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2020年09月17日

早乙女のレベルが低すぎる件について


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早乙女 求めるのは、ただ一つの真実。


「富士は白雪、男は度胸、年に一度の、東映一家の
勢揃い」東映カラー大作昭和35年の正月映画が
「仁侠中仙道」のキャチ、フレーズである、かつて東映に
は日本映画界の興業収入の半分は東映が頂くと言う豪語
していた大川博社長が言っていた一時期があった、事実
観客動員数は日本映画史上ピークを示し東映は邦画全体の
興業収入の3分の1を占めたのだった
市川右大衛門、片岡千恵蔵の両看板スターの対決こそ
まさに時代の象徴だった、なにしろ此の作品は片岡千恵蔵
の清水の次郎長、市川右大衛門の国定忠治と言うのだから
凄いあの時の撮影風景が今でもありありと頭に焼き付いて
いる両御大が画面の左右いっぱいに対決にらみ合い
互いにドスのきいた低い声でやりあうのだ「清水の。。」
と右大衛門が息を吐けば「。、国定の」と千恵蔵が息を吸
うプラス、マイナス帳尻は完全に合致してぞくぞくする
ような圧巻のシーンであった。此の欄で何度か山の御大
の記事を書いて来ましたが千恵蔵御大の麻雀好きの話を
一つ面白い忘れられない想い出を書いてみたいと思う
昭和30年代中頃東京は明治座で東映歌舞伎の舞台公演を
毎年一度おこなっていた二人は東映城を背負って立った
大スターであったが、それぞれの個性が違っていた例えば
北の御大が殿様的ならば、山の御大は庶民的とも言える
これも広く知られていることだが無類の麻雀好きで
舞台出演の時でも映画撮影の時でも少しの暇があれば
麻雀を楽しんでおられた明治座公演の時も舞台出番のギリ
ギリまでとか撮影の始まるギリギリまでも打っていた
勝負のつかない時などは千恵蔵御大の権力で麻雀終わり
待ち、なんてことはざらであった、あれは東映歌舞伎
旗揚げ公演が明治座であった時ファンの要望にこたえて
千恵蔵、右大衛門の両御大の対決の見せ場の舞台があった
右大衛門御大は何事も早目、早目に準備する方で出番前は
ゆとりを持って舞台に出る、ふと見ると千恵蔵御大の姿が
ない、例によってグァッと大きな目玉をむいて周囲を
ギョロリ見渡すがやはり千恵蔵御大の姿がない
一方千恵蔵御大は何時も通り麻雀台を囲んでおられた
弟子が慌てて「先生そろそろ出番です」と知らせても
「まだいいだろう、もう少しいいだろう次がリーチなんだ
うっふっふ」てな調子であった、そうなると弟子がハラ
ハラし始め「せ、先生、先生の出の鳴り物が鳴っています
北の先生が舞台で待っております」千恵蔵御大は慌てて
「ヒィ、本当かい」山の御大は衣装は着けていたから
良かったもののカツラを着けていなかった、急いでカツラ
を着けていきなり舞台へ飛び出した、一旦舞台に出てし
まえば其処はそれ御大はドスのきいた声で
「ヒィ。江戸の 早乙女 殿か」とセリフを言い出した
待たされていた北の御大がふと見ると山の御大が楽屋の
スリッパをはいたままだったではないか、北の御大が
何くわぬ顔をして小さな声で「くぁ、千恵さん」相手の
足元に視線を送る、何事ぞとばかりに足元を見た山の御大
「ヒィ。かたじけない」「クァ、パイもほどほどに」
「ヒィ、しかと」勿論此の低い会話は客席にはわからない
両雄が芝居で睨み合っているものとばかり思っているから
客席から「松島屋」、「高島屋」とあっちこっちから
感動の掛け声が掛かっていたのである
さすが貫禄山の御大がスリッパを履き替えた事もカツラが
斜めに傾いていた事も観客はまったく気ずいていなかった
山の御大はこの様な方だから普段の格好など砕けたもので
何時も頭髪などはバサバサでノーネクタイのざっくばらん
なスタイルで撮影所入りする、そして誰にも「オッス
オッス」と気軽に手をふって歩かれていた。事を思い出す

早乙女を集めたよ!


「富士は白雪、男は度胸、年に一度の、東映一家の
勢揃い」東映カラー大作昭和35年の正月映画が
「仁侠中仙道」のキャチ、フレーズである、かつて東映に
は日本映画界の興業収入の半分は東映が頂くと言う豪語
していた大川博社長が言っていた一時期があった、事実
観客動員数は日本映画史上ピークを示し東映は邦画全体の
興業収入の3分の1を占めたのだった
市川右大衛門、片岡千恵蔵の両看板スターの対決こそ
まさに時代の象徴だった、なにしろ此の作品は片岡千恵蔵
の清水の次郎長、市川右大衛門の国定忠治と言うのだから
凄いあの時の撮影風景が今でもありありと頭に焼き付いて
いる両御大が画面の左右いっぱいに対決にらみ合い
互いにドスのきいた低い声でやりあうのだ「清水の。。」
と右大衛門が息を吐けば「。、国定の」と千恵蔵が息を吸
うプラス、マイナス帳尻は完全に合致してぞくぞくする
ような圧巻のシーンであった。此の欄で何度か山の御大
の記事を書いて来ましたが千恵蔵御大の麻雀好きの話を
一つ面白い忘れられない想い出を書いてみたいと思う
昭和30年代中頃東京は明治座で東映歌舞伎の舞台公演を
毎年一度おこなっていた二人は東映城を背負って立った
大スターであったが、それぞれの個性が違っていた例えば
北の御大が殿様的ならば、山の御大は庶民的とも言える
これも広く知られていることだが無類の麻雀好きで
舞台出演の時でも映画撮影の時でも少しの暇があれば
麻雀を楽しんでおられた明治座公演の時も舞台出番のギリ
ギリまでとか撮影の始まるギリギリまでも打っていた
勝負のつかない時などは千恵蔵御大の権力で麻雀終わり
待ち、なんてことはざらであった、あれは東映歌舞伎
旗揚げ公演が明治座であった時ファンの要望にこたえて
千恵蔵、右大衛門の両御大の対決の見せ場の舞台があった
右大衛門御大は何事も早目、早目に準備する方で出番前は
ゆとりを持って舞台に出る、ふと見ると千恵蔵御大の姿が
ない、例によってグァッと大きな目玉をむいて周囲を
ギョロリ見渡すがやはり千恵蔵御大の姿がない
一方千恵蔵御大は何時も通り麻雀台を囲んでおられた
弟子が慌てて「先生そろそろ出番です」と知らせても
「まだいいだろう、もう少しいいだろう次がリーチなんだ
うっふっふ」てな調子であった、そうなると弟子がハラ
ハラし始め「せ、先生、先生の出の鳴り物が鳴っています
北の先生が舞台で待っております」千恵蔵御大は慌てて
「ヒィ、本当かい」山の御大は衣装は着けていたから
良かったもののカツラを着けていなかった、急いでカツラ
を着けていきなり舞台へ飛び出した、一旦舞台に出てし
まえば其処はそれ御大はドスのきいた声で
「ヒィ。江戸の 早乙女 殿か」とセリフを言い出した
待たされていた北の御大がふと見ると山の御大が楽屋の
スリッパをはいたままだったではないか、北の御大が
何くわぬ顔をして小さな声で「くぁ、千恵さん」相手の
足元に視線を送る、何事ぞとばかりに足元を見た山の御大
「ヒィ。かたじけない」「クァ、パイもほどほどに」
「ヒィ、しかと」勿論此の低い会話は客席にはわからない
両雄が芝居で睨み合っているものとばかり思っているから
客席から「松島屋」、「高島屋」とあっちこっちから
感動の掛け声が掛かっていたのである
さすが貫禄山の御大がスリッパを履き替えた事もカツラが
斜めに傾いていた事も観客はまったく気ずいていなかった
山の御大はこの様な方だから普段の格好など砕けたもので
何時も頭髪などはバサバサでノーネクタイのざっくばらん
なスタイルで撮影所入りする、そして誰にも「オッス
オッス」と気軽に手をふって歩かれていた。事を思い出す
タグ: 早乙女
posted by umaiosetidayo at 08:04| 日記
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