土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.07.28
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カテゴリ: 正岡子規
かち栗もごまめも君を祝ひけり  明治34年
 小説『土』や短歌で知られる長塚節は、子規の門人です。
「貫之は下手な歌詠みにて古今集はくだらぬ集に有之候」で始まる『歌よみに与ふる書』に共感した節は、明治三十三(一九〇〇)年三月二十七日、子規庵を訪れますが、門前に人力車があったため、来客の邪魔をしてはならないとそのまま帰り、三十日の午前中、客の来ないうちに再び子規を訪ねました。
 子規は、節が持参した季節はずれの丹波栗二升の土産に、「どのように保存するのか」と聞いたと『竹の里人』に描写されています。節がこの日に詠んだ歌は、四月二日の「日本」紙上に登場しました。節は、出来の悪さを恥じつつも喜んだといいます。
 長塚節の実家は下総国岡田郡(現茨城県結城郡)国生村で田畑二十七町、山林四十町歩という大地主で、栗の季節になると子規に栗を送りました。
 この年の九月二十七日、子規は長塚節宛てに「 君がくれた栗だと思うとうまいよ 」という礼状を送っています。『仰臥漫録』には「 長塚の使、栗を持ち来る。手紙にいう、今年の栗は虫つきて出来わろし。俚諺に栗わろければその年は豊作なりと。果して然り云々。栗の袋の中より将棋の駒一ツ出ず (明治三十四年九月九日)」とあります。
 子規に届いた栗は、その日の朝に栗小豆飯三椀、昼は栗飯の粥四椀、夕は煮栗となり、子規は一日中栗を食べています。そして、「 栗飯や糸瓜の花の黄なるあり 」「 主病む糸瓜の宿や栗の飯 」「 栗飯の四椀と書きし日記かな 」「栗出来ぬ年は五穀豊穣なりとかや」「 真心の虫喰ひ栗をもらひけり 」の句を詠んでいます。
 節は、明治三十四年一月に雉、二月と九月に田雀、四月に木の芽、五月に茱萸、八月に梅羊羹、九月に栗と鴫、十二月に蜂屋柿、菓子、三十五年二月に兎、三月に金山寺味噌、四月に兎や醤など、六月に桑の実、七月にやまべと茱萸、八月に大和芋と、さまざまな山と里の幸を子規に送っています。
 子規と節の親密さを見ていた伊藤左千夫は、『正岡子規君(※回想の子規)』で「 先生には一人の愛子がいた。……その関係というものが、その交りの親密さというのがどうしても親子としか思われない点から、予は理想的に先生の愛子じゃと云うた訳である。……先生と長塚との間柄は親子としては余りに理想的で、師弟としては余りに情的である 」と記しています。
 子規が死を迎えた日、節は子規に栗を送ろうとしていました。「 九月十九日、正岡先生の訃いたる、この日栗拾ひなどしてありければ 」との詞書きで「 ささぐべき栗のここだも掻きあつめ吾はせしかど人ぞいまさぬ 」を含む三首の歌を詠んでいます。
 例年のように、栗を子規に送ろうと山に入って急いでかき集めた栗でしたが、子規はもうこの世の人ではなくなってしまったのです。節は、やり場のない悲しさを栗の歌に託したのでした。





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最終更新日  2022.07.28 19:00:07
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