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今回は、子規や漱石とは全く関係がありません。 NHK松山放送局の「ラジオまどんな」に8月6日午後5時から「コロナと妖怪」のテーマで出演するため、資料を探していました。すると妖怪ではありませんが、面白い瓦版を見つけました。 文久2(1862)年の4月から秋にかけて麻疹(=はしか)が蔓延した際に出された瓦版で、疫病による商売への影響が示されたものです。ただ、現在のはしかとは異なり、当時の麻疹は多くの人が亡くなる疫病でした。この年には、江戸だけで7万6000人の命が絶たれていますが、この数字は安政5(1858)年のコレラ流行の犠牲者を上回るものだったといいます。 瓦版では、麻疹流行による商売の繁盛具合を番付にしています。医者や人混みを避けることのできる交通機関は繁盛したのですが、濃厚接触を伴う女郎屋や芸者はさっぱり不振で、食べ物屋や酒場も商売が思わしくありません。 これを見ると、新型コロナの流行がおさまったと勘違いして、濃厚接触を求めにキャバクラやホストクラブに押しかけた20代の若者たちの頭の程度は、江戸時代よりも退化しているのではないかと思われるほどです。 (あたりの方) 大関 うさいかく(=才覚?) 薬種屋 関脇 まじない 馬屋の別当 小結 いそがしい 医者さま 前頭 あちらこちら 雇い人 前頭 ではらい 駕籠屋 前頭 くすりになる 軽焼屋(黒焼屋) 前頭 はばがきく 無病の医師 前頭 三年ごし 古タクアン 前頭 黒にかぎる 煮豆 前頭 かこいがよし 梨 前頭 ふだんもよし 葛の粉 前頭 うす醤油で 干瓢 (はずれの方) 大関 からひまだ 女郎屋 関脇 あげてがない 芸者 小結 あくびばっかり 灸点屋 前頭 のりてがない 船宿 前頭 こいつアおあいだ ひやッこい(氷水屋) 前頭 考えもんだ 天ぷら屋 前頭 しこみはすこし 蕎麦屋 前頭 まぐろはよしな 寿司屋 前頭 ひるからだよ 湯屋 前頭 たばねるばかり 髪結宿 前頭 うれねえのう 酒屋 前頭 人がでないよ 盛場 さてもないない つまらない こんどのはしかは のがれない しかし いのちにべつじょうない どこのお医者もひまがない どくだておおくて たべものない やおや さかなや からうれない ふなやど さっぱりのりてがない かごやはよるひる やすみがない すしやてんぷら あきないない にまめやはんじょう すきがない さかやきする人 さらにない 湯屋はどこでも 昼間でない 雇い手多くて 出手がない 急な使いは 間に合わない 梨や軽焼き 毒がない ナスやキュウリは 食べ手がない 無病な人は 忙(せわ)しない 盛場さっぱり 人がない 芸者はさっぱり 流行らない 女郎屋どこでも 客がない なお、この下に描かれている編み笠を被った人は瓦版屋で、買い求めに来る人に対し「来た、まだええさてもない、つまらない。へい上下揃いまして10文と6銭でござい」というと、客は「やれやれ、きさまは良いものを売らっしゃる。上下売ってくだされや」と瓦版を求めます。それを見ていた八百屋の棒振りは、自分の商品が売れない気持ちも手伝って「いめいましい。あんなものを売りやがる。ちょ業腹な」と怒っています。瓦版屋の申し訳なさが、少しばかり顔を覗かせています。 瓦版は、当時の新興メディアで、全くのデタラメも多く書かれることもしばしばあり、人々の心を惑わすこともありました。 当時に流行した「はしか絵」と呼ばれる麻疹を防ぐというマジナイの画には、食べてよいものやいけないもの、やるとよくないことを記すのが常となっていました。「干瓢、人参、とうり、大根、切り干し、どじょう、さつまいも、こがいも、ゆり、みそづけ、しじみ、干しうどん、麦、小豆、砂糖、かたくり、あわび、びわ、いんげん、やきふ、ゆば、古たくあん、わかめ、こぶ、ひじき」が食べてよいもの。反対に食べてはいけないものは、「川魚、梅干し、牛芳、唐茄子、からすうり、そら豆、里芋、糠みそ、辛き物、椎茸、干し海苔、ほうれん草、ねぎ、むろこし、油こき物一切、こんにゃく」でした。「房事七十五日、入浴七十五日、灸治七十五日、酒七十五日、そば七十五日、月代五十日」が大人の病人に向けてのタブーです。 ただ、これにはきちんとしたエビデンスはありません。一部には妥当なものもありますが、中には瓦版屋が面白おかしくするために挙げたものもあるようです。 上の瓦版に書かれた食べ物やタブーのせいで、蕎麦屋、床屋、湯屋、酒屋、遊郭、相撲取り、役者などの商売が立ち行かなくなったのは、「はしか絵」のせいでもあります。 今のモーニングショーや昼のテレビに出ている医療者まがいの人やジャーナリストを気取った批判屋たちは、これらの瓦版屋とよく似ているのではないかとも思います。騒いで批判することで人の興味を引いて危機感を煽るのは、視聴率のため。瓦版屋があることないことを面白く仕上げるのは瓦版の売れ行きをよくするためです。 メディアの意味や、コメンテーターという存在について、もう一度考える時期に差し掛かっているのかもしれません。
2020.07.30
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4月14日、隅田川沿いの桜はもう花見の時期を過ぎ、花嵐が舞っていました。幼稚園も経営している長命寺を越えて隅田川沿に近づくと言問団子の店があり、その向かい側に長命寺桜餅の山本屋があります。 矢田挿雲の『江戸から東京へ』には次のように書かれています。 長命寺の桜餅山本屋の元祖は、元禄4(1691)年下総(しもうさ)の国銚子から江戸に出で、長命寺の門番に住み込んだが、享保19(1734)年に吉宗公が浅草の奥山へ桜を植えて、上野の花見客を浅草までひきよせて以来、それまで樒(しきみ)と線香とをほまち売りしていた門番は、心機一転して、桜餅を工夫して、花より団子党に売り出した。この計画は図星にあたって、たちまち江戸の一名物となり、市中の菓子屋もボツボツこれを模倣して、発売するようになった。 長命寺の桜餅は、香りの強い大きな桜の葉の塩漬け2枚で包まれ、葉を剥かなければ餅にたどり着けません。葉を剥がして餅の衣に包まれたこし餡を噛むと、上品な甘さが口の中に広がります。柔らかな衣と餡のハーモニーは絶品で、これが名家であることの証明になります。 緋の毛氈に腰掛けながら甘い桜餅をほうばって茶で喉を潤すと、美味しさに心が震える。1個300円で、この贅沢が味わえるのも、向島にきた楽しみでもあります。 →子規のエピソードは4月3日の「子規と桜餅とロマンスと」をお読みください。 今治に帰って産直市の「さいさいきて屋」をのぞいて見ると、銘菓「一位木(あららぎ)」で知られるムロヤさんが桜餅を売っていました。今治で食べる桜餅は、半殺しにした桜色のお餅で包む道明寺系が多いのですが、ここは先代から長命寺系の桜餅を売っています。1個150円で売っていて、桜の葉は本家の長命寺桜餅より一回り小さいのですが、皮といい餡といい、しっとりした美味しさです。 このシーズン、長命寺系の桜餅はお茶請けに人気だそうで、売り切れることもあるとか。ムロヤさんは、今治港近くの新町にあります。ムロヤさん
2017.04.17
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今日は「あんぱんの日」です。 明治8(1875)年4月4日、木村屋のあんぱんが明治天皇へ献上されたことを記念して制定されました。 木村屋を創業したのは、常陸国牛久(現茨城県)出身の木村安兵衛で、江戸に出て紀州藩のお蔵番から維新の頃には本家筋の木村重義配下に入り、江戸市中の警備にあたり、明治に入ると、廃藩置県によって職を失った者たちに職業訓練を施す東京府授産所の事務をしていました。 安兵衛は、そこで知り合ったパン職人の梅吉とともにパンの製造販売に乗り出します。明治2(1869)年、芝日陰町(現新橋駅前)に「文英堂」というパン屋を開業しますが、その年に火災に遭い、翌年、梅吉と決別して尾張町(現銀座5丁目)に「木村屋」として再出発。しかし、明治5(1872)年には再び店が焼失しますが、それにもめげず、その年に開業した鉄道の新橋ステーションのなかでパンを販売しました。 文明開化のブームを受け、「木村屋」のパンは人気を呼んで、明治7(1874)年には火災防止のために建築された煉瓦街(現銀座4丁目)の一角に店舗を構え、「あんぱん」を売り出します。(その頃の店舗は、現在の本店の向かい、三越のある辺りにありました) 「あんぱん」が広く知られるようになったのは、安兵衛の古くからの友人で、明治天皇の侍従をしていた山岡鉄舟のおかげでした。勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟のひとりとして知られる鉄舟は、安兵衛の剣術仲間だったのです。 明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷でお花見をされた際、お茶菓子として「あんぱん」が出されました。 中央に奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けが埋め込まれています。パン麹に酒種を使ったパン生地と、選りすぐられた小豆からつくられた餡の甘味と、桜の塩漬けの香りと塩味の絶妙なコンビネーション。 明治天皇と皇后は、「あんぱん」を大層気に入り、皇后陛下からは「引き続き納めるように」というお言葉を戴き、木村屋は宮中御用商となりました。 明治18(1885)年、木村屋は広目屋(現在のチンドン屋)をパンの広告に取り入れました。洋装の男性が大きな太鼓を担ぎ、太鼓を叩きながら洋装の婦人とともに街を練り歩きます。 パン、パン、パン、木村屋のパン 木村屋パンをごろうじろ 西洋仕込みの本場もの 焼きたて出来たてほくほくの 木村屋パンを召し上がれ 文明開化の味がして 寿命が伸びる初物 初物 柴田宵曲の『明治の話題』には「『新春闘話』(泉鏡花)という談話に、あご髯洋服という男が、太鼓を胸に懸けて『メリキのパンやメリキのパンと、キクライキクライキンモウキンモウ』で躍りながら売って歩くと、子供は勿論、大供までぞろぞろついて行ったとあるのは金沢の話らしいが、大分古いことであろう。明治三十年代の東京のパン売りも太鼓を叩いて来た。 パン売の太鼓も鳴らず日の永き 子規の句によって閑静な根岸あたりにも来たことがわかる。阪井久良岐(さかいくらき・川柳作家)の書いた「三題噺」は、雑誌で失敗した木村という男が、雷様の太鼓を借りて『ソノ太鼓を叩いて木村のパン、亜米利加のパン』というのがオチになっている。このオチなども当時のパン売りが太鼓を叩いて来た事実を知らぬと、ちょっとわかりにくい」とあり、パンの広目屋はこの時代だけの風物詩だったようです。 こうした宣伝も功を奏して、木村屋の「あんぱん」は銀座名物になりました。※ブログの3月26日「子規の愛した菓子パン」もご参照を→
2017.04.04
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