5月10日(巡礼40日目)Santiago de Compostela
「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂
Santiago de Compostela Cathedral」
昨日サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着してから、生まれて初めて身体が痛みを実感したかのように足の裏が痛み出した。それまで歩けていたのが不思議なくらい、何かに掴まらなくては悲鳴をあげてしまいそうなほど、歩くたびに足の裏に激痛が走った。
サンティアゴに到着するまでは…と気を張っていたのが到着した途端緩んで、正常な感覚が戻ってきたみたいだ。
ということで、一日ゆっくりと休養を取り、翌11日にフィステーラへ行くことにして、今日は正午からのミサに参加した。昨日は外から眺めただけだった大聖堂の中へ、初めて足を踏み入れた。
横の扉から入った大聖堂は、思ったほど大きくはなかったが、薄暗く荘厳な静けさに包まれていた。名前までは知らないが、歩き始めた頃確かにどこかで会っている何人かの懐かしい顔が私に気付いて手を振ってくれた。
到着したその日に大聖堂に入らないなんておかしい、と思うかもしれないが、それほど初めて見たこの大聖堂は神々しく、クリスチャンでない私には場違いに見えた。
だから到着後はまず、聖堂の隣りにある巡礼証明書の発行所(現在は少し離れた場所に移動した)の列に並んで証明書をゲットし、旅の友である重いバックパックをついに下ろすために旧市街の入り口に位置するオスタルへと戻ったのだった。
今まで数えきれないほどの巡礼者に抱きつかれ、撫でられ、すっかり黒ずんだ聖ヤコブ像の後ろ姿を目前にして、私はその肩にそっと触れることしかできなかった。
泣いている人も多い中、クリスチャンではない自分なので遠慮してしまったのかもしれない。この時の心境はあまり覚えていないのだが、心の中でここまで無事に導いてくれた”大いなるもの”への感謝を唱えていたと思う。
巡礼を完遂できるとは思っていなかった。途中で挫けて「もうやだ」と諦めて放り出すのがオチだと、どこかで自分を甘く見ていた。
けれど、この飽きっぽい私が重い荷物を背負って40日間歩き続け、ついに目的地に到達した。自分の足だけで、パンプローナからこのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、スペインを横断して歩いてきたのだ。
スペインで巡礼をしようと思うと話したとき、ほとんどの友人は耳を疑った。
列車かバスで、だと思っていた友人も多い。だめだと思ったら無理せずやめていいんだよ、と優しく言う友人もいた。トレッキングやハイキングなんて、インドア派の私とは最もかけ離れた行動だよね、とやんわりと「無理でしょ」と諭そうとする友人もいた。何の知識もなく一人でスペインを歩いて旅するなんて危険だと心配する現実的な友人ももちろんいた。
それでも私は無事にやり遂げた。
これはほとんど奇跡と言っていい。
聖ヤコブが奇跡を起こしてくれたことに、私は心の中でお礼を言いたかったのかもしれない。
本当にやりたい、と思ったらできないことなんかない、と教えてくれたことに。
5月11日(巡礼41日目)Santiago de Conpostela サンティアゴ・デ・コンポステラ 〜 Finisterre フィニステレ (85km / Bus)
「地の果て、フィニステレ The edge of the earth, Finisterre 」
フィニステレ(ガリシア語だとフィステーラ)は、サンティアゴ・デ・コンポステラから更に85キロのスペイン最西端にある岬(ヨーロッパの最西端はポルトガルのロカ岬)で、「地の果て」という意味を持つ。
中世の時代、ここが生と死の境目だと考えていた人々は、巡礼の終わりに海に入って体を清め、身に着けていた衣服を燃やし、西の果てに沈む太陽を眺めて、古い自分に別れを告げたという。
サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着いた後も、フィニステレまで歩く巡礼者は今も多い。しかし、私は普通の歩行でさえ困難なほど限界だったので、この禊の場所をバスで訪れた。
フィニステレは、この先にアメリカ大陸があるのだ、と強く実感させる美しい岬だった。
日の出、もしくは夕陽が沈む時間に合わせて訪れる巡礼者が多いらしいが、私は日帰りでサンティアゴに戻る最終バスの時間までに街に戻らなければならなかったので、ピーカンの青空の下、さらに青い明るい海を見下ろすこととなった。
本当に、呆気ないほど、よく晴れた日だった。
夕暮れ時の方が、巡礼を振り返って自分の心の変化やこみあげてくるものを感じるのには雰囲気が出るのでは…と思う。
メリデでスニーカーを購入したけれど、バルで借りたボンドで応急処置したトレッキング・シューズが何とか最後までもってくれそうだったので、真新しいスニーカーは緊急用にリュックにぶらさげて歩いていた。
中世の時代のように巡礼中の衣服を燃やすことは今は禁じられているが、やはり何か記念に置いて行く巡礼者はまだ後を絶たないようで(私も含めて)…バンダナやらTシャツやらが近辺の鉄柱に括り付けられていたりした。
身に着けていた衣服を燃やして古い自分に別れを告げる。
そんな生まれ変わったような感覚はなかったけれど、強い風に髪をなぶられながらも崖の上に立って、私は旅の始まりに想いを馳せた。
東日本大震災の被災者への追悼、そして両親への贖罪のつもりで巡礼路を歩き始めた。
この40日間、両親は私とともに歩いていた。私を見守りながら。いつも、一人じゃないよ、愛しているよとサインを送りながら。
あんなに冷酷な娘だったのに、一緒に歩いて、常に私を見守ってくれた。
果てしなく広がる海を見ながら衣服を燃やしはしなかったけれど、両親にずっと一緒に歩いてくれてありがとう、と呟いた。その時、両親の死に対して抱いていた罪の意識も捨てた。
感謝の気持ちで涙が出た。
父の死後、自分を責め続けた日々だった。愛情が薄く冷酷だった私を、父は恨みながら死んだに違いないと思って自分を責め続けてきたけれど、今は私はできるだけのことをしたと思える。だから父も今は母と一緒に天国で私を見守ってくれている、と感じることができた。
私が生まれ変わって新しい人生に踏み出せるように、半年もの長い時間とその費用を与えてくれた父と母。今は肉体がこの世になくても、生きていた頃以上の愛で、私を見守ってくれている天界の住人達…。
巡礼中、両親の見えざるサポートを感じるたびに両親との思い出が心に浮かんだ。
「大好きな家族」だと思ったことは一度もなかったけれど、間違いなく私は両親の深い愛情によって安全に育てられた。愛情の形は別として、私には育ててもらった恩がある。
何不自由なく、大切に育てられたことは間違いない。なんて恵まれた子供時代だったことだろう。
生きているうちにその恩を返せなくてごめんなさい。
私が幸せになることでしか、この恩は返せない、と海を眺めながら思った。
日々、今ここに生きていることに感謝し、幸せでいることが、最も両親が望んでいることだと。
巡礼で出会い、お互い励まし合いながら歩いてきた人々、そしてこの旅を陰ながらサポートしてくれた日本の友人たちの温かい優しさに包まれて、私はこうして生きている。
私はけしてひとりじゃない。
この旅を完遂したことで、自信に満ちていた子供の頃のように、私は自分への信頼を取り戻した。
自分が「やる」と決めれば、できないことなんかない。
挫けそうになったこともあった。途中でやめたいとも、何度も思った。
それでも何とか、私はやり遂げた。
誰もが無理だと思い、自分でさえ自信のなかったこの巡礼を、私は一人で歩ききった。
自分がやりたいと思うことができる。それがいかに幸せなことかに気付いた。
今私は感謝の気持ちでいっぱいだ。ありがとう、と全ての人に言いたい。
私は今幸せです、と。
★2018年の北の道巡礼記事は こちら へ。
Articles of The Camino Del Norte in 2018 is here (written in English jointly).
★世界一周旅の続き(Vigo & Port)は こちら へ。