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何回か休んですみません。 夏バテのせいにするのは簡単なのですが、僕は漱石の絵がもう一つ好きではないようです。あまり筆が進みません。 漱石のデザイン的なセンスや美術に対する鑑賞眼は万人の認めるところなのですが、本人の画は、拙にあふれています。 漱石の南画風の少しは見られる絵を残すのは、大正4年になってからのことです。何枚も絵を描くことによって、ある程度の熟練が見られます。ただ、細かい筆致で描かれているこれらの画は、そうした細かい描写により、こちらの心を陰鬱にさせてしまいます。 妻の鏡子は『漱石の思い出』で「絵は死ぬまで好きで描きましたが、もっとも中ほど気が進まなかったり忙しかったりで描いたり描かなかったりいたしましたが、不思議なことにその後も頭が悪くなると絵を描いたのはおもしろいことだと思います。自分では何をしてもおもしろくなく、ひとつくさくさした気持ちを絵でも描いてまぎらそうというのでしょうが、現に宅に残っている南画の密画などは、そういう時に幾日も幾日もかかって描いたもので、こり出すと明けても暮れてもこれでいいというまで、紙のけばだつまでいじっているのだから、根気のいいものです。死ぬ年などもずいぶん「中央公論」の滝田樗陰さんなどがこられて描かされていましたが、この時もだいぶあたまのわるい時でした。南画の密画は大正二年前後のもので、後で自分で表装をして箱書きまでしたのですが、そのころもいけなかったのです。もっとも絵を描いておれば、きっとあたまの悪い機嫌の悪い時だったときまっているのではありません。ずいぶん上機嫌でおもしろそうに楽しんで描いていたこともあったのですが、力作の密画に限ってあたまの悪い時にできたのは妙なことだと今でも思っております。(2小康)」と語っています。
2022.08.07
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大正2年の秋、漱石は竹の水墨画を始めました。橋口五葉から北京の画布を送られたので、吉田蔵沢ばりの竹の絵を描こうとしたのでした。 10月5日、絵はがきのやり取りをしていた湯浅廉孫に「過日、橋口五葉宅にて北京より取寄せたる画セン紙数葉もらい受け候ため、急にそれへ竹がかいて見たくなり、三枚ほど墨にて黒く致候、その一葉は津田青楓という画家に、一葉は伊予の村上霽月という旧友に、残る一葉を大兄に差し上げることに致候。小包にて差し出し候問、御落手願候。素人の筆ゆえ妙なものにて竹とも芦とも分らず候えども、まずこれでも記念にして貰えないと今後いつ約束を履行するや自分にも分りかね候ゆえ、一先ず送り置候。他日もっと上手になったら旨いものと交換可致候」、10月9日に村上霽月に宛てて、「この間、橋口五葉から北京の紙というのを六七枚貰い、それへ気紛れに墨竹を三枚ほど描き申候。そのうちの一枚を遥かに大兄に献上致候問御、笑納被下度候。三枚のうち一枚は津田青楓ヘ、一枚は伊勢の神宮皇学館教授湯浅廉孫へ、残る一枚を君に差上候。まあ三幅対を分けたようなものに候。君に上げる理由は、君があの小さい絵に興味をもっていたからでもあるが、何ということなしに君なら愛玩してくれるだろうという気がするからである。竹は小包にてこの手紙より後れて着きます」と書いています。 10月15日の青楓への手紙には「あれからまた竹の画を絹に描いて人にやりました」、12月8日には青楓に宛てて「先日は失礼高芙蓉の画を見てから僕も一枚かきましたが駄目です。……私は生涯に一枚でいいから人が見て難有い心持のする絵を描いてみたい。山水でも動物でも花鳥でも構わない。ただ崇高で難有い気持のする奴をかいて死にたいと思います。文展に出る日本画のようなものはかけてもかきたくはありません」とあります。 漱石が蔵沢の画をなぜ知っているかというと、子規から絵の素晴らしさを教えてもらったためでした。明治34年6月7日の『病牀六尺』には、子規の病牀周りに「何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達正宗の額、向島百花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ赤短冊など」が置かれていると記しています。 吉田蔵沢は、松山藩士でありながら余儀に墨絵を描き、南画、特に墨竹の画で知られています。漱石は、明治43年に修善寺の大患の回復祝いとして森円月から蔵沢の竹の画をもらっていたのです。森円月は、正岡子規の門人で、初期の松風会に属していました。松山中学から同志社を経て、アメリカのエール大学に留学し、明治30年から松山中学校で英語の教師となっています。のちに兵庫県柏原中学校に移り、大阪時事新報の記者や東洋協会の雑誌の編集をしていました。 蔵沢の竹の画は『思い出す事など』に「町井さんはやがて紅白の梅を二枝提げて帰って来た。白い方を蔵沢の竹の画の前に挿して、紅い方は太い竹筒の中に投げ込んだなり、袋戸の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日はきっと御雑煮が祝えるに違ないといって余を慰めた。(33)」とあります。 漱石は蔵沢の画のお礼として、東京にいる円月に「かねて御話しの蔵沢の竹一幅わざわざ小使に持たせ御届披見大驚喜の体、仮眠も急に醒め拍手踊躍致おり候。いずれ御目にかかり篤く御礼可申上候えども、不取敢御受取かたがた一札かくのごとくに候」という手紙を11月5日に送りました。 その日の日記には「〇森円月来る。疲労を言訳にして不会。一時間程して小使手紙を以て来る。蔵澤の墨竹の軸を添う。御見舞とも御土産とも致し進呈すとあり。早速床にかく」「〇病院へ入ったら好い花瓶と好い懸物が欲しいといっていたら、偶然にも森円月が蔵澤の竹をくれる。禎次が花瓶をくれるという報知をする。人間万事こう思う様に行けば難有いものである」と書き、11月12日には「蔵澤の竹を得てより露の庵」という句を詠んでいます。 翌年の1月30日には「蔵山と蔵沢の箱出来早速御届け下さいましてありがとう御座います、まだ外に両三個願いたいのですが、寸法もありますから今度御出の時にまた御面倒を願いたいと思います。紙は受取りました。そのうち何か書きましょう。霽月は清水老人から明月の書をもらつてくれました。私は代りに野田笛浦の書を送りました。明月はうまいものです。それを表装をしかえなければなりません。今度御目にかけたいと思います」という手紙を送っています。 漱石は、それからも何枚も竹の水墨画を描きました。 大正3年1月14日には、円月に「霽月にやった墨竹はその時はかなりの出来と思ったが、今はもう一遍見ないとなんともいえません。本人がいいと思って表装するなら格別それでなければそれには及びません。あなたに頼まれた達磨はあれぎりですが、外に色々かきました。私のあげてもいいと思うもののうちで思召に叶うものがあるなら達磨の代わりに上げてもよろしゅうございます」と手紙に書いています。
2022.08.01
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岩波書店が誕生したのは大正2(1913)年のことでした。創設者は33歳の岩波茂雄で、華厳の滝に身を投げた藤村操の同級生に当たります。漱石は、一高時代に茂雄を教えていました。 茂雄は、東京帝国大学哲学科選科を卒業すると、神田高等女学校で教師になりますが、自信を失して古本屋を開いたのでした。 茂雄は、古本の正価販売を行いました。当時の古着屋や古本屋は正礼など明示しておらず、その場での顧客との交渉で値段を決目ていました。ところが、岩波書店の古本は正礼販売だったので、最初は客とのトラブルもたえなかったようです。 茂雄は、漱石の木曜会にも顔を出しました。茂雄は店の看板を漱石に揮毫してもらおうと考え、安倍能成とともに「漱石山房」に伺います。すると、漱石はその場で快く書いてくれました。茂雄はこれを看板にして屋上に掲げますが、関東大震災で焼失してしまいました。続いて、茂雄は「先生の本を出版させてください」といい出します。それまで、漱石の著作は春陽堂と大倉書店から出されていましたが、そこへ、ずぶの素人が突然に出版を申し込んだのです。重ねて茂雄は、出版費用も借金したいといい出します。頼まれた漱石も、さぞかし困惑したことでょうが、漱石は岩波の頼みを聞き入れます。感激した茂雄は、最高の材料を使って立派なものをつくろうとしますが、漱石に行き過ぎをたしなめられてもいます。 漱石は、「別に君を疑うわけではないが、細君がああまでいうのだから、契約は契約としておいてくれたまえ」といい、書類と引換えの形で株券を渡したといいます。しかも、漱石は自分の方からほとんど自費出版のような形で刊行することで話をつけました。 妻の鏡子は、このことを『漱石の思い出』に「お貸しするのは差し支えないのですが、ともかく三千円といえば私どもにとっては大金です。なるほど夏目にも岩波さんにも当事者どうし双方まちがいがなければ何のことはないのでしょうが、人間のことですからいつ何時どういうことがないとも限らない。その時になって、万一おもしろくないことなどがあっては困るから、ともかくどちらかがかけても第三者にもわかるような契約をしていただきたいと、私が株券を持って出て、岩波さんを前にしてちょっと開きなおった形で申したものです」と書いています。 茂雄は、日本の活字文化そのものの向上を願っていましたから、自ら出版事業に乗り出したいと考えていたました。大正3年、漱石が『こころ』を朝日新聞に連載していた頃、『こころ』の出版を岩波書店でやらせてくださいと、頼み込みます。ところが、茂雄は出版の費用も、漱石からの借金をあてにしていたのでした。 そのため、『こころ』は、漱石の自費出版とし、費用はいっさい漱石が持ち、出た利益から岩波書店に謝礼を支払うことにしました。紙代から印刷代、製本代といった資金は、すべて漱石が持ちました。 当初から、書物の装丁に興味を持っていた漱石は、自らデザインを買って出ます。漱石が橋口貢から送られた中国の拓本の文字を、朱の地に白く抜きました。このデザインは、今も『漱石全集』に使われ続けています。『こころ』の装丁は、漱石自身もたいへん気に入り、売り上げも上々の滑り出し。岩波書店はこれを契機に、出版業に本格的に乗り出すことができるようになりました。 漱石は、それ以降の単行本の出版を、すべて岩波書店に任せています。
2022.07.30
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漱石は、油絵をやめて南画に傾倒していきます。 そのころのことを津田青楓が『漱石と十弟子』「へんちくりんな画」に記しています。 津田が自分の仕事の段落のついたある日行ってみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるような口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの。俺は日本画の方が面白いよ」そういって、半紙ぐらいの厚ぽったい紙に塗りたくった妙な画を出して見せられた。 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息している。そのまえに一匹の馬がいる。先ず馬と仮説するだけなんだが、四ッ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先ず馬に近いーーその馬が前脚を一つ折って、これから草の上に休もうとするようにも、またこれから立ちあがろうとするようにも見える。馬といい、人といい、まるで小学校の生徒の画のようだ。柳は無風状態で重々しくたれ下っている。全体が濁った緑でぬりつぶされている。柳の下にはフンドシを干したように一条の川が流れている。その川と柳の幹だけが白くひかって、あとは濁った緑。下手な子供くさい画といっても片付けられる。また鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、いってもみられる。先生はリアルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし(=幻影の盾)」「夢十夜」あんな作を絵築で出そうとしていられる。 漱石先生が「どうだ、見てくれ」といって出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は拶挨の代りに大きな口をあいて、「わはははははは」 先ず笑った。 先生も自分で、クスクスと笑われた。 その一枚は古ぽけた麦邸帽子をかぶった老人ーー頤に白い髯を一尺ばかり生やしてーー支那服ともアッパッパともいえない妙ちくりんなものを着て、樹下石上に脆座している聖人とも思える。養老院に収容されている爺々が、ひもじくって、もうこれからさきは歩けぬといって、石上に吐息をついているところのようにも思われる。 次には真黒な猫が眼だけ白くぎょろつかせて、木賊の中に変なかっこうをしてうづくまっている。眼があるから猫というんだが、青木ヶ原あたりにゴロゴロしている熔岩の塊だといってもいい。 次は柿の木に鴉が二羽休息している。柿が熟れて赤くトマト色をしたのが二つ三つ、バックは一面の竹藪。 どうもこれも鴉にしても拙なるもので、挨拶のしようがなかった。 津田はどういうものかその時、石涛の披璃版で見た長髯の老人が頭の中をかすめた。この老人は眼の立ち上る巌石とも山とも制定し難いなかに、一本の杖をついて立っている。裳裾がぽやけているので、立ちこめる靄の精のようにも見える。この人物も雅にして拙といっても差しつかえない。あるいは意ありて筆至らずともいえる。「石涛にもこんな老人がありましたね。」 といいかけて見たが、先生はなにも答えなかった。 石涍はまだ知られていなかったかも知れない。 すべてが薄ぎたなく、法も秩序もなく、滅多やたらに塗りまくってある。画家が仕事をしたあとの筆洗をぶちまけたような、分析の出来ない色が入り乱れている。 津田はそこで妙なことを考え当てた。画家の頭にしまいこまれている自然界の形象は、決して写真のような正確さではしまいこまれていない。馬の脚が四本あることは知っている。しかし四本の脚で馬があるく時は、四本がどんな順序で歩くかは、紙を展べて筆を持ってみたとき、意識の表面に浮かび上ってくる。牛や馬の眼が顔の線に沿っているのか、それとも顔の線と直角に位置しているかは、明確な答案を紙の上に現わすことができない。子供のかく人物は胴体から二本手が生え、同じく胴体から二本の足が生えている。子供の頭のなかはその通りに映像されているかも知れないが、大人にしても変りはない。大人は知識によって肩胛骨が脊髄につながっていることを知っているだけなのだ。大人は狡いから、いつのまにか惑鎚を知識にすりかえている。 だから大人のかく画は正確であればあるほど生きてこないし、子供の画はウソをかいていながら生きている。 漱石先生は、子供の態度でこの画をやられたというよりも、先生には子供らしい正直さが画に現われるのだ。 この画を見るものは一応大口を開いて笑って見せるが、笑いの中に真剣になり得る問題があった。「先生は僕の画をヂヂムサイ、ヂヂムサイといわれますが、先生の画だって随分汚ならしいですよ。第一こう塗りたくっちゃ色が濁って、何がなんだかわからないじゃありませんか」「うん、気に入らないから、無暗と塗りたくるんでーー下塗の絵の具がまざってくるんだよ」「この紙は土砂が引いてあるんでしょう」「なんだか知らないが、こんなのがあったから使ったんだ」「裏打をした陶砂引なんて、いけませんよ。晩翠軒で本式の紙を買ってきてーー水彩画のお化けでない南画をやってご覧になってはどうです」(漱石と十弟子 へんちくりんな画) 青楓が記している画は、「樹下石上に脆座している聖人」は大正2年の夏に描かれた「樹下釣魚図」、大正3年7月の「、木賊の中に変なかっこうをしてうづくまっている。眼があるから猫」というのが「あかざと黒猫」、「柿の木に鴉が二羽休息している」というのは、現在残されていないようです。
2022.07.27
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漱石は、津田青楓との交流をきっかけに油絵を描こうと思い立ちます。 イギリスから帰った漱石は、一志水彩画や水彩の絵葉書に夢中になりましたが、いつの間にかそのマイブームは終わっていました。青楓は、漱石の絵心に火をつけたのです。 大正元年12月2日の青楓宛の手紙で、漱石は「画はその他何も描きません。山水の方を仰に従い土手を不規則にし山を藍にし、屋根を暗い影をつけてますますきたなくしました。寺田が見て面白いが、近くで見るとびほう百出で、きたなくて見るのが厭になるといいました。私はあれをあなたの画の下の襖ヘピンで張りつけて、次の間の書斎から眺めてそうして愉快がっています。すると小宮が褒めます。岡田がほめます。実に天下は広いものであります」と書いています。 大正2年7月20日、漱石は絵を描こうと決意します。そこで、青楓に「油絵の絵具を買うことが出来ます。いつか一所に行って買って下さいませんか。油絵をかいてみようという心持はまだ起らないのですから、決して急ぐ必要はないのですから、あなたのいつでも気の向いた時で結構であります」と青楓を急かしました。そして二人で絵の具を買いに行ったらしく、25日にはお礼の手紙を送りました。「先達中より絵の具などのことにて種々御配慮を煩わし恐縮の至に候。何か御礼を致そうと思い候えども、これという思いつきもなく候。この間古道具屋であなたの賞めた皿五枚を差上ることに致しました。わざわざ持って行くのも臆劫故、今度御出の節献上致度と存候。あの箱の上書には乾山向付と有之候が、乾山がこんな皿を作るものにや、または皿の種類の名にや不明に候」。 この経緯を青楓は『漱石と十弟子』「源兵衛の散歩」に認めています。 「先生は古いものがお好きですね。穴八幡の下に光琳風の二枚折がありますが、先生お買いになってはどうです」「いくらだ」「十五円とか言っていましたが、紫陽花や立葵なんかの草花が描いてあるんですが、多分、其一とかいう光琳の弟子でしょう」「散歩に出て、そいつを見ようか」 それから漱石先生と津田の二人は散歩に出かけた。津田はその日の日記を次のように書いた。 今日漱石先生と源兵衛を散歩す。その前、穴八幡前の古道具屋に寄り、その節見ておいた其一の二枚折屏風を先生にすすめて買わせる。十五円をなにがしかまけさせる。 源兵衛という処は、生垣をめぐらした家が多く、なかには藁葺の大きな屋根の家があり、欅の大木が屋根にかぶさって、田舎だか町なのか分らない。コスモスの花や、葉鶏頭の眼のさめるような色が、垣根のあいだから、ちらちら見える処があった。 漱石先生は源兵衛という名前が面白いといわれるから、私の親爺の名前と同じですというと、君の親爺の商売は何だといわれるので、一寸厭だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です、親爺は店に出ると花源の親爺で、源兵衛さん、源兵衛さんと人は呼ぶんですが、奥へ行くと一葉先生で、風雅な風采をして、急須からしぽり落した茶ばかりすすっています。それだから僕を学校へもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それがいやだから家を飛び出して、それからは孤児のように、そこいらをうろつぎまわって、自分でやっと今までこぎつけたのです。百合子は親爺の秘蔵児で可愛がられてすきなようにして育ったものですから、私のような人間とはなかなかうまくゆきっこありませんよ。 そんな話をして、二人で生垣のあいだをぶらぶら歩いていた。先生がふん、ふんいって聞いていられるものだから、調子に乗っていろんなことを、喋舌ってしまった。そしてしまいに、先生は何を思われたのか、俺も画をかくから、油絵の道具を一式そろえて買ってきてくれなんて、私と競争でもするような意気込みだった。(津田青楓 漱石と十弟子 源兵衛の散歩) 漱石の油絵は数が少なく、青楓の文にある絵は「あじさい図」でしょうか。青楓の指導も虚しく、油絵は性に合わなかったのかやめてしまいます。そして、南画のような絵を描き始めるのです。
2022.07.25
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漱石が再び絵筆をとり始めるのは、大正時代になってからのことでした。 大正元年の11月の日記(日不明)には「○十一月 山水の画と水仙豆菊の画二枚を作る。山水の賛に曰く 山上有山路不通。柳陰多柳水西東。扇舟盡日孤村岸。幾度鵞群訪釣翁」とあり、水彩画で描かれた南画「山上有山図」で青い山の向こうに薄い高山のシルエットを描いたものです。 11月18日に津田青楓へ宛てて「拝啓。私は昨日三越へ行って画を見て来ました。色々面白いのがあります。画もあれほど小さくなると自身でもかいて見る気になります。あなたのは一つ売れていました。同封は今日社から送って来ましたから一寸ご覧に入れます。書いた人は丸で知らない人です。今日縁側で水仙と小さな菊を丁寧にかきました。私は出来栄の如何より画いたことが愉快です。書いてしまえば今度は出来栄によって楽みが増減します。私は今度の画は破らずに置きました。このつぎ見て下さい」という手紙を送っています。 また、11月25日には沼波瓊音宛てに「私も作ばかりに熱心になりたい。または勉強したいのですが少々頭の具合やからだの具合であんなつまらない画などをかきます。あなただけなら御目にかける筈ではなかったのですが野上君が画をかくためついあなたの前まで恥を曝しました」と書いています。 このころの漱石の絵を野上豊一郎は月報の『南山松竹図』に次のように書いています。 はなのうちはうまく行かないので、よく自分で破いていたが、次第に思うように描けて来ると、破るどころではなく、自分で見て楽しんでいた。それでも画のわからないやつが来ると、どんどん捲いてしまったりもした。猫の画を見て、虎のようですね、といったりする者もあった。そんな時はまたそれ相当の受けこたえをしていた。菊とか竹とか文人画風の小品をよく描いたが、私も竹の画を一枚もらったが、その種類の画でうまいと思ったのはなかった。のんきで、気持ちはいいのだけれども、どととなく間がぬけて感心しなかった, 私は先生の画の賛美者ではあったが、文人画風の画に対してはあまり賛辞は奉らなかった。私が賞嘆するのは先生の半折の南画風の山水である。そのうちの二三点の如きは幾らほめてもほめすぎることはないと信じている。その種類の半折を先生は八枚描いた。「南山松竹図」がその最初のものであり、そうして、私にいわせれば、その最上のものであった。「南出松竹図」はとうとう私がもらったが、あとの七枚ば亡くなるまで大事に先生自身が保存してあった。(野上豊一郎 南山松竹図) 「山上有山図」は、いわば水彩画で南画を練習していた画で、そのために豊一郎は絵としてはその中に入れていないようです。
2022.07.24
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橋口貢は『漱石全集』の月報に『漱石先生の画と書」を描いています。そこには「あれは明治三十六年春、英国留学から帰朝された頃と憶えているが、その頃夏目先生は本職の駄学講師の余暇に、盛んに水彩画を画いておられた。これは洋行中ロンドンで洋画の大家浅井忠氏と知り合いになったり、また芸術雑誌ステュディオのエキストラ、ナンバー『ウォーター、カラー』などを持ち帰られたが、それらを見たりして、刺激を受けられた結果だと思うが、盛んに水彩画を画いて、水彩画絵葉書などを私のととろへ送ってよこされた。当時私も水彩画を画いていたので、それに対して、やはり水彩画絵葉書を画いて送り、互いに父換したものである。ところが、夏目先生の絵葉書たるや、私製のもので寸法がいい加減なものだったので、葉書の規定の寸法に相違し、しばしば不足税をとられた。それで行き合った時、『毎々絵葉書を送ってもらってありがたいが、時々不足税をとられるのは閉口するよ』と話したら、『そうか、それはちっとも知らなかった、どうもすまないことをした』といって、笑ったことがある」と書いています。 「スチュディオ The Studio 」はイギリスの美術・工芸・建築雑誌で、1893年に創刊されました。ラファエル前派の世紀末芸術やアール・ヌーボーが多く紹介された雑誌で、漱石は定期購読していました。 漱石が、イギリスから帰って自作の絵葉書を描いたのは明治37年1月3日の橋口貢宛に、木々に囲まれた四角い池、またはつくばいに落ちる竹の水の水彩画で、(全集のモノクロ画像なのでよくわからないのです)に「人の上春を写すや絵そら事」ごとの句が添えられているものです。 次に書いたのは、この年の6月4日に野村伝四宛にチューバを吹いている男の足元に犬、後ろに太ったイギリス人の婦人がいて「僕の気炎を吐いているところだよ」、イギリスの猿回しの画に「夏目講師気炎を吐きすぎて免職猿回しにとなるところ」と書いたペン画を送っています。 7月24日には、橋口貢宛にバルザック風のハゲた髭面の男を描き、「名がなる故、三尺以内に近づくべからずと送りました。 7月には貢の弟五葉宛に木の植わった家の窓から覗く女性の姿を水彩で描き、「絵はがきをありがとう。あの色が気に入ったが全体あれは何の絵ですか。ちょっと検討がつかない。これは久しぶりでかいたら無暗にきたなくなった。夜だか昼だか分からないから(春日影)とかいた」とあります。 この絵で調子が出たのか、8月3日には貢宛にイギリスの風景画の影響を受けた絵はがきを4枚送りました。15日には今度は買った素人っぽい絵はがきを送っています。27日には松、29日には花の画を送っています。また、8月のいつかは不明ですが、イギリスの家を書いて「An Inpressionist(印象派)」と描いています。 一つ一つ紹介しても、なかなか伝わらないのでこのくらいにしますが、明治38年5月8日のイギリス人婦人の絵を最後に、絵はがきを描くのをやめています。
2022.07.17
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漱石が、絵を描こうと思いたつのは、明治36年10月の頃からです。 このころの漱石は、神経衰弱の様相を呈していて、家族に当たり散らしていたころです。確かに、絵や陶芸や文章などのクリエイティブな作業は、精神的な安定を図れることがありますから、効果があったのかもしれません。妻・鏡子は『漱石の思い出』に次のように書いています。 三十六年の暮れごろからしきりに何かを描いていたようですが、私がいちばん不思議に思うのは絵のことです。 十一月ごろいちばん頭の悪かった最中、自分で絵の具を買ってまいりまして、しきりに水彩画を描きました。私たちがみても、そのころの絵はすこぶるへたで、何を描いたんだかさっぱりわからないものなどが多かったのですが、それでも数はなかなかどっさりできましたようです。もちろん大きいものもないようでして、多くは小品ですが、わけても多いのははがきに描いた絵です。橋口貢さんと始終自筆の絵はがきの交換をしたものらしく、いっぞや橋口さんのところからそのアルバムを拝借してたくさんあるのに驚きました。 絵は死ぬまで好きで描きましたが、もっとも中ほど気が進まなかったり忙しかったりで描いたり描かなかったりいたしましたが、不思議なことにその後も頭が悪くなると絵を描いたのはおもしろいことだと思います。自分では何をしてもおもしろくなく、ひとつくさくさした気持ちを絵でも描いてまぎらそうというのでしょうが、現に宅に残っている南画の密画などは、そういう時に幾日も幾日もかかって描いたもので、こり出すと明けても暮れてもこれでいいというまで、紙のけばだつまでいじっているのだから、根気のいいものです。死ぬ年などもずいぶん「中央公論」の滝田樗陰さんなどがこられて描かされていましたが、この時もだいぶあたまのわるい時でした。南画の密画は大正二年前後のもので、後で自分で表装をして箱書きまでしたのですが、そのころもいけなかったのです。 もっとも絵を描いておれば、きっとあたまの悪い機嫌の悪い時だったときまっているのではありません。ずいぶん上機嫌でおもしろそうに楽しんで描いていたこともあったのですが、力作の密画に限ってあたまの悪い時にできたのは妙なことだと今でも思っております。(22小康) このような水彩画への挑戦は、処女作『吾輩は猫である』にも登場させています。ただし、苦沙弥はそのうちに絵を描くのをやめてしまうのですが・・・。 吾輩の住み込んでから一月ばかりのちのある月の月給日に、大きな包みを提げてあわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。当人もあまりうまくないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。「どうもうまくかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ずから筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほどいつわりのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔以太利(イタリー)の大家アンドレア・デル・サルトがいったことがある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」「へえアンドレア・デル・サルトがそんなことをいったことがあるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人はむやみに感心している。金縁の裏には嘲るような笑いが見えた。 その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後で何かしきりにやっている。ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分寝た。欠伸がしたくてたまらない。しかしせっかく主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒しておった。彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入の皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。身内の筋肉はむずむずする。もはや一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大だいなる欠伸をした。さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。どうせ主人の予定は打ち壊したのだから、ついでに裏へ行って用を足たそうと思ってのそのそ這い出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。(吾輩は猫である1) この当時、友人や門人たちと自作の絵ハガキをやりとりしています。相手は主に橋口貢や寺田寅彦、野間真綱、田口俊一らで、『吾輩は猫である』が評判になってくると、次第に水彩画から遠のいてきます。 絵葉書は、逓信省発行の既成のものしかなかったのですが、明治33年から私製ハガキの発行が認められるようになったため、雑誌が付録で絵ハガキをつけたり、カラフルな印刷の絵葉書が登場し、ブームになっていたのでした。 漱石は、明治40年2月15日の「新潮」に掲載された談話『漱石一夕話』の「僕の水彩画と書斎」でこの当時のことを次のように語っています。 自分の水彩画か、あれは『猫』を書いている頃に勉強したが、この頃では少しも閑がないので全くお廃しだ。何しろ訪客だ、原稿だ、学校の仕事だというので、水彩画なんかやってる閑がなくなったのさ、それにどうも性質(たち)がよくないというのだし、自分も少々呆れ返ッたから廃したよ。だが捨てたものでもないと思ったのは、この間引き越しの手伝いに来てくれた人に、自分の画帖をやってそれから後にその人の家に行って見ると、ちゃんと額にして恭しく掛けてるじゃないか。見ると柳は柳らしく見えるし、家鴨は家鴨に見える。こんなことなら廃めないでもよかろうかと、我ながら感心したよ。(漱石一夕話 僕の水彩画と書斎)
2022.07.16
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漱石が水彩画を描き始めたのは、ロンドンから帰国してしばらくしてからのことでした。漱石は、幼い頃から絵を眺めるのは好きでしたが、実際に絵を描いたことはないようです。子規から送られた絵に対して「拙である」と感想を述べています。 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つにつれて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵をはたいて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛て寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極きわめて単簡な者である。わきに「これは萎み掛かけた所と思い玉え。まずいのは病気の所為だと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用する事を忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。 東菊によって代表された子規の画は、拙まずくてかつ真面目まじめである。才を呵かして直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸たると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとりすくんでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味もきいた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免かれがたい。 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉とらえ得た試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(子規の画) また、修善寺の大患から蘇り、すぐに書いた『思い出す事など』には、幼い頃の絵の思い出が綴られています。幼い頃から漱石は南画に惹かれていたようです。 小供のとき家に五六十幅の画があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干の折に、余は交る交るそれを見た。そうして懸物の前に独りうずくまって、黙然と時を過すのを楽みとした。今でも玩具箱をひっくり返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が遥かに心持が好い。 画のうちでは彩色を使った南画なんがが一番面白かった。惜しいことに余の家の蔵幅にはその南画が少なかった。子供のことだから画の巧拙などは無論分ろうはずはなかった。好き嫌いといったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉しかったのである。 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊はあったろうが、名前によって画を論ずるのそしりも犯さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好にのぼった詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪にくむべきかいずれとも意見を有していない。) ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的礫と春に照る梅を庭に植えた、また柴門の真前を流れる小河を、垣に沿うて緩くめぐらした、家を見て――無論画絹の上に――どうか生涯に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍にいる友人に語った。友人は余の真面目な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうにいった。この友人は岩手のものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶をはずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。 それは二十四五年も前のことであった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖がけを降りて渓川へ水を汲みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。 すると小宮君が歌麿の錦絵を葉書に刷ったのを送ってくれた。余はその色合の長い間に自ずと寂たくすみ方に見惚れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬことが書いてあったので、こんなやにっこい色男は大嫌いだ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香が好きだと答えてくれと傍のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐きかけるので、余は小宮君を捕つらまえて御前は青二才だと罵った。――それくらい病中の余は自然を懐しく思っていた。(思い出す事など24) ただ、ロンドン留学時代、漱石は美術館を頻繁に訪れて、絵画を楽しみ、デザイン雑誌「ステューディオ」を眺めて、絵を楽しんでいました。 漱石が、絵を描こうと思いたつのは、明治36年10月の頃からです。
2022.07.11
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以降、五葉は『鶉籠』『虞美人草』『草合』『四篇』『門』『彼岸過迄』『行人』まで、漱石作品の装丁を行い、漱石自らが手がけた『こころ』までを手がけています。『道草』の装丁は津田青楓が手がけましたが、『道草』『こころ』『硝子戸の中』の販促用ポスターは五葉が手がけています。 五葉は、明治44(1911)年の三越一千万懸賞ポスターで堂々一等賞の栄冠に輝きました。元禄模様の着物を着た女性が美人画の版本を手に座る姿を描き、江戸の雰囲気とアールヌーボーを合体させています。五葉は、以後、浮世絵を再生させるがごとく、美人画の版画制作に没頭していきました。しかし、漱石が没した五年後の大正10年、中耳炎をこじらせ40歳の若さでこの世を去っています。 漱石作品で五葉がモデルになっているといわれるのが『吾輩は猫である』の美学者・迷亭です。五葉は話好きで、絵のことや冗談などの面白い話が大好きで、いつもみんなを笑わせていたと言いますから、五葉のエス今日もいくつかあるのかもしれません。 また、『三四郎』の原口さんもその髭やヘビースモーカーぶりから五葉の影響があるという人もいます。 小宮豊隆は、昭和10年の月報『三四郎の材料』で「第七章では、美禰子の肖像画をかくという原口さんが、一中節の稽古をしているといって、いろいろその話をする。これは、松根東洋城から出た種である。当時東洋城は一中節の稽古に凝って、漱石の所に来ては、しきりにその話をしていた。ここの原口さんの台詞は、恐らく、東洋城のいったことが、そっくりそのまま使われているのだと思う。もちろん原口さんの画室に這入った時の感じは、正に橋口五葉の登室に這入った時の感じと、そっくりそのままの感じである。東洋城とは何の関係もない」と書いています。
2022.07.09
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五葉は、続いて『漾虚集』の装丁に取り掛かりました。 『漾虚集』は、明治39年5月に大蔵書店と服部書店の協力で刊行された短編集で、「倫敦塔」「カーライル博物館」「幻影の盾」「琴のそら音」「一夜」「薤露行」「趣味の遺伝」の7編が収められています。 今回の装丁と扉絵を五葉が、寒川中村不折が手がけました。表紙にはざっくりした木綿の藍染を用い、不折の書をサテンの布に刷っています。 3月2日の手紙では「先日は失礼。昨夜服部主人来訪。さし画すべて拝見致候。ご骨折の段、奉鳴謝候。あの様な手のこんだものをかいて頂くのはまことに難有仕合にござ候。お蔭にて拙文も光彩を放ち威張って天下を横行するに足ると存候。不折のも今までに比類なき精巧のもの甚だ満足致候。小生あの倫敦塔の色彩を非常にうつくしく感じ候。何だか西洋人の色としか思はれず候。小生のもっとも面白しと思うは大兄と不折の画が憂も趣味において重複せざる点に有之候。是ひとつは両君の性質が違うからかとも存候。両君の画によって小生の文集もえらい者に相成申候。先はお礼まで」と送り、五葉と不折の個性の違いが面白さを引き出していると送りました。 印刷が上がったのが5月で、30日の五葉宛の手紙には「お蔭にて漾虚集も出来ありがたくお礼申上候」と送っています。 『吾輩は猫である』中篇が発売されるのは11月、下篇は年を越して発売されています。色使いは金と朱で統一されていますが、中篇はなでしこの前に猫、下篇は丸い縁取りに猫が鎮座しています。ただ、挿画は不折から浅井忠に代わっています。 11月11日の手紙には「昨夜服部が猫の中篇の見本を持って来ました。始めて体裁を見ました。今度の表紙の模様は上巻のより上出来と思います。あの左右にある朱字は無難に出来て古い雅味がある。(上巻の金字は悪口で失礼だが無暗にギザギザして印とは思えない)総体が淋しいが落ち付いていると思います。扉の朱字も上巻に比すれば数等よいと思います。ワクの中にうまく嵌っているように思われます。鶉籠の三枚の扉は先達持って来ましたが何れも駄目だから帰しました。それからまだ持って来ません。何をしていることやら。浅井の画はどうですか。不折は無暗に法螺を吹くから近来絵をたのむのがいやになりました。先御礼まで」とあり、「坊っちゃん」「草枕」「二百十日」を掲載した「鶉籠」も進行していることがわかります。
2022.07.07
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漱石の信頼を得た五葉は、『吾輩は猫である』の装丁を任されることになります。ただ、装丁には漱石も一家言持っていて、8月9日のハガキで「昨夜は失礼致候。その節ご依頼の表紙の義はやはり玉子色のとりの子紙の厚きものに朱と金にて何かご工夫願度、先は右お願いまで」と送っています。 五葉もこの要望に応えています。出来上がった『吾輩は猫である 上篇』のジャケットは、猫顔の巨人が表紙のアールヌーボー調。表紙は金の文字の下には二匹の猫が朱の中に浮き出ています。また、本の点の部分は汚れないように金を施した「天金」で、ほんの小口ハミ祭壇で、ペーパーナイフでひり開くタイプのものです。この凝ったデザインに愛書家は注目したのでした。 ただ、一般の人はというと、ペーパーナイフで切るという仕掛けに戸惑ったようです。明治44年5月21日の漱石日記には「神田の白牡丹の主人とかが梅毒で病院に這入ったものが、余の猫を読むのに書物の小口が切ってないのを看護婦に小刀をよく研いで切らせる所が、小刀が切れれば切れる程切り損うと、主人がなる程漱石という男は人に手数をかけるべく出来上った男だ。博士問題を辞して文部省に手数を掛けると同様の遣り口だ。と憤慨していたそうである。この主人は電話で妻を病院に呼んで時計の時間を計って、細君の病院へ来た時間と途中の時間を比較して、御前は何時何分に出ると云ったが、時計の上でこれこれ掛っている。嘘だろうと一時間くらい小言をいうのだそうだ」とあり、柴田宵曲の『明治風物誌』の「ペーパーナイフ」には「神田の白牡丹の主人か何かが、入院中『猫』を読むのに、看護婦に小刀をよく研いで切らせると、小刀が切れれば切れるほど切り損う。そこで大いに憤慨して、なるほど漱石という男は人に手数をかけるべく出来上った男だ、博士を辞して文部省に手数を掛けると同様の遣り口だといった話もある。この主人はそれまでアンカットの書物を読む機会がなく、従つてペーバーナイフの効能を知らなかったらしい」と出てきます。 漱石は、『吾輩は猫である』上篇自序で次のように述べて、誤用に感謝の意を示しています。 「吾輩は猫である」は雑誌ホトトギスに連載した続き物である。もとよりまとまった話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上においてさしたる影響のあろう筈がない。しかし自分の考えではもう少し書いた上でと思っていたが、書肆がしきりに催促をするのと、多忙で意の如ごとく稿を続ぐ余暇がないので、差し当りこれだけを出版することにした。 自分が既に雑誌へ出したものを再び単行本の体裁として公にする以上は、これを公にするだけの価値があるという意味に解釈されるかも知れぬ。「吾輩は猫である」が果してそれだけの価値があるかないかは著者の分として言うべき限りでないと思う。ただ自分の書いたものが自分の思うような体裁で世の中へ出るのは、内容の価値いかんに関らず、自分だけは嬉しい感じがする。自分に対して、この事実が出版を促すに充分な動機である。 この書を公けにするについて中村不折氏は数葉の插画をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙その他の模様を意匠してくれた。両君のお蔭によって文章以外に一種の趣味を添え得たるは余の深く徳とする所である。 自分が今まで「吾輩は猫である」を草しつつあった際、一面識もない人が時々書信または絵端書などをわざわざ寄せて意外の褒辞を賜わったことがある。自分が書いたものがこんな見ず知らずの人から同情を受けているということを発見するのは非常にありがたい。今出版の機を利用してこれらの諸君に向って一言感謝の意を表する。 この書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠のような文章であるから、たといこの一巻で消えてなくなった所で一向差し支えはない。また実際消えてなくなるかも知れん。しかし将来忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機会があれば再び稿を続ぐ積りである。猫が生きている間は――猫が丈夫で居る間は――猫が気が向くときは――余もまた筆を執らねばらぬ。
2022.07.05
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僕は今までに漱石関係の電子書籍を4冊発売しています。 当初は、電子出版の作成と販売に慣れていなかったこともあり、校正が不十分でした。そのため、誤字や脱字、意味が十分に伝わっていない箇所が散見され、ご迷惑をおかけしました。 今回、『ハイカラ漱石』の発売を機に、Amazonの電子出版に関しては改訂版をアップさせていただきました。 以前に私の本をご購入された方は、ぜひ再ダウンロードをしていただくと有難く存じます。 Amazonの再ダウンロードについてはこちら また、7月13日まで「Kindle Unlimited プライムデー 3ヶ月99円で利用できるキャンペーン」が実施中です。こちらをご利用いただくと、無料でKindle本がダウンロードできます。 こちらも、重ねてご利用ください。 現在、私は『江戸っ子漱石 食と衣』を執筆中です。今月中になんとかまとめて、1ヶ月をかけて校正し、9月には販売する予定です。 よろしくお願いします。
2022.07.03
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漱石の日常シリーズ4冊目になる『ハイカラ漱石』が、7月1日からAmazonで発売となりました。 漱石のおしゃれに関する一冊です。 まえがきをブログに掲載しますので、興味のある方は是非ご購入を。 目次はこちらです。 漱石は正真正銘のハイカラ「ハイカラ」の元々の意味は、「高襟」のことです。欧米から帰ってきた政治家や官吏が、揃いも揃って丈の高い襟のシャツを着ていたことから、西洋文化にかぶれた欧米帰りの人を指すようになりました。「ハイカラ」という言葉の中には「キザ」や「生意気」「半可通」「主体性がない」といった意味を含んでいます。「ハイカラ」を使いだしたのは毎日新聞の石川半山でしたが、一般に浸透するまでには至りませんでした。この言葉が一気にブレイクするのは、明治33(1900)年8月10日、築地のメトロポールホテルで歴史家・政治家であった竹越与三郎の洋行送別会が催された際、来客の外交官・小松緑が「ハイカラ」と洋行帰りの人々を嘲笑するけれど、揶揄している半山自身もまたハイカラーを着用しているではないかと演説で笑いを取りました。そのことを新聞各社がこぞって取り上げたために「ハイカラ」が知れ渡り、一般の人たちも使い出すようになったのです。 また「軽佻浮薄」の面を強調するために、形だけで中身のない「灰殼|」という字をあてた記事も登場しています。 ロンドンに来た日本人たちの軽薄さを漱石も感じていました。明治34(1901)年1月5日の日記には「みだりに洋行生の話を信ずべからず。彼らはおのれの聞きたること、見たることをuniversal case(普通のこと)として人に話す。あにはからん。その多くはみなparticular case(個別のこと)なり、また多き中には法螺を吹きて、いやに西洋通がる連中多し。彼等は洋服の嗜好流行も分らぬくせに、己れの服が他の服より高きゆえ、時好に投じて品質最も良好なりと思えり。洋服屋にだまされたりとはかつて思わず。かくの如きものを着て得々として他の日本人を冷笑しつつあり。愚かなることおびただし」と、物見遊山で欧米にやってきた人々を非難しています。 二年間の惨憺たるロンドン生活の思い出を携えて帰国した漱石は、ロンドン仕込みの「高襟」を着こなしていました。第一高等学校と東京大学文科大学の講師として教壇に立つ漱石は、小宮豊隆の『休息している漱石』によれば「ひどくハイカラで、諸先生の中に異彩を放っていたようである。今日流布している写真の先生は、髭を短く刈り込んでいるが、当時の先生は、カイゼル髭ほど極端なものではなかったとしても、房房と生えた真黒な髭の両端をぴんと刎ね上げ、ひどく気取った風采をしていた」と懐述しています。 門人の森田草平もまた『続夏目漱石』の「三座談の巧さと江戸っ子」のなかで「先生は{英吉利を嫌っていられたけれども、倫敦仕込みだけに、何といっても洋服はちゃんと身に合った、きちんとしたものばかり着ていられた。とにかく、洋服については大分注文が難しかったらしい。これは倫敦仕込みというよりは、先生の江戸っ子気質がそれを要求したものとみておいてよかろう」と記しました。 「ハイカラ」が流行語となった頃には、否定的な意味合いが強かったのですが、次第に「おしゃれ」「進歩的」「優美」「流行の先端」といった肯定的な意味に変じていきました。漱石作品にも、そのことが顕著に表れています。 『吾輩は猫である』では「ハイカラの首実検(3)」「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ。(10)」「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。(10)」「元をただせば金田令嬢のハイカラと生意気から起ったことだ。(10)」。『坊っちゃん』では「君子を陥しいれたりするハイカラ野郎(9)」「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴(9)」と、皮肉と軽蔑の要素が含まれています。 ところが漱石の朝日新聞入社第一作の『虞美人草』になると「藤尾さんのようなハイカラの傍へ持って行くとすぐ軽蔑されてしまう。(11)」「そんなハイカラな形姿をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ。(14)」「外交官の妻君にはああいうハイカラでないと将来困るからといったのさ。(16)」。『それから』では「浪人とは誰にも受け取れないくらい、ハイカラに取り繕ろっていた。(8)」「平岡さんは思ったよりハイカラですな。あの服装なりじゃ、少し宅の方が御粗末過ぎる様です(8)」。『彼岸過迄』では「今頃{流行|はや}るハイカラな言葉をすぐ忘れちまって困るが……*(報告7)」「千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを憐れに眺めた。(須永の話30)」。『行人』には「『ハイカラよ』お重の澄ました顔には得意の色が見えた。(塵労11)」、「兄さんの話は西洋人の別荘や、ハイカラな楽器とは、全く縁の遠いものでした。(塵労50)」。『こころ』では「玉突だのアイスクリームだのというハイカラなもの……(先生と私1)」、「私はその時分からハイカラで手数のかかる編上を穿いて……(先生と遺書26)」。『道草』では「見てご覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって。(48)」、『明暗』では「唐物屋の店先に飾ってあるハイカラな{襟飾|ネクタイ}を見た時……(155)」と、どんどん「ハイカラ」がプラスのイメージに変化しているところを見ることができます。 漱石は、明治39(1906)年の「断片」に次のように書きました。 服装などに好みのある人がかえって「ハイカラ」に見えずして、そっちにあまり興味なき人がかえってハイカラに見えることあり。これはこんな訳である。前者はいかに凝ったなりをしてもそれをよく着こなしている。後者はさほどに品物を選ばざるにも関わらず、己れが着けたものをこなしておらん。だから一方は自然に見えて、一方は不自然に陥る。言を換えていえば、前者は厳密なる嗜好の試験に及第せるもののみならず、あつめて身につけているにもかかわらずその選択の際の苦心や、愉快や、自慢に拘泥しておらん。あたかも裸体でいると一般の心持ちでいる。しかるに他はさほどにやかましく衣装道具を詮議立てをせぬくせにどこへ行っても、いつまでも己れの服装に拘泥しておる。百姓が大礼服をつけたようなものである。 して見るとハイカラという語はちょっと考えると服装だけできまるようであるが一歩進んで考えるとこれは当人の気の持ちよう。心の態度である。 漱石のおしゃれは自然体を貫き、自己本位を実現するために必要なものなのかもしれません。 漱石のおしゃれな家系 漱石門人の小宮豊隆は『休息している漱石』で「生れた家が、痩せても枯れても、名主という、相当派手な暮しをしていた家であったということ、そうして親類には遊女屋があり、姉さんだの兄さんだのの住んでいた世界が、そういう空気の濃厚に漂っている世界だったということ、そういうことが見えない因果の糸となって、ここに尾をひいているせいもあるかも知れない」と漱石のおしゃれについて書いています。 漱石の家は名主でしたので、江戸時代には羽振りのいい暮らしができました。漱石は姉たちの芝居見物の話を聞き、まるで夢の中のような出来事だと感じていたのです。 しかし、漱石が塩原家に養子に出された翌年に名主制度は廃止となり、父の小兵衛直克は府庁や警視庁に職を求めて転々とし、しかも詐欺師に騙されて家の財産をなくしてしまいます。漱石が養子先から夏目家に戻った頃、夏目家の屋台骨はすでに傾きつつあったのでした。 母・千枝の次姉・久は、内藤新宿の遊女屋「伊豆橋」を養子の夫ともに営んでいました。「伊豆橋」は、内藤新宿でも一・二を争う旅籠屋、つまり遊女屋でした。また、長姉の佐和が嫁いだのは「伊豆橋」の跡を継いだ福田家で、しかも、漱石の養父・塩原昌之助が管理していたこともあるという、ややこしい関係です。 そのため、漱石の兄たちは遊女のいる家に遊びに行く機会は四六時中にありました。 漱石の次男・伸六の『父・夏目漱石』によれば、神楽坂にあった次姉・房の嫁いだ高田庄吉の家の筋向かいの芸者屋が「**ご神灯を軒先にぶらさげた東家」で、姉の家にのべつ出入りしていた次兄の栄之助は「竹格子の窓の内側から、向いの東家へ出入りする芸者達を呼びとめたり、からかったりして、遊んでいたのだという(父の家族と道楽の血)」と書かれています。 この「東屋」は、『硝子戸の中』にも出てきます。 私はその東家をよく覚えていた。従兄の宅のつい向いなので、両方のものが出入りのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶をし合うぐらいの間柄であったから。 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩もので、よく宅の懸物や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い癖があった。彼が何で従兄の家に転がり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働いた結果、しばらく家を追い出されていたかもしれないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。(硝子戸の中17) この「東屋」は、「伊豆橋」の跡を継いだ福田家が所有していた家でした。 まさに夏目家は、こうした遊郭の世界に深く入り込んでいて、漱石もまたこうした雰囲気を肌で感じていたのです。 おしゃれや絵画は、幼い頃から本物に触れるということが大切だといわれます。同様に粋の世界も肌で感じていないと、本当のところはわかりません。漱石は、こうした家庭環境であったため、着物の粋な着こなしを知らず知らずのうちに覚え、次第におしゃれになっていったのでしょう。 コンプレックスはおしゃれの原動力 漱石は、「アバタ」と「低身長」という二つのコンプレックスを抱えていました。 明治3(1870)年4月24日、明治政府は種痘の全国実施を定めました。その翌年(荒正人の『漱石研究年表』ではこの年)に種痘を受け、それが原因で漱石の顔にはアバタが残ってしまいます。『吾輩は猫である』には「主人はこの功徳を施こすために顔一面に疱瘡を種え付けたのではない。これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである。その頃は子供のことで今のように色気もなにもなかったものだから、痒い痒いといいながら無暗に顔中引き掻いたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の上を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。(9)」とあり、『道草』には「彼はそこで疱瘡をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌わず掻きむしって泣き叫んだ。(39)」と記されています。 猫は、苦沙弥先生のアバタを気にする仕草を見て「主人は見性自覚の方便としてかように鏡を相手にいろいろな仕草を演じているのかも知れない。すべて人間の研究というものは自己を研究するのである。天地といい山川といい日月といい{星辰|せいしん}というも皆自己の異名に過ぎぬ。自己を措いて他に研究すべき事項は誰人にも見出し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出すことが出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。(9)」と語り、鏡を覗くのは同時に自己愛の表現でもあると診断しています。もうひとつのコンプレックスは低身長 漱石の身長は、松山中学から熊本第五高等学校への赴任の際に、広島県の宮島にある旅館「岩惣」の宿帳に記された身長「五尺三寸」という記述から159センチ(157センチとも)といわれています。ただ、この時に一緒に泊まった高浜虚子も同じく「五尺三寸」と書かれ、筆跡も一緒。つまり、宿屋の誰かが代筆したものかもしれません。 また、明治22年3月9日に第一高等中学校で実施された体格検査では、漱石の身長は1・587メートル、体重13・950貫で、キロに直すと52・31キロとなります。ベルツによると、この「五尺三寸」というのは当時の日本人成人の平均身長でした。 漱石が自分の身長が低いと自覚するのはロンドン留学時代です。『倫敦消息』には「向うへ出て見ると逢う奴も逢う奴もみんないやに背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背に税をかけたら、少しは倹約した小さな動物ができるだろうなどと考えるが、それはいわゆる負け惜しみの減らず口という奴で、公平なところが向うの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持ちがする。向うから人間並はずれた低い奴が来た。来たと思ってすれ違って見ると自分より二寸ばかり高い。こんどは向うから妙な顔色をした一寸法師が来たなと思うと、これすなわち{乃公|だいこう}自身の影が姿見に写ったのである。やむをえず苦笑いをすると向うでも苦笑いをする。これは理の当然だ」と書かれています。 漱石は、当時の英国人の平均身長より10センチほど低かったため、嫌というほどの劣等感と、東洋人としての差別と疎外感を味わいました。これが漱石に潜んでいた「神経衰弱」の進行につながります。 小宮豊隆は『知られざる漱石』の「漱石先生の顔」で「先生は中肉とはいえても中背とはいえなかった。むしろ小男といってよかった」と書いています。ただ、「漱石神社の神主」といわれるほど、漱石を崇拝していますから、実際は小男でありながらも漱石が巨大な存在であることを強調しています。 門人の森田草平は『続夏目漱石』の「三座談の巧さと江戸っ子」で「私が先生のお供をして、安藤坂の坂上から右へ折れ、何邸前のだらだら坂を降って行って、今度は急な坂をまさに金富町へ出ようとした、その小さい坂の途中のことである。私は先生の後について、先生を見下ろすようにして歩いていたのだが、その時も先生の洋服がしっくり身に合っているのが眼に着いた。しかし、どうも頭の割に肩幅が狭い。やっぱり日本人だなと思った。こんなことは滅多に気がつかない{質|たち}だから、私は少々得意になって『先生の洋服姿も立派だが、どうも頭の割に肩幅が狭過ぎるようだ』と申上げたら、いきなり『余計なことをいうな』と叱られた」というのです。 草平の言葉に、潜んでいるコンプレックスを刺激されたためなのか、漱石は「そんなことはいわれんでも知っている!」と、怒りの声を投げつけました。 かくして、漱石は自らのコンプレックスを解消する手段として、おしゃれな洋服に自らを包み込んで、ハイカラを追求することに決めたようです。 本書の構成 本書は、漱石のハイカラであった事実を、エピソードや作品を通じてご紹介していきます。 第一章は「ハイカラ漱石の洋服」と題して、洋服にまつわるエピソードを取り上げます。第二章は「ハイカラ漱石の身だしなみ」と題して、漱石のおしゃれにまつわる身だしなみや服飾品の歴史を語ります。第三章は「漱石のハイカラものがたり」として、漱石の珍しいおしゃれグッズの数々をご紹介します。第四章は「漱石作品とハイカラ」と題して、漱石の小説に登場するおしゃれアイテムを提示していきます。第五章は「漱石の通ったハイカラ店」として、漱石が通ったり、小説に登場させた店をご案内します。 本書は、これらの研究により、ハイカラな衣服に隠された漱石の真実が、浮かび上がってくることを狙っています。 今までに書いてきた『西洋料理好き漱石』『湯けむり漱石』『スイーツ系漱石』に続く本書『ハイカラ漱石』は、漱石の身近な生活と作品、さまざまなエピソードで漱石の人間性を掘り下げていく「漱石の日常」シリーズの一冊です。次は、漱石と伝統の味や店との関係を掘り下げた『江戸っ子漱石と伝統の味』に続きます。これらの本で、漱石の日常における意外なエピソードとうんちくをお楽しみください。 なお、本書に引用した漱石をはじめとする作品は、俳句を除く一部を除いて常用漢字や新仮名遣い、句読点などを加えて読みやすくしています。また、JISX0208の第1・第2水準以外の漢字が使えませんので、やむなく別の漢字を使っているものもあります。漱石ファンの方々にはこの点をご了承いただければと存じます。
2022.07.02
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橋口五葉は、兄の貢が熊本五高で漱石の生徒だったことから、大きく運命が変わりました。 貢は、漱石の熊本五高時代の教え子です。ロンドン留学から帰国した漱石は、東京帝国大学文科大学講師と第一高等学校英語嘱託の職を得て東京で暮らしました。当時の漱石は神経衰弱の進行に悩んでおり、その治療の一環として文学や絵画に手を染めました。明治37年頃から、漱石と貢は盛んに自筆の絵葉書をやりとりしており、「ホトトギス」紙面刷新を考えていた高浜虚子に宛てて貢を推薦しようと考えていました。しかし、貢は東京美術学校西洋画科に在籍する弟の清(五葉)が適任だと考え、挿絵画家として五葉を推薦します。漱石は「御舎弟でも無論よろしく候」というハガキを返しました。こうして、五葉はまだ学生の身でありながら『ホトトギス』に挿画を描きはじめました。 漱石は多くの人に直筆の水彩画絵葉書を送っていますが、その中でも漱石はせっせと貢へ自筆の絵葉書を送り続けています。 これは、漱石が貢の絵の才能を高く買っていたためでしたが、貢は弟のご用の方が優れていると漱石に推薦したのでした。五葉の絵葉書を見た漱石は、「ホトトギス」に掲載される『吾輩は猫である』の挿絵に推薦したのでした。 五葉はもともと日本画を学んでいましたが、上京後は橋本雅邦に入門し、のちにに西洋画に転向します。そして、東京美術学校西洋画科を首席で卒業しています。 漱石は五葉の挿画に喜び、お礼の手紙を送っています。 ホトトギスの挿画はうまいものに候。御蔭で猫も面目を施こし候。バルザック、トチメンボー皆一癖ある画と存候。外の雑誌にゴロゴロ転ってはおらず候。これでなくては自分の画とは申されません。孔雀の線も一風有之候。足はことによろしく候。あれは北斎のかいた足の様に存候。 僕の文もうまいが橋口君の画の方がうまいようだ。右御礼まで。匆々。 昨日は失敬。 二月十二日 金 浅井の口絵画の百姓の足はうまいと思う。如何。 君の裏画の馬の首がねぢ切れそうに思うが如何。(明治38年2月12日 橋口五葉宛て絵葉書) 明治37(1904)年12月20日、夏目漱石は橋口五葉の家で初めて雁の羹を食べました。漱石は門人の野間真綱に「一昨夜橋口の宅に招かれて雁を食った。雁は生まれて初めて食って見た。すこぶる甘(うま)い。雁の羹は橋口の家に限る。さる本屋が大阪の蕪漬を送るというてきた」と書き、五葉の兄の橋口貢には雁の絵を添えたハガキに「雁の御馳走は大変うまかった。この度はここに書いてあるようなやつを一疋(ぴき)しめて食いたい」としたためています。 橋口 雁の料理は、漱石へのお礼を兼ねて行われたのでしょう。
2022.06.30
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漱石と安井曽太郎は、会ったことはなさそうですが、曽太郎のことはよく知っていたようです。 というのは、曽太郎と津田青楓は明治40年からともにヨーロッパを旅しています。青楓は先に帰国しましたが、曽太郎は7年の間フランスにとどまり、アカデミー・ジュリアンに学んで、セザンヌの影響を受けています。また、フランスのみならず、イギリス、イタリア、スペインなどへも旅行をしています。 帰国したのは大正3年。第一次世界大戦が勃発して、ドイツがフランスに宣戦布告したため、日本へ帰国したのです。また、曽太郎も健康を損ねていたため、療養を考えてのことでした。 曽太郎が日本画壇で話題になるのは昭和に入ってからのことで、明快な色彩と要約したフォルムの油絵として人気になり、梅原龍三郎とともに人気を二分しました。 曽太郎は、絵の虫とでもいうほど、絵の練習を続けたようで、青楓は『漱石と十弟子』でそのことに触れています。 途中そんなことを思いつづけつつ、東京日々新聞社に相島勘次郎氏を訪問する。「僕が名剌を書いてあげるから行ってごらん。なんて言うか知らないが雇ってはくれるよ」「画家なんて言うものは一生勉強で、これで卒業ということはないんですからね」「あんまり時間に縛られても、勉強する時間がなくなって困ります」「安井曽太郎君はまだ巴里にいるかね」「まだいますよ。あの男は結構ですよ。何年でも家から金を送ってくるんですから」「画家なんていうものは貧乏人では完成しないですね。いくら勉強する意志が強くっても、また才能があっても貧乏人じゃ大成しませんよ、自分で稼がなければ追つっかないようでは」「しかしいつまでという期限がなくちゃー」「理解のある援助者が必要ですね」「…………。」「画家というと放縦な生活をする者が多いからね。あれば贅沢をして、いつまでもブラブラして勉強せんのじゃないか」「そういう人間もありますね。安井君なんか不思議な存在ですよ。あんな勉強する人間もめったにありませんね」(日記抄12) 小宮「津田君、画かきの方ほどうだろう。無名画家で偉い人はいるかね」津田「いますね。僕の友達にYASUIというのがいますが、あいつは必ず日本の画壇ではスバラシイものになるでしょう。何しろダンマリやでコツコツ勉強する以外に能がないので、バレットの虫みたいな男なんですけれど、意志力の強いのではとても我々はかなわない」三重吉「津田の友達かい。そんな。パレットの虫みたいなものが、いい画描きになれるかい」津田「所謂ありきたりの天才というのとは一寸違っていますがね。先生は名主の画行灯ではなかったのですか。YASUIは昼行灯で商売の手伝いは何をやらせても駄目なので、無口でプラプラしていて邪魔になって困らされたのですよ。親達は、仕方がないから言うままに画をやらせたんだそうですが。全く天才ですね。アカデミージュリアンという所は世界中から芸術家の卵が集ってきますが、彼のデッサンはすばらしいもので群を抜いているんです。毎年のコンクールで彼のように首席ばかりをとるものはないんです。もっとも師匠のジャンボールという人はアカデミックな仕事をする人なんですけれど、日本人の小悧口な者はアカデミックの仕事を馬鹿にしてしまって、最初からしゃれた仕事ばかししたがる者が多いのです。だから日本人仲間では彼を天才だなんて考えるものはいないようですけれども、僕は逆に考えているんですよ」漱「そのYASUI君はいつ帰るんだ」津田「もうそろそろ帰るでしょう。私と一緒だったんですが、私は三年で帰ったんですが、彼はあとに残って勉強しているんですから、もう五、六年にもなるでしょう」小宮「YASUIが帰ったら一っ画会をやらそうじゃないか、僕も早速申込むよ」三重吉「ツダ、ツダ、貴公そういう天才はあぶないぞ、キリンだキリンだと思い込んでいると、いつしか駄馬に化げてしまうよ」漱「そう言う青年のいることは頼もしいね」津田「そうですか」漱「森田、文芸欄は公平にやってくれ。津田君、文展の落選組をあつめて、一つ日本のアンデパンダンをやってみたらどうだね。落選の中にも存外な掘り出しものがあるはずだよ」(アンデパンダン)
2022.06.28
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大正2年6月18日、漱石は津田青楓に宛てて、「小川千甕先生の画を御送り被下難有候。どうも旨いですね。だれの画を見ても感心の外なく、カツ存外な思いも寄らない所をかきます。こうなるとあらゆるものに感服し、敬服し、歓喜することが出来て、甚だ愉快です。私はあれから二三枚妙なものを画きました。そのうち―二枚必ず賞められなければ承知の出来ないもので、いつか序の時また見て下さい。右御礼かたがた御報まで」という手紙を送りました。 小川千甕は、京都生まれの画家で、芸術の出発は仏画師として15歳で仏画師・北村敬重の弟子となり日本画を学びます。それから、20歳になると洋画家の浅井忠に師事し、洋画を学んでいます。その後、京都市立陶磁器試験場の技手として、陶器の絵付けをしていました。どういう縁かはわかりませんが、雑誌『ホトトギス』の挿絵なども手がけています。 28歳で上京。『太陽』などに挿絵や漫画を発表すると、人気が出ます。 そうして、漫画で貯めた金で大正2年から3年にかけてヨーロッパに遊学し、帰国後展覧会を開いています。 漱石がもらった絵は、千甕が要項費用を捻出するために、手持ちの絵を安く売ったものでしょう。 その後、日本画に転向し、「南画」を多く発表、また俳句とのコラボレーションも楽しんでいます。 漱石が好んだのは、こうした嗜好のテイストがよく似ていたからでしょうか。
2022.06.23
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うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬の肉が落ちている。「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である。来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死の勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。迷惑だろうが大晦日でもかかしてくれ。「その代りここん所へかけるつもりです」 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。「三井です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」(三四郎 8) 『三四郎に登場するこの絵は、和田英作が模写したベラスケスのマリアナ公女だといわれています。 確かに「もっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」といえる出来栄えです。 漱石はあまり和田英作の作風が好きではないようで、『文展と芸術』では「石黒男爵肖像」「H夫人肖像」を俎上に置き、ナスの絵とか、義理で描いたようだと酷評しています。英作は、ヨーロッパから36年に帰国すると、東京美術私学校の教授となり、のちに校長となっています。 先ず一番に和田君の描いた石黒男爵の肖像について所感を述べたい。決して悪口をいう積でなく、ただ感じた通りを自白すると、男爵の顏は色の悪い唐茄子に似ている。もっとも男爵の顔を横から見れば多少唐茄子らしい所があるのかも知れないから、これは画家の罪とばかりはいえない。しかし男爵の顏が粉を吹いているに至っては、いよいよ唐茄子らしくなるとならないとに論なく、和田君の責任である。いからざれば光線の責任であるが、どうもこうではないらしい。和田君はH夫人というのをもう一枚描いている。これも男爵同様はなはだ不快な色をしている。もっとも窓掛や何かに遮ぎられた暗い室内のことだから光線が心持よく通わないのかも知れない、が光線が暗いのでなくって、H夫人の顔が生れ付暗いように塗ってあるから気の毒である。その上この夫人はいやだけれども義理に肖像を描かしている風がある。でなければ和田君の方で、いやだけれども義理に肖像を描いてやった趣がある。自分は何方か知らないが、隣りにマンドリンを持ってきている山下君の女を見た時、猶々そういう感じを強くしたのである。山下君の女は愉快にそうして自然に寐ている。眼をねむっている癖に潑溂と動いている。生き生きとした活力を顏にも手にも身体にも蓄わえたまま、静かに横たわっている。自分は彼女の耳の傍ヘ口を付けて、彼女の名をささやいてみたい。しかし眼を開いてこっちを向いているH夫人にはかえって挨拶する勇気が出ない。(文展と芸術 10) 漱石は、美術界との接点も早くからあったようです。ただ和田英作との手紙のやり取りは見当たらず、明治42年4月21日の日記の中の来信に「漫遊画集展覧会の展覧会」というのがあり、矢崎千代二の名前と発起人として黒田、和田、岡田の名前が並んでいます。黒田は黒田清輝、和田は和田英作、岡田は岡田三郎助ではないかと思います。 矢崎千代二は東京美術学校を卒業していて、明治37年からセントルイス万博事務局員として渡米し、アメリアで腕を磨いてからヨーロッパのパリ、ベルギー、ドイツ、オランダ、ロンドンを歴訪して明治42年に帰国しています。欧米で書きためた絵を見ていただこうという試みだったようです。 千代二は、大正時代になってから油絵からパステル画に筆を持ち替え、世界中を写生して回りました。日本人でパステル画を書き始めた先駆者です。
2022.06.21
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長い間外国を旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。「ベニスでしょう」 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤いきれとをながめていた。すると、「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。「兄さんとは……」「この絵は兄さんのほうでしょう」「だれの?」 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色をかいたものが幾点となくかかっている。「違うんですか」「一人と思っていらしったの」「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。(三四郎 8)『三四郎』では、三四郎と美禰子が丹青会という展覧会に出かけるところがあります。この丹青会は架空の美術団体で、吉田博・ふじをの描いたヴェニスの風景画があることから「太平洋画会」のことでしょう。 これは、漱石が明治41年に開催されていた太平洋画会で吉田博の「ヴェニスの運河」を見て、このシーンを書いたと考えられています。ここに出てくる博とふじをの絵を漱石は「兄妹の絵」と書きますが、これは事実でもあるのですが、もう一つ「夫婦の絵」でもあります。 久留米に生まれた吉田博は、福岡県立修猷館に入学しますが、修猷館の図画教師であった洋画家・吉田嘉三郎に絵の才能を見込まれ、吉田家の養子となります。そして、ふじをは吉田家の三女でした。血の繋がっていない兄妹で、二人とも上京して小山正太郎が主催する不同舎に入門し、「絵の鬼」と呼ばれるほど研鑽を積みました。この才能を磨くために、海外で絵を学びたいと考えた博は、自らの水彩画がアメリカ人に好評だったことから、アメリカ経由での渡欧を思いつきました。借金して手に入れた片道切符を手に、明治32(1899)年、後輩の中川八郎とサンフランシスコに上陸。作品を持ち込んだデトロイト美術館でラッキーにも展覧会を開催できることになり、博は1064ドルを売り上げました。この金額は、当時の日本の教師の10年以上の年俸に当たります。そうして、博はパリ、ドイツ、スイス、イタリアなどを歴訪して、明治34(1901)年に帰国します。そして、わずか2年後には、絵を勉強していた16歳の妹・ふじをとともに再びアメリカに渡ります。ボストンを拠点に展覧会を開催し、これにより絵もより売れるようになって、経済的にも潤いました。 その後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCなどで展覧会を開催。欧州に渡り、モロッコやエジプトを巡歴して、明治39(1906)年に帰国しました。 このときに訪れたヴェニスで描いたのが、さきほどの「ヴェニスの運河」です。 20歳になって帰国した彼女は、明治40(1907)年の第1回文展や東京勧業博覧会などに作品が入選。この時に、太平洋画会の満谷国四郎夫妻が媒酌人となり、義兄の博と結婚したのでした。 博は、風景画の第一人者として活躍。のちには木版画の世界に進出して、独自の作品を残しています。博は昭和25(1950)年に74で老衰のため死去。残された富ふじをは、水彩から油彩、具象からアブストラクトへと、画風を変えています。
2022.06.18
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明治43年12月1日と5日に、漱石は野上豊一郎に頼まれたのか、渡辺与平への依頼を取り次いでいます。 拝啓。その後御無音小生順当に漸次回復御安神願候。さて別紙長野の信濃新聞主筆桐生悠々君より到来致候処、幸い大兄は与平さんと御懇意乍御面倒御周旋被下度候。なお初刷に入要のこと故、急がねば間に合わぬことと〔存〕候故、その御積にて万事願上候。(明治43年12月1日 野上豊一郎宛書簡) 拝啓。先日は与平さんに御依頼早速御快諾をうけ難有候。その旨直ちに桐生悠々君に通知致候処、別紙の通申越候。然るに○を打った所よく読めず閉口なれど、与平さんには分るだらうと存候につき、御示し願上候。 なお差出先は長野市旭町信濃毎日新聞に有之候につき、これも合せて御通知願候。 小生漸々よろしく候。朝起きた時は少し福々しく見え候。しかし昼から夜へかけて人相またまたわるく逆戻を致し候。謡も今少ししたらお仲間入りをして稽古ができることと存候。(明治43年12月5日 野上豊一郎宛書簡) 与平さんとは、画家の渡辺与平のことです。信濃毎日新聞の桐生悠々との連絡について報告していますが、この書簡にみえる「初刷」は、信濃毎日新聞の明治44年1月1日の紙面印刷のことで、同日の同紙には山くじら」と題された与平の「挿画が掲載されています。 与平は、明治21年10月17日長崎生まれの画家で、京都市立美術工芸学校で日本画、のちに東京の太平洋画会研究所で中村不折に師事して洋画を学んでいます。子供をモチーフにした叙情的な挿絵で流行作家となりました。その人気は竹久夢二を凌ぐほどのものでした。明治42年画家渡辺文子と結婚。明治45年6月9日死去。25歳。県出身。旧姓は宮崎。明治42年に洋画家の渡辺ふみ子と結婚し、渡辺姓に改めています。 絵画よりも挿画、今のイラストレーターの仕事で人気が高まり、『ホトトギス』『国民新聞』『少女の友』などで活躍し、「ヨヘイ式」とその画風が呼ばれています。明治45年6月、喉頭結核と肺炎を患い、22歳の若さで病死しています。
2022.06.16
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大正2年7月3日の橋口貢宛にあてた手紙で、漱石は「書苑と申す雑誌御承知にや随分珍なるものを載せ申候も、中には珍らしきのみにて一向難有からぬものも沢山に有之候。御慰みに御取寄せありては如何。画報社より雅邦大観と申すもの出で候。最初の二巻にて雅邦の価値も相分り申候。あれは実に巧みなる人と存候。あまり巧み過ぎて窮屈に候。それでも品格の落ちぬ所が偉い点かと思われ候」と、画集の購入を勧めています。 また、この年の9月29日、津田青楓に「雅邦のあの画は全然無価値であります。き用過ぎて小刀細工があって画面の大きな割に大きな感がどこにもあ〔り〕ません、卑しい品ですな。明治を代表する格調があの位のものだと思うと情ないことです」と雅邦の批判を送っています。 橋口貢宛の手紙にある『雅邦大観』は、この年に画報社から刊行された橋本雅邦の画集です。モノクロで20ページほどの体裁で、1~12輯出版されています。漱石文庫にはその第1・2輯が蔵されています。 他には明治45年の断片に「書画屋の悪徳」というメモがあり、○瀧の川辺にいる贋物作りにどんな画でもかかせる。それが七円位、表装が二三十円。それを田舎へ持って行く。一人が旧家などへ入って所蔵の幅物を見て本物を散々ケチをつける。そのあとへ贋物を持ち込んで本物と引換える。そうして本物は東京で高く売る。○大坂では地面を買うと同じ心得で書画を買う。○滅多に蔵幅を表具師などへは託されない。すぐ写しをこしらえる。そうして本物と称して売る。○東京でも玉堂は雅邦のニセを昔大分描いたそうだ。宝淵は玉章のニセを拵らえたそうだ。それでなくても塾頭位な人になると表具師か書画屋から釣られる。絖などを持って来て、先生何かかいてくれといってその礼に五円位くれる。先生大得意でこんなことを繰り返すうちに書画家と親みが出来る。その時先生これを一枚写してくれなどと頼まれる。正直な塾生は悪いことと知らないからすぐ引き受ける。書画屋はそれをすぐ本物として高く売り付ける。○まだ玉章の尺八が三十円位の時分、地方か〔ら〕書画屋を媒介に何か描いてもらうと、あとから苦情が出て実はもう少し密なものをという注文であったなどというから、能く訳を聞いて見ると、書画屋は周旋料を取った上、潤筆料の大部分をハネタ上三十円だけ玉章の所へ持って来ていることが分る○箱書をかいてもらってその中に偽物を入れて、本物は別にうる○下條正雄などは本物へケチをつけて、人を遣って散々にこなして買い取って、それを宮内省や何かへ売りつける。○書画屋が画の相場をつけて無暗に高くする。そうしてその利益をしめる。画家がもしそれを排斥すると、新画の市でその人の画を踏倒して相揚を下落させて復讐をする。○ある大家が実業家から絵をたのまれてかいたらその翌月その絵がすぐ売物に出て、そうして箱書をたのみに来た。これは儲けるために書いてもらったのだそうである。 と、書いています。 また、『文展と芸術』にも「会場を這入ってすぐ右にある広い室を覗くと、大きな画ばかり並んでいた。そのうちに「南海の竹」と題した金屛風があつた。南海か東海かはもとより自分の関係する所ではないが、その悪毒(あくど)い彩色は少なからず自分の神経を刺激した。竹といい筍といい、筍の皮といい、ことごとく一種の田臭を放って、観る者を悩ませているように思われた。自分はこの間表慶館で、猫児と雀をあしらった雅邦の竹を見た。このむらだらけに御白粉を濃く塗った田舍女の顏に比較すべき竹の前に立った時、自分は思わず好い対照としてすっきりと気品高く出来上がった雅邦のそれを思い出した。この竹の向側には琉球の王樣がいた。その侍女は数からいうと五六人もあったろうが、いずれも御さんどんであった。その橫には春の山と春の水が、非常に大きく写されていた。自分はその大きさに感心した。(6)」と、田南岳璋筆「六曲屛風一双」を、以前に表慶館で鑑賞した橋本雅邦筆「竹林猫図」の清々しさと比較しています。 橋本雅邦は、漱石よりやや古い時代の人で、幕末から明治時代に活躍した狩野派の絵師、日本画家です。父は狩野養信門下の狩野派絵師・橋本養邦で、同とじ日に入門した狩野芳崖とは、7歳年上にも関わらず、生涯にわたって交友を続けました。 ちょうど幕末の動乱期のため、苦しい生活を余儀なくされましたが、明治10年に狩野芳崖が上京。ともに画業の研鑽に努め、明治15年に内国絵画共進会に出品した作品が高い評価を得て以後、国内外の展覧会に作品を出品し数々の受賞を果たしました。東京美術学校設立に携わり、明治32年に岡倉天心が東京美術学校を去るにあたり、横山大観、菱田春草らとともに辞職し、日本美術院の創立に参加。明治42年に病没しています。
2022.06.14
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有島生馬は、薩摩島津家につながる北郷家の家臣・有島宇兵衛の長男の家に生まれました。そのため、学習院の初等科・中等科で学び、その後肋膜炎にかかって鎌倉で一時期を過ごし、回復後、明治37年東京外国語学校イタリア語科に入学しています。卒業後、藤島武二に師事し、明治38年から明治43年まで渡仏してデュランやコランの指導を受けました。 志賀直哉とは学習院時代に仲良くなり、文学の素養もあったため、創刊から「白樺」同人となっています。そのため、『白樺』に留学時代のことを書いた『蝙蝠の如く』を断続的に発表しました。 漱石は、大正2年7月7日に「時事新報」の質問に答えて、この『蝙蝠の如く』を引き合いに出したため、それを知った生馬から本が届きます。 漱石は7月21日に生馬宛に「あなたの御名前は津田君よりかねてから伺っております。あなたの画も展覧会で時々拝見しております。『蝙蝠の如く』は白樺で拝読しました。時事新報の質問に応じたるうちに高著の名を挙げたるにつき御手紙を賜わり、かつ『蝙蝠の如く』を御恵投被下ました御好意を深く感謝致します。只今やりかけた仕事のため、すぐ拝見することはできませんが、少し手がすいたらゆっくり拝読致す積りです」という手紙を出しました。 漱石は『蝙蝠の如く』を読み、9月1日に「七月末に頂戴した本の御礼に差支があつて、只今は拝見が出来ないと申添えたことを記憶しております。私はそれを八月の三十日・三十一日の両日に読み得たということを改めて申上げたいのであります。そうして通読の際、少からざる興味をもち、またその興味が読了の後、今ゆたかにつづきつつあることを申上たいのであります。私は御恵与の好意に対してそういうことを衷心からいい得るのを、はなはだ満足にかつ愉快に思うのであります。蝙蝠の如くは御好意に対してばかりでなく、私の愛読書の一つとして永く書架に蔵して置きます、失礼を申上げるようですがあの装禎だけは不服であります。もう少し内容と釣り合った面白いものにしたらばという気がしてなりません。この手紙は先に申上げた約束を履行して高著を読み了ったという御報知ではありません。むしろ通読の際に感得した多大の興味に対する謝辞であります」と送りました。 装丁にうるさい漱石は、『蝙蝠の如く』の装丁を不服に思っています。そして、『行人』が本になると、生馬に送って返礼としています。 大正4年10月11日の「大阪朝日新聞」のインタビュー記事「文壇のこのごろ」で「『蝙蝠の如く』などは、私の愛読した一つである。この策などは、誰でも書けるというような種類のものではない。有島氏でなくてはできないものである」と答えています。 大正5年、生馬は『南欧の日』が出版されると、真っ先に漱石へ本を贈りました。漱石は6月14日に「『南欧の日』一部御恵投ありがたく存候。貴方のものは大抵読んだ積りでおりますが、あの中にはあるいはまだ未読のものもあるかも知れません故、閑を得て拝見する積りでおります」と送っています。 漱石は、絵画で生馬を知りましたが、生馬の文才に惹かれたようです。しかし、生馬は筆を捨てず、大正3年に文展洋画部への監査に不満を抱いた一部の洋画家たちが、文展を離脱して立ち上げた二科会を結成。生馬の他に石井伯亭、坂本繁二郎らが意欲作を出品しています。当初は審査は行われないようになっていましたが、銀行からの資金提供があったため、急遽「二科賞」を設定し、有望な若手への登竜門となりました。 また、生馬は有島武郎の弟で、しかも里見弴の兄になります。文才に恵まれているのも当然というべきでしょうか。
2022.06.12
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斎藤与里は埼玉県市出身の洋画家で、浅井忠、鹿子木孟郎らに京都で洋画を学び、明治39年、20歳の時にフランスへ渡りました。フランスでは、浅井忠も学んだジャン・ポール・ローランス主宰の画塾アカデミー・ジュリアンに学んでいます。2年半後に帰国したのちは、「白樺」誌上で、ポスト印象派やフォーヴィスムの作品を紹介しています。大正元(1912)年に、岸田劉生、高村光太郎らとらとフュウザン会を結成。フュウザン(fusain)とは、フランス語で木炭のことで、デッサンに力を置いたことが、この名からも伺えます。 この会結成のきっかけは、大正元年10月15日から11月3日まで、与里が銀座通の京橋寄りにあった読売新聞社3階の催し物会場を抑えていたところ、ひとりではとても作品を並べきれないほど広くて困り果てていたところへ、岸田劉生と清宮彬が自分たちも展覧会を開こうとしたいので、区切って貸してもらえないかと頼んできました。それならいっそのこと3人一緒に、しかもそれぞれの友人たちも誘ってグループ展をやろうということになったのでした。その仲間に津田青楓もいました。 大正元年10月30日の寺田寅彦宛の手紙には、「拝啓。この間は失敬。あの椿は壁にかけたらあそこで見た時よりも引立つなと思いおり候。何しろああいうものを買うのは当世一流のハイカラでなくては出来ないという意味で、大敬礼に捧銃を致したい。僕は売れ残りの蜻蛉の壁かざりとあの女の描いた静物でも買おうと思うが、まだそこまでの決心相つかず。そのうちヒューザン会も閉会になるだろうと存候」という手紙を送っています。 フュウザン会の展覧会を訪た漱石と寺田寅彦は、いくつか画も買いました。寅彦は、高村光太郎の画を購入しています。また、漱石は与里の作品を購入したようです。 ただ、フュウザン会は翌年に解散しました。漱石は、父親が亡くなった青楓に宛てて手紙を送りました。「先達て御出の節、丁度私の画の批評を願っている頃、尊大人が御逝去になったとの御報には少々驚ろきました。何だか私も責任を免かれない気が起ります。親の死んだ時、涙を流すことの出来ないのは人間の不幸のようにも思います。私の父は私が熊本にいる頃没しました。私は試験中でとうとう出京もしませんでした。出京もしませんでした。何しろあつく御くやみを申上ます。画は二三日前からやめました。あまりすさむと外のことが出来ないと思って、紙の尽きたのを好機として切り上ました。その後かいた傑作は今度御帰になったら見て下さい。どうも鼻もちのならない自画像があります。高橋広湖という人の展覧会を見て日本画家のいつもながら鮮やかな御手際に感心しました。西洋人が見たらさぞ驚ろくだらうと思ひます。健筆会に支那の呉晶碩という人の画があります。これは文人画のアンデパンダンだから面白いです。しかも西洋と関係なくヒューザン会とも独立しているから妙です。あなたの画に昨日賛をしました。案の錠遣り損いました。今度御覧に入れます。私は昨日上野の帰りに古道具やで軸を一輻買いました。代価は七十銭です。私には面白いと思われる変てこな画です。是も御覧を願ひます。私は今日古いスチューヂオを出して十冊ばかり見ました。さうして感心しています。画かきが画をかく事の出来ないのは郵便屋の足を切られたと同様さぞつらいでしょう。早く御帰りなさい。御兄さんによろしく」 青楓を慰め、京都に帰るように勧めています。 与里は、大正4年に第9回文展に初出品した「朝」が初入選し、翌年の第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選となります。大正13年に、牧野虎雄、高間惣七、大久保作次郎らとともに美術団体・槐樹社を結成。機関誌『美術新論』を発行し、昭和6年に解散するまで、洋画界に大きな足跡を残しました。
2022.06.10
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広島西条の白牡丹酒造には、漱石が大正4(1915)年5月12日につくった「白牡丹李白が顔に崩れけり」の賛が揮毫された掛け軸が残されています。ひ蔵の創業は延宝3(1675)年で、「白牡丹」の銘は天保10(1839)年に鷹司家より賜りました。掛け軸の画は横山大観ですが、大観は大酒飲みで、「酒が主食」と公言していました。朝飯を少し取るだけで、活動のエネルギーは酒に頼っていました。日に二升三合、晩年でも一日一升は飲んでいたといいます。大観の好みの酒は、同じ広島でも三原の蔵の「酔心」で、辛口の日本酒が好みでした。大観は、まろやかながら辛口の「醉心」をいたく気に入り、酔心の山根薫社長と大観は意気投合し、「酔心」の社長は大観の一生分の酒の提供を約束したのです。 昭和57年発行の『日本酒全蔵元全銘柄(主婦と生活社)』によると、「かちとき」は日本酒度がマイナス5、「白牡丹」がマイナス10〜8と超甘口です。どちらも漱石好みの甘い酒で、下戸であっても、「白牡丹」だけは飲んでいたといいます。「白牡丹」の掛け軸は、漱石が主導権を握っていたのに違いありません。(河内一郎氏の『漱石、ジャムを舐める』では、漱石の学生時代の友人・井原市次郎が大観の絵に俳句を描いてもらい、それが白牡丹酒造に渡ったと書いています) 井原市次郎は一高時代の友人の一人で、漱石と一緒に房総半島をめぐり、漱石はこの旅の思い出を『木屑録』という漢文の紀行文にまとめています。 市次郎は一高から慶應義塾を卒業し、ふるさと・広島に帰って家業である西洋雑貨と酒類を販売する「青陽堂」を経営します。市次郎の祖母は逸見家を実家にもち、父は「日霞正宗」を醸していた酒造業の坪島真四郎を養子に迎えます。 逸見家の長男・勝誠は「逸見山陽道」という缶詰製造業を創業。その際、酒造業は「白牡丹」の島家に譲られました。次女が井原家に嫁ぎ、次男の繁三は白牡丹酒造の養子となり、十一代島博三を名乗ります。 これらの血縁関係から、なぜ漱石のところにお鉢が回ってきたかがわかります。 大正4年5月12日、漱石は市次郎へ「先日は御手紙で白牡丹の賛御催促恐縮。実は取り紛れそのままに致し置きたるのみならず、別に句も浮びそうにもなき故、考える苦痛を避くると同時に毎日々々に追われて等閑に付したる次第。どうぞ御ゆるし下さい。今日外のものもしたためた故、あの画を出して眺めたあと無理に一句を題し小包で送りますから受取って下さい」という手紙を送っています。
2022.06.08
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漱石が伊予紋で大観らと食事をとってのち、漱石は『文展と芸術』で大観の「瀟湘八景」に対して「歷史的に画を研究したことのない自分ではあるが、大観君の八景を見ると、この八景はどうしても明治の画家横山大観に特有な八景であるという感じが出てくる。しかもそれが強いて特色を出そうと力めた痕迹なしに、君の芸術的生活の進化発展する一節として、自然に生れたように見える。この間表装展覧会の時に観た君の画は、皆新らしかった。けれども何か新らしいものを描かなければ申し訳がないと力味抜いた結果、やけに暗中に飛躍して、性情から湧いて出る感興もないのに筆を下したと思われるものが多かった。この八景はあんなものから見ると活きている。横山大観君になっている。それを説明すると暇が要るが、一言でいうと、君の絵には気の利いたような間の抜けたような趣があって、大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粹(ぶいき)な無頓着な所も具えている。君の絵に見る脱俗の気は高士禅僧のそれと違って、もつと平民的に呑気なものである。八景のうちにある雁はまるで揚羽の鶴のように無恰好ではないか。そうしてそれが平気でいくつでも蚊のように飛んでてるではないか。そうして雲だか陸だか分らない上の方に無雜作に並んでいるではないか。仰向いてそれを見ているものが、またいかにも屈託がなさそうではないか。同時に雨に濡れた修竹の様や霧の晴れかかった山駅の景色などは、如何にも巧みな筆を使って手際を見せているではないか。――好嫌は別として、自分は大観君の画についてこれだけのことがいいたいのである。舟に乗って月を観ている男が、厭に反っくり返って、我こそ月を観ているといわぬばかりの妙な感じを自分に与えたこともついでだから君に告げて置きたい。」と評しています。 翌年、漱石は橋口五葉を介して大観の柳の図を18円50銭で購入しています。5月29日の五葉宛の手紙には「御病気御本復の趣恭悦存候。小生ようやく床を這出、昨日始めて外出致候。さて説大観の柳表装と箱わざわざの御使にて御持たせ被下難有存候。右代価十八円五十銭封入差上候間、御査収願候先は不取〔敢〕用事まで」と送っています。 また、門人の芥川龍之介も大観から絵を書かなかと勧められています。小穴隆一の『芥川龍之介の回想』には次のように書かれています。 「君。大觀は、僕に繪かきになれというんだ。そうすれば、自分が引きうけて、三年間みっちり仕込むで必ずものにしてみせる、というんだ。」「大觀は、墨を使える者が、いま、一人もいないというんだ。もっともそういう自分もまだだといってたがね、」「君。大觀という男は、実に無法な男だよ、芸術は、われら芸術家においては、とかいって話をしているから、なんのことかと思ってると、画や絵かきのことだけをいっているので、小説のことは、はっきり、小説とか、小説道では、というんだ」 などと、芥川は、大型の人である横山大觀の話のいろいろを、愉快な面もちで聞かせてくれたことがあった。 芥川は、どこぞの葬儀でみた、大觀の香奠の包みかたにも感心していたが、僕を軽井沢に招んだときに、僕が払わなければならない宿屋の茶代を、自分の金で、大觀式の包にこしらえてくれた。芥川は、お線香のようにくるくると巻くのだといっていたが、セロファン包みのあめんぼうに似た形である。「僕も夏目さんの歳まで生きていたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君」 こういったことをいっていた、以前の芥川ではなく、「君、ピカソの歩む道は、実に苦しいよ」 こういって話しかけた芥川は、画帖にいくつかのばけものを描きのこしていた。気忙しく、あちこちの人達に描きのこした河童の画とは異って、芥川の風貌を伝えるものであろうが、天寿を全うし得ない人の画かもしれない。
2022.06.06
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慶応4年に生まれた大観は、前年生まれの漱石とほぼ同年配になります。 漱石が大観と支度しくなったのは、いつ頃のことかはっきりしませんが、明治45年(1912)2月9日に笹川臨風から上野にある割烹料理屋「伊予紋」招待の手紙が届きました。漱石は、仕事が忙しいので難しいと返事はしてあったのですが、画家の横山大観も来るということだったので、うまく原稿の片がつくようなら出かけたいと思っていました。 御手紙難有拝見致候。御叮嚀なる御招待かたじけなく候。ことに横山画伯も御来会と承はり候えば是非都合つけ参り度と存じ候えども、打明けた御恥づかしき処を申すと、目下御承知の小説に追われ、一日後れると社の方で一日休まねばならぬ始末にて大弱りの処に候。過日時々休んでくれと申し叱られ候。木曜の面会日などは、殆ど書き損わぬばかり危うき思をしばしば繰り返し居候。もっとも旨い具合に行けば、一タの余裕位はとれ可申れど、十二日は朝のうち参る人あり。ひるから四時位の間には小生の痩腕にては一回書き上げること覚束なく候えば、あるいは失礼致すことに相成るべきかと存候。右の訳故、もし小生の為ならば会合の日を他日に御延ばし、彼岸過に至れば幸甚。もしまた他の諸賢との御会合ならば、小生は繰合わせつけば参上、もし書けなかったら失敬する位の処にて御勘弁願度候。 甚だ我意にて定めて御迷惑とは存じ候えども、右の次第故、どうぞあしからず御海容被下度。不参の節は、大観君に大兄より宜しく敬意を致され度。先は右不取敢御返事迄。(明治45年2月9日 笹川臨風宛書簡) しかし、残念なことに、原稿を書き上げるが遅れ、せっかくの誘いに加わることができなかったのです。 翌日、伊予紋からの臨風の手紙が届きます。そこには、芸者たちの文字が並んでいます。漱石はこんな返書をしたためました。 拝啓 伊予紋(原文=文)よりの御状拝見。ああ美人まで御揃にて敬意を表されては、大に恐縮致候。あの日半分書きかけたるところに、宝生新という謡の先生見え、稽古をしてもらうと四時で、入湯喫飯を除き、とうとう八時半になり、ようやく社へ送候始末。それがため御両君にも失礼、美人にも失礼、無申訳候。小説をやめて高等遊民として存在する工夫、色々勘考中に候へども、名案もなく苦しがり居候。 大観君によろしく御伝願候。雲峯君の雅名承知の如くにて思い出せず候。同君にもよろしく願候。余は彼岸過拝眉の節万々。頓首。(明治45年2月13日 笹川臨風宛書簡) 漱石の妻・鏡子は、2月12日に会えなかった漱石が、大観の家を訪ねたときのエピソードをしたためています。 笹川臨風さんや横山大観さんなんぞがおよびくだすったのも、この前後であったかと覚えております。一度前におよびくだすった時には執筆の方が忙しいとかで失礼し、その後ひとりで大観さんのところをお訪ねしたことがありました。すると取次の書生さんが先生は留守だというので、そのままよろしくといってかえりますと、後から書生さんが追っかけてきて、お会いしますからどうぞおかえりくださいというので、またすなおについて行ったそうです。大観さんは絵を描いてられて、絵を描いてる時には面会人を断わる習慣になっているので、玄関子が気をきかして居留守を使ったものと知れ、御馳走になってかえってきたなどということがあります。その後大観さんから尺八の柳の絵をいただき、そのおかえしに所望されて全紙に自作の詩を書いて贈りましたが、それができ上がるまでには、ずいぶん稽古をしてはしくじっておったようです。(漱石の思い出 49 私の迷信) その年の7月13日、横山大観、笹川臨風に招かれ、下谷の「伊予紋」に行っています。しかし、その時も胃の調子が悪く、漱石は平野水ばかりを飲んでいました。そして、「伊予紋」では茶漬けを食べて退席しました。息子の夏目伸六は『父・漱石とその周辺』には「酒席に列して、一人浮かぬ顔の扱いにくい父の様子が、何やら、手に取るように窺われてくるからである」とあります。 「伊予紋」は、伊予国大洲藩の賄方だった藩士が、江戸屋敷で働くようになり、のちに始めた料理屋で、前橋東柳編『割烹店通志』に「伊予紋は下谷同朋町にあり。当時、調煎の甘くして廉なるをもって大いに客踵を招けり」とあり、『東京百事便』には「上野広小路青石横町にあり、料理の味わいは下谷にて二と下らず。殊に口取りは有名のものなり」と書かれています。 では、横山大観がこの店をよく利用したかというと、文士と画家の集まり「二十日会」が「伊予紋」で開催されていたためです。この会は、巌谷小波、坪谷水哉、大橋乙羽、高山樗牛、泉鏡花、尾崎紅葉らの文士と、高橋松亭、鳥居清忠、邨田丹陵、島崎柳塢、寺崎広業、富岡永洗、小堀鞆音らの画家で構成されていました。この会では文士のつくる短文に合わせて、画家が絵を描くという遊びの会でしたが、みんなが酔ってしまい、結局作品は完成しませんでした。 大観は、岡倉覚三(天心)を会頭にすえた「日本青年絵画協会」を結成して、寺崎広業、尾形月耕、邨田丹陵、小堀鞆音、富岡永洗らとともに活動。また、岡倉創設の「互評会」にも横山大観、高橋松亭、下村観山、菱田春草らが参加しています。おそらく、浅草生まれの高橋松亭が、養子になって住まいが下谷車坂町になった頃から、「伊予紋」と心やすくなったものと思われます。松亭は、知り合いの大観とも、何度か「伊予紋」を訪ねたのかもしれません。 広島生まれの大観は、同じ瀬戸内海に面した大洲藩の味を伝える「伊予紋」が気に入ったのでしょう。大観は、伯耆の安木節をレコード化するにあたり、伯耆の芸者・お糸と徳之助を「伊予紋」に招き、下谷芸者に安来節を教えたというエピソードも残しています。 拝啓。一昨日はとくに御多忙中。小生の為に孟蘭盆会御開被下難有候。平野水ばかり呑んで一向浮かれず、中途にて茶漬をくい退出。甚だ我意の振舞、平に御高免被下度候。一寸御挨拶申上度もその為にわざわざまかり出るも仰山ゆえ、手紙にて一寸御礼かたがた御詫を申上候。いずれ不日拝眉の節、方々可申上候。不一。(明治45年7月15日 笹川臨風宛書簡)
2022.06.04
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漱石関係の原稿が遅れていまして、どうもすみません。久しぶりの新刊「ハイカラ漱石」に時間が取られていまして、昨日ようやく初稿が完成。校正があるのですが、ようやく落ち着きました。漱石のアートとは全然関係ないのですが、「ハイカラ漱石」の目次を紹介させていただきます。ちなみに7月1日、アマゾンからの販売になります。ハイカラ漱石 土井中 照 著第一章 ハイカラ漱石の洋服 学生服:外国人教師から錠前屋に間違われた服 燕尾服:正装の借し貸り フロックコート:ロンドンで購入した礼服 モーニング:就職に失敗した思い出の服 背広:教師時代の制服的存在 オーバーコート:コートもマントも外套 インヴァネス:洋服だが和服にも合わせる チョッキ:漱石愛用のチョッキの数々第二章 ハイカラ漱石の身だしなみ 髪:漱石のイチバンのこだわり 髭:漱石のトレードマーク 靴:足元のおしゃれこそ究極のハイカラ ネクタイ:洋行の思い出と友人たち カフス:背伸びをしたおしゃれの象徴 鞄:ハイカラの旅行時の必需品 ハンカチ:婚約時代と出国の思い出第三章 漱石のハイカラものがたり 万年筆:晩年の原稿に重宝したオノト 電話:あってもなくてもいい存在 ピアノ:『三四郎』の印税で購入した楽器 蓄音機:声を吹き込むか? 音楽を聞くか? 活動写真:歌舞伎嫌いの漱石の無関心 靴の木型:靴の形が崩れないように エキザーサイサー:スポーツマンの証明第四章 漱石作品とハイカラ吾輩は猫である 原稿料で買ったパナマ帽 海老茶袴は女学生の俗称 仕立ての悪い服と山高帽坊っちゃん 坊っちゃんはいつも絣の服を着ていたのか? 教頭が赤シャツを着用する理由 漱石の赤いタオル虞美人草 金時計と銀時計、ニッケルの時計 金ぶち眼鏡は秀才のしるし三四郎 男心を惑わせるヘリオトロープ 襟巻はボーアかショールかそれから シルクハットで鰻を食べる フランネルがイメージさせる病弱 デパートに先駆けた勧工場の陳列販売門 工プロンは職業婦人の代名詞 几帳面な漱石が好んだ石鹸彼岸過迄 魔法の杖代わりのステッキ 黒い中折帽が目印 漱石の五女・雛子と宵子の関係行人 当時、まだ珍しかったエレベーター まがいもののアクセサリーこころ 鎌倉由比ヶ浜は海水浴のメッカ 先生の奥さんの白粉は仮面なのだろうか道草 蝙蝠傘には禍々しいイメージもある 見世物のような子供の洋服明暗 子供用の靴ならぬキッドの靴 探偵が被りそうなハンチング第五章 漱石の通ったハイカラ店 『虞美人草』と三越の深い関係 妻・鏡子と白木屋でのお買い物 漱石と銀座資生堂 漱石と天賞堂 漱石と白牡丹と白粉 漱石と京都のゑり善 漱石の髪と喜多床という内容になっております。次回からは、漱石とアートを続けていきます。
2022.06.03
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では、漱石は青楓の画をどう思っていたかというと、大正4年11月の「美術新報」に『津田青楓君の画』という文を寄せています。じじむさい青楓の画は、青楓自身の内面を貫く姿勢と色彩を褒めています。 私は津田青楓君の日本画をみて何時でも、じじむさいじゃないかといいます。そこには無論非難の意味が籠っているのですから、津田君の方でも中々承知しません。僕はじじむさい立場でもって画を描くんだなんて妙なことを主張します。およそ画の資格といえば、厳粛でも、崇高でも、潚洒でも、軽快でも、みんな資格になるには相違ありませんが、じじむさいのはどう考えたって芸術的のものじゃありません。私は苦笑して識論をやめてしまわなければなりません。しかし退いて考えると、津田君の主張は表面上無茶のようですが、その内部に立ち入ってみると中々意味があります。津田君は自分の心持をよく表現できないので、こんな不合理なことをいうのだろうとも思います。というのは津田君の描いたものを見ると、製作自身が津田君の口より遥かに巧みにその辺の消息を物語っているからであります。 津田君の画には技巧がないとともに、人の意を迎えたり、世に媚びたりする態度がどこにも見えません。一直線にに自分の芸術的良心に命令された通り動いて行くだけです。だから傍からみると、自暴に急いでいるようにも見えます。またどうなったって構うものかという投げ遣りの心持も出て来るのです。悪くいえば智慧の足りない芸術の忠僕のようなものです。命令が下るか下らないうちに、もう手を出して相手を遣っ付けてしまっているのです。従ってまともであります。しかし訓練が足りません、洗練は無論ありません。ぐじゃぐじゃと一気に片付けるだけです。幸なことにはこのじじむさい蓬頭垢面といった風の所に、彼の偽らざる天真の発現が伴っているのです。利害の念だの野心だの毀誉褒貶の苦痛だのという、一切の塵労俗累が混入していないのです。そうしてその好所を津田君は自覚しているのです。だから他がじじむさいといって攻撃しても括として顧みないばかりか、かえってじじむさいのが芸術上の一資格ででもあるかの如き断見さえ振り廻したがるのです。私は津田君の気分を今のままにしておいて、津田君の頭にもっと智慧を与えたいと思います。智慧といったって、小智小慧を通り過した大きな能力を指すのです。器用だとか、利巧だとか、気が利いているとか、すぺて津田君の美質を破壊するような小道具ではないのです。あの猛烈な芸術的本能に、洗練と統一と浄化と渾成とを与える一種の高い理智の力を指すのです。この至大な徳が熟練の結果として外部から手に入るべきものか、または修養の効能として内部に醗酵すべきものか、あるいは内外相待って津田君を歩一歩と高い所に誘導して行ってくれるものか、それは私にも解りません。私はただ津田君が漸を追い層を重ねて、そういう立振な芸術的境界に逹せられんことを切望するのであります。私のような素人眼から今の画界を見渡すと、そんな人はまだどこにも見当らないようだから、なお津田君にそうなって貰いたいのです。 津田君の西洋画についても、ほんの一口しかいえません。津田君は人物よりも風景、風景よりも静物を描く人です。是これは色々の制限があって、自然そうしなければならなくなるのでしょうが、一方からいうと、また津田君の性質をよく現わしています。かつてあるる文士が津田君に向って『君もそう徳利に花ばかり描いていないで、ちと銘酒屋の女でも描かないと時勢後れになるぜ』といったことがあるそうですが、津田君はたとい時勢後れになっても、静物が描きたいのだろうと思います。その特色さえ認めることの出来ない文士こそ、津田君からいえば、他の箇性を勘酌しないという点において、現に時勢後れかも知れません。 津田君は色彩の惑じの豊富な人です。パレットを見るとその人の画の色が分るといいますが、津田君は臨機応変に色々な取り合せをして、それぞれ趣のある色彩を出すようです。そうして自分はそれを自覚していないようです。ただある一点について、津田君と私とは色彩の感じが全く反対です。津田君は私の好かないものを平気にごてごて使います。そこになると私は辟易します。 折角の御依頼でそれだけのことを書きました。無論画家としての津田君の価値をどうこううするという程の大したものではありません。まあ一場の茶話しくらいな所ですから、その積りで御読みを願います。貴誌の埋草にされる分は厭いませんが、もし他に立派な評論などがあって、不足なく頁を揃えることができるなら、これは掲載を御見合せ下すった方が、かえって私の素志に適う位のものなのです。(津田青楓君の画) また、寺田寅彦も『津田青楓君の画と南画の芸術的価値(大正7)』で次のように評価しています。 津田君の絵には、どのような軽快な種類のものでも一種の重々しいところがある。戯れに描いた漫画風のものにまでもそういう気分が現われている。その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、かえって無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見するところである。これを何と形容したら適当であるか、例えばここに饒舌な空談者と訥弁な思索者とを並べた時に後者から受ける印象が多少これに類しているかもしれない。そして技巧を誇る一流の作品は前者に相応するかもしれない。饒舌の雄弁もとより悪くはないかもしれぬが、自分は津田君の絵の訥弁な雄弁の方から遥かに多くの印象を得、また貴重な暗示を受けるものである。 このような種々な美点は勿論津田君の人格と天品とから自然に生れるものであろうが、しかし同君は全く無意識にこれを発揮しているのではないと思われる。断えざる研究と努力の結果であることはその作品の行き方が非常な目まぐるしい速度で変化しつつある事からも想像される。近頃某氏のために揮毫した野菜類の画帖を見ると、それには従来の絵に見るような奔放なところは少しもなくて全部が大人しい謹厳な描き方で一貫している、そして線描の落着いたしかも敏感な鋭さと没骨描法の豊潤な情熱的な温かみとが巧みに織り成されて、ここにも一種の美しい交響楽(シンフォニー)が出来ている。この調子で進んで行ったらあるいは近いうちに「仕上げ」のかかった、しかも魂の抜けない作品に接する日が来るかもしれない、自分はむしろそういう時のなるべく遅く来ることを望みたいと思うものである。 津田君の絵についてもう一ついい落してはならぬ大事な点がある。それは同君の色彩に関する鋭敏な感覚である。自分は永い前から同君の油画や図案を見ながらこういう点に注意を引かれていた。なんだか人好きの悪そうな風景画や静物画に対するごとに何よりもその作者の色彩に対する独創的な感覚と表現法によって不思議な快感を促されていた。それはあるいは伝習を固執するアカデミックな画家や鑑賞家の眼からは甚だ不都合なものであるかもしれないが、ともかくも自分だけは自然の色彩に関する新しい見方と味わい方を教えられて来たのである。それからまた同君の図案を集めた帖などを一枚一枚見て行くうちにもそういう讃美の念がますます強められる。自分は不幸にして未来派の画やカンジンスキーのシンクロミーなどというものに対して理解を持ち兼ねるものであるが、ただ三色版などで見るこれらの絵について自分が多少でも面白味を感ずる色彩の諧調は津田君の図案帖に遺憾なく現われている。時には甚だしく単純な明るい原色が支那人のやるような生々しいあるいは烈しい対照をして錯雑していながら、それが愉快に無理なく調和されて生気に充ちた長音階の音楽を奏している。ある時は複雑な沈鬱な混色ばかりが次から次へと排列されて一種の半音階的の旋律を表わしているのである。(津田青楓君の画と南画の芸術的価値) 青楓は、明治4年に京都に移ります。漱石が気分転換のため京都に長期滞在した時は、兄の西川一草庵とともに世話をし、漱石の体の調子が悪化したため、妻の鏡子が漱石を迎えに着ました。 漱石の死後、大正7年に漱石と門人たちを描いた屏風「漱石と十弟子」を描き、それはのちに本の題名ともなっています。 漱石晩年の作品『道草』『明暗』の装丁を手がけた青楓は、昭和53年、97歳までながらえました。
2022.05.27
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漱石は、油絵をやめて南画に傾倒していきます。 このころの漱石は、自分の関心が中国風の画にあることに気づいていました。 大正2年10月15日の青楓への手紙には「あれからまた竹の画を絹に描いて人にやりました」、12月8日には青楓に宛てて「先日は失礼高芙蓉の画を見てから僕も一枚かきましたが駄目です。……私は生涯に一枚でいいから人が見て難有い心持のする絵を描いてみたい。山水でも動物でも花鳥でも構わない。ただ崇高で難有い気持のする奴をかいて死にたいと思います。文展に出る日本画のようなものはかけてもかきたくはありません」と書いています。 大正3年3月29日の青楓宛てには「まだ修禅寺に御逗留ですか。私はあなたがいなくなって淋しい気がします。面白い画を沢山かいて来て見せて下さい。金があってからだが自由ならば、私も絵の具箱をかついで修善寺へ出掛たいと思います。私は四月十日頃からまた小説を書く筈です。私は馬鹿に生れたせいか、世の中の人間がみんないやに見えます。それから下らない不愉快なことがあると、それが五日も六日も不愉快で押して行きます、まるで梅雨の天気が晴れないのと同じことです。自分でも厭な性分だと思います」、5月20日には青楓へ「画を一幅買いました。(蕪村というのを)旨いものと思います、それから画を一枚かきました。明日午後日のあるうちに来て見てくれませんか(両方を)」、7月11日には「私は自分の書いた山水と黒猫と、それから酒渇愛江清の五字一行ものを表装しました。今度見て下さい、黒猫が一番わるいようです。酒渇は中々上出来です。山水は今かけてあります」と送り、しきりに絵の評価を求めています。 この当時の漱石の画について、青楓は『へんちくりんな画』という文を書いています。大正3年7月11日の手紙を見て、出かけたものでしょう。 津田が自分の仕事の段落のついた或る日行ってみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるような口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの。俺は日本画の方が面白いよ」そういって、半紙ぐらいの厚ぽったい紙に塗りたくった妙な画を出して見せられた。 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息している。そのまえに一匹の馬がいる。先ず馬と仮説するだけなんだが、四ッ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先ず馬に近いーーその馬が前脚を一つ折って、これから草の上に休もうとするようにも、またこれから立ちあがろうとするようにも見える。馬といい、人といい、まるで小学校の生徒の画のようだ。柳は無風状態で重々しくたれ下っている。全体が濁った緑でぬりつぶされている。柳の下にはフンドシを干したように一条の川が流れている。その川と柳の幹だけが白くひかって、あとは濁った緑。下手な子供くさい画といっても片付けられる。また鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、いってもみられる。先生はリアルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし(=幻影の盾)」「夢十夜」あんな作を絵築で出そうとしていられる。 漱石先生が「どうだ、見てくれ」といって出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は拶挨の代りに大きな口をあいて、「わはははははは」 先ず笑った。 先生も自分で、クスクスと笑われた。 その一枚は古ぽけた麦邸帽子をかぶった老人ーー頤に白い髯を一尺ばかり生やしてーー支那服ともアッパッパともいえない妙ちくりんなものを着て、樹下石上に脆座している聖人とも思える。養老院に収容されている爺々が、ひもじくって、もうこれからさきは歩けぬといって、石上に吐息をついているところのようにも思われる。 次には真黒な猫が眼だけ白くぎょろつかせて、木賊の中に変なかっこうをしてうづくまっている。眼があるから猫というんだが、青木ヶ原あたりにゴロゴロしている熔岩の塊だといってもいい。 次は柿の木に鴉が二羽休息している。柿が熟れて赤くトマト色をしたのが二つ三つ、バックは一面の竹藪。 どうもこれも鴉にしても拙なるもので、挨拶のしようがなかった。 津田はどういうものかその時、石涛の披璃版で見た長髯の老人が頭の中をかすめた。この老人は眼の立ち上る巌石とも山とも制定し難いなかに、一本の杖をついて立っている。裳裾がぽやけているので、立ちこめる靄の精のようにも見える。この人物も雅にして拙といっても差しつかえない。あるいは意ありて筆至らずともいえる。「石涛にもこんな老人がありましたね。」 といいかけて見たが、先生はなにも答えなかった。 石涍はまだ知られていなかったかも知れない。 すべてが薄ぎたなく、法も秩序もなく、滅多やたらに塗りまくってある。画家が仕事をしたあとの筆洗をぶちまけたような、分析の出来ない色が入り乱れている。 津田はそこで妙なことを考え当てた。画家の頭にしまいこまれている自然界の形象は、決して写真のような正確さではしまいこまれていない。馬の脚が四本あることは知っている。しかし四本の脚で馬があるく時は、四本がどんな順序で歩くかは、紙を展べて筆を持ってみたとき、意識の表面に浮かび上ってくる。牛や馬の眼が顔の線に沿っているのか、それとも顔の線と直角に位置しているかは、明確な答案を紙の上に現わすことができない。子供のかく人物は胴体から二本手が生え、同じく胴体から二本の足が生えている。子供の頭のなかはその通りに映像されているかも知れないが、大人にしても変りはない。大人は知識によって肩胛骨が脊髄につながっていることを知っているだけなのだ。大人は狡いから、いつのまにか惑鎚を知識にすりかえている。 だから大人のかく画は正確であればあるほど生きてこないし、子供の画はウソをかいていながら生きている。 漱石先生は、子供の態度でこの画をやられたというよりも、先生には子供らしい正直さが画に現われるのだ。 この画を見るものは一応大口を開いて笑って見せるが、笑いの中に真剣になり得る問題があった。「先生は僕の画をヂヂムサイ、ヂヂムサイといわれますが、先生の画だって随分汚ならしいですよ。第一こう塗りたくっちゃ色が濁って、何がなんだかわからないじゃありませんか」「うん、気に入らないから、無暗と塗りたくるんでーー下塗の絵の具がまざってくるんだよ」「この紙は土砂が引いてあるんでしょう」「なんだか知らないが、こんなのがあったから使ったんだ」「裏打をした陶砂引なんて、いけませんよ。晩翠軒で本式の紙を買ってきてーー水彩画のお化けでない南画をやってご覧になってはどうです」(漱石と十弟子 へんちくりんな画) この画は、「樹下石上に脆座している聖人」は大正2年の夏に描かれた「樹下釣魚図」、大正3年7月の「、木賊の中に変なかっこうをしてうづくまっている。眼があるから猫」というのが「あかざと黒猫」、「柿の木に鴉が二羽休息している」というのは、現在残されていないようです。
2022.05.25
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大正2年9月2日の、漱石の青楓宛ての手紙には「今日の朝日新聞の文芸という六号活字に、夏目漱石氏津田青楓氏について油画を研究中だ、同氏は青い色が大変すきで如何なる悪縁か画を描かずにはいられないそうだとありました、この悪縁をつくったものはあなたでしょうか、私でしょうか、この間、社のものが来たから油画を見せてやりました。それでこんなことをかいたものでしょう。俗人だから下手なのに得意で見せるとでも早合点したのでしょう」とあります。 青楓が漱石の油絵について書いた文が『漱石と十弟子』にありますので、今日はこれをご紹介します。 津田が先生から頼まれた油絵の道具を買って漱石山房に現われたのは、木曜日ではなく、余り面会人のこない、ただの日であった。 漱石先生は日課の小説がちょうど終ったところらしく津田を書斎に迎えて、道具の遣い方の説明をきいたのち、「じゃ早速今からやってみよう。君も一緒にやってくれ」 津田は書斎の中をぐるぐる見て廻って、何をモデルに使うべきかを捜して歩いた。先生の書斎にはいろんなものがあった。その大半は書物であったが、窓ぎわに置かれた大形の机の上には、海鼠の角の瓶掛けに、ぐるぐる巻いた紙だの団扇だの、大きな筆だのがあり、その横には硯石だの筆筒だの、それからまた拓本が五六冊も積みかさねられてあり、それに続いて佩文斎書譜の箱が匠かれ、その上には玉の筆洗のようなものがあったりして、雑然としている。しかしどれもこれも帯には短くたすぎには長過ぎて、仲々適当なものが見付からない。 そこで津田は、この前京都からのお土産に持ってきた五条坂の宇野仁松の青磁の花瓶を持ち出して庭に出た。庭からは紫陽花の一枝をきってきて、それに挿した。「これを先生やりましょう」「うんよかろう」「大体わたしがやりますが、最初鉛華で輪廓をとっておいて、色を塗るんです。鉛筆のときに成るたけ丁寧に正確にやっておいた方があとが楽です。下書きがまちがっていると、肝腎の色を塗るとき形の訂正ばかりしていなければならないので、その方に気をとられ勝ちになって、美しい色を出そうとする苦心がおろそかになって、色が濁ってしまうんです。。まあ諧釈はあとにして、とにかくやってみましょう」 そんな程度のことを話しながら津田自らもかき、漱石先生もつづいて始められた。先生はこういう時は、まことに素直で、決して我意を出されるようなことはなかった。津田は絵になる過程をただ先生に見せるだけなのだから、気軽な気持でどんどん自分のだけは進行させた。そして画をかきながら、自分の信条をぽちぽち述べた。「デッサンの勉強というものは限を勉強させることなんですね。最初のうちは色にしても形にしても大ざっばにしか物が見えない限が、デッサンをやっているうちに段々訓練されて、次第に見えなかったものが見えるようになるんですね。だから紙の上に塗りかさねる木炭は、いつまでも進行しなくったっていいんです。むしろ捗らない方がいいんですね。ところが初学者や素人になると紙の上の進行ばかしを気にするんで、眼の方は少しも進歩しないで元の程度のところにあることに気がつかないで、紙の上で画が整い、でき上ってゆくことが勉強だという風に誤解するものだから、ほんとの進歩ではありませんね」「二十度ぐらいの視力しかない者が、二十三度位の視力があるようにうぬぽれて描くものですから、結局ゴマカシになるんですね。進歩を欲しなければ、むしろ視力相応に描いた画の方が真実性があるからみよいです」 そんなお喋りしながら、二人は静かな書斎で画をかいていた。 時折、腕白らしい子供が縁側に現れ扉の入口から内を覗き込んで、「いやあ、画を描いてらあ。僕もかきたいなあ」「なんだい、空気銃なんか振りまわしやがって、むこうへ行っとれ」 漱石先生がそういわれると、子供は、「画の方が面白いや。津田さんの方が綺罷じゃないかい。お父さんのはバカデカイなあ」「生意気いうな。むこうへ行っとれ」 そんな程度でその日は了ってしまった。 津田は漱石先生が今までの画の経験がどの程度か、また先生が画についてどんな考えでいられるのかも、くわしくは知らなかった。むしろ暗中模索で、機会あるごとに先生の意見を知りたがっていた。先生の画の経験は、これまで水彩画をいたずらされたり、また絵葉書をかいて友逹と往復されたりしていたという話をきいているだけで、津田にはその技術がどの程度かは少しも知らされていなかった。 津田は元来少し頑固といってもいいぐらいの写実主義者になり切っていて、なんでもかんでも自然ととり組んで、隅から隅まで徹底的に写さなければ駄目だ。そこに進歩があり、上達がある。もし自然を最初から馬鹿にしてかかって、自分の頭をはたらかして面白がっていたら、金魚鉢に飛び込んだ蛙のようなもので、ぐるぐるその周囲をうろつくだけで、どうにもならない。自然にひざまづいて、自分はどこまでも自然の奴隷になっていることが、かえって未来への世界が段々ひろがってゆく所以だという風に固く信じ、かつ守りつづけて含た彼であった。だから彼は書道に対しては真剣でうわついた心は少しもなかった。従って漱石先生に対しても融通性がなく、自分の所信を正直に披瀝するだけだった。「君、この色は一体なにで出すんだ」「その壺は厄介な色ですね。ウルトラマリンを基調にしてーー多少のホワイトとオークルジョンをまぜてーーこの宇野は青磁のイミテーションをこさえることが上手な奴なんで、それをアメリカや欧羅巴へ輸出しているんですよ。こいつはそのハネなんですよ。どこか不出来なところがあるんでしょう」「陰の色は君、どうするんだい」「そりや、先生の陰は暗すぎますよ。陰に黒なんかあんまり使うと、きたならしくなりますよ。大体陰というと陰全体を暗く塗ってしまわれますが、陰のなかにも相当明るいところがあります。明と暗との境が一番暗いのですが、他は反射があって割合に明るいんです。ーーああ、そう先生のように矢鱈に塗ってしまうと訂正ばかりすることになって、画面が汚くなりますよ」「君、このブラシはいやに硬いね。まるでササラだね」「そりゃ、豚毛ですよ。かた過ぎますよ。こちらの方のリスがいいでしょう」「君は青い壺が好きだね」「いや特に好きということもないんですが、浅井忠先生が宇野仁松を贔屓にしていらっして、青い壺がお好きだったんですよ」「形が西洋臭いね」「色も少し西洋人向きで、ほんとの支那の青磁のような落付きと、品格のないところが物足りないですね」「ケトウは品格なんか問題にしないんだろう」「京都のどこかのお寺ーー毘沙門堂だったかにある鼓胴の花瓶はいい色をしてますね」「毘沙門堂かなんだか知らないが、あんな品格が西洋画では出るかね」「さあ出んこともないでしょうが、西洋人はああいう品格を絵画には求めていないんじゃないですか。一体陶器でも彫刻でも、ちゃんとできあがった芸術品をまた絵にして、芸術化するということはむつかしいことで、いわば余計なことじゃないんですか。同じ陶器を描くにしても、できそこねとか貿易物のハネとか、貧乏徳利のようなものをかいて芸術化する処に、画家の意義が発生するんではないでしょうか。先生にこんなこと言っちゃ笑われるかも知れませんが」「えらい処で貧乏徳利を逆襲してきたな。西洋画かきが日本画をかいたらどうだ」「こんど中央美術社でそんな企てをやるんで、私も出品してみようかと思っています」「君は現代日本画家は誰がいいと思う」「大観も栖鳳も駄目ですね。技巧ばかりが達者になって真実がぬけ殻になっているじゃありませんか。一切を御破算にして自然に還れといいたくなりますね。技巧はなくてもインスピレーションを強調しているのは子供の画ですね。子供の画にはなにかしらんが、大人や専門の画家が教えられます」「日本画家は技巧ばかしで綺麗に仕上げることばかり勉強して、自然を研究することを忘れているから、干菜子や石版摺のような画ばかしができあがるんです」「西洋画家の新日本画が発表されたら、日本画家もちったあ剌戟されて改良されるだろう」「租も大いにやろうと思っています」(漱石と十弟子 漱石先生の油絵) この画は、「樹下石上に脆座している聖人」は大正2年の夏に描かれた「樹下釣魚図」、大正3年7月の「、木賊の中に変なかっこうをしてうづくまっている。眼があるから猫」というのが「あかざと黒猫」、「柿の木に鴉が二羽休息している」というのは、現在残されていないようです。
2022.05.23
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漱石は展覧会に出展された青楓の絵を観て、描かれているのは「貧乏徳利」だといったことから、青楓との間に手紙のやり取りがありました。漱石の批判の理由は、「津田はああいう安っぽい貧乏徳利を描かないで、もっと気のきいたものを描けばいいじゃないか。青磁の壺でも赤絵の鉢でも陶器にはいいものがいくらでもあるよ。それをわざわざ下手ものの貧乏徳利なんか選択してかくんだ、惜しいじゃないか」ということでした。しかし、青楓は自らのように貧乏な生活を送っているものにとって、「貧乏徳利」を描くことは必要と必然があると論じたのです。 これだけでは、何のことやらわからないと思いますので、『漱石と十弟子』「貧乏徳利の論争」を引用します。これは、互いの手紙のやり取りだけで構成されています。 拝啓。先日は失礼致しました。その際私がxx展に出品した静物画について「あれは貧乏徳利だ」ということで、いろいろ私の反省する点を御教えくださいました。その時、私の立場も種々申し上げましたが、まだ言い足りない点もあり、その後家で考えたこともありますので、手紙でもう一度申し上げますから、どうかお聞きください。 先生のお言葉の「あれは貧乏徳利だ」と仰られる内容には、無諭軽蔑の意味が含まれていると存じます。先生の御言葉の裏を申しますと、「津田はああいう安っぽい貧乏徳利を描かないで、もっと気のきいたものを描けばいいじゃないか。青磁の壺でも赤絵の鉢でも陶器にはいいものがいくらでもあるよ。それをなぜわざわざ下手ものの貧乏徳利なんか選択してかくんだ。惜しいじゃないか」ということなんだろうと存じます。それは全くその通りなんです。私の手許に青磁の壺とか赤絵の鉢があったら、私はむしろその方を制作の材料に使っていたかも知れません。ところが、残念なことに私の現在の生活は貧乏なので、ちょうど下手ものの貧乏徳利の程度がせい一杯なのです。まあ、あの貧乏徳利が私の今の生活を、象徴しているようなものなのです。それで私は無造作に下手物の徳利を材料にとりあげて、あの画をつくったのです。 しかしあの貧乏徳利は私の趣味嗜好に相容れないもので、タタキ壊してもいいという程のものでもありません。あれでも黄菊か赤いダリヤでも一輪挿して私の部屋のどこかにおけば、寂しい茅屋でもたいへん滋味がでて、急に明るくなったような愉しさを感ずるんです。だからあの貧乏徳利といえども私にとっては、今の生活の貴重な一つの什器なのです。 私は制作をするときに画家が自分の生活の内にないものを、他人から借り出してきて画にするのを見受けますが、あれは間違った態度でないかと考えているんです。借り着という言葉がありますが、借り着は結局身につかないものです。なんとなくぴったりしません。歌人が歌を作る場合、その材料の範囲は相当にひろいようですが、借り物とまでは言い切れなくとも、身についていない惑じのする歌が多くあって、私逹の魂をゆり動かせてくれるようなものにぶつかることが稀なのです。それというのが、自分自身の日常生活から取材しないせいでないかと思います。 画にもこの意味は適用されるべきでないかと考えました。美術学生が下宿生活をして高貴な壺だの敷物なぞ材料に使ってもそぐわないし、同時に対象の高貴性がどこまで表現されるか、生活程度の差異から理解することの不可能なるが故に、甚だむつかしいことだと思います。 いい画を描こうということはーー他にも種々条件はありますが、対象の世界が判然と理解されているものを材料に取りあげて、画をつくろうという意図なのです。 そうすれば、どうしても日常生活において座右に朝夕愛玩されているものを、手はじめにするより他にないということなのです。 私の貧乏徳利は、私の現在の生活において一番ぴったりした品物なのです。つまり先生の生活程度と私の生活程度の差異の問題になるんじゃありませんでしょうか。貧乏人が鰯を喰った満足感と、金持が鯛の刺身を喰ったあとの満足感は、必ずしも鯛の方が肴の王様だという理由で、鯛の剌身を喰ったものの方が満足惑が大きいとは断言できないような気がいたします。わたしは今のところ鰯を険って満足しようという程度なのです。 今一つ、これは問題が少し派生的なことになるかも知れませんが、この手紙を書きつつ頭に浮んだことなので書き添えます。何卒、冗漫に渉ることをおゆるしください。 陶器のうまいのは絵画と同様、人間の造るもので立派に出来たものは。美術品の範疇に入るものですが、そういう立派な陶器を対象として画を作ることは、余程むつかしいようです。芸術的表現が二度繰返されることになるので、最初の表現(陶器の場合)よりよくなることは稀で、多くは陶器そのもののいい処は抹殺されがちの結果におわるのです。しかし画絵は対象の再現または模写でないという意味で、本物よりも不味いものができても、一応の言い訳は成り立ちますが、その場合陶器とマズく表現された画とを比較するとき、画家の感受性が余りにも貧弱なのにつくづく慨嘆せざるを得ないようなことが多いのです。 それで狡いやり方かも知れませんが、下手物のような何等芸術的効果も特別な作為をも持たないで、ただ一途に、酒を入れるためにとか肴を盛るためにとか、実用的のことのみを考慮してつくられた雑器の類を取扱って、そこから絵画的な効果を作品に現わそうと考えることはどんなものでしょう。この次、御伺いする時何卒この点について先生の御意見をおきかせくださるよう御願い致します。草々頓首。 津田青楓 拝復。貧乏徳利の議論は一応御もっとものようですが、貧富からくる生活の区別が私とあなたとではそれ程懸絶しておりません。従ってこれはまだ外に深い理由があるのだろうと思います。この間の絵について御帰りのあとなおよく考えた処を一寸申上ます。あの画のバックは色といい調子といい随分手数のかかった粉飾的気分に富んだものです、少なくとも決して簡易卒直のものではありません。しかる処、その前景になっているものが如何にも無雑作な貧乏徳利と無雑作な二三輪の花です。そこに一種の矛盾があって看る人の頭に不釣合の感を起させるのでしょう。もっとも西洋人が見たら貧乏徳利だか何だか分らないくらい、吾々の持っている聯想は起らないかも知れないが、しかしあの徳利のかき方が如何にも簡単で、一と息きであるから精根を籠めたバックとはその一点で妙にすぐはなくなるのです。私はどうしてもそうだと断言したいのです。 それからあのバックについて一言申上ますが。あれは単独にいって好きですが、趣味からいうと飾り気の気分にみちたもので、まあ豊腴な感じのあるものですし、それからそれをかくためには大分な労力を要する性質のものです。だからあまり丁寧にかき過ぎても、また沢山かき過ぎても厭味が出て参ります。一つこれをかいて見せつけてやろうという気が出てくるのです。 あなたの大きな画ではあのバックがあまり沢山描き過ぎてある、小さな画では(徳利に比して)丁寧にかき過ぎてある。それが双方とも私の意に満たない原因の大なる一つかと考えます。御参考までにわざわざ申上ます。あなたから見たらわざわざ聞く必要もないかも知れないが、あなたのように気取ることの嫌な人があのバックについて不意識の間に気取っているような結果になるから、妄言に対する御批判を煩わしたくなったのです。御考は今度御目にかかった節承わります。さよなら。 (大正2年)8月24日 夏目金之助 拝啓。小生のくだらぬ作品について、諄々御親切な御批評を頂きまして恐縮しております。今度お会いしたとき、御批評に対する私の意見を述べるようにとの仰せでしたが、私は生来お喋りが下手なので、人前では思っていることが、ほんの一部分しか言えないのです。殊に理智によって判断を下すような事柄になると、なおさら駄目なのです。喧嘩の報告のようなことになると存外舌が滑らかになって、自分でも不思談なほど上手にお喋りができることがあります。 それ故一度手紙で先生の御批評に対する私の考えを述べさせて頂きます。御迷惑でも何卒最後までお読みください。 先ず最初に先生は、「貧富からくる生活の区別が、私とあなたとではそれほど懸絶しておりません」 と仰せられることです。この点は私には大いに異存があります。先生も一応は御承知のように、私は六円何がしの家賃の家に住んでおります。親兄弟は元より誰からも一銭の援助をも受けず、手あたり次第に銭になる仕事を引受けてやります。趣味の好悪だとか能力の可否なんか問題にする余裕はありません。それよりも妻子を餓死させるということのほうが遥かに問題は大きいので、いわば襤褸屑を拾いあつめるような仕事をして、どうやらその日を送っている程の人間です。まことにーー生活者としては一番低い天井裏の生活者なのです。 それと先生の生活が余り懸絶がないなんて仰せられるのは、先生の主観かまたは多分に感情でそうお思いになられるのではないでしょうか。他人の生活に立ち入って兎や角いうことは余り好ましいことではありませんが、貧乏徳利一個が私の生活の唯一の装飾品という程なんですから、そりゃくらべものになりませんよ。 先生に言わせれば、儂だって君と同様襤褸屑のような仕事をして、好きな骨董品も買えないで齷齪とやっているのだ。日々の収支の数字はコンマの置き処は違っているかも知れないが、主観的にはそう懸絶がありよう筈がないと叱られるかも知れませんが、私からいえば貴族とドプさらいほどの懸絶があります。 次に先生は、「あの絵のバックは色といい調子といい随分手数のかかった粉飾的気分に富んだものです。少くとも決して簡易卒直のものではありません。然る処その前景になっているものが如何にも無造作な貧乏徳利と無造作な二、三輪の花です。そこに一種の矛盾があって、看る人の頭に不釣合の惑を起させるのでしょう」 ここではバックの描法と貧乏徳利とが不調和だという御説であります。仰せのようにバックは印象派的な点描方式で描き、貧乏徳利は旧来の表現方式で描きました。先生は貧乏徳利そのものを不調和の原因になさっているようでありますが、実は表現方式の不調和に基因するものでないかと思われます。 徳利もバックも同じ様式で描けばよかったのかも知れませんが、そうすると徳利もバックの距離に沈んでしまって徳利の存在が明瞭を欠く恐れがあるので、こと更にバックと徳利の表現方式をかえてみたのですが、先生からそうおっしゃられると、あるいはバックも徳利も同じく点描式にやっちまえば、そうした矛盾が解消されたのかも知れません。その代り徳利はグッと画面に沈んでしまってバックの模様と混同されるような結果になるかも知れません。 最後に今一つ弁解めいたことをさせて頂きます。「あなたのような気取ることの嫌いな人があのバックについて無意識の間に気取っているような結果になる……」 先生は私にあなたのような気取ることの柚いな人間といって頂きましたが、実をいうと、私自身がそういう人問だったのかと先生のお言葉で始めて気がつきました。なるほど私はいつでも素地のままの自身を抛げ出して周囲にもしくは社会に接して行きたいと心掛けています。このことは単に私自身の身勝手から出た行為なのです。つまり気収ったり、見せかけたりすることは自分自身を非常に窮屈にするので、その窮屈さが絶対に私には相容れないものなのです。だから嫌いな窮屈から脱却するためには、いつでも凡てを掬げ出して裸体で接触するにかぎると思っているのです。 そこでこの芸術作品にもこの流儀を応用して、気取らずに楽な気持ちで作品をこさえればいいようなものですが、そうなると持って生れた本来の私自身は直截に表現されて厭味のない作品はできるかも知れませんが、持って生れた本来の厭味はいつになってもぬけきらず、むしろ益々増長して厭なものが段々強大になってゆくだろうと推察されるのです。私自身の顔を鏡にうつして厭な処を自分自身で見ているように、それが作品の上に現われることは堪えられないことです。この持って生れた厭味を取り払うためには一生懸命努力して、いろんな鞭がその悪魔を追い払おうと思っているのです。 だから私の現在の画は半ば勉強画(えちうど)であり、半ば制作(たぶろう)ということになりそうです。 そんな訳ですから、当分はまだまだ私の画にはいろんな厭味がつきまとうかも知れませんが、どうか御辛抱してごらん下さる様お願い致します。 長々と自己弁解を書き続けましたが、お気の向いた時寝ころんでお読み下さる様。何れその内またお邪魔に上ります。敬具。 津田青楓(漱石と十弟 貧乏徳利の論争) 青楓は、大正元年12月に刊行した森田草平の長篇小説『十字街』の装禎を初めて手がけています。その装丁に対して12月2日、漱石は青楓に「十字街の表装拝見しました。徳利は模様としてはいいが本の表紙としてはいやですね。あの紙も面白いとも思えません。字はすこぶる気に入りました。黄色の方は字も模様も紙も色も好きです。しかしそれは支那から出て来た好きだろうと思います」と評しています。 この徳利が、頭のどこかにあったのかもれません。
2022.05.20
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青楓との交流をきっかけに漱石は絵を描こうと思い立ちます。 イギリスから帰った漱石は、一志水彩画や水彩の絵葉書に夢中になりましたが、いつの間にかそのマイブームは終わっていました。青楓は、漱石の絵心に火をつけたのです。 大正元年11月に、水彩で南画風の風景画「山上有山図」を描いています。 12月2日の青楓宛の手紙で、漱石は「画はその他何も描きません。山水の方を仰に従い土手を不規則にし山を藍にし、屋根を暗い影をつけてますますきたなくしました。寺田が見て面白いが、近くで見るとびほう百出で、きたなくて見るのが厭になるといいました。私はあれをあなたの画の下の襖ヘピンで張りつけて、次の間の書斎から眺めてそうして愉快がっています。すると小宮が褒めます。岡田がほめます。実に天下は広いものであります」と書いてあり、青楓の指導の賜物で絵が完成したことがわかります。 大正2年7月20日、漱石は絵を描こうと決意します。そこで、青楓に「油絵の絵具を買うことが出来ます。いつか一所に行って買って下さいませんか。油絵をかいてみようという心持はまだ起らないのですから、決して急ぐ必要はないのですから、あなたのいつでも気の向いた時で結構であります」と青楓を急かしました。そして二人で絵の具を買いに行ったらしく、25日にはお礼の手紙を送りました。「先達中より絵の具などのことにて種々御配慮を煩わし恐縮の至に候。何か御礼を致そうと思い候えども、これという思いつきもなく候。この間古道具屋であなたの賞めた皿五枚を差上ることに致しました。わざわざ持って行くのも臆劫故、今度御出の節献上致度と存候。あの箱の上書には乾山向付と有之候が、乾山がこんな皿を作るものにや、または皿の種類の名にや不明に候」。 この経緯を青楓は『漱石と十弟子』「源兵衛の散歩」に認めています。 「先生は古いものがお好きですね。穴八幡の下に光琳風の二枚折がありますが、先生お買いになってはどうです」「いくらだ」「十五円とか言っていましたが、紫陽花や立葵なんかの草花が描いてあるんですが、多分、其一とかいう光琳の弟子でしょう」「散歩に出て、そいつを見ようか」 それから漱石先生と津田の二人は散歩に出かけた。津田はその日の日記を次のように書いた。 今日漱石先生と源兵衛を散歩す。その前、穴八幡前の古道具屋に寄り、その節見ておいた其一の二枚折屏風を先生にすすめて買わせる。十五円をなにがしかまけさせる。 源兵衛という処は、生垣をめぐらした家が多く、なかには藁葺の大きな屋根の家があり、欅の大木が屋根にかぶさって、田舎だか町なのか分らない。コスモスの花や、葉鶏頭の眼のさめるような色が、垣根のあいだから、ちらちら見える処があった。 漱石先生は源兵衛という名前が面白いといわれるから、私の親爺の名前と同じですというと、君の親爺の商売は何だといわれるので、一寸厭だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です、親爺は店に出ると花源の親爺で、源兵衛さん、源兵衛さんと人は呼ぶんですが、奥へ行くと一葉先生で、風雅な風采をして、急須からしぽり落した茶ばかりすすっています。それだから僕を学校へもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それがいやだから家を飛び出して、それからは孤児のように、そこいらをうろつぎまわって、自分でやっと今までこぎつけたのです。百合子は親爺の秘蔵児で可愛がられてすきなようにして育ったものですから、私のような人間とはなかなかうまくゆきっこありませんよ。 そんな話をして、二人で生垣のあいだをぶらぶら歩いていた。先生がふん、ふんいって聞いていられるものだから、調子に乗っていろんなことを、喋舌ってしまった。そしてしまいに、先生は何を思われたのか、俺も画をかくから、油絵の道具を一式そろえて買ってきてくれなんて、私と競争でもするような意気込みだった。(津田青楓 漱石と十弟子 源兵衛の散歩) この後に、漱石は何枚かの油絵を描きますが、性に合わなかったのかやめてしまいます。そして、南画のような絵を描き始めるのです。
2022.05.18
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明治44年11月29日、食事をしていた五女の雛子が「きゃっ」と叫んで急に倒れました。いつもの引き付けだと思って水を吹きかけますが、何の反応もありません。書斎にいた漱石は、その様子に気がつかず、筆子から雛子の様子を聞いて、すぐに立ち上がりました。 漱石は、「ダメだ、死んだ。かわいそうなことをした」とつぶやくと、しばらく憮然としていました。 その様子を、鏡子は『漱石全集』(昭和三年版)月報第六号で語っています。 明治四十三年の三月桃の節句の前の晩、お雛様を飾って宵雛のおまつりをして、お若い門下の方々が幾人かおいでになって白酒をのんだりしていらっしゃる時に、私共の一番季(すえ)の女の児が生まれました。節句にちなんで雛子と名づけました。これが早く亡くなるからでもあったでしょうが、智慧も早く、非常なおしゃまっ子でございました。一年半もたった四十四年の秋頃には、よちよち裏で遊んでいては、自分も見様見真似で猫の墓にお水を上げに行って、序に自分もその水を飲んで了うという案配でちっとも目が雛せません。それがまた中々の癇癪持ちの意地悪るでございました。 十一月末のことでございました。この日も夕方長女の筆子に長いことおんぶされたり、それからおもりと一緒に猫の墓のあたりで遊んでおりました。そのうちに夕飯時になります。いつもですと、小いのばかりがうじゃと集るのですから、とても大騒動なので、この雛子とその上の小い男の子[次男伸六]の方とだけは、めいめいお守りがおんぶして外へ避難して、さて皆のごはんがすんだ頃を見計らってかえって来て、それから御飯をやるという方法でやって居たのですが、この日はどうしたはずみか、御飯を一足先にたべさせて、それから外へ行くというので、茶の間の隣の六畳で始めました。ところが自分一人で御飯を頂こうというので、おもりのもっている匙を取り上げて、お茶碗片手に、「こう? こう?」と片言まじりに食べ方を聞きながら食べておりますうち、急にキャッというなり茶碗をもったまま仰向けにたおれてしまいました。一体この子でもこの上の男の子でも、疳が強くて、ひきつけることがしばしばありまして、誠に男の子などは障子をしめちゃいやだと駄々をこねてるのを閉めたとあって、いきなりひきつけるなどといった工合で少々極端なのでしたが、その代りひきつけたからといって皆でなれっこになっておりますから、顔に水を打っかけると、また息を吹きかえすといった位簡単なのでもあったのです。この女の子もこのでんで前に四、五度ひきつけたことがあったので、またかと大して驚きもせず、子守が万事呑み込んで水を吹きかけますが、これはまたどうしたことか、いつものように手取早く息を吹きかえしません。 その時、私は外の子供たちと一緒に茶の間で御飯を食べかけていたのですが、隣りの騒ぎもいつものものと聞き流してそのまま箸を運んで居りましたが、何だか長いのが気になりますので出て参いりました。そうしていつもやるように水を吹っかけて呼んだり揺すったりして見ましたが、ぐたりとして白眼をむいたまま一向ききめがございません。どうも自分たちの手におえそうもないので、すぐ前のお医者さんを呼びにやりました。 医者がかけつけてすぐ注射をして下さいます。反応がありません。どうも様子が変だから、ともかく洗腸をして見ましょうといってその仕度にかかりますと、すっかり肛門が開いているというので、びっくりして了いました。これはいけない、いつもかかりつけのお医者さんをというわけで急ぎ立てました。 丁度その時、書斎には中村古峡さんが見えておりまして、夏目と話をしてらっしゃいました。雛子の様子が変なので夏目を呼びにやらせますが、夏目もいつもののだと高をくくってるのでしょう、一向来てくれません。とうとう私が駆け込んで、貴方大変ですから来て下さいといったわけで引っぱって参いりました。しかし主治医が来て下すって、いろいろ手を尽くし品をかえてやって見ましたが、注射もきかず、人工呼吸もきかず、薬は元よりうけつけず、辛子湯も効なく、何もかもききめがありませんでした。どうにも仕方がありません。といってあきらめてしまうには、余りに呆気ない、うそのような咄嗟な出来事で、みんなぼんやり何かにつままれたような気持になって了いました。誠にこれ迄沢山の子供たちも一人残らず生長して来て欠けたものもないので、なお更のことこんな始めての不幸に参ってしまったわけでございます。がどう考えても夢のようで、ついさっきまで元気にしていた吾が子が、ぽっくり死んでしまったという感じがして来ないのでありました。 けれども亡くなりました上は、如何に夢心地でなげいて居ても是非がありません。ともかく形ばかりのお葬(とむらい)を出してやらなければならないのでございますが、さてここに一つの困ったことがおこりました。というのは私たちは分家をしておりまして、家から葬式を出したこともなく、また誰の位牌もないので法事をしたこともないので、きまった菩提寺というものがないのでございます。一体夏目の本家は代々、小石川小日向の本法寺という浄土真宗の名刹の門徒で、そこに先祖からのお墓もあるのですが、夏目が余り真宗を好みません上に、本法寺の檀下になるという気もしないので、どうしたものだろうといっていたのですが、この場合、急にうまい分別もなく、兄さんなどもともかく今度は本法寺に頼んだらよかろうということで、ではこん度のところはというので本法寺にきまりました。 さて葬式となっても、仰々しい馬鹿騒ぎは困るし、第一それに子供ではあるし、普通の盛り物だの花だのというを嫌って、何とか突飛でなく、しんみりみんなで身内のものを葬うという気持になれることがないかと申して居りましたが、そのうちにふと西洋に居てあちらのお葬式を見た印象から思いついたとか申しまして、誰彼れの区別なしでみんなで送ってやろう、これが一番いいという至極簡単な思い付きで、葬式の日には、葬場の本法寺へみんなで馬車を連らねてついて行くということに致しました。 御通夜になって本法寺から通夜僧が来ます。夏目は、おれは通夜なんか嫌いだ、みんなかえってねた方がいいじゃないかといって居りましたが、私たちが死体を守る為めだからなどと申しまして、それはそのまま続けてやりました。自分ではいい加減おそくなってからねてしまったようでございました。 その時、夏目が申しますには、「おれなんぞ死んだって通夜なんかしてくれるなよ」 というので、私の母が「でもみんなでこうやってついているのは、一つには死んだ仏に明日はおわかれするそのお名残りを惜しんでいるのですが、その外鼠でも出てかじったりなんかしないように死体を護ってついてるのでございますよ。若し貴方の時に、誰でもついてなくって鼻でもかじられたらどうなさいます」 と申しますと、夏目は興がって、「そうなったら、かえって痛い痛いって生きかえるかも知れませんね」 と皆を笑わして居りました。 その通夜僧が余り上品な方ではなく、よせばいいのに何でもかつがしめるような話を致します。「お寺では何でも頂戴致します。死んだ仏のものは、皆どこでもお宅では気味悪がられたりしますので、何でも頂きますし、またお宅によっては供養のためとあって遺体を御寄進なさいます方もございます」 というような話から、「どうかそんなものがございましたら御遠慮なく」 と気をきかした積りで、今にも何でも貰らって行こうといった素振りをします。「例えばお棺におかけになってる白いきれ、あんなものでも頂きます」 に、とうとう夏目もあいそがつきたという風に「いや、あれは葬儀屋から借りたものです」 とにべもなくそっ方を向いて挨拶して居りました。 こうして棺を本法寺へもって参いりまして、お経を上げて貰い、そうして落合の火葬場でやきました。 お骨にしましてからしばらく家におきましたが、家が狭くもあり第一子供たちが多いので気にもなりますしするので、埋葬するまでお寺へ預けることになりました。ところが私が埋葬書だけもってるとどこかへなくしそうな気がしてましたので、お骨の箱の中へ入れたまま、それなり寺へあずけてしまったのです。 それからしばらくしてから雑司ヶ谷に墓地を買いましたので、いよいよそこへ埋葬しようということになって、お骨を寺に貰いに行くと渡してくれません。寺の方では、寺の墓地へ墓を立てさせて金にしようという魂胆なものと見えて、こっちから使にやったものには何のかんのと理窟を構えて、どうしても手渡してくれないのです。埋葬書ぐるみお骨をとられてるのでどうすることも出来ません。そこで、始めから本法寺にお墓をこさえる意志はないのでしたが、こう露骨になれば愈々いやになって、意地にも早く取り戻そうということになり、かといっていい加減の使を差し向けておいたんでは先方が動かないので、そこで私の弟にたのみまして、弟の知り合いの弁護士の手で告訴状を書いて貰い、そうしてやっと取り戻したのでした。お骨は雑司ヶ谷の墓地に埋めました。夏目が自分で小さい墓標を書いてやりました。 その後、墓をたててやろうというので、津田青楓さんに御墓の設計をお願いしましたことなどもありましたが、とうとう墓は造らずにしまいました。(『漱石全集』(昭和三年版)月報第六号(昭和三年十月)夏目鏡子 雛子の死) 大正2年3月19日、漱石は雛子の墓を立てようと思いつき、青楓にそのデザインを頼みます。しかし、同ゆう経緯かはよくわかりませんが、その計画は潰えています。 しばらく御無沙汰をしました。折角御約束をして済まんと存じましたが、つい機会があったものですから光風会を二度見ました。色々面白いのがありました。あなたの瓶に団扇は好いように思います。その代り海(ことに大きな方)は賛成致しかねます。有島君の静物と花は面白う御座いました。 さて御願があります。私は一昨年の秋に一つ半になる女子を失いました。今雑司ケ谷へ埋めてありますが、どうかその墓を拵えてやりたいと思っていますが、あなたにその図案を作って頂けますまいか。 普通の石塔は気に食いません。何とか工夫はないものでしょうか。字はこっちでだれかに頼むつもりです、でなければ娘のことだから自分で書かうかと思っています。 図案料と申すほどの御礼も差上られませんが、その辺は骨を入れる棺や石の代と比較した上で何とか致します。先は右御伺いまで。(大正2年3月19日 津田青楓宛書簡)
2022.05.16
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漱石は初対面から西風のことを気に入ったようで、早速、新聞の挿画の仕事を世話しています。 明治44年6月24日、漱石青楓に「朝日新聞」の挿絵の仕事を斡旋しています。 拝啓、一昨日は失礼、その節お話のこと、今日社に相談して見たところ、挿画の需要ある趣ゆえ、大兄のこと申入候。 あなたの画を三、四枚(種類の異ったもの一枚ずつ、精密なるもの疎なるものなど)至急京橋区滝山町四朝日新聞社内渋川松次郎宛にて御送り被下度候。 渋川氏はその儀につき一覧の上適当と認むるならば、こうしう種類とか、ああいう種類とか指定して改めて御願致す筈に候。(明治44年6月24日 津田青楓宛書簡) 青楓はこれに驚きました。「漱石先生のような偉い人から手紙を頂くとは予期しなかった。それに人の仕事の世話をして下さるとは意外だった。作品での印象は、先生はこうした俗事には介入されぬ人のような気がしていた。新聞の挿画はかいたことがない。少し考えてみたが、どんなものを描いていいのか見当がつかない。最も得意のものを描いて、それがむこうの気に入らなければ元々だが、取りあえず収入がなくては困る。妻と赤ん坊をひぽしにしてはすまぬ。ホトトギスの挿画のようなものでは駄目なのか、ああした自由勝手のものしか俺にはできない。(津田青楓 漱石と十弟子 老松町に住みて)」と書いています。 漱石自身も、新聞の挿画がどうなったか気になっていました。 漱石先生は思い出されたように、「津田君、新聞社の挿し絵はかきましたか」「はあ、先日はどうもありがとうございました。新聞のさし絵というものはやったことがないので……どんなものをかいていいのか大分考えてみたんですが、結局ホトトギスに出しているようなものしか描けないので……二、三枚人物とか風景とかいう風に種類の異ったものを送っておきましたが、描写の種類分けということは、私には不可能なんです」「こん度、社へいったら渋川に訊いてみよう。月村や為山を掲載しているが、あんなものでもいいんだろうが、むつかしく考えれば新聞の仕事なんかでぎないよ」 その時臼川氏がいつのまにか三重吉君と東洋城の間に座をしめて、発言された。彼は低声で静かに、「津田君、ホトトギスの挿画の線は面白いですが、あれは筆じゃないんでしょう」「あれですか、あれはマッチ棒ですよ。マッチ棒に火をつけたあとが黒くなっているところへ、インクをつけて描くんですよ」「そりゃ新案だね」と先生がいう。「津田君の発明ですか」と臼川君がきく。「ええ、僕の発明ですが、自分の厭なところが消えてしまって、偶然が介入するんで描いていても面白いですよ」「ずるいことを考えたものだね。野上の能書に応用したらどうだ。野上は能書が得意なんだよ」 と、漱石先生は顧みられた。(津田青楓 漱石と十弟子 瓢箪を持ちまわる) このほか、画廊に出品した漱石は青楓の絵を買うこともありました。明治45年3月17日の青楓宛の手紙に「今日展覧会を拝見に参りました。あのうちの非売品のセーブルというのを譲って頂けますまいか。もっともあまり高くては困りますが。それがいけなければ京都岡崎町というのと宗〇橋とかいう十八円のを二枚頂きたいと思います」とあり、漱石の青楓に対する思いやりが示されています。 『明暗』の主人公は、青楓と同じく津田といいますが、この小説の中で友人の小林と原という画家のやり取りがあります。こうしたやり取りを漱石もしていたかもしれません。 小林が突然彼の方を向いた。「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」「そうか」「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家へ持って行って見せることにしたら」 津田は驚ろいた。「僕に絵なんか解らないよ」「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」「ええ御迷惑でなければ」 津田の迷惑は無論であった。「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」 青年は傷つけられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。「嘘をいうな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」 津田は苦笑せざるを得なかった。「また下らないことをいって、――馬鹿にするな」「事実をいうんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」 津田はだんだん辛防し切れなくなって来た。「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止めながら、また津田の方へ向き直った。「ちょうど今一枚素敵に好いのが描いてあるんだ。それを買おうという望手の所へ価値の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、さっきあすこの角で約束しておいたんだ、実をいうと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」「ひとに絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲き上げられてしまうだけだぜ」 津田はこの問答を聴いてほっと一息吐ついた。(明暗 162)
2022.05.14
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津田青楓は、京都の「去風流」という生花の家元の家に生まれました。生花の道を継いだ兄は西川一草亭といい、京都に来た漱石の相手をしたこともあります。 青楓は、浅井忠の関西美術院で洋画を学び、明40(1907)年に渡仏し、パリのアカデミー・ジュリアンでJ・P・ローランスに学んでいます。 青楓が小宮豊隆の紹介ではじめて漱石宅を訪問したのは、明治44(1911)年の初夏でした。青楓の『漱石と十弟子』には、初めて漱石と会った日のことが書かれています。 いまから三十七年もの昔、小宮豊隆氏につれられて漱石山房にあらわれた一人の青年画家があった。 そのころ漱石先生は四十五歳で、青年画家は三十二歳だった。画家と漱石先生との歳の差は十三だが、画家の眼には漱石先生が五十以上の年配者に映じた。漱石先生は大学の教師で「我輩は猫である」を書いて、急に有名になられた頃だった。 青年は初め少し不安なギコチない気持でいた。小宮豊隆は大学を卒業して間もない文学土で、その青年よりは五つ六つも弟ではあったが、その落ちつき払ったものごしと、漱石先生へのものなれた話ぶりに、青年は安心して兄貴につき添われた弟のような気で、豊隆に万事を託する態度になっていた。 漱石先生は一先ず平凡な戸籍調べをされた。郷里はどこで学校はどこで、外国からいつ帰朝して、いまどこに住まって、どうして喰っているのかというような質問が了すると、豊隆氏が、「津田君、君に訊いてみたいと思うのだが、画家が自然に対するとき、物の形がさきに眼に映ずるのか、それとも色の方が先にくるのか、どちらかねえ」 青年は意外な質問に、どう答えていいのか一寸まごついた。 すると漱石先生が、お前の質間は大袈裟だよ。まるで隻手の声と一緒で、禅の公案みたようなものだよ」 豊隆はにっこり笑って、「だから津田に訊いてみているんですが、画家というものが、対象を写す時に、そうした問題を意識してやっているのか、それとも、意識しないで自然と出来あがるのか、それがしりたかったのです」「まるで禅問答だよ」「そりゃー意識なんかしないですよ。しかし形も色も意識せずにはカンバスに写せないんだから、段々意識しますね。写生する時は、先ず形を大づかみに、カンバスに輪郭だけとっておいて、次に色を塗り出すんです。だから最初は形を意識し、しかる後に色を意識するということになりますね」「それでいいんだ。それをききたかったんだ」「そんなつまらんことか、俺だって、そうなんだ」と先生が言う。「そりゃ先生の方が余ほど大袈裟に考えてらしたんですよ」「考えるのは勝手さ」 そこへ津田がまたあとをつづけた。「画かきというものは余り理窟は考えないようですね。ただ馬車馬のように自然と取りくんで、遮二無二つき進んでゆくばかりです」 その時女中の案内で野上臼川氏が入ってこられた。 臼川氏はぐりぐり頭の地方の学校の先生のような感じで、小宮豊隆氏の都会人らしい風貌とは全然庄反対の人だった。 一応先生に挨拶がおわり、豊隆氏から青年の紹介が終ると、「野上、君ほどう思う。今津田にこういう質問をしたんだ。画をかく時にモデルの形と色と、どちらが先に意識されるかということなんだ」「小宮のいうのは画をかく過程なのか、それとも、意識の心理的経過を問題とする意味なのかね」「そりゃ熊諭画かきの方さ」「じゃあ形の方だね。形をやっておいて、色をつけるのが順序じゃないか」「しかし印象派になると少しちがうんじゃないでしょうか。最初から色によって形を見出してゆく。見出してゆくというより、色を整えてくるうちに、自然と形ができあがってくるという風じゃないでしょうか」「そうですなあ」野上氏は極めて協調的である。「いずれにしても、形と色とは切りはなせないから、意識が分解されようもないが、画布の上に再現する場合は順序として、一方的にならざるを得ないんじゃないかね」「野上は自分でかくんだからね」「小宮は大袈裟だよ。吉右衛門論にロダンが飛び出すんだからね」と先生が言う。(津田青楓 漱石と十弟子 形がさきか色がさきか) 青楓は、漱石のことをフランス留学時代以前から知っていました。青楓は「ホトトギス」の愛読者で、漱石の名前は知っていたのですが、フランスに留学仲間が朗読する漱石の小説を聞いて、親近感を覚えたのでした。 青年画家が東京の土地を踏んだのは生れて始めてであった。京都に育ち、日露戦争がおわると、官費でフランスに留学して昨年帰朝したばかりであった。画家といっても彼はまだ画を一枚も売ったことがないから、画家という自覚はなかった。彼は勉強欲が猛烈だったから、巴里生活の連続で美術学生のつもりでおったし、またそれが彼の希望でもあった。 彼は若い時親爺のいいなりになることがでぎなかったので、一度家を飛び出して以来自活の責任を惑じて無理をしながらやり通してきた。しかし画家にとっては、布団を頭からひっかぶって、一冊の本を夜が更けるまで読み耽けるというようなことが勉強にはならないのだから、彼の勉強は容易に捗らず、むしろ生活本位になりがちで、ともすれば坂道へ押しすすめた車が、力が及ばなくなってあと戻りしがちだった。 それを一挙にとりもどす気で、三ヶ年の官費留学中は猛烈に勉強した。その故もあるが、一つには言葉もよく通じないのと、金の足りないことや何や彼やで、彼は一年ぐらい神経衰弱になった。 友達の荻原守衛や斉藤与里が毎日落ち会うレストランに、どこから手に入れるのか、漱石の「坊ちゃん」や「我輩は猫である」や「草枕」の掲載してある雑誌を持ってきては、食後のテーブルの上にひろげて朗読して彼や安井にきかせた。与里の朗読をききながら、守衛が時々、「愉快だね」と快濶に笑うと、与里がまた皮肉に「愉快だね」と合槌をうつ。 津田は指さきに喰いのこしのパン切れをひねりながら、丸くしたり棒にしたりして無表情でいる。津田と相棒の安井はこれも大理石の卓の上に鉛筆をうごかしながら、離れた卓でモグモグ喰っている親爺の顔を写し始めている。聞いているのかいないのかわからない。津田と安井は留学生中の新参組であった。古参の二人は漱石をはさんでたのしそうだった。 守衛が代って朗読をつづける。「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人ほど勿体振った風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに、鞠躬如として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である……」 与里が我が意を得たりといわんばかりに、うれしがる。 津田が漱石に親愛を感じ出したのは、その時から始まったのかも知れない。彼は子規の主宰するホトトギスの愛読者でもあり投書家でもあった。だから巴里のレストランで漱石に始めて対面したわけでもなかった。 漱石をとりまく豊隆、三重吉、草平、能成、臼川などという若い文学士が、それぞれ創作や評論をこの雑誌に発表しているのを、指を咬わえて遠くから見ているだけだった。 彼は三ケ年の留学を終えて、折角祖国へ帰ってきても、どこにもよりどころがなかった。 彼は肉親をも、ましてや他人をもたのまず、一切を自力で処理して生きてゆこうと決心をしていながらも心の底ではどこかによりどころを求めた。師があり、友達があり、愛要があり、よりかかる親兄弟のある人々を羨しく思っていた。(津田青楓 漱石と十弟子 青年画家の過去)
2022.05.12
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いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああいう沈んだ落ち付いた情調におりたかったからである。(それから5) 青木繁は、漱石がもっとも高く評価した洋画家です。『それから』の新聞連載が始まったのは明治42年6月27日からです。「海の底に立っている背の高い女」の描かれた絵は、青木繁の「わだつみのいろこの宮」のことで、明治40年の東京府勧業博覧会に出品されたものです。漱石はこの博覧会を『虞美人草』に登場させていますから、目に触れたことはあるはずですが、このころの日記や手紙には青木繁のことは何も記されてはいません。「わだつみのいろこの宮」は、この博覧会で三等賞末席となりますが、この絵、いやこの博覧会の評価に対して多くの芸術家が不満を持ち、そのことが新聞を賑わしました。 青木繁は、久留米市に生まれ、明治33年、17歳のときに画家を目指して上京。翌年には東京美術学校西洋画科選科に入学しました。繁は、在学中に「黄泉比良坂」などを白馬会展に出品し、白馬賞を受賞したことで脚光を浴びます。明治38年7月に東京美術学校を卒業した繁は、同年の白馬会展に「海の幸」を出品し、大きな話題を呼んでいます。しかし、繁は明治44年に、28歳の若さで亡くなりました。 明治45年3月17日、漱石は津田青楓への手紙で「青木君の絵を久し振に見ました。あの人は天才と思います。あの室の中に立って自から故人を惜いと思う気が致しました」と書いています。 この日の出来事は『文展と芸術』に記されています。 自分はかつて故青木氏の遺作展覽会を見に行ったことがある。その時自分は場の中央に立つて一種変な心持になった。そうしてその心持は自分を取り囲む氏の画面から自と出る霊妙なる空気のせいだと知った。自分は氏の描いた海底の女と男の下に佇んだ。自分はその絵を欲しいとも何とも思わなかった。けれどもそれを仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥ずかしくないという自覚があった。こんなものを仰ぎ見ては、自分の人格に関わるという気はちっとも起らなかった。自分はその後いわゆる大家の手になったもので、これと同じ程度の品位をもつべき筈の画題に三四度出合った。けれども自分は決してそれを仰ぎ見る気にならなかった。青木氏はこれらの大家よりも技倆の点においては劣っているかも知れない。ある人は自分に、彼はまだ画を仕上げる力がないとさえ告げた。それですら彼の製作は纏まった一種の気分を漲らして自分を襲ったのである。して見ると手腕以外に画についていうべきことはたくさんあるのだろうと思う。ただ鈍感な自分にして果してそれをい得るかが問題なだけである。(文展と芸術 10)
2022.05.10
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漱石は、大正2年6月末頃に高橋広湖遺作展を観て、大いに感心しました。7月2日の津田青楓宛ての手紙には「高橋広湖という人の展覧会を見て日本画家のいつもながら鮮やかな御手際に感心しました。西洋人が見たらさぞ驚ろくだろうと思います」と書き、7月3日の橋口貢宛ての手紙には「高橋広湖という人の遺作展覧会も只今開会中に候。日本画家の手際の綺麗なことには感服の外なく候」と綴りました。 この遺作展は上野竹の台陳列館で開かれたものです。広湖は、取材のための朝鮮旅行で猩紅熱にかかり、帰国後これが悪化したため、明治45年6月2日、37歳のおりに湯島天神町の自宅で急逝してしまいました。 広湖は、明治8年熊本生まれの日本画家で、明治25年(1892年)に17歳で人物画を得意とする熊本の南画家・犬塚松琴に弟子入り、明治29年に上京した広湖は、翌年に松本楓湖の内弟子となります。「小松内府重盛」「蒙古襲来図」など歴史画を得意とし、これから活躍が期待されていましたが、病魔には勝てませんでした。 拝復。先達て御出の節、丁度私の画の批評を願っている頃、尊大人が御逝去になったとの御報には少々驚ろきました。何だか私も責任を免かれない気が起ります。親の死んだ時、涙を流すことの出来ないのは人間の不幸のようにも思います。私の父は私が熊本にいる頃没しました。私は試験中でとうとう出京もしませんでした。出京もしませんでした。何しろあつく御くやみを申上ます。 画は二三日前からやめました。あまりすさむと外のことが出来ないと思って、紙の尽きたのを好機として切り上げました。その後かいた傑作は今度御帰になったら見て下さい。どうも鼻もちのならない自画像があります。高橋広湖という人の展覧会を見て日本画家のいつもながら鮮やかな御手際に感心しました。西洋人が見たらさぞ驚ろくだろうと思います。健筆会に支那の呉昌碩という人の画があります。これは文人画のアンデパンダンだから面白いです。しかも西洋と関係なくフヒューザン会とも独立しているから妙です。あなたの画に昨日賛をしました。案の錠遣り損いました。今度御覧に入れます。私は昨日上野の帰りに古道具やで軸を一輻買いました。代価は七十銭です。私には面白いと思われる変てこな画です。是も御覧を願います。私は今日古いスチューヂオを出して十冊ばかり見ました。そうして感心しています。画かきが画をかくことの出来ないのは郵便屋の足を切られたと同様さぞつらいでしょう。早く御帰りなさい。御兄さんによろしく早々。(大正2年7月2日 津田青楓宛書簡) 拝啓。せんだっては大きな写真の御恵送にて久し振に尊顔を拝し候。あれを画にかいて見た所、犬は出来候が、人物は妙に相成、画家から芝居がかりだと笑われ申候。この間は清さんを尋ねた処、脚気がまだよくないようであったが、それでも座敷で大分長く話し申候。色々画を見せてもらい候。日曜だったので半次郎君にも珍らしく面会することが出来申候。同君が南京から持って帰ったという画を見せてもらい候。 只今東京では、健筆会開会中にてここに支那人の書画も大分出品致居候。中に呉昌碩とか申す老人のもの、ことに目立ち候。これは正しく文人画のアンデパンダンにて、すこぶる振ったものに候。その他の支那〔画〕中には随〔分〕卑俗なものも有之候。どうして本場の画家がああ堕落するのかと驚ろかれ申候。あるいは素人かも知れず候中、林梧竹老人の半切を見事に表装したるものの、前で大分盗心相萌し申候が、どうせ我々の手には入るまいと断念致候故、高橋広湖という人の遺作展覧会も只今開会中に候。日本画家の手際の綺麗なことには感服の外なく候。小生はこの春八重桜の咲く頃より持病にて二ヶ月も寝、目下ようやく人間らしく相成候。病中は御恵与の杜詩を読み苦悶を消し候。杜詩を一通り眼を通したのは今回が始めてに候。これも御好意の御蔭と深く喜びおり候。杜詩はえらいものに候。この間ゴッホの画集を見候。珍なことおびただしく候。西洋にも今に大雅堂が出ることと存おり候。御贈の拓碑只今着披見、小生あの方の道にくらき故、歴史的に何にも分らず。只字体の面白き所にのみ興を惹き申候。御芳志難有候。書苑と申す雑誌御承知にや随分珍なるものを載せ申候も、中には珍らしきのみにて一向難有からぬものも沢山に有之候。御慰みに御取寄せありては如何。画報社より雅邦大観と申すもの出で候。最初の二巻にて雅邦の価値も相分り申候。あれは実に巧みなる人と存候。あまり巧み過ぎて窮屈に候。それでも品格の落ちぬ所が偉い点かと思われ候。 東京は東京で色々面白きことも年中行事だけでも沢山に候。支那は支那で随分風流な書画骨董あさりも出来可申、いずれそのうち御帰りに相成候わば、色々土産話として伺い度と存候。先は右まで。匆々。(大正2年7月3日 橋口貢宛書簡)
2022.05.08
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明治39年11月6日、漱石は森田草平に宛てて近況を書いた後、不折への怒りを綴りました。 二十一円なにがし御落手の由結構に候。そこで手紙をかく元気が出た所、なおさら結構に候。君が手紙をよこさないか顔を出さないと、何だか存在を疑うようになる。外の人にはそんな心配がない。これは君が気まぐれに浦和の安宿りなどへ行って考へ込む病気があるせいだろうと思う。生田先生が金港堂へ這入ったので何か書いてくれというて来た。二十五円だから君より三円なにがし多いことになる。先生の来た時は親類のものがある相談に来ていた最中で、しかもその上に今一人来訪中であった。その来訪中の御客は驚ろいて逃げて帰った。 アンクワを読んだそうだが僕もよんだ。通篇西洋臭い。君どう思う。あれは焼き直しじゃないか。しかし田園の光景が面白かった。それから田舎言葉のせいか、厭味がなくよまれた。僕は初めて小説をかいて、あれだけ出来れば大成功の方と思う。 文章一口談は例の東洋城が池上の山門で芸者を見ながら筆記したもの、何だか怪しいものだ。 不折のイムプレッショニストの論は乱暴なものだ。大将曰く感興そのものをかくからイムプレッショニストだと。無学もここに至って極まる。本人画工じゃないか。しかして印象派なる名目の由来を知らないで馬鹿なことをいう。 文学論の序は文章を見てもらうのでも何でもない。あの通りのことを読んでヘエーといってもらえばいい。読売へのせる必要もなかった。何かくれというからやった。 生田先生の恋愛文学が癪に障ったと怒って、片上天絃が早稲田文学へかいた。それを白鳥が賛成した。白鳥はチョッカイを出すことを家業にしている。いうことは二三行だ。それで人を馬鹿にして自分がえらそうなことばかり言う。厄介な男だ。 正月には何か純人情的即ちシャボテン式ならざる物をかきたいと思う。以上(明治39年11月6日 森田草平宛て書簡) この怒りは、不折がこの年の11月の「ホトトギス」に掲載された『印象派』と題する中村不折の談話に対してのものでした。 不折は、生半可なことでも喋ってしまう癖があり、印象派=印象的な絵を描くくらいのつもりで喋ったのかもしれません。漱石は『文学論』第五編第六章で印象派の絵画について記しています。 また、前章でご紹介した明治39年2月19日の手紙にも「御報酬としては普通の例にならう必要なしと。されば御手間のかかり具合と出来のよさ加減にて充分御請求願上候」とあり、計算高い不折への不協和音はこの時から響いています。 もっとも悲酸なるはいわゆる仏国のImpressionist派が始めて自己を天下に紹介したる初期の歴史なり。この派の今日に優勢なるは邦人の熟知する所にして、ことにClaude Monetの如きは何人もその名を口にせざることなき程なれども、四十年前を回顧すれば、他の迫害を蒙ることはなはだしきものありしに似たり。彼等はSalonに出品するの特権だに得るあたわず、Academy派のものは彼等を目して狂人となし、その作品を評して全然美術の法則を蔑視せりと評し、いささかの保護を与えざりしのみならず、百方その発達を阻害せんと試みたり。彼等は一個の賞牌を得るに途なく、公費をもってその作品の買収を仰ぐが如きは夢想するだに易からざりしなり。近来に至ってようやくLuxembourgの一室を割いて、この派の絵画を陳列するに至りしといえども、それすら抗議の沸騰に、容易の落着を告ぐるあたわざりしと聞く。一八六三年のSalonにこの派の絵画がことごとく陳列の栄を拒絶せられたるの際、時の主権者その窮を憐んでこれに特別室を与えてこれを"Salon des Refuses" と号す。この時Claude Monetの出品せるは日没の景色にして題してImpressionという。観者かきの如くSalon des Refusesに集って嘲笑を逞しゅうす。"Impressionist"の名ここより起る。しかしてその実冷評の意を含むのみ。 新陳交謝の際に起る争闘の例はこれにて充分なるをもってその他をいわず。約言するにーー暗示は常に戦う。戦なくして暗示を人に及ぼすことはほとんど難し。Tennysonの如き通俗なる詩人といえども、また多少の戦を免かれず。新しき暗示の旧意識を去る遠ければ遠きに従つて戦は劇烈なるべし。要は新暗示が旧意識を打破するか、あるいは旧意識が新暗示を蹂躙するかの一に帰す。両者の間隔あまりにはなはだしければ新暗示は大抵通俗なる集合意識の為めに圧迫せられ、追窮せられ、遂に剿絶せらるるを常とす。しかして天才の意識は一般を去ること遠きをもって特色となすこと多きが故に、彼等は成功するよりもむしろ失敗するを当然とす。従って後世に謳歌せらるる天才よりも、禽獣と同じく泯滅せる天才の成功の意義。不断の戦争はかくの如くにしてやまざるうちに、ある者は倒れ、ある者は起りて、永劫の波紋を無窮に描くをもって常態とす。この戦争に利あらずして焦点に登るの期なく消滅するものを失敗と名づけ、波頭に主宰するものを成功という。これ故に成功とは他の暗示を排して自から頂上によじ登りて旗織を翻えすの謂に外ならず。しかしてこの頂上はようやくにして降下し去るが故に、理論上よりして同一の成功は同程度に永続しがたきものなり。吾人の意識は個人的なると集合的なるとに論なく推移変化をもって特色とするは事実の吾人に教うる顕著なる訓則なり。(文学論 第五編 第六章) このことがあったためでしょうか、11月11日の橋口五葉宛ての手紙では「不折は無暗に法螺(ホラ)を吹くから近来絵をたのむのがいやになりました」と書いています。 明治42年11月28日、漱石は寺田寅彦宛ての手紙で「文部省の展覧会もある。この間見に行ったが、日本人も段々旨くなるね。前途有望だ。不折は不相変ジジイの裸をかいた。虎の皮の犢鼻揮をしているからえらい。しかし肉の色は甚だよかつた。背景は拙悪極まるものだ」と書きました。健筆会に出品された不折の作品に対し、明治45年5月26日の戸川秋骨宛には「ついで故、不折の悪口を一寸申候。あの男の画も書も駸々乎として邪道に進歩致し候、ああ恰好ばかり奇抜がってどうするかと思い候。不折先生の善所と申せば昔の一高の生徒が無暗に武張って、これが世の中で一番いいのだと力み返ったる、あの若殿原の善所に候。高士達人その他色々の人格も有之べけれど一高の蛮カラを標榜する人格は大したものにはなかるべきか。あまり自分の悪口のみ申すと甚だ不愉快故、悪口の材料に不折を生捕申候。それは単に自他抑揚のためにて決して吹聴のためには無之故、その辺は御含置被下度候」、5月27日の寺田寅彦宛ての手紙には「不折例によって不良少年の悪達者を発揮致しおり候」と書いています。 大正元年、漱石は学生時代に初めての漢文機構を記した『木屑録』での旅で同行したことのある広島の井原市次郎に頼まれ、不折に揮毫を頼みました。 9月9日には不折へ「さて小生知人に広島の井原市次郎と申すもの有之。この間君の画を淡彩にて短冊にかいてもらいたき由にて、手紙をもって依頼致したる処、始めて〔の〕こととて御返事もなき故、小生から依頼してくれるよう申来候。甚だ御面倒とは存候えども、一筆何か願度、題目は新年に縁故あるものとの注文に候。御承諾の上は短冊は小生より御送り可申、また御礼の儀も承わり度由につき、これも御手数ながら御一報願度と存候。短冊の数は二枚にて内一枚は新年に縁故あるもの、あとは随意に御気に召したものとのことに候」と依頼し、9月15日不折宛に「拝啓。井原氏件につき早速御返事賜り難有候。ついては短冊二葉小包にて御送申上候2月可然御揮毫の上、尊兄より直接に本人へ御送付願度候」と頼みます。そして、市次郎に宛てて「短冊代は請求する積でもなんでもなく只便宜上当方にで買いととのえ候ものなれど折角の事故御受取可申上候。不折氏への揮毫料は高が短冊故十円にて充分と存候。もっとも短冊よりは画の方に価値あるは無論故価格はどうともつけよう次第なるべく候。ただ揮毫料としてならそれで済むかと存候」と書いています。嫌々ながらの依頼が文面から伝わってきます。 津田青楓に宛てた手紙では、大正2年10月15日に「いよいよ文展が開会になりました。あなたは落選のようですが、その当否は行ってみないうちは何ともいえませんが、兎に角不折などがあの孔子老子に見ゆなどという、あの活動の看板に似たものを並べるのに、あのナチュールモルトが落第するのはよろしくありませんな。その他にもまだ落第者が沢山あるようですが、どうかしてその人々の作品を当選者と対照して見せたい。どうですか山下とか湯浅とかいう連中と相談して、ギーナス倶楽部でも借りて落選展覧会と号して天下に呼号したら」と慰め、大正3年5月30日には「この間不折に会いました。話の様子によると達磨の絵などはむしろ得意らしく見えます。気の毒です。あの鼻を曲げた処で絵が上手にならない以上、役に立たないからそうかそうかといって帰りました」と記し、追伸で「寺田は不折の画を深川辺の活動写真の看板よりまずいといっていました、当人が聞いたら怒ることと思います」と書いています。 さて、漱石が不折を嫌いになった理由はどこにあるのでしょうか。
2022.05.06
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「日本」新聞で正岡子規の良き相棒であった中村不折は、漱石のロンドン留学を追うように、明治34年7月から明治38年1月までフランスで絵画留学し、ジャン・ポール・ロランスやラファエル・コランに師事しました。その折、不折は子規に手紙で、漱石にあったら鰹節を一本進呈するつもりだという手紙を送っていますが、それを果たすことはできなかったようです。 不折が帰国した年に『吾輩は猫である』上篇の出版が決まり、漱石は8月7日に不折に前編の挿画を頼んでいます。 拝啓。御帰朝後一寸機会なく御面語の折なく打過候処愈御清穆奉賀候。 さて今回ホトトギス所載の拙稿を大倉書店で出版致し度と申すについては、その内に挿画を入れる必要有之。これを大兄に願い度事、小生も書肆も一様に希望につき、御多忙中甚だ御迷惑とは存じ候えども御引受け被下間敷や。実は製本もかなり美しく致し、美術的のものを作る書店の考につき、君の筆で雅致滑稽的のものをかいて下されば幸甚と存候。なお委細はこの手紙持参の番頭より御聞取被下度、条件も同人と御とりきめ願。以上(明治38年8月7日 中村不折宛手紙) 8月7日の中村不折宛ての手紙には「製本もかなり美しくいたし、美術的のものを作る書店の考につき、君の筆で雅致滑稽的のものを書いて下されば幸甚と存じ候」と書いていますが、本は発売たちまち売り切れ、すぐに重版にかかりました。10月29日付の中村不折宛ての手紙には「発売の日より二十日にして初版売切、只今二版印刷中のよし書肆より申し来たり候。これについては大兄の挿絵はその奇警軽妙なる点において、大に売行上の景気を助け候ことと、深く感謝いたし候」と書いています。 漱石は、『カーライル博物館』の挿画も依頼し資料を送るなど、親しく交際しています。また、漾虚集の挿画の出来栄えにも感謝を表し、モリスへの絵画解説を依頼するなど、親密ぶりを示しています。 拝啓。カーライルの家の写真は持ち合せず、カーライルの家に関する案内記様のものは別封にて入御覧候。御参考にも相成候わば幸と存候。それから今度の挿絵の事も小生から御願に参上可仕筈の処、多忙の為め本屋まかせに致置候。甚だ無申訳次第御容赦可被下候。 次に挿絵は別段の望無之。ただ絵として面白きもの価値あるものを御無理にも願度と存候。 服部申候には御報酬としては普通の例にならう必要なしと。されば御手間のかかり具合と出来のよさ加減にて充分御請求願上候。 いずれ拝顔の上は御礼可申上候えども以序右迄申上候。(明治39年2月19日 中村不折宛手紙) 拝啓。昨夜服部書店王人大兄の挿画持参逐一拝見致候。いずれも見事なる出来満足不過之と存候。あれは今までのさし画に類なき精巧のものにて、出来の上は定めし人目を驚かすならんと嬉しく存候。夜中にてよくわからざり〔し〕かど、かの倫敦塔の図の如きは着色の点においてたしかに当今の画家をあっといわしむるにたる名品と存候。小生日本人のかいた水彩にてあの如きしぶき設色を見ず。ただうまく板に出来ればよいがとそれが心配に候。この辺は大兄よりきびしく服部へ御命じ願上候。 その他、薙露行の古雅にして多少の俳趣味を帯べる琴のそら音の幽冥にして迭宕なる。まぽろしの盾の無邪気にして真摯なる、皆面白く拝見仕候。御蔭をもって拙文多大の光彩を添、単行して江湖に問うの価値を加え候。先は御礼まで。(明治39年3月2日 中村不折宛手紙) 拝啓。漾虚集御蔭を以て奇麗に出来上り難有候。 ところで小生友人にてモリスと申す米国人只今第一高等学校の教師に候処、日本の美術書画に多大の興味を有し諸々方々へ出掛候事、楽の様に見受られ候故、一度大兄方へまかり出て御所蔵の画幅、ことに日本のものまたは支那物拝見の上、種々斯道の御話も承わり度と存候が、御都合は如何に候や。もし御迷惑に無之候わば適当の日(日曜ならねば午後)御指定被下間敷や。もっともこの男は非常のバンカラで、万事日本流に振舞い居候えば、接待等の点については寸毫の御懸念無之候。先は右御都合御うかがいまで。(明治39年6月5日 中村不折宛手紙) しかし、明治39年の秋頃になると、『吾輩は猫である』中篇・下篇の装画は浅井忠に変更しています。その後の不折からの朝日新聞への寄稿依頼を断るなど、漱石と不折の蜜月関係は終わりを告げました。 寒気ようやく烈敷相成候処、愈御清勝奉賀候。御近著画道一般御恵投にあずかり拝受難有御礼申上候。拙著「猫」中篇幸手元に持合せ居候間、一部供御高覧候御笑草とも相成候わば幸甚に候。 鳥居素川先生の手翰拝読致候。実は年末にて色々の用事輻湊、手が五六本あってもやりきれぬ体裁、そのため諸方よりの依頼も乍遺憾謝絶致候位故、到底「朝日」の方も御たのみ通りに随華ものを綴る訳に相成かね候。右御気の毒ながら不悪、御諒察の上鳥居君へ宜しく御断わり被下度、先は右当用のみ申述候。余は拝眉の上万々可申述候。以上。(明治39年12月2日 中村不折宛手紙)
2022.05.04
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明治37・8年の断片に「黒田清輝曰く先日支那公使館へ行ったら公使の令嬢が僕にloveしていたらしいが不幸にして言語が通じないので分からなかった、秘密を守る信用の出来る通弁がいるなら斡旋してくれ」という文章があります。 文中に出てくる「黒田清輝」はもちろん、明治17(1884)年、子爵黒田清綱の養子として法律の勉強のためにフランスに留学し、パリ留学中にラファエル・コランに師事して本格的な洋画の修行を積み、サロンにも出品するほどの実力を蓄えました。帰国後日本の近代洋画の先鋒として活躍した黒田清輝のことです。明治26年に帰国してからは、東京美術学校に新しく設けられた西洋画科の教授となり、多くの人たちを指導しました。また、自身も日本洋画界の重鎮となりました。清輝が中心になって、白馬会を明治29(1896)年に結成しています。 明治37年10月12日に橋口貢へ宛てた自筆絵はがきには「鶏の画はすこぶる濤洒蕙斎のような風があると思う。発句の前の句は調が整わぬ。後の句は『時雨るるや庚申塚に鳴く狐』としたらものになります、君中々見込がある。少し発句をやり給え。そして君の令弟にもぜひ勧めてくれ給え、わけはない。少しやるとじき上手になる、画の趣味のある人が発句をやって発句的の趣味を西洋画でかいて貰いたい、白馬会に一人位発句をやる人があってもよかろう」と書き、 明治42年4月18日の日記にも「晴。坂本三郎来。朝日の新聞の用。溜池の白馬会を見に行く。ヴェラスケスの模写あり。帰途仲の町に橋口の新居を訪う。長崎鹿児島より買い来りたる書画数幅を見る」とあり、明治42年4月21日の日記には来信として「黒田」の名前があります。 この展覧会は4月16日から5月12日まで赤坂溜池三会堂で開催された「白馬会第12回展」です。「美術新報」には「出品数は多額に上る見込なるも場所狭旺隘なるため鑑査を厳重にしたとえ会員の作品にてもこれを取捨する筈なりと……」、「都新聞」5月2日号には「文部省の展覧会が設けられて以来、各私設展覧会にはいわゆる展覧会向きともいうべき容械の大を誇るものが少くなって、即興的もくは研究的のものが多く現わるるようになったが、この会にもまたこの現象が見える…」と書かれています。 また、明治43年(1910)6月11日にも、上野で催されている白馬会の展覧会に出かけています。これは上野公園竹之台陳列館北部において5月10日から6月20日まで開催された「白馬会第13回展」です。「日本」5月29日号には「展覧会としては良い参考品も有るし、生徒の作品も一般に歩調が整っていて、始末に困るような変り物もない画が沢山過ぎて見悪いという評も、幹部連が振わないという評もあるが、生々した生徒の作品はかえって老大家の作に接するよりも、心強い幹部の方でも生徒自身に自己の技倆を知らしめ、生徒の父兄にもその成績を示す心算で鑑別したということである。要するに今回のは後進奨励の展覧会であろうと思われる」と書かれています。 こうしたこともあり、漱石は『三四郎』に登場する「原口さん」は、清輝をモデルにしています。黒田清輝の容貌は「仏蘭西(フランス)式の髭を生やして、頭を五分刈りにした、脂肪の多い男」と描写され、画風は「影の所でも黒くはない。むしろ薄い紫が射している」とあり、「紫派」と呼ばれる清輝の画風と一致します。 また、『三四郎』の記述には、清輝を意識したところもあります。 青い空の静まり返った、上皮に、白い薄雲が刷毛先で掻き払った痕の様に、筋違に長く浮いている。「あれを知っていますか」という。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかし、あれで地上に起こる台風以上の速力で動いているんですよ。ーー君ラスキンを読みましたか」 三四郎は憮然として読まないと答えた。野々宮君はただ「そうですか」といった許りである。しばらくしてから「この空を写生したら面白いですね。原口にでも話してやらうかしら」といった。三四郎は無論原口という画工の名前を知らなかった。(三四郎2) これは清輝の「雲」という連作を意識しているのではないかという美術評論家もいます。
2022.05.02
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大正3年6月15日、漱石は岡本一平に手紙を書きました。その内容は、岡本一平著並画の『探訪画趣』序として公表されています。 私は朝日新聞に出るあなたの描いた漫画に多大な興味をもっている一人であります。いつか社の鎌田君にその話をして、あれなりにして捨ててしまうのは惜しいものだ、今のうちにまとめて出版したらよかろうにといったことがあります。その後あなた自身が見えた時、私はあなたに自分の描いたものはみんな保存してあるでしょうねと聞いたら、あなたは大抵散逸してしまったように答えられたので私は驚ろきました。もっともそういう私も随分無頓着な方で、俳句などになると、作れば作ったなりで、手帳にも何にも書き留めて置かないために、ちょっと短冊などを突きつけられて、忘れたものを思い出すのに骨の折れる場合もありますが、それは私がその道に重きを置いていない結果だから、仕方がありませんが、貴方あなたの画は私の俳句よりも大事にして然るべきだと私はかねてから思っていたのだから、それを揃えて置かない貴方の料簡が私には解らなかったのです。 あなたは私にいわれて始めて気が付いたように工場の中を探し廻ったというじゃありませんか。そうしてようやくそれを出版するだけにまとめたのだそうですね。そうなればあなたの労力が単独に世間に紹介されるという点において、あなたも満足でしょう、最初勧誘した責任のある私も喜ばしく思います。私ばかりではありません、世の中には私と同感のものがまだたくさんあるに違ないのです。 普通漫画というものには二た通りあるようです。一つは世間の事相に頓着しない芸術家自身の趣味なり嗜好なりを表現するもので、一つは時事につれてその日々々の出来事を、ある意味の記事同様に描き去るのです。時と推し移る新聞には、無論後者の方が大切でしょうが、あなたはその方面においての成功者じゃなかろうかと私は考えるのです。私が最初あなたに勧めて、年中行事というようなものを順次にならべて一巻にしたら何どうだろうといったのは、これがためなのです。見る人は無論あなたの画から、何時どんなことがあったかの記憶を心のうちに呼び起すでしょう、しかも貴方の表現したような特別な観察点に立って、自分がいまだかつて経験しなかったような記憶を新らしくするでしょう。この二つの記憶が経となり緯となって、ただでは得られない愉快が頭の中に満ちて来るかも知れません。忙がしい我々は毎日々々蛇が衣を脱ぐように、我々の過去を未練なく脱いで、ひたすら先へ先へと進むようですが、たまには落ち付いて今まで通って来た途を振り向きたくなるものです。その時茫然と考えているだけでは、眼に映る過去は、映らない時と大差なき位に、貧弱なものであります。あなたの太い線、大きな手、変な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡単な画は、その時我々に過去はこんなものだと教えてくれるのです。過去はこれ程馬鹿気て、愉快で、変てこに滑稽に通過されたのだと教えてくれるのです。我々は落付いた眼に笑を湛たたえてまた齷齪と先へ進むことが出来ます。あなたの観察に皮肉はありますが、苦々しい所はないのですから。 もう一つあなたの特色を挙げて見ると、普通の画家は画になる所さえ見付ければ、それですぐ筆を執ります。あなたはそうでないようです。あなたの画には必ず解題が付いています。そうしてその解題の文章が大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方が優っているように思われるのさえあります。あなたは東京の下町で育ったから、こういう風に文章が軽く書きこなされるのかも知れませんが、いくら文章を書く腕があっても、画がその腕を抑えて働らかせないような性質のものならそれまでです。面白い絵説の書ける筈はありません。だから貴方は画題を選ぶ眼で、同時に文章になる画を描いたといわなければなりません。その点になると、今の日本の漫画家にあなたのようなものは一人もないといっても誇張ではありますまい。私はこの絵と文とをうまく調和させる力を一層拡大して、大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いて頂きたいような気がするのです。(岡本一平著並画『探訪画趣』序) この年の4月15日、漱石は朝日新聞の鎌田敬四郎に宛てて「拝啓。御手紙をありがとう。小説はとうから取掛るべきでありますが、横着のためついつい延びまして、その結果、編輯上御心配をかけまことに申訳がありません。なるべく早く書いて御催促を受けないで済むようにします。テニエルの切抜もありがとう。読んで見ました。九十四まで生きた人はあんまりないようですね。一平さんの漫画はまだ出版になりませんか。一平さんの画は百穂君の挿画などより評判がいいようです。一平さんの赤ん坊が死ん〔だ〕ことは始めて承知しました。今度会ったらどうぞ忘れずに弔詞を述べて置いて下さい。私は一平さんに妻君があろうとも思いませんでした。実際わかい顔をしているではありませんか。右まで。拝」という手紙を書き、一平の漫画集の出版時期を尋ねています。 ここにある「赤ん坊が死んだ」とは、岡本一平・かの子夫妻の長女豊子のことで、大正2年8月23日に生まれ、翌年4月11日に亡くなっています。 岡本一平は明治19(1886)年に北海道で生まれました。津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭の長男で、子供の才能を見抜いた父の勧めもあり、東京美術学校西洋画科に進学して藤島武二に師事しています。しかし、同期に藤田嗣治など優秀な画家が多かったため、画家への道をあきらめ、帝国劇場の舞台美術の仕事につきますが、画力を生かした職につきますが、明治43年(1910)岡本かの子と結婚。朝日新聞の挿絵を描くアルバイトを始めました。当時、社会部部長の渋川玄耳が一平の絵の才能に注目。正社員として彼を雇い、漱石の一平の才能に驚いたのでした。 漱石に関連する漫画には『坊っちゃん絵物語』『漱石八態』などがあります。
2022.04.30
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大正元年11月13日、漱石は津田青楓へ文展に同行してもらったお礼の手紙を送っています。 拝啓。展覧会の目録御送被下難有存候。いつか御伴をして行って見ましょう。 高村君の批評の出て胃る読売新聞もありがとう。一寸あけて見たら芸術は自己の表現にはじまって自己の表現に終るという小生の句を曖昧だといっています、それから陳腐だと断言しています、その癖まだ読まないと明言しています。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました。それであとを読む気になりません。新聞はそのままたたんで置きました。しかし送って下さったことに対してはあつく御礼を申上ます。草々。(大正元年11月13日 津田青楓宛て書簡) ここにある高村君とは高村光太郎のことです。その「批評」とは読売新聞11月11〜17日に掲載された「西洋画所見」で、13日の(8)の冒頭部分に「この頃よく人から芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終るという陳腐な言をきく。これは夏目漱石氏がこの展覧会について近頃書かれた感想文に流行の源を有しているのだということである。私はついそれを読過する機会がなかったので、ここに加えた説明と条件とを全く知らないでいる。それゆえ甚だ不用意のようであるが、その言論とは関係なくただこの一句について思う所を述べてみたい。私の考えではこの句はかなり不明瞭だとも思えるし、また曖昧だとも思える。ことに芸術作家の側からいうと不満でもある」とあり、光太郎の批判が述べられていたのでした。 この『西洋画所見』には、漱石が評価した坂本繁二郎「うすれ日」のことが書かれてあり、「作者は牛と自然との形体を描いて、図らずここに自己の魂を見た。作者はおのずからここに歩んで来た。これは気分を物語るものでもなく、趣味に輿ずるものでもなく、また色彩のまどわしに戦慄しているものでもなく、素より事実の記述、フイジオノミイの記録でもない。作者はほとんど意識なくしてこの牛と自然とに逢着した形がある」と幸太郎は書いて、高い評価を与えています。 光太郎は、漱石の「芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終る」という言葉を伝え聞き、これを批判したのです。「うすれ日」を同様に評価しているのに、漱石の方が多くの人に認められています。これは二人の文才の違いだったのかもしれません。
2022.04.28
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浅井忠との交流は正岡子規の方が早く、おそらく四季を通じて互いのことは知っていたことでしょう。 漱石と忠の交流は、漱石のロンドン留学から始まりました。漱石は途中のパリで万博に夢中になり、この万国博に22日、25日、27日の3度、訪れています。明治33年10月22日の『漱石日記』には「十時頃より公使館に至り、安達氏を訪う。あらず。その寓居を尋ねしが、また遇わず。浅井忠氏を尋ねしも、また不在にて不得已帰宿。午後二時より渡邊氏の案内にて博覧会を観る。規模宏大にて二日や三日にて容易に観尽せるものにあらず。方角さえ分らぬ位なり。『エヘル』塔の上りて帰路。渡邊氏方にて晩餐を喫す。それよりGrand Voulevardに至りて繁華の様を目撃す。その状態は夏夜の銀座の景色を五十倍位立派にしたるものなり」、10月26日には「朝浅井忠氏を訪う。それより芳賀藤代二氏と同じく散歩す。雨を衝て還る。樋口氏来る」と書かれており、中を訪ねていたことがわかります。 明35(1902)年7月2日付の妻鏡子宛の手紙に、「只今巴理より浅井忠と申す人帰朝の序拙寓へ止宿是は画の先生にて色々画の話杯承り居候」と記し、この時から漱石と忠は一気に親しくなったと思われます。明治41年2月15日、神田美土代町で行われた第一回朝日講演会の記録『創作家の態度』には「その時、浅井先生はどの街へ出ても、どの建物を見ても、あれは好い色だ、これは好い色だと、とうとう家へ帰るまで色尽くしで御仕舞いなりましたーー先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだなと大に悟りました」とあり、浅井とロンドン市内を歩いた漱石は、画家のものの見方を直に触れることができました。また、談話の『文士と酒、煙草』で「いつかロンドンにいる時分、浅井さんといっしょに、とある料理屋で、たったビール一杯飲んだのですが、たいへんまっかになって、顔がほてって町中を歩くことができず、ずいぶん困りました。日本では、酒を飲んでまっかになると、景気がつくとか、上きげんだとか言いますが、西洋ではまったく鼻つまみですからね」と語っています。 浅井は佐倉藩士の長男として江戸に生まれ、1876年に工部美術学校に入学しフォンタネージの指導を受けます。そして明治美術会の結成に参加し、東京美術学校教授となって1900年からフランスヘ留学していました。1902年に掃国した忠は京都に移り、後進の指導にあたります。 忠は、漱石の依頼で処女作『吾輩は猫である』の中篇と下篇の挿画を頼みました。明治38年2月12日の橋口五葉への自筆絵はがきに「浅井の口絵画の百姓の足はうまいと思う。如何」と送っています。また、明治39年11月11日、橋口五葉宛に「浅井の画はどうですか。不折は無暗に法螺を吹くから近来絵をたのむのがいやになりました」とあり、上篇のみ中村不折が挿画を担当した理由がほの見えてきます。 また、漱石は『それから』にも、忠を登場させています。「直木は代助の顔を見てとうとう笑い出した。代助も笑って、座敷へ来た。そこには誰も居なかった。替え立ての畳の上に、丸い紫檀の刳抜盆が一つ出ていて、中に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあった。からんとした広い座敷へ朝の緑が庭から射し込んで、すべてが静かに見えた。戸外の風は急に落ちたように思われた。(11)」とあります。浅井忠は「黙語」という画名を持っていたのです。 「三四郎」では三四郎と美彌子が深見という画家の遺作展を見る場面がありますが、これは第6回太平洋画会で行われた忠の遺作展を念頭に描いています。 「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」「ありがとう」「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるということである。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである。(三四郎 8)
2022.04.26
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同じ奧行をもった画の一として自分は最後に坂本繁二郎氏の「うすれ日」を挙げたい。「うすれ日」は小幅である。牛が一疋立っているだけである。自分は元来牛の油画を好まない。その上この牛は自分の嫌な黒と白の斑(ぶち)である。その傍には松の枯木か何か見すぼらしいものが一本立っているだけである。地面には色の悪い青草が、しかもやっとの思で、少しばかり生えているだけである。その他は砂地である。この荒涼たる背景に対して、自分は何の詩興をも催さないことを断言する。それでもこの画には奧行があるのである。そうしてその奧行はすべてこの一疋の牛の、寂寞として野原の中に立っている態度から出るのである。牛は沈んでいる。もっと鋭どくいえば、何か考えている。「うすれ日」の前に佇んで、少時(しばらく)この変な牛を眺めていると、自分もいつかこの動物に釣り込まれる。そうして考えたくなる。もし考えないで永くこの画の前に立っているものがあったら、それは牛の気分に感じないものである。電気のかからない人間のようなものである。(文展と芸術 12) 坂本繁二郎は福岡県久留米市生まれで、小学校の代用教員を務めていましたが、20歳の時に上京、同郷だった青木繁ともに良きライバルとして絵を学び、大正10年に渡欧。3年後に帰国すると、故郷久留米に居を構えて制作に励みました。牛の絵は、渡欧前からよく画題として描かれています。 この作品は、繁二郎が今までの印象派風の表現から抜け出し、自己の画法を追求し始めた頃にあたります。のため、漱石のこうした指摘は嬉しかったらしく、『坂本繁二郎夜話』には「漱石さんの批評の中に『もっと鋭どくいえば、何か考えている』という言葉があり、普通の人では言えない言葉として未だ忘れません」と書いています。 こういう意味で多少自分に電気をかけた彫刻はただ一つしかなかった。それは朝倉文夫君の「若き日の影」である。そうしてその「若き日の影」という題を説明するものは一人の若い男であった。彼は両肱を後にして立ちながら何かにもたれていた。自然の勢として彼の胸は前方に浮かざるを得なかった。けれども彼の顏はむしろ俯向いていた。彼は逞ましい骨格の所有者ではなかった。彼の頰が若く柔らかい線で包まれている如く、彼の胸隔のどこにもまた傑張の態がなかった。要するに彼は強い男ではなかった。そうして強い人を羨やんでもいなかった。ただ生れた通りの自己を諦らめの眼で観じていた。自分は彼の姿勢と彼の顔付の奧にある彼の心を見た時、その淋しき瞑想をも見た。そうして朋友としては彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかった。(文展と芸術 12) 朝倉文夫は大分県竹田生まれの彫刻家で、兄も同様に彫刻家・渡辺長男で、上京して子規の門人になろうとしたのですが、その日に子規は鬼籍に入ります。猛勉強して東京美術学校に入り、彫刻を極めますが、モデルを問うお金がなく、動物園でデッサンに励み、動物の彫塑を多く手がけて、口に乗りすることもありました。その甲斐あってか、高村光太郎とともに日本美術界の重鎮となります。 自分のいわゆる奧行に関する弁と例とはこれでほぼ尽きた。絵画彫刻を通じて、この系統に属する作は他にないようである。が、強いてその匂のするものを求めるならば、黒田清輝氏の「習作」である。それには横向の女の胸以上が描いてあった。女は好い色の着物をたった一枚肩から外して、裝飾用の如く纏っていた。この顏と着物と背景の調子がぴたりと喰付いて有機的に分化したような自然の落付を自分は味わったのである。そうしてもし日本の女を品位のある画らしいものに仕上げ得たものがあるとするなら、この習作はその一つに違ないと思ったのである。けれどもそれ以上自分はこの絵に対して感ずることは出来なかった。自分の友は女の首から肩のあたりを見て、しきりに堅い堅いといっていた。羨やんでもいなかった。ただ生れた通りの自己を諦らめの眼で観じていた。自分は彼の姿勢と彼の顔付の奧にある彼の心を見た時、その淋しき瞑想をも見た。そうして朋友としては彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかった。(文展と芸術 12) 黒田清輝は鹿児島生まれの洋画家で、18歳で渡仏し、ワファエル・コランに師事してサロンに入賞するまでの腕前になり、明治26年に帰国。東京美術学校に新しく設けられた西洋画科の教授となり、多くの人たちを指導しました。また、自身も日本洋画界の重鎮となりました。清輝の「習作」で描かれた女性の横顔は、漱石にとっては感情に乏しく物足りないものでした。ただ、「もし日本の女を品位のある画らしいものに仕上げ得たものがあるとするなら、この習作はその一つに違ないと思った」とも書いています。 友人は南薰造君の「六月の日」の前に来てどうですと聞いた。自分は畠の真中に立って德利から水を飮んでいる男が、法螺貝を吹いているようだと答えた。それからその男が南君のために雇われて、今畠の真中に出てきた所だという気がすると答えた。自分はこの間雑誌「白樺」で南君の書いた田舍の盆踊りの光景を読んで大変面白いと思ったが、この画にはあの文章ほどの旨味がないと答えた。羨やんでもいなかった。ただ生れた通りの自己を諦らめの眼で観じていた。自分は彼の姿勢と彼の顔付の奧にある彼の心を見た時、その淋しき瞑想をも見た。そうして朋友としては彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかった。(文展と芸術 12) 南薰造は広島県賀茂生まれで、画家で東京美術学校西洋画科に学び、ヨーロッパ留学を果たしています。 「ヒル」という人の描いた七面鳥の前に来た時、友人はすぐ、どうしても西洋人だといって感心した。自分は後から感心した。その癖この七面鳥は首から肩の辺までしか描いてないように見えた位小さかったのである。しかもその隣りには不折君の巨人がいたのである。自分は不折君に、この巨人は巨人じゃない、ただの男だと告げたい。きたならしいただの男だと告げたい。この日本の巨人より、柏亭君の外国の子供の方がまだ偉大であると告げたい。羨やんでもいなかった。ただ生れた通りの自己を諦らめの眼で観じていた。自分は彼の姿勢と彼の顔付の奧にある彼の心を見た時、その淋しき瞑想をも見た。そうして朋友としては彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかった。(文展と芸術 12) ヒルは、イギリス人画家のレオナルド・ヒル「秀作」、中村不折は『吾輩は猫である』で挿画を担当してくれたあの不折です。漱石は、のちに折り合いが悪くなりますが、それは不折のいい加減さととの組む姿勢によるもののようです。不折の「巨人之蹟」は、もちろん評価しておりません。柏亭君とは洋画家・版画家の石井柏亭で、「和蘭の子供」です。 以上の外に自分はまだ色々の画を見た。そうして友人と色々の事を語った。最後に休憩所へ入った時、自分は茶を飮みながら、この恐るべき群集は、皆絵画や彫刻に興味があるのだろうかという質問を掛けた。友人はさあといって逡巡していたが、やがて、第一そういう我々は解る方なんでしょうか、解らない方なんでしょうかと聞き返した。自分は苦笑して黙った。審査の結果によると、自分の口を極めて罵った日本画が二等賞を得ている。自分の大いに褒めた西洋画もまた二等賞を取っている。して見ると、自分は画が解るようでもある。また解らないようでもある。それを逆にいうと、審査員は画が解らないようでもある。また解るようでもある。(文展と芸術 12) 最後に漱石は、人それぞれに評価の違いがあることを書き、文転での結果と自分の批評が異なっていることを面白く思っているようです。「自分は画が解るようでもある。また解らないようでもある。それを逆にいうと、審査員は画が解らないようでもある。また解るようでもある」というのは誰しも思うことなのでした。 長くなりましたが、これを皮切りに同時代人の画家について書いていきます。
2022.04.24
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「マンドリーヌ」とは反対の側から自分の興味を誘なった画が四つ程ある。偶然にもその内の二つは隣り合せに掛けられていた。そうして二つとも線を用いた裝飾画であった。細長いパネルめいたのは白羊君の「川のふち」で、これは寒い色をしていた。やや四角な方は未醒君の「豆の秋」で、これは暖くできていた。 花やかな活躍を意味する「マンドリーヌ」を去って、「川のふち」と「豆の秋」の前へ来たとき自分は、音楽会の帰りに山寺の門を潛ったような心持を味った。「マンドリーヌ」の刺戟性なのに反して彼等の画はそれ程静だったのである。けれどもその静さは歓楽の後に来る反動の淋味(さびしみ)をもって自分に訴えたのではない。彼等はその根調において、父母未生以前から既に一種の落付を具えていたのである。そうして新らしい問題がこの落付の二字から生れるのである。活躍と常寂――生の両面を語るこの言葉が芸術に卽して如何なる意義を我々にもたらすか。これが問題である。(文展と芸術 11) 白羊君は埼玉生まれの洋画家・倉田白羊で漱石も知っている浅井忠に教えを受けた洋画家です。未醒君は、栃木県日光生まれの小杉未醒で、こちらは門人の芥川龍之介の友人です。ここで出てくる「父母未生以前」は、『門』にも出てくる禅問答の題で、漱石は松山へ行く前に鎌倉・円覚寺でこの題を出されたのですが、うまく答えることができませんでした。 活動には奧行がない。あらゆる力がことごとく外部に向って走るならば、我々はただその力の現われた迹だけを見れば好い。さうしてただ間口の強烈な所に心を奪われておれば、万事はその刹那に解決されるのである。人間全体が皮膚に発現し切った以上、裏面を覗く必要はないからである。だから活動本位の裏面は陽気で快活である。けれども陰性の画になると、始めから何等の活動を示していない。從って我々は画の間口だけ見て安心することができない。この静かな落付いた生の裏面に、何物か潛んでいるに違ないと思う。次にその潜んでいるものは赤いものか黒いものか、何だか物色して見たくなる。そこで画に已を得ず奧行が出来て来る。もちろん奧行というのは筆の先で拵らえる意味の濃淡ではなくって、全く精神作用から来る深さに過ぎないから、こういうのは考えさせる画とも、象徴的の画とも、あるいは宗教義をもった画ともいい得るのだろう。「川のふち」はただの田舍女が立ちながら、髮を梳っている傍に、臼があったり、後に川があったり、その川の中に島が浮いていたりするだけである。自分の友人はこの画の前に立ってしきりに気に入ったといっていた。自分は何だか象徴的な所があるがそれにしては物足りないと答えた。友人は、そんなものではなかろう、私にはこの裡の趣が好く解るがと答えた。自分にも趣は解った積である。けれども単に趣だけ描いたものとしては、描き方が矢張り足りないように思われた。自分は二三度この画を振り返って見た。そうして仕舞まで、物足りたような物足りなさを感じた。 「豆の秋」は画として調った点からいうと、「川のふち」よりも上に位するのだろう。四角な裏面が四角にきちんと纏っているうちに、とてもこの中には纏められそうもない木の幹がぬっと立っていたり、同じく大き過ぎるような人間が落付払って坐っていたりする。「豆の秋」は実に大胆に沈着に纏った画である。だからその重味はむしろ構図の方から来ているらしい。従って画の内面に意味があるとすれば、その意味がかえって画家の手腕で作り上げられているような気がする。リーチ氏はアドヷタイザーに投書して、この画をシヤヷンヌの影響を受けて墮落したものだといっている。シヤヷンヌの影響は未醍君も否定し得ないかも知れない。けれどもこれは本来君の性情にある画風なのである。「木蓮」といい「水郷」といい、今度の「豆の秋」といい、いずれにも画家の感情が籠っている。未醒という人が本来の要求に応じて、自己に最も適当な方法で、自己を最も切実にかつ有意義に表現した結果と見るより外に見ようがないのである。自分は「豆の秋」の色彩をとくに心持よく眺めた。(文展と芸術 11) 漱石は「豆の秋」が気に入ったようで、構図が斬新でよくまとまっていると褒めています。 リーチ氏はイギリス人のバーナード・リーチです。日本を愛して何度も日本を訪れ、のちに民芸運動に身を投じています。氏が感じた「豆の秋」のピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの影響を受けたものだという批判に対して、影響はあるかもしれないが作者の心情が色濃く出ていると反論しています。未醒の「木蓮」は「白木蓮」で明治44年春の太平洋画会展への出品作、「水郷」もやはり昨年の文展出品作で、漱石が未醒を注目していたことがよくわかります。 同じ意味から同じ人の描いた「海藻」というのが自分を引き付けた。これは坊主頭の船頭とその足下にある海藻が、ただ簡単に写し出されているだけのスケッチに過ぎないが、自分のいわゆる奧行をこの船頭がどこかに背負って立っているように感ぜられた。自分はふとこの画を見た時、虛子の書いた漁夫のことを思い出した。その漁夫は足下に藻屑の散らばっている砂浜に坐って、ただ海の方を眺めているのである。いつ見ても、じっと遠くの海の方を眺めているのである。何か意味がなくてはならないのである。そうしてその意味は誰にも解らないのである。(文展と芸術 11) 虚子の書いた漁夫とは、「ホトトギス」明治44年4月号掲載の高浜虚子『由井ケ浜』に登場する漁師です。
2022.04.22
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芸術を離れて単に坊間の需用という社会的関係から見ると、今の西洋画家は日本画家に比べて遙かに不利益の地位に立っている。彼等の多数は隣り合せの文士と同じく、安らかにその日その日を送る糧すらも社会から供給されていない。彼らの製作の大部分は貨幣と交換され得べき市場に姿を現わす機会に合うあてもなく、永久に画室の塵の中に葬むられ去るのである。画室! 彼等のあるものは恐らく自己の生命を葬るべき画室すらもっていないだろう。彼等は食うためでなく、実に餓えるため、渇するために画布に向うようなものである。 これほど窮迫の境遇におりながら、なおかつ執念深くパレットを握っているものは余程勇猛な芸術家でなければならない。自分はこの意味において深く今日の西洋画家を尊敬するのである。そうしてこれら薄倖の画家によって開拓されつつある我邦の画界が、年々その努力によって面目を新たにするのを見るたびに嘆賞の声を惜まないのである。こういう進境の一源因は、無論文壇の大勢と同じく、活きた西洋の潮流が、断えざる新らしい刺戟を、彼等の血脈に注ぎ込んでいるからではあるが、奮って衣食問題以上にも躍り出そうとする彼等の芸術的熱心もまた大いなる原動力となって暗々裏に働いているに違ない。悲しいかな、この方面で多少名を知られたいわゆる大家なるものの多数が、新進の人と歩調を揃えて一様に精進してこない。自分は公言する如くこの道において全くの門外漢である。だから技巧などはよく解らない。それであえてこんな失礼をいうのは善くないとも思う。けれどもまた感じた通りを述べるのも悪くはないとも考える。(文展と芸術 10) 自分はかつて故青木氏の遺作展覽会を見に行ったことがある。その時自分は場の中央に立つて一種変な心持になった。そうしてその心持は自分を取り囲む氏の画面から自と出る霊妙なる空気のせいだと知った。自分は氏の描いた海底の女と男の下に佇んだ。自分はその絵を欲しいとも何とも思わなかった。けれどもそれを仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥ずかしくないという自覚があった。こんなものを仰ぎ見ては、自分の人格に関わるという気はちっとも起らなかった。自分はその後いわゆる大家の手になったもので、これと同じ程度の品位をもつべき筈の画題に三四度出合った。けれども自分は決してそれを仰ぎ見る気にならなかった。青木氏はこれらの大家よりも技倆の点においては劣っているかも知れない。ある人は自分に、彼はまだ画を仕上げる力がないとさえ告げた。それですら彼の製作は纏まった一種の気分を漲らして自分を襲ったのである。して見ると手腕以外に画についていうべきことはたくさんあるのだろうと思う。ただ鈍感な自分にして果してそれをい得るかが問題なだけである。(文展と芸術 10) 漱石は、明治45年3月に上野の竹之台陳列館で開催された「青木繁遺作展覧会」を見ています。これは青木繁の一周忌にあたり、3月17日に津田青楓に手紙を送っています。 拝啓。今日展覧会を拝見に参りました。あのうちの非売品のセーブルというのを譲って頂けますまいか。もっともあまり高くては困りますが。それがいけなければ京都岡崎町というのと宗〇橋とかいう十八円のを二枚頂きたいと思います。 事務へ何とも申して参りませんから、貴方からよろしく願います。もし右の外に貴方の推賞なさるのがあるなら御相談の上以上のをやめてそっちに致してもよろしう御座います。 青木君の絵を久し振に見ました。あの人は天才と思います。あの室の中に立って自から故人を惜いと思う気が致しました。以上(明治45年3月17日 津田青楓宛書簡) 「海底の女と男」は「わだつみのいろこの宮」のことです。この感動を、漱石は『それから』で「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけがいい気持ちにできていると思った。(5)」と書いています。 先ず一番に和田君の描いた石黒男爵の肖像について所感を述べたい。決して悪口をいう積でなく、ただ感じた通りを自白すると、男爵の顏は色の悪い唐茄子に似ている。もっとも男爵の顔を横から見れば多少唐茄子らしい所があるのかも知れないから、これは画家の罪とばかりはいえない。しかし男爵の顏が粉を吹いているに至っては、いよいよ唐茄子らしくなるとならないとに論なく、和田君の責任である。いからざれば光線の責任であるが、どうもこうではないらしい。和田君はH夫人というのをもう一枚描いている。これも男爵同様はなはだ不快な色をしている。もっとも窓掛や何かに遮ぎられた暗い室内のことだから光線が心持よく通わないのかも知れない、が光線が暗いのでなくって、H夫人の顔が生れ付暗いように塗ってあるから気の毒である。その上この夫人はいやだけれども義理に肖像を描かしている風がある。でなければ和田君の方で、いやだけれども義理に肖像を描いてやった趣がある。自分は何方か知らないが、隣りにマンドリンを持ってきている山下君の女を見た時、猶々そういう感じを強くしたのである。山下君の女は愉快にそうして自然に寐ている。眼をねむっている癖に潑溂と動いている。生き生きとした活力を顏にも手にも身体にも蓄わえたまま、静かに横たわっている。自分は彼女の耳の傍ヘ口を付けて、彼女の名をささやいてみたい。しかし眼を開いてこっちを向いているH夫人にはかえって挨拶する勇気が出ない。(文展と芸術 10) 和田君とは和田栄作のことで鹿児島生まれの洋画家です。明治32年にヨーロッパに渡り、ラファエル・コランに師事してパリのサロンで「思郷」が入線しています。36年に帰国すると、東京ビジュ私学校の教授となり、のちに好調。昭和18年には文化勲章を叙勲されています。ここでは「石黒男爵肖像」「H夫人肖像」を俎上に置き、ナスの絵とか、義理で描いたようだと酷評しています。 山下君は山下新太郎。東京根岸生まれの洋画家で、東京美術学校の一期生でしたが岡倉天心の辞任で退学。インドやヨーロッパに遊学し、明治43年に帰国して。ルノワールに学んだ画風は注目を浴びました。漱石を魅了した絵は「マンドリーヌ」です。
2022.04.20
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自分は安田靭彦君の「夢殿」という人物画を觀て何という感じも興らなかった。自分の友人はその前に立って面白くないという言葉を繰り返して胃た。あとで聞くとこれは大分評判の高い作だそうである。聖德太子とかの表情の、飽くまでも莊重に落付いているうちに、どこか微笑の影を含んだ萌(きざし)の見える所が大変よく出来上がっているのだそうである。それは自分の情緒に触れない説明であるから、たとい肯がった所で、「夢殿」に対する愛執の度を增減する訳に行かないが、ついでだから、自分がかねて日本古来の仏像だの仏画だのについて觀察した新らしいと思う点を參考に述べたい。 彫像でも画像でも宗教がかった意味を帯びた日本支那の作品に、古来から好男子のいないのは争うべからざる事実のように思われる。中にも寒山拾得だの五百羅漢だのその他色々むずかしい名の付いた仙人になると、男振は甚しく振わない。我々は因習の結果そこに一種の仙気があると認めているらしいが、よく考えると、いやしくも崇高とか超脱とかいう出世間的の偉力を有した精神上の德が、ほとんど畸形と評してもしかるべき下品な容貌によって代表されようとは決して受取れないのである。眼付なり顏だちなりが陋(いや)しくなればなる程、外部に現われた人格もまたその陋しい眼鼻だちに正比例した下劣な調子を反映しなければならないのが常識に適った見解で、また哲理に戾らない断定である。して見ると、我々が平生博物館や宝物展覽会で目擊するあの異形の怪物は、彼等が骨董的な相貌を有すれば有するだけ、彼等の偉大なる精神を表現せんとする画家なり彫刻家に取って不便を与えることになる。そこに気が付くべき筈の芸術家が、何を苦んでこの不利益な地位に陥(おちし)いれられながら、依然として平凡を奇怪の方面に超越した変な頭や口ばかり作っていたか。これは相当の思索を費やして解決してしかるべき問題である。ただ習慣といっただけでは自分の腑に落ちない。 自分の考によると、希臘(ギリシャ)の神の像は、その名前の神であるに拘わらず、実はことごとく人間の像なのである。もっと適切にいうと、希臘人は神を彼等同等の人間に引き下した所を像にしたのではなかろうかと思うのである。だから彼等の遺した神像はみな立派である。立派というのは人間として立派なのである。容貌といい体格といい、ことごとく人間として有し得らるる最高度の立派さを示現しているものばかりである。従って我々はその前に立って、神の代表者たる最も完全な人間を見るのである。もくは最も完全な人間を通じて神を見るのである。ところが日本の仏像は全く反対の遣口に出ている。神を具体化するために、神を人間の程度まで引き下げた希臘人に反して、我々は人間以上の仏を、人間の眼鼻を借りて存在させようとつとめたのである。だから眼といい鼻といい、大きいの小いのといったところで、実はほんの借物に過ぎない。方便として眼鼻を使いこそすれ、目的はそれらの奧にある無形のある物である。既に服や鼻や口が取次所であって、代表者でない以上は、容貌そのものが、人間らしい色気なり欲気なり、歩いは勇気なり思慮なりを、人間の程度で現わしていては、仏を人間らしくするには都合が好いかも知れないが、人間を仏らしくするためにはかえって邪魔になるだけである。その不純な感じを頭から拔き去る必要から、彼等は人間離れのした不可思議な容貌を骨董の如くわざと具えているのではなかろうか。 ではこの奇怪な容貌を通じて仏の魂がどうして輝き得るか。それが芸術家の靈腕というのだろう。自分はかつて写真版の古仏像を見たことがある。その像にあらわれた顔は今でも電車のうちで見ることのできる普通な顏である。けれども何ら他奇なきその眼鼻立の奥から、如何に人間を超越した気高い光が射したかは、忘れようとしても忘れられない記憶の一つである。この平凡な顏は実に無限の常寂と、絶対の平和と、無量の沈着と莊巌とをもって自分に臨んだのである。 この無名の芸術家は決して一時の出来心からこんな像を刻んで見ようとしたのではなかろうと思う。安田君も徒らな料簡で「夢殿」などというむずかしい画題を択んだのではあるまい。けれども既に人間としてそれほど嘆賞に価しない彼等の仏教的容貌の裏面に、形而上の仏教的なある物がどこにも陽炎っていないとすれば、君の画は失敗じゃなかろうか。(文展と芸術 9) 安田靫彦は、現在でも評価の高い日本画家です。日本橋の料亭の息子として生まれ、小堀鞆音の門に入り、紫紅会を結成します。漱石が、この展示会を訪れた時には、まだ20代でした。文展を中心に活躍し、昭和23年には文化勲章を得ています。 ただ、漱石は靫彦の「夢殿」を失敗作ではないかと思っています。そのために、西洋の神像を例に出して、日本と西欧の神に対する違いを語りますが、この作品がなぜ失敗作であるかについては言及していません。
2022.04.18
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木島桜谷氏は去年津山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持の悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点においては決してあの鹿に劣るまいと思う。屛風に月と竹とそれから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうといっている。竹は夜でしょうといっている。ところが動物はいえ昼間ですと答えている。とにかく屛風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。(文展と芸術 8) 鹿の絵とは木島桜谷「草葉の山」です。桜谷は京都生まれで、文展審査員の今尾景年に支持していたからかどうか、賞の常連でした。「寒月」は雪の竹林に半月が浮かんでいる絵で、雪の上に鋭い目をした狐が親切に足跡を残しています。そんなに悪い絵とは思われないのですが・・・。 次の室で感じの好い枇杷だの百日紅だのを見た後、とうとう審査員連の顏を並べている第十二室に出た。するとそこに茄子の葉を丁寧に几帳面にかつのべたらに描いた屛風があつた。自分はその前に立つて、これは何の趣意だろうと考えた。もっとも茄子そのものは捥(もぎ)って漬物にしても恥かしくないような好い色をしていたには違ない。今尾景年君の鯉もその近所に躍っていた。鯉は食うのも見るのも余り好かない自分である。ことにこの躍り方に至ってははなはだ好かないのである。それで山元春挙君は鯉の代りに鮎の泳いでいる所を描いてくれた。成程鮎は正しく泳いでいる。その上岩も水も大袈裟に惜気く描かれている。けれどもこう大きく描く興味はどこから出て来たのだろう。商店で賴まれた広告絵じゃないでしょうかと友人は自分に語った。(文展と芸術 8) 京都生まれの吉岡華堂「枇杷、百日紅、芭蕉、南京瓜」、長野生まれの菊池契月「茄子」、京都生まれで京都府画学校で教鞭をとっていた今尾景年「躍鯉図」、滋賀生まれの山元春挙「嵐峡」と続きます。友人(=寺田寅彦)が「商店で賴まれた広告絵」と感じたのは、春挙が写真術を学んでいたからでしょうか。ただ、嵐山をあまり人が描かない角度から描いた絵で、広告には向かないとも思います。 広業大観二氏は両方とも瀟湘八景を見せていた。二人が隣り合せに同じ八景を並べているのは、八景好(よ)いやという洒落の樣にも見える、が実際両方を觀て行くと、まるで比較にも何にもならない無関係の画であつた。広業君のは細い筆で念入りに真面目に描いてあった。ことに洞庭の名月というのには、細かい鱗のような波を根限(こんかぎ)り並べ尽くして仕舞った。この子供のような大人のする丹念さが、君の絵に一種重厚の気を添えている。自分はさっき茄子の葉を見て、多少御苦労のような感じを起した。しかしこの波に対したときは、よく倦まずにこれだけの結果を画面に与えられたものだと敬服した。実際この波は馬鹿気て器械的に描かれていながら、眼界を非常に大きくする效果をもっている。それだから子供のように働らきのない仕事でありながら、遂に貴重な努力になり終せるのである。もっともそれが色彩と相待って始めて達し得られた結果であることはいうまでもない。(文展と芸術 8) 次は寺崎広業と横山大観の「瀟湘八景」です。画題は洞庭湖と流入する瀟水と湘江の合流する瀟湘を題材としたもので、中国山水画として風光明媚な水郷地帯として知られています。ただ、この画は、広業が瀟湘八景のうち5枚を、大観は全8枚を出品しています。この競作は当時話題を呼びました。「大正日報」10月17日号は「見物の一人は曰く、いずれにも団扇を揚げ兼ぬるゆえ、八景残った残ったというべし」と、漱石同様にダジャレを伝えています。 自分は広業君の波を賞めた。けれどもこういう意味を帯びた仕事は、支那人が既に追っていやしないかという疑がある。そこへ行くと広業君の画は大観君に比べて個性がそれ程著るしく出ていないように思われる。歷史的に画を研究したことのない自分ではあるが、大観君の八景を見ると、この八景はどうしても明治の画家横山大観に特有な八景であるという感じが出てくる。しかもそれが強いて特色を出そうと力めた痕迹なしに、君の芸術的生活の進化発展する一節として、自然に生れたように見える。この間表装展覧会の時に観た君の画は、皆新らしかった。けれども何か新らしいものを描かなければ申し訳がないと力味抜いた結果、やけに暗中に飛躍して、性情から湧いて出る感興もないのに筆を下したと思われるものが多かった。この八景はあんなものから見ると活きている。横山大観君になっている。それを説明すると暇が要るが、一言でいうと、君の絵には気の利いたような間の抜けたような趣があって、大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粹(ぶいき)な無頓着な所も具えている。君の絵に見る脱俗の気は高士禅僧のそれと違って、もつと平民的に呑気なものである。八景のうちにある雁はまるで揚羽の鶴のように無恰好ではないか。そうしてそれが平気でいくつでも蚊のように飛んでてるではないか。そうして雲だか陸だか分らない上の方に無雜作に並んでいるではないか。仰向いてそれを見ているものが、またいかにも屈託がなさそうではないか。同時に雨に濡れた修竹の様や霧の晴れかかった山駅の景色などは、如何にも巧みな筆を使って手際を見せているではないか。――好嫌は別として、自分は大観君の画についてこれだけのことがいいたいのである。舟に乗って月を観ている男が、厭に反っくり返って、我こそ月を観ているといわぬばかりの妙な感じを自分に与えたこともついでだから君に告げて置きたい。(文展と芸術 8) 広業と大観は、明治43年6月に、山岡米華を加えた3人で1か月の中国旅行をしており、その時に心を留めたものを描いたものでしょう。ただ、漱石の解説にあるように、広業は従来の中国画にある横長で、大観は縦の形で描いたものです。漱石は、この年の7月13日の日記に「臨風大観二人に招かれて伊予紋に行く」と書いていますから、この絵の情報を仕入れていたのかもれません。
2022.04.16
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第五室に入ったら、山水の景色が横に長く続いている途中から拳骨のような白いものが斜に突き出していた。友人があれは雲でしょうかと聞いた。自分はもしそれが雲でないとしたら何だろうと考えて見たが、ついに想像も及ばなかった。その隣りに栗鼠が葡萄の幹を渡っていた。この栗鼠の眼は甚だ複雜である。下りようとしておるでもなく、留まろうとしているでもなく、そうかといって、何を考えているでもないが、決して唯の眼ではない。自分はこの眼の表情を一口でいい終せた人に二等賞を捧げたい。次には木の股に鳥がたくさんいた。感心なことにいずれも烏らしい様子をしていた。次には象がいて、見付があって、富士山があった。山王祭の絵だそうである。それから屛風に稲の穗が一面に描いてあった。この稲の穗の数を知っているものは天下に一人もあるまいと思った。(文展と芸術 7) 雲の絵は、群馬生まれの小室翠雲「四時佳興」、リスの絵は長崎生まれの荒木十畝「葡萄」です。リスの目の意味がわかった人に二等を差し上げたいというのは、文展が一等を出さずに等ばかりを出しているという漱石の皮肉です。鳥の絵は長野生まれの池上秀畝「梢の秋」、山王祭の絵は江戸京橋生まれの尾形月耕「山王祭図」、稲の絵は東京神田生まれの芝景川「稲の波」です。 六室は面白かった。先ず第一に天孫の降臨があった。天孫だけあって大変幅を取っていた。出来得べくんば、淺草の花屋敷か谷中の団子坂へ降臨させたいと思った。筋向うに昔の男が四五人立っていた。この方が余程人間に近かった。「甲(よろ)うたる馬」というのは、とても乗れる馬ではないから引っ張っているのだろうが、引っ張っている所を見るだけで好いのである。この馬は紙を切って張り付けたと同じ恰好で、三角形の趣を具えた上へ、思い切った色彩を施した、奇拔なものである。乘れなくても飾っておけばよろしい。馬の主は素明君であった。素明君の通りを横丁へ出ると、大きな松に蔦が絡んで、熊笹のたくさん茂った、美くしい感じのする所が平田松堂君の地面であった。自分は友人と第七室に入った。(文展と芸術 7) 天孫降臨の絵は新潟生まれの尾竹竹坡「天孫降臨」、シコ人の男が立っている絵は北海道生まれの北上峻山「犠牲」、馬の絵は漱石と旧知の東京本所生まれの結城素明「甲ふたる馬」です。素明は子規や漱石と、浅井忠を通じて知り合い、漱石は素明の絵に賛を入れたこともあります。松に蔦の絵は東京生まれの平田松堂「木々の秋」です。 たちまち大きな桐の葉を白い雨が凄まじく叩いている大胆な光景を見た。その陰に雀がぎゅうぎゅう一列に並んで雨を避けている。ただし飛んでいるのもある。しかし飛んでいるのは雀じゃなかろう、大方雀の紋だろうという人もあった。自分は明治の書生広江霞舟君が桃山式の向うを張って描き上げたようなこの「白い雨」を愉快に眺めた。その隣にある「鵜船」もまたすこぶる振ったものである。船が平気な顏をして上下一列に並んでいる。煉瓦を積んだような波がその間を埋めている。塀の中に船を詰め込んで、橫から眺めたらこのくらい雅に見えるかも知れない。(文展と芸術 7) 桐の葉に打ちつける雨の絵は、京都生まれの広江霞舟「白い雨」、「鵜船」は福岡・博多生まれの冨田渓仙のものです。 次の室の一番初めには二枚折の屛風があった。その屛風はべた一面枝だらけで、枝はまたべた一面鳥だらけであつた。それが面白かった。そこを少し行くと美くしい女がたくさんいた。その女はみんな德川時代の女らしかった。そうして池田蕉園という明治の女によって描かれたことを申し合せたように滿足しているらしく見えた。その前には天女が飛田周山君のために彼女一代の歷史を横に長く開展している。彼女の歷史は花やかといわんよりはむしろ寂びていた。彼女の左右前後にある草や木や水は鮮やかにかつ渋く染められていた。そうして至極真面目に裏表なく栄えたり枯れたりした。この天女の一軒置いて隣りには、尾竹国觀先生がしゃもを蹴合わせていた。先生は新聞に堂々と署名して、文展の繪を頭ごなしに誰彼の容赦なく攻擊する人である。自分は先生の男らしいこの態度に感服するものである。だから先生のしゃもに対しても出来得る限りの敬意を表したい考えでいる。(文展と芸術 7) 鳥だらけの絵は京都生まれの佐野一星「ゆきぞら」、美人画を得意とする東京神田生まれの池田蕉園「ひともしごろ」、天女の絵は茨城生まれの飛田周山「天女の巻」、闘鶏の絵は新潟生まれの尾竹国観「勝鬨」でした。 第九室に入って不可思議なものを見た。何でも水の上に船が浮いていて、空から雪のようなものが、ポツポツ落ちて来る所じゃないかと思う。題には「豊兆」とあつた。題も謎になっているのだろう。今村紫紅君の「近江八景」もここに並んでいた。これは大正の近江八景として後世に伝わるかどうかは疑問であるが、とにかくこれまでの近江八景ではないようである。だから人が珍らしがるのだろう。が、それはああでもないこうでもないが嵩じて後のことと思わなければならない。狩野にも四傑にもないし美術院派にも煩わされない、全く初心(うぶ)の鑑賞家を伴れてきて、昔の八景とこの八景とどっちが好いと聞いたら、その男は存外昔の方を択むかも知れない。自分は今村君の苦心と努力を尊敬するから特にこういう要らざる皮肉をいうのである。色彩の点になるとはなはだ新らしいようではあるが、何だか自分の性に合わない。(文展と芸術 7) 浮いているような船の絵は、京都生まれの都路華香「豊兆」、横浜生まれの今村紫紅「近江八景」です。紫紅は紅児会のリーダー格で、35歳で夭折していますが、今までの人物の中ではよく知られています。
2022.04.14
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会場を這入ってすぐ右にある広い室を覗くと、大きな画ばかり並んでいた。そのうちに「南海の竹」と題した金屛風があつた。南海か東海かはもとより自分の関係する所ではないが、その悪毒(あくど)い彩色は少なからず自分の神経を刺激した。竹といい筍といい、筍の皮といい、ことごとく一種の田臭を放って、観る者を悩ませているように思われた。自分はこの間表慶館で、猫児と雀をあしらった雅邦の竹を見た。このむらだらけに御白粉を濃く塗った田舍女の顏に比較すべき竹の前に立った時、自分は思わず好い対照としてすっきりと気品高く出来上がった雅邦のそれを思い出した。この竹の向側には琉球の王樣がいた。その侍女は数からいうと五六人もあったろうが、いずれも御さんどんであった。その橫には春の山と春の水が、非常に大きく写されていた。自分はその大きさに感心した。(文展と芸術 6) これらは、日本画第一科の展示です。 田南岳璋筆「六曲屛風一双」、山口瑞雨筆「琉球藩王図」、田中頼章「水郭の春」について記しています。「六曲屛風一双」については、ケバケバしくて田舎臭い画だと酷評しています。漱石は、以前に表慶館で鑑賞した橋本雅邦筆「竹林猫図」の清々しさとはまったく異なる画風の絵に嫌悪感を覚えたのでした。岳璋は三重生まれの日本画家で、日本美術協会展で賞を得ています。「琉球藩王図」も同様に田舎臭いものでした。瑞雨は栃木生まれの日本画家で、やはり日本美術協会会員です。大きさに驚いたのは田中頼章「水郭の春」で、三等賞。頼章は真似生まれの日本画家で、日本美術協会展や文展で賞を得ています。 次の室には綺麗な牡丹があった。御公卿様が大勢いた。三国誌の插画にあるような男も二人ばかりいた。それから白楽天と鳥巣和尚が問答をしていた。(文展と芸術 6) 第二室には牡丹を描いた石河有鄰「春庭香艶」、お公家様が集った磯田長秋「宴」、三国志に出てくるような画は池上秀畝筆「朔北」、白楽天と鳥窠和尚が対話をしている画は今井爽邦「汝が居所却て危しがありましたが、興味がなさそうです。有鄰は名古屋出身の日本画家、長秋は東京生まれで、この絵は褒状を得ています。秀畝は名古屋生まれで文展でしばしば受賞し、帝展委員をつとめたこともあります。爽邦は新潟生まれです。 その次の室の入口に近い所で「平遠」というのに出合った。芭蕉があって、鶴がいて、丸窓の中に赤い着物を着た人がいた。そうして遠くの方の樹や土手や水が、如何にもあっさりと遠くに見えた。自分はこれが欲しいと思った。目録を調べると、田近竹邨という人の描いたもので価は五百円と断ってあった。それで買うのはやめた。この隣りに「火牛」がいた。名前は火牛だけれども、実は水牛である。もし水牛でなければ河馬である。実に恐るべく驚ろくべき動物である。そのあるものは鼻を逆さまにして変な表情を逞しうしていた。向う側には烏と鷺が松の木に留っていた。もっとも鷺のあるものは飛んでいた。しかし両方とも生活に疲れていた。そうして羽根の色が好くなかった。曲り角には大きな真黒な松が生えていた。この松には風も滅多に触ることが出来ない。蟬などはとてもく寄り付けた訳のものではない。(文展と芸術 6) 第三室では田近竹邨「平遠」が気に入りました。しかし、500円と高いので買うのを諦めます。牛を描いているのは津端道彦「火牛」で二等賞を得ました。烏と鷺の画は望月金鳳「松上烏鷺図」で審査委員出品、曲がり角にあったのは益頭峻南「玄雲・地」です。竹邨は京都生まれで、文展では第2回から連続受賞しています。道彦は新潟生まれで、こちらも文展で第2回から連続受賞しています。金鳳は大阪生まれの四条派画家で急派の重鎮です。峻南は幕府役人で、フランス語の通訳でもあった変わり種の日本画家で、第2回から審査委員をつとめています。
2022.04.12
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