ファルージャの目撃者より



 ジョー・ウィルディング
 2004年4月13日


長くなってしまいます。お許し下さい。でも、どうか、どうかこれを読
んで下さい。そして、できるだけ多くの人に広めて下さい。ファルー
ジャで起きていることの真実を明るみに出す必要があるのです。ハムー
ディ、私の思いはあなたとともにあります。


2004年4月11日 ファルージャ

ファルージャ東部の高速道路で、トラックや石油タンカー、戦車が燃え
ていた。少年と男たちの流れが、燃えていないローリーを行き来して、
ローリーを裸にしていた。私たちは、アブ・グライブ経由の裏道にまわ
り、持ち物をあまり持たない人々で一杯の自動車が逆方向へ向かうのに
すれ違いながら、道沿いにできた急ごしらえの軽食スタンドを通り過ぎ
た。ヌハとアフラルはアラビア語で歌っていた。スタンドの少年は、バ
スの窓から、私たちと、そして今もファルージャにいる人々に、食べ物
を投げ込んでいた。

バスは、ファルージャの導師の甥が運転する車の後について進んでい
た。彼はまた、ムジャヒディーンと接触がある私たちのガイドでもあ
り、今回のことについてムジャヒディーンと話をつけていた。私がこの
バスに乗っていた理由は、と言えば、知人のジャーナリストが夜11時に
私のところに来て、ファルージャの状況は絶望的であり、手足が吹き飛
ばされた子どもをファルージャから運び出していたと語ったことにあ
る。また、米軍兵士たちは、人々に、夕暮れまでにファルージャを離れ
よ、さもなくば殺すと言っていた、と。けれども、人々が運べるものを
かき集めて逃げ出そうとすると、町はずれにある米軍の検問所で止めら
れ、町を出ることを許されず、ファルージャに閉じ込められたままで、
日が沈むのを人々は見ていたと、彼が私に語ったことに。

彼はまた、援助車両とメディアもファルージャに入る前に引き返させら
れたと私に説明した。医療援助をファルージャに運び入れる必要があ
り、外国人、西洋人がいると、米国の検問を通過してファルージャに入
ることができるチャンスは大きいと。その後の道は、武装グループによ
り守られているとのことだった。そこで私たちは医薬品を持ち込み、他
に何か手伝えることはないか調べて、帰りにはバスでファルージャを離
れる必要がある人たちを乗せていこうと考えていた。

どうやって決意したか、自分自身で何を思い、お互いに何を聞いたかに
ついては想像にお任せしよう。私の決断を狂気と言うのも結構。けれど
も、そのとき思ったのは次のようなことだった:もし私がしないなら
ば、誰がするのだろう? いずれにせよ、私たちは何とか無事到着し
た。

到着後、私たちは物資をバスから降ろした。荷箱はすぐに引きちぎるよ
うに開かれた。最も歓迎されたのは毛布だった。そこは病院と呼べるも
のではなく、ただの診療所だった。米軍の空襲でファルージャの大病院
が破壊されてから、ただで人々を診療している個人医の診療所だった。
もう一軒の診療所は、ガレージに臨時で作られたものだった。麻酔薬は
なかった。血液バッグは飲み物用の冷蔵庫に入っており、医者たちは、
それを非衛生的なトイレのお湯の蛇口の下で暖めていた。

女性たちが叫び声をあげながら入ってきた。胸や顔を手のひらでたた
き、祈りながら。ウンミ、お母さん、と一人が叫んでいた。私は彼女を
抱きかかえていた。それから、コンサルタント兼診療所の所長代理マキ
が私をベッドのところに連れていった。そこには、頭に銃による怪我を
負った10歳くらいの子どもが横になっていた。隣のベッドでは、もっと
小さな子どもが、同じような怪我で治療を受けていた。米軍の狙撃兵
が、この子どもたちとその祖母とを撃ったのである。一緒にファルー
ジャから逃れようとしたところを。

明かりが消えた。換気扇も止まり、急に静かになった。その中で、誰か
がライターの炎を付けた。医者が手術を続けられるように。町の電気は
何日も前から止まっており、発電器の石油が切れたときには、石油を入
手するまで、とにかく何とかしなくてはならない状況だった。デーブが
すぐに懐中電灯を渡した。二人の子どもたちが生き延びることはなさそ
うだった。

「こちらへ」。マキが言って、私を一人、ある部屋に案内した。そこに
は、お腹に受けた銃の傷を縫い上げたばかりの、年老いた女性がいた。
足のもう一カ所の傷には包帯がまかれていたが、彼女が乗っているベッ
ドには血が染み込んでいた。彼女は白旗を今も手に握りしめていた。彼
女の話も、同じである:「私が米軍の狙撃兵に撃たれたのは、家を出て
バグダッドに向かおうとしているときでした」。街の一部は米軍海兵隊
に制圧されている。別の一部は地元の戦士たちが統制している。彼女た
ちの家は、米軍が制圧した地域にある。彼女たちは、狙撃兵が米国海兵
隊兵士であるという固い確信を持っている。

米軍の狙撃兵たちは、ただ大虐殺を進めているだけではない。救急車と
救助活動も麻痺させている。ファルージャ最大の病院が爆破されたあと
残った次に大きな病院は米軍が制圧する地域にあり、狙撃兵たちによっ
て診療所から遮断されている。救急車は、銃弾による損傷を受けて、こ
れまでに4回、修理された。路上には遺体が転がったまま。遺体を取り
戻しに道に出ると狙撃されるので、誰も遺体を取り戻すことができな
い。

イラクに行くなんて、私たちは狂っている、と言った人たちがいた。
ファルージャに行くのは、完全に正気の沙汰じゃない、と多くの人たち
が言った。そして今、ファルージャでは、ピックアップ・バンの後ろに
乗って狙撃兵のところを通り、病いや怪我で倒れた人たちを車で連れて
くるなんてことは、これまで見たこともないほど狂ったことだと私に向
かって言っていた。私だって、それは分かっている。けれど、私たちが
しなければ、誰もしないだろう。

彼は、赤三日月[イスラム世界での「赤十字」にあたる]のマークのつ
いた白旗を手にしていた。私は彼の名前を知らない。運転手が、我々が
どこに行こうとしているか通りがかりの人々に告げたとき、皆、私たち
に手を振った。ムジャヒディーンの地区のはずれにあるピックアップが
最後の角から見えなくなり、次の壁の向こう側からは海兵隊の制圧地に
なる、そのはざまの地帯は、すさまじいまでの沈黙が支配していた。鳥
も音楽もなく、誰一人生きている者の兆しはなかった。そのとき、反対
側にある一つの門が開いて、一人の女性が出てきた。彼女はある場所を
指さした。

私たちは壁に空いた穴まで壁沿いに歩いた。そこから車が見えた。まわ
りに迫撃砲の跡があった。側溝には、交差した足が見えた。彼は既に死
んでいると思った。狙撃兵の姿も目に入った。二人が建物の角にいたの
である。狙撃兵たちにはまだ私たちの姿が見えないと思ったので、私た
ちの存在を知らせる必要があった。

「ハロー」。できるだけ大声で、私は叫んだ。「聞こえますか?」 聞
こえたはずである。私たちから30メートル位しか離れていない所にい
たのだから──もっと近かったかも知れない。そして、蠅の飛ぶ音が聞
こえていた。何度か繰り返し叫んだが、返事はなかったので、自分につ
いてもう少し説明することにした。

「私たちは医療団だ。この怪我をした男性を運びたい。出ていって彼を
運んでいいか?OKだというサインを出してもらえるか?」

私の声は、確実に聞こえたはずであるが、彼らはそれでも応えなかっ
た。まったく私の言葉が分からなかったのかも知れない。そこで、私は
同じ言葉を繰り返した。デーブも、アメリカ英語のアクセントで同じよ
うに叫んだ。それから、再び私が。ようやく、叫び声が返ってきたよう
に思えた。確かではなかったので、もう一度呼びかけた。

「ハロー」

「ヤー」

「出ていって彼を運び出していいか?」

「ヤー」

ゆっくりと、両手を上に上げて、私たちは出ていった。それにあわせた
かのように現れた黒い雲は、熱いすえたような臭いを運んできた。彼の
足は硬直していて、重かった。私は足をレナーンド・デーブに任せた。
ガイドは腰を持ち上げていた。粘ついた血によって、カラシニコフが彼
の髪の毛と手にくっついていた。カラシニコフは御免だったので、私は
その上に足をかけ、彼の方を持ち上げた。背中の穴から血が流れ出た。
私たちは彼を持ち上げてピックアップまで運び、蠅を追い払おうとし
た。

彼はサンダルを履いていたのではないかと思う。というのも、そのとき
彼は裸足だったから。20歳になっていない感じで、偽のナイキのズボン
をはき、大きく28という背番号のついた青と黒の縞模様のサッカーシャ
ツを着ていた。診療所で、この若い戦士をピックアップから降ろしたと
き、黄色い液体が彼の口から流れ出た。人々は彼の顔を上向きにしてク
リニックに連れて入り、臨時の死体安置所にすぐに運び込んだ。

私たちは、手に着いた血を洗い、救急車に乗った。別の病院に閉じ込め
られた人々がいた。これらの人々はバグダッドに行く必要があった。サ
イレンをならし、ライトを点滅させながら、私たちは救急車の床に座っ
て、パスポートとIDカードを窓から外に向けて見せていた。私たちは
救急車に人々を詰め込んだ。一人は胸の傷をテープで貼り合わせ、もう
一人は担架に乗せて。足がひどく痙攣していたので、彼を運んでステッ
プを昇るとき、私は足を押さえていなくてはならなかった。

診療所よりも病院の方がこうした怪我人を治療するのに有利だが、病院
には適切な手当をするに十分な物資が何もなかった。怪我人をバグダッ
ドに運ぶ唯一の方法は、私たちが乗ってきたバスで連れ出すことだが、
そのためには、診療所に怪我人を連れて行かなくてはならなかった。私
たちは、撃たれたときのために、救急車の床にすし詰めになって乗っ
た。私と同年代の女性医師ニスリーンは、私たちが救急車から降りたと
き、涙をこらえきれなかった。

医者が走り出してきて、私に言った:「女性を一人連れてきてくれない
だろうか? 彼女は妊娠しており、早産しかけている」。

アッザムが運転した。アフメドが彼と私の間に座って道を指示した。私
は外国人として、私自身とパスポートが外から見えるように、窓側に
座った。私の手のところで何かが飛び散った。救急車に銃弾が当たった
と同時だった。プラスチックの部品が剥がれ、窓を抜けて飛んでいっ
た。

私たちは車を止め、サイレンを止めた。青いライトはそのままにしてお
いて、待った。目は、建物の角にいる米軍海兵隊の軍服を着た男たちの
影に向けていた。何発かが発砲された。私たちは、できるだけ低く身を
伏せた。小さな赤い光が窓と私の頭をすり抜けていくのが見えた。救急
車に当たった銃弾もあった。私は歌い出した。誰かが自分に向かって発
砲しているとき、他に何ができるだろう? 大きな音を立ててタイヤが
破裂し、車がガクンと揺れた。

心底、頭に来ていた。私たちは、何の医療処置もなく、電気もないとこ
ろで子供を産もうとしている女性のところに行こうとしていたのだ。封
鎖された街の中で、はっきり救急車であることを表示しながら。海兵隊
は、それに向かって発砲しているのだ。一体、何のために?

一体、何のために?

アッザムはギヤを握り、救急車を逆行させた。道の真ん中の分離帯を超
えるとき、もう一つのタイヤが破裂した。角を曲がったときにも、銃弾
が私たちに向けて発砲されていた。私は歌い続けていた。車輪はキー
キーと音をたて、ゴムは路上に焼き付いた。

診療所に戻ると、人々が担架に駆けつけたが、私は頭を振った。彼らは
新たについた弾痕に目をとめ、私たちが大丈夫かどうか寄ってきた。彼
女の所に行く他の方法は無いのか、知りたかった。ラ、マーク・タリエ
ク。他に方法はない。私たちは正しいことをしたんだ、と彼らは言っ
た。これまでにも4回救急車を修理したのだから、今度もまた修理する
さ、と。けれどもラジエータは壊れ、タイヤもひん曲がって、そして彼
女は今も暗闇の中、一人っきりで、自分の家にいて、出産しようとして
いる。私は彼女の期待に背いてしまった。

もう一度行くわけにはいかなかった。救急車がなかったし、さらに、既
に暗くなっていたので、私の外国人の顔で、同行者や連れ出した人々を
守ることも出来ない状況だった。その場所の所長代理はマキだった。彼
は、自分はサダムを憎んでいたが、今はアメリカ人の方がもっと憎い、
と言った。

向かいの建物の向こう側のどこかで、空が炸裂しはじめた。私たちは青
いガウンを脱いだ。数分後、診療所に一台の車が突進してきた。姿を目
にする前に、男の叫び声が耳に入った。彼の体には、皮膚が残っていな
かった。頭から足まで焼けただれていた。診療所でできることは何もな
かった。彼は、数日のうちに、脱水で死ぬだろう。

もう一人の男性が車から引き出されて担架に乗せられた。クラスター爆
弾だ、と医者たちは言った。この犠牲者だけなのか、二人ともがそうな
のかははっきりしなかった。私たちは、ヤセル氏の家に向かって歩き始
めた。角ごとに、私たちが横切る前に道をチェックしながら。飛行機か
ら火の玉が落下して、明るい白光を発する小さな弾へと分かれていっ
た。それがクラスター爆弾だと、私は思った。クラスター爆弾が心に強
くあったからだが、これらの光はそのまま消えていった。驚くほど明る
いがすぐに消えるマグネシウムの炎だった。上から街を見るためのもの
である。

ヤセルは私たち全員に自己紹介を求めた。私は、弁護士になる準備をし
ていると述べた。別の一人が、私に、国際法について知っているかどう
か尋ねてきた。戦争犯罪についての法律、何が戦争犯罪を構成するの
か、知りたがっていた。私は彼らに、ジュネーブ条約の一部を知ってい
ると述べ、今度来るときには情報を持ってきて、アラビア語で説明でき
る人も連れてくると伝えた。

私は菜穂子[高遠氏]のことを話題に出した。目の前にいる戦士たちの
グループは日本人捕虜を取っているグループとは無関係だが、人々が、
この夕方私たちがしたことに感謝している間に、菜穂子がストリート・
チルドレンに対してしていたことを説明した。子どもたちが、どれだけ
彼女のことを愛していたかも。彼らは何も約束はできないが、菜穂子が
どこにいるか調べて、彼女と他の人質を解放するよう説得を試みると
言った。事態がそれで変わるとは思わない。この人たちは、ファルー
ジャでの戦闘に忙しいのだから。他のグループとも無関係なのだから。
けれども、試してみて困ることはない。

夜通し、頭上を飛行機が飛んでいたので、私はまどろみの中で長距離フ
ライトの中にいるようだった。無人偵察機の音にジェット機の恐るべき
音、そしてヘリコプターの爆音が、爆発音でときおり中断されるという
状態だった。

朝、私は、小さな子、アブドゥルやアブーディのために、風船で犬とキ
リンと象を作った。航空機と爆発の音にも苦しんでいないようだった。
私はシャボン玉を飛ばし、彼はそれを目で追いかけた。ようやく、よう
やく、私は少し微笑んだ。13歳の双子も笑った。一人は救急車の運転手
で、二人ともカラシニコフ銃を扱えるとのことだった。

朝、医者たちはやつれて見えた。この一週間、誰一人、2時間以上寝て
いない状態だった。一人は、この一週間でたった8時間しか寝ておら
ず、病院で必要とされていたので、弟と叔母の葬儀にも出られなかっ
た。

「死人を助けることはできない」とジャシムは言った。「私は怪我人の
心配をしなくてはならないんだ」。

デーブとラナと私は、今度はピックアップで再び出発した。海兵隊地帯
との境界近くに、病気の人がいて、避難させなくてはならない。海兵隊
が建物の屋上で見張っていて、動くものすべてに向かって発砲するの
で、誰も家から出る勇気はなかった。サードが私たちに白旗を持ってき
て、道をチェックして安全を確かめたから心配することはない、ムジャ
ヒディーン側が発砲することはない、我々の側は平和だと伝えた。サー
ドは13歳の子どもで、頭にクーフィーヤをかぶり、明るい茶色の目を見
せて、自分の背丈ほどもあるAK47型銃を抱えていた。

私たちは米軍兵士に向かって再び叫び、赤三日月のマークのついた白旗
を揚げた。二人が建物から降りてきた。ラナはつぶやいた:「アッ
ラー・アクバル。誰も彼らを撃ちませんように!」。

私たちは飛び降りて、海兵隊員に、家から病人を連れ出さなくてはなら
ないこと、海兵隊が屋根に乗っていた家からラナに家族を連れ出しても
らいたいこと、13人の女性と子供がまだ中にいて、一つの部屋に、この
24時間食べ物も水もないまま閉じ込められていることを説明した。

「我々は、これらの家を全部片付けようとしていたところだ」と年上の
方が言った。

「家を片付けるというのは何を意味するのか?」

「一軒一軒に入って武器を探す」。彼は時計をチェックしていた。何が
いつ行われるのか、むろん私には告げなかったが、作戦を支援するため
に空爆が行われることになっていた。「助け出すなら、すぐやった方が
よい」。

私たちは、まず、道を行った。白いディッシュダッシャーを来た男性が
うつぶせに倒れており、背中に小さなしみがあった。彼のところに駆け
つけた。またもや、蠅が先に来ていた。デーブが彼の肩のところに立っ
た。私は膝のところに立ち、彼を転がして担架に乗せたとき、デーブの
手が彼の胸の空洞に触れた。背中を小さく突き抜けた弾丸は、心臓を破
裂させ胸から飛び出させていた。

彼の手には武器などなかった。私たちがそこに行って、ようやく、息子
たちが出てきて、泣き叫んだ。彼は武器を持っていなかった、と息子た
ちは叫んだ。彼は非武装だった。ただ、門のところに出たとき、海兵隊
が彼を撃った、と。それから、誰一人外に出る勇気はなかった。誰も、
彼の遺体を取り戻すことはできなかった。怯えてしまい、遺体をすぐに
手厚く扱う伝統に反せざるを得ない状態だった。私たちが来ることは知
らなかったはずなので、誰かが外に出て、あらかじめ武器だけ取り去っ
たとは考えにくい。殺されたこの男性は武器を持っておらず、55歳で、
背中から撃たれていた。

彼の顔を布で覆い、ピックアップまで運んだ。彼の体を覆うためのもの
は何もなかった。その後、病気の女性を家から助け出した。彼女のそば
にいた小さな女の子たちは、布の袋を抱きしめ、「バーバ、バーバ」と
小声でつぶやいていた。ダディー。私たちは震えている彼女らの前を、
両手を上に上げて歩き、角を曲がって、それから慌ててピックアップに
彼女らを導いた。後ろにいるこわばった男性を見せないように、視線を
遮りながら。

私たちが、銃火の中を安全に人々をエスコートするのではないかと期待
して、人々が家からあふれ出てきた。子どもも、女性も、男性も、全員
行くことができるのか、それとも女性と子どもだけなのか、心配そうに
私たちに尋ねた。私たちは、海兵隊に訊いた。若い海兵隊員が、戦闘年
齢の男性は立ち去ることを禁ずると述べた。戦闘年齢? 一体いくつの
ことか知りたかった。海兵隊員は、少し考えたあと、45歳より下は全
員、と言った。下限はなかった。

ここにいる男性が全員、破壊されつつある街に閉じ込められる事態は、
ぞっとするものだった。彼らの全員が戦士であるわけではなく、武装し
ているわけでもない。こんな事態が、世界の目から隠されて、メディア
の目から隠されて進められている。ファルージャのメディアのほとんど
は海兵隊に「軍属」しているか、ファルージャの郊外で追い返されてい
るからである[そして、単に意図的に伝えないことを選んでいるか
ら]。私たちがメッセージを伝える前に、爆発が二度あり、道にいた
人々は再び家に駆け込んだ。

ラナは、海兵隊員と一緒に、海兵隊が占拠している家から家族を撤退さ
せようとしていた。ピックアップはまだ戻ってきていなかった。家族は
壁の後ろに隠れていた。私たちは、ただ待っていた。ほかにできること
はなかった。無人の地で、ただ待っていた。少なくとも海兵隊は、双眼
鏡で私たちを観察していた。恐らくは地元の戦士たちも。

私はポケットに、手品用のハンカチを持っていたので、レモンのように
座ってどこにも行けず、まわり銃で発砲と爆発が起きている中、ハンカ
チを出したり隠したりしていた。いつでも、まったく脅威ではないよう
に、そして心配していないように見えることが大切だ、と私は考えた。
誰も気にして撃とうなどと考えないように。けれども、あまり長く待つ
わけにもいかなかった。ラナは随分長いこといなかった。ラナのところ
に行って急かさなくてはならなかった。グループの中に若者が一人い
た。ラナは海兵隊に、彼も一緒に立ち去ることができるよう交渉してい
た。

一人の男性は、人々の一部──あまり歩けない年寄り二人と一番小さな
子ども──を運ぶために自分の警察用車を使いたがった。その車にはド
アがなかった。それが本当に警察の車なのか、収奪されてそこに放置さ
れたものか、誰も知らなかった。それでより沢山の人をより早く運べる
かどうかは問題ではなかった。人々は家からゆっくりと出てきて壁のそ
ばに集まり、両手をあげて、私たちの後ろについて、赤ん坊とバッグと
お互いをしっかりつかみながら、道を歩いた。

ピックアップが戻ってきたので、できるだけ多くの人を乗せていたとき
に、どこからか救急車がやってきた。一人の若者が家の残骸のドアのと
ころから手を振っていた。上半身裸で、腕には血で膨れた包帯を巻いて
いた。恐らくは戦士であろうが、怪我をして非武装のとき、戦士かどう
かは関係ない。死者を運ぶことは最重要ではなかった。医者が言ったよ
うに、死者は助けを必要としない。運ぶのが簡単だったら、運ぶだろ
う。海兵隊と話が付いており、救急車が来ていたので、私たちは死体を
運び込むためにもう一度急いで道を戻った。イスラムでは、遺体をすぐ
に埋葬することが重要である。

救急車が私たちの後を付いてきた。海兵隊兵士たちが救急車を止まらせ
るよう、銃口を向け、私たちに英語で叫んだ。救急車は速い速度で動い
ていた。救急車を止めようとして皆が叫んでいたが、運転手が私たちの
声を聞くのに永遠の時間を要したような気がした。救急車は停止した。
兵士たちが発砲する前に。私たちは遺体を担架に乗せ走って、後部に押
し込んだ。ラナが前の座席の怪我人の横に滑り込み、デーブと私は後部
の遺体の横に乗った。デーブは、子供の頃アレルギーがあって、あまり
鼻が利かない、と言った。今になって、私は子供の頃アレルギーだった
らと思いながら、顔を窓の外に出していた。


バスが出発しようとしていた。バグダッドに連れていく怪我人を乗せ
て。やけどした男性、顎と肩を狙撃兵に撃たれた女性の一人、その他数
人。ラナは、手助けをするために自分は残ると言った。デーブと私も躊
躇しなかった:私たちも残る。「そうしなければ、誰が残るだろう?」
というのが、そのときのモット-だった。最後の襲撃の後、どれだけの
人々が、どれだけの女性と子供が、家の中に残されただろう? 行く場
所がないから、ドアの外に出るのが怖いから、留まることを選んだから
……。私はこのことを強く考えていた。

最初、私たちの意見は一致していたが、アッザムが、私たちに立ち去る
べきだと言った。彼も、全ての武装グループとコンタクトをとっている
わけではない。コンタクトがあるのは一部とだけである。各グループそ
れぞれについて、話をつけるために別々の問題がある。私たちは、怪我
人をできるだけ早くバグダッドに連れて行かなくてはならなかった。私
たちが誘拐されたり殺されたりすると、問題はもっと大きくなるので、
バスに乗って今はファルージャを去り、できるだけ早くアッザムと一緒
に戻ってきた方が良い。

医者たちが、私たちに別の人々をまた避難させに行ってくれとお願いし
てきたときにバスに乗るのは辛いことだった。資格を持った医師が救急
車で街を回ることができない一方、私は、狙撃兵の姉妹や友人に見える
というだけで街を回ることができるという事実は、忌々しいものだっ
た。けれども、それが今日の状況で、昨日もそういう状況で、私はファ
ルージャを立ち去るにあたり裏切り者のように感じていたけれど、チャ
ンスを使えるかどうかもわからなかった。

ヤスミンは怯えていた。彼はモハメドにずっと話し続け、モハメドを運
転席から引っぱり出そうとしていた。銃弾の傷を受けた女性は後部座席
に、やけどをした男性はその前に座り、空箱のダンボール紙を団扇にし
て風をあててもらっていた。熱かった。彼にとっては耐え難かっただろ
う。

サードがバスの所に来て、旅の無事を祈った。彼はデーブに握手してか
ら私と握手した。私は両手で彼の手を握り、「ディル・バラク」、無事
で、と告げた。AK47をもう一方の手に持った13歳にもならないムジャヒ
ディーンにこれ以上馬鹿げた言葉はなかったかも知れない。目と目が
あって、しばらく見つめ合った。彼の目は、炎と恐怖で一杯だった。

彼を連れていくことは出来ないのだろうか? 彼が子供でいられるよう
などこかに連れていくことは、できないのだろうか? 風船のキリンを
あげて、色鉛筆をプレゼントし、歯磨きを忘れないように、ということ
は? この小さな少年の手にライフルを取らしめた人物を捜し出せない
だろうか? 子どもにとってそれがどんなことか誰かに伝えられないだ
ろうか? まわり中、重武装した男だらけで、しかもその多くが味方で
はないようなこの場所に、彼を置いて行かなくてはならないのだろう
か? もちろん、そうなのだ。私は彼を置いて行かなくてはならない。
世界中の子ども兵士と同じように。

帰路は緊張したものだった。バスは砂の窪地にはまりかけ、人々はあら
ゆるものを使ってファルージャから逃げ出していた。トラクターのト
レーラの上にさえ、人がぎっしりで、車は列をなし、ピックアップとバ
スが、人々を、バグダッドという曖昧な避難場所へと連れて言ってい
た。車に乗って列をなした男たちが、家族を安全な場所に連れ出したあ
と、ファルージャに戻るために並んでいた。戦うか、あるいはさらに多
くの人々を避難させるために。運転手は、アッザムを無視して別の道を
選んだ。そのため、私たちは先導車の後ではなくなり、私たちが知って
いるのとは別の武装グループが制圧する道を通ることとなった。

一群の男たちが銃を振ってバスに止まれと命じた。どうやら、彼らは、
米軍兵士が、戦車やヘリにいるのではなく、バスに乗っていると考えて
いたらしい。別の男たちが車から降りて、「サハファ・アムレーキ?」
アメリカ人ジャーナリスト?と叫んだ。バスに乗っていた人たちが、窓
から「アナ・ミン・ファルージャ」私はファルージャから来た、と叫び
返した。銃を持った男たちはバスに乗り込み、それが本当だということ
を確認した。病人と怪我人、老人たち……イラク人。彼らは安心して、
手を振って我々を通した。

アル・グライブで一端停止し、座席を変えた。外国人を前に、イラク人
を見えにくいようにし、私たちは西洋人に見えるように頭のスカーフを
とった。米軍兵士たちは西洋人を見て満足する。兵士たちは西洋人と一
緒にいるイラク人についてはあまり気にしなかった。兵士たちは男とバ
スのチェックをしたが、女性兵士がいなかったので女性はチェックされ
なかった。モハメドは、大丈夫だろうかと私にずっと訊いていた。

「アル-メラーチ・ウィヤナ」と私は彼に言った。天使は私たちの中に
いる。彼は笑った。

それからバグダッドについて、彼らを病院に連れていった。うめき声を
あげて泣いていたやけどの男をスタッフが降ろしたとき、ヌハは涙を流
していた。彼女は私に手を回し、友達になってと言った。私がいると、
彼女は孤独が和らぎ、ひとりぼっちではなく感じる、と。


衛星放送ニュースでは、停戦が継続していると伝えており、ジョージ・
ブッシュは、兵士たちはイースターの日曜休暇中で、「私はイラクで
我々がやっていることが正しいと知っている」とのたまっていた。自宅
の前で非武装の人間を後ろから射殺する、というのが正しいというわけ
だ。

白旗を手にした老母たちを射殺することが正しい? 家から逃げ出そう
としている女性や子供を射殺することが正しい? 救急車をねらい撃ち
することが、正しい?

ジョージよ。私も今となってはわかる。あなたが人々にかくも残虐な行
為を加えて、失うものが何もなくなるまでにすることが、どのようなも
のか、私は知っている。病院が破壊され狙撃兵が狙っており街が封鎖さ
れ援助が届かない中で、麻酔なしで手術することが、どのようなもの
か、私は知っている。それがどのように聞こえるかも、知っている。
救急車に乗っているにもかかわらず、追跡弾が頭をかすめるのがどのよ
うなことかも、私は知っている。胸の中が無くなってしまった男がどの
ようなものか、どんな臭いがするか、そして、妻と子供たちが家からそ
の男の所に飛び出してくるシーンがどんなものか、私は知っている。

これは犯罪である。そして、私たち皆にとっての恥辱である。





翻訳:益岡 賢

[訳者より]

※ジョー・ウィルディングさんは、イラクの子どもたちにサーカスを見
せようという活動をしている外国人のグループ(アーティストと活動家
の集まり)である、「Circus2Iraq」というグループのメンバーです。
http://www.wildfirejo.org.uk/
http://www.wildfirejo.blogspot.com/
(上記にはジョーさんによる他の記事もあり)

大急ぎで訳したので、細かいタイポや誤訳があるかと思いますが、ご容
赦下さい。

ここで描かれている出来事は、「停戦」下でのものです。米軍は「停
戦」と称して空爆や大規模攻撃こそ止めましたが、狙撃兵による狙撃と
攻撃は続けています。そして、今、空爆を再開するとの情報が入ってき
ました。

バグダッド近郊で4人の米国人の遺体が見つかったというニュースがで
かでかと新聞に出ています。ファルージャでは600人もの人々が殺され
ています。子供の犠牲者は100人以上。これらの報道が大見出しになる
ことは、あるのでしょうか。

ジョージ・W・ブッシュ米国大統領のホワイトハウスのFAX番号は、
+1-202-456-2461です。

米国の国連代表部のFAXは:+1-212-415-4443

国務長官には、
http://contact-us.state.gov/ask_form_cat/ask_form_secretary.html
からメッセージを送ることができます。

日本の米国大使館・領事館は:
http://japan.usembassy.gov/tj-main.html
からわかります。ちなみに大使館(東京)の電話は03-3224-5000です。

こんなときですので "Stop Carnage in Fallujah"といった単純なもの
でも。


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