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ヴァレリー・アファナシェフ~ライブ


今日久々に重く考えさせられる演奏に出くわした。
昨年の10月に行われたサントリー・ホールに於けるアファナシェフのコンサート・ライブ盤である。
ベートーヴェンの最後のソナタOp-109~111、30番から32番である。

彼については様々な検索から知ることができるだろうが、一言で言うのは難しい。誠実にして鬼才、孤高の詩学をもったカリスマ的なピアニストであり、類稀な芸術家である。

真摯なまでに追求した音楽表現は文学にも哲学にも通じる世界観が根底にあると思われる。なんら自らの歴史を形成するにあたって培ったものとは別のものが存在している。この最後の3つのソナタに託された世界は、この後の時間的な発展や進行というものがまったく存在しないことを明白に表現しているのである。通り一遍にいえば、32番Op-111の先には時間の存在がないということだし、まさに完結であると言えてしまうのである。こんなことは今更いう事ではないのだが、実際ベートーヴェンはOp-111をもってして最後としているのは必然性からの結果であったに相違ない。

問題は今何故こう書くのか?である。
私が聴いた限り、アファナシェフの演奏はこの時間的な観念を自らも拭き目、聴き手に問うているように感じてならない。この巨大な宇宙の根源のような作品を前にしてひたひたと伝わってくるのである。ライナーにも彼のエッセイからの翻訳が載っているが、「ひとつの和声は永遠に持続するかもしれなかった。Op-110の第3楽章。心もまた同じ音符を何度も繰り返すのだ。そしてそのハーモニーはすぐに遮られることはない」アファナシェフはこう結んでいる。
あながちこう書いたのはアファナシェフのベートーヴェンの最後のソナタに関してだけの解釈だけではないだろう。ここに生み出された和声の永遠は最後の32番Op-111の第2楽章に於いても天国的な美しさをもって演奏している。彼の緩徐楽章の表現は独特であるのと同時に「この上」がないという美しさなのだから。
このアルバムからの印象は作品の末尾に至った絶壁の所以を聴くかのようで、ベートーヴェンの最後のソナタが与えた、さまざまな何故 ?というものを聴かされたようにも思えた。

聴き手の感じ方も聴き方も千差万別、さまざまな感想があって然りだし、ぜひともアファナシェフの真骨頂を垣間見てみてほしいと思った。
アファナシェフ


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