土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.07.20
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カテゴリ: 正岡子規
 互いに腹を割って話し合えることから起こる諍いも、いよいよ子規の病状が重く鳴ると、その諍いが輪をかけて酷くなりました。そこで鳴雪は、病床には近づかないようにしています。
 まだ何かあるかも知れぬが、もう子規氏の終焉の話しに移ろう。前にもいった如く、病床ながら、俳句のみならず、和歌にも写生文にも、昼夜研究と鼓吹とに努めた末が、結核性の病毒は脊髄病となって、臀(しり)には穴が明いて、そこからも排泄物もするという次第で、いよいよ苦痛が加わるとともに、堪らぬ時は号泣する、この号泣するのが、苦痛をまぎらすことになるといって、周囲を憚らず、子供らしい泣声を発したが、これも氏の特色が現われている。それから重症となってからは、碧虚二氏は勿論、鼠骨、義郎、秀真の諸氏なども、昼夜輪番に身辺に詰めて、母氏妹氏とともに心を尽して看護した。そこで私だが、俳句こそ子規氏に啓発されて多少の趣味を解し、段々と俳句の大家顔もすることになったが、ありようは感情よりも理性を尚び、智識欲の深い人間だけに、どうかすると子規氏と意見の合わぬこともある。また趣味の上にも氏の斬新を好むに反し、古典的に傾く癖もあるので、時々氏と衝突を起す、そうして氏もなかなか熱心に弁ずるが私も負けぬ気で弁ずる、これは従来珍らしくもない、事実であったが、氏が病苦の増し気短くなるとともに一層この衝突を起しやすい。そこで私も気付く所があって、陰では氏の病状を気遣うけれども、碧、虚諸氏などの如く日々近寄ることをやめた。また子規氏が希望で母刀自や叔父の加藤恒忠氏の忠告するにもかかわらず、沼津の海岸へ病躯を転地せんといい張った時も、私はそれでは俄に医師の救護を得るにも不便だからといって、氏に益々機嫌を損う事にもなったが、氏といい私といい、その親みは、最初の監督者と被監督者とがあべこべに俳句を教えてもらったその時より何も変りはないのである。ちょうどその頃氏は着色の絵を描く事を始めたので、私は密かに形見を貰う心持ちで、何か描いてくれといって、書画帖を送った。氏はそれに芍薬の画と俳句二つを認めた。そうして氏もこれを形見にするというようなことを書き添えている。そうこうしているうちに卅五年の九月十八日であった。氏がいよいよ悪いとの報知があったので駆け付けると、もう息が絶えていた。実は傍に附いている母妹及虚子氏さえも臨終には気がつかなかったという位で、つまり最近に苦んだ痰が喉につまったのが致死の原因となったのである。一両日前の句に「痰のつまりし仏かな」が讖しんをなしたのである。それから一同大騒ぎで、親族も知友も庵に集って、後事の営みにかかったのだが、子規氏の遺志では余りに諸方へ報知する事などは月並として厭うだろうというので、新聞の広告は勿論その他にも広く報知をせなかった。そうして、埋葬地はどこらがよかろうかと、詮鑿したが、普通の寺院の墓地よりも律院の墓地が清潔で、子供の襁褓むつきを干す梵妻も居まいからというので、終に田端の大龍寺を卜した。これは私と碧梧桐氏がまず行って、見分したのであった。それから埋葬の日は余り世間へ知らせなかったにもかかわらず、葬会者はなかなか多く葬列も長く引続いて、この人だけの名誉ある終りを飾った。その後墓石の文字は陸羯南氏が書いた。この羯南氏は隣家に住んでいたが、永年特に懇情を尽して万事に注意するし、日本新聞関係としても、病苦で筆を執らなくなったにかかわらず、以前の如く報酬等を交附して、前後共に非常の好誼を寄せられたことである。 (内藤鳴雪 鳴雪自叙伝 19)
 子規がこの世を去って5年後の明治40年に「中央公論」が「正岡子規論」を特集しました。その中に鳴雪は『正岡子規の人物』という文を挙げています。子規に対して客観的に論じたこの文は、門人たちの文とは一味違ったものになっています。
 御承知の如く子規と私とはもと元同郷のものであって、彼の書生の時分から直接していたものでありますから、私の子規に対する観察は自然他の大方の諸君の御観察とも違う点があろうかと思う。しかし諺にも灯台元暗しということがあるから、私は子規と近いだけそれだけかえって子規の人物について知り得べきことを知らぬ点もあろうし、またそれと同時に私のみが知っているという点も、あるいはあろうかと思う。
 先ず大体に申せば子規の人物は一面には非常に小心にして細かく気が附いて、些かのことにも神経を煩わすという風があり、他の一面は非常に大胆にして周囲の人を物の数ともせず、進んでは古今にわたって眼中に人なしという意気を持っていた。この二つが合してあのような子規を成就したというてもよかろうと思う。細心であったから調査することは何事によらず、細かに調査してかりそめなことをせず、充分に突き止めてから口を開くという風であった。また大胆にして人を人とも思はなかったから古人の糟粕を嘗めず、常に新意見を持ち出して一種の逹見を世に示すということにも至ったのである。即ち明治の俳句を唱え出して今日の盛況に至らしめたのも全くそれがためである。しかし他
の一面の弊としては人を容れるという披は乏しくて、どこまでも我意見で通してしまうという風であったからその俳句の上につても皆吾旗下に打ち靡けてしまわねば置かんというので、一歩たりとも譲歩して人とともに並んで遣って行こうという考はなかった。けれども幸にも時が恰度彼と並ぶべき英雄という程の者を出さず、雨雄並ぴ立たずということがなく、子規独りその成功をほしいままにすることが出来たのである。もし他に子規と同じくらいのものがあったなら、必ずや火花を散らして戦ったであろうと思う。その証拠は、今人には彼の相手とする程のものがなかったが、古人には誰にでも喰ってかかった。芭蕉などの如きも一時随分子規に軽蔑的批評を蒙ったことがあった。蕪村のみは彼の悪評を比較的免れたが、これは蕪村の非凡の天才に我を折る所があったからであろう。が、また人を攻撃すると同時に人の長所をも見別けることが出来た。長所を没して単に攻撃ばかりすることはせなかった。長所は長所として短所に向て攻撃した。だから吾々は彼の批評を不公平とは見なかったがただ攻撃が少し苛酷に過ぎたと思うことはあった。
 また彼の人物について目立ったことは、彼は前申した通り人を皆我旗下に靡けたならばその人々に師匠として臨み、門弟として扱ったかというに些かもそんな風がない、極く初学のものを初めとしてことごとく友人扱いで、応接は元より、一切の談論も全く同等を以てして何時も師匠顔をしたことがなく、従ってその人々も弟子というように思わず、師匠師匠などといったものは一人もなかったようである。これが一寸彼の変った所である。しかしかくの如き態度を取ったのは個人と個人との交際上である。いやしくも斯道の是非得失に至ては一歩も假さず、飽くまで論弁し、これを屈服せねば承知せなかった。私などは郷里の先輩であるから常に交際上は尊敬を加えていたけれども、いやしくも斯道の意見の衝突となっては最早や一歩も假さず、果ては篤詈にあったこともあるくらいである。
 ただ子規の人物をお話するといえば右の如くにとどまるが、子規が明治俳句の頭領になるということは最初の目的ではなかったように思う。常に私は彼に直接していたからよく知っているが、彼が未だ大学の籍にいた頃は哲学と文学というこの二つを研究する目的であった。それが中途病気にかかって精力の充分に続かざるべきを悟ったのでついに文学のみとし、文学の中でもまた世間一般にうち捨てて置いて気がつかず、芭蕉、蕪村以来荒廃していたものを振興させたのである。しかしこれも初めから確たる目的があったというよりは、だんだんことに当たって研究してここに至ったものと思われる。
 しかし晩年ながら余力にはなお和歌の一途にも手を着け、また写生文も創め、また小説などにもいくらか筆をもてあそ弄んだことがある。これらは天年を假さずして俳句の如く世間に勢力をあらわさずに終ったが、これも今少し病体の存続を得たなら世間にも大いに位地を得るようになっただろうと彼の人物の上から信ずるのである。なお人物に屈したことをいえば世間の普通の事柄にも常の学者とは違って余り迂遠な方ではなかった。交際上の昔信贈答などもよく届いていた。これらは全く世間の俗礼を守った。
 家計は至て貧窮な方で別に家産もなかったから、ただいささかの家緑の変じた公債証書を使て学資となし、やや成立して後日本新聞社その他の文事に屈する報酬などで衣食を営み、一人の母と妹と三人で下女一人も使わず極めて質素な生活をして、それで病を養い薬を飲んでいたのである。この点は今少し余裕を与えて気楽にしてやりたいと傍観者も思うたけれども、その傍観者も私初め質乏人で如何ともすることができなかった。病の激烈なるに充分の療養も出来なかったにかかわらず、あれだけに生命を保ち、今わの際まであれだけ筆を揮うたのは全く精紳力の非常に強かったためである。この点からいえばたしかに一豪傑と申してよろしからろうと思う。
 今一つ彼の人物に関することをいえば、理想上においては別に高い理想を持っていなかった。文学上の理想もあながち哲学的の考を有している訳でなく、ただ日常眼前の美的趣味を歌うというだけで、人生観も人間観以上はなかった。それゆえ名誉ということは子規の念頭をはなれぬ所で、飽くまでも人に傑れた名誉を持とうという考であった。しかし決して一世または現世的の名巻ではなく、長く後世まで知己を待つという考であった。そこに至ると高い理想がなかったにかかわらず、また一個の大人物といってよかろう。今に至るまで我々の仲間では子規を慕い、飽くまでも尊敬をしている訳であるが、それは如何なる点についてであるかというに、やさしく親切に教をしてもらったという春風の如き感じよりは、あくまでも堅忍不抜の精紳で斯道に当ては一歩も假さず熱心にその信ずる所を教えるという烈日の如き気象に畏服していたという点にあるように思う。これがまた普通の師弟間と変った趣のある所であると思う。
 終りに今一つ言うて置くのはこの如き子規その人の業務を成就することに与かって大いに力あった人は前日本新聞社主の陸羯南氏である。このことに関しては私は既に他で度々いうておるからはただこの一言にやめることとします。 (正岡子規の人物)





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最終更新日  2021.07.20 19:00:06
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