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こんにちは。買おうとしていた商品が値引きされていて、得した気分で帰宅し、値引きシールを剥がして捨てようとしたところ、そのシールが自分の手の甲にピタッと張り付き、一瞬、自分の値段について考えさせられたはれとけです。お詫びがございます。前回の記事を誤って2度投稿してしまいましたので、一つは削除いたしました。申し訳ございませんでした。今回は高校受験で知った親戚の私に対する評価についてお伝えします。母方の親戚は近くに住んていましたので、よく顔を合わせており、かわいがってもらっていました。私は中3になり、高校受験で志望校を決める時期を迎えました。経済的な理由で「高校には行かせてもらえないのかな?」とも考えていましたが進学させてもらえることになりました。当時、受験する高校の数は県立1、私立2、合計3校が主流だったように記憶していますが、私の場合は…というより、はれとけ家の志望校は「必ず受かる県立高一択」でした(笑それ以上の受験料は払えなかったのでしょう。ましてや、私立に通うことなんて無理でした。そんな状況を見ていた親戚たちが動きました。「県立に落ちたらどうする!」「私立は2校受けさせろ!」・・・山が動いたのです。その時の私は心配してくれたことへの感謝よりもランクを下げた県立の志望校(県内でも最下位に近い偏差値)と「名前を書けば受かる」と言われていた私立高に落ちるのではと親戚中から思われていたことへのショックの方が大きかったのです(笑高校受験をきっかけに勉強が不得意な私が親戚中の心配のタネだったことが判明したのです(笑いとこ達は皆、そこそこの進学校に通える成績でしたので、私は異質な存在だったようです。そのことがあるまで、他のいとこ達と変わらずに接してくれ、かわいがってもらっていましたので、そのように思われていたと知り、傷つきました(笑無事に県立高に通うことになりましたが、後から聞いた話によると進学にかかる費用は親戚から借金したようです。そのおかげで最終学歴は「高卒」になりました。高校を出ていなければ今の会社に就職することはできなかったと思います。中卒の両親が借金をしてまで、私と弟を高校に行かせてくれたことを思うと年のせいでしょうか、目頭が熱くなります。本日も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2020.11.16
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こんにちは。「ペプシ」より「ドクターペッパー」、「きのこの山」「たけのこの里」論争を尻目に「すぎのこ村」が好きだったはれとけです。今回は幼少期の着せ替え人形の思い出をお伝えします。私はリカちゃん世代です。近所のお友達の家にはリカちゃん人形やハウスもありました。当時、それがキラキラと眩しくてリカちゃん目当てによく遊びに行っていました(笑私の家にはもちろん、ありません。それでも、紙の着せ替え人形はありました!肩部分に付いているツメ?を折り曲げて着せ替えができるあれです(笑憧れの洋服やバッグ、着物もあって魔法のようにお姫様に変身できることに胸が高鳴り、夢中で遊びました。そんな私の家にもクリスマスの夜、ついにリカちゃんが届くことになるのですが、リカちゃんを手にした喜びより、届けてくれたのがサンタさんではなかったことへの驚きのほうが勝りました(笑小学校低学年だった私はサンタさんの存在を信じ切っていました。クリスマスには毎年、プレゼントが届けられていたからです。当時、OLをしていた母の妹である叔母がよく家に遊びに来ていました。毎月欠かすことなく「なかよし」や「りぼん」を買ってきてくれ、初めて食べたケーキ屋さんのケーキも叔母の手土産でした。そのケーキのあまりの美味しさに、その後は密かにその叔母のことを名前の前にケーキ店名を付けて「〇〇の〇〇ちゃん」と呼んでいました(笑リカちゃんが届けられたクリスマスの夜、私はプレゼントを心待ちにして布団に入りましたが興奮して寝付けずにいました。そしてついにサンタさんが登場したのです。枕元に何かを置く気配に気づき、目を開けるとそこには叔母の姿がありました(笑その時の叔母の「しまった」という表情は今でも忘れられません。そんな叔母のおかげで、学校で漫画の話題についていけましたし、無事にリカちゃんを迎えることもできました。その叔母は今も元気に暮らしています。両親にはできなかった恩返しを叔母にはできる限りしたいと思っています。本日も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2020.09.28
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こんにちは。ここ数年で髪のボリュームが減り、薄毛に怯えるようになったのはバブル期に前髪をトサカのように立て、少し垂らしてスプレーで固めていたのが原因だと疑わないはれとけです。今回は小学生時代に自意識過剰をこじらせてた結果、冬の全校朝会の度に文字通り、苦しい思いをしたエピソードをお伝えします。当時の私はとにかく目立たぬよう息をひそめて学校生活を送っていました。目立つ行為→自分のプライバシーを知られる→貧乏人の子供としていじめられるそんな思考でした。冬場の全校朝礼は寒さの中、グラウンドに整列しなければなりませんのでみんな白い息を吐いていました。その状況下で自分の吐く息の量が他の人たちより、あきらかに多いと感じたのです。息の量が多い→後ろに並んでいる生徒にそれを気づかれる→からかわれるそんな妄想が頭をよぎり、私が取った行動は鼻呼吸をやめ、おちょぼ口で細く、それはそれは細く呼吸をすることでした(笑ですが、それを数回繰り返していると呼吸が苦しくなり、どうしても我慢が出来なくなって、数回に1回は大きく呼吸をしなければなりません。大きく呼吸をするときは頭を下げ、なるべく制服に白い息が当たるようにしました。そうすることで、白い息が分散されると考えたのです(笑今思うと気のせいだったのかもしれませんが、いつも何かに怯えて生活していた私はそんなくだらない妄想にかられ、がんじがらめの毎日を送っていました。このような経験をお持ちの方はおそらくいらっしゃらないでしょうね(笑もし、いらっしゃったらコメント欄に「います」の一言だけでもいただけたら幸いです。いないか~(笑本日も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2020.09.24
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こんにちは。最もテンションの上がる曲がゼスプリCMソング「キウイ食って アゲリシャス~ アゲリシャス~ アゲアゲリシャス」のはれとけです。今回も幼少期のほろ苦い思い出を書かせていただきます。私が小学生の頃は個人情報を保護する法律はありませんでしたので、当時の生徒名簿には住所や電話番号に加え、親の職業も記載されていました。市立校でしたが、クラスメイトの中には親が医師や会社経営者の子もいました。そんな中、私の親の職業欄に記されていたのは「無職」でした。父は働いていた時期もありましたが、ちょっと残念な人でしたので、無職の期間が長く続いていました。「無職」と記された生徒名簿が配られ時は恥ずかしさと父への怒りが込み上げ、私はそれを机の下でクシャクシャに握りつぶしました。本当は破り捨てたい気持ちでしたが、子供心にも家に持ち帰らないと大変なことになると考えたのでしょう。私はそのクシャクシャにされた名簿を家に持ち帰り、母に投げ捨てるように渡しました。今となって思えば、私の気持ちをすぐに察した母はさぞや辛かったことでしょう。こうして幼少期の事を振り返ると後悔と懺悔の事ばかりが思い出されますが。次回は母との楽しかった思い出を書きたいと思います。本日も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2020.09.20
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こんにちは。通勤のバス車内で毎日のように見かけるおばあさんが実はおじいさんだったことが判明し、思わず二度見をしてしまったはれとけです。今回も幼少期のちょっとほろ苦い思い出話を書かせていただきます。小学校で習字の授業が始まる際、習字道具を揃えることになりました。教材は学校で取りまとめて、みんなおそろいの品を使っていましたが、私の家は教材を買う余裕がありませんでしたので、ほとんどの物がお下がりでした。習字道具もしかり、いとこのお下がりをもらい受けることになりました。そのいとこは10歳以上も年上でしかも男の子ですので、もらい受けた道具は同級生たちの物とはあきらかに色もデザインも違っていました。昭和40年代の教材の色は男子は黒、女子は赤が定番でしたが、その道具入れは黄土色でした。私は「赤じゃないからこんなの使いたくない!」と抵抗しました。そこで母がとった行動は・・・そのお下がりの道具入れを「ペンキで染める!」でした(笑今でもスプレーで真っ赤に染められるさまがよみがえります。抵抗むなしく、その不自然に赤く染められた道具を使うことになりましたが、習字の授業の度に恥ずかしくて、身を縮め、字を書くどころではありませんでした(笑当時の母にも譲れない訳があったので、仕方ありませんし、自分の子供にみじめな思いをさせることは親として何より辛い事だったろうなぁ。と今は思います。小学生だったとは言え、もっと母の気持ちに寄り添うことが出来ていればと悔やんでいますが、母への感謝を心に刻むことで少しでも許してもらえるよう願うばかりです。本日も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2020.09.19
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こんにちは。会社の同僚のスカートのファスナーが開いていたので、それを伝えた矢先に自分のスカートの後部に大きなシミが付いていることを知らせてもらったはれとけです。これからしばらくは幼少期の貧乏でちょっとほろ苦い思い出を書きたいと思います。小学校低学年の頃、通学のバス車内で同級生たちに「はれとけちゃんの家はどれ?」と聞かれ、「あれだよ、青い屋根の2階建ての」と指差した家はご近所の弟の同級生の家でした。ボロ家を知られるのが恥ずかしくて、すぐにバレるウソをついたのです。その時の同級生たちの「ふぅ~ん」と腑に落ちないような表情は今でも脳裏に焼き付いています。今思えば、知った上で聞いたのかもしれませんね。それからはウソの上塗りでとても苦しい思いをしました(笑当時、ありのままの自分を受け入れて正直でいられたら、もっと楽に生きられたのにと今更ながら後悔しています。お笑い芸人さんで貧乏をネタに笑いをとったり、そのネタで本を出版された方がいらっしゃいますが、弱みを強みに変えてたくましく生きる姿勢に感服します。私も弱みを恥じることなく受け入れて、もっと強くなりたいと思っていますが、このブログを書くこと自体が弱みを受け入れることになっているような気がしてきています。本日も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2020.09.18
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