してきてからすでに3年が経過しているというのに、最近までその絶景スポットを完全に見逃していた。わざわざ坂を上らないとわからないし、曇っていると見えないし、見落とすのも無理もない。とはいえ、この辺りに暮らす人々はきっと誰でもそれに気づいているはずだ。日本人はみんな富士山が大好きだもの。
畏れられると同時に、敬われてきた山。人間の日々の営みを静かに見守り続ける、変わらぬ存在でありながら、活火山である以上、つねに変化の可能性を秘めて、恐ろしくても尊い。富士山というのは日本の象徴の1つであり、日本人の感性に深く根付いているものだとも言える。
富士山から噴き上がる煙は人々の悲しみ
ところが、その見慣れた形はずっと同じかと思うと、実はそうでもない。まず、平安初期の貞観大噴火で姿ががらりと変わり、その次は江戸中期に再び大規模な噴火があって、さらに変化したそうだ。そう考えると、空を見上げていた古代人は、私たちが見ているものとまったく違う形をしたものを見ていたのかもしれない。
『万葉集』に収められている歌には、恋焦がれた人々の悲しみは富士山から噴き上がる煙に例えられることが多く、そのイメージこそが当時の活発な活動を物語っている。さらに、葛飾北斎による「富嶽三十六景」をはじめ、浮世絵の人気題材の1つにもなり、「神奈川沖浪裏」の非現実的なプロポーションは安っぽいお土産にまで反復され、海外でも知りわたることになった。
こうして数知れずの作品に起用されてきた、超VIPな富士山は、現存している最古の物語にも堂々と登場している。最後に、ドーンと。いうまでもなく、それはかの有名な『竹取物語』である。
日本人は誰でも無性に富士山に惹かれるのと同じように、『竹取物語』にも不思議な引力を感じるようで、どんなに古典文学に疎い読者でも知らない人はいないといってもいい。富士山が取り上げられているから魅力的に思えるのか、それともその逆なのかは定かでないが、とにかくその関係は切っても切れないようなものである。
帝と文通を続けるかぐや姫にお迎えが
さて、かぐや姫はしつこくつきまとっていた5人の求婚者に無理な難題を課し、1人ひとりを破滅に追い込むが、それでもなお彼女の稀有な美貌と気高さが話題を呼び、その噂はなんと国のトップである帝の耳にまで届いてしまう。そして、手に入れられないものこそ欲しくなるという心理が働き、彼は断られても猛アプローチを続ける。
ところが、かぐや姫がどんな立派な求婚者であろうと頑なに結婚を拒否し続けるのは、気まぐれでわがままな性格のせいだけではない。ある罪を償うために地球に落とされた彼女は、月の都の出身であり、人間との恋を禁じられていたのだ。
とはいえ、相手が帝ともなると、ほかの男たちと同じようなぞんざいな扱いはさすがにできないので、文通を通じて関係を保ち、少しずつ2人の距離が近くなっていく。しかし、残念ながらロマンスは成就しない。やがて天人の迎えがきて、かぐや姫を好いている人々がどんなに抵抗しようとも、彼女の地球での滞在にあっけなく終止符が打たれるのだ。
いまはとて天の羽衣着る折ぞ君をあはれと思ひ出でける
とて、壺の薬添へて、頭中将を呼び寄せて奉らす。中将に、天人取りて伝ふ。中将取りつれば、ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて百人ばかり天人具して昇りぬ。
【イザ流圧倒的訳】
「今は、これまでと思って、天の羽衣を着るのですが、改めて貴方の気持ちを思い知ったわ」
という歌で手紙を締めくくり、それを薬の入った壺に添えて、頭中将に頼んで帝に渡してもらう。頭中将には天人が取り次いで渡す。それが終わると、天人はかぐや姫にすぐ羽衣を着せて、その瞬間に爺さんを愛おしく思う気持ちがきれいさっぱりなくなる。この羽衣を着たかぐや姫はすべてを忘れて、車に乗って、100人ほどの天人を引き連れて、空に昇っていくのだ。
人間界で過ごした時間の記憶を完全に失い、空へと飛んでいくかぐや姫、そのイメージは実に詩的で美しい。彼女が帝に宛てた別れの歌には、「あはれ」という平安文学のキーワードの1つがさりげなく採用されているけれど、そのしみじみと湧き上がってくる気持ちこそが、姫の人間としての成長を表している。以前の、結婚を冷たく拒絶する女性とまるで別人になっており、記憶を消す羽衣を着ないかぎり、彼女は天人に戻れなくなったほどである。
悲しい場面なのになぜかシュールで滑稽
われわれ人間の愛は本当に深いものだな、と読みながら目がうるみそうになるが、お茶目で有名な、『竹取物語』の名もなき作者は、この感動の1コマまで見事にふざけてみせる。
心のこもった手紙をしたためて、不死の薬を入れた壺を準備したかぐや姫は、それを天人に渡して、天人は頭中将に渡して、頭中将が後に帝に献上するために預かるというリレーを想像してみると、なかなかシュールな絵である。姫や爺さんは、すぐそこに迫ってきている永遠の別れに苦しみ、悲しい涙で袖を濡らしている横で、餞別の品を律儀に手渡している人々がせわしなく動き回るさまは滑稽だ。
そして、その一連の動作が済むなり、天人は急いでかぐや姫に羽衣を着せて、100人ほどの集団がぞろぞろと飛んでいくが、その短くて端的な描写からは物事が素早いスピードに進んでいることが伝わってくる。近くからみたら涙ぐましい場面である反面、一歩を引いてその一部始終を俯瞰してみると、どことなくコミカルな仕上がりになっており、駄洒落好きな作者の独特なタッチが感じられる。
もしも違う作者だったら、『竹取物語』はこのシーンで終わっていたのかもしれない。ストーリー自体は完成しているし、人間の愛は天人まで変えられるほど強いものだという教訓もばっちり入っているし、まさに笑いあり、涙ありの感動のドラマになっている。しかし、『竹取物語』を創造した作者は、いつも期待以上のことをやってのけるので、最後もさらなる努力をして、才筆を振るう。
周知の通り、『竹取物語』に酷似した話は『今昔物語集』にも含まれており、それ以外にも同じようなモチーフを用いた説話が数多く存在していたと思われる。しかし、全部は残されているわけではないので、正確に比較するのは難しいものの、それらの先行文学は似ているとはいえ、やはり『竹取物語』では必ず何かが足されている。
3人の求婚者が5人に増えたり、帝まで出演したり、前世の罪という謎がちらついたり……プロットのどの部分においても作者は何かしらの新しいコンテンツに挑戦している。最後の「ポストかぐや姫」の話もまさにそのようなオリジナリティのたまものである。
愛娘と会えなくなった爺さんと婆さんは悲しみに暮れ、生きる元気を失いつつある。その一方、頭中将は派遣されていた大勢の兵士を引き揚げて、宮廷に戻り、かぐや姫を引き留めることができなかったと帝に報告し、預かった品を献上する。そして、愛する女性の置手紙を読んで涙を流し、奈落の底に突き落とされた帝は、一番高い山はどこだと尋ねる。
あふことも涙に浮かぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ
かの奉る不死の薬に、また、壺具して御使ひに賜はす。勅使には、調石笠といふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂に持てつくべき由仰せ給ふ。峰にてすべきやう教へさせ給ふ。御文、不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべき由仰せ給ふ。その由承りて、兵どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名付けける。その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ言ひ伝へたる。
【イザ流圧倒的訳】
「もう貴女に会うこともできない、涙に溺れている私には、不死の薬なんぞ意味あるのか……否、ない…」と言って、帝はもらった壺と手紙をお使いに渡した。調石笠という人を呼んでもらい、それらのものを渡して、駿河の国にある山に持っていくように命じた。山頂に上がって全部燃やすように指示したのだ。その命令を受けた調石笠は、大勢の兵士を連れて、山に登ったので、それによってその山は「富士の山(士に富む山)」と名付けられた。その煙は今でも雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。
月の世界と人間界の「対比」より鮮やかに
『竹取物語』はこうして、煙をまき散らす富士山のイメージで締めくくられる。これもまた葉書のごとく美しく描かれたシーンであると同時に、軽快な語り口でサクッと読める場面でもある。
本来であれば誰もが欲しがる不老不死の薬だが、絶望のどん底に突き落とされた帝はそれを処分することを決心。このかぎりでは、愛を失った帝は老いて死にゆく人間界の一員に過ぎず、最高の権力者でありながらも、娘を攫わられた爺さんと婆さんと立場がまったく同じだ。
そして、死と老いを知らない月の都とそれを定められている地上、物語に出てくるその2つの世界は、薬が燃やされることによってより一層あざやかに対比するものとして語られ、その根本的な違いがさらに強調される。
その儀式が行われた神聖なる場所、天と地をつなぐ神秘的な山の名前は、「不死」からくるのではないかな……とここまで読んで早とちりしそうになるが、作者はその期待を裏切る感じでまったく違う語源を提示してみせる。
『竹取物語』のフィナーレは一見、以前にもあった地名起源譚を彷彿させるスタイルになっているものの、その内容は完全にでたらめだ。しかし、語源の信ぴょう性はどの読者でも判断ができたはずなので、作者は騙す目的でそれを選んでいるのではなく、嘘であることを自覚した上で書いている。虚構性こそが「物語」の醍醐味だということを教えたかったのだろう。
しかも、その語源は嘘ばかりではなく、さまざまな意味を持つと考えられ、物語の可能性をさらに広げているものでもある。文中に紹介されている「士に富む山」という説以外、煙が絶えず立ち上る、つまり「不尽」という意味にもかかっていると指摘されている。
その2つのインチキな語源から得られるイメージを組み合わせてみると、山頂から上っていく煙は実を結ばなかった切なくて、儚(はかな)い恋を象徴していると同時に、多くの兵士を動員してもかぐや姫を引きとめることができず、水の泡になってしまったその努力の滑稽さを表している。心の琴線に触れる、絶望的な悲しさと笑いを誘う洒落、「不尽/富士」という同音異義語による言葉遊びにはその両方の意味が隠されているわけである。
「富士山」という言葉が物語の解釈を豊かにする
従来の地名起源譚の中でも、信ぴょう性に乏しい、かなりぶっ飛んだ話が散見されるが、それらの作品と『竹取物語』とは2つの決定的な違いがある。
まず、地名起源譚や風土記の編集に携わった著者たちは、どんな変な話だろうと、それは事実だと信じて疑わなかった。そして、真実を伝えているという前提になっているが故に、地名とその語源は必ず一対一で結びついている。しかし、「富士山」の話は違う。その言葉からさまざまな意味が生まれ、その1つひとつは物語の違う解釈に私たちを誘導する。
ここまでくると、「富士山」の本当の語源はなんだろうと調べたくなるかもしれない。しかし、私はやはり『竹取物語』の作者がでっち上げてくれたもので満足している。不老不死の薬を手に入れる可能性を失った人間の運命、愛を返してくれない人を想う悲しさ、意味もなく働き回る毎日、そのようなことを考えて想像をめぐらし、熱々のカフェラテを啜りながら、富士山が見えるかなとワクワクして今日の朝も歩いている。
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