第1話 さいごのひなたぼっこ。


いのち めぐり めぐって まわれ

もいちど あいたい いのちよ めぐれ






廃坑街七番地  霊送還編






午前7時、未だ睡魔に身を委ねている若者達の鼓膜を一気に突き破る。

「あぁーさーめーしぃー!」

寮の全部屋に設置されたスピーカーから、軽くキレた自分の怒声。

寝不足の学生たちは顔をしかめながら、ランチルームまで歩いてきたり這ってきたり。

第2寮の朝はいつもこう。

「トバ先輩ぃ」

「寮長ー」

「どしたー」

黒髪短髪の下にうっすらと汗を浮かべながら、後輩達にも応対する。かなりイラついた表情で、だけど妙に生き生きと。だけど、

「501のふたりまだ来てませーん」

このひと言を聞くと

「はぁ!?またかよ!?」

本気でキレる。



1階がランチルーム、会議室。部屋は2階から5階まで各階ふたりひと組で5部屋ずつ。

この寮について文章で説明しなさいと言われたら難しい。

中学校が少し小さくなって、中にアパートが入っている…そんなところかなと思う。

(ってか将来、まじでストレスによる脱毛症とかになるんじゃないかな…)

本気で心配しつつ、階段を5階まで一気に駆け上がる。どの時期でも朝のコンクリートビル…第2寮は冷えきっている。

本来ならこんなところを朝から走り回りたくないのだが仕方がない。

寮生を起こすのは寮長の仕事で、寮生が全員揃わないと朝飯にありつけないのだから。

息切れしつつ、やっとのことで5階につく。

トバは寮の一番上の一番端っこ[501号室]のプレートの下を激しくノックした。

きゃー!と慌ただしい叫び声が聞こえてきて、しばらくするとドアが内側から開く。

「ごめんなさい!ヒナタが起きなくてっ」

制服にニーハイソックス、長い髪をツインテールにした女の子と、

「え、あさめし…?」

その女の子に引きずられている寝ぼけたイトコ。女としてありえないことになっているイトコ。

髪の毛ぼさぼさ、制服ぐちゃぐちゃ、遅刻常習犯(主にこいつのせいで朝食が遅れる)。

「鹿央、毎朝訊くけど殴っていい?」

さすがに怒りがふつふつと沸いてくる。毎朝空腹の早起き組に睨まれる寮長の身にもなってみろ。

軽く手を振り上げるのだが当の本人は飄々として、濃紺のネクタイを結んでいる。

「どうぞバンビならいくらでも殴ってくださいよ」

そしてさらりとルームメイトを差し出した。

「えっあたし!?」新湊川伴美は本気で怖がり頭をガードした。いや、殴らないからね。

「さーて今日の朝飯は何かなー」

「ちょっ、待ってよヒナター」

人に呼びに来させといてスキップで楽しそうに階段を駆けていく。

「いいご身分だなオイ」

何故かちょっと面白そうに苦笑して、あとを追う。








きゃっほう、1時間目終了。朝飯が和食だったので気分が良い気がする。

強いていえばヨーグルトが欲しかったけど。

寝起きは最悪でも、朝飯で人は幸せになれる。

それにしても科学がさっぱり頭に入ってこなかったなー…。

「ヒナタ、次、実技の授業だよ」

プリント類を散らかしたまま机でぼーっと空を眺めていると、教科書とノート、

それからごつくて重い送還銃を持ってバンビが背中に寄り掛かってきた。

「んー。今日何だろ」

たいして取り留めの無い返事を返し、机の中から教科書、ノート、それから送還銃…

「…送還銃忘れた」

「ちょっ、銃無いとか何もできないじゃん」

「先生に借りてくるから教科書持ってって」

自分の九割はだるさでできているんじゃないかと思うくらい、のろく立ち上がる。

「えー、うん。先行ってるよ」

バンビの言葉にうなずいて、職員室に向かって秒速1メートルで歩く(全然身体が進まないな…)。




「失礼しまーす。山田先生いますか」

「ん、何っ?」

横長い職員室のちょうど真ん中あたり、窓側。

実技担当・山田先生は、きょとんとした顔で中途半端に腰を上げていた。

相変わらず肌が白くて童顔でオンナノコみたいなオジサン(確かもう30歳過ぎてる)。

「どうしたの?」

「送還銃忘れたー」

「ええー」

本気で困った顔をして「どうしよっか。どうしよう」つぶやいて頭を抱え始める。

「いや…予備の送還銃貸してほしいんですけど」

ヒナタは呆れ果てたように言った。何だこの先生。

「あ、そっか。予備とか忘れてたよ!準備室にあるんだっけ!」

ぱぁっと脳内が花畑になったみたいに顔を上げる。

それからスチール机の一番下の引き出しを開けて、いくつか鍵が連なったキーホルダーを取り出した。なんか変なマスコットがついてる。

「なんですかこれ」

落花生をかぶったラッコ…?のマスコット。

「ん?これ?」先生はキーホルダーを指差した。

「“らっこせい”っていうんだよ。千葉の特産品のピーナッツとラッコをあわせたみたい。この前水族館行ったんだ~」

そう言ってにこにこと身体を左右に揺らせている。

「可愛いですね」

単調に答えた。

「そうでしょ?ぱっと見て決めちゃった」

「あ、いや先生のことです」

「えっ」

短く言葉を切って、またうーん…とかあぁーとか悩み始めた。そしてちょっと情けない顔をして、

「昔から男らしくないって言われてるんだよね…」

本格的に落ち込んでしまった。

「まぁあまり深く考えないでください。ちょいワル親父より大人カワイイの時代ですよ」

またも単調に答えて、鍵を受け取った。

「そっか。ありがと、鹿央さん」

無垢な笑顔を向けられる。ちょっと照れたような感情が声帯の辺りで渦を巻いた。

「えー…じゃあ、送還銃の予備借ります」

軽く会釈をして職員室をあとにする。

のろのろと廊下を歩きながら見える外の景色はただひとつ、ガラス窓ごしの灰色の空。

今日は晴れ。空は冴えない灰白色。“青空”って熟語があるけれど、空が青いなんて考えられない。

旧坑道街には色がない。

この学校を中心とした住宅地区はコンクリートの社宅が密集し、もっと向こうの川沿いには鉱物を精製する工場が立ち並んでいる。

しばらく眺めていると工場地区の大量な煙突がぼうぼうと鈍い音を吐き出し、空を汚した。

「つまんねー…」

ふいに立ち止まって、ぼんやりと口が勝手に動く。ふわぁ、とあくびをしてまた歩き始める。

階段を下りるとすぐに実技実験室。教室から生徒達の騒ぐ声が漏れている。うちのクラスうるさいな…。

その横の準備室のドアをらっこせいパワーで開けた(普通に鍵を差し込んだだけ)。

ガラガラ…

戸を引くと、どんぐりをたくさん転がした時のような音がした。

準備室、初めて入った。あまり使われないのか埃っぽい。

5畳程度の部屋一面に銀色の錆びたスチール棚。

箱に詰められたプリントや薬品、リボン、ねじ…何これ全部授業に必要あるんですかね。

ヒナタはきょろきょろと辺りを見回して、上から2番目の棚に[送還銃・予備]と殴り書きされた小さめのダンボールを見つけた。

159センチの身長をめいっぱい伸ばして、ダンボールの角に爪を引っ掻ける。

「あ」

箱が垂直落下した。上が開いてたけど幸い物は落ちなかった。ラッキー。

中には緑がかった黒の旧型送還銃がいくつか乱雑に詰め込まれている。

「予備って旧型かよ…」

ヒナタは露骨に顔をしかめた。仕方ないか…忘れたの自分だし。

溜息もそこそこに、ダンボール箱から一番汚くない銃をつまんで出す。

この型は旧型の中でも比較的新しい第3期のものだ。

今から90年ほど前―…70年代の革命的な発掘の後の異常な高度科学成長の産物、送還銃。

現在使われている新型と、この旧型との違いはいちいちスライドを引かなければならないところだ。

昔、まだ霊分野の知識が乏しかった時代は“人間用の”拳銃というものは弾を入れて、

その弾を飛ばして使うものだったので、送還銃も弾丸式で作られていたらしい。

その弾の補充にスライドが必要だったとかなんとか。

だけどあまりにも弾丸の命中率が悪かったので改良に改良を重ねた結果、今では銃に内蔵された鉱石からの

高純度放射レーザーでとてもスマートな送還が出来るようになりましたとさ。

教科書で見たことはあったけど、実際に旧型に触るのは初めてだったので妙に新鮮な感じがした。

こっそりと隠れて味見をするような、軽いイタズラ心で試しにスライドを引いてみる。

かしゃ、と響きのない掠れた音がした。

「お…」

ハマるわこれ。

何度もスライドを引いたり戻したり。

光がほとんど差し込まない小部屋でこんなことをしてると、何か変な人みたいだな(いや、よくトバ先輩には

「お前は変な人間、つまり変人だ」って言われるけど。断じて認めませんから)。

かしゃかしゃかしゃかしゃ…

そのまま無我夢中で童心に帰ったような気分を味わっていると、ふいに背後に気配を感じた。

「何やってるの鹿央さん…ぷぷ」

「うわっ…先生、いつからいたんですか」

本日2回目の山田先生。さほど大きくない背を少し丸めて、お腹を抱えて笑いをこらえている。

さっきはワイシャツにセーターだったけど、今はその上に白衣を羽織っていた。

「鹿央さん、すごいクールというか大人っぽいというか、冷めてるなって思ってたけど」

いや冷めてるは余計な褒め言葉なんですけど、とツッコミを入れようとすると、

「鹿央さんも“可愛いですね”」

先生はまた無垢にはにかんでみせた。どんな表情をしたらいいかわからなくて、適当にうなずいておく。

この人は大人なのに自分より全然汚れてなくて、自分が一度も会ったことのない性質の人間で、扱い方がさっぱりわからない。

キーンコーン…

聞き飽きた予鈴が生温い空気に飽和していく。

「あっ鳴っちゃった!ほら鹿央さんも」

「あ、はーい…」

我ながら消えそうな返事をした。名残惜しいような気持ちのまま立ち上がる。

埃が少し舞って、ヒナタの頬を不自然に撫でた。

予備の送還銃を片手に、山田先生が開けてくれたドアを抜け廊下へ出て、隣の実技室に入る。

実技室は普通の教室2個分の広さで、プラネタリウムのように暗い。半分が何も無い空間。

ここで3人ひと組で実技の授業を行っていく。

もう半分は見るだけでややこしい機械と生徒が順番を待つためのベンチ。

その間はガラスで仕切られていて、他の生徒の演習を見れるようになっている。

「ヒナター」

バンビが手を挙げて自分の名前を呼んだ。暗い中で淡く浮き上がる白い手を頼りに、のろのろと自分の席へ歩いていく。

いちばん右のいちばん後ろ、ここがグループB-14の定位置。大人3人がやっと座れるくらいの長椅子にバンビ、ネイトが座っている。

2人が開けておいてくれたわずかなスペースにちょこんと腰を下ろす。

「借りれた?送還銃」

「ん」

バンビはいつの間にか栗色のツインテールをほどいて、ひとつのおだんごにしていた。

もしやこの前の実技のとき、勢いよく振り向いたバンビの髪がネイトの顔にビンタを食らわせたからか?

「ヒナタ、あれ、それキョウガタ?」

おもむろにネイトはカタコトな言葉を発した。一瞬何のことかわからなかったが、すぐに送還銃のことだと気がつく。

「きゅうがた、ね。予備の銃これしかなかった」

ネイトは「いいナー」と、またちょっと変なアクセントで言った。ネイトはカナダ出身のクォーターで、この学校唯一の留学生。

もう慣れてしまったので何とも思わないが、入学当時は見事なほどの金髪碧眼にびっくりした。

「はい、じゃあ実技の授業はじめます。きをつけ、れーい」

山田先生の号令でざわめきが静止する。3人も口をつぐみ、軽く頭を下げる。

「はい、じゃー今日からはテスターのレベルをひとつ上げてやりまーす」

先生のこの発言に若干みんなの顔が好奇心に満ちた。
「レベル上げるってどのくらいー?」

誰かが楽しそうに訊いた。山田先生…タメ語とかなめられてるよなぁ…。

「うーんと、今日から人間霊の送還練習をしていくよ」

先生が教科書を見つつ告げると、「おぉっ」と自分以外の歓声が沸いた。

何だか取り残された気分で、ちょっと溜息をつく。…そりゃ喜ぶか。

送還師になるためにわざわざ中3で高2レベルの普通教育をやってのけ、高校での勉強のほとんどを科学に捧げることを決めた生徒たち。

入学してから半年ちょい経つが、今までやらされてきたのは動物の霊の送還だけだった。

畜生霊の送還は簡単。送還銃の内部の鉱石に繋がる引き金に、指先から自分の生命エネルギーをほんの少し送り込む。

そして、引き金を引くだけ。放射された生命エネルギーは霊を構築する分子をばらばらにして空気中に拡散させる―…俗にいう成仏。

動物は人間と違って純粋だから生命エネルギーが少しでも綺麗な命にできるんだよと、小さい頃に陽詩が言っていたのを覚えている。

「やったね」

バンビが嬉しそうに囁いた。ちょっとだけためらって、ゆっくりと2回うなずく。

ここに通う生徒のほとんどは人間霊の送還を目的として来ている。亡くした大切な人を、健やかに次世代へ送り出すために。

だから一刻も早く人間霊の送還をしたいんだと思う。

…だけど、今さらになってそれに疑問を感じずにいられない。

この街に来て、あの寮で過ごして半年。ベランダから見える旧坑道で、ときどきヘルメットを被った少年や年配の男の人が悲しそうにこっちを見てた。

たぶん自分しか見えてなかったんだと思う。

立ち入り禁止と書かれた黄色いテープと青いビニールシートに覆われた、地面に掘られた大穴から這い出すように“彼ら”が助けを求めていたこと。

今までの自分は余裕ゼロで、ただ送還師になりたくて、何も考えていなかった。

「はい、じゃあまず教科書38ページを、鹿央さん読んでください」

ぼんやりとしていた中、急に自分の名前が耳に入って一瞬何が起きたのかわからなかった。「教科書38ペーズィ」ネイトが言う。

急いで、教科書を開き

「……」

口をつぐむ。

「どうしたの?鹿央さん」

「はぁ…あの、暗くて読めません」

飽きれ半分で言って教科書を閉じた。

「…あっ」

あまりのマヌケさに、生徒から喝采が送られる。「き、教科書はやっぱいいです」先生は恥ずかしそうに言った。だからなめられるんだって…。

拍子抜けしてしまい、みんなが声をあげて笑っていた。高校生だなと思って和む反面、ウザイ。



クラスメートが一次方程式を覚える頃には平方根を終えていなきゃいけなかった。

トバ先輩には何度も何度も「俺がなるからおまえはやめろ」って言われた。それでも吐きそうになるくらい勉強することを止められなかった。

たぶんみんなもそうだった。辛くても霊を送り出す方法を知りたかったんじゃないのかな。

人の命は笑いながら片手間に送り出せるものじゃないんじゃないですか。




「あー…」

そう思う自分がこれまた最高にウザイ。

「ヒナタ、どシタの?」

ぼーっとしてる、とネイトが顔の前で手をひらひらと振った。

「なんでもないよ」

焦点がどこにも合わない。昔から考えこむとこうなる。手元を見ていたはずなのに、いつの間にか床を通り過ぎていて。

ゆっくりとゆっくりと深いところまで沈んでいく。そうするといつの間にか現在が過去になっていく。

「はぁ…」

肺の中にあった息だけをゆっくりと吐き出す。たいして音も立てなかったのにバンビは気付いたらしく、同じように溜息をついてきた。

「どうしたのさ。さっきから暗いオーラ出しまくり」

バンビは肩をすくめて言う。ちょっとだけ口を開いて、だけど結局また閉じる。

一拍置いて息を吸ってから、鼻で笑って言った。

「あらーすいませんねー」

「ちょ、何そのバカにしたような目線!」

案の定、バンビの心配するような視線はすぐに薄れて、眉間にしわが寄った。

「えーバカにしてないですよ」

「コワイロが馬鹿にしてるよ、ヒナタ」

あきれたようにネイトが両の手のひらを上に向けた。ちょっと舌を出して足を組む。

そうやっていつものように重い空気をあいまいに溶かした。

「もー!」

バンビは未だ怒ったままだけど。

自分が本心を悟られまいとするとき、主に犠牲になるのは新湊川で、それに関してはちょっと罪悪感を感じている。

まあ、面白いからいいか。

「次はB14の、鹿央さん、新湊川さん、七原くん」

山田先生がおもむろに名前を呼んだ。そういえば前のベンチの3人組がいない。

辺りを見回すと、ガラス張りの向こうを男子3人がぐったりとした顔でとぼとぼ歩いていた。妙に疲れた表情。

「ハーイ」

ネイトだけが返事をした。忘れたら嫌だから、今のうちに銃弾が入ってるのを確認して、スライドを引いて置く。それから重い腰をあげた。

「あー…どっこいしょ」

つい口から言葉がすべり出た。あ、と気付いたときにはバンビがにんまりと笑っている。

「ヒナタおばさんみたい~」

口もとに手を添えて笑いをこらえている。軽く横目で睨んで額にでこピンしてやった。

「うっさいよハートエイジ小学生」

「いったい。ちょ、何それ」

バンビは左手で額を押さえて頬をふくらます。

「もしかしてセイシン年齢のコト?」

ネイトが笑って耳打ちした。それに無言で数回うなずく。

「うわ、何こそこそ笑ってるのさ。2人でグルだね?グルってるね?」

いじけた小鹿は理解しにくい言葉を作っていた。グルってる、て。

表面失笑、内心では大笑いでガラス壁まで歩いていく。

「今日の割り振りは?」

「イツモの」

山田先生の問いにネイトが酒屋の常連客のようにすばやく応じた。

割り振りというのは霊送還演習においてのグループメンバー各自の役割のこと。3人組の場合は測量、引付、送還に分かれる。

測量が霊の質量などを分析し、引付が霊のオトリになる。霊の分析が終えたところで送還がほどよく引き金を引く。

これが意外にシンプルな霊送還の手順。

大抵のグループはこの役割を毎回交換するのだが、B14はどうも“イツモの”じゃないとしっくりこない。

ネイトのすばやい答えにバンビは「またかぁー…」と渋い顔をした。

「だってバンにはコレ以外できないと思うヨ?」

「なんでさ!」

「全然当たんないじゃんか。的に」

「うわ、言うなヒナタっ」

しーっ、とバンビは指を立てて口もとにあてる。真似して同じ行動をとってみると、頬をふくらませてそっぽを向いてしまった。

「はい、じゃあさっき話した通りやってね」

山田先生は名簿にチェックを付けながら爽笑した。ネイトとバンビは首を縦に振って「はい」と言う。

一拍遅れて同じく「はい」と口にしてから、何かおかしいことに気がつく。

“さっき話した通り”

え、さっき何を話したの?

いくら記憶を探っても真っ白。おそらく完璧に話を聞いていなかった。

うわ、と焦ったときにはすでに遅く、3人を残してガラスのドアが閉められた。

壁の向こうでクラスメートが眼孔を見開いている。何でいつもは喋りくってるくせにB14ときはまじまじ見てんだよ!

先生が壁に埋め込まれているボタンを押した。

すると天井にぽっかりと空いた鍋くらいの大きさの穴からテスター<人工擬似霊>が放される。

青白く光るテスターは煙草の煙のようにゆらゆらと空気中を下降してきて、ゆっくりと人型を形成した。

その光景に、目が離せなくなる。畜生霊の送還で慣れているはずなのに、何故か今日は幻想的に見えた。

灰色の砂が陽の下では汚くとも、暗い中で見ると映えるようなほんの少しの美しさ。

「ヒナタ!」

バンビの声にはっと我に返り、また右手の銃の感触を確認する。集中しろ、自分。

言い聞かせてから2人に目配せをして三角形の陣形を組んだ。

ネイトがすぐさま分析を始める。密度や浮遊状態を見て、ありとあらゆる公式から送還銃に入れる生命エネルギーの量を決定する。

それが典型的理数タイプ・ネイトにぴったりの仕事。

「アレ?」

ネイトが変な顔をして裏返った声を発した。

いつもは20秒もかけず測量を終えるネイトが、実技開始からすでに1分を過ぎようとしている。

心配したバンビが、若干陣形を崩してネイトに近寄った。離れていて声がここまで届かないが、どうやら測量に失敗したようだった。嘘だろ、あのネイト七原が?

どうすることも出来ず、歯を食いしばってひたすらネイトを待っていると、部屋の中央でゆらゆらしていたテスターが動き始める。

今までこんなに時間がかかったことが無いから忘れてた、1分を過ぎるとテスターは動くんだ。

「…ちっ」反射的に舌打ちする。こうなると引付が動かないといけない。

「バンビ!」

叫ぶとようやくテスターの動きに気付いたらしく、テスターの前に両手を広げて立ちはだかった。

人型の“顔”が落ちている10円玉のようにバンビを見る。

銃が扱えないバンビは自動的に“おとり役”。一見簡単そうな引付だが、一番危険を伴う。

まれに霊に身体に入り込まれることがあるのだ。すると神経麻痺(金縛りとも言われる)を起こしたり、自由が利かなくなる。

学校内のテスターでは大して健康に左右しないとは起きないと思うが、トバ先輩が1年生のときに、テスターに入り込まれて

トラウマになり退学した人がいたらしいというから、これは一大事だな。ひさびさに胃の辺りが落ち着かない。

「うわぁぁぁ~」

情けない声で叫びながらバンビがゆっくり後退していく。テスターはバンビを追いかけるようにのそのそと“足”を動かす。

その隙を見計らってネイトのもとに駆けた。

「どうしたんだよ」

「わかんナイ、何か良く見えナイ」

ネイトはそう言って右目をこすった。それに妙な違和感を感じる。

「待て」わりと背の高いネイトの肩を背伸びして両手でつかむ。「ネイト今日コンタクトは」

「してナイ」

「じゃあ何でメガネしてないんだよ」

「あっキョーシツ!」

「馬鹿かっ」

ツッコミを即座に突き刺し、テスターに向けて銃を構えた。バンビが叫びまくっている。うるさい。

早いとこ送還しないとバンビのトラウマがどうとか以前に、自分の鼓膜が破れる。

右手の指先に意識を集中する。体中の血液を集めるようなイメージ。測量出来ないんなら感覚分量。

味付けが適当でもうまく料理が作れるときはある。

ここだ、と感じたままに撃った。放射されたエネルギーは人型の太腿あたりにヒット。したにも関わらず、青白い光の集合体は分散しなかった。

「何で消えねぇんだよ!」

半ばキレ気味でネイトに八つ当たった。困惑気味にネイトが口を開く。

「人間レイは心臓近くじゃナイと送還できナイって、さっき山田先生が」

「うわっ…」

自分が浅はかでしょうがなかった。マジ最悪。本気で頭を抱える。ちゃんと話聞いてろよ。

片手間に送還するなとか、自分に言う言葉だ。

首をうなだれて、一度だけ瞬きをする。それから顔を上げて気を取り直すように予備送還銃のスライドを引いた。

「バンビ、止まれ!」

ほんの少し低い声音で呼びかける。バンビは今にも叫びだしそうな口を真一文字に閉じて、部屋の角で立ち止まった。

バンビが足を止めるのとほぼ同時に人間霊の動きが鈍くなった。

方膝をついて、肩を締めて。腕を前に突き出す。生命エネルギー注入。

銃を斜に構えて白いもやもやの中心に銃口を合わせる。

「心臓…ここだっ」

ひゅんと風を切って、オレンジ色の光が細い糸をひきながら真っ直ぐに跳んだ。バンビが目を固くつぶる。

カァ…ン…

金属と金属をこすったような妙に余韻を引く音と共に、テスターが分散した。

しばらく3人とも息を止めたまま塵と化した霊を見つめる。それはゆっくりとゆっくりと暗闇に溶けて目に見えなくなった。

「…っはぁ」

送還完了。一気に疲れが出て、立てていた膝が、がくんと床に堕ちる。

自分だけではなく、バンビ、ネイトも床にへたり込んだ。今なら解かるぞ。前の席の生徒があんなにも疲れきった顔をしていたわけが。

ガラスのドアが開いて、山田先生が中に入ってきた。

「よくやったね3人とも!」

嬉しそうにそう言って、腕を引っ張り立ち上がらせてくれる。脚は緊張がほどけてふにゃふにゃなのに、送還銃を握った右手だけはひどく強張っていた。

ネイトもよろよろと立ち上がりバンビを起こしに行く。バンビは差し出された腕に泣きついた。

「怖かったぁぁぁぁ」

「よしよし頑張ったネ」

ネイトが頭を撫でておだんごをぐちゃぐちゃにしながら白い腕を引く。

“バンビ”が生まれたての“小鹿”のように膝を内側に曲げながら立った。その光景を見て、先生は肩をすくめて苦笑い。

自分も同じく苦笑して、空気を無視しつつ単調に言った。

「バンビが立ったーバンビが立ったー」

「ぶっ」

山田先生が右で吹き出した。それを見てバンビの頬がもちのように膨らむ。

「うわぁまたバカにしてっ」

「山田センセイも笑ってるネ」

「あははごめんごめん」

「山田くん座布団一枚持ってきて」

「ちょっ、笑点ですか!」

テンポの速いボケツッコミが続く。他の生徒は唖然してるか呆れてるかで、とにかくB14は浮いていた。

やばい、これ今流行のKY(空気読めない)ってやつじゃね?

「あはははっ」

本気で山田先生のツボに入ったらしく、大人気ないほど腹を抱えて笑い出した。

「先生笑いすぎっ」

バンビが腰に手を当てて口をとがらせる。

「あぁーごめんごめん」先生は何度か深呼吸をしてから「でもまさか、送還できるグループがいるとは思わなかったよ」さらりと言った。

『え?』

たった一文字が見事にシンクロする。

「うん、このレベルはB14が初めてだよ」

「…まじですか」

「まじですよ」

それを聞いて、バンビの顔がみるみる笑顔に変わる。どんだけ喜怒哀楽あるんだよこの娘はほんとに。

「うちらすごいね!」

「そうだネ!僕は何もやってナイけどネ!」

ネイトがそんなことを言っている。

「私もだよ?今日はヒナタの活躍だよね。すごかったよー」

「えーそんなことあるね」

目線を逸らして口角を曲げた。

「うわ、ちょっとは謙虚に『そんなことないよ、みんなで頑張ったじゃない』とか言いなよ!」

「人間的に謙虚になろうネ、ヒナタ」

「あ、ほらもう次のグループだから退こうよ」

ネイトに諭されてしまうともう何も言えなかったので話を逸らす。ガラス壁の向こうでB15が待機していた。

待たせてしまってすいませんね、と心の中だけで謝罪しておく。

「鹿央たちの後ってプレッシャーやなぁ」

通り過ぎざま、B15のリーダーのスポーツ刈りの男子が溜息をついてぼそっと言うのが聞こえた。

ちょっと振り返ると、バンビとネイトがにやりと笑ってピースをする。それに送還銃を振って答えた。







カウンターから身を乗り出して食堂を覗く。大時計が5時半を指していた。そろそろ急がないとヤバイな。寮生が腹を胃液だけにして帰ってくる。

「鹿央ー味噌汁出来たけど」

キッチンの奥から南部が呼んだ。「今行く」小皿を1枚食器棚から取って、声の方に向かう。

ガスコンロの前で紺色のエプロンをしたジャージ姿の、イトコ以上に女に見えない女子生徒がおたま片手に仁王立ちしていた。

南部からおたまを受け取り、でかい鍋から味噌汁を小皿にひとすくい。

寮生40人あまりの食事を作るためのキッチンは、“給食室”と呼ばれている。

しかしこの寮には“給食室”で働きたいという“給食のおばさん”がいないかため、寮生が週交代で給食当番。

料理が美味い週と正直不味い週があるが誰も文句をつけてはいけない。

文句あるんならお前が作れって話になるからだ。実際に言われて過去1週間1人で頑張った勇者がいたらしいけど。

変な話を思い出してのどの奥で笑いつつ、小皿を傾け味のチェック。

「…薄」

素直な感情がつい口を滑った。

「はぁ?だからおまえが味付けしろっつっただろさっき!」

南部が手元の包丁を掲げて(危なっ!)耳元で怒鳴る。

「別に味噌足せばいいじゃん…」

朝にも増して溜息をつく。ふん、と怒ったんだか納得したんだかよくわからない返答をして、南部は冷蔵庫に味噌を取りに行った。

この寮でいちばん男らしい女だと思われる南部は元グループ演習チームメイト。

あの凶暴的かつ活動的な精神で主に送還を担当していた。

3人組の演習は2年生で終わるので、3年になって半年、南部と話したことはほとんど無かった気がするけど…悪い意味で変わってない。

どうして俺の周りには普通の女の子がいないんだろう。

高校生活において輝ける青春!を求めているわけではないにしろ、もうちょっと心の保養になるようなものが欲しいと思う。

例えば可愛らしいイトコとか、優しげなチームメイトとか。

想像して、即座に現実には無理と直感。らしくもなく肩を落とした。

ちょうどその時、玄関から直結している食堂のエントランスに3人の後輩が姿を現した。その顔ぶれを見て、再び肩を落とす。

「ただいまー」

「タダイマ!」

「ただいまぁ」

三種三様な声のトーンで楽しそうにこっちに手を振ってきた。

「おーっ」南部がおたまを振り回して応じる。味噌汁が飛び散って顔にかかる。

「南部…」

「え? あー、ごめんなさいねー」

エプロンの裾で頬をつたう液体をぬぐった。何か謝罪に誠意が感じられないんだけど。

しかも知らぬ間に新湊川、七原、鹿央の3人がカウンターに立っている。こいつら瞬間移動したよ。

「うわぁ南部先輩が給食当番やってる」

「うわぁって何ですか小鹿のバンビちゃん」

「バンビじゃなくてトモミです。何か最近本名が忘れ去られてる気がするよ?」

「昨日ヤマダ先生にも“バンビサン”って言われちゃったもんネ」

カウンターに身を乗り出してキッチンを覗きしゃべりまくる。まるで餌を待つ鳥のヒナだな。

「今日の夕飯何」

鹿央がカウンターに頬づえをつきながらいつものように言う。こいつはたいてい飯の心配しかしていない。

「ほっけと味噌汁と五穀ご飯」

いかにも呆れた顔で答えてやると、ちょっと嬉しそうに小さくガッツポーズをした。

今日のメニューは俺の担当だったから魚にした。鹿央はヨーグルトの次に魚が好きだから。自分が肉が苦手だからというのもあるけど。

「やっぱ頑張るといいことあるもんだねぇ」

「ん? 何を頑張ったんだよ」

還暦迎えるばあさんのように鹿央がつぶやいたので、おもむろにつっこんだ。

あぁ、と思いついたように新湊川が笑う。

「今日人間霊の送還に入って、ヒナタが活躍したんだよねー」

「ネー」

七原が復唱すると、鹿央が得意気にうんうんと頷いた。何したんだ、と南部が話を促す。

「学年で最初に人間霊の送還を成功させたんですよ」

面倒くさそうな声音で鹿央が言った。それにはやし立てるように七原と小鹿が早口でべらべらと経緯を述べる。

「すげーじゃん」

話の全容を聞いてほどほどに感心した。まぁ3人ともぐだぐだだけどな、と胸中でつぶやきつつ。それに南部がでも、と続けた。

「うちらのグループも最初だったけどね。な?鹿央」

「あ?うん」

当たり前のように肯定すると、新湊川が「なんだぁ」と残念そうな顔をして、鹿央と七原が舌打ちした。

「うっわ今舌打ちしただろ」

「トバリと同じは最悪だネ」

「最悪だ」

いかめしい顔をして軽く睨み合う。

「あのなぁっ。七原また呼び捨てにしたし。先輩と呼べ先輩と」

「ヤダ。だって僕ゴガク留学で2年ダブってるからトバリと同い年だもん」無駄に偉そうに言った。

「え?そうなの?初耳だよ」

「バンビ知らなかったんだー。後れてるー」

南部がおちょくるように戸惑う新湊川の頭を撫でる。

「南部先輩知ってたの?帷(とばり)先輩も?ヒナタも?」

皆が同時に頷くと、いじけた子供のように頬を膨らませた。それを見た鹿央がフォローなんだか何なんだか、

「大丈夫だよバンビ。この人ネイトの名前をついこの前まで“ナイト”だと思ってたからね」

と言って俺を指差した。

「うわバカ言うなっ」

慌てて鹿央の手をつかんで引っ込める。3人がへえぇと悪代官のようにひそひそ話を始めた。

「ったくお前は」半眼でイトコを睨む。が、本人はやはり飄々としていた。うぜえ…。

ふと自分の左手に目を落とすと、すっぽり手のひらに収まった鹿央の手がいやに青白いことに気がついた。

「鹿央具合でも悪い?」

若干心配になって声をかける。大分身長差があるので鹿央は見上げるようにこっちを見た。

俺の視線を辿り、その先が自分の右手であることに怪訝な顔をした。

「何見て…って何これ白」

珍しく表情を強張らせる。医務室に行くことを勧めると、めんどいと言って手を振り払った。

「だけど一応な」

「嫌。無理」

鹿央はそう言って部屋に帰ろうとする。もう一度医務室の方に連れて行こうとするが、一目散に逃げていった。

ちょっと体勢を低くして溜息をつく。まったく心配してやってんのに。あれは絶対遺伝だ。陽詩も保健室嫌いだった――。

少し昔の曖昧な記憶に思いをはせながら、ふと顔を上げる。3人が「くふふ」と笑った。

「…なに笑ってんの」

「心配性というよりシスコンだな鹿央」

味噌を鍋の中で溶かしながら南部が鼻で笑う。

「何だよそれ。ってか俺と鹿央は兄妹じゃなくてイトコ」

訂正を吐き捨てて、小皿を流しに放り込んだ。それを見て、

「でもドッチかって言うとトバリってヒナタにいじめられてるよネ。迷惑かけられるのを楽しんでるフシがあるよネ」と七原。

「あーMなんだね帷先輩」と新湊川。

「あのなぁっ」

先ほどの南部のように包丁を振り上げようとして、確かに迷惑かけられてるのに苦を感じていない自分いることに気がついた。

俺はシスコンでもMでもないんだけど、…たぶん。え、いやまさか。


このひと言がこの日、鹿央帷を夜まで苦しめることになる。








制服がぐちゃぐちゃになるのも構わずにベッドにダイブした。ぽふ、と空気がうなじをすり抜ける。

閉めきった部屋に1日中放置された布団は残暑の影響で生温い。

部屋の造りはいたって簡易だ。8畳程度の一間に机2つに収納付きベッドが2台、それと背の高いタンス。

どれもよくある木製で、それ以外に欲しい小物類は自分達でそろえなければいけない。

501号室にはバンビが持ってきたピンク色のラグマットと、2人で割り勘で買った小型のテレビがある。

「はぁ―…」

本日もお疲れ様でした。枕の中でもごもごとつぶやいた。バンビを置いてきてしまったから、毎日の日課がひとり言になってしまった。

仰向けになって窓から射し込む西日に右手のひらを透かしてみた。指先から手首にかけて、気持ち悪いほど蒼白になっている。

ついさっきまでこんな風になってなかったのに、一体何なんだ。これじゃ本当に白魚のような手じゃないですか。

「まさか病気とか…?」

乏しい声量で口にしてから、どうして自分はこんなに不安げにしているのだろうと思った。

そもそも病気になろうと怖くない。だいたい世の中の物事は「No pain no gain(痛み無くして得られるものはない)」だって聞いてる。

病にかかっても、それは目的のための必然。

一時目を閉じて深呼吸。反動をつけて思いっきり起き上がると、ベッドがきしりと喘いだ。

「早く着替えよ。飯の時間だ」

ふあぁ、と大きなあくびをして、タンスに手を伸ばす。上から3段目までがバンビで、その下2段がヒナタ。

バンビが1段多いのは、奴の好きなフリルがたくさんついたロリータファッションがかさばるから。

右手でネクタイをほどいてから、脱いだブレザーやシャツを一緒くたにしてベッドに放り投げる。

タンスから手探りでパーカーを引っこ抜いた。背中に黄色い棒人間とロゴのついた赤いパーカ。お、これ着るの久々な気がする。

それにしてもなかなかジーンズが見つからない。これは…違う。この前履いたらきつかったやつだ。

しばらくして「あぁ」とひらめき、スカートのチャックを下ろしながらベランダに向かう。昨日洗って今日の朝干したんだった。

部屋には壁一面の大きな窓がと、一畳の半分くらいの足場しかないベランダが申し訳程度についている。

洗濯は集合ランドリーで部屋ごとに洗い、脱水までしてから持ち帰って干す。男女共同寮ならではの習慣だ。

十分に日向ぼっこしたジーンズをハンガーから引っ張り、スカートの下から履く。

そのちぐはぐな格好のまま心もとない錆びた鉄柵に腕をあずけて街を見渡す。

朝に廊下から見た景色と変わったところはほとんど無い。

唯一、学校からはこの寮で影になる旧坑道が見える。高度成長期にはもてはやされたこの坑道も、鉱石が出なくなったらそのままポイ。

穴だらけの地面には、どれだけの被害者が眠りにつけないでいるんだろう。

「またいる…」

青白く溶けそうな人型を、目を細めて凝視する。よく見えなくて、ちょっとベランダをのり出した。

ここ数日、旧坑道からこっちをずっと見ている男がいる。

男といってもまだ大人になりきっていない、どちらかと言うと少年のような幼い顔つき。

今まで見てきた人間霊の中で、もっとも輪郭がはっきりしていたから少し気になっていた。

霊はテスターほど真っ白ではない。ちゃんと生きていたときの面影がある。

それは一般に、死んだときの思念が濃いほどくっきりと現れるという。

あの少年は、どんなことを考えて生を終えたんだろう。いつもいつもこっちに視線を投げて、何を望んでるんだろう。

子犬のような目で見られても困るよ。助けてあげられない。


「―自分は偽善者だから」


そうひと言、彼に向けてつぶやく。

それが届いたかのように、少年ははじめて視線を落とし、悲しみに浸るみたいにしゃがみこんだ。

心が痛むけど仕方ないんだと自分を納得させる。

学生は霊送還を外ですることは出来ない。その規則を破れば退学。

そうしたら自分の計画が崩れる。

それに霊に意思は無いはずだ、と言い訳をした。

身を翻して、部屋に戻りスカートを脱ぐ。少し汗ばんだ首筋に、乾いた秋風が冷たい。

少し震えたあと、ピンクのラグマットに視線を落とした。

もう窓を閉めよう。溜息をついてかったるく振り向いたそこに

灰色の空をバックに青白い光を放つ学生服の少年が半透明の腕で赤いパーカーの肩口を貫通させるという光景があった。

「なっ…」

焦りのあまり、長いジーンズの裾を踏んで倒れた。膝を床に打ちつけ、声にならない呻きをあげる。

見上げると悲観的な目をした少年が、ののしるようにこっちを見つめていた。

反射的に起き上がり、テレビの上の送還銃を手に引っ掛け構える。今日習ったように、学生服の第二ボタンに銃口を向けた。

それを見た少年は困った顔をして腕を引っ込めてから、ためらうように口を開く。

“待って”――

ヒナタは呆然とそれを見つめた。口が渇いて思うように声が出ない。恐ろしいとかそういう感情じゃなく、この少年の霊に対する驚喜。

頭の中に、善と悪の思考が交差してからまった。

ヒナタはゆっくりと銃を下ろした。立ち上がって、自分よりだいぶ背の高い少年の腕あたりに指先をかすってみる。

懐中電灯の前で影絵をするようなものだった。手のひらには何の感覚も残らない。

『何すんの…』少年が嫌そうにヒナタの指から身体を避ける。

「いや何となく…」

間の抜けた変な会話をして、2人で同時にそっぽを向いた。








「ただいまぁ」

可愛らしい声が玄関から響いた。

「ヒナター、なんで先帰っちゃうんだよう。まああの後に帷先輩がね、くふふふ…って、ヒナタおーい」

バンビが目の前で手をひらひらと振った。

「…んあ。トバ先輩が何」

一拍息を詰まらせてから、平静を装って言う。こういう風にぼんやりとしているのがいつもだからか、バンビはたいして気に留めなかった。

「んふふー? 内緒。早く飯来いだってさ」

「あ、もう飯か。腹減った」ちょっと棒読みになりながら、ぎりぎり言い切る。「バンビ早く着替えて」

「ちょ、何でさ。待ってたのこっちだよ?」

といいつつ高速で着替え始めた。それを見て、からかい気味に天国と地獄を歌う。

「うわぁぁぁやめてそれ運動会の」

「急げ」

「着替えた!」

「んじゃ行くぞ」

一度ベランダをのぞいて、影がそこを動いていないのを確認する。それからバンビの服のすそを引っ張っると、若干転びそうになっていた。

「飯かー…」
            (2007.11/05~2008.1/10配信分)



+BACK+



© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: