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尖閣問題(中国名、釣魚島デャオユダオ)もなんのその


 前回更新からほぼ一年ぶりの更新となってしまいましたが、私ダイキチは今日も中国・杭州の濱江にて彼女、その姉、姉の夫、夫の母、姉夫婦の子供(ヤヤ、上の写真の子です)と一緒に生活をしております。

 本日10月10日の中国・杭州は、雲ひとつない見事な晴天だった。
 僕は午前中の仕事を終えて、自分の部屋に戻ると彼女から頼まれていた米の買出しに行くため服を着替えた。姉夫婦は仕事に出ているだが、彼らの部屋のドアが閉まっていた(通常、我々の部屋のドアは欧米のトイレと同じで誰もいないときには開け放っているのだ)。どうやらおばさん(夫のお母さん)とヤヤ(姉夫婦の子供)が昼寝をしているようだ。できるだけ大きな音を立てないようドアを閉め、階段をリズミカルに降りる。
 通りを渡ったところに小さな商店があり、入り口のガラスには「転譲」という紙が貼ってあった。どうやらこの店(テナント)を売りに出すようだ。店に入ってすぐの場所にあるはずの米袋が見つけられなかったので、「まあ、あの貼紙があるから品数が減ってるかもしれないな」と早合点。レジのおばさんに米の在り処を訊ねると、「ほら、ここだよ」とすぐ目の前から引っ張り出した。失礼な誤解に勝手に恐縮しながら、僕は自分の近視がますます悪くなるのを感じた。
「いくら?」
「46元だよ」
 財布から50元札を取り出し差し出す。すると、
「1元持ってないの?」
 僕はぼんやり財布の中身を調べ、「あ、あった」とコインを渡す。するとおばさんは当然のように5元札の釣りを渡した。
「あれ?」
 ぼけっとしていた僕は、そのお釣りの意味を理解できずおばさんに自分の差し出した金額を確かめた。
「50元渡したじゃないの。だからお釣りの5元でしょうが!」と多少呆れ気味でおばさんは答え、僕は再び恐縮して米を担いで帰った。

 部屋に戻り、手洗いうがいついでに足を洗っている最中に、物音が聞こえた。どうやらおばさんとヤヤが起きたようだ。
「ヤヤがお腹が空いたって起きてね」とおばさん。去年から一回り大きくなり、今では僕のことも「トゥトゥ(叔叔shushu)」とおじさんという意味の中国語をまだ未熟な発音だが言えるようにもなった。
 彼(ヤヤ)は僕のことが日本人であるということはもちろん知らないし、もしかしたら男か女かってこともまだ認識がないのかもしれない。いまこうして雑文を書いている途中も、ヤヤの楽しく遊ぶ笑い声が隣室から聞こえてくる。数分前には、おばさんに匙で食べ物を口に運んでもらいながらも、僕とひとしきり拳銃ごっこで楽しんだ(幼児お馴染みの永遠に続くかと思えるような反復遊び。もちろん僕が敵役でヤラレ役だ)。その遊びが実に楽しく、僕は本当に参ってしまうのだ。

 しかし今僕らはこうして楽しく遊んでいるのに、数年後ヤヤがあるとき冗談でも「小日本」とか「日本鬼子」とかの蔑称で僕のことを呼ぶんじゃないかと考えてしまうことがある。そしてその想像はいつも僕は不安にさせ、とても悲しい気持ちにさせる。『ライ麦畑で捕まえて』のホールデン少年ではないが、この姉夫婦の子供と遊んだり、一緒に暮らしていると、「お金なんかクソっくらえだ」よろしく、僕も「尖閣問題なんかクソっくらえだ」と吐き捨てたくなってしまう。まったく、嫌になってしまう。

 こんなふうに(どんなふうだ?)反日デモからすでに半月が過ぎ、杭州はひとまず「日本尖閣購入」以前のような一応の落ち着きを取り戻している。彼女と外へ買い物に出ると、店内の客の会話で洒落として「蒼井そらは世界のもの、釣魚島は中国のもの…」という言葉を耳にしたり、また別の場所では「釣魚島は中国のもの」と書かれた赤い横断幕を目にすることもあるが、僕としては、立派に正しく愛情を持った中国人の家族たちとともに、無事に生活しているのです。

国慶節、旅行先から無事帰還

 10月1日夜、杭州から武漢へ向かう列車で12時間ほど揺られ、武昌から今度は長距離バスに乗って公安という場所へ。気づけば公安へ着くまでに24時間かけていた。そして彼女の姉の夫の実家に着いたのだが、そこで観光をして無事10月6日の午前に杭州へ戻ってきた。往復48時間を列車やバスやらに費やしたことになったが、まあ、こういう経験も悪く無いと思う。

 これから数日間は、旅行先での出来事を写真を添えて掲載したいと思います。

国慶節、朝食、彼女のおにぎり

 午前中寝ぼけていた僕は、今日は土曜日で彼女の姉のご主人(姐夫)は仕事だと思っていたため、6時半に起きてお弁当を作った。ここ最近は僕が彼女と彼女の姉のご主人(姐夫)のために朝食とお弁当を作っているのだ。

 冷蔵庫からさやえんどう(扁豆bian3dou4)と赤身の肉(痩肉shou4rou4)を取り出す。さやえんどうの筋を取って水で洗う。赤身の肉は豪快に大きめに切る。切った肉を醤油とにんにく(生姜の代理)で味付けをする。赤唐辛子を準備し、中華鍋で炒める。





 調理を終え、姐夫の弁当箱にご飯を持っているとき、彼女が来た。「何をしてるの?」「お弁当だけど?」彼女は突然腹を抱えて笑い出す。僕は意味が分からない。「今日は国慶節でしょ? 会社も休みだよ」。あ〜〜〜、と僕。しかし作ってしまったものはしょうがない。僕らは朝食としてできた料理を食べることに。







 午後、彼女は武漢へ向かう電車(汽車)の中で食べるおにぎりを作る。しかし僕の気づかぬうちに、なんと中にバナナを入れてしまった。バナナっ!!「絶対美味しくないでしょ、それっ!」というも彼女は美味しいはずだと譲らない。ああ、今晩武漢の電車の中で僕はとんでもないものを食べることになるのだ。今から心の準備をしなくては。

苦瓜卵炒めを作る

 おそらく沖縄料理の影響で、ゴーヤの名前を知り、ゴーヤを食べるようになった人も多いと思うのだけれど、僕の田舎ではゴーヤは「苦瓜(ニガウリ)」として昔から市場に出回り、年配の人達に好まれる野菜としてその知名度を得ていた。そのため、中国へ来て食堂やレストランで「苦瓜炒蛋」とあったときは、それが「ニガウリと卵を炒めたものだな」とすぐにわかったし、その苦さになんとなく懐かしい田舎を思い出したりもしたものだ。

 中国料理の「◯◯炒め」というのは実に簡単で、気の利いた調理人でもいなければ、それはそのまま◯◯を炒めたものが更に載せられて運ばれてくるのだ。この「苦瓜炒蛋」もその例にもれず、材料には苦瓜(ゴーヤ)一本と、卵を2つ準備するだけでいい。

 卵を2個を碗に落として塩を入れてかき混ぜる。苦瓜は縦に切り、中の種と白い苦味をスプーンですくって捨てる。そして水で綺麗に洗い、包丁を入れて太さを揃えたアーチ状に切る。

 中華鍋に油をしき、充分に温めたところへ溶いておいた卵を鍋に落とす。ジュワッと卵が歓声をあげる。それをスクランブルエッグでも作るように卵を炒め、充分に固まったらもとの皿に戻す。そして中華鍋に再び油を落とす。お好みで生姜やニンニクや唐辛子を細かく刻んだものを炒めても構わない。僕はまず、生姜4片、ニンニク3つ、唐辛子3本を細かく刻んで炒める。鍋からニンニクと唐辛子の匂いが上がったら、そこへ苦瓜を落とす。苦瓜を炒めてから、そこへ更に戻した卵を落とし、もう一度さっと炒める。以上で完成。



 この料理も簡単なので、苦瓜が嫌いではない方は是非お試しください。中華料理、「苦瓜炒蛋(クーグァチャオダン)」でした。

肉包と豆沙包と彼女の作ったおにぎり写真

 週末は朝がゆっくりできるので、午前は家の近くの小さ店で軽く朝食を買って済ませることがある。







 写真に撮るため包丁で切ってみたのだが、哀しいかな食欲をそそられるような画は摂ることができなかった。ああ、残念。



 この日は彼女と杭州図書館裏にある青少年発展センターへ水泳に行くため、僕らは炊飯器の余ったご飯でおにぎりを作った。ラップで包むとまあ人目に晒すこともできるが、彼女が最初に巻きすで作ったおにぎり(寿司と呼ぶには斬新すぎる)はあまりにひどいものだった。腹いせかは知らないが、僕が握った三角おにぎりも彼女のラップ術で見事に丸められてしまう。まあ、味は変わらないから別にいいのだけれど。

野菜市場にて8元


 市場で野菜を購入するのはほぼ僕の仕事になりつつある。まあ面倒なことではないけれど、いつも同じ野菜ばかりを買うのはどうも面白いものではない。ということで、今回はナスも買ってみた。「秋茄子は嫁に食わすな」とか言うぐらいだから、ナスはきっと秋が旬なのかもしれない。



 購入した野菜は上の写真のとおり。全部で8元。最初はナスを買うつもりはなかったのだけれど、「秋茄子は…」の歌を思い出し、2本買ってみることに。2本で1元。日本のナスと違ってやけに細長いのだけれど、市場ではとりあえずこれしかなかった。場所によっては大きくて立派なナスも見かける。それから赤ピーマンとピーマン、特にピーマンもやたらと細長い。人参や苦瓜(ゴーヤ)よりも細長く育ってしまった。チンゲン菜4株はよく買うのだが、これは炒めて食べることが多い。丸キャベツもうっかり買ってしまったのだけれど、どんな料理になるのかは僕もさっぱりわからない。ロール・キャベツなんてもちろんできない。冷蔵庫の玉ねぎ、人参と炒めて焼きそばでも作るしか無いようだ。そして右上のネギ。これは市場のおばちゃんがいつもタダでくれるものだ。使わないと冷蔵庫内でどんどん増えていってしまう。

 今回は購入した野菜の写真だけになったのだけれど、いつの日か、きっと近い将来にでも、彼女か僕の作った料理をブログに載せたいものだ。

僕の彼女の親友は老公(laogong) 〜老公の帰還とその後〜

 太子湾公園内の山裾で、彼女、老公、その彼氏たちと別れると、僕は自分の用事のためにバスに乗り市の中心地へと向かった。数時間後、用事を終えて彼女に電話をすると、3人はいま「清河坊」とも「河坊街」とも呼ばれる呉山広場近くの観光街でショッピングをしているという。そこは呉山広場から中山中路までまっすぐに伸びた道の両端を、杭州のお土産物から漢方薬、太極拳茶屋、記念撮影屋、扇子・扇、剣や装飾類や書道家の店や玉の店や炭の店などいろいろな店が並んでいるのだ。ある一角では各地方料理を集めたB級グルメ街もあり、そこでは羊肉串や臭豆腐、麺類、スープ物まで様々な味を楽しむことが出来る。昼間訪れる観光客も多いが、できれば夜この「河坊街」を訪れたほうがいい。真っ直ぐに向きあって並んだ中国の古い木造建築に、吊るされた赤い提灯が数珠つなぎのように遠くまで伸びている。その光景は中国杭州へ観光に来たものを充分に酔わせるはずだ。場所によっては現代的な店ももちろんあるが、シルク店や玉の店、漢方薬店や茶屋などでは中国の歴史的な味わいも楽しむことができる。

 さて、僕がそこへ来る必要があるかと電話越しに彼女に尋ねると、「いま4時でしょ? 老公は6時に濱江を出発しないといけないから、来ても一緒に濱江へ帰るだけだよ。だから先に帰ってて。こっちももうすぐしたら帰るから」という返事。ああ、そうかと僕も素直に帰宅。

 バスで部屋に戻ると午後5時を回っていた。彼らは晩の飛行機で広州へと帰るのだ。時間に遅れたら面倒なことになりかねない。僕は部屋にある老公たちの荷物をチェックし、前日使って干していた水泳具を取り込み、畳んで袋に詰めておいた。荷物を全て玄関口に置いて準備は完了。しかし3人はなかなか帰ってこない。時間はどんどん過ぎ、6時を回った頃にやっと彼女から電話があった。部屋のドアが開き、彼女と老公が帰ってきた。「彼は?」「下でタクシーに乗って待ってる」。僕らは3人は彼らの荷物を持って急いで階段を降り、タクシーの後部座席へひょいと放りこんでドアを閉めた。「じゃあ、バイバイ」と最後は慌ただしい別れとなってしまった。

 それから一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。彼女に老公の近況を聞いてみると、もしかしたら老公と彼は別れるかも知れないと言う。「えっ? 何で!?」と僕は思わず大きな声で訊き返してしまった。これまで書いたブログの記事でもわかるように、僕は比較的老公の彼に好意を持っていたのだ。

「太子湾公園で3人になって、老公が私に『午後から彼は仕事?』って訊いてね、そうだって答えたんだけど、『日本人はみんな時間に正確なんだね。ほら、あなたも彼女の彼を見習ってよ』って老公の彼氏に言ってた。なんでもいつもデートは彼氏が遅刻するんだって。仕事の関係もあるんだけど、以前スタバの仕事を終えて11時過ぎに彼に車で迎えに来てって頼んだら、来たのは2時間後。それまで電話で一言の連絡もなかったって。そういうのがあって、彼氏に対してちょっと不満があるみたい。『ほら、あなたも彼女の彼を見習ってよ』って、太子湾公園で言ったときも、『俺は大切な用事の時は遅刻しないよ』って言ったんだって。例えば仕事の会議とか…。そういうのは老公は我慢出来ないみたい」

 二日間だけではわからない老公の彼氏の別の側面を見た気がした。なんだか、いろいろな男性がいて、いろいろな価値観があるようだ。これは結局国じゃなく、個人の価値観の違いなのだと受け止めたのを覚えている。

僕の彼女の親友は老公(laogong) 〜ブラック・タクシーと太子湾公園〜

 ジャズ・バーを11時過ぎに出て、僕と彼女と老公(女性)とその彼氏はタクシーに乗って濱江へ帰ることにした。しかし老公はカクテルひと口で酔いが回ったらしく、僕の顔を見て意味不明に笑い、僕の彼女に「老婆(ラオポー)と一緒に寝る」と口を開き、彼氏に同意を求める。「私は老婆と一緒に寝るから、悪いけどホテルで一人で泊まってちょうだいね」。老公の彼氏はその提案を快諾し、彼は結局一人でホテルに泊まることになった(なんて寛容な彼なんだろう)。

 翌日の朝、僕は三輪車(子供用ではない濱江に欠かせない交通手段)に乗って老公の彼氏の泊まるホテルへ行き、彼を連れて再び部屋に戻る。そして4人で朝食を取り、彼の希望だった山登りをするため、太子湾公園へ行くことに。そこはそれほど高い山ではないが、西湖も見渡せることができ、午後の次の移動にも便利な場所なのだ。

 昼前に出発。僕らは濱江の道でタクシーを待つが、ここはそもそも正規のタクシーが頻繁に通る場所ではないのだ。「ブラック・タクシーでもいいかな?」と僕が彼女に聞くが、彼女は承知しない。彼女はブラック・タクシーを信用していないのだ。しかし時間はどんどん過ぎていく。僕がもう一度提案すると、彼女は諦めたようにしぶしぶ承知した。

「ほら、あそこに運転手たちがいるよ。ここから太子湾公園までだと35元ぐらいかかると思う。ちょっと低目に25元から交渉してみようか?」
「うん。それでいい」

と、そんな会話を僕と彼女は西部劇のカウボーイのように目を合わせず小声で歩きながらする。駆け引きを決意して敵(?)に近づくというのはそれだけで胸が高鳴るものなのだ。

「ここから太子湾公園まで25元でいい?」「そいつあ無理だ! 無理に決まってるよっ! 60元はもらわなくっちゃさ」「60元? じゃあいいや」と僕は一人目の運転手を置き去りに二人目へ近づこうとする。すると後ろから「25元なんて無理に決まってるじゃないか!」と声が聞こえる。僕はそれを無視して二人目に同じ質問をすると、一人目が「40元ならいいぞ」と大声で言う。二人目の男はどうも一人目に遠慮をして客の奪い合いをしようとはしない。「30元はダメかな?」と僕が一人目に訊くと、「40元!」という頑なな返事。僕は二人目に「あっちは40元って言ってるけど、38元で引き受けてくれない?」と一人目の目の前で言う。すると一人目は2元の駆け引きをする客に思わず吹き出してしまった。そして「いいよ、38元で」と一人目は承知することに。

 ブラック・タクシーこと無免許タクシーは、その車に乗るまでそれがどんなシロモノかわかったものじゃない。僕らの乗り込んだのはライトバン。8人乗りだが結構古い物のようで、エアコンは付いていなかった。座席もクッションが潰れていた。次回からの値段交渉にはエアコンの有無や座席も確認したほうがいいかもしれない。

 太子湾公園には運転手の諸事情(警察取締を避けるため、僕らを早めに降ろし、代金も多少返却した)から、僕らは残り10分ほどの道のりを歩いて到着した。春先には桜や様々な色のチューリップで賑わうのだが、8月末の公園には緑の葉が生い茂っているだけだった。芝生が広がっていた場所も苗を守るために一面にビニル袋が敷かれていた。園内には小さな川がたくさん流れ、山裾では蚊も飛んでいた。今日はやけにじめじめした蒸し暑い天気だ。

 僕は午後から用事があったので、山裾までたどり着くと彼らと別れた。その後彼ら3人は山頂まで歩き、老公の彼氏は西湖を見下ろすその眺めに満足していたそうだ。しかし老公はそれほど風景に興味を持っていなかったという。

「以前は気づかなかったけど、老公はあんまり自然に興味が無いみたい。彼氏は熱心に西湖の周りの由来も聞いてくるのに。変わってるね」と彼女。

 老公とその彼氏を見ていてなんとなく感じるものはあったのだけれど、口にするのも考えるのも失礼な気がしたので、とにかく彼女の話を聞くだけにした。

僕の彼女の親友は老公(laogong) 〜爵士ジャズ・バーへ〜

 呉山夜市を午後10時過ぎまで一回り見終えると、今まで比較的寡黙で通してきたマスオさん的メガネをかけた老公の彼氏が、杭州のバーに行ってみたいと言う。広州のそれとどう違うのか見てみたいのだそうだ。

 バーと言われてまず僕の頭に浮かぶのは、前回も書いたことのある「???酒?(アイリッシュ・バー)」だ。そこは割と広々とした空間で、日によっては生演奏を聞けるゆっくり寛げる環境だ。解放路の浙江第二医院斜め向かいに「久酒久」リカーショップがあり、その近くにある階段を降りた地下にある店だ。今いる平海路からタクシーで10〜12元ちょっとの距離。すぐにでも行くことができる。

 そこへ行こうかと彼女に相談すると、「この前行ったバーのほうが良い」という返事。この前行ったバー? 一体どこのことだ? 「どこのこと? 他に誰がいたっけ?」と僕が訊くと、老公が、「他の女の子とも行ってるからわからなくなったんじゃない?」と笑いながら茶々を入れる。僕に対する初めての茶々に僕と彼女は少し嬉しく笑った。話を戻し、「あの青藤茶館の近くの爵士酒?(ジャズ・バー)のこと?」と訊くと返事は「うん」。なるほど、悪くない選択だ。西湖の傍には湖濱路という道があり、そこを南山路との交差点へ行くと、青藤茶館(「元華商厦」元華ビジネスビルの2階にある杭州でも人気の高い茶館)があるのだが、その一階入り口の道を挟んだ隣に爵士酒?(ジャズ・バー)があるのだ。あそこは本場のジャズ奏者と歌手たちが、本気の「ジャズ」を演奏している。もし本気でジャズに、音楽に興味があるなら、老公たちと是非一緒に行ってみたい。

「2人は音楽が好き?」と僕が尋ねると、「彼は歌がとても上手よ」と老公の返事。う〜ん、そういう意味の質問じゃないんだけどな、と僕。スタバで流れているジャズ・ミュージックについて話し、「ああいう音楽を流す、僕が杭州で一番好きなジャズ・バーがあるんだけど、興味ある?」と質問。「スタバで流れる音楽」というので、老公はとても興味を持ったようだ。

と、こうした僕の質問にちょっとくどさを感じた方に弁解を。この僕のお気に入りの爵士酒?(ジャズ・バー)は、演奏者たち(ほとんど欧米系の人たち)の熱の入った即興演奏がとても素晴らしいのだが、そこはやはり中国のバー、富裕者層たちが派手な消費を目的として訪れているきらいがある。そのためジャズ奏者の一人ひとりの小さなアドリブや目配せや熱意の込め方などにも注意を払わず、ただただ演奏中におしゃべりや笑い声で雑音をバックミュージックに添え、僕をひどく興ざめさせることも多々あるのだ。それで僕はいつもアジア人として奏者たちに申し訳なく思うわけです。プロの奏者たちがマジメに演奏をしているのだから、聞き手もその理解云々はともかくマジメな姿勢で耳を傾けるべきなのだ、と僕は思う。そしてもし老公やその彼氏が音楽に興味がないようなら、爵士酒?(ジャズ・バー)へ連れて行っても時間の無駄だ、と。

 タクシーに乗り、僕ら4人は青藤茶館前で車を降りる。時間は10時半を過ぎたばかり。演奏は、大体10時半、11時15分、12時の3回行われる。12時を過ぎると、ほぼ客が誰もいなくなり静かな店内でほぼ貸切状態でゆっくり音楽を楽しむことができるのだが、残念ながら老公たちはまた明日も朝から観光だ。今回は10時半の演奏だけを聞いて帰ること決めた。

 久しぶりに訪れた店内は店のシステムが変わったようで、喫煙者は2階へ押しやられるようだ。僕らは運良く1階禁煙フロアのポール席に座れた。演奏はちょうど始まったばかりのようだ。にもかかわらず、カウンターの客が帰り支度をしている。僕らは貪欲に席をカウンターに移り、演奏を見るのに一番良い席へ老公と彼女を座らせた。僕と老公の彼氏は彼女らの肩越しにピアノ、チェロ、ドラム、歌手の様子を眺め、ウィスキーをちびちび舐める。

 更に運良くポール最前席の客が帰り、そこへ僕と老公の彼氏は移動。黒いドレスに身を包んだ渋い黒人のおばさんが間奏もハミングで気持よさそうに歌っている。その演奏と歌声に僕ら4人はすっかり魅了されてしまった。演奏が終わる頃には、老公は一口飲んだアルコールがすっかり回ってしまい、僕の顔を見てケタケタずっと笑っていた。老公はどうやら笑い上戸のようだ。

 老公の酔いで演奏のこともすっかり忘れてしまったが、杭州を訪れたけれどちょっとジャズにも興味がある、という方は是非どうぞ。



月餅、満月、団らんの一夜

 2011年9月12日(月曜日)は旧暦8月15日にあたり、言わずと知れた中秋節だ。この日は中国では祝日となるため、多くの学生や社会人が田舎へ帰って家族たちと一緒に夕飯を食べたり、田舎へ帰れない人たちも友人たちとともに団らんのひとときを過ごすことになる。

 僕と彼女もこの日は仕事が休みなため、午前中に杭州図書館裏にある青少年発展センターへ泳ぎに出かけて、2時間半ばかり泳いできた(1時間10元なので、2人で50元)。昼過ぎには午前の曇り空が嘘のように晴れ渡り、太陽の優しい日差しを浴びながら僕らは屋外でみかんを食べた。このぶんなら晩になっても「無月」とか「雨月」とかいう心配はいらないようだ。

 帰りにバスに乗って銭塘江に架かった橋を渡ったのだが、結局行きも帰りも有名な逆流を目にすることができなかった。バスの中から見る条件が悪いこともあるのだろうけど、僕はこれまで長いこと中国・杭州に住んでいるのにこの潮水を一度も見たことがないのだ。まあそれほど特に見たいということもないのだが、毎年多くの人が銭塘江の潮水を眺めに来ているので多少興味があるのだ。いつの日か見ることが出来れば、と少しだけ思う。

 家に帰りついたのは午後5時だった。僕と彼女はそれぞれ部屋で1時間ほど遅めの午睡をし、6時過ぎに僕、彼女、彼女の姉のご主人(姐夫)と夕飯を食べに出かけた。彼女の姉とその息子と姉のご主人(姐夫)の母親はいま子供の暑さ予防のためにと田舎へ帰っていて、一緒に住んでいない。

 ここで一つ中秋節について特筆しておきたいのが、日本人が思っているほど実際の中国人たちは、月への、観月への意識は高くないということだ。西湖十景には「三潭印月」「平湖秋月」などの月を愛でる景勝地があり、多くの観光客が古き詩人たちの感じた詩的情緒を味わおうとそこを訪れているのだが、僕の知る多くの中国人たちは僕の思っていたほどには月見に関心はないようだ。それよりは家族のことを、家族との食事、「団らん」を大切にしている。出来ることなら家族と一緒に夕飯を囲む。それが無理なら友人たちと。そういう中秋節の過ごし方がどちらかというと現在の中国なのだ、と僕は経験上から理解している。

 月餅に関しても、日本人が月見をしながら団子や芋や枝豆や栗を食べていた「月見料理」が現在では薄れつつあるのと同じように、月を見ながら月餅を食べる、というようなことはほとんどない。もっと言えば僕の彼女など、毎朝一つずつ月餅の袋を開けて食べていた。12日になる頃にはもうなくなっているか、食べ飽きて机の隅へ置いやらているのだ。こうした中国の現状ももしかしたら月餅の商業化と関係があるのかもしれない。よくはわからないのだけど。

 近所のレストランへと僕と彼女とその姉のご主人(姐夫)は出かけた。一軒目、二軒目と満員の客で店に入れない。三軒目を探そうと方角を変えて歩くと、その先に月見うどんの黄身のような月が、煌々と光を放って鎮座していた。彼女とその姐夫と話しながら道を歩いていたのだが、僕は思わず「お〜…」と声を漏らした。少し焦げ目のついた、しかし堂々とした満月。彼らも僕の見るそれに気づいて視線を動かす。「あの月、なんだか昔より小さくなったみたい」と彼女。その発言に姐夫は笑って、「昔は月がもっと近くにあったみたいだね」と返す。そこから二人は月について話していたが、僕はただただ月に魅了され、言葉が出ずに眺め続けた。

 食事は魚料理を食べ、サービスで小さな月餅も出された。姐夫とビールを4本飲み、辛いものが苦手な僕は月餅をつまみにして飲んだ。帰り道、月の軌跡を追って見上げると、先ほどとは違った氷のような真っ白な月が空には浮かんでいた。卵が氷になったと僕が言うと、酔いの回った姐夫は笑った。彼女は氷のような月についてまた話をし始めた。

 僕が中国で初めて体験した、団らんを感じた中秋節だった。



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