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藤野古白は、本名を藤野潔といい、子規の4歳下になる従弟です。古白の母・十重は子規の母・八重の妹で、古白が満7歳の時に亡くなりました。わがまま放題に育っていた古白は、父が母・十重の後に後添いを迎えたこともあり、もともと過敏だった神経がさらに歪んでいきます。 古白の父・漸は松山藩の上級藩士で、旧藩主だった久松家の要人をつとめており、明治13年に上京しています。 明治16(1883)年に上京した子規は、藤野家に寄寓していますが、家族の頼みで古白とともに須田塾の寄宿舎に入ったこともあります。しかし、古白は他の塾生とのケンカが絶えず、監督役の子規はずいぶん苦労させられました。 明治22(1889)年の9月20日頃、古白は帰省していた子規に手紙を送っています。この手紙には、「候江戸も」といった同じ言葉の繰り返しや、松山にいる子規に前年の夏にいた向島の住居に行くと伝えたり、俳句の季語が重なり、しかも季節がめちゃくちゃとなっていて、病の進行が進んでいることを示しています。 追々秋涼相催候処貴所如何に御くらし被成候や。拙生儀この間より、おこりにとりつかれおり候ところ、未だ落ち着き致さず、床の上につくばりおり候。病中、発句を稽古致しおり候えども、未だ気に入った句一も得ず、残念に存じおり候えども、せんかたもなく候。早く病気全快致せば向島へ参る心願に御座候えども、それまでには花も散り候ことと存じ候。床の中の吟少々御めにかけ申し候。 八月や月になる夜をねてしまひ 水底にがいこつもありすみた川 木枯や渋柿ひろふ僧の顔 鶯のねぐら探さん春の月 そのほかこれなき候。日々くらしかねてくらしおり候。松山も今頃は大方時候もよろしくと存じ候えども、御養生御大事に候。筆をとることも大儀にこれあり候えば、余はいずれ後便。 この年の10月4日、古白はさらに手紙を子規のもとに送ります。支離滅裂の文章と俳句です。 はい、病の義は、私なんぼでも引き受るかくごにて、ぶどう酒も買来り候。もうもう金もうけばかりに御かかり被為候べくと存じ候。 常規様 ほととぎす血をはききった秋のくれ 精神病の兆候を現わした古白は、この年の11月8日に巣鴨病院に入院しました。11月10日、子規は巣鴨病院に入院している古白を見舞いました。見かけに異常は見られませんが、担当の医師は回復すると太鼓判を押しました。その時の様子を叔父の大原恒徳に送ったのが、以下の手紙です。 拝答仕候。今日午後一時より出掛け、病院へ到着の節は二時頃なりき、煎餅とお多福の菓子を十銭ばかり買い持ち行き、それは二人で大方平らげ申候。御容体は見掛けには格別相違無御座候。ただ何となくふさぎて愁傷の体に候。私病室へはいり候節も格別驚きもなされず、また喜びのさまも見え不申、ただフンといったような姿に御坐候。右有様故、別に御自分よりこれという御話も無之、こちらより問えば簡単に答えられ候位に候。菊のことは半分忘却し、半分は植木屋にも行き当らざる故、持ち行き不申候。「実は菊を持てこんと思いしが志をはたさず」云々と話候えども、菊も何にもいらぬと被仰、ただふさぎいらるるばかりなりしが、帰途の際何か御入用のものありやといえば、菊の花もほしく、如何にもこの部屋はは殺風景なり」など被答候。端書は全く忘却したれば、この段御容恕相願候。看護人へは三十銭だけ折を見合せやり候えば、大変に有がたがり。それから私は兄弟なるやなど尋ね。ついで昨夜已来の容体を話くれ候。その話によれば、昨夜は一時頃まで御眠無之候故、薬を飲ませ、それがため五時頃まで御睡眠の様子に御座候。飯はと問えば一杯がやっとのこととの話也。かつ「夜間でも室外へ出るようなこと、繁くて困り入りたり。昼でも始終表へ出て困る。あなたが御出になってから静かに坐していられる也」云々と、看護人より話し申候。また「早く迎えに来らねば困る。何となれば、迎えに来なければ外出を許さぬ故也。早く麻布へ帰りたし。内には皆無事なるや」など被仰候故、「御内にはもと無事なり。しかしこの内が静かでよし。また余り夜間に室外に出るようなことがあっては、医者がなお外出を許さぬ故、静かにしられたし」などいいたり。 話の間は、代るがわる謡曲を歌い、あるいは発句連歌の類などしたり。何をいうても始終ふさぎ勝なりしが、一度私が、君は鶯ならんと思いて『鶯も鴨の巣にすむ秋の暮』と書きければ直様『余非鳥』と書かれて、何か最少し書かんとせられしが、何も出ぬこれぎりなりとて筆をさしおかれける故、私が直に『不可飛』とつづけて書きければ、覚えず失笑せられたり。笑声を聞きしは、これを最始及び最終とす。 運動時間は正午後より一時半頃までの由にて私訪問の時はすでにすみたり。その間は運動場のぐるりを幾度も散歩せられ候よし、今日は折もよし、島村氏の回診ありたり。しかし別に変りし様子もなし。私は室外において同氏に面会したしといえば、診察すみて後あわんという故、四時頃まで待ちいたり。折から薬を持ち参れり。「どうも薬をあがらいで困る」と看護人よりいいし故、服薬被成様すすめ置き候。また牛乳を持ち来りたるに、私に向い飲むべきや否やを問われ候故、勿論飲む方然るべしといいたり。その心中を察するに、疑心を抱かるるが如し。そのうち飯をくうに至り、一杯にてよしといわれ候故、もうその上はくえずやと問えば、食えば食えるといわれたり。しからば食いたまえといえば、一二杯食われたり。そのうち島村より通知し来りたれば、別を告げ応接所において島村と談話半時間余、半分は話し、半分は聞きたり。快復の見こみあるや否やといえば、大方快復するべし。しかし外戚に遺伝ありという故如何や」云々といわれたり。果して遺伝有之候哉、私未だ承知せず。もっとも大原御祖父様は左様なことなき様に覚え候が、有之候哉。あればよし、もし無きことならば島村が誤聞故、その旨至急御通知被遊方宜敷と存候。 その外、多少の話あれど紙上不尽委細。余は拝眉之節可申上候。謹言。(明治22年11月10日 大原恒徳宛書簡)
2021.09.12
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子規が松山を離れた後、松風会は月一回の例会では飽き足らず、随時会員宅に集って、その会稿を子規に送って評価を乞うなどをしていましたが、明治29年頃になると次第に熱を失ってきました。これは、叟柳、梅屋、愛松といった松山尋常高等小学校のメンバーが次第に熱気を失ってきました。 子規の『明治三十年の俳句界』には「地方俳句会の最も古き者を松山の松風会とす。起源数年前に在り。(中略)昨年の上半にありては松風会、百文会、北声会など、威を振いし者漸次に哀え、下半に在りては満月会独りその隆盛なるを見る。しかれども一盛一衰は種々の原因に出ずるものにして、必ずしもその地方の俳句の退歩を示す証拠とは為し難し」と書いています。また『明治三十二年の俳句界』には、「俳社一覧表」のうち、伊予の部に吟風会、無声会を挙げて、松風会については「伊予松風会哀えて出雲碧雲会盛に」とあり、これらからも次第に衰退してきたことがわかります。 しかし、松風会は明治33年に白石南竹らによって再興され、翌年には森田雷死久・村上霽月・仙波花叟らによって復興を果たしました。ただ、大正時代末期には「松山ホトトギス会」の名で活動報告が見え、松風会は、「松山ホトトギス会」に自然に吸収されていったと思われます。 叟柳は、松山尋常高等小学校から松山第三(現八坂)小学校校長、松山第一(現番町)小学校校長を経て、温泉郡視学となって教育家の道を歩み、晩年は松山市学務課長となって、のちに市会議員となりました。 叟柳は、松山から離れず、地方の俳句界で後進の指導にあたりました。阿部里雪の『子規門下の人々』には「叟柳先生は晩年、頭髪中央部が少し薄れてきたし、句会の時には眼鏡をかけて選句をしていたが、教育畑の人だけに穏やかな風貌であり、長老として尊敬され、旬会はいつも皮柳先生を中心として催された。松山の松風会も叟柳先生あっての松風会であり、先生健在なる時は盛んであったが、先生の遠逝とともにその名実は失われてしまい、虚子先生のホトトギス派がこれに代わってしまった」と書かれています。 叟柳は、昭和7年8月18日、69歳でこの世を去りました。
2021.09.10
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再び、子規は病躯となってふるさと松山に帰ってきました。 子規は、漱石の住む愚陀仏庵に逗留します。松風会の面々はそこを訪れ、句作指導を頼みます。8月28日より、松山の俳人たちが療養する子規のもとに集まり、毎晩の句座を催しました。子規の帰郷で松山の俳句熱は、にわかに盛り上がったのです。しかし、9月26日の運座中に子規が鼻血を出したため、句会はしばらく中止となりました。 柳原極堂は『同級生時代より句を学ぶまで』で、次のように記しています。「二十八年の秋、子規君は帰省され……松山二番町の夏目漱石氏の僑寓に投ぜられた。松風会の創立せられたのはこの時で、この際君の薫陶を受けた同人が中心となって、俳句研究の目的のために会を組織したのであった。君は常に六畳の間に蒲団の上に臥したり起きたりしていたが、我々同人は絶えず二三名または五六名……病床をかこんで教えを聴いた者の中もっとも熱心なりしは(大島)梅屋、(野間)叟柳、(中村)愛松、(岡村)三鼠、極堂、漱石などであったが、むしろ弟子よりも先生の方がまだ熱心なくらいで、朝から夜の深更までかわりがわり来る我々を教導されるその懇切といったら、諄々倦むなく到底常人の真似のできることでない。御病体に障るようなことでもあってはと、我々もしばしば一歩退いてみたが、子規君の熱心な顔色を見ると、スグそんなことは打ち忘れてしもうて、元の通りになるのであった」 体調が回復した子規の帰京が近づいた10月8日、ようやく句会が再会されます。10日に内藤鳴雪に当てた手紙には、次のように書かれています。 御端書拝見仕候。爾後御無沙汰恐縮之至に存候。当地着後は毎日毎夜運坐連俳にのみ日を暮し候故、手紙したため候いとまも無之、どこともへ御疎情致候。十四五日許り前、鼻血のため少し難儀いたし候えども、それも一週間程にて畧全快いたし候。それも毎夜運座に夜の更け候ため逆上に及び候ものと人皆申居候。自分も原因はそんなことなるべしと存居候。一昨晩よりまたと運坐をはじめ候処、それ故かあらぬか今朝も逆上の気味有之用心罷在候。四五日内には当地出発処々道よりの上帰京可仕、御面会も二週日を出でずと楽しみ居候。 当地俳士少氏は眼あき候えども、何分にも速成教授故、不完全至極にて残念に存候。しかし近日法華涅槃を説て出立のつもりに御坐候。呵々。(あるいは恐る今日の説法は華厳となりて法華涅槃はなお数年の後にある事を) 運座も写景も競吟も連俳も皆緒につきしばかりなれば、小生帰京後はほとんど旧体に返り可申かと心配致居候。毎日つめかける熱心の連中は碌堂(=極堂)、愛松、三鼠、梅屋、叟柳の徒に有之候。 連句は幼稚ながら「日本」に載せ候故、御一覧被下度候。御地俳況如何や、小生当地に在て素人許りを相手にいたし居候故、帰京後意外のひけを取り候様な事可有之やと気遣申候。(以下略)(明治28年10月10日内藤鳴雪宛書簡) 10月17日には子規の送別会が二番町の花迺家で開かれ、その後に松風会の面々に送られて、子規は故郷を離れています。 十月十四五日になって子規はもう帰京したいといい出した。秋も早や晩れで初冬に入りかけた十月の半であるから、帰心に駆らるるその心中は大に察すべきであるが、我々としてはいつまでも松山にいてくれるような気でうかうか過ごして来たのだから、大に狼狽したが致し方がない。そこで松風会は申合して十七日の午後に二番町の花廼舎という料亭で送別合を催すこととした。 花廼舎は梅の家の東隣で大きな黒門のある家であった。今もなお残っている。十七日は神嘗祭で職務を持つ会員のために祭日を選びしわけである。白石南竹氏の当日の送別句が「十月十七日君が離別の宴を張る」というのであって、これが当時の地方新聞に他の会員の送別句とともに遣っているから、その送別会が十七日であったことは少しも疑を容るる余地がない。南竹の日く「私は送別句をいろいろ考えて見たが終に出来なかったので、やむを得ず事実そのままを句にしていささか責をふさいだのであったが、それが今日有用な資料となったとは実に意外の仕合である」と。 十月十七日の午後花廼合の松山城山に面した広間で子規のために送別会を開いた。この春の明治楼の場合に見た芸妓小万がここも杯盤の問に周旋していた。当日の会員が幾名でその顔ぶれが誰々というようなことは我々には記録の残っているものが無いが、子規がその席上で戯に書き捨てた左の夜寒の三句が遺っているため、人員は十八名であったことを知り得る。その夜家の句というは「十八人女とりまく夜寒哉…男十八人女一人の夜寒哉……男十八人女とりまく夜寒かな」である。半紙一枚にこの三句が大きく記されいた。女一人とは無論小万のことである。子規はその会員の雅号を一々詠みこみし十七句を書き遺している、これまたその席上の座興に成ったものである。これによって当日の出席は誰々であったかを明にし得るのである。その句の下にある括弧内の氏名は予の附記したものである。天外を豊島昌義としたが確かで無い。あるいは後に失明して盲天外と称せられし森恒太郎であったかも知れないから、ここに断って置く。 我観 観念の月晴れにけり我一人(近藤元晋) 愛松 色かへぬ松は愛たし竹ゆかし(中村一義) 箕山 小山田や箕に干す栗の五六升(天野義一郎) 不迷 秋風や白雲迷う親不知(御手洗忠孝) 叟柳 鐘をつく叟の頭に柳ちる(野間門三郎) 一宿 大寺に一人宿借る夜寒哉(釈仏海) 漱石 石女の蕣の花に嗽かな(夏目金之助) 梅屋 梅紅葉天満の屋根に鴉鳴く(大島嘉泰) 華山 僧もなし山門閉めて萩の花(服部基徳) 半石 石に破れて芭蕉驚く夜半哉(国安輝之) 馬風 売馬の進まず風の花芒(玉井団平) 南竹 竹の窓南に秋の山近し(白石栄吉) 狸伴 秋の暮狸を伴れて帰りけり(伴 政孝) 天外 稲妻やある夜は遠く天の外(豊島昌義) 三鼠 鼠追ヘば三匹逃る夜寒哉(岡村恒元) 松露 馬引くや松の中路乱れ萩(大道寺一善) 碌堂 碌堂といひける秋の男かな(柳原正之) 「碌堂といひける秋の男かな」は予を詠じた句であるが、句集寒山落木には「碌堂に戯る」と前書きして出ている。予は一生貧乏だが当時は特にひどかった。一夏数十日毎日彼を訪問せしに、唯一着の、老母が手織の単衣で押し通したのを見て、君の貧乏も随分だねと笑われたこともある程だったから、その窮乏生活を嘲って子規はかくいったのであろう。 子規はかかる戯作をして打興じたり、我々は彼のために惜別の句をものしたりして晩饗を倶にし、点燈後しばらくして散会したが、子規は去るに臨み「今夜これから三津浜に下り回漕店久保田に泊って君等を持つから、暇のある人は明日同処へ遊びに来給え」といっていた。明治二十八年十月十七日発刊の地方新聞「海南」を見ると、その雑報欄の記事中に「正岡常規氏…過日来養痾のため帰省しおりし、日本新聞記者なる同氏は本日三津港に下り上京の筈なり」と記されている。「筈なり」とある如く、これは予報であるが、その後の同紙には彼について何等記するところなきを見れば、予報通り十七日に三津港に下ったためであったろうと察せられる。なお正宗寺に蔵せらるる松風会俳巻「帰りがけ」の表紙裏に、「明治二十八年十月松風会稿……抜萃二十八句……升選……十月十七日三津久保田にて舟待ち中」と子規は記している。松風会の会稿を三津まで携へ行き、十七日夜同処で選句したのであったろう。 翌十八日午後、予は三津浜に子規をたずねた。他の松風会員もすでに見えていた。その人員が幾名であったか、これまた子規の遺吟によって知るを得るが、その人名は判明しない。けだし前夜花廼舎に出席した人々のうちであったろう。「諸友に三津まで送られて……酒あり飯あり十有一人秋の暮」「留別……十一人一人となって秋の暮」等に見れば我々の数は十名であったのである。久保田回漕店の客室は一間十畳位のものが四五室並んでいて、その縁先に砂浜を隔てて瀬戸内海が見えているのであるが、子規はその中ほどの室に陣取っていた。作句もし揮毫などもして、夕刻に至り晩餐の饗応をうけた。「酒あり飯あり」はその光景である。かくするほどに、終列車の時間が迫ったと店からの注意をうけて、つきぬ名残を惜みつつ我々一同は子規と袂を分った。時間は十時位であったろうか。(柳原極堂 友人子規)
2021.09.08
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何の気なしに、アマゾンの順位を見ていたら、文学評論・歴史の新刊で6位になっていました。もっと上位になるとありがたいのですが・・・。※アマゾンのサイトはこちら 松風会が結成された翌明治28年、子規は金洲に出かける前に父の墓参りのため、3月15日に帰省します。翌16日、松風会主催の送別会が三番町の料亭「明治楼」で行われました。 この時の様子を柳原極堂が『友人子規』に記しています。 二十八年の春であった。子規が日本新聞の従軍記者として、日清戦役中の満洲へ出発することになったという説が松山に伝わって来た時、吾人ともに一驚を喫した。一度虫の入ったあの病躯をもって、壮者といえどもなおかつ難しとする満洲の曠野に奔馳するは無謀も甚しく、全く死せんために行くものだといわざるを得ない。本人がたとえ何といつても、親戚知友などでこれを諫止すべきであるにどうしたことであろうか、遺憾至極だなどと寄りより噂をしているところへ子規は帰省した。三月三日東京を発ち、六日広に到り、近衛師団附従軍記者として出征すべく待機中、展墓のためちょっと帰省したもので、それは三月十五日であった。 湊町四丁目の大原恒徳氏方にいると聞いたから、予はこれをたずねて、従軍は余りに無謀ではないかなと忠言を試みたが、そのことはモウいわんことにしてくれ、僕は決心しているのだから、といい切って敢て耳をかさない。それでは松風会の連中で、送別会を催したいというから出席が願いたいと申込んだところ、好意ありがたし、明日一日の暇があるから明日ならば出席して諸子に初面会を得たいものだとの返答であったから、為山その他の会員に協議して、十六日の午後、三番町の明治楼という料亭の附下の広間で子規のために送別会を開いた。床には大花瓶に紅梅が活けられてゐた。白石南竹であったか、先生と呼びかけて、新派の俳句はどんな風に言ったらよいのですかと発問したが、子規は室内を見まわして後「僧や俗や梅活けて発句十五人」と口吟し、先ずこんな風にその実感を十七文字であらわすのですと答えた。「僧や」とあるは釈一宿を指したもので、「発句十五人」とあるから子規をこめて当日の出席が十五人であったものであろう。それが誰々であったか予は覚えていないが、想うに松風会のほぼ全会員であったろう。 その日明治楼の二階では、自由党関係者の集会が催されていた。武市蟠松、岩崎風雨など子規の旧友もその席に在ったが、両氏のうち誰の計らいであったか「いくら俳人の宴会だといっても酒の酌は女にさせよ」とかいって、小万という芸妓を一人送り込んで来た。東京者だといって能くしゃべる女であった。会の終るまで我々の席を去らなんだから、予めいい含められて来たものだったろう。子規も余り悪い心地はしないと見えて、ニヤニヤ笑ってその妓にからかったりしていた。 席上に備えてあった半紙を取って、為山氏が画を書いた。蒸汽船が煙をあげつつ今しも港を出んとしているものだ。誰かがそれを子規の前に持ち行く、彼は筆を取ってそれに「蒸汽や出て行く残る煙が霞かな」と讃句した。為山は追いかけて行灯と何かを書いて子規へ廻した。子規はすぐ「春の宵小萬と書きし名札あり」とそれに讃した。讚句の書き終らぬうちに早や次の画は廻って来た。今度は汐干か何かの画で、その讃句は「大船の尻のぞきたる汐干かな」であった。次の画がまた出来る、讃句もこれに応じて少しの渋滞もなく出来る、全く電光石火の早業で画俳二先生の腕くらべ、見ている我々は興に人って覚えず拍手する。ついには半紙が尽きてしまって自然にこの競技の終局となった。その時の画も讚句も今は大方忘れてしまって思い出せない。 子規は、この松風会で「僧や俗や梅活けて発句十五人」の句を詠んでいます。松風会の多彩なメンバーに敬意を評しての句です。そして、下村為山の画に讃を書く競争で、大いに楽しい時を過ごしました。 そして、子規は17日、慌ただしい3日の帰郷ののち、広島に戻りました。
2021.09.06
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野間叟柳は、日本派俳句で日本最初に誕生した地方結社・松風会の中心メンバーです。 松風会は、明治27年3月27日に、松山尋常高等小学校の校長・中村一義(愛松)、教頭・野間門三郎(叟柳)、訓導・伴政孝(狸伴)ら3人を発起人として、大島梅屋、国安半石、河野青里、永木永水、乃万撫松、阪本伸緑、玉井馬風、服部華山、白石南竹ら、松山尋常高等小学校の教員たちにより結成されました。この名前は、芭蕉の道をたどるという意味て蕉風会はどうかという提案があり、松山だから松風会がよかろうとばかりの命名ですから、何が新俳句なのかよくわかりません。 この日は、狸伴の家に同校有志が集まって句会が開かれ、その会で同意を得たものです。 やがて、会員には海南新聞記者の柳原碌堂(極堂)、県学務主任の大導寺松露、弁護士の天野箕山、海南新聞社員の森孤鶴(盲天外)、正宗寺住職の釈佛海(一宿)、子規の叔父で市吏員の岡村三鼠、愛媛新聞編集主任の御手洗不迷、教員の久松陽松、松本野堀、近藤我観らが参加し、週1回の持ち回りで句会を開き、俳句に熱をあげていました。 叟柳は、元治元(1864)年3月10日、旧藩士・野間大作の長男として、温泉郡柳井町に生まれました。本名は門三郎といいます。 父は一雲と号して、京都の桜井梅室門の宗匠で、奥平鶯居にも学んでいます。そのため、叟柳も早くから発句に親しみました。愛媛師範を卒業して、教員生活にはいりましたが、たまたま松山高等小学校で、校長の中村一義をはじめとする教員一同が雑談していると、校長が「君は発句がうまいという話を聞いた。ぽくの句を批評してくれ」とい割れたので、「二三言批評を試み、発句というものはこういうふうにいうものだと、例句をあげて懇説したところ、たちまち興がわいて」、一同は「わらび」の題で句作しようと、その夜さっそく湊町1丁目にあった伴政孝(狸伴)の家に集まったのが松風会の発端であったと、語っています。 叟柳は、松風会で宗匠格として選句をしたり講釈を請け負いますが、月並みの域を出ませんでした。そのうち子規の教えをうけた下村為山が帰省し、代わって指導することになりますが、 叟柳は、句作の上でも他の人々を引き離し、会員からもその技量を認められました。
2021.09.04
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霽月は、晩年になって「転和吟」という俳句を提唱します。子規を受け継いだ高浜虚子が提唱する写生主義、花鳥諷詠趣味に対するつまらなさから、自らの趣味でもあった漢詩を基にした俳句からヒントを得て、大正9年に、主観的、叙情的、人格的なものをとり入れるべきだと叫んだのでした。「前提の詩の玩味神会の余、その感興連想を吟詠するものであり、不即不離転じて和する這裏(しゃり)の妙諦を主とする」と『霽月句集』に書きました。これではなかなか分かりにくいと思いますが、「転」とは原詩から一転する意、「和」とは、他人の詩句に呼応して詩句をつくる、「吟」とはそれに合わせて歌うという意味になります。 ただ、霽月はこうした俳句よりも、経済活動の方が評価されています。伊予農業銀行の頭取、今出産業信用組合の組合長、愛媛県信用組合連合会会長、いよのうぎょう銀行と松山商業銀行が合併して誕生した愛媛銀行頭取などを歴任し、地域の発展に尽くしました。また、子規顕彰に関しても柳原極堂に協力して子規居士遺跡保存会で子規堂の建設などを行なっています。 昭和21年2月15日、78歳で病没し、西垣生の長楽寺に墓があります。 霽月の功績をたたえたものに松山市南堀端にある農協会館の前に「霽月胸像」、西垣生の霽月の家に「村上半太郎頌徳碑」があり、霽月の偉業が記されています。 霽月村上半太郎翁は、産業組合運動の先駆者、農村経済振興に心魂を傾け、共存同栄の精神を鼓吹、終生貢献して功績絶大、また俳壇の巨星、高潔謹厳の哲人として一世の景仰を享く、生誕百年を記念してその威容を刻して不朽の遺徳を賛う。昭和四十六年十月一日(霽月胸像刻文) 村上翁は伊予国伊予郡垣生村の人。昭和廿一年二月十五日、七十八歳。逝く方に終戦後国家匆々の秋世大にこれを悼む。少時出でて第一高等中学に学び、帰って今出絣株式会社社長に推され、尋で使予農業銀行を興しその頭取となる。爾来産業金融界に活躍すること多年。明治四十年に至り今出産業信用組合長となり、大正八年他県に先じて愛媛県信用組合連合会を設け、その会長に選ばれ、在職四十年の長きに及ぶ。また力を産業組合中央会金庫の創立に致し、その評議員ならびに産業組合中央会中央理事に歴任す。更に同会愛媛支会副会長の職に就き、その実務を宰し、斯業の拡充強化に努め、もって農業協同組合発展の漸を成すーー同志胥議りこれを石に勒して不朽に伝う。昭和卅三年三月(村上半太郎頌徳碑)
2021.09.02
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独学で俳句を習っていた霽月は、明治25・6年頃に京阪地方へ出張した折、たまたま『蕪村句集』上編を入手します。霽月は、蕪村の俳句がすぐれているのに驚き、「発句にも如此ものありしかと驚嘆(「霽月句集」)」し、蕪村を手本として自らの俳境を開いていきます。ちょうどそのころ、子規は「蕪村句集」 を見ておらず、鳴雪を通じて霽月の書を借りて写したといいます。ということは、霽月の方が子規よりも目利きであったということになります。 子規は、こうした霽月の俳句に関する熱意を汲み取りました。『明治二十九年の俳句界』には次のように書いています。 地方俳人の中やや古き者を霽月とす。霽月始終僻地に在りて蕪村を学ぶ。蕪村流の用語と句法を極端に模したる者は実に霽月を以て嚆矢とす。明治二十七年の頃既に特殊の調子を為す。爾来世人は漸く漢語を用い、漢文的の句法を用い、昨年に至りてやや霽月の特色を少からしめしが如き観なきに非るも、畢竟かくの如く相近似したる、霽月が主として世人を啓発したるの効に非るなきを得んや。霽月初より全く師事する所無し。その造詣の深きは潜心専意古句を読みて自ら発明する所に係る。畏るべきかな。勁抜緊密なる俳句は霽月の特色にして永く異彩を放ちし者、一般の俳句が勁抜緊密に趣きし今日といえども、なお霽月のごとき勁抜緊密なるはあらざるなし。ことに趣味を深遠に探り、材料を新奇に取るは特色中の特色としてみるべく、あえて他の模倣を許さず。 最も初に蕪村を学びたるも霽月なり。最も善く蕪村を学びたるも霧月なり。永機かつて霽月をして第四世夜半亭たらしめんとす。(第一世巴人、第二世蕪村、第三世几菫にして夜半亭絶えたり)霽月曰く、吾は一個の俳人霽月なり。何ぞ夜半亭を用ふるを為んと。霧月自ら居るの高きかくの如し。この心ありて而して後蕪村以て学ぶべきなり。(明治二十九年の俳句界) 霽月は故郷で松風会に加わり、「ホトトギス」も愛読しました。しかし、霽月は、単純に子規の門人と呼ぶよりも、むしろ「子規門下の客員」(阿部里雪) と呼ぶ方がいいのかもしれません。 露月が地元でどのように見られていたかを示す資料として、のちに海南新聞が『詩の国愛媛が生んだ霽月翁』という文を掲載しています。冒頭には「俳人とし銀行家として、今全国でその令名を謳わる、興味をひく村上半太郎氏の趣味」とあるように、経済畑からも俳句界からも、一目置かれていたようです。 「俳人とし銀行家として、今全国でその令名を謳わる、興味をひく村上半太郎氏の趣味」 本県財界一方の雄として、今を時めく県下有数の大銀行愛媛の頭取村上半太郎は銀行家としてよりむしろ俳人霽月として全国にその名をはせている。由来本県は詩の郷、歌の郷として多くの俳人を出している。なかんずく正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、村上霽月等は、斯界の権威者としてその名を知らぬものはないと言われている。 子規は明治文坑の耆宿ことに俳句において旧来の型を打破し一新機軸をつくったものである。今日の俳句は全くその流れを汲むものであって、子規の俳聖として多くの俳人から崇敬渇仰の的となっているのもまた偶然ではない。 鳴雪は既に故人となったが、虚子、碧梧桐と共に子規なきあとの名流として各名声を馳ていることは人のよく知る処である。 霽月氏がひたすら俳道に精進するに至ったには次の様なくしきロマンスがある。 明治二十三年頃だったと思う、その頃大阪に遊んでいた氏はふと古本屋で、蕪村句集に目が止まった。そしてそれを読んで行くうちにだんだん興味を覚え、それからは次から次へと古本屋に種々なる句集をあさり歩いて、これを耽読するうち、だんだん大きな力をもってこれに引きつけられ、そうしてその作品を通して現れている蕪村の高潔なる人格に敬慕し、敬服して、極度に蕪村の崇拝者となった。同時に作者の質性がその作品に躍動している俳句に非常な興味と憧憬をもって俳句の研究に志した。 これが氏をして俳道に導いた動機であると言われている。その後熱心に研究と句作に耽って非常な進境を見せたが、二十八年頃子規が帰省して松風会なる俳句研究会を組織した時、氏もまた、同人の一人となって子規とともに盛んに研究と句作に耽ったものである。 この当時すでに霽月は俳人として立派に一家をなしていると、子規をして激賞せしめたものである。この子規の言によってしても氏の俳句が当時すでに、いかに権威あったかを物語るものである。 氏は俳句雑誌、ホトトギス、葉ざくら等の雑詠選者となって大いに斯道のために尽瘁した。また一方、盛んに句作して、年と共に益々その俳句は冴え渡った。氏は子規の主張に共鳴して、ともにその研究をやっただけに、いわゆる日本派の流れを汲んでいる。 しかし、氏は俳句に派のあるべきでない、という主義を持っているから、子規没後俳界は各派に分れ、前記碧梧桐、虚子など互に派を立てて争っていたが、氏はその何れにも偏せず、自ら高く一個の識見を持して、俳界の大道に精進し、最近は、いわゆるホトトギス派でもなく、また渋柿派でもなく、強いていえば、霽月調とでも称すべく、その主観に富んだ神秘的作品は氏の崇高なる人格を遺憾なく表現して、伊予俳壇の耆宿として、その名声を謳われている。ことに郷党の子弟で俳道に志すものは、先ずことごとく、氏の門下に学ぶ有様で、富士の如き高潔なる人格と、その該博なる識見とは幾多の後進が敬慕の中心となっている。氏が最も熱心に句作に耽ったのは、明治三十年頃から四十年頃までの十年間であろう。 この間が、氏のいわゆる爛熟期ともいうぺきであって、その今日までの作句は実に二万句という多数に上っている。それだからこれで立派な句集が出来る訳であるが、まだ氏の句集の世に出でたのを聞かないのは遺憾である。 誰か一日でも早く霽月句集を出版して世の多くの同好者の期待にそい、あるいは郷土俳人の好伴侶としてまた後進者の参考に、あるいは指導に、稗益せんとする人はないものか、さてただ思い出すままに氏が快心の作五句を記そう。 森を出で提灯消すや春の月 第一峰に立てば炎天なかりけり 春雨や鳳凰堂の棟晴れて 囀ずりの誠美しき恋なりけり 虫なくや船長室の籠の中 斯様に氏は俳人霽月として全国にその名声をうたわれているが、ひるがえって実業家としての氏を見る時おのずからそこに別な氏を見出だすことが出来る。 氏は人も知る如く明治二年温泉郡垣生村字今出の西家家にその長男として生れた。 東京の第一高等学校に在学中父君の訃に遇い、学校を中途で投げうち、家督を相続した。 かくて父君等が設立した今出絣株式会社は伊予絣の販売を目的として設立されたものである。しかるに氏は単に販売するに満足せず、その製造方法にまで研究の手を延ばして大いに努力した。即ち全国に向って大々的宣伝を試みて大いにその販売能率の増進に努力するとともに、技術上の改善、進歩に全力を挙げて没頭し、伊予絣の名声を高めることに奮闘した。 これがため伊予絣の名声を高めた事は非常なもので、氏は真に伊予絣界の隠れたる恩人というべきである。 尚氏は常に地方産業の為めに努力画策を怠らなかったが、明治三十年に至って伊予農業銀行(資本金三十万円)を設立して、これが頭取に就任し、金融の円満なる運用に努め、産業の堅実なる発達に努力した。そうして時代の進運に順応して資本金は六十万円、三百万円と漸次増加し、もって本県産業界に貢献しつつあったが、大正十一年に至り、遂に松山商業銀行(資本金二百万円)と合併した。同時に愛媛銀行と改称、この松山商業銀行との合併問題が台頭した際において、氏は小さい利害関係などは問題にせず、大局より有利なりと断定して、一切の小利害を超越して、遂にその合併を断行したのである。 氏は合併後も引き続いて今日まで愛媛銀行の頭取として財界に重きをなしている。 一面今日までの氏の公共的生活を見るに、先ず明治二十八年頃から今日まで村会議員として終始一貫村治に尽瘁し、あるいは明治四十年より今日まで今出信用組合長として、自村の金融、産業に力を尽し、あるいはまた明治四十三年愛媛信用組合連合会長、県農会特別議員として大いに斯界に貢献した。 その他中央金庫の設立委員としてこれが設立に努力し、その設立されるや評議員に選ばれて大いに奮闘したものである。この他現に農工銀行伊予相互貯蓄銀行に取締役として就任している。 氏は非常に世詰好きで、常に後進を指導し、ことに、育英事業には特に意を注ぎ、松山地方の有志とともに優秀会を組織し、今日まで多額の私財を投じて、秀才学生の養成に努めている。そうしてこれを非常の楽しみとしているかの如く、氏は人一倍の温情味に富み、かつ前述の如く人格高潔である。 なお氏は果断の人であって、如何なる難問題もたち所にこれを解決し、徒らに躊躇逸巡しない。ことに小事に拘泥せず、常に高所大所に立って大局より洞察し、これを処して誤らず、些々たる利益などはかえりみないなど、全くまさに将たるの人物である。世に卒に将たる人物は多いが、氏の如く将に将たる人物は全く稀である。巷間氏を保守主義の持主の如く評するものがあるが、これは全く氏の人となりが知らないものの評に過ぎぬ。氏は以前から新思想の流れを克く知って常に時代の進運に順応するというよりはむしろ時代に魁した新思想を把持して、何時も指導者の地位に立っている。 氏が如何に新しい思想をもっているかを証する一つの物語がある。 それは伊予農業銀行時代の出来事である。当時本店と支店との諸般の打合せは一々人の往復によって行われていたものである。しかしこれでは非常に不便であり、かつ能率が上らない。ここにおいて氏は当時何人も夢想だにせなかった電話連絡を策し、諸重役を説破して遂にこれを実現し、大いに能率を増進させた。 これが松山地方における私設電話の嚆矢である。一事が万事、氏は常に時代思想に先駆しているのである。 伝え聞くに財界の元老井上要氏等が産婆役となって県下銀行の合同が策されているが、氏もまた、双手を挙げてこれに賛成し、相ともにこれが実現に向って努力奮闘しつつあると聞く。由来銀行の合同は至難事であるが、他の合同参加銀行家諸氏も氏の如く虚心担懐、些々たる自行の利害に拘泥することなく、一意専心これが合同に邁進したなれば、その合同は期して待つべきである。 この機会に於て吾々は氏に対して満腔の敬意を表して筆をおく。
2021.08.29
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村上霽月は俳人というよりも、絣の生産に尽力するとともに、地域の銀行の頭取として地域経済の発展に腕を振るった経済人としての姿の方がよく知られています。 霽月は、本名を半太郎といい、明治2年8月8日に村上久太郎の長男として生まれました。祖父・半六の時代に小百姓から身を起こして、一代で百六十五町歩の田をなした素封家です。霽月は、上京して第一高等学校で学びましたから、先輩として子規がいました。 ただ、このころの子規は俳句に何の興味を持っていませんでしたから、俳句を教わることもありませんでした。明治24年、霽月の父の貢献をしていた叔父の覚之丞がなくなり、そのために霽月は松山に帰らねばならなくなりました。農業を差配するとともに、地方の産業・経済の振興のために尽くし、絣に着目して今出絣株式会社を興したり、伊予農業銀行・愛媛貯蓄銀行などを設立して、地域の経済的発展に尽くしました。 霽月が俳句をするようになったのは、これらの仕事がひと段落したころになります。 子規との関係について書かれているのが『子規君に関する記憶』です。この文には、子規が愚陀仏庵で過ごしたころのことが記されています。 子規君には東京におった間は同郷の先輩として交際をしておったが余り親密ではなかった。文学の話などは更に聞くことを得なかった。ただ君が文科をやることだけを知っておったくらいである。明治二十三年の夏であったか、帰省中加藤彰氏方へ往ったら子規君が佃君小川君藤野君等と一緒に往っておった。その時の話に君は文科に入って審美学をやるつもりじゃということを言っておった。その後僕が廃学してのち二十五年か六年の夏君が帰省して中の川におられたとき訪ねたら、朝の十時頃であったがまだ蚊帳の中に寝ておられた。待っている中に顔を洗って蚊帳などを除けて応接せられた。 この時はじめて君から俳句の話を聞いた。その時示された句の中に どこ見ても涼し神の灯仏の灯 というのがあって今に覚えている。これは君が帰途京都での句じゃといっておられた。その時瓢亭君が非常な俳句熱心家であることなど話された。それから俳句はわずかに十七字の詩であるからこれをパーミュテーションで計算したら有りたけの数が判る。機械的に排列しても作ることが出来る。そうして早晩その数が尽きる時が来るであろうというような話があった。 この時より少し以前から僕もつまらぬ句を作りはじめておったが。この少し後より常に嗚雪翁に添削を乞うておった。鳴雪翁の手を経て子規君に見て貰うたこともあったがそれは稀であった。不幸にして子規君に直接教えを聞くことは極めて少なかった。 君が従軍の途次広島からちょっと展墓のために帰松せられた時、当時の松風会で送別会を催うした。会場は明治楼で来会者は二十人位もあったように思う。席上で牛伴君が色々の画を描いて子規君がこれに俳句を題せられた。誰かの斡旋で芸者も来たりして中々賑かな会であった。この時の出席者で今覚えているものは牛伴、南竹、一宿、愛松、風雨などの人々である。 二十八年須磨療養の後松山へ帰られて暫く二番町の漱石君の寓居に居られた時、ある日僕が訪問したら、 やや寒むみ襟を正して座りけり という句を示されたから、僕もこういう句を作った。 又や此秋ありて君と語りけり この日は他に来人もなくしみじみ俳句の話、画の話などを聞いた。不折君が須磨見舞に贈られたという小さい画稿が一冊あった。その時分にはまだ不折君の画を余り見たことがなかったので非常に珍らしく感じた。その中に須磨というので監の極めて凝い色で横長く地平線に海を紙の半分以上まで描いて、その上の空の一方に半月を描いたのがあった。特にこれを面白く感じたが後に子規君の、 藍色海上な須磨の月 という句を見て、この画を連想し甚面白く感じた。この句とこの画とは相連想して今に記臆に存じている。応挙には俗気があるということ、文鳳は世間では左程珍重せぬが非常にうまいこと、鳥羽僧正の動物などは骨相學にかなっていること、西洋画の趣味のことなどの話があった。 その次に訪問した時は漱石君も学校から帰った所で、極堂君も来られて、四人で連座をした。 僕が子規君をこの滞在中に訪問したのはこの二度であったと思う。 同じ滞在中に突然僕の宅へ来られたことがある。当時僕は鶏をたくさん飼っておったが、丁度君の車が門に着した時に、僕は門で鶏の雛の眼をわずらった奴に薬を付けてやっている処であった。君がこの時の句に 霽月君村居 粟の穂に鶏飼うや一構 というのがあった。 半日俳句の話と画の話とであったが、床に蘆雪の描いた大鉄椎の像が掛けてあったら、君はこの画は支那画に扮本があったのを蘆雪が摸写したのであろう、書題が珍しい、大鉄椎でありかつ骨相が蘆雪的でない支那的であると評された。 午飯の後写生かたがた浜辺を散歩しようといわるるので、一緒に浜辺を五本松から唐樋まで廻って帰った。(中略) この日帰途余戸に森円月君方に立寄られしよし後に話された。 この年十一月のはじめ、僕が上京して君を根岸に訪ねた時は君が松山を立て京都奈良に遊んで帰京せられて間もなくであった。この時君は腰部に痛を生じたといって蒟蒻で温めておられた。僕は上京の途次名古屋へ寄て来たが名古屋で少し腹をそこねておったので上京後も粥を喰っていることを話したら、君も粥を喰っておらるるというので午に粥の接伴にあづかった。君は奈良が非常に気に入ったといっておられた。夕方辞して帰るとき君は帰京後まだ一度も会をせぬから幸一会やるつもりであるが、明後日は差支ないかということであった。僕は別に差支はないからといって別れた。 すなわち日の午後訪問した。この日来会の人々は鳴雪、虚子、碧梧桐、牛伴、露月、爛腸、洒竹の諸君であった。運座一回の後晩餐の饗応があった。夜また運座一回して夜更けて宿へ帰った。なお二三日滞在しておったが多用で訪問もせずに帰県した。その後身辺の繋累が多く取紛れてまた君を見るの機会がなくて終に君の訃を聞くこととなった。(村上霽月 子規君に関する記憶) 昭和6年、大阪毎日新聞の企画で行われた『子規を語る』にも、これと同様のことが語られています。 村上 子規君が上野の家にいるとき私は訪ねて行った、下の座敷にゐたが布団はのべていなかった、三鼠君が誰かと話していた、その後も二、三度訪問した、漱石君にも紹介された、いろいろ俳句の話をした、一しょに句作したこともある、極堂君がいたのを記憶する「瀧壺に杖なげこんで月見かな」という極堂君の句は奇抜だったので覚えている、葡萄を食べながら句作した、その後子規君が一度私のうちへ来た、来るという約束はあったが、いつ来るともそれは約束していなかった、ある日突然人力車でやって来た、鶏を百羽くらい飼っていたがほうそうにかかっているのがあって、私はコカインか何かをそれにつけいた「粟の穂に鶏飼ふや一構」というのが、このときの句だ、 しかし私は別に粟の穂で鶏を飼っていたのではなかった、飯を食ってから二人は句作をした、子規君が東京で新俳句をやり出したころに私もこちらで月並の俳句を初めていた、そのころ東京に老鼠堂永機という宗匠があった、その養子に阿心庵雪人というものがあったが私のところに手紙をよこし「聞くと蕪村を研究になっているそうだが蕪村の俳画の売りものが出てゐる、御所望ならお世話してもよい」といって来た、私は書画には趣味がないからといってすぐ断ってやった、その話をしたところが、その手紙を見せてほしいというので子規君に見せたところ「これなら恐れるには足りない、雪人も大したものでない」と大いに安心したという様子であった「現代俳画人名録」を見ると雪人はまだ生きているようである、いろいろな書物を著しており、旧派では相当大家のようである。曾我 その時分は居士も旧派を研究されていたものでしょうね村上 「日本」の新俳壇による前四、五年間の旧派との消息がこれで多少窺われる、そういう話があった後少し今出の海を見てこようといつて二人で北から南の方へ浜を歩いた、互に半紙に書いて見せ合った句のなかに「見ゆるべきお鼻も霧の十八里」という句がある、私があのあたりに佐田の岬が横たわっているが、きょうはもやで見えないといったときにできた句である、浜に沿うて甘庶畑が広々と連らなっているのを見て「うらがれや方十町のかんしょ畑」という句などもあった。曾我 その日に余戸の円月居も訪われたんですね。村上 子規君が人力車を呼んでくれよというので呼びに行ったが、当時私の村には二人しか車夫がいなかった、生憎元気な方がいなかったので七という年寄りの車に乗って余戸の森君のところへ寄った、その後また私が訪ねて行ったところ漱石君がおりて来た、白隠輝師の語録か何かにつき子規君がしきりに冷やかしたが漱石君が一向相手にならなかったのを覚えている、花の家の送別会は私は知らなかったので行かず見送りもしなかった、それから間もなく私は上京し根岸庵を訪ねたが子規君は京都や奈良を歩き廻ったので腰が痛むといって、こんにやくでしきりに温めていた、そのとき「東京に帰ってまだ一度も句会を開かない、あすやるからぜひ来い」ということで行った、嗚雪、為山、虚子、碧梧桐、爛腸、洒竹、露月などが集まって来た、東京で子規君と会ったのはこれが一度です。曾我 漱石とはどうでした?村上 漱石のところへはちよいちょい行った、虚子が母の病気で帰って来て漱石と三人で句作に耽ったこともある、森鴎外の「めざまし草」に虚子がそれを載せたりした、漱石は松山にいたころは随分よく作った、相当力作を残している、熊本に赴任するときは三津浜の窪田まで見送った、横地校長や虚子もいたが送別の句を作ったかどうかは覚えていない、文通はあまりしなかったが熊本に旅行したときに訪問した、細君は病気だといって出てこなかったがヒステリーで困ると漱石がこぼしていたのを記憶している、仙波通の「とぎや」という旅館に泊り二晩漱石と語り明かした。〔子規を語る)
2021.08.27
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「ほととぎす」を高浜虚子に譲った極堂は、俳句会を退きました。そして、明治32年に松山市議に当選して6年間政治の道を進みます。 明治39年、森盲天外とともに伊予日日新聞を創設。盲天外が2ヶ月で退いたため、社長を務めることになりました。しかし、資金難で経営は大変でしたが、大正13年には子規居士遺跡保存会を設立して最初の子規堂を建立するなどの顕彰事業を行なっています。 昭和2年まで新聞社を続けましたが、廃刊となってのちは東京に住みました。昭和7年、阿部里雪らの懇願によって俳誌「鶏頭」を相関し、俳句の世界に返り咲きますが、この本も資金難に陥り、戦時の用紙統制によって昭和17年に廃刊となりました。 昭和17年に松山に帰郷し、松山子規会り設立や子規の検証・研究に勤めました。これらの功績により、昭和32年に松山市名誉市民に推奨され、10月4日に県民賞が贈られます。その3日後、極堂は天国へと旅立ちました。「ヨモダ」は年を重ねて聖人となったのでした。 秋風のどこをくぐりて県民賞 極堂 阿部里雪は、その著書『子規門下の人々』で、弔問の様子を記しています。 「時々父の模様が非常に悪いようで今回は駄目と存じます。今の向きでは一週間か、せいぜい十日くらい、それも時によっては、もっとわずかな時間でないかと想像されます。ついては、万一の場合には打電いたしますからその時は遠路ご迷惑でしょうがぜひご来駕願います」(前文ならびに以下省略) 極堂翁の長男正春氏からこういう手紙が来たのは九月二十一日付、二十二日夕到着であった。 すぐに出かけてみなければならないのであったが、四月にも正春氏から同じような手紙が来た。先生を見舞った越智水草氏からも絶望的な葉書を貰った。出松せねばと思っているうちに小康を得られ五月の極堂会発起人会のために出松した時には、「九十五歳まで生きる確信を持っている」と非常な元気であった。 今度も、そうあってほしいという願いが、そういう奇跡が今度も実現されるように思わせた。しかし万一の場合も考えておかなければならない。 春さんからの手紙の来た二十二日は日曜日、二十三日は秋分の日で連休だったので、伯方から出ている県議の白石八郎氏も島に帰っていた。 二十三日白石氏を訪ねて県議会に出席した時、監査委員の宮崎春甫氏を通して先生の容体を確かめてもらう事と他の用件を依頼しておいた。 二十九日は日曜日で白石氏はまた家へ帰った。県民賞条例の制定は一日の県議会本会議に上程、可決される事になっているらしいことも聞かされ、どうかそれまで生きていられることを祈った。 十月五日付の各新聞で、四日極堂翁に初の県民賞が贈られたことを知って安心した。戒田副知事が仰臥の極堂翁の枕頭で賞状を贈ろうとしている写真の極堂翁は、今日、明日が危篤というようには見受けられず、今度も四月同様、奇跡的に危機を脱せられるように思われて二重の喜びであった。「偉大な精神力が肉体を支えている」。子規居士の闘病生活を極堂翁が再現している。今度も踏み切られそうであると、女房や島の俳人たちに明るい顔で私は話した。 六日夜、「チチ、コンヤカアスアサラシイ、ソウギノケン、ウナ、コラレテ、ミヤザキシトソウダンコウマサハル」という電報が来たので愕然とした。 取りあえず局へ行って「アスユク」と返電して帰った。局の時計は九時三十分であった。昼間からの風が少しも納まらず、明日汽船が欠航しなければいいかと不安であった。その夜、私は極堂先生に会った夢を見た。 電報が来たのですぐ、私は柳原邸に駆けつけた。玄関を上って翁の仰臥されている座敷へ入った。枕頭と西側の窓のところに何人かの人が悄然していた。私はすぐ翁の枕頭ににじり寄って顔を覗き込むと同時に「あっ」と言って息を呑んだ。 先生は既にこときれていた。肉がすっかリ落地てしまって髑髏のようであった。誰もが黙然としていて締めつけられるような静かさであった。急に涙がこみあげてきて声をあげて泣いた。 八日の朝は風が凪いだ秋晴れになっていた。七時半発の汽船に乗り、今治では九時三十三分発の気動車に間にあった。 正夢であろうか。夢が気になってしかたなかった。 車中で県庁に行くという町の町議会議貝と会って、極堂先生危篤の報に接したので行くのだというと「その人は、昨夜ラジオで亡くなったと言っていた」と、初めて翁の逝去を開かされた。 松山駅で新聞を買って先生逝去の記事を読んだ。市駅前で宮崎春甫氏らの乗っている自動車に呼び止められた。柳原家の菩提寺である出淵町二丁目(現在の三番町七丁目)の妙清寺に告別式のことで出かけているので同乗せよとのことであった。 柳原家は親族の人たちや弔問客で混雑していた。家族の人たちがすぐ先生に会ってくれと言った。 顔を蔽うた白布を家族の人たちが取ってくれて覗き込むと、先生の顔は夢の中の顔と同じであった。「こんなに変わったんですか、こんなに変わるものなんですか」 私はそう言ったきりだった。(阿部里雪 子規門下の人々 柳原極堂 夢で見た顔)
2021.08.25
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極堂は、いわゆる「ヨモダ」な人物で、軽佻浮薄ですが、自分が思うと一人でも勝手にやってしまうというところがありました。 それを証明するのが「ほととぎす」の発刊です。 松山で産声をあげた「ほととぎす」は、明治30年(1897)1月15日に発行され、部数は300部、一部6銭でした。 勤めていた海南新聞の新聞号外用印刷機を使って印刷し、子規の俳句活動を支援しようとしたのです。誌名の「ほととぎす」は一部の人々からの反対にあいましたが、題字の木版を既につくっているという嘘をついてみんなを承知させました。 『友人子規』には次のように書かれています。 松風会はかくの如きみじめなる情態にありしが、シカモ子規の唱うる新俳句は次第に世人の認むるところとなり、単り松山のみならす伊予全般にわたりてその共嗚者賛同者が各地に台頭するの情勢を示し、無声会その他の小集団もポツポツ顕われ初めたれば、松風会の衰亡の如き深くこれを念とするに足らず、むしろこの新勢力を糾合して子規の革新事業を後援するにしかすと予は固く信じたのであった。 されどこれを為すにはやはり子規を中心となし、その力を借るの外他に策はなかるべきも、子規をしてその精力を特に我地方に傾注せしめんこと、また容易のことにあらず、尋常の方法にては尋常の結果に終るのみなれば、ここ一番勇猛心を振って突飛なる解決方法を講ぜんものと予はひそかに画策するとろがあった。これぞすなわち明治三十年一月の「ほととぎす」創刊となったのである。これによって地方の同人を糾合し、また子規をして直接その指導に当らしめんと謀りしものである。誌名も先ず「ほととぎす」となし、創刊発行日もほぼ定めし後、子規にこれを発表して、すでにかく決定せし上は、是が非でも御承認を願わねばならぬ、本計画の性質上貴下は必図ずこれを承認し、進んで援助して下さるものと自分は固く信じて決行した次第である、と無理やりに押しつけてしまった。 子規がこれに対して如何に答え来るか、予ば宜実は気が気でなかった。もしそんなことは出来ぬと言って来られたら万事休するのであったが、子規の返事は悪くなかったから、やや安心して二十九年の暮、予は東京へ出かけて行き、子規はじめ虚、碧、嗚、瓢など諸氏にも逢って、依頼もし打合せもしたのであった。子規の「ホトトギス第四巻第一号のはじめに」を見るに当時のことを次のように記している。誌名は初め「ほととぎす」と平仮名を用い、東京に虚子氏の手に移った後も二年間位はやはり平仮名で通していたが、第四巻頃から「ホトトギス」と片仮名を用うるようになった。その頃表紙の図案を一般世上に募り、たまたまそれの採用されし図案が片仮名を用いていたので、片仮名に変り、その後ズット片仮名になったものである。 左の子規文中「始めて俳諧雑誌を出すことを話したので我々も驚いた位であった」と言っているが、実は先ずもって子規に一書を送りて俳誌発行の意図を告げ、その返事を得たる上にて上京せし次第なれば、出京後始めて発表したというわけではない。「ホトトギス」は、四年程前に伊予の松山に生れたので、その時は極堂一人の力で成り立っていたのである。明治二十九年の節季に極常が上京して、草庵の例会に出て来て、始めて俳諧雑誌を出すことを話したので我々も驚いた位であった。極堂がいうには、雑誌を出すにつけても金のことは僕一人で引き受ける、少しも他人を煩さない、雑誌の名前についてもいろいろ諸君の御意見もあろうが、僕は独断でほととぎすと極めてしもうた、ただ原稿のことだけは一切諸君の供給を仰ぐつもりだが引き受けてくれまいか、というような無造作な話なので、満座の人も直に原稿の供給を承諾した……」また「雑感」のうちにも「ほととぎす」の発刊は全く極堂子の一人の考より起りしものにて何人もこれを勧めず、何人もこれを拒まず、突然として世に出でたるものなり、事物の起原往々かくの如きものあり、と子規は言っている。 自分の関係していた海南新間の印刷部に、新派俳句の流をくむ河図、金波など称する青年があったので、彼らと相談して雑誌の印刷も製本も皆その手を煩わすこととなし、用紙は新聞祉のザラ紙を分けて貰うようにしてなるべく費用を節減するの方法を採ったから、三十頁ばかりのもので一部定価六錢ということにしたが、自然体裁ははなはだまずいものであった。創刊号の印刷が出来上って製本がうまく行かず、薄紅色の絹糸を買って来て二タところ綴ったなどは窮した上の一策であったのを覚えている。 平野活譚という人の照会に答えた子規の能書に、「ほととぎすは伊予国松山市立花町五十番戸ほととぎす発行所より出ず、一冊六錢、郵税五厘、五厘切手代用は一冊五厘増、右の通りに候……子規」とあるが、その立花町五十番戸は予の当時の寓居で、のち同町四十番戸に移転した。 ある日一人の婆さんがやって来て、何とか病の薬に黒焼きにするのだからほととぎすを少々分けてくれという。私方のは薬にはなりません、俳句ですからと答えると、その肺病に効くことは私承知しているのだという。イヤ私方のは本なのですと断っても婆さん承知しない。効能書ですかには予も全く弱ってしまって、『ほととぎす』を一冊投げ出して見せたので初めて合点したらしく、ハハアわかりましたと苦笑して出て行った。四十年前の古いことではあるが、これ位振っているとなかなか忘られることでない。「ほとしぎす」は予定の如く明治三十年一月十五日に初号を出した。わずかに三百部を刷って主として県内にくばり県外へ出したのはいよいよ僅少であった。子規はこれを見てどんなことを感じ、どんなに言って来るだろう、きっと小言をいうにちがいないが、こんなまずいものは以後世話は出来んななどといわねばよいがと心配ばかりしているところへ、その月の二十一日附で次の如き長文の書簡が届いた。読者も定めて興味をもってこれを読まんとするだろうと思うから、左に全文を掲ぐる次第である。 ほととぎす落掌。先ず体裁の意外によろしく満足致し候。実は小生は今少しケチな雑誌ならんと存じ「反古籠」なども少き方よろしからんとわざと少く致候処はなはだ不体裁にて御気毒に存候。よりて編輯の体裁につきて議すべきこと少からずながら失礼。アア無秩序にては到底田舎雑誌たるを免かれず候。 第一、俳諧随筆類と祝詞と前後したることは不体裁の極也。最初に発刊の趣旨を置き、次に祝詞祝句を載せ、その次に随筆類、その次に俳句などにて宜しかるべくと存候。 発刊の趣旨は色紙を用いざる方よろし。色紙を用いるならば祝詞祝句と随筆類との中間に挿むか、または他の文と募集句との中間に抑むかして、その上は募集句広告許りにてものせたし。 第二、募集句の第五等を四分詰にしたるも苦しそう也。これは小生兼て申上候通り、多ければ下より御削り可相成候。御忘れありしか如何。もし出来得べくんば四等以上にも出たる人の句を削り、その外のかつかつ五等及第の句のみを残せばなおよし。 第三、蕪村の句を入れるもよろしけれど一句ごとに蕪村の名あるはうるさし。蕪村とはじめにあればそれにて十分也(これは瓢亭より注意) 第四、瓢亭曰く募集句は鳴雪、子規代るがわる(一月おき)見ることにしては如何と。愚考にては前にも申し上げし通り、募集句を二分して違う部分を見てもよろしと存候。瓢亭説にてもまたたまたまには一処に同じものを評するも面白しと存候。これはしかし売行にも関することと存候故、貴兄も御考可被成また広く一般趨向をも御間可被下候。 またある時は草稿を三分四分して碧虚なども一部分を見るもよろしからん。 第五、募集題鶯、春風とはわるし。春風は昨年も海南新聞にて募集したるもの故よろしからず、同じ題が出ては前の募集句を見ておかねば剽窃の煩いあり、また同じ題ばかりでは投句家の詩想広くならぬ憂あり。 また一号の題に千烏、時雨という動物天文ありて、今度もまた鳥類と天文とは余程素人くさき題の出し方也。貴兄にも似合ぬと存候。小生の我儘を申さば一応小生に御打合せ被下まじくや。 ○以上欠点 こんどは題を一つにして余程材料を少くする御覚悟と見つれども、それならば祝詞の代りになるべき文章か俳句かをしっかり集める用意なかるべからず。碧、虚、瓢がはじめそれぞれ貴兄よりきびしく御請求あるべく候。 嗚雪翁と僕とは黙っていても送る。 また募集句も今度は一号の半分あるまじと存候。それは題が少きと題がわるきとに基囚いたし候。その覚悟にて他の材料御あつめ可被成候。 鳴雪翁曰く校正行届きたること感心也。 先日嗚雪翁は小家に来られ曰くほととぎす今日一部来れり。なお諸方へ得意をつけんと思う故一部三部でもほしければ取りに来りたりと。小生方にも一部より参ら図と申し候えば御失望の様子なりき。万一瓢亭方へでもと存じ間合候処、同人へも一部しか来らずと、さては貴兄もぬかり給えり。とにかく初号也。残りあらば何部にてもよこしたまえ。鳴雪翁は少くも五六部はほしといわれたり。(これは久松家及び諸俳人に贈るため)とにかくほととぎす発行につきては鳴雪翁一番大得意也。翁は一号を見てうれしくてたまらねば、即日小家へも来られたるわけ也。 正直に申せば小生嗚雪翁程には得意ならず。一号を見た時はじめはうれしく後には多少不平なりき。しかし出来るだけは完美にしたいとは思う也。御勉強可被下候。ー円くらいの損耗ならば小生より差出してもよろしく候。 嗚雪翁のうれしさは、あたかも情郎の情婦におけるが如く、親の子におけるが如くにて体裁も不体裁もなく、ただむやみやたらに嬉しき也。ほととぎすは翁の好意に向って感謝する処なかるべからず。鳴雪翁は二号に「粛山公の句」を送らるる由、小生は反古籠を永く書くべし。右大略批評如此候。以上 一月二十一日 正之君 一号残りお贈り被下度、鳴雪翁宛にてもよろし。 当地昨今厳寒 手凍えてしばしば筆の落ちんとす これを読み了って予は一息ついた。編輯上の欠点に対するその小言は固よりこれを甘受する。これは徐ろに改善するとして、規、鳴雪先生らの、その紙面に溢るるばかりの熱誠なる真情好意には、子規の言の如く深く感謝する処なかるべからずと思ったのである。 前にも言った通り「ほととぎす」はその印刷製本を挙げて海南新聞社の印刷工であり、また俳句の同人である河図、金波の二子に嘱し、二子は新間の余力をもってこれに当るのであって、時間などの上からその能力は甚だ微弱であったから、県外より来る原稿をまとめてこれを整理編輯せし後、印刷に附せられては、発行期日を誤らざるを得るやその点保し難きものあり。ついては原稿は先著のものより順次印刷に附し、遅著のものはその性質種類の如何にかかわらず、これを後に組み込む方針にて編輯されたしとの申出は、その能力を知っている予としてこれを拒み得ず、編輯の秩序を無視してあえて二子の申出に従ったのであったが、子規が特に指摘非難するところもまたこの点である。自分も固よりこれを遺憾とすれども、実際問題としては外に良策無く、その後この事情を打あけ苦衷を子規に訴えたが、その返事にはマア成るたけ注意してやり給えというようなことで、彼もその点はやむを得ざることと諒解してくれたものらしかった。 ほととぎすの初号であったか二号であったかに、募集俳句の選者として子規宗匠と書いたことがある。子規は別に何とも言って来なかったが、妥当でないと気附いて一号限りで改めたと思う。それを今になって冷評するものがある。月並俳句の選者称たる宗匠名をもって子規を呼ぶは笑うべきだとか何とか、四十年前のことを今頃挙げて得意気なことをいっているのを何かの誌上で近く見たように覚えている。予も今日でありせばそんな文字は用いなんだであろうが、当時は未だその見識が出来ていなかった。子規全集の書簡の部を見るに、明治二十八年七月二十七日附の書簡に鳴雪宛で半月庵宗匠座右とあり、八月二十九日附には鳴雪宗匠梧下とあり、また十月十日附には嗚雪老宗匠侍史と記され、いずれも宗匠名が用いられている。必ずしも戯言とは見えないのである。(柳原極堂 友人子規) 『ほととぎす』を出しよった時分……田中蛙堂が号外印刷の係で、版は松川金波というのが拾うて組む。蛙堂が号外を刷る機械で刷ってくれる。夜刷るのじゃ。昼は新聞があるし、内緒の仕事じゃけん夜通しにやる。年の暮れになると紙代の請求が渡されるが、そのうちにというて払わせん。そのままじゃ。店の人は飲み仲間じゃけん、それですんでしまう。紙代もタダ、印刷代もタダ、インキもタダ、みなタダでできた。はじめからしまいまで三百部刷った。はじめは県内へ配ったが、のちには県外からも注文があり、その方が金になるけれ県外へ送った。一部六銭じゃけれ、みな売れても十八円じゃ。ウソのような話よ。三十年の一月から翌年の八月まで続いて出したのじゃが、母親の病気で帰っとった虚子が、子規から極堂の雑誌を譲ってもろて東京で発行するようにせいといってきたといって、子規の手紙をもって訪ねてきた。(越智二良 子規こそわがいのち 極堂談)
2021.08.23
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明治22年の夏に松山へ帰った極堂は、海南新聞社の記者になります。 この年の年、子規は結核の療養のために松山へ帰り、小康を得て状況。12月にまた松山へ帰ります。 翌年の正月5日、子規は太田正躬、柳原正之、藤野潔、秋山真之を誘って、親戚の歌原邁が経営する三津の生簀(溌々園)へ向かいました。極堂は、社会人になったところを見せつけようと、黄八丈の羽織袴に雨も降らぬのに蝙蝠傘といういでたちで、みんなを待たせました。極堂のような人物を松山では「ヨモダ」といいます。 子規は、この時のことを「明治二十三年初春の祝猿」に書き、極堂は『友人子規』に記しています。 明治二十三年一月余が郷里伊予松山に帰省して病を養いいたりし頃、丁度在坂の旧友、太田正躬氏も帰省したりしかば、ともに相談して五日の午後、三津の生巣に飲まんとて、太田、柳原正之、藤野潔三氏とともに秋山氏をさそう、同氏あらず。すなわち下婢にそのむねをいい残して同家を出ず。柳原如水後より歩みながら「太田を後から見たんで大阪紳士の歩き様が分る」とひやかせり、これ抑いやかしの始まり也。けだし太田氏は今、大阪商業学校の教員たればなり。如水は今、海南新聞社に在て筆を採りいることならば、これも松山の紳士なり、いでたちを見てひやかしくれんと余は心中に待ちかまえたり、秋山の家の町を出れば病院下なるが 如水は皆に向い「一寸内に帰ってくるから そろそろさきいきよってくれ」といいたり。如水の家は病院下にあり、余ら徐々として牛の如く、亀の如く、葬式のお供の如く歩みてはや二番町のかどまで来れど、まだ出て来ず。同処に在て待つこと五分余。まだ影も見えず、サァそろそろ悪口が始まりたり。余「あいつはきっと着物を着がえよるにちがいない、大変遅いなァ」といへば皆々一致す、しきりに足をつまだて頸をのばして、彼方の空よと打ちながむれど一向に来ず、よき着物の見ゆるごとに、あれこそといいしが、皆あたらず、しばらくする内、向うより蝙蝠傘をさしてくる者あり。太田「あの蝙蝠傘がそうじゃないか」余「まさか松山の紳士だって 雨もふらぬに傘はさすまい」とて皆々笑い興じいる内、たちまち向うの方に光り物がして目まぶしき程なりと思えば如水なり、上着は黄八丈にて下着羽織皆これにかなう。余「松山の紳士は支度に念がいったナァ。太田はお前が蝙蝠傘をさすかと疑った位だぜ」と笑いながら阪本、山路二氏の家に到れど皆おらず、三津口停車場に至りて汽車を待つ間に秋山氏も来れりしかば、同車にて三津へと出で立ちぬ、きょうは余らも紳士の仲間入りなれば、もちろん中等の切符を買いたるはいうまでもなし。秋山は後から来て、ことに気がきかぬ故、下等切符を買う。乗車の時に際し、余は秋山にめくばせし、君は気がきかぬよ、きょうは我々も紳士だよ、下等切符とはお気がつかれたなァと口には得こそいえばえに 腹の中の苦しみを目まぜ顔つきのこなしにて、団洲よろしくという身ぶりしければ、秋山もそうかといったような顔をして直様切符を隠し、何がさても、ぬかりはせぬという顔にかへて 中等列車へと乗り組みぬ、総てここらは紳士の積りなれども 着物ばかりは黄八丈にすることができぬから残念極りなし。三津につきぬ、生簀に至りて酒肴を命じ、五人相ともに盃をあげたり。左氏の筆法をもってせば 大阪紳士会松山紳士於三津浜禦亭為観魚也 三書生従之 非幇間也 都々一学者の筆をからば 書生三人紳士は二人 三津によったり五人づけ かくて酒は一めぐり二めぐりすると始まった始まった、悪口でかためた、素顔でさえ、思うこといわでやみなば腹ふくるるなどと前書つきでしゃべっていた紳士偽紳士の口さきは盃、軽くなりにけり、けだし食う間は食う方に口を動かす故、余りしゃべらねと、吸い物椀は骨となり、さしみの皿、ていれぎの葉、残ること三枚などというようになりては、始末におえぬ程の悪口也。余すなわち栄螺の壷焼を命じ、これをもってしばしは口に栓をあてがいしが、栓がぬけるといよいよ悪口は迸り出でたり、腹ふくるるはものいわぬからだなどとこじつけて縦板の水、絶間なし、ついには秋山までが管を巻き出し「柳原、お前は才子だ」と公言すること五度に及べり。余傍から「松山才子の相場も大概きまったなぁ」秋山「太田に忠告することがある、妻をとるとも、大阪の女のは取ってくれるな、それよりは松山の女をとれェよ」余等先刻よりよってたかって大阪紳士をいじめたり、君が今いった「ありません」の「せん」は大阪の口調だよ、などとてひやかせしが、すめば都の習い、紳士は我々ほどには大阪をきらわぬと見え、秋山に答え「必ずそうともいはれない、大阪だって、ええのもあるよ」如水「ええてて、わるいてて、大阪の女のたてりじょんべには恐れる」というに皆々ふき出したり、この小便で大阪の話は落ちとなり、こんどは余に向い、秋山「正岡にいうが、お前学校を卒業しても教師にはなるなよ、教師ほどつまらぬものはないぞい、しかしこうやってお前がいきておるのは不思儀だ」などと独り面白がりてしゃべりちらす。如水が三津の猫を呼ぼうなどと、はや紳士然たる振舞に、おのれこしゃくなと余は頭から一もこもなくこの建議に反対せしが、起立満場の姿にて、この議案は消滅し、八時半の最終汽車にて帰松したり、この日の会は近頃愉快を余に与えたるものなり、何となればこの五人が一堂に会して酒を飲みたることは天地開闘已来始めて也。またこの五人が一堂に会して酒を飲まんことは、今より後、地球滅亡の際まで恐らくは無きことなるべければ也。しからばこれを千歳一遇といわんよりは、むしろ無窮の時間内にただ一たび起りし空前絶後の会なりかし。(明治二十三年初春の祝猿) 予は前年東京を引あげて松山に帰り、俗に病院下と称する小唐人町三丁目から、北歩行町に曲る南角家に、借家住居をしていたころのことで、太田は大阪から、あとの三人は東京から正月休暇のために帰郷していたものである。時間は午後二時ごろでもあったろうか、子規は太田、藤野二氏を伴つて予の玄関先まで来り「我々はこれから三津の生巣に半日の清遊を試みようという話になったが、君も同行してはどうかな。秋山へも声をかけて置いたから多分後から来る筈じゃ」と促されたので、予もその一行に加わったが、折柄小遣錢が払底していたから、家主の処へ走って小遣錢を借入れるなど、二十分ばかりも出門がおくれて、彼等一行を途中に待たせたのは滑稽であった。秋山も、古町駅から汽車に乗る頃一行に追いついた。後には日本海々戦の名参謀としてその名を天下に轟かした秋山も、この日は相当酔っぱらって、管を巻いたことを記憶してある。子規はその時の顛末を、面白おかしくこの文に叙している。 子規は、子の会筵を三津の生巣と書いているが、同じ生巣のことを、ある時は新浜の生簀と書きまた――面の溌々園といい、紅葉会稿のうちには籞の一字を題してこれに「イケス」とふりがなを附しおり、また漢詩の場合では三津魚獄といっているなど、場合によつて用字が区々であるが畢竟同一場処で、今の三津稲荷新地の北裏の堀川畔にあった生巣のことである。今日は廃れてその跡もないようだ。(柳原極堂 友人子規)
2021.08.21
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東京での極堂と子規の関係は、次第に変わっていきました。もちろん、同郷で幼馴染ですから、会うと親しく話すのですが、頻繁に会うことはなくなりました。というのは、極堂は在京の藤野政高(のち海南新聞社長)・白川福儀(のち松山市長)、長屋忠明らのところへ行くことが多くなってきました。また、年上の人たちと遊ぶことで、交友の内容が変わってきたようです。極堂は、子規を吉原へ連れて行ったことを自慢していますが、極堂は明治22年5月に松山へ帰ることになりました。子規が喀血をしたのですが、子規からは結核であることを伝えられず、東京を離れたのでした。 居士は一生の間に恋をし得たかどうか女を愛し得たかどうか。この点は私さえ更らに知るところがない。馬鹿な問題のようで、しかも実は居士の文芸上相当研究に値する事件だと思う。が、私との間に一度こういうことはあった。ある晩居士は私の下宿をたずねて、君は吉原に遊ぶそうだね、僕を今晩その吉原へ案内してくれ給えという、実際私は二三度先輩につれられて吉原に遊んだのだから隠す訳にゆかぬ。ついに居士の懐中をあてに二人で吉原へ出かけた。 翌朝居士の日くに、遊廓というものは予想したように面白いものではないねとその失望の情がまことに気の毒に感ぜられた。実は私の案内した妓楼は大店でなくて中のまた中なる小格子なのであったから居士がかつて人情本や草双紙で読んだ柳暗花明緑酒紅燈といったような吉原情緒などは到底こんな小格子には需め得ないものであるから、その殺風景な当夜の光景は居士をして唖然たらしめたのであろう。これを思うと、居士は性欲のためにあらずして、その遊廓情味を味わんとして私に同伴を求めたものかと想われるから、居士の女を知っているかどうかはこの行に由ってもやはり疑問である。(柳原極堂 子規の青年時代 子規と女) 私は事情があって明治二十、二十一年の両年間は居士に無沙汰をした。二十二年の夏のはじめつかた、私は伊予の新聞社へ聘せられることになって、暇乞いかたがた居士を本郷真砂町の旧藩主が地方青年のために設けている常盤会寄宿舎に訪問した。私は居士に対してかつて三円の借りがあるから、これも返還しておきたしと思い、現金で返すもなんだか水臭い感がするから、品物にしようと思って、その節外国から初めて輸入されたニッケル製の製中時計を買ってこれを持参した。居士は病気だといって蒲団の上に静臥していた。どこが悪いのかと尋ねてみたが、惟には答えないで、このごろは発句に熱心しているとか追々同好者が殖えて、しばしば句会を開くとかそんなことを語っていた。非常に機嫌がよくて精神上には愉快を感じているように見えた。新海非風子が枕頭に在って何にかと世話を焼いていた。 時計を出してやったら喜んで指先にブラブラさせて見ていた。後に聞くと、何でもこの数日前に喀血をして、そのため静養していたのだそうだ。 居士が俳句に立脚して、その革新の偉業に歩をすすめたその第一歩は思うにこの時であろう。孤児の胸中すでに期するところあって、眉をあげて俳句の将来を遠く彼方に望み、燃ゆるが如き勃々たる功名心に自ら慰めつつその第一歩をここに踏出したのであろう。 体質上に尾ける居士の自覚は、その野心の全部を一度帳消しにして自ら妥協を計り、この辺で陣容を立て直して、もっぱら文芸方面に進出するの覚悟をきめたであろうと思う。(柳原極堂 子規の青年時代 喀血と俳句)
2021.08.19
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極堂と子規の交わりの中で、式が俳句に興味を持った頃のことを極堂は記しています。それによると、明治17・18年頃には、子規はまだ俳句を自らの興味で行なっているだけで、これを確信しようという考えにはまだ至っていませんでした。 極堂は、子規と俳句の関係を偶然の結果だと断じています。ただ、極堂は、子規が大原其戎のところへ行ったのをそばで見ていました。その手引きをしたのが勝田宰州で、そのことを『友人子規』に記しています。 明治十七、八年のころ、やはり板垣時代だ、孤児は発句に興味を持ち作句を始めた。その動機や原因は私は知らないが、とにかく居士はこの下宿時代から発句に興味をもって自分自身で作句を始めたのである。これは私の想像であるが、恐らく居士はその当時においては発句に対する革新的意識などは持っていず、単に平民文学として面白いから始めたというに過ぎなかったものと思うのだ。 私にもやれやれと勧誘されたが、三度に一度は断り切れずしてツイおつきあいをした位に過ぎぬから、当時発句について余り多く居士の意見を聞く機会をもたなかった。居士は、私らと盛んに天下国家を論じて将来の宰相を以て任ずるような勢を示すかと思うと、また時には宇宙人生を論じて哲学者ぶった口吻を気取ることもあってまた文芸は既に手に入ったもので、新に発句の研究を始めるなど実に多趣多情で、いわゆる往くところして可ならざるなき才人であったが、しかも将来自分の行くべき目的はこの時まだ確定していなかった。いよいよ文芸をもって名を成そうと決心したのは、まだ二三年のちのことだから、今日の発句研究と後の俳句研究と多大な因縁関係をもってこれを観ることは間違いである。むしろ偶然の結果を来たしたに過ぎない。 ある時九段坂下の夜店で、私は古びた額面を見つけだした、それは芭蕉十哲の像にそれぞれの句を一ずつ題したもので、書画ともに瓢逸なあかぬけのしたものだ。言値の二十五錢を投じて早速居士の下宿に持込んだところが、是非自分に譲れと居士はせがむ、お断りだと拒絶する、二日ばかりじらした後、実は君に買って戻ってやったのだといってくれてやった。蕪村の作かなど居士はいっていた。(柳原極堂 子規の青年時代 発句の始め) この夏には予もたまたま帰省省していたが、何のためにか子規との出会は極めて少なかったから、語るべき杯料を多く持っていない。一度子規を訪問すべく予はその玄関に入ると、今ちょうど三津ケ浜の其戎という宗匠をたずねるべく出掛けるところだが、暇があるなら君も同行してはどうかということであったから、そのまま子規と連れだって三津ケ浜に向った。未だ汽車のできない頃だから、往復三里を話しながらテクテク歩いたものだが、何を話し合ったか少しも記憶がない。 三津ケ浜の何町であったか覚えていないが、店は呉服屋であった。その店が其戎の宅と教えられて、その店に名剌を通ずると、隣へ廻ってくれとのことで、一応店を出て隣へ這入り直した。隣といっても仮に入口を別にしたままで、家は一つであったように覚えている。通されたのは六畳位の二階で、その壁といわず、襖といわず、天井に至るまで俳諧に関する文書類で、貼りつめられて一杯だ。各地方より寄せし風交上の消息なども、だいぶん交っているようであった。 そこへ現れたのが七十以上と思わるる背の高い上品な老人、頭はつやつや光っていた。これぞ宗匠大原其戎であるとはすぐ覚り得られた。極めて真面目で、おちついて言葉もすくなく、しかも鄭重なその応接ぶりに対しては、我々は余計な口がきけず、子規は早速予て用意の句稿、それは半紙一枚に十句ばかりの俳句をしたためたものを懐中から取り出して、その批評を需めたが、其戎は徐ろに紙面に目を通した後、至極結構に出来ていますといいつつ句稿を返して、しばらく何もいわないので子規は、また季のことについて一二言質問を試み、匆々帰り支度を始めた時、何日頃東京へ御帰りになりますかなどと少々愛嬌をいっていた。この訪問時間は三十分を越ゆることはない、至てアッサリした簡単な会見であった。「俳句を作るは、明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」とかまた「俳句の師としては大原其戎翁に少々学ぶところがあった」などと子規がその「筆まかせ」のうちに書いている由を、先年松山で開かれた思い出座談合の席で聞いた時は、予ははなはだ変に感じた。わずか三十分ばかりの一回の会見で、其戎を俳句の師だとか、俳句はその会見に始まるなどというのは実にけしからぬ。子規は何のためにそんなことをいうのかしらんと、予は深く疑ったのであったが、その後子規全集の「筆まかせ」を読むに及び、初めて成程と合点をした。明治二十年九月十九日、すなわち子規が松山から東京に帰着して間もなく、其戎からの書信を受けているのを第一信として、二十二年一月二十八日の受信を最後のものとなし、その間二三回の文通を得ている。しかしてその多くが詠草に対する批評添削であって、子規は会見後一ケ年あまりの間、文通をもって其戎の指導を仰いでいたものと知り得らるるから、唯一同の会見ばかりと信じ切っていた予の疑は、自ら氷解したわけである。これについて河東碧梧桐氏の説なりというものを大阪の亀田小蛄氏から報じ越された。「来阪中の碧梧桐氏から其戎問題につき一説を聞くを得た。子規居士が其戎翁に遇ったのは、あるいは柳原氏のいわるる如く一回かも知れないが、相当文通の上で、その月並の集冊へ句を投ぜられたのは事実である。というのは碧梧桐氏の家兄たる竹村黄塔氏が、やはり其戎一派のうちで作句され、その号さえ本名の鍛にちなみて、其十として投句されたものであったとのことである。しかして子規も、其十も、其戎社下の集稿に活字印刷の発句として発表されていたとのことである。されば子規の発句の活字に生れた濫觴は、ここにあるのであるが、それは学んだというのではなくして、興味本位の出句と見るのが妥当であろうと思う、との碧氏の説には余ももっともであると思うたのである」と。 子規のために紹介の労をとられし勝田宰洲氏が先年著わされし「ところてん」という随筆を見るに、そのうちに「明治二十一年頃と考えるが、その時子規はすでに大学予備門に這入って、夏期休暇に郷里に帰って来て、しきりに俳句の話をしておった。自分は発句のことについては一向分らなかったが、とにかく発句というものは、これを研究するとすれば、多少その道の師について聞くということが必要であろうと思って、丁度自分の知っている人で、三津ケ浜という所に四時園其戎という七十余の老人があった。この人は、全く浮泄と離れて俳句を嗜んでいた。(中略)よって自分は、子規にとにかくも一度会って俳句の話を戦わしては如何と勤め、子規もその気になり、ある日紹介の労を取った」と記されている。ここまではその紹介に当った経緯を述べたもので、子規の其戎訪問の動機がこれで明かになっている。(柳原極堂 友人子規)
2021.08.17
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上京した極堂は、駿河台の共立学校に入学し、子規も一時ここに学びました。 上京した子規は、まず極堂から聞いていた旅館を訪ねます。訪ねてみると極堂の姿はなく、教えられた下宿に行くと三並良がいました。しばらくして極堂も帰ってきて、子規は生まれて初めての菓子パンをついばむのでした。 去年六月十四日、余ははじめて東京新橋停車場につきぬ。人力にて日本橋区浜町久松邸まで行くに銀座の裏を通りしかば、東京はこんなにきたなき処かと思えり。やしきにつきて後、川向いの梅室という旅宿に至り、柳原はいるやと問えば、本郷弓町一丁目一番地鈴木方へおこしになりしという。余は本郷はどこやら知らねど、いい加減にいて見んと真直に行かんとすれば、宿の女笑いながらそちらにあらずというにより、その教えくれし方へ一文字に進みたり。時にまだ朝の九時前なりき。それより川にそうて行けば小伝馬町通りに出ず、ここに鉄道馬車の鉄軌しきありけるに、余は何とも分らずこれをまたいでもよきものやらどうやら分らねば、躊躇しいるうち、傍を見ればある人の横ぎりいければ、こわごわとこれを横ぎりたり。その後はどこ通りしか覚えねど、大方和泉橋を渡り(眼鏡かも知れず)、湯島近辺をぶらつき、巡査に道を問うすべをしらねば、店にて道を問いながらようよう弓町まで来り。一番地というて尋ねしに提灯屋ありければ、ここに鈴木というて尋ねしに、この裏へまわれ、小き家なりという。裏へまわるにどの家やら分らず、鈴木という名札を出したる処なし。遂にそこにある一軒の家に入りて問うて見んと「お頼み」と一声二声呼べば「誰ぞい」といいつつ出で来りしは、思いぬもよらぬ三並氏なれば、互に顔を見合してこれはこれはという許り也。余ははじめこの家より出てくる人は知ら〈ぬ〉顔也。 もし知りたる顔ならば柳原ならんと思いしに、事不意に出でたり。三並氏も余の出京のことは露知らねば驚きて、「まず上れ」という。上りて後柳原はと問えば、今外出せりという。その時は最早十二時近かりしならん。色々の話の中に柳原も帰り来り。ここではじめて東京の菓子パンを食いたり。(明治17 東京へ初旅) 私は明治十六年の夏、居士に先ちて上京し居士はその秋出て来た。本郷壺岐坂の鈴木という下宿にしばらく同宿していたが、居士は大学予備門に入ることになって、神田猿楽町の板垣という下宿に転じ、私もその後居士の近所へ移ったから相変らず毎日の如く出逢っていた。 居士の下宿には後ちに海軍兵学校へ転じた予備門在学中の同郷人秋山真之がいた。秋山と居士と私と三人はよく本郷や神田の落語講談の寄席漁りをしたもので気に喰わぬ芸人が高座に出ると、下足札をガチガチ鳴して盛んに妨害を試み、それが奏功すると大声をあげて喜ぶのは秋山だった。居士も少しばかりは妨害につきあっていた。 居士の下宿に遊びに来る者は余り多くなかったと記憶する。前年水戸方面から代議士に出た菊池謙二郎あれが折々来たのは覚えている。菊池は白面の書生であって、すでに老熟した文字で書翰を書くのがうまかったことが印象に残っている。 この頃のことだ、居士が学校から戻って来ると妙な手つきや腰つきをして子規りに飛びまわるから、それは何のまねだと笑ってやったら、これは野球をうける態度だと答えた。野球が学校へ入ったのはこの時分で、居士がまんざら運動方面に無関心でなかったこともこれで知らるる訳だ。(柳原極堂 子規の青年時代)
2021.08.15
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柳原極堂は、慶応3年2月11日松山北京町に生まれました。旧松山藩士・柳原正義の長男で、名は正之、幼名は喜久馬といいました。一時県庁の給土をしたのち、明治14年9月に松山中学8級(最下級)に入学します。子規はすでに五級に在学していましたが、小学生時代のことを思い出し、何とかして交際したいと考えた極堂は、子規ら五友が漢詩を作っていることから思いついて、五言絶句一首をつくって子規に送りました。 その内容は、君を想うて日夜靱綿の情に堪えず、この心を容れよという意味でした。子規から返事が来て、君は伉儷(配偶)を求められるようだが、他日機を見て媒酌しようと言うのです。極堂は、自分の市側街を反映させていないと知り、気まずく思います。 詩ではなまぬるいので、直接交際を求める旨の手紙を出すと、子規はさっそくたずねてきて、それならそうといえばよいのに、詩などよこすから勘ちがいをしたと二人で大笑いしました。 以来二人は深い交りを結ぶようになります。明治14年のことでした。 当時中学生問に東都遊学熱が高まり続々上京、柳原は明治16年5月、松山中学を中退して上京します。 極堂の『友人子規』に、上京前のことが書かれています。 予は明治十六年の五月に松山中学校を中途退学して上京した。子規よりは約一ヶ月先発したのである。遠く旅に出るのだから羽織の一つくらいは新調して持って行くがよいというので、母が紬の単羽織を造ってくれたのを着用して親類や友人方に暇乞いに廻り、子規の宅へも立寄ったが、また何時再会が出来るか予め期しがたいから、今日はユックリニ人でどこかへ遊びに行こうではないかとの彼の提案に同意して、それでは今からすぐ行こう、場処はどこだと間くと、どこといったところで別に行くところもないから、平生遊びつけの石手川堤へ行こうというので、予は立ちがけるとちょっと待ってくれという。どうしたのかと問うと、彼は苦笑しながら、君その羽織をぬいでくれ給え、これまで君と遊ぶにお互いに羽織を着たということはないのだから、今日もやはりこれまで通りで遊ぶことにしようじゃないか。君が羽織を着ていると僕は何となく淋しいような感がするよという。考えて見ると気の毒にもなって早速羽織をぬぎすてて出掛けた。「君も御承知通り僕には父親が無い。母はあっても家の差配は叔父に任してあるのだから、叔父の許可が出るまでは僕の上京がどうなるか、母にも僕にも判らぬのじゃ。その点が実に残念でたまらぬ。しかし僕は遠からず出て行くよ。やむを得ぬ場合は夜ぬけしてもという決心をしているのじゃ」と、子規はその堅固な面も独り胸中に秘めし決心を打あけ、東京での再会を誓いつつ拓堤の青嵐を飽喫して夕刻までブラブラと散策した。(柳原極堂 友人子規)
2021.08.11
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瓢亭の従軍記事は好評を持って迎え入れられたため、負けず嫌いの子規が従軍を決意したとも考えられています。 凱旋ののち後、瓢亭は「日本」に入社しますが、福本日南・古島一雄らの感化をうけて文学よりも政治への関心が高まり、国事に奔走するようになります。そのために生活も放埓となった瓢亭を心配した子規は、30年11月3日に長文の忠告状を送理、妻帯と読書をすすめます。 瓢亭は、近衛篤麿公の知遇を得てから国民同盟会を結成し、雑誌東洋を創刊します。34年には「日本」編集長となり、対外国論を指導。日露の間で火花が起こりそうな時期に、対露同志会を組織して強硬論を唱えます。37年に近衛公が没した後も国論を唱えて政府を諌めました。瓢亭と子規の道は、文学と政治へと大きく異なりますが、子規への恩義はいつも感じていました。。昭和4年以後は政教社を主宰して、雑誌「日本及日本人」を発刊しています。 正岡は陣中の我輩に宛ててしばしば手紙をよこした。多くは、仲間の消息を伝えたり、俳句界の近況を知らせたりして来るのであったが、そのうちに彼自身従軍したいと言って来たから驚いた。直に返事を書いて、戦地の衛生状態では君が来るのは無理だから、断然思い止った方がいいといってやったけれども、一度決意した以上彼はどうしても聞かない。ついに二十八年四月に宇品を出発して金州に渡った。いよいよ従軍に決した時は、よほど嬉しかったと見えて「生来希有の快事」といい、「小生今までにて最も嬉しきもの」として「初めて東京へ出発ときまりし時、初めて従軍と定まりし時」と書いて来た。しかし彼は一発の砲声も聞かず、皆の心配した通り、病を重くして帰ったのである。彼が無謀であることを知りながら、この従軍を敢行したのは、「小日本」発刊以来、鬱勃たる不平の遣場が無かった点もあろうが、一にはこの千戦一遇の好機に際して、大に戦争文学を作ろうという野心があったものと思われる。あるいは我輩の「従軍日記」なども多少彼を刺激したことになっているかも知れない。 正岡が九死に一生を得て、病餘を須磨で養っている間に我輩も帰って来た。何でも非常に海が時化て、宇品の棧橋が壊れたりした。下関へ来て内海が泥海になっているのに驚いたことをおぼえている。しかし広島までは帰って来たが、病人の始末が残っているので、なかなか解放されなかった。 正岡は須磨から度々手紙もくれたし、松山へ帰る時に広島に寄ってもくれた。 秋風や生きて相見る汝と我 子規 というのは、広島で会った時の句である。 我輩は何時頃まで広島にいたか、おぼえが無い。虚子のことを書いて来た長い激昂の手紙を、十二月中にやはり広島で受取っているから、よほど押詰って帰京したものであろう。帰って来ると直ぐ「日本」に入った。これは無諭正岡の配應によるものである。前に手紙をよこして、君が帰ったら「日本」に入れて貰うつもりでいるが、自分だけそう思っても、果してうまく行くかどうかわからぬ、が、君も勉強して従軍日記を送るようにしてくれ、と言って来た。こういうところにも正岡の性格はよく出ているので、決して軽卒に安請合をしない。若い時分から用心深いところがあった。「日本」の記者になってからの我輩は、だんだん仕事が忙しくなるに従って、文学方面には疎くなって来た。この記者生活の間に近衛霞山公を知るようになり、それが機縁で対外問題に没頭することになった。それまで文学方面におては、いろいろ正岡にいわれたこともあったが、どうも根が十分に下りない感じがする。対外問題ということに逢着して、はじめて自分の行くべき道がはっきりわかったのである。 正岡の文学的事業が確乎たる地歩を占めるようになってからは、我輩はほとんど没交渉であったといっていい。三十一年に和歌の革新に着手した頃、二三度歌会へ出たようなこともあるが、概してえば怠りがちであった。けれども暇さえあれば病牀はよく見舞った。正岡の晩年の病苦は並大抵のものでない、真に阿鼻叫喚の苦しみであった。我輩などはよくあれだけ持ったものだと思っている。あの苦痛に堪えていった気力は驚くべきものであるが、同時にあの病苦によって、正岡の人格が玉成されたことはいうまでもない。 正岡はその一生を通じて、理性の勝った常識的な男で、いわゆる文学者らしい、妙に偏したところは無かった。冷静ではあるが親切であった。あの年齢で、あの位整った、具足した男も珍しいと思う。我輩のような粗枝大葉でなく、かなりこまかいところもあれば、鋭いところもあったが、そうかと言って陰性的な、女性的なところは少しも無かった。あれだけ病牀に釘付にされていながら、女々しい愚痴などは聞いたことが無い。見識の高いことは彼の天稟であって、若い時分からほとんど本に読まれるということが無かった。常に必ず自分より下に置いて、批判的にこれを見ている。彼の素質は革命的、創造的で、決して随従的でない。その貼からいえば何事をやらせても、一宗の開祖になり得る人物であった。 もう大分晩年になってからの話であろう、正岡が「日本」の同人の中で、末永鉄巌、坂東太虚、我輩の三人を評したことがあったそうだ。これを工場に舒へて見ると、末永の工場は大きな煙突から盛に煙を吐きつつある。しかし中には機械も何も無い。ただ煙が盛に上るだけだ。我輩の工場は、機械が少しはあるが、あまり澤山は整っていない。が、これも煙突の煙は盛に上る。しかるに坂東に至ると、中の機械は実によく具備整頓しているが、煙は一向上らない、というのである。これは我輩が直接聞いた話ではないが、なかなかよく穿って胃る。正岡のこの種の批評にはなか中肯けいにあたった、傾聴すぺきものが多かった。 往年を顧るに、我輩を文学の天地に引入れたものは正岡であり、新聞社へ入れるようにしたのもまた正岡である。次いで対外問題に転じたのは霞山公の力によるのであるが、我輩の一生の方向はほとんどこの二人によって定められたといっても差支無い。対外問題に没頭するようになってから、我輩は全く文学の埒外に出たけれども、後年霞山公を喪って浪人するに及び、はじめて正岡によって学び得たところの少ならざるを知った。もし正岡に逢っていなかったら、如何なる失意、不遇の場合にも、常に自己を客観して平気で進むということは、あるいは困難であったかも知れない。しかも我輩の如きは、四十歳を超え、五十歳近くなってはじめてある確乎たる信念を得たるに過ぎぬ。正岡が早くあの年齢において、あれだけの覚悟と信念とを持ち得たということは、今日から考えて驚嘆に値する事質である。正岡は今日まで我輩の見た人の中でも、たしかに異数の傑物であった。(五百木瓢亭 我が見たる子規 「小日本」以後)
2021.08.07
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瓢亭は、「日本」新聞に入っていた子規から、新しく「小日本」の編集長になったことを知らされ、子規の誘いに応じて「日本」に入社します。せっかくの医者生活を捨て、新聞記者になることに、親戚などから反対されたのですが、子規との約束を重んじたのでした。 日清戦争がはじまると瓢亭は召集され、看護長として従軍します。各地に転戦する瓢亭は、犬骨坊の筆名で「従軍日記」を書き、文名を高めます。 話が大分混雑をして来ましたが。子規が大学を退いたのは、この廿五年の夏期休暇が境界線であったと思います。彼が『日本』に入社したのは大学をやめた当座でした。元来子規は早くから肺結核に罹っていましたので。まだ高等中学に通っていた時からしばしば血を略きました。子規という雅号も全くこの血を吐くという所から来たのです。かようにこの男の病身なのは随分久しいのでありますが。昔からその精神の堅牢にして少しも病人らしくないのは。我々同人を初め子規を知ったもので驚かされぬものはないのです。第一お医者様が舌を巻いているので。彼はほとんどその精神の精英で生きているのだ。とても尋常の人間であったならモウとうにまっているのだ。この向きでは一層全快してしまうだろうなどというております。一体こんな風の男だから書生の時分からまたすこぶる横着者で。とかく学校の科目などには余り心も傾けられないようで。自分勝手に勉強をしました。所がこの夏の試験で後一年という所で落第をやらかしたが。子規はこれを機として断然学校をよしました。当時子規の周囲は皆不平の声ばかりで。モウ一年で卒業だというに今やめるは馬鹿々々しい。人爵を崇拝するでは無いが、とにかく学士の肩書を取って置くにしくはない。などと注告するものの多かったようでしたが。面白いことにはこの時僕は一向そんな感じもしない。ナーニ学校を卒業して学士の肩書がなんだい。そんなもの今に掃溜にころがるのだ。という考えで平気なもの。やめるのもよかろうよ位な風で。却って欣んでいたと見えて今当時の子規の手紙の中に『小生の落第を喜ぶ者広き天下に只貴兄一人矣』という文句があります。イヤ僕も随分乱暴な奴です。 上にお話し致したように。木曽路の記を前ぶれとして子規は此秋『日本』に入社してから。ここでもっぱら文学の方を擔任して。かの俳句欄が初めて『日本』紙上に開かれました。今のいわゆる新派の俳句がようやく世間的になる第一着歩は全くこれに在りというて宜しかろうと思います。今まで日蔭者であった我々の俳句は。これから世間に出る通路が開かれたので一層乗気が出来ましたから。ますます必死の勉強で句作を試むると。既に進歩の途に向うている同人の句は。ずんずん若鮎の瀬を昇る有様になりました。ただ面白くてほとんど夢中で。このごろはわずかに『日本』の一隅に十行未満の所にポツリポツリと出るのが。非常に嬉しくてたまらなかったのです。我々の俳句はこの廿五年になって如是進運に向うとともに。句も発達するし。仲間も多くなるし。幾分か世間的になって来ました。とかくするうち、やがて明治廿六年の春を迎えました。 去年廿五年正月は。駒込の子規が寓居で非風と子規と僕の三人で。その競吟の発端を作りました位で。同人の俳句もすこぶる寂しかったですが。今年廿六年の正月は。全くその境遇を一変して即ち正月廿二日というに。根岸の岡野で大会を開きました。この時の兼題が。梅、鶯、霞というので一人二句でありましたが。(以下略・競吟の句) 進歩したとはいえ今から見ると恥しくて世の中に出されたもので無いが。しかし以前から見ると一段階段が違っています。クズの手も付けられない句が多いけれど。中には早や一ケの句として決して恥しくないのもあります。ことに嗚雪翁の句などは咋年入門した時から見ると極めて目立った進歩で。この句の中にある『夕月や納屋も駁も梅の影』など、いうのは。当時同人の間でも喧他致しました。 サテ右の内で桂山、松宇、猿男、桃雨というこの四人の連中は。以前に別に椎の友という一団体を組んでいたので。やはり旧派の宗匠連にあきたらなかった人々ですが。廿五年中に子規と交通が初まって後。この大会を機として以後ほとんどしばらくは一所になりました。その他の嗚雪、子規、明庵、五洲、古白、及び僕は同郷の者で嗚雪を除くの他は。皆青年で御座ります。また木同は僕等のいわゆる兵隊組で。当日先生は近衛二等卒の兵服。僕が看護手の服で坐りこんでいたのですが。すこぶる奇観であったろうと思われます。 所がこの日運座をやっている最中に。火事だという騒ぎで。ナンデモ浅草の方で猿男と桃雨との近所だということで。中途で。一座は解散してすぐに見舞に出かけましたが。その数日後に右の兼題の摺物と一所に。蒟蒻版で左のようなものを送ってまいりました。(以下略・競吟の句) 今はこの時に会合した連中も。色々に境涯を変じてうたた今昔の感に堪えませんよ。技師になって神戸に往ている者もある。税関長で函館にいる者もある。日本銀行の何かになって大坂にいる者もある。中学校の先生で国に帰っている者もある。東京にいる者も文部省に出るとか。仏国博覧会に関係したる会社へ出るとか。保険会社へ出るとか。郵便局長でいるとか、新聞記者でいるとか。各々方面が違っているので中々一つに会するどころでは無い。ほとんど顔も合さぬようになっている。もっとも東京にいるというても始終いついている者は少く。多くは地方へ出たりまた東京へ来たりというのですから、同じ東京にいることさえ分らぬ位です。中には行方の知れぬのもあるし。あるいは世の中を厭うて自ら殺したる古白の如きもあるのです。俳句界はその時から今日まで一年一年栄えているけれど舞台に上っている人間は年々違っているから面白い。(五百木瓢亭 夜長の欠び 5) 三年の軍隊生活は我輩にとってはむしろ暢気な時代であった。最初の六箇月間は人並に練兵もやり、およそ新兵が経験するだけの苦痛は嘗めたが、その後我輩は看護手を志願し、当時衛戌病院内に在ったその学校に入ったので、すこぶる楽な身分になった。この学校は六箇月で卒業する規定になっており、勉強といったところで大したことは無いから、その余暇を利用して盛に本を読んだ。卒業して隊へ帰ってからも、もう皆と一緒に練兵するようなこともなし、ことに我輩は医者の免状を持っているものだから、夜中急病人などが起った場合でも、先ず五百木看護手に見せて、しかる後処置を決するという風で、特別待遇を与えられておった。我輩の一生を通じて、この二年半ほど読書に耽り得た時代は全く無い。 その間に正岡の文学趣味はだんだん発達して来る。二十四年の暮には例の「月の都」という小説を書くために、寄宿舎を出て駒込に家を持ったりした。この駒込の家は我輩も行ったことがあるのだろうと思うが、今どうしても思い出せない。二十五年の春には根岸に移った。これは今の子規庵ではない。八十八番地の方である。我輩は正岡とは始終逢う機会があったし、また逢う以上に手紙を往復した。俳句の方もだんだん盛になる。例の何々十ニヶ月というようなものを、あとからあとからと作ってよこしたのはこの頃であった。 二十五年の末に正岡は大学をやめて日本新聞に入った。正岡が伊藤松宇と相識ったのはその前後からではなかろうか。二十六年に入っては句会の顔触も大分賑かになった。松宇と一緒に「俳諧」という雑誌を出して、二号か三号で潰れたのも、二十六年になってからだったろう。一方「日本」の文苑にも絶えず俳句を出すようになったし、吾々仲間の俳句も世間に出る機会が多くなって来た。 正岡が「はてしらずの記」の旅行に出る時、我輩は「松嶋で日本一の涼みせよ」という餞別の句を作った。「はてしらずの記」には「折ふし来合せたる諷亭一人に送らる。我れ彼が送らんことを期せず、彼また我を送らんとて来りしにも非ざるべし」と書いてあるが、このことは全く記憶が無い。軍隊にいた時分だから、その日が日曜ででもあって、偶然行合していたものかも知れない。 我輩の軍隊生活が終に近づいた頃、正岡が手紙をよこしてこういうことをいって来た。今度日本新聞社で別に「小日本」という新聞を出すについて、自分が主になってやることになったが、君も一緒にやらんか、というのである。我輩は元来医者になるのが厭で堪らないのだが、外に何も無ければ仕方が無いと思っていたところだから、早速承諾した。除隊匆々松山に帰ることになって、途中京都に碧梧桐、虚子を訪うた。両人ともまだ高等学校の生徒で、吉田村に下宿していた。「吉田のしぐれ」という句稿はこの時出来たのである。 松山では我輩が医者にならぬということについて、無論反対があった。しかし我輩は正岡と約束しているので、とうとう頑張って帰って来た。「小日本」は「日本」と同じく、紀元節に誕生したのだから、二十七年の一月中に帰って来たものだろうと思ふ。 昌平橋の通を真直に突当ったところ、神田雉子町三十二番地に日本新聞社は在った。団々珍聞の迹で、ボロボロの南京屋敷である。その筋向ーー中川という牛肉屋のならびに蕎麦屋があって、その隣の角家で奥に土蔵がある、その士蔵の二階が「小日本」の編輯室であった。八畳あるかなしの狭い部屋だったと思う。その時の顔触は古島一雄、齋藤信の二人が二面担当、仙田重邦が会計経営の方面で、多少経済記事などもやる。外に荒木という相場記者がおった。我輩は三面を引受けて、探訪を二人ほど使う。正岡は主に文学方面の記事をやることになって、旧稿の「月の都」を第一号から連載したりした。 日本新聞社では毎年創刊記念日として、紀元節に宴会を開くことになっている。この年は「小日本」の創刊祝賀を兼ねて、開花棲で宴会を開いた。正岡もはじめて自分が主になってやる仕事が出来たので、多少嬉しかったらしい。二次会をやろうと行って、我輩を吉原へ連れて行った。我輩を吉原へ案内した最初の人は正岡であった。「小日本」は小人数ではあるし、毎日一頁分位の記事を書いて校正から大組まで見て帰るのだから、午前十時頃出て行って、どうしても夜の十時頃までかかる。工場は無論日本新聞のを使うのである。我輩は新聞には無経験だったけれども、その頃は何か書くということに興味があったし、元来無頓着な性分だから、不馴な仕事の中に飛込んでも存外平気だった。月給十二円、その頃は十二円あれば、下宿をして楽に暮せたものである。正岡も割合に元気で、毎日車に乗って出て来た。 そのうちに画家が必要だというので、浅井の紹介で中村不折が入社した。これは毎日社に出て来たわけでもなかったかと思う。次いで石井露月が校正に入る。それまでは校正はめいめいが見て、別に校正係というものは無かったのだ。露月が入ってから間もなく、我輩は召集されて広島に行かなければならなくなったので、露月のことはあまりよく知らない、露月は「小日本」発刊後「日本」に移ったが、我輩が「日本」に入った時はもういなかった。その後逢う機会はあったかも知れないけれども、何も記憶に残っていない、今でも露月のことを考えると直ぐ眼に浮んで来るのは、「小日本」に来た当時の、鼻の低い、丸い顔である。 我輩と同時に入営した非風は、士官候補生になっている間に、肺を病んで軍隊を退いた。その後の彼は自暴自棄に陥り、放縦な生活に入ったので、正岡はすこぶる気に入らなかった。そういう薄志弱行ではいかん、というのである。非風が失業して困っているので、雑報でも書かしていくらか煙草錢でも取れるやうにしたのは、この「小日本」時代だったような気もするが、これもはっきりしない。「小日本」は紀元節に生れて盂蘭盆に倒れた。我輩はそれより前に軍に従って広島に下り、しばらく滞在している間に正岡から廃刊のことを知らせて来たのである。我輩が出発する時には、それほどセッパ詰っているとも思わなかった。原因は経済難であるが、当時は日清戦争前なので、「日本」は盛に内閣攻撃をやって発行停止を食う。仕方が無いから今度は「小日本」を代りに用いるので、この方もやられる。日本新聞社と小日本社と向い合って発行停止の看板を出していたこともあった。それやこれやで長く続かなかったのであろう。 我班がいよいよ出征したのは牙山の戦争が済んでからであった。陣中到る処から書いて送った「従軍日記」は、犬骨坊の名で、「日本」に連載された。この切抜は不思議に全部我輩の手許に残っているが、一体あれを書いたのは正岡の註文によったものだと思う。最初の間はすべて正岡宛に送り、正岡が目を通してから「日本」へ廻していたようであった。(五百木瓢亭 我が見たる子規 「小日本」以後)
2021.08.05
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瓢亭は、軍隊でも俳句の仲間を作りました。非風が幹部候補生となって鯛にやってきたことで、俳句熱はどんどん熱くなります。 瓢亭も、「作るから上達する、上達するから面白くてたまらないという風で、新俳句の発生は春風の一日一日暖かくなるにつれて草木の芽が日毎にのびるような勢い」で俳句を楽しむようになりました。瓢亭は、日本はの俳句と呼べるようになったのこ、明治25年頃だと記しています。 また、運坐について、古白がある会に出席したことを伝える手紙を載せていますが、当時の宗匠のダメさ加減がよくあらわれています。 明治廿四年の下半期においてようやく俳句の趣味を知りだした我々は。年新たまって翌廿五年時代にはやや著しき進歩をいたしました。かの競吟ないしは十ニヶ月なども同時に我々の間において一時非常の流行をする。これにつれてはまた句作がますます盛んであるいは一題百句などという新工夫も初まって来るという工合にどんどんと句作をいたしました。味がわかればわかるほど面白い。面白いから作る。作るから上逹する。上逹するから面白くてたまらないという風で。新俳句の発生は丁度春風の一日一日暖かくなるにつれて草木の芽が日毎にのびるような勢いでした。 これまではまだ仲間以外に風交が無ったがこの頃になって子規は幸堂得知または幸田露伴などと句を取りやりをしだしました。かの十ニヶ月を露伴が国会新聞へ出したのも全くその頃知り合てからのことで子規はときどきこの人等と連俳をやっていたように覚えます。僕は廿五年には看護手になって既に本隊に帰っていたが。この衛生部の仕事はどうしても他の兵隊よりは楽で時間の余裕もあったから文学思想などを養うには最も適当な位置で。僕は得たりかしこしといよいよ文学に耽っていたです。やれ行軍やれ演習というので時々旅行するときなども先生丸で官費旅行かなんかの心持ちて大得意で。人が鉄砲かついで走っている内にしきりに風景に対して句吟をやっていたという始末でした。僕が句作の上にこの演習とか行軍とかいう官費旅行は少なからぬ養成の恩を持って胃るのです。 何月頃からであるかこれは知りませんが。子規が松宇、猿男、桃雨、桂山なんどいう一の作句団体と交通を初めたのもたしかこの年でしたと思います。如是我々の仲間はこのとしになってますます句作が盛んなるにつれて。今まで数人の間に止まっていた俳句もようやく範囲を拡張して他と交通が開らけましたが。またこの勢に伴われて仲間のものも段々と増加するようになりました。五州、明庵などいう面面を初め可全などどしどし仲間入をして来〈ま〉した。かの虚子碧梧桐などこの時代にはまだ東京にも出ず京都の高等中学や国許にいる時で相前後してこの頃に発句を初めたのです。 鳴雪翁が初めて俳句界にはいつて来たのもこの二十五年時代です。今から見ると翁などもこの時代はまだ幼稚なものでお話しにならなかった。最も翁などを初めこの時代に起った人々は子規非風及び僕などに比べると執れも進歩は急速であったが。入門の初めにはやはり幼い句を吐いていた。僕はその頃青山の龍岩寺という寺をかりて休暇の日にはいつもここにこもっていたのですがこの年の夏からかけて鳴零翁は艇々おとづれられて。其度苺俳句上の話をしたり句作をやって榮んで居ました。其八月の月であったが。鳴雲翁と古白とが右の寺へ尋ねられたことがありましたが。その時翁は近作の酒十ニヶ月だというてこんな句を示された。 一月 上下の酔倒れあり御代の春 二月 菜の花や畔にわすれた酒瓢 三月 山守に酒ふるまいつ山さくら 四月 時鳥瓶子もてとの仰せあり 五月 田を植た宵の祝ひや濁酒 六月 舟ばたで盃洗ふ涼みかな 七月 つと入や酒の匂ひはたれなるぞ 八月 月のあけ枕と成りし徳利かな 九月 腰折つて酒は貰はん菊の花 十月 夷子講笑上戸はにくからす 十一月 神酒ぬすむ人見つけたら星神楽 十二月 又起て酒あたためる夜寒かな 今こんな句を出されては鳴雪翁もほとんど閉口の外はあるまいが。この時代にはまだこんな調子だったのです。しかしこんな風に追々仲間のふえて来るに従って俳句の研究も盆々活気づいて。かの運座などがようよう同人の間に初まって来ました。 この年は俳句上の勢力がしかく膨脹して来たばかりではなく例の小説熱も盛んで。子規が正月に『月の都』を草したことを初めとして。この春には非風、古白、子規、黄塔及ぴ僕などいう連中の間に小説会が企てられて課題を催けて毎月小説をかいて楽んでいました。お話がゴタゴタするようですが、この年の二月の末であったが。子規は駒込の草庵を立退いて初めて上根岸にうつりました。家は丁度陸羯南の前で某という婆様の家の一室をかりたのですが。ここは相変らず我々の中心になっていたので、その小説会なんぞを初め俳句などもここが焦点になって集っていました。この時分には非風は士官候補生になって僕の聯隊に来ましたので。離ればなれになっていた二人は再びここに朝夕談話をするようになったので。いよいよ文学熱が烈しくなって互に競争的に研究するという風でしたが。妙なもので類を以て集まるかこの無風流な兵営の内にいつしかこれが誘因となって俳客が続出するようになりました。 一番最初に兵隊仲間で句作に志して来たのは木同で。これは今兵庫県の技師になっている仙田林学士ですが、ブラ兵ではいっていていつしか僕と知己になったが縁で俳句を初めだしました。その他湖西などいう友人も初めだすし、なお数人の同好者が出来ましたが。今日一俳家となりすましたのはかの肋骨です。肋骨も今でこそ参謀本部へ出てサーベルをチャラチャラいわしているが。この時代にはまだ上等兵で士官候補生の試瞼を受ける前であったので。随分毎日の演習で骨身を砕いていましたが、ふと俳句をやり出してから中々熱心になりました。今反古紙を調べて見ますと、肋骨が初めて発句というものを作ったという面白い記事がのこっております。丁度廿五年の九月、僕が草庵のかの龍岩寺に木同と肋骨がやって来て。いろいろの話の末、運座をやろうといい出してとうとう初めましたことがありますが。この時が肋骨のはじめて発句を作ったので『仰向いて萩に顔出す牡鹿かな』『行秋やふるさと慕う軍人』などいう句を作りました。これが初めで木同肋骨僕の三人は兵隊組というので。ひそかに兵営の内に別に俳句の研究を起しましたが。しかしこの時代の肋骨は、まだ趣味がわかりかねているらしかったのです。『日本』に俳句欄が設けられたのも、たしかこの年の下半期だと思います。この秋子規が木曽路の紀行を『日本』に公にしたが。これと同時に子規は『日本』に入社して初めて文苑の一隅に俳句欄を初めました。いわゆる日本派の俳句が出世の発端といえば即ちこれで。従って新派発句の世に現われたのはまたこの廿五年の下半期をもって初めとするというてイイのであります。今まで幾年か人知れずものの小蔭に養成せられていた新派俳句の萌芽はようやくここに至って世人の前に現われて来ました。 しかしながら、まだこの年には今日の隆盛などはほとんど夢想だになし得なかったので。幾分か世間に出たは出たが、まだ小供らしかったです。運座などもこの下半期には早や盛んに行われていたようですけれども、上半期にはまだそれが珍らしかったのです。このことについて面白いお話しがある。それは古白が僕に運座のことを知らして来た手紙がありますが。これを見るとこの年の上半期にはまだ運座などいうものが珍らしかったので。かつは我々仲間の交通範囲が甚だ狭小であったことが知れるのです。 咋夜おかしきことの候いし。すぐ一間置て離家に発句運坐というもの有之由にて、人の紹介によりて参会致し候処、いやはや一驚いたし候。人数は無慮十三人も有之。多くは廿五六の年若き商人とも見えて候いしが、中にはいわゆる半可とでもいいたきが二三人相見え、老人も一人ふたりは御坐候いし。さて運座と申すことは妙なことにて御坐候。まず席に出れば札をとりて、それにて席順をきわめて一同円形に坐し、さて一人に一端に題を書きたる料紙二枚ずつくばり、これを受取れば先ずその本人題のしたへ左とか右とか一方を左とすれば一方を右とし、一方を右とすれば一方を左にし、さて発句一句かきて、左とかきたるは左へ坐りたる人へまわし、右とかきたるは右へまわす。左と右と雅号をちがえて書くべしとなり。一人一人に左右へまわせば、我かたへは左よりも右よりも来るなり。左より来たるはまた左へまわしなどする。これは面白し。料紙上図の如く半紙半枚なり。かくて左右よりまわりて我かたにて留まる料紙各人二枚あり。即ち各これを清書し、さて宗匠に判を乞うなり。 まことに大俗の集会、大かた目的は最物にあるか如し席料として二錢、はがき代として一錢を徴集す。句などは実にひどいものなり。また文盲なること驚くに堪えたり。小生の如きはこの仲間にてもっとも拙なるものなりし。かの半紙に清書したるを帖にとじて、催主が表紙に研究会発句運坐云云と書きたるには笑いを忍ぴかねたり。坐にまた卅には足らぬ婦人も一人見えたり。そのしゃべるもまた不楡快なりし。要之再度足ふみこむべきところにあらず。しかし世間の発句宗匠の置位などはこれにて大概は知れたり。小生は十一時ころに辞して去りたれども、中々一寸済むようはなく、また今のようにはやくすむことはなしと一人がいいたるに、世に若き商人の身としてはがきの景物とりたさに、あたら春の夜を無益に費やすこと、馬鹿の頂上とんまの第一というべし。 これで見ましても、まだこの時代には運座などの珍らしかったことがわかる。元来我々仲間は当初より宗匠連は駄目と見くびっていたので。俳句上の交通はどこにもなかったですから。世間に現われるように成ったのも、全く独立自力で仲間以外の誘掖薫陶というものはほとんど無かったのです。(五百木瓢亭 夜長の欠び 4)
2021.08.03
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明治23年、瓢亭は近衛歩兵に、非風は砲兵に入隊します。瓢亭と非風は入営しても休日ごとに子規をたずねて、俳句にふけりました。子規は、まだ俳句に才能を発揮できるほどではありません。ただ、子規は「俳句十二ヶ月」を考え出して、句を捻り出しています。また、仲間とともに行う「せり吟」で俳句の楽しさを味わっています。 瓢亭は、軍隊で看護手の候補者になります。もともと医師免許を持っていた瓢亭でしたから、普段の授業を聞かなくてもわかることばかり。そこで瓢亭は読書に耽り、漢詩を俳句に取り入れ始めました。 ここに僕と非風との境遇に一大変化が起って。子規と三人がいよいよ離れ離れにならなければならぬこととなりました。それは同じ廿三年の暮れに徴兵適齢で僕は近術歩兵に非風は近衛砲兵にそれぞれ当選したことです。これから朝タ一室で三人暮らしていた時のような研究は以来出来なくなった。先ず半年ばかりというものは新兵の数育を受けるので。我儘一方に育っていた書生は毎日骨身が砕けるようで。文学研究などの余地も何もあったものじゃなかったのです。ただ毎日曜一日はほとんど我々の命の洗濯日で。この日には欠かさず子規の所へ会合して一週間の談話を一時にやるのが例でした。しかしながらそれも当座で。少し兵営の生活になれて。寝台の寝心が落ちついてくるに従って。文学思想はソロソロ盛んになって来ました。むしろ一時押えられていただけ反動が強くなったらしかったです。 かくて翌廿四年の夏になって。僕は医者の免状があるというので。中隊から抜擢されて看護手の候補者になりましたが。その六月であったか。麹町の衛戌病院内の看護手修業兵舎へ入舎しました。ここの生活は兵営から見ると余程自由なので。少し規則の厳格な学校位な風でしたから。僕等は初めて手足がのばされたような心地で。すこぶる愉快でした。 僕は兵卒になってからいつも一種の激昂した気があって。この三年の兵営生活には大抵のものが馬鹿になってしまうが。おれはこの間に却って修養して少くも友人等がこの間学校などにて得るだけの所得を取って見せようと力味返っていたです。それが今この自由な境涯に移されたものだから。得たりかしこしでそれからというものはただ無暗と書物を読み出しました。元よりこの修業兵舎では毎日修業する日課はあるのです。しかし医者から見ると極めて低い看護学ですから。僕などは別にこれを復習するのなんのという必要がないので。大抵は自分のことばかりをやっていたです。僕が初めて俳句の趣味を解しかけて。俳句らしきものが出来だしたのも全くこの廿四年の下半期でした。 サア少しく味が出てくる。その面白さが何と譬えかたがない。ーつは功名心にかられているのですから。しきりに作句をしては休日を待ちかまえて子規の所へ持っていて批評さす。あるいは手紙で吹聴するという風で。僕等が発逹しただけ子規も非風も同じくずんずん進歩しているのだから。その研究もまた一倍の面白味が出て来たのでした。もちろんこの頃も俳句ばかりでは無いので。小説熱も非常に盛んで僕等も何んだか下らぬものを無暗に書きちらして欣んでいました。こういう風でしたからこの下半期の日月というものは。我々の俳句に対して少なからぬ教育を与えたのであります。 非風や古白は僕などより早く俳句の思想が発逹していましたが。僕は全くこの下半期にようやく真味がわかり出したのです。子規は年長でもありかつ学識も最も広かったので。俳句の方でも作以外の学識は初めから逝かに仲間を抜いていたですが。俳句の趣味を解しやや句らしいものを作りだしたのは。やはり僕等と同時代であったろうと思われます。全体僕等のこの仲間の発逹は。後から出て来た人から見るとすこぶる遅かったです。これはこの時分には誰れも教師の位置に立ってくれる人が無いので。ただ七部集などを初めとしてもっぱら故人の作について独り稽古をやっていたからでしょう。しかし僕が俳句の趣味を了解したのは。直ちに俳句からでは無かったようです。僕はこの時分に居詩選やそれから菜根談や老子とか荘子とかいうものを好んで読んでいたので。俳句の趣味も全くこっちから出たらしかったです。その詩形はとにかくその詩想はこちらの方で養われたのが多いようです。ダカラ僕はその後俳句を作りたいという人に逢うたびに。必らず唐詩選を読めとすすめて。この詩の趣致がわかれば俳句もわかるというていました。 この時代にはことに熱が烈しかったと見えて。僕は夢に句を作ったことがありました。『春の日の魂動く柳かな』拙いものですが。夢の中ではほとんど神様からさずかったように幽玄な名句と思ったのです。子規なども夢の中で得た句があるそうです。とにかくこれでその熱心の度合も測られます。ソレに誰れでもあろうが。発逹するときはほとんどその一段落のある境を自覚して。自分で何となく発逹したことを知りました。 翌廿五年の正月も子規が駒込の住居を叩いて非風と三人でセリ吟というものをやりました。セリ吟というのはセリ売などいう競の意で。つまり句吟の競争です。この競吟の名はこれからしばらく同人間に伝えられて一時大に流行したものです。ソレは味題を出すとすぐに句を作る。もとより句の善悪を見るのではあるが。セリ吟には一つは逹吟というのが手がらなので。句作の速かなものを誇ったのです。だから一時間もたつと百も二百も出ることがある。老人などが聞いたら乱暴だと驚くでしょうが。これが非常に我々の句作上の練習になったのです。かつこんなことが出来だしたは。一面には余程我々の進歩した証拠で。悪句でもなんでもとにかくいいこなすだけの考えが出来てきたのです。 お話しが少し前後するようですが。この時子規が駒込にいたというのは。前年の暮からここに転じたので。ここに移った目的は全く一篇の小説を書くためでした。これは後日『小日本』に月の都と題して公にしましたが。当時の子規はこれをかくのに非常の熱心で。大学などの課業はすこぶるおろそかであったようです。一体子規という男は横着もので。高等中学にいた時分から学校教育にはさして重きを置いていなかった方ですから。この時分はなおさらであったろうと思われます。非風と僕とはこの駒込の子規庵を叩くこと依然として土日の通りでした。 右のようにお話しをすると。何だかこの時分には早や上逹したように見えますが。まだまだそういうわけにはいかないので。この時分の句はなお極めて幼稚でした。発逹したに違いは無いがまだ子供でした。何でもその二月の中旬頃でしたが。子規は十二ヶ月というものを発明して。僕に送って来たです。それから僕もこれに倣うて十ニヶ月を作り出して。この十ニヶ月というのは前の競吟と同時にしばらく流行しました。その子規が作って十二ヶ月の元祖というのはこんなものでした。 燈火十二ヶ月 子規子 明治壬辰二月十四日 駒込の仮住居に晩よりの春雨にしめしめとふりこめられて夜に入りぬ。膝をかかえて折々窓にうつかすかなる雨の昔を問けば、今宵の閑梢は一枝のともしびにあつめたり。燈火十ニヶ月をつくる。 一月 袴きて火ともす庵や花の春 二月 紅梅や雪洞遠き長廊下 三月 夜櫻や露ちりかかる辻行燈 四月 行燈の丁字よあすは初松魚 五月 おそろしや闇にみだるる鵜の篝 六月 あんどんは客の書きけり一夜酒 七月 燈籠の火に昔たてて秋の風 八月 神に灯をあげて戻れは鹿の声 九月 灯ともせば灯に力なし秋のくれ 十月 しぐるるやともしにはねるやねのもり 十一月 灯の青うすいて奥あり藪の雪 十二月 いにしへは暗しらんぷの煤払 男女句合十ニヶ月 都の片ほとり、余所の蔵陰に月の光さへろくろくにみぬめの浦だなずみ、はきだめに囲まれて春風の吹き残したる九尺二間のその中に浪人とは見えてまずしき夫婦ぐらしありけり、つづれの風心なくて身の恥をあかるみへ出せども、腹にしみこんだる錦のみやび心は人しれず朽ちはてぬる浮世のさま是非なし、ある夜の寝物語りにいずれよりかいい出でけん十二ヶ月の句合せせんとて吾一句彼一句打誦しては笑い興ぜしを羨しげに耳を壁にはやして聞き取り聞き取り写し終る。くせものはその隣にわびねしたる一人くらしの子規子なり 一月 烏帽子きる世ともならばや花の春 男 おそろしき殿御めでたし花の春 女 二月 一瓶に其数知れず落椿 男 いもうとの袂さぐれば椿かな 女 三月 ひよひよと遠矢のゆるむ日永哉 男 うたたねを針にさされる日永哉 女 四月 朝起は妻にまけたり時鳥 男 ほとときす御目はさめて候歟 女 五月 うき草や出どこも知らず果もなし 男 藻の花や小川にしづむ鍋のつる 女 六月 中中にはだか急がず夏の雨 男 負ふた子の一人ぬれけり夏の雨 女 七月 見た顔の三ツ四ツはあり魂まつり 男 団子もむ皺手あさましたま祭 女 八月 小山田に秋をひろげる嗚子哉 男 砧よりふしむつかしきなる子哉 女 九月 大小の朱鞘はいやし紅葉狩 男 二三枚取てかさねる紅葉哉 女 十月 浪人を一夜にふす時雨哉 男 爪琴の下手を上手にしぐれけり 女 十一月 猪の牙ふりたてる吹雪哉 男 あかがりを吹きうづめたる吹雪哉 女 十二月 節分むやよたび違ふ豆の数 男 せつぶんや親子の年の近うなる 女 右の内男女句合十二ヶ月は。たしか露伴が国会新聞に出したと思います。句はまだ幼稚でお話しにならんが。とにかく才気の縦横活気の鬱勃はここでも十分に認められます。僕はこの十二ヶ月を送られて当時すこぶる感心したものと見えて。一句々々丁寧に批評してやりましたが。子規も実は内々得意であったので。すぐに引つづいて風十二ヶ月煙草十二ヶ月十二支十二ヶ月などをドンドン送って来て。こんな文句を書き添えていました。 十二ヶ月評判も拝見したり。あとからの端書も来たり。そうほめられては鞍馬流もどこやらへいてしもうて、ただあと腹のこわき心地に残り見せんことのいやなれば、今までは紳秘にしたりし。されど今更になりて何の卑怯にうしろを敵に見せ申さんや。来れやかたがた。我こそは鞍馬第一の大天狗、家伝一流の唐がらしをふりまきて辛き目を見せ刃向う人々を涙にすべし。人にはつまらぬと見えて己れ独りよがること六韜三略以外の秘伝鬼一法眼已来一子相伝の大事なり。いざ羽団扇の風に吹き送る余残の風やら煙草の煙やらまたは十二支のいろいろ。この雑題天狗ならでは誰か鼻にかけ得ん。サーサー御らうじませ天狗の鼻芸。できそこのうた処がおなぐさみおなぐさみ。 このふざけている所に得意の色がある。今から見るといっそまだ罪が無い時代で。思わず吹き出されます。子規などもこの時代のことを考え出したら。さぞを〈か〉しかろうと思います。ダガこれもやがて今日を致した一の階梯であったのです。(五百木瓢亭 夜長の欠び 3)
2021.08.01
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子規は、常盤会寄宿舎の仲間にさまざまな番付を作って、その能力を表にして楽しんでいます。『常盤の芸くらべ』には、東の大関(横綱がないため、当時の最高位)として瓢亭が位置付けられ「米山」と解説があります。「米山」は、越後民謡で、越後出身の力士・米山が歌い始め、その名がつけられたといいます。今の相撲甚句にその影響があったといい、声量と声の良さが必要なのですが、瓢亭は歌上手だったということなのでしょう。『洒落番付』では東の関脇。「強情にしてしつこく」と評されています。『舎生弄球番付及び評判記』では東前頭三枚目に位置しています。他にも『書生気質人物割付』では「医生野々口」『演説』では「幇間の話」、『演説会第二』では「シルレル(シラレルは詩人シラーのこと)の本職は何ぞ」とあり、瓢亭の陽気で文学好きな人柄が伺われます。 瓢亭は、子規と非風の3人で「紅葉会」という文学会をつくります。初期の頃の子規の句作は今ひとつだったようで、そのことが『夜長の欠び』に書かれています。 同じ年(二十二年)の冬空になってからだと思います。子規は不忍の下宿を払って僕のいる寄宿舎に合宿するようになりました。同気相求むるの類でそれからというものは非風と三人の間はますます親密を加えて、とんだ仙人の団結が出来たです。当時佃君……今神戸の税闊長になっている佃一豫君が丁度舎監をしていたです。この先生等が先ず大将で、この仙人どもを憤慨して書生の身で小説や発句に心を奪われるとは怪しからざる次第だなどと大変に攻撃しました。それでも子規は文学者になる目的だというのでこれには直接に攻撃しない。僕も当時既に医者の免状を所持していたものですから。他の書生の全く修業中にあるものとは少しく境遇が違っとるので余り攻撃を受けなかったが。非風は軍人志願というのであったためにヒドク攻撃を受けたです。時にはこれについて激論したこともあった位です。こういう風でしたからこの時代の三人は寄宿舎の仲間からは一種の道楽者として暗すに指示されていたのですが。サテ当人の鼻息はこうなって来るといよいよ激昂してすこぶる盛んだ。ナンダ俗骨めらがと鼻の尖であしらって。あんな無趣味な枯燥極まる人間は。まア何の味が有って世の中に生れて来たのだろうなどと心中に嘲つていたです。俗骨の語はますます流行しました。 しかしこの間にも文学思想というと大層ですが。多少風流がって見たい男も無いではないので。これらの同好はたちまち相結ばれて。その年の暮でした。紅葉会という一会が起されたです。これの発頭人はやはり子規非風僕の三人で、丁度ある日雪見というので。朝から寒いのに三人連れで向島あたりを駈けずり廻ったことがありましたが。その帰り路に。寄宿舎の近傍の鮨屋に立寄って相談したのです。何でもこんな会を起して詩歌俳はもちろん都々逸でも何でも構わんからウナロじゃないかというので。早速帰舎してこのことを同志に計ると意外に賛成者が多かって終に成立したのです。この会の雑誌……雑誌というても十枚足らずのいたずら書きの帖面ですが。これをつゞれの錦と称してなんでも八九琥号重ねたと思います。今から考えると佃君なんどが憤慨したのも。この道楽者が他人を感化誘導しそうな勢が有ったからのことでしょう。しかしこの頃の文学思想はまだ発句に重きを置いていたのではなかったのでむしろ小説熱などが烈しかったのです。また折々思い出して笑うのです。寄宿舎には従来月々寄宿生の間に作られる雑誌があったですが。その雑誌の附録というのでその年のくれに懸賞小説の課題が出ました。銀世界というので、僕も一番腕を揮って見たいという心得で七八枚の短編を書きましたが。この時に書いたのは非風と僕と二人しか無かったのです。審査は鳴雪翁で僕が大勝利を得たのですが。サテどんなことを書いたかといふとイヤハヤお話になったものじゃないのです。 文学熱が盛んになって来るに従って。僕等の空想はいよいよ激烈になって来て。ほとんど気違いじみた頭もあったです。妙に宇宙を観じて有じゃとか無じゃとか、真理じゃ、やれ幻影じゃなどと。種々の問題は常に頭の中に沸騰していたです。ある時はくらやみの中に三人で坐禅の工夫をして見たこともありました。なんでも非風でしたろう。鍾の声を非常に愛して世の中は渾て鍾の声なりと絶叫したことがありました。これらはほとんど狂熱でただ左様に直覚したのでしょう。彼らはわざわざ鎌倉の円覚寺を叩いたこともありました。しかしながら僕はこの時分から悲哀な厭世的の理想は無かったです。 越えて明治二十三年という年は。ますます我々を駆って文学に向わしめたです。この年三人で合作小説を日課にして一日に十枚ずつ必らず書くこととしました。これはまだ子規の所に残っていますが。とにかく熱心なものでしたよ。発句もこの年になって少しは進歩しました。しかしまだその真味を悟了しなかったのです。ただ非風の天才は最も早く熟したものと見えて。この年の夏休みに彼が房州に籠っていたころの句は。早くも堂に上ったようでした。同じ九月の中旬に三人で闘句をしましたが。まずこんな程度でした。 鬼瓦にかまれさうなり三日の月 隠居 稲妻に打けされけり三日の月 子規 両方とも趣向面白く真景実に愛すべし。もっとも鬼瓦故かまれそうなりとしたる所面白けれど右三日月の光かすかにて稲妻に打けされたる所誠に奇想なり。右の勝に侍る(非風判) 村ひとつ霧の中より砧かな 隠居 毛男の砧やさしく聞えけり 非風 左霧の中の砧余情ある様にも覚ゆれど、右砧に毛男を思い出でたる一句のおかしみ多きに劣れりや右の勝たるべし(子規判) まだこれらはよい内なので。非道いやつになるとこんなのがありました。 櫻にもまさる紅葉の小春かな 子規 小春かな霞かきりの山の色 隠居 初紅葉霜に見そむる鹿のあと 同 はきすてる程には散らず初もみぢ 子規 隠居というのは僕の名です。どうですこの句のザマは。もとより自分でも当時悪句だとは知っていたですが。少し題がむつかしいとこんな調子で。まだまだ発句の形は出来なかったのです。ただ非風はこの間に一歩を先だてていた。 その房州から送った句に 蚊遣して魚待つひまや夏の月 タやけの波に近よる蜻蛉かな 波走る灯もあり浜千鳥 海に入る月より出たり渡り鳥 稲妻のする山きれや寺一つ まだ熟してはいないが。僕等から見ると俳想は明らかに一段の進歩を示しているです。 この時代に我々とは別に発句を作ったものがある。それは先きに世を厭うて去った青年文学者の藤野古白です。これは早稲田の専門校にいたですが、彼が一種異様の天才は初めより余程我々と違っていて、我々の未だ形を成ない時代にも早く熟していました。 秋海棠朽木の露に咲きにけり 古白 今朝見れは淋しかりし夜の間の一葉かな 同 こんな句を既にこの時代に吐いたもので。大に我々を驚かしたことがありましたよ。 二十三年の僕等の生活は楽しかった。ほとんど空想世界に呼吸していて。まだ浮世の煩累などは夢にも知らなかったです。小説を考えたり発句を案じたり。ただ如是してその一歳を越えたです。この三人の道楽者は起居ともに相携えていたので、ようように同宿生からは別物扱いにされていました。時には朝から書冊などを懐にして郊外に散歩して。一日草の上に寝ころんで大空を仰いでは。自然の美にうたれておのれの心には天地の秘密にしている何物かを了知した積りで欣こんでいたです。僕などはこの時代に最も宇宙人間に対して種々の解釈を試みんとした時代ですこぶる恨疑的でした。がしかしまたこんなことを考えるのが面白くてたまらなかった。こういうとひどく老人めくようですが。この時代のノン気な超世な生活は今では夢にだも得られないです。誠になつかしいです。子規などのようにここ二三年寝たッきりではなおさらだろうと察せられます。(五百木瓢亭 夜長の欠び 2) そのうちに正岡が寄宿舎へ帰って来た。最初の間は入口に近い二階の部屋に、正岡と非風とが一緒にいたが、後に別の部屋に移ってからは、正岡と非風と我輩と三人が雑居することになった。ここにおいて乎舎監佃一豫のいわゆる文学熱が舎内に充満するに至ったのである。 新海非風は陽気な、元気のいい男だった。感情的で、神経質で、一面には文学者的天分を多分に具えていたが、講道館へ通って柔道を学ぶような蛮気もあった。小倉の袴に手拭を下げて、散歩に出てはあの辺の職人と喧嘩するようなことも珍しくなかった。今仏領印度にいる横山正脩なども講道館党で、これは大分強かった。我輩も当時彼と手拭の引きっこなどをしたことがある。 藤野古白は常盤会にいたかどうか記憶が無い。古白を知ったのは正岡を介してだったように思う。非風に比べればいささか陰鬱であったが、そう陰気というほどでも無い。けれども散歩に出て喧嘩を買うような元気は無論無かった。おとなしい男であった。 正岡といえども第一回の喀血ではあったが、まだなかなか元気だった。無論後年のように痩せてはいない。ベースボールが好きで、夕飯後などはよく外へ出て練習をやったものである。当時近所に吉原の駆徽院なるものがあって、その取払われた跡が広い明地になっていた。吾々が球を弄ぶのはきまってそこであった。正岡は左利だったが、球は右で投げた。字を書くのも右である。果物の皮などを剥く時に、左の手を使っていたかと思う。 そういった風であったが、正岡はあまり学校へ行かず、非風や我輩などと一緒に向島を歩いたり、千住の川縁へ行っては草の上に寝ころんだりして発句を作る、というようなことをやっていたので、佃一橡のような堅い人間には不平だったのである。さかんに正岡が文学熱を鼓吹して同宿の青年を誤る、といって攻撃した。もっとも正岡は文学専攻だから、当人をそう咎めるわけに行かない。他の連中がひどくやられた。佐伯蛙泡(伝蔵)などは商業学校へ行っていながら、正岡に引張られて発句を作ったりする。それが佃と同室にいるのだから堪らない。最も手きびしくいわれる。あまり佃がやかましいので、我々は抗議を申込んだことがあった。何でそういうことがそんなに悪いのか、というと、お前はええがな、という返事である。お前は医者の免状を取って、ちゃんとしていてやるのだからいいが、外の連中は修業中だからいかん、ということだった。 もっとも当時の正岡は、まだ俳句をやるときめていたわけではなかった。もみじ会という会を作って、毎月題を出しては、歌、俳句、川柳、都々一、何でも構わず皆の書いたものを集めることもやった。非風と我輩と三人で、毎日五枚ずつ書くというのを日課にして、合作小説を試みたこともあった。そういう発起人は必ず正岡だが、同時に一方ではまた「柵草紙」に出ている審美学を読んだり、露伴の「風流仏」に感心したりする、という風で、一向をとりとめたことは無かったのである。正岡已にしかりであるから、吾々に何もわかる筈が無い。小説などといったところで、ただ書くのが面白いから書きまくったまでのものである。発句も標準がわからないので、我輩のは唐詩選趣味であった。後年正岡は我輩の句を評して「明治二十三四年の頃吾人の俳句は未だ俳句を為さざるに当りて瓢亭の句すでに正を成す」といったが、もししかりとすればそれは唐詩選趣味の賜に外ならぬ。正岡は多少当時の俳書を読んだり、何とかいう宗匠に逢ったりしたために、却ってその殻を脱しにくかったのであろう。 内藤先生が吾々の仲間に加はられるようになったのは、少し後のことであるが、これは全く正岡の力であった。はじめは、先生と正岡と竹村黄塔ーー当時は上京して大学の撰科に入り、同じく常盤会寄宿舎におったーーとの間に詩会のようなものが行われていたのだが、その間に俳句の方の感化を受けたものであろう。人間の縁というものは妙なもので、もし先生が正岡の文学熱に感染しなかったら、生涯文學などとは没交渉で、理窟っぽい漢詩位を作られるに過ぎなかったかも知れない。内藤鳴雪というものはたしかに正岡によって生れたのである。けれども文学に縁の無い佃一豫のあたりは、先生からしてが仲間だから困るといって憤慨しておった。 正岡は学校こそなまけていたが、ものを書いたり、ものを写したりすることは実にまめであった。丹念で、克明で、倦むということを知らなかった。当時我輩も手伝って「富士のよせ書」というものをこしらえた。夏休に国へ帰らなかったので、寄宿舎にいて富士に関する文献を書きぬいたおぼえがある。 当時の正岡はすでに大分老成していた。我輩も年よりはふけて見えた方だが、彼に比べるとよほど距離があった。彼が喧嘩するとか、人と争うとかいうようなことは、我輩は見たことが無い。そうして何事に対しても一個の見識を具えていた。服装なども辺幅を飾るというほどでは無かったが、吾々書生よりは贅沢なものを著て、キチンとしていた。生来胃腸がよかったせいだろう、当時から非常の健唆であった。 二十三年の末、我鉗は寄宿舎を去って入営した。非風の入営も同時であった。正岡は依然常盤会におったので、兵隊になってからも、日曜にはよく遊びに行ったものである。当時常盤会の舎生ほとんど四十名、実に空前の盛時であったが、今になって見ると、多少なりとも世間に知られたような人物は多くこの間に出ている。(五百木瓢亭 我が見たる子規 常盤会時代)
2021.07.30
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五百木瓢亭は、子規と同じ松山に2年遅れで誕生しました。生まれた場所は松山の東南にある新場所(現日の出町)で、子規の生家からは1キロ以上も離れていました。そのため、河東静渓の千舟学舎で学んでいますが、子規との接触はありませんでした。 明治18年に瓢亭は、県立病院付設松山医学校に入学し、20年には大阪に出て、翌年に19歳で医術開業試験に合格しています。明治22年にはドイツ語研究の目的で上京し、常盤会寄宿舎に入ります。子規が喀血した際、瓢亭はまだ常盤会寄宿舎に入居していませんでした。 常盤会寄宿舎で知り合った新海非風に連れられて、子規のいた下谷の下宿を訪ねたのが、二人の初めての出会いでした。そこで知り合った新海非風に連れられて子規の下宿を訪ねたのが初めての出会いでした。 瓢亭は子規と意気投合し、文学の趣味を同じくする子規・非風・瓢亭の3人で俳句研究や小説創作に励みます。 この当時の思い出は、明治31年10月10日発行の「ホトトギス」に掲載された『夜長の欠び』、自らが発行する「日本及び日本人」の「子規居士三十三年記念号(昭和9年9月15日)」の『我が見たる子規』に綴られています。 なにそれを僕に話せというのですか。その楽屋落ちな所が聞きたいのだと。なる程これは一面の理が有るようだ。僕も近年はすっかり俳客の仲間からほり出されていますから。久しぶりに昔話も一興でしよう。『影と影燈火親しむ夜長かな』どうですナ。それでもまだ時々俳想が浮ぶですョ。ハ……じゃ兎に角僕の覚えているだけをお話しましょうかナ。 そうですね。いわゆる日本振俳句の萌芽というのもおかしいですが。まア今日の子規一派のいわゆる新派の発端は明治二十二三年頃からだというていいでしょう。本郷真砂町に常盤會寄宿舎という。これは今でも有ります。僕等の同郷の学生の合宿所で。旧藩主久松家が同藩子弟のために建てたものです。この寄宿合が即ち新派俳句の揺籠で。この内で呱々の声をあげたというていいのです。所が面白い。この家にはそれ以前坪内氏がおられたそうで。明治新小説の先鞭者というべきかの書生気質もやはりここで生れたとのことを。そのじぶん皆が評判していました。事実だかなんだか知れませんが。事実とするとこの土地は。とかく文学上の革命児を出したがると見えます。 その節寄宿舎には同郷の書生がおよそ三十人余りもいましたろう。大学に通うものもあれば高等中学ヘ往くのもある。あるいは高等商業学校の学生やら。法律学校やら。種々雑多で思い思いの修業をしていましたが。この混雑な思想の中で一種の文学思想が窺かに一隅で養われて。やがて何時しか俳句の研究を始めることとなったです。これが今日の俳句の萌芽で。この時から多少これに心を傾けたものは。子規と非風とそれから僕と三人でした。 子規の句集寒山落木には明治十七年からの句が記して有ります。それで見ると子規が句を吐きだしたのはずっと以前からに違いないですが。しかしそれ以前のはただ彼れの天才が面白半分にチョイチョイとやっていただけで。別に自からこれに心を傾けるという程のことは無かったのです。どちらかというとその時代の子規はむしろ詩や歌の方が得意なので。また俳句そのものの上についてみても極めて幼稚で。まだ文学上の悟入を得なかったのです。元来子規は文学上の天才が在ったと見えて。少年の時から詩歌文章などなかなか逹者で。文学には甚だ多才であった所から。常に友人間に才人の称を得ていたです。ですが俳句などはその節にはまだ形も出来ない位で。少しわかつて来たのはやはり明治二十二三年頃のことです。これについてなぜその頃まで子規が進歩しなかったというに。それに当時子規は一人立ちで誰れも一所に研究するものが無かったため。自然張合も無かったのでその天才を発揮さす機会が起らなかったものとみえます。 僕が始めて子規と会見したのは明治二十二年の秋でした。子規はたしかまだ大学へはいっていなかったと思います。この時は寄宿舎で僕等と同居しない前で。不忍の松源の近所の下宿にいた頃です。忘れもしませんよ。丁度仲秋の明月の晩でした。僕は同宿していた非風にさそわれて初めて子規の宿を月下に叩いたです。この時代の僕等の頭というものは実に空想に充ちきっていて。歩行きながら常に夢を見ていたようなもので。ほとんど仙人めいた考えでした。別にまだ明らかに哲学の組織が脳中に出来ていたでも無いが。ただ何となく自分を極めて高い所へ置いて世界を紅塵の中に見下していた。俗骨々々という言葉は当時僕等の人を罵る特有の言葉であって。まだ世の中を知らなかった身には。ただ霞を吸うているような清浄な無邪気な理想に包まれていたのです。今から思うてもこの時代の我々は誠になつかしいですな。丁度春さき浮れている蝶のようなもので面白い夢の人です。さてこういう先生達の会合がどうであったかというと。子規はそのじぶんゾラの英訳の小説を読んでいましたので。しきりにこの小説談からそのじぶんの小説の批評なんかが盛んに出ました。盆の上に山のように積んだ梨をたらふく食いちらしつつ。遥かに月光冴え渡れる不忍の最色を眺めて高談放笑せるこの三人は。興起るに従って最早人間界の人じゃないのです。たちまちそれから三人相携えて上野の森に分け入って。木間もる月のたたせしんしんと冴えかえれる中を。各十分の空想に耽りつつ、夢のように逍遥して。摺鉢山の横手、今パノラマのあるところです。あすこがまだ桃林であったそこへ来て。誰れがいいだしたのであったか。古し桃園に三傑義を結ぶこと有り今や三傑またこの桃林に会すなどとしきりに豪傑がっていましたが。それから各月に名句の吐きくらべをやろうというので。鶯谷あたりからそこら無暗にぶらぶらとやったですが。この時の俳句というものは頭から句にもなんにも成っていないのでお話しにもならないです。『大空に月より外はなかりけり』これが非風の句で。その晩の即吟であったか前に作ったのであったか忘れたですが。当時これが非常の名吟であってその晩はとてもこれに及ぶものは無かったのです。広小路へ出て来たのは大分おそかったようでしたが。別れる時に各々今夜の紀行を書くという約束をしました。その翌日子規は約束通り一篇の草稿を持って寄宿舎へ尋ねて来た。それは三傑句合せ芭蕉泣せというので滑稽的に昨夜の事件を記していたです。非風と僕はとうとう何も書か無かったが。何しろ句は無茶苦茶でした。これが僕の子規と會見した初めで。これよりしてようやく三人の間に俳句の研究が芽ざしました。(五百木瓢亭 夜長の欠び 1) 我輩が正岡に逢ったのは、無論東京へ出て来てからである。松山にいた時分には、別に名前を聞いたことも無かった。我輩が松山で十三、十四の二年間居った千舟学舎は、河東静渓先生(碧梧桐の父君)の私塾で、正岡の友人である竹村黄塔(静渓先生の三男)が当時塾頭であったが、正岡については何も聞かなかったと記憶する。医者の開業試験に合格して免状を貰ってから、しばらく大阪で代診生活をやっていたが、もう少しドイツ語を勉強しようと思って、明治二十二年の五月に上京した。上京後しばらく芝におり、六月になって常盤会寄宿舎に入ったので、当時の監督は内藤先生であった。 明治二十二年六月といえば、正岡が最初の喀血をしてから間もなくのことである。我輩が入舎した時、正岡はどうしていたか全く知らない。彼に逢ったのは古く「夜長の欠び」という文章に書いて置いた通り、この年の秋新海非風と不忍池畔に訪ねた時が最初であった。非風は我輩と同年だから勝山小学校あたりで知っていたように思う。千舟学舎へも通って来る位のことはあったかも知れないが、我輩は塾生だから格別交渉も無かった。「夜長の欠ぴ」には月明に乗じて三人で上野公園を徘徊し、非風が「大空に月より外は無かりけり」という句を作ったのが、当夜の名吟であったこと、その晩のことを書く約束をして、正岡が「三傑句合せ芭蕉泣かせ」というものを書いて来た、などということが書いてある。我輩がいつから俳句をはじめたものか、今では何もわからないが、常盤会に入ってから引込まれたのであることはいうまでもない。 正岡のいた不忍池畔の下宿は無極亭の隣で、二階ではなしに平屋の離家みたいなところじゃなかったかと思う。吾々もたしかに裏から出入したようなおぼえがある。恐らく病後しばらくの間、寄宿舎を出て静なところに住んでいたのであろう。 そのうちに正岡が寄宿舎へ帰って来た。最初の間は入口に近い二階の部屋に、正岡と非風とが一緒にいたが、後に別の部屋に移ってからは、正岡と非風と我輩と三人が雑居することになった。ここにおいて乎舎監佃一豫のいわゆる文学熱が舎内に充満するに至ったのである。 新海非風は陽気な、元気のいい男だった。感情的で、神経質で、一面には文学者的天分を多分に具えていたが、講道館へ通って柔道を学ぶような蛮気もあった。小倉の袴に手拭を下げて、散歩に出てはあの辺の職人と喧嘩するようなことも珍しくなかった。今仏領印度にいる横山正脩なども講道館党で、これは大分強かった。我輩も当時彼と手拭の引きっこなどをしたことがある。 藤野古白は常盤会にいたかどうか記憶が無い。古白を知ったのは正岡を介してだったように思う。非風に比べればいささか陰鬱であったが、そう陰気というほどでも無い。けれども散歩に出て喧嘩を買うような元気は無論無かった。おとなしい男であった。 正岡といえども第一回の喀血ではあったが、まだなかなか元気だった。無論後年のように痩せてはいない。ベースボールが好きで、夕飯後などはよく外へ出て練習をやったものである。当時近所に吉原の駆徽院なるものがあって、その取払われた跡が広い明地になっていた。吾々が球を弄ぶのはきまってそこであった。正岡は左利だったが、球は右で投げた。字を書くのも右である。果物の皮などを剥く時に、左の手を使っていたかと思う。(五百木瓢亭 我が見たる子規 常盤会時代)
2021.07.27
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子規の死後、子規の提唱した写生の精神は俳句界に広く行き渡ったのですが、俳句の実践の目標として与謝蕪村を選んだことから、そこには大きなパラドックスを変えていました。子規は、芭蕉一派の俳句ヒエラルキーを破壊する存在としての蕪村を選んだのでしたが、蕪村の句はリアリズム一辺倒ではなく、どちらかというと非現実的な傾向を多く含んでいるため、多くの矛盾をとなりました。 それが、子規の死後吹き出したのでした。直弟子の虚子と碧梧桐は、子規の一方の方向を継承しようとします。碧梧桐はリアリズムを追求するのですが、そのままでの俳句革新には飽きたらず、自由律に進んで行きます。もともと、子規も漱石が提唱する「俳体詩」を問題があるとしながらも認めていました。碧梧桐の推進する自由律俳句は一時代を築いたのですが、次第に衰退して行きました。 虚子は、蕪村の持つ伝統的な俳句を好みましたが、新しい面を持つ碧梧桐たちの俳句には抵抗できず、一時、虚子はその才能を散文に傾けました。虚子が俳句の道に戻るのは、大正元年ころで、肝を据えた虚子は全自体的な「花鳥諷詠」こそが俳句の本当だと説き、子規の正統な後継者とはなりませんでした。 大正6年に「俳諧雑誌」に掲載された『四分五裂せる現時の俳壇』という聞き書きがあります。この内容は、当時の俳句界の雰囲気を面白く描写しています。 鳴雪は、この8年後の大正14(1925)年、肋膜炎を病んで以来床につき、翌年に麻布笄町(現西麻布4丁目)の自宅で80歳の天寿を全うしました。 子規歿後満十五年 今年は子規居士歿後満十五年に当るので、わたくしにも何か居士に闊する所感を述べよとのことであるが、わたくしは居士の物故以来、居士とわたくしとの関係につき、またその事柄に関して、隣分諸方面に向って、これを筆にし、これを口にしているような次第で、今はほとんど書き尽し、述べ尽したといってもよいくらいである。それゆえ今回は別に新らしいお話の種もないのであるが、しかしただ一つ思いついたことというのは、居士と居士歿後十五年の今日における俳壇との関係である。わたくしはそれについて少しく述べて見たいと思う。俳句界の四分五裂と地下の子規居士 今日の俳句界は四分五裂の有様である。それにつき世間の人のしばしばいうところを聞くと、もし正岡氏が今日まで生きていたならば、かような分裂を見ずして済んだであろう、といっているのである。またかくの如き四分五裂の状態に陥った俳句の現況を見ては、地下における正岡氏は定めて顰蹙もし、歎息もしていることであろう、といっているのである。 なるほど子規居士の生前の勢力の強大にあったことや、またその句風のおおむね穏健にあったことなどに依って考えれば、俳句の現況に封して右の如き説もおのずから起るのであらろうけれども、しかしわたくしは、わたくしの知っている居士の人となりによりて、必らずしも右の説に左袒することは出来ないのである。四分五裂は必然の勢い わたくしの考では、今日俳句界が四分五裂の有様になったということは、けだし必然的の勢いであって、たとい居士が今に生存し活動しているとしても、この勢いを防止して、俳句界の統一を保つということは出来ないことであろうと思う。 子規あらば現時の俳句界を如何に観るべきか かくの如く、四分五裂は必然的の勢いであるとして、さて正岡氏今在らば、その勢いを如何に観るであろうか、子規居士は、世間の人の想像するが如くに、今の有様に射して、果して顰蹙し歎息するであらうか。わたくしの観るところは反対である。居士はむしろこの四分五裂を欣んで迎え、いよいよその勢を助成せんとつとめるであろうと思うのである。子規は何をなししや そもそも子規居士が、永く俗風に堕ち沈みたる俳句を引戻して、正風に立帰らしめ、これを鼓吹しかつ発展せしめたのは、折柄わが国の数育学問が漸ようやく普及した頃であって、当時の年少者間には、何か俳句の如き手近かな詩でも作って見たいという希望の動きつつある時であった、居士はこの機運に乗じて、その希望を実にしたところの人である、しかして居士は新俳句の先唱者となった次第である。 子規は何故に第一優者たり得しや 新俳句の先唱者たる居士は、十分の文才もあり、見識もあり、相当の学力もあり、かつその熱心と勉強とは、他人の企て及ばざるところであった。それゆえ、俳句を作らん程の者は、何人でも居士に対抗することが出来ず、多くの人は居士に率いられて、居士を師匠と仰いでいたのである。 子規の俳句界を統一せしは必然的の勢ひなり かくて多くの俳人は、居士の旗下に立って、居士の主義なり傾向なりに追随して、いやしくもこれに後くれざらんことを恐れていたのである。さすれば当時の俳句界が居士の下に統一せられていたということは、これまた必然的の勢であったといってよいのである。 子規とその追随者 そこでまた居士その人について考えて見ると、居士が全国に、その名を馳せ、万人に尊重せられたということは、前にいった如く、一に俳句その他の文学における居士の見識の高かりしことと、またその熱心と努力との人に勝ぐれたることとに帰さねばならぬのである。もし俳句その他の作品の一々について吟味したならば、後輩にして居士に立ちまされる作家も隣分とある。また天才ということから観察しても、後輩にして居士以上の才分を備えた者も少なくはないのである。 追随より独立へ 子規門下の幾多のかうした才人逹は、その後だんだんと自己において成立し発展せんとする傾向を示すことになった。自己に成立し発展することになれば、最早居士の下に立って居士の跡ばかりを逐うていることが出来なくなるのは当然である。それぞれ自己の道を拓いて、自己の赴かんとする所へ赴かうとつとめることにならなければならぬ。居士の旗下を去って自己の旗を樹てようとするようになるのである。そこでこれまでの追随者はやがて独立者とならんとするのである。 独立の精神と子規歿後の動揺 居士の生前には、そうした独立の傾向がほの見えていたのみで、各自は未だ十分その境地に逹していない、という趣であった。しかるところ居士が亡くなってから、急にその機運が動き出して、遂には分るる者はいよいよ分れ、裂ける者はいよいよ裂けて、今日の如き状態を現出した次第である。即ち、各自の独立それに引続いて俳壇の四分五裂は、既に子規生前に胚胎していたもので、やがて事実となって現わるべき約束のものであった、それが居士の物故に依って大に早められたものと考えらるるのである。 今日俳句界は到底統一し難し また今日に在ては、たとえ居士が生存していて、如何にその力を用いたとしても、到底俳句界を統一することは出来ないであろう。これが宗教とか政治とかいうものであるとしたらば、その人の徳望または政略によって随分離反者を防止して、自己に帰服せしむるということも出来るであろうが、文芸の如きは、もと各自の感情に基いて、自由自在にそれを表現するものであるから、徳望や政略によって統一を計り得る性質のものではないのである。たまたま統一せらるる者は、それだけ才力の劣った者である。かかる劣等者は今もって何人かの旗下に立っている次第である。 子規今在らば俳句界の向上更に一府顕著ならん 以上述べ来ったような次第であるから、今日の俳句界の四分五裂は居士が亡くなったのが原因ではない。居士の在ると否とに拘らず、必然の勢としてここに到るべきものである。もっとも居士ほどの有力者が一方に在ったならば、たとえそれに対抗する者が出来たとしても、居士を相手とする以上、十分に研究もし、勉強もして、それだけ今日よりも向上発展していることであろうと思う。今日居士ほどの者が在るか無いか、わたくしは少しく疑はざるを得ないのであるから、現に旗を樹てているそれぞれの人も、どうやら研究や勉強が不足していて、ただわれがちに声をのみ大きくして、わが宗旨尊しと叫んでいるもののように見らるるのである。これは、ちと僻目かも知れないが、まんざらそうした様子がないでもあるまい。 子規と新傾向句 それからまた今日の如き俳句界の四分五裂を目のあたりに見ても、居士は決して顰蹙もせまい、歎息もせまいと思う。その評は、居士が常々進取主義の人であったのに徴して、これを推察することが出来るのである。 居士が最初に俳句の正風を唱えた頃には、多く芭蕉一派や蕪村一祇の俳風を標準としていたのであるが、その後、それに満足せず、自己の見識をもって、已往以外に一新境地を拓き、新風を創めんと工夫を積んでいたのである。ことにその旗下に碧梧桐虚子等の諸氏を得て以来は、これらの人々が新鋭の才気をもって居士の軌轍以外に新らしい俳句を作ろうとして、既に今日の新傾向に似た長短交交の俳句を作ったこともあったのである。そして、わたくしの如きは、それを面白く思わず、しばしば居士に向ってそれらの句を非難したが、居士は少しも同意せないで、かかる少牡の人々は十分にその向うところに発展せしめねばならぬ、しかる後俳句の境地はますます広がるのである。といった。そして時々はそれらの変調に倣った句作を居士自らも試みなどしたのであった。 その頃の新傾向は一度頓挫して、次に再ぴ起って盛んになったのが、今日の新傾向である。居士の前言に徽すれば、居士にして今日に在らしめば、新傾向に劉して手を打って悦んで、やって見ろやって見ろといって、大に奨励することであろうと考えらるるのである。 子規と旧来の俳句 四分五裂すれば四分五裂するほど、居士はいよいよわが事業成れりとして濶足することと思う。しかし居士としては一々にその四分五裂した句風を一々に試みても見るであろうが、同時にまた旧来執り来った芭蕉蕪村風の俳句も捨てないであろう。 子規もし在らば 要するに、子規はあらゆる方面にわたって、自らも句作し、人をも誘導し、そうして自己は集めて大成するという位地を保つであろうと思う。しかして居士がかくの如く気宇を大きくしている以上、四分五裂した俳人においても、幾分か省みるところ、憚るところ、感化さるるところもあって、自己の句風を主張するとともに、他の句風をも参酌し、おのおのも成るべく円満に句作せんとする態度に出ることが出来たであろう、さすれば末輩によくある、烈しき党同異伐、聞苦しき喧嘩沙汰もあるいは無くて済むべきことと思わるるのである。 結論 以上の次第であるから、わたくしは居士と今日の四分五裂の俳況との関係、を世間の人のいうが如くには見ていない。わたくしは、この必然的に到来する俳況の上に、居士として立つべき適当なる立場を想像するものである。居士は相替らず俳句界の中心にいて、誘導と句作とにつとむる人であることを思うのである。そして居士のない今日よりも、居士が居たならば、その四分五裂の俳況の上に、今日よりも、よりよき様子を見ることが出来るであろうと思うものである。 子規居士歿後満十五年、俳句界は変動と推移とを重ねた今日、居士を追憶して一言せざるを得ざることは以上の一事件である。(内藤鳴雪 四分五裂せる現時の俳壇 子規今在らば果して如何の態度を持すべきか)
2021.07.24
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漱石の『吾輩は猫である』に登場する、迷亭の叔父である静岡の牧山がなる雪をモデルにしたといわれています。3章の会話に登場した牧山は、9章で姿を見せます。 主人は伯父さんという言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があるという事は、今日始めて聞いた。今までついに噂をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたといわぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物(がんぶつ)でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかり仰ゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃないです。頭にちょん髷を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寐ていらっしゃいというと、人間は四時間寐れば充分だ、四時間以上寐るのは贅沢の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠たくて行かなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境にいってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寐られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜も入ったものじゃないのに当人は全く克己の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代り位に考えてるかも知れんよ。ところが先達て妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差し合のない返事をする。「此年の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れというんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着るという返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会があるからそれまでに間に合うように、至急調達しろという命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子はいい加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸(へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たる所さ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにか落っ付いたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」(吾輩は猫である 3)「物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」「誰を連れて来たんだい」「誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいというんだから」「誰だい」「誰でもいいから立ちたまえ」 主人は懐手のままぬっと立ちながら「また人を担ぐつもりだろう」と椽側へ出て何の気もつかずに客間へ這入り込んだ。すると六尺の床を正面に一個の老人が粛然と端坐して控えている。主人は思わず懐から両手を出してぺたりと唐紙の傍へ尻を片づけてしまった。これでは老人と同じく西向きであるから双方共挨拶のしようがない。昔堅気の人は礼義はやかましいものだ。「さあどうぞあれへ」と床の間の方を指して主人を促す。主人は両三年前までは座敷はどこへ坐っても構わんものと心得ていたのだが、その後ある人から床の間の講釈を聞いて、あれは上段の間の変化したもので、上使が坐わる所だと悟って以来決して床の間へは寄りつかない男である。ことに見ず知らずの年長者が頑と構えているのだから上座どころではない。挨拶さえ碌には出来ない。一応頭をさげて「さあどうぞあれへ」と向うのいう通りを繰り返した。「いやそれでは御挨拶が出来かねますから、どうぞあれへ」「いえ、それでは……どうぞあれへ」と主人はいい加減に先方の口上を真似ている。「どうもそう、御謙遜では恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ」「御謙遜では……恐れますから……どうか」主人は真赤になって口をもごもごいわせている。精神修養もあまり効果がないようである。迷亭君は襖の影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、後から主人の尻を押しやりながら「まあ出たまえ。そう唐紙へくっついては僕が坐る所がない。遠慮せずに前へ出たまえ」と無理に割り込んでくる。主人はやむを得ず前の方へすり出る。「苦沙弥君これが毎々君に噂をする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが苦沙弥君です」「いや始めて御目にかかります、毎度迷亭が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日は御近所を通行致したもので、御礼かたがた伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共よろしく」と昔風な口上を淀みなく述べたてる。(吾輩は猫である 9)「まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。袖が長過ぎて、襟がおっ開いて、背中へ池が出来て、腋の下が釣るし上がっている。いくら不恰好に作ろうといったって、こうまで念を入れて形を崩す訳にはゆかないだろう。その上白シャツと白襟が離れ離れになって、仰くと間から咽喉仏が見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判然しない。フロックはまだ我慢が出来るが白髪のチョン髷ははなはだ奇観である。評判の鉄扇はどうかと目を注けると膝の横にちゃんと引きつけている。主人はこの時ようやく本心に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の服装に応用して少々驚いた。まさか迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上である。もし自分のあばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョン髷や鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。(吾輩は猫である 9) 子規の門人の中でも、内藤鳴雪は少しばかり異質です。 弘化4(1847)年、松山藩士・内藤房之進の長男として、江戸三田の江戸屋敷に生まれました。名を素行といいます。安政4(1857)年、11歳の時に松山に帰郷して藩校明教館で漢学を学びます。文久3(1863)年に元服し、翌年には松平定昭の小姓、慶応3(1867)年には京都の水本保太郎の塾に学び、翌年には東京の昌平坂学問所へ入寮しました。 明治維新後も、明治3(1870)年には松山藩権少参事となり、廃藩置県後は石鉄県の学区取締、明治8(1875)年には愛媛県学務課長となって教育の分野で力を発揮しました。明治13(1880)年には文部省へ転じ、書記官・往復課長、参事官兼普通学務局勤務などを歴任して、明治22(1889)年から旧藩主・久松家が運営する常盤会寄宿舎の舎監をつとめます。その寄宿舎には、子規がいました。もともと、漢詩を嗜んでいた素行(鳴雪)は、文学の素養があり、加えて藩校明教館で子規の祖父・大原観山から教えを受けていたり、在江戸時代には、子規の親戚である藤野家に仮寓するなど、子規との縁も強いものがありました。当時、常盤会寄宿舎では子規の俳句熱に感化された学生たちを白眼視する人たちもいたのです。明治25(1892)年、素行は俳句に感化されて子規の仲間に加わりました。この時、鳴雪は45歳、子規は25歳でした。「鳴雪」の号は「世の中のことは成行きにまかす」ことから名付けています。 鳴雪は、重職をつとめながらもおごり高ぶったところがなく、軽妙洒脱な人柄で、帽子をかぶったまま風呂に入ったり、句会で自分のインバネスを着ている上に、他人のインバネスを着て帰り、大騒ぎになったこともありました。「〇〇でやす」「〇〇でやした」というのが口癖で、句会には薬瓶に酒を入れて、ちびりちびり飲みながら酒を楽しむという人物でしたが、自分の意見を推し通し議論も辞さないのですが、議論が終わると非礼を詫びて論争結果が後に尾を引かないようにさせるといった配慮も忘れませんでした。 子規は、『閑人閑話』で「人に教うる懇切にして、一句一字を説くなお数百言を費やす、他の我意を会得するを待って後やむ」と書いています。教育畑を歩いてきただけに指導者としての資質があり、そのユーモラスな諧謔ぶりとともに、門人を超えて愛されました。 高浜虚子の小説『俳諧師』には鳴雪をモデルにした奥平北湖という人物が登場します。こちらの方が鳴雪の実像を伝えているようです。 見ると、北湖先生は瘠せこけた背の高い紋附羽織を著た五十近い老人で、薄い顎鬚を神經的に引張りながら「李堂でやすか。文学に熱心なことは非常なものですな。私と李堂とは同郷でやして、私の監督している寄宿舍に李堂がおった頃から私もつい仲間に引張り込まれて、俳句では李堂のお弟子でやす。それでは一題やりましょうか。私は七時いくらかの汽車ですぐ国の方へ立つ積りでやすが、今は何時でやすかな」と帯の間の時計を探される。前にぶら下って垂れているに拘らず、頻りに狼狽えて帯の中を探される。漸く探し当てられて「もう四時が近いでやすな。それでは私が題を出しましょう。少し早いようでやすがもう秋にしますかな、芒(ススキ)はどうでしょう」と言って増田の出した半紙を一枚取ってそれを二つに折り、三蔵の硯箱の中から一本の筆を取出して、尖の堅くなっているのをいきなり硯池に突き込んで、もう早や何か書かれたが、薄墨がにじんで大きな染みが半紙に出来る。(高浜虚子 俳諧師 27) 北湖先生は客膳を召し上る。「私は胃が悪いので蒟蒻だけはいけませんてや」と言って、糸蒟蒻の上に止まったように乗っかっている三切許りの堅い肉を、齒をむき出して噛まれていたが、遂に噛みこなし切れず膳の上に吐き出された。「先生、生卵はいかがです」と三蔵が言うと、「鷄卵でやすか、鷄卵も一つはよございますが、二つ以上食うと不消化でやすな。いえ、もう結構」と茶をかけて、堅い飯をざぶざぶと掻き込まれる。(高浜虚子 俳諧師 28) 「それでは姉さん御面倒じゃが、これでお酒を」と、二十銭銀貨をボンと畳の上に投げられる。十二三の小女が命を聞いて銀貨を握って立つ。「これが三蔵君面白いでやしょう。あそこにも張出してある通り、酒に限って前銭で無いといけぬことになっているのは、詰りここは七錢でお茶漬が食べられる、そのお茶漬というのが今持って來るとすぐ解りますが、一寸した煮〆と煮豆といり豆腐と漬物と飯とで、その上に椀盛だとか甘煮だとかいうものが三四品だけ別に出来ることになっている、それで飯を食って帰るだけの料理店なので、酒は余分の註文になる、その余分の註文をするのには前銭で無けりゃならぬ、あの今出した金で酒を買って来て、そうして飮ませて呉れという訳になるのでやすな。またここに限って、あの酒は徳利に入れずにきっと土瓶に入れて来る。それも表向はどこまでも酒とせず、茶として取扱うらしいです。面白いでやしょう」と北湖先生は頻りに興に乗っていられる。三藏は「そうですねえ」とひもじいのを堪えて返答している。そのうち膳が来る。成程土瓶が来る。蒟蒻や燒豆腐の煮〆を食って土瓶の酒を飮む。俄かに勇気が出る。椀盛が来る。これが即ちしんじょなるものであろう。「何どうも淡泊でいいでやすな」と言って、北湖先生はそのしんじょに大きな歯形を残して盛んに召上る。「この淡泊な物を食う所が日本人の特色で、脂こい物を好む西洋人はどうしても夷狄でやすな。どうでやす。あなた御酒がいけますな。余り沢山は勸めぬ方がええが、ここ残っているだけはお上りなさい」と土瓶を三蔵の膳の上へぱたんと置かれたかと思うと「姉さん御飯を」といわれる。御膳が早速来る。北湖先生は杓子を突込んで、一すくいすくって召上る。「これは少し硬いよ」と顏をしかめられたが、瞬く間にその一杯は食べてしまわれて、二杯目をよそわれる時、杓子でべたべたと飯を叩いては捏返し、捏返しては叩かれる。「こうすると少しは柔かくなりますてや」と言ってまた二杯目を瞬く間に召上る。(高浜虚子 俳諧師 55)
2021.07.22
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互いに腹を割って話し合えることから起こる諍いも、いよいよ子規の病状が重く鳴ると、その諍いが輪をかけて酷くなりました。そこで鳴雪は、病床には近づかないようにしています。 まだ何かあるかも知れぬが、もう子規氏の終焉の話しに移ろう。前にもいった如く、病床ながら、俳句のみならず、和歌にも写生文にも、昼夜研究と鼓吹とに努めた末が、結核性の病毒は脊髄病となって、臀(しり)には穴が明いて、そこからも排泄物もするという次第で、いよいよ苦痛が加わるとともに、堪らぬ時は号泣する、この号泣するのが、苦痛をまぎらすことになるといって、周囲を憚らず、子供らしい泣声を発したが、これも氏の特色が現われている。それから重症となってからは、碧虚二氏は勿論、鼠骨、義郎、秀真の諸氏なども、昼夜輪番に身辺に詰めて、母氏妹氏とともに心を尽して看護した。そこで私だが、俳句こそ子規氏に啓発されて多少の趣味を解し、段々と俳句の大家顔もすることになったが、ありようは感情よりも理性を尚び、智識欲の深い人間だけに、どうかすると子規氏と意見の合わぬこともある。また趣味の上にも氏の斬新を好むに反し、古典的に傾く癖もあるので、時々氏と衝突を起す、そうして氏もなかなか熱心に弁ずるが私も負けぬ気で弁ずる、これは従来珍らしくもない、事実であったが、氏が病苦の増し気短くなるとともに一層この衝突を起しやすい。そこで私も気付く所があって、陰では氏の病状を気遣うけれども、碧、虚諸氏などの如く日々近寄ることをやめた。また子規氏が希望で母刀自や叔父の加藤恒忠氏の忠告するにもかかわらず、沼津の海岸へ病躯を転地せんといい張った時も、私はそれでは俄に医師の救護を得るにも不便だからといって、氏に益々機嫌を損う事にもなったが、氏といい私といい、その親みは、最初の監督者と被監督者とがあべこべに俳句を教えてもらったその時より何も変りはないのである。ちょうどその頃氏は着色の絵を描く事を始めたので、私は密かに形見を貰う心持ちで、何か描いてくれといって、書画帖を送った。氏はそれに芍薬の画と俳句二つを認めた。そうして氏もこれを形見にするというようなことを書き添えている。そうこうしているうちに卅五年の九月十八日であった。氏がいよいよ悪いとの報知があったので駆け付けると、もう息が絶えていた。実は傍に附いている母妹及虚子氏さえも臨終には気がつかなかったという位で、つまり最近に苦んだ痰が喉につまったのが致死の原因となったのである。一両日前の句に「痰のつまりし仏かな」が讖しんをなしたのである。それから一同大騒ぎで、親族も知友も庵に集って、後事の営みにかかったのだが、子規氏の遺志では余りに諸方へ報知する事などは月並として厭うだろうというので、新聞の広告は勿論その他にも広く報知をせなかった。そうして、埋葬地はどこらがよかろうかと、詮鑿したが、普通の寺院の墓地よりも律院の墓地が清潔で、子供の襁褓むつきを干す梵妻も居まいからというので、終に田端の大龍寺を卜した。これは私と碧梧桐氏がまず行って、見分したのであった。それから埋葬の日は余り世間へ知らせなかったにもかかわらず、葬会者はなかなか多く葬列も長く引続いて、この人だけの名誉ある終りを飾った。その後墓石の文字は陸羯南氏が書いた。この羯南氏は隣家に住んでいたが、永年特に懇情を尽して万事に注意するし、日本新聞関係としても、病苦で筆を執らなくなったにかかわらず、以前の如く報酬等を交附して、前後共に非常の好誼を寄せられたことである。(内藤鳴雪 鳴雪自叙伝 19) 子規がこの世を去って5年後の明治40年に「中央公論」が「正岡子規論」を特集しました。その中に鳴雪は『正岡子規の人物』という文を挙げています。子規に対して客観的に論じたこの文は、門人たちの文とは一味違ったものになっています。 御承知の如く子規と私とはもと元同郷のものであって、彼の書生の時分から直接していたものでありますから、私の子規に対する観察は自然他の大方の諸君の御観察とも違う点があろうかと思う。しかし諺にも灯台元暗しということがあるから、私は子規と近いだけそれだけかえって子規の人物について知り得べきことを知らぬ点もあろうし、またそれと同時に私のみが知っているという点も、あるいはあろうかと思う。 先ず大体に申せば子規の人物は一面には非常に小心にして細かく気が附いて、些かのことにも神経を煩わすという風があり、他の一面は非常に大胆にして周囲の人を物の数ともせず、進んでは古今にわたって眼中に人なしという意気を持っていた。この二つが合してあのような子規を成就したというてもよかろうと思う。細心であったから調査することは何事によらず、細かに調査してかりそめなことをせず、充分に突き止めてから口を開くという風であった。また大胆にして人を人とも思はなかったから古人の糟粕を嘗めず、常に新意見を持ち出して一種の逹見を世に示すということにも至ったのである。即ち明治の俳句を唱え出して今日の盛況に至らしめたのも全くそれがためである。しかし他の一面の弊としては人を容れるという披は乏しくて、どこまでも我意見で通してしまうという風であったからその俳句の上につても皆吾旗下に打ち靡けてしまわねば置かんというので、一歩たりとも譲歩して人とともに並んで遣って行こうという考はなかった。けれども幸にも時が恰度彼と並ぶべき英雄という程の者を出さず、雨雄並ぴ立たずということがなく、子規独りその成功をほしいままにすることが出来たのである。もし他に子規と同じくらいのものがあったなら、必ずや火花を散らして戦ったであろうと思う。その証拠は、今人には彼の相手とする程のものがなかったが、古人には誰にでも喰ってかかった。芭蕉などの如きも一時随分子規に軽蔑的批評を蒙ったことがあった。蕪村のみは彼の悪評を比較的免れたが、これは蕪村の非凡の天才に我を折る所があったからであろう。が、また人を攻撃すると同時に人の長所をも見別けることが出来た。長所を没して単に攻撃ばかりすることはせなかった。長所は長所として短所に向て攻撃した。だから吾々は彼の批評を不公平とは見なかったがただ攻撃が少し苛酷に過ぎたと思うことはあった。 また彼の人物について目立ったことは、彼は前申した通り人を皆我旗下に靡けたならばその人々に師匠として臨み、門弟として扱ったかというに些かもそんな風がない、極く初学のものを初めとしてことごとく友人扱いで、応接は元より、一切の談論も全く同等を以てして何時も師匠顔をしたことがなく、従ってその人々も弟子というように思わず、師匠師匠などといったものは一人もなかったようである。これが一寸彼の変った所である。しかしかくの如き態度を取ったのは個人と個人との交際上である。いやしくも斯道の是非得失に至ては一歩も假さず、飽くまで論弁し、これを屈服せねば承知せなかった。私などは郷里の先輩であるから常に交際上は尊敬を加えていたけれども、いやしくも斯道の意見の衝突となっては最早や一歩も假さず、果ては篤詈にあったこともあるくらいである。 ただ子規の人物をお話するといえば右の如くにとどまるが、子規が明治俳句の頭領になるということは最初の目的ではなかったように思う。常に私は彼に直接していたからよく知っているが、彼が未だ大学の籍にいた頃は哲学と文学というこの二つを研究する目的であった。それが中途病気にかかって精力の充分に続かざるべきを悟ったのでついに文学のみとし、文学の中でもまた世間一般にうち捨てて置いて気がつかず、芭蕉、蕪村以来荒廃していたものを振興させたのである。しかしこれも初めから確たる目的があったというよりは、だんだんことに当たって研究してここに至ったものと思われる。 しかし晩年ながら余力にはなお和歌の一途にも手を着け、また写生文も創め、また小説などにもいくらか筆をもてあそ弄んだことがある。これらは天年を假さずして俳句の如く世間に勢力をあらわさずに終ったが、これも今少し病体の存続を得たなら世間にも大いに位地を得るようになっただろうと彼の人物の上から信ずるのである。なお人物に屈したことをいえば世間の普通の事柄にも常の学者とは違って余り迂遠な方ではなかった。交際上の昔信贈答などもよく届いていた。これらは全く世間の俗礼を守った。 家計は至て貧窮な方で別に家産もなかったから、ただいささかの家緑の変じた公債証書を使て学資となし、やや成立して後日本新聞社その他の文事に屈する報酬などで衣食を営み、一人の母と妹と三人で下女一人も使わず極めて質素な生活をして、それで病を養い薬を飲んでいたのである。この点は今少し余裕を与えて気楽にしてやりたいと傍観者も思うたけれども、その傍観者も私初め質乏人で如何ともすることができなかった。病の激烈なるに充分の療養も出来なかったにかかわらず、あれだけに生命を保ち、今わの際まであれだけ筆を揮うたのは全く精紳力の非常に強かったためである。この点からいえばたしかに一豪傑と申してよろしからろうと思う。 今一つ彼の人物に関することをいえば、理想上においては別に高い理想を持っていなかった。文学上の理想もあながち哲学的の考を有している訳でなく、ただ日常眼前の美的趣味を歌うというだけで、人生観も人間観以上はなかった。それゆえ名誉ということは子規の念頭をはなれぬ所で、飽くまでも人に傑れた名誉を持とうという考であった。しかし決して一世または現世的の名巻ではなく、長く後世まで知己を待つという考であった。そこに至ると高い理想がなかったにかかわらず、また一個の大人物といってよかろう。今に至るまで我々の仲間では子規を慕い、飽くまでも尊敬をしている訳であるが、それは如何なる点についてであるかというに、やさしく親切に教をしてもらったという春風の如き感じよりは、あくまでも堅忍不抜の精紳で斯道に当ては一歩も假さず熱心にその信ずる所を教えるという烈日の如き気象に畏服していたという点にあるように思う。これがまた普通の師弟間と変った趣のある所であると思う。 終りに今一つ言うて置くのはこの如き子規その人の業務を成就することに与かって大いに力あった人は前日本新聞社主の陸羯南氏である。このことに関しては私は既に他で度々いうておるからはただこの一言にやめることとします。(正岡子規の人物)
2021.07.20
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鳴雪は、子規から尊敬の念で接せられました。しかし、子規の病気が重くなるにつれ、鳴雪は少し距離を置き始めます。それは、子規の態度にすまないと感じ、また、自らの平常心が保てるかどうか、不安になったところからでした。しかし、俳句の解釈などにおいて、鳴雪は子規と論争になるのが常でした。しかし、その諍いは翌日なっても続くことはなく、あくまで自分の位置や俳句の感じ方ををはっきりさせるためのものだったようです。 また、諍いがあると、子規から詫び状が届きます。これでは、怒りを長引かせることもできません。 〇さて居士の人物は事業とともに次第次第に大立物となり、世問の尊重もますます加わり、学者文士の訪問出入する者日夜絶え間ないくらいになった。されども僕は旧交でもあり年長者でもある処から、文字問題の外は居士が僕に対する恭遜辞譲の態度は始終一貫していつも変わらなかった。もっとも文字の議論になると居士も中々倣然と構え僕を睥睨して来る。僕もいわゆる莫逆でどんなことをいっても構わぬと思うから蟷斧を揮って抵抗する。居士も激する、僕も激する、随分長時間呶々して鶯横町通行人の足を止めたことも少なからぬ。けれども、少々時刻が立つとモー互に霽月光風。ただ少し残っている感じは言い過ぎて気毒なことをしたという一点くらいだ。しかるに卅二年の秋であったが、ある夜蕪村輪講中雁の別れの感じということにつき互に衝突して非常な激論になったことがある。その翌朝居士から書簡が到逹した。 拝啓。今夜散会之後内の者申候には「外の人ならまだしものこと、内藤先生へあつかむような言葉甚だよろしからず」といたくたしなめられ候に付て驚き、かしこみ謹て御詫申上候次第に御坐候私事生来癇癪強く候処、病気以来ことに劇敷相成、自分にては可成押える積りなれど、他人より見れば常に圭角を露わすことに可有之候。加之当夜も例の如く発熱中にて発熱の苦痛紛れに大声を発し思わずあつかみつけるように相成候事と存じ候。自分は一切夢中にて何も存不申候えども、自分に分らずとて失礼之段は罪のがるべきにあらず。如何に発熱中とはいえ、先生へ対して侵したる無礼は偏に御海容を祈る外無御座候。今後を謹み可申候。右御わび迄如此候。謹言。 九月廿二日輪講当夜認 常規 鳴雪先生 函丈 追伸。近来私より虚子その他に対してしきりに義務(無論俗界の方面)の怠慢を責め候事有之候処へ、今夜却て家内の者に気付られ候に付、甚だ大打撃を被りたるよう感じ申候。もっとも私の我儘にして横着な言葉を使い候などは昔よりにてかつて同宿せし友は皆承知致居候。それは父親なしに育ち候故ならんと申者も有之。その後は多少謹むつもりなれど、実際は無効と相見え今に至って依然旧態を存居候事、慚愧に堪えず候。 蘭の花吾に鄙客の心あり 蕃椒廣長舌をちちめけり 十年の狂態今にかかし哉 かように僕は意外の挨拶を受けて却て驚き、かつ気毒でたまらず、直に返書を出して僕よりも失態を挨拶し、且大いに居士を慰めて箇いた。此事はホト、ギス三巻一琥蕪村句集講義の條中に於て居士が自記にも一寸見えている。右書簡の文字だけでも居士が半面の人物は躍然と現れていて、如何に長者に恭遜なるか、克己自省の念が強いか、また如何にその義務責任を重んずるかが知られる。かつ、どこかにまた初心であどけなく可哀らしいという点も見えるではないか。〇また卅四年十月伊藤左千夫氏が好意の発議で居士を駿州興津辺へ転地療養せしめたいといい出し、居士も非常に乗り気になって、早やも飛んで行きたいという塩梅、処が碧梧桐虚子氏を始め僕らは第一に途中汽車の動揺、次には往ってから後に病気が重ったその時医療や介抱人万端の不便から、まだ取留めの出来るのも取留め得ない残念があろうという心配で、どうしても転地がさせたくないから、代る代る留めた。ある夜僕も出掛けて往ってあるいは人情、あるいは道理、さまざまの方面から説いたけれども居士は一切聞き入れない。いよいよ留めればいよいよ激して来るから、僕ももてあまして、尚徐々に御考なさいといって帰った。帰ったけれどもはなはだ気になるのは、一体僕の話は平生でも議論張っていて耳やかましく病苦の居士に感ぜられている処だから、もしや今夜の諫争が一層居士の反動力を起さしめ、まだ随分留まるのであったものも決断を早めていよいよ往ってしまひはせぬかと思い出し、どうも気になってならぬ、遂に一書を発して縷々挨拶をして、もしこれで興津行をせらるると僕が議論で激成したこととなり、居士を誤った僕が罪は居士のみならず他人へも申訳がなく、僕は自身の立場がないようになるとの意までいって遣った。すると返簡に、 拝啓。昨夜はまた例の暴言を発し後悔一方ならず。今朝御詫吠差上可申と存候処に却て御手紙に接し恐縮之至候。来客謝絶の件は私の心持丁度曽子易と同じように存候。曽子は箕に対して心を安んぜず、私は客に対して心を安んぜずと申すことに御座候。私は転居の方に定めてこの上は叔父の認可不認可によって決定可仕候。もし興津へ参り候わば御高話を聴くことも難出来。その代り例の暴言を吐て御わぴ状を出すようのこともなかるべく候。わざと簡単に御返事芳御わび迄一書差上候。御厚意の程は十分銘肝罷在候謹言。 十月五日 常規 内藤老先生 玉几下 文中に来客謝絶とあるは、居士は興津行をもって来客を避くるの一手段だとし、この地にいて客を門前払いにするには何分忍ぴぬといい、僕は来客は元々好意で来るのだから、病苦に障るという訳でこれを断るのにいささか心配は入らぬと弁じた、その件である。この件につき居士が曽子の易箕に比したのは、つまり僕らが説はあたかも曽元の父を愛するの情と同様で、姑息である、居士自身はどこまでも「得正而斃焉」という君子の操を執っている、ということをほのめかしたので、その興津行の当否はともかく、居士が自信と地歩を占めている処とはこの手紙でも明確で、大いに畏敬すべき点である。 また文中の叔父は加藤恒忠氏なので、氏は既に興津行反対論者であるから、この人の意見に任かすというのは思い止まったというのも同様だから、僕もそれで安心したのである。〇居士は一体理性に富んでいたとともに感情も非常に強い。かつ文学的趣味は居士朝夕の業務でまたその娯楽であるから、病床に臥して病苦のせまればせまる程この要求は切になり、これに反対した談話は必要の場合は格別、その他はなるべく耳にすることを厭うようになった。処で、僕という人間は居士の薫陶で多少美趣味を解したとはいえ、元来が理窟好きで、人に到して二言三言モー勃しゅたる理窟談となる。故に居士の病床では十分この辺に注意し自ら戒めているはいるけれども、何か問題になると直ぐ誂論になる。居士も健康の時分はまたこの方面も随分好物で散々僕と遣ったのだけれども、病苦の進むに随い自然とモー厭う塩梅で、ことに僕が癖の高声はすこぶる居士の耳を苦めるとのことで、僕のしばしば居士を見舞うのは好し悪しで、僕自身も段々と斟酌をして来た。今一つは居士の美徳として飽まで長者を尊敬し、如何なる苦悶中でも僕が往くと忽ち誤度を改め、忍んでも相当の応接をするということで、一例を挙ぐれば、蕪村輪講に往った時でも、済み際になると居士が苦悶の声ながら「酒があろがな、なぜ先生にお上げんのぞ」と、母人などに注意するという仕合せ。だから、しまいには僕はあまり度々見舞わぬ方が却て病気のためだとの気もつき、自然遠ざかるようなことにもなった。〇病牀六尺で僕らのホトトギスの選句や選者吟を居士が攻撃したから、僕も病気の慰めかたがたからかって答弁をした、処が、居士は今一度再駁して見たいと思っていたらしく、九月十日の蕪村輪講は居士が水腫を発し一層の苦悶で、中途からほとんど無言であったにも拘わらず、輪講が済むと直きに右の問題に移り、「西の京」を西京即京都のことだと答弁したけれども、現在奈良の一部を西の京という故「の」の字を加えてはその方になってしまって、京都とは聞こえまいということ、また「京都」の西部を「右京大夫」といったのは太祇の句に類似の詞があって手柄でないということ、などであって、一々もっともな再駁であった。その言葉も吐息をついでようよう切れ切れに出る位くらいで、如何にも苦しそうであったから、僕は成程そうだとばかりでなるべく居士に物を言わせぬことにし、とかくして暇乞を述べて帰って来た。嗚呼「西の京」「右京大夫」これが居士と最終の説論、また言葉の聞き納めであった。(内藤嗚雪 追懐雑記03)
2021.07.18
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のぼさんの中学時代からの友人・柳原極堂は、俳句雑誌の創刊を思い立ちます。勤めていた海南新聞の印刷機を使って、のぼさんの俳句活動を支援しようとしたのでした。 「ほととぎす」の刊行は明治30(1897)年1月15日、発行部数は300部、一部6銭でした。発刊間もないころ、「ほととぎす」の看板を見て、老婆が訪ねてきました。ほととぎすの黒焼きを売ってくれというので俳句だと答えると「肺に効く」のはわかっているといいます。本だと断ると、では効能書を売ってくれといわれ、勘違いされてしまいました。 この発刊を、誰よりも喜んだのが鳴雪でした。その様子を記しているのが、子規が極堂に送った手紙です。鳴雪は、この雑誌を購入して、多方面に配ったのでした。 やがて、この雑誌は東京で高浜虚子「ホトトギス」として出版することになりました。子規の指導よろしく、東京での出版は、成功を収めます。 ほととぎす落掌。先ず体裁の意外によろしきに満足致し候。実は小生は今少しケチな雑誌ならんと存じ、反故籠なども少き方よろしからんとわざと少く致し候処、はなはだ不体裁にて御気の毒に存候。 さて編輯の体裁につきては議すべきこと少からずながら失敬。アア無秩序にては到底田舎雑誌たるを免がれず候。 第一、俳諧随筆類と祝詞と前後したることは、不体裁の極也。最初に発刊の趣旨を置き、次に祝詞祝句を載せ、その次に随筆類、その次に俳句などにてよろしかるべくと存候。 発刊の趣旨は、色紙を用いざる方よろし。色紙を用いるならば祝詞祝句と随筆類との中間に挿むか、または他の文と募集句との中間に挿むかして、その上は募集句広告ばかりにてものせたし。 第二、募集句の第五等を四分詰にしたるも苦しそう也。これは小生兼て申上置候通り、多ければ下より御削り可被成候。御忘れありしか如何。 もし出来べくんば四等以上にも出たる人の句を削り、その外のかずかず五等及第の句のみを残せばなお宜し。 第三、蕪村の句を入れるもよろしけれど一句ごとに蕪村の名あるはうるさし。蕪村とはじめにあればそれにて十分也(これは瓢亭より注意) 第四、瓢亭曰く、募集句は嗚雪子規代るがわる(一月おき)見ることにしては如何と。愚考にては前にも申上候通り、募集句を二分して違う部分を見てもよろしと存候。瓢亭説にてもまたたまたまには一処に同じものを評するも面白しと存候。これはしかし売行にも関することと存候故、貴兄も御考可被成また広く一般の趨向をも御聞可被下候。 またある時は草稿を三分四分して碧虚なども一部分を見るもよろしからん。 第五、募集題怨、春風とはわるし、春風は昨年も海南新聞て募集したるもの故よろしからず。同じ題が出ては前の募集句を見ておかねば剽窃の煩いあり。また同じ題ばかりでは投書家の詩想広くならぬ憂あり。 また春号の題に千烏時雨という動物天文ありて、今度もまた鳥類と天文とは余程素人くさき題の出し方也。貴兄にも似合ぬと存候。小生の我儘を申さば一応小生に御打合せ被下まじくや。 ○以上欠点 この度は題も二つにして余程材料を少くする御覚悟と見ずれども、それならば祝詞の代りになるべき文章か俳句かをしっかり集める用意なかるべから図。碧虚瓢はじめ、それぞれへ貴兄よりきびしく御請求あるべく候。 鳴零翁と僕とは黙っていても送る また募集句も今度は壱号の半分もあるまじと存候。それは題が少きと題がわるきとに起因いたし候。 その覚悟にて他の材料御あつめ可被成候。 鳴雪翁曰く、校正行届きたること感心也。 先日、鳴雪翁小家に来られ曰く、ほととぎす今日一部来れり。なお諸方へ得意をつけんと思うゆえ、二部三部でもほしければ取りに来たりと。 小生方にも一部より参らずと申候えば、御失望の様子なりき。万一瓢亭方へでもと存じ聞合候処、同人へも一部しか来らずと。 さては貴兄もぬかり給えり。とにかく初号也。残りあらば何部にてもよこしたまえ。鳴雪翁は少くも五六部はほしといわれたり。(これは久松家及ぴ諸俳人に贈るため) とにかくほととぎす発行につきては嗚雪翁一番大得意也。翁は一号を見てうれしくてたまらねば即日小家へも来られたるわけ也。 正直に申せば小生ハは鳴雪翁程には得意ならず。 一号を見た時もはじめはうれしく、後には多少不平なりき。しかし出来るだけは完美にしたいとは思う也。御勉強可被下候。 壱円位の損耗なら小生より差出してもよろしく候。 鳴雪翁のうれしさは、あたかも情郎の情婦におけるが如く、親の子におけるが如くにて、体裁も不体裁もなく、ただむやみやたらに嬉しき也。ほととぎすは翁の好意に向て感謝する処なかるべからず。 鳴雪翁は二号に粛山公の句を送らるる由。小生は反故籠を永く書くべし。その外にも何か書くべし。 右大畧批評迄如此候。已上。 一月二十一日 常規 正之君 一号残り御贈り被下度候。鳴雪翁宛にてもよろし。 当地昨今厳寒。(明治30年1月21日柳原正之宛書簡) 〇明治卅一年ホトトギスが東京に移ったのは居士が第二の成業の紀元で、いよいよこの機関によって羽翼を四方に展ばしたことである。このホトトギスは最初松山で柳原極堂氏が独力をもって居士俳風の普及のために始めた所であったが、地方での発行はとかく不便が多いので虚子氏と打合せて遂に東京へ移すこととなった。もっとも当時虚子氏は素漢貧の一書生であったのだからその実居士も大に危ぶみ、この一事は我を死地に陥れるのであるとまでいっていた。が、虚子氏は鋭意に主張し、資金万端一身の責任として引受けてとうとう今日の如き立派な雑誌を打ち立てた。しかしいよいよ右を遣るとなっては、居士が尽力提撕したことは非常なもので、その内容はもちろん外形まで絶えず新趣味を出だし新工夫を凝らし、読者が倦まないで知らず識らずの間にこの道に帰向すよう計らい、いよいよ斯道を全国に普及した。かつ世間の文学雑誌までが往々その体裁万端を模倣することになったのも目ある者は知っていよう。〇このホトトギス移転発行とともに僕もまたまた俳国に還俗せねばならぬこととなり、その片隅で椅子の一脚を貰った。するといつの間にか僕も俳事を以前の如く一己の独楽とばかり極めていることも出来ず、いでや世間の才子たちと一軍して見ようという気にもなり、年寄の冷水を飲んで喘ぎ喘ぎ今もって遣っている次第である。〇ある時芝居役者の比擬をして、差向親玉の団州は子規君、左団次のテキパキしている処は碧梧桐君、しまった中に艶気のあるのは菊五郎で虚子君、そこで僕は丁度モーぽれの来て時々ファーファー声を出す芝翫か、それがまだ僭越なら駄洒落の方面から喜知六でもあらうなどといつて大笑をしたこともある。〇かようにいって来るとまだ立物が段々いる。四方太君は西来の宗十郎、前年在京して今はいぬから青々君は右団次、また高砂屋福助が露月君でもあろう。また美男の方面から紅緑君は岩井半四郎では如何であらうか。「母ばかり古い役者の贔屓する」と川柳でいった通り、役者の話しでも鳴雪のは廿年も以前の景況の外知らない。呵々。(内藤嗚雪 追懐雑記03) このホトトギスだが、これは二十九年頃であったろう、郷里の松山で柳原極堂氏が久しく俳句を作っていて、また海南新聞の記者をも兼ねていたから、その印刷機械を利用して、子規氏の俳句を宣伝する雑誌を始めた。そうして子規の名の関係からホトトギスと称した。そこで子規氏始め、碧虚両氏や私もそれへ句や文章を出すことになっていたが、惜しいかな地方の隅で発行される雑誌は見るものが少ない。やっと二十号まで出した頃、極堂氏が、せめて三百部売れるなら収支が償って継続されるが、それだけ売れぬから、もう廃刊するといって来た。そこで虚子氏はそれなら自分が引受けて東京で発行して見ようといい出したが、子規氏はそうなると全く自分の直轄となるので、責任が重くなる、万一にも読者が少くて維持に困難を生じて廃刊にでもなると自分の恥辱だからといって、容易にそれを許さなかった。しかるに虚子氏は信ずる所があって、熱心にその継続実行を主張して、経済万端は凡て自分が引受けるといったので、子規氏も遂に承知する事になった。これがホトトギス第二巻の一号である。そうして予想以上にこのホトトギスは購読者も出来て、松山では三百を出し兼ねたものが、三千部も出ることになって、虚子氏が鼻を高くするとともに子規氏も大いに安心した。そうして子規氏はかような編輯上の意匠にも富んでいたから、購読者はますます喜んで見ることになったので、兼て日本新聞やその他の各新聞で子規氏の俳風を広めていたが上に、この機関雑誌の広く行わるるとともに、ますます我々が俳風は世間に普及することになった。そこでこの頃小説で有名なる尾崎紅葉氏や、弁護士で有名なる角田竹冷氏や、御伽小説専門の巌谷小波氏や、法官の滝川愚仏氏、また森無黄氏、岡野知十氏などが連合して、一箇の俳社が出来た、こっちでも俳声という雑誌を出して、後には卯杖と改称した。その頃伊藤松宇氏は久しく静岡地方の富士製紙会社に従事していたので、我々との交通も隔ていたが、再び出京して深川の倉庫会社に関係する事になったから、そこで元来なら、我々のホトトギス仲間へ加わるべきだが、どうかしたはずみで、秋声会の仲間となってしまった。が、相変らず私はもちろん子規氏なども交際はしていたのである。(内藤鳴雪 鳴雪自叙伝 18)
2021.07.16
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子規が与謝蕪村の句集を最初に読むのは、明治26年です。それまで、俳句の本に書かれた蕪村の句に目を通してはいたのですが、まとめられたものを見ていませんでした。そこで、内藤鳴雪が『芭蕉句集』の発見者に賞を送ることとし、仲間に呼びかけたところ、片山桃雨が発見し、4月13日に賞品の硯と書状が渡されました。 このことは鳴雪の『自叙伝』に詳しく書かれています。桃雨の探した本は、大野洒竹のものでそんなに多くの句はまとめられていませんでした。ところが松山の村上霽月が蕪村句集の上巻を入手、聞けば上下揃いの本が芝の古本屋にあるというので、それを手に入れたのでした。 ここでちょっと話を挟むが、子規氏の俳句を始めた頃は主として芭蕉一派の俳句を標本としていたのだが、椎の友会席上で蕪村の句の巧いという話が出た。けれどもそれは俳句題叢に載っているものの外見ることが出来ない。蕪村句集を探したけれどもちょっと手に入らない、ないというといよいよ見たくなるので、ついに我々が申し合って、もしも蕪村句集を最初に手に入れたものには賞を与えるということを約した。間もなく片山桃雨氏が蕪村の句の僅かばかり書き集めた写本を探し出したので、我々から硯一面を賞として贈った。後で聞けば大野洒竹氏の手にあったのを桃雨氏が借りたのであったそうな。しかし蕪村の多くの俳句は相変わらず見ることが出来なかった。そこへある時村上霽月氏の報知では、松山の古本屋で蕪村句集の上巻を手に入れたという事だ。私どもは驚喜してそれを貸してくれといってやったが、霽月氏も現本を貸すのは惜しいと思ったか、別に自分が写したのをさし越した。そこで一番に私がそれを写す、子規氏も次に写す、なお椎の友連へもそれを見せた。そうこうしているうち、誰かが告げるに、芝の日影町の村幸店に、蕪村句集の上下揃ったものがあるとのことであった。私は聞くとそのまま人力を雇って馳け付けたが、途中でももしそれが人手に渡りはせぬかと気遣いながら、その店へ行って聞くとまだあるといったので、実に天へも登る嬉しさであった。価もその頃では奮発であったが、二円で買い取って、帰ると直に披読し、その日に子規氏へも報知する、また椎の友会へも段々と告げて、我々一同がここに始めて久渇を医したのであった。が少数ながらも、最初に探し出したという賞は桃雨氏に帰していたから、私はもう賞を貰うことは出来なかった。けれどもその大得意は賞の有無を考えるどころではなかった。そうしてその下巻を直に写して松山の霽月氏に与えて、さきに上巻を見せてもらった報酬をした事である。ついでにいうが、蕪村句集を我々仲間がかく競い読むという事が、段々と俳人仲間にも広がって、世間へも聞えると共に、終に神保町の磊々堂が旧版を再版する事になった。聞けばこれは大野洒竹氏が、私が得た少し後にまた一部を得たのを、堂の主人佐藤六石氏が乞い取って、それを再版に付したのであるそうな。それから少し経って大阪の書肆が土蔵の奥に捨てて置いた蕪村句集の旧版を発見したので、それを刷ったのが世間に出たから、いよいよ蕪村句集は誰れにも見られることになった。私は今いった最初発見の句集を持っていた上に、別によい初刷本のあるということを村幸から知らせて来たので、ついに若干の価を増し前のと交換して、今も持っている。これには表題に上編と記してあって、月渓の跋文に蕪村の一周忌にこの集を出したのだが、なお翌年の忌には次編を出すといってある。それが下編に当るのであろうけれども、ついに発行せられずに終ったから、その後刷る版本には表題の上編という文字とこの跋文とは除かれている。なお京阪の俳人仲間が金福寺で蕪村忌を営むことになった頃、これも大阪のある書肆の蔵の奥にあったということで、まだ上木せない蕪村の句稿を、水落露石氏が持ち出した。それが出版されたのが、現今も行われている蕪村句集の拾遺である。(内藤鳴雪 鳴雪自叙伝 18) 子規は、この几董編『蕪村句集』により、蕪村の面白さを再発見することができました。そして、門人たちに『蕪村句集』輪講を始めます。蕪村の句を取り上げて、それぞれの意見を句会のようにいい合うことにより、子規たちは、蕪村の理解を深めています。 蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村歿後に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は、俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中、蕪村の句の散在せるを見て、ややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪氏いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念切なるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。はたしてこの戯言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余らまたこれを借り覧みて大いに発明するところありたり。死馬の骨を五百金に買いたる喩えも思い出されておかしかりき。これ実に数年前(明治二十六年か)のことなり。しかしてこの談一たび世に伝わるや、俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派と目もくせらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。(俳人蕪村) 〇明治廿五年日本新聞に闊係したのが居士が文字をもって世上へ打って出た初陣で、遂にこの堡壘によってかくの如き事業を仕遂げたのであるから、いわゆる日本派俳句の称ももちろんその新聞から来たのであるが、この名称を始めて唱えたのは岡野知十氏である。知十氏は始終居士と交際はなかったようだがいつも居士を推奨し、居士を公平に批評し、また居士および我同人の俳風を世間に紹介することに務めていた。故に居士も知十氏の或る論評に封しては中々穿つて居る知己だといつて我々に話したこともある。〇知己といえば居士終身の恩人は陸謁南氏であろう。先ず日本新問に招聘して、未だ居士が若年であったにもかかわらず特にそれを優待し、また新聞の第一面を割て俳風表出の地を与えられたことなどは誰れも知る所であるが、その他居士が家計に注意しそれを隣家に引き寄せて親戚も及ばぬ世話をなし、なかんづく日清戦争従軍前後の配慮、また発病後の療務に至るまで非常なる保護を加え、十数年の久しき間いつも間接直接に庇蔭を与えられていたのである。これは吾々同人は長く心に銘記し、私には親友居士の大恩人とし、公には斯道興隆の援助者として大いに之を謝せねばならぬ。〇また居士が出京以来大学修業中の学費はおもに旧藩主久松家の下賜せられた所で、この恩誼も実に大なることである。しかるに中途退学したので一時は多少如何の議を来たした人もあったろうが、遂に後年かくの如き大樹立をなして名声藉甚、世人をして松山にかような人もあったか驚かしめた上は、居士が旧主に対し奉るの報効はこれで十分に尽くしたといってよろしい。〇明治卅年頃に至っては居士が声望ならびに俳風の勢力もいよいよ隆盛を致したので、居士が自信や抱負も随て一層大なることになった。これと同時に僕が居士との交遊上は自然前日程に頻数ならぬようになり行いた。その訳は僕は従来おもに俗人の生活をなしていて、俳句はホンの一時の娯楽に過ぎぬというきめでいたのであるから、居士の文学も未だ小範囲に在った頃はすべて臭味が合っていたけれども、段々居士は専門家の地歩を占め、文学も社会のために貢猷するということになってはその勢僕らばかりに合わしてはいられぬ。折々故人の足を腹上へ加えしむることはあっても、常には巌然として俳国へ君臨せねばならぬのだ。のみならず、碧梧桐虚子両氏の如き人々が郷里より出で来って、居士薫陶の下に長足の大進歩をなし、居士が左右に立って相共に俳国を開拓経営するということになったので、僕等はその勢い上羊裘を着て釣を垂れねばならぬ位地となってしまった。〇それでも碧虚二氏が一旦のやうに変調を主張し、根底より俳句を改革しようと勇往した頃などは、僕も随分居士の前に二氏とはげしい厳論をしたこともあったが、居士は双方をなだめ、かつ僕に向っては俳事進運の前途はぜひ少牡者に託して種々の研究を試みしめねばならぬことを説き、莞爾として二氏がする所を見ておられた。(内藤嗚雪 追懐雑記02)
2021.07.14
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鳴雪について今まで書いてきましたが、この調子でいくと、難しくて面白くないことを次々と書かねばならなくなってしまいます。 僕が鳴雪について書きたいのは、昔から子規と関係があったこと、蕪村を紹介したのが嗚雪であること、子規と蕪村はしばしば議論を戦わせていたこと、そして嗚雪の飄々とした佇まいなのです。 ということで、軌道修正をして、今までのおさらいとして、嗚雪が明治35年12月27日の「ホトトギス」第六巻第四号「子規追悼集」に掲載した『追懐雑記』を徐々に説明していきましょう。まずは、日本新聞入社までについて書かれている部分です。 〇居士は僕と同郷で、また僕が漢学の師大原観山翁の外孫で、かたがた緑故の浅からぬ間柄であった、このことは既にホトトギス五巻九号「獺祭書屋俳句帖抄に付きて」の文中において今昔の感を叙し、生前の居士にも聞いて貰ったことである。また明治廿三年中居士が俳句の口其似をして、 詩は祖父に俳句は孫に春の風 破蕉 と十七文字を綴って、居士から「春の風」では何のことか少しも分らぬと笑われたこともある。〇僕と居士とは年齢では二十年違うので、居士が幼少の時のことは一切知らぬ。僕が同郷の友人に籐野漸氏というは即ち古白氏の父で、この人の妻女は居士の叔母であったから、藤野家宴会の時などに一族の子供が集っていたその中には定めて居士の幼顔も目に触れたであろう。が神ならぬ身の、他日の大文学者ことに僕のお師匠様がいるとは知る筈もなく、何の気もつかなかった。〇僕は明治十三年東京に移ったが、同十八年頃松山の書生がよく漢詩の添削を乞いに来ることがあって、居士もその中の一人であった。流石に居士の作は縦横奔放才気が溢れていて、八島懐古の長篇などは別して働いていたので僕も始て居士に注意することとなった。またこの時才気は劣っていたが文字は居士より練れている一人があった。それは竹村黄塔氏で、即ち碧梧桐氏の兄人である。〇明治二十年旧藩主久松家より同郷書生のため常盤会寄宿舎というを建てられ、その監督は服部嘉陳氏といって藤野古白氏の伯父であった。そこで居士もこの寄宿舎に入ることとなったが、時々服部の娘に文章軌範の講釈をしていたのを僕も服部訪問の際傍聴して、如何にも明弁で條理がよく立っているのに驚歎した。〇明治廿二年には僕が服部氏に代って右寄宿舎を管理することとなったので、居士とも朝夕に出合い段々と心易くなった。居士は少しも身形を構わぬ方で、寒い時などは松山木綿のゴツゴツした綿入を重ねて背中をまん円くふくらかし、ゴヨリゴヨリとふるまっていた。かつ入湯嫌いだから色は小白い方であったのに垢はいつも付いていて、脇分むさくるしい風体であった。のみならず、起褥時限に背いてとかく蒲団を敷き流しにすることが多く、その周囲はいつも書籍や反古が山の如く堆くなっているので、一室三人詰の八畳敷を居士に三分の二まで占領せられ、他の同室生は片隅に小さくなっていらねばならぬ次第となる。それ故時々苦情が出て僕から居士へ忠告したこともあったが、また一面には居士のような駿足は多少自由を与えねば伸びぬということも僕は知っているので、内々は同情も寄せねばならず、つまり監督の職分上双方より板挟みの苦みを受けたことである。〇この頃舎中に茶話会というがあって、舎生思い思いの演説をしていたが、居士のがいつも趣味ある文学問題で、かつ弁舌も一番勝れていた。余の舎生のは多く理学問題や政治法律などであったが、その時になると居士はいつも欠びをしていた。〇ある時居士は一枚の番附を作り、舎中人々の演説題だと称して各姓名の上に居士自選の題目を記入したものが出来たが、その実は人々の月旦評なので、それを明言せず各自の演説題とした処は人の怒りを招かぬ用心、一種の狡猾手段である。中央行司の坐は内藤南塘先生で、その上に「雅中の俗々中の雅」とあった。この月旦は実によく当たっている。僕は終身半雅半俗の間を往裡しているので、後年にも度々この事を言い出して居士と笑った。しかして番附の勧進元は居士自身で、題目は「ボール」とばかり記していた。平生の抱負を隠してヒョウゲている処、中々横着者であった。もっともその頃ベースボールなども随分好きで勉強していたのは事実だ。〇また舎生から監督場に対して意見を申出ることがある。その時は大抵居士が継代で、少しも忌憚なく主張するので時としては僕の虫に障わることもあった。一日居士より僕が舎生に対して説諭をするのがあまり冗長であるから、なるべく簡短にして貰いたいとの申出もあった。これは恐らく夫子自らの請求で、瑣々たる通俗的理窟をだまって聞いているのが面倒であったからのことであろう。呵々。〇居士の喀血は即ちこの年で、夜中吐き通したということで、翌朝それを聞いたから僕も見舞ったが、常の如く平然と横えていた。もっとも前夜は自らも不治の病に罹かったことを知ったので悲憤交々至り、遂に啼血という因みよりほととぎす若干句を作って、それから子規の号を得たのである。〇この前後居士は余多の号を持っていたが、その内に盗化盗花の二つがある。盗化は造化の秘を盗むの意で哲学的のことに用い、盗花は藻葩の妙を盗むの意で文学的の事業に用いているといっていた。これで常時居士が双手にこの両学を究めようと期していた志も見える。が、不幸にして不治の病に罹ったので文学の一方のみを専攻し、哲学の方は断念してしまったのである。ことに後年はほとんど哲理嫌いという程で、文学と関係ある美学さえ調べるのがいやだといって、叔父子の加藤恒忠氏が態々仏国から送った「ハルトマン」の原書さえ少々ばかり読んでほおってしまったと、ある時自らいっていたこともある。〇居士が俳句についての来歴は居士自身もまた同人諸氏も既に度々語っているから書せぬ。即ちこの常盤会寄宿舎がその発端地なので、五百木瓢亭、新海非風ね藤野古白の諸氏としきりに遣っていたのが服部監督の頃より僕の監督時代へ引継いでのことである。しかして僕はこの頃未だこの仲間入をする気にならなかった。ただ居士が水戸紀行と七草集とは批評したことがあった。〇この年の冬頃竹村黄塔氏が入舎したので、遂に氏と居士と僕と三人で文字の友垣を結ぶことになった。それからというものは一層居士と親密になって、毎日曜には小集をするか、または野外の散歩に出掛けるのを例として、散歩の途中はおもに滑稽的の連句を作った。その連句は漢詩めいたのもあり、また七五調の和文もある。この外出合った度に出来た派詩や俳句等を集めて互に回評をしたものを言志集と名づけて十冊ばかりになったが、今もって僕の手許に存している。これは翌廿三年の冬頃までのことである。連句の風は 今夜復連句(南塘)門筆費工夫(松窓)苦吟無言行(子規)親交忘形娯(南)麦湯沸沸煮(松)塩鮭徐々屠(子)奇語互競吐(南)妙篇不嫌模(松)船山銑足迯(子)李白降参呼(南)筆力亦烈矣(松)胃量何洪乎(子)佳作笑中就(南)美味腹内徂(松)詩仙傾冷酒(子)病子惑暖炉(南)如喧又如静(松)似賢或似愚(子)坐豈知其久(南)人應謂之迂(松)談与首共捻(子)才拳身既枯(南)無暗勿労脳(松)威張欲撚鬚(子) 興旺奈難止(南)順廻不可逋(松)柝将近大引(子)客猶誇御株(南)雖然御暇乞(松)左様御屋隅(子) というようなので、何の価値もないものだが、ただ今昔の感までに一首を掲出して見た。南塘は僕、松窓は黄塔氏の旧号である。また俳句といった処で、僕のは一番物になっていないが、居士もまだ随分ひどいのがある。一興までに少々示そう。 春よりも嬉し小春の帰り咲 子規 菊も菜の色に咲きたる小春哉 同 賤が家に置くも笑ふや福寿草 同 春風をかたちに見せる柳哉 同〇廿三年の末居士は退舎した。これは大学の修行を止めていよいよ文学一遍に従事しようという準備なので、この後僕と居士との交遊はますます頻数になった。それは監督と被監督者との間柄では、あまり親密にすると他の舎生の思わくもあるから自然控え目にしていたが、モーこれからは天下晴れての道楽交際が出来るようになったからである。〇僕が居士の誘掖に依って真に俳句に志したのはまだこれから一年後、即ち廿五年春頃のことである。この顛末は既にホトトギス二巻十号「碧子の俳句評釈」という僕の文中に述て置いた。右にもいった如く、僕も段々俳句の趣味が分かりかけたのですこぶる熱心になって来た。居士と日光行や武州高尾行をして居士に紀行の出来たのはこの年の末である。〇吾々蓮坐の口切りは翌廿六年一月のことで、その頃居士は伊藤松宇氏と懇惹になり、その誘引で石山桂山氏の宅へ行き、片山桃雨、森猿男、石井得中諸氏とともに運坐をして、その夜は夜通し遣ったとのこと、それから直き僕の所へ来て、咋夜はかくかくで運坐は極めて面白いものだとの話し、そこで僕も興が動いて遂に右松宇氏らの仲間入をすることになった。この一団は椎の友と称していて、その後俳諧という機関雑誌を発行したが、一向に売れぬので書肆の拒絶に逢い、残念ながら二号限りで廃止した。その頃吾々の俳句が世間へ対する勢力の如何に徴弱であったかはこの一事でも知れる。〇その後はこの仲間の頭数も段々と多くなって、五百木瓢亭、藤野古白氏が加ったのみならず、土居藪鷲、二宮素香、孤松の兄弟、桜井静堂の諸氏も這入る、また大野洒竹、藤井紫影、田岡爛腸の諸氏も前後仲間となった。この頃は少くとも一月一回もしくは二回各人の宅で輪番に開会した。その上飛入りの人もあったので中々盛んにまた熱心であった。〇今日に行っている運坐で銘々の句を箋に認め吠袋へ入れて廻し合う方法は、この頃藪鶯氏が牛込の宗匠岡本半翠氏の運坐へ出席して見て来たのが起因で、右の法は半翠氏門の発明だそうで、それゆえ袋組と自ら称していた。僕も藪鶯氏に連れられてこの袋組へ出席したこともある。この外同人中にも随分旧派俳家の運坐へ出掛けることもあって、居士も上根岸岡倉某老人の運坐へ出て、すこぶる高点を得たと笑っての話しもあった。〇居士が幹雄老人と交際を始め、その紹介書を貰って奥州旅行をしたのもたしかこの年のことだと覚えている。〇さてまた運坐の採点法は通例一人の点者を定めその批評から席上で生ずる点数をもって勝敗を決するのであるが、それを衆評に付することに改めたのは松宇氏等の椎の友であるとの事。また運坐以前我々仲間はどんな風にしていたかというに、単に題を定めて各々それを作り、作り了ればまた題を出す、一題については一句ずつとすることもあり、また何句でも作り次第と定めることもある、その各人の句を便宜紙に認めて置て、それを一坐が回評して好いとか悪いとかいっていたばかり。またせり吟というのは、ある時間を定めてその時間に一題もしくは数題を作れるだけ作り、その最沢山作り得た人が誇り顔をするというくらいのことに止まったのである。今の席上の一題十句とかまたは宿題十句集を隔地へ廻送して互に評をするというようなことは遥か後年に始まったことなのだ。〇かくする内にも居士は抱負が抱負であるゆえ、独り潜心に俳句を研究し、年一年に自得の境を得たのである。もっとも居士とても最初はほとんど月並的の句も作り、進んで真の俳句を作り出した暁も、着想がとかく織細に傾き雄大の句作が出来ぬに困ると自もいって、態と大の字を入れた句をあまた連ねて見たりしてそれを練習したこともある。かつ主観的の句はその頃ほとんど嫌いで作らない。作るのは概ね客観的ので、その為め同人一般もこれに倣ってやはり客観的の句を尚んでいた。もっとも居士が我々仲間との交際はいささかも大将顔をするでもなく、席上で先生々々といわるるのは却て老人だけに僕のことであったのだけれども、自然の力量は争われぬもので、年齢や履歴の如何に拘わらず、衆人が暗に居士を以て中心点として何事もそれに引き廻わされていたようだ。〇居士が俳句の類題と各家々集の編纂に着手したのはなんでも廿三四年の頃で、これは日課としていて、如何なる多忙疲労の日も決して欠かさず、あるいは夜遅く帰宅したとしても是非従事することとし、夜の二時三時までも起きていることは珍からぬとのこと。その他この事件を調べて見ようとかかような句を作ろうとか思い付いた時は、徹夜しても必ず果さねば止まぬので、咋夜もまた徹夜して調べ物をしたとの話しは毎度のこととなり、仕舞には僕等もフン左様かといって、居士のこととしては別段驚かぬことであった。(内藤嗚雪 追懐雑記01)
2021.07.12
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明治25年1月から、鳴雪は俳句を始めます。最初のうちは、まだ俳句というものがわかっておらず、五里霧中の中での作句でしたが、子規周辺の俳人たちが「猿蓑」を尊重していることを知り、この本を研究します。もともと漢詩に力のあった鳴雪ですから、力のある句が次々と登場しました。不思議に思った子規が子規が鳴雪に尋ねて、上達の理由がわかったのでした。 大学に退学届を出してから、子規は「日本新聞社」に頻繁に出かけ、入社への下地をつくり、家族を11月に東京に迎え入れることに決めました。 子規は家族を迎える旅に出る前の明治25年10月29〜31日、内藤鳴雪とともに日光へ紅葉狩りへ出かけます。鳴雪は、体の調子が悪く床に伏せっていましたが、子規からの吟行の誘いには抗えず、出かけることになりました。 子規らは上野から汽車で宇都宮に向かい、駅弁を初めてつくったところとしても知られる「白木屋」に泊まります。 30日は、朝の5時35分宇都宮発の汽車に乗り、7時5分に日光へ到着しました。曇っていた空が次第に晴れてきます。子規たちは、日差しを浴びてきらめく紅葉を見ながら、大谷川を渡って含満淵や大日堂を眺めながら、馬返しまで歩きました。そこの茶屋で休憩し、華厳の滝を経て中前チコまで行き、日光に引き返し、「小西屋」に泊まります。 31日は、東照宮に参拝。華厳の滝で折り取った紅葉を土産に、日光から東京へと帰りました。 日光の旅の吟行は『日光の紅葉』に書かれていますが、「猿蓑」で俳句に開眼したばかりの鳴雪の上達ぶりを眺めることができます。 春の花は見るが野暮なり、秋の紅葉は見ぬが野暮なりと独り諺をこしらえて、その言いわけに今年は日光の紅葉狩にと思い付きぬ。先ず鳴雪翁をおとづれてしかじかのよしをいえば、翁病の床より飛び起きて我も行かんと勇み給う。さらば思い立つ日を吉日として、上野より汽車を駆り、宇都宮に一泊せし日は朝来の大雨盆を傾けて、いつ晴るべしとも知らぬに何が吉日ぞ。ここはいくさの跡とて、はたごやはまだ何となく騒がしきに、強いて一夜の憐を請うて木枕の痕を頭にぞ残しける。 木枕に惟然泣く夜の長さかな 翁は腹痛みて終夜眠り給はざりしとて暁に余を呼び醒まし 若人をゆり起したる夜長かな 鳴雪 など戯れ給う。一番の汽車にて日光に行く。空は一面に曇りたれども雨は降らず。東の方地平線上に一筋の薄明りこそ唯一の頼みなりけれ。車上にて 露吹くや小籔の中の芋畑 鳴雪 と詠み出でられたる雅淡にして幽趣あり。元禄以後の作とは見えず。日光町に着きたる頃は一天晴む底だに見えず。 千丈の滝の岩間やむら紅葉 非風 という友人の句のみ口に浮びて発句など思いもよらず 雲間より滝の落ちくる紅葉かな 鳴雪 湖を滝におとすやむら紅葉 同 などものされたる翁の筆力また恐ろし。 紅葉見え滝見える茶屋の床几かな 紅葉出て落ちこむ滝や霧の中 秋の山滝を残して紅葉かな など中々にいうだけが蛇足なり。中禅寺湖に至れば錦繍の屏風の中に磨ぎ出だせる一面の鏡、竜田姫の化粧道具うつくし。 湖をとりまく山の紅葉かな 中宮祠 神殿の御格子おろす紅葉かな 石壇や一つ一つに散紅葉 引き返して日光に帰るに、もとより同じ道筋なれど見上げたるけしきは見下したるながめに異なり、苦しんで見るは楽しんで見ると異なり、朝日のいさましきは夕日のあはれなるに異なりて、ひねもす倦むことも知らず。 絶壁に夕日うらてる紅葉かな 裏表きらりきらりと散紅葉 山はくつ日のてりわける紅葉かな 帰る人毎に紅葉一枝の夕日を荷うて宵月の尾の上にかかる頃、日光町に着きたり。 つぐの日東照廟大猷廟に詣ず。輪奐の美今更に言わず。 おくつきを守り申すやむら紅葉 鳴雪 神杉や三百年の蔦紅葉 からかねの鑄ぬきの門や薄紅葉 華厳の滝のほとりにて手折れる一枝の紅葉を都への家土産にとて携へ、日光停車場に至れば一群の紅粧来りて一枝の秋色を請う。折りて与えたれば、これを分けて各鬢辺に挿む。この好題目のがすべからずと翁の戯れ給うに 薄紅葉紅にそめよとあたへけり つきづきしからぬを、人や笑わんとて大に笑う。車中にて逢う人、日光の紅葉を問う。翁曰く天下の絶勝なり。かの人またいう。京に三美あり、上野二州に塩原碓氷霧積の諸勝あり、その優劣は如何にやあらん。翁曰く、天下の諸勝はもとより知らねども、あるいは規模小にして日光の大観なく、あるいはこの大観あるも、かくの如き渓流と瀑布と大湖と無かるべし。されば山水の勝を兼ねてこの変幻とこの壮観とを具し、而して白雲紅葉の色彩を施す者、恐らくは日光諸山の美に過ぎたるはなからんと。かの人諾す。日光紅葉を見るの記を作る。(日光の紅葉)
2021.07.10
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鳴雪は、漢詩を子規の外祖父・大原観山に学んでいました。その鳴雪が常盤会寄宿舎の2代目監督となったのは、明治22年でした。いつ頃の就任かははっきりしませんが、子規が喀血して帰郷の際には、前の監督・服部嘉陳がともに帰っていますから、喀血時にはすでに監督になっていたようです。なお、嘉陳は藤野古白の伯父にあたり、子規とは周り縁ということになります。 この年の冬、竹村黄塔が入舎すると、子規は黄塔、鳴雪とともに「言志会」を結成します。彼らのつくったものは、漢詩にとどまらず、和歌、狂歌、俳句、川柳など、多岐にわたりました。 明治23年9月28日の朝、内藤鳴雪が部屋を訪れ、夜の言志会の予定を変更して遠足に出かけることを提案します。子規は、竹村黄塔を誘い、三人で新井薬師へ向かうことにしました。この経緯は、『筆まかせ』「一歩一句」に記されています。 九月廿八日(日曜日)朝南塘先生我室に来られ「言志会の出会は今夜の筈なりしが、この好天気に家に在て、野暮な勘定をするのも余り気が聞かぬと思いし故に出で来られたり。今より遠足と出かけては如何」といわれたり。すなわち竹村錬卿をも催し、ともに寄宿舎を立ちいでける。志す所は新井の薬師也。路々、聯句を為す。この聯句は前後二句宛の外は対句なる故、一寸排律の姿なれども、平仄はまるでかまわず、かつ対句処ハ後の句よりさきに作ることとなせり。見る人その心して読み給え。その道筋より景色など大方は聯句の中にいいこめたり。 逢此秋睛好 南塘 遊意不可防 松窓 洗空流金気 南 排霧躍朝陽 子規 鼓勇畳綿被 子 決策出書房 松 (以下漢詩略) 新井より堀の内に至る間の道にてこの聯句は終りを告げたり。堀の内の「しがらき」にて午飯を喫す。混雑一方ならず。誂え容易に来らず、ここをいでてより道々串ざしの饅頭を喫しながら哲理を談す。祖師堂に至りてその牡大なる建築、盛巧なる彫刻に驚く、帰途、文学を談じながら十二社に行く。十二社俗に十二そうと称す。その故を知らず。老樹蓊鬱、古池閑遂、暫らく榻(とう)に踞して烟を喫す。紅粧欄によりて麩を投ず。鯉魚撥刺、長さ雙尺。これより四谷街に出図。書肆に入り声曲類纂を購うて帰る、途次、南塘先生しきりに古本屋の善悪を評せらる。詮鑿至らざるなし。余等一驚を喫す。舎に逹する頃已に燈を点す。足指豆を生ず。この夜恰も中秋、再び非風、瓢亭に強入られて向島に遊ぶ。行路甚だなやむ。一高一低、歩態恰も躄(いざり)の如し。往復得る所の句あり。以下抹消〕 〔かげることなき世に見るやけふの月 あしなへも三里あるくやけふの月〕(一歩一句) 子規たちは道々、連句を行ない、堀の内の「しがらき」で昼食をとるが、混雑しています。串ざしの饅頭を食べながら、哲理・文学などを論じ、十二社に行きました。 子規は四谷で『声曲類纂』を買います。灯ともし頃、寄宿舎に着くと、足に豆ができていました。 夜、非風と瓢亭に誘われ、向島に遊びました。 堀の内内妙法寺門前の「しがらき」は、「のっぺい汁」の名店です。山芋に水溶きの片栗粉などを加えて、とろみをつけ、野菜がたくさん入った汁物のことでした。 新井薬師は、中野にある真言宗豊山派の寺院「梅照院」にある薬師如来のことです。如意輪観音の二仏一体で、高さ一寸六分(約5.5㎝)のご尊像で、鎌倉時代に活躍した武将、新田家ゆかりの守護仏でした。
2021.07.08
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明治19年7月、子規は、旧藩主の子息・久松定靖公の付き添いで日光へ向かいました。叔父の藤野漸から「若君の日光漫遊にお供せよ」といわれ、明治6年生まれの定靖公のお守役兼話役をすることになったのでした。この時の付き添い役に、鷹見某とともに、のちに子規の俳句指導を受ける内藤鳴雪が定靖公に付き添いました。内藤鳴雪と子規は、幼い頃から互いのことを知っていたようですが、直接、話したのはこの時が最初のようです。 19日、朝9時25分に上野を出発した汽車は午後1時に宇都宮に着き、一行は駅前の旅宿「手塚屋」に一泊しました。翌日は、宇都宮から馬車で日光に向けて出発、大雨の中、旅館「神山徳平方」の前にある山へ4人で登りました。大雨の中に山に登ったのは、鳴雪がお堂に何が祀られているかを知りたかったためでした。定靖公は鷹見氏とともに途中で正路に別れ、鳴雪とともに山上の小堂に着き「牛頭天王」であることを確かめましたが、苦心して到着すると、すでに定靖公と鷹見氏が上ってきていました。ただ、この山にはブヨが多く、刺されて晴れ上がり、熱が出て困ったと書いています。 22日は東照宮に参拝。23日は馬を雇って霧降滝へ行きました。滝は期待はずれでしたが、初めての乗馬体験に興奮しています。24日は含満淵、滝尾神社に行き、25日は満願寺に遊び、三仏堂を見ています。26日、鳴雪とともに鴻巣山に上ろうと出発しましたが、途中で道がなくなり、草木が繁茂しているため、力尽きて戻らざるを得ませんでした。28日、再び鴻巣山をめざします。今回は定靖公も同行します。老婆の教えに従って山道を登ると、山頂に到達。日光、今市が一望に見渡せることができました。日光の旅館に、竹村黄塔が訪れています。 8月1日、子規は中善寺に向かって迂回し、裏見瀑、慈観滝を見、華厳の滝に到ります。しかし、旱魃のために滝に水が落ちておらず、残念に思います。夜は中善寺湖畔の「三層楼」に泊まりました。2日は中禅寺湖を渡って竜頭滝を見、赤沼原を経て湯滝に行きます。3日は舟で湖上に出て、同船の漁師のヤスを使って魚を獲る漁を見、鯉二十余尾を獲って帰ります。4日は日光町、5日は宇都宮まで帰り、6日に朝一番の列車で大宮に帰り、高崎行きに乗り換えて上州伊香保に向かいました。上尾、桶川、鴻巣、吹上、熊谷、深谷を経て、高崎に到ります。高崎駅からは人力車を利用し伊香保温泉に到着、かねて静養中の定靖の父・久松勝成と合流し、以後20余日間を伊香保で過ごしました。旅館「楽山館」といい、囲碁や将棋、西洋かるたなどで時間をつぶしました。20日は榛名山に登り、29日に東京へ戻りました。 子規はこの旅行で洋服代10円と支度金5円をもらっています。旅費はもちろん払う必要はなく、しかも日当10銭。豪華な宿に泊まり、美味しい食事にありついて、帰京後にかすり一巻と5円をもらっています。なかなか割のいいバイトだったようです。 この旅のことは、叔父の大原恒徳に9月8日の手紙で報告しています。この手紙を見ると、内藤鳴雪(素行)はなににでも興味を持つ行動派の人物であると、子規の目に映ったようです。 私事去る七月十九日 定靖公日光御参謁の御供被仰付前月廿九日帰京仕候。その間の紀事あらまし左に記し候間、御序に母上様へも御伝言被下度候。 明治十九年 七月十九日。朝雨ふる。七時半麻布を発す。上野停車場に至り、九時二十五分の汽車にて下野国宇都宮へ向け出発す。王子、赤羽、大宮、蓮田、久喜、栗橋、古河、小山、石橋を経て宇都宮に逹せしはあたかも一時なりき。直ちに同駅の旅宿手塚屋に投ず。その家屋の結構太た宏牡なり。 宇都宮は栃木縣県庁のある所にして可なり繁華の市街なりと言えども、その幅員は松山の半に過ぎず。ただ県庁と監獄署と相共に南北に巍然として美を争うは奇というべし。某氏の説に当地は古来長脇差と称する者の横行せし処なれば、今日に至りてもなお博徒類の多きならんと。必ず然らん。やと 廿日。早起一輛の馬車を僦い、六時宇都宮を発す。路はなはだ険悪、落んとすること数々鹿沼、板橋、今市の三駅を経て日光町に逹す。旅館神山徳平方に投す。時に午後一時なり。この楼や結構大ならすといえども前に青山を控え終日雲烟の変化を観る。また当駅屈指の旅宿なり。午後に至り大雨沛然として下る。盆を翻すが如し。靖公内藤氏鷹見氏とともに雨を犯して楼前の山に上る。山上の一平坡に至りて小憩す。靖公気已に沮む。この山の右に一山あり、谷を隔つ山上に一小堂あり、しかして堂の何たるを弁せず。内藤氏、これを窮めんと欲す。靖公帰途に就く、鷹氏従う。すなわち内氏とともにその小堂に至らんと欲す、路の通すべきなし。すなわち草を分け木を折り、路を一直線に取り、あるいは滑りて伝すること数間、あるいは枝に頼て漸く上り、終に谷を超えその山に上り、まさに半腹ならんとする頃、山上に人声あり。しかして草木人より高し見るべからず。ただ恠むらくは、この雨中に方て、この山に上るの同志者あるを、益々勇気を鼓して進む。ようやく山上小堂の傍に達し、人語を求むれば何ぞ図らん、靖公及鷹氏の已にあるあり。相喜んで備さに艱苦の状を話す。けだし靖公は途中意を変じて、正路よりここに上られしをもって却て速かなりき。堂を見れば即ち牛頭天王祠なり。 飢餓已に迫る。すなわち、この山を走り下る単衣、雨にうるおうてぼとぼと然たり。しかし大雨未だ衰えず。あたかも河獺の行列の如し。家に帰りて先きに上りし所を求むるに、雲霧茫々辞すべからず。これこの旅中第一着の壮遊なりし。この地は蚊なしといえども、蚋(ぶと)多し。この行や鷹氏もっともその害を受く。双脚赤く腫れ上り熱に苦しむこと数日。 廿一日。晴曇極りなし。郊外に出でて、野花を摘む。二十二日正午東照宮に謁る。先ず日光町を出ずれば河あり、大谷川という。橋あり、神橋という。これより日光山部内に入る、一山皆杉樹大きさ五囲に過ぐ。石華表を入れば五層の塔あり。表門を入る、厩あり、水屋あり、三神庫あり。輪蔵の前を過ぐれば、鼓楼あり、鐘楼あり。その下に廼り、灯籠あり、釣灯籠あり、虫喰鐘あり、蓮灯籠あり、皆外国より献する所なり。その次に陽明門あり。俗に日暮し門という。その彫刻の精巧なる装飾の工微なる、一々これを窮めんとすればために一日を費すべしと実に誣いざるなり。唐門を経て拝殿に上る、杯酒を賜う。石の間を上て宝物を見る。美麗壮観筆紙に尽くしがたし、他日写真を送るべし、以て一斑を知り玉え。猫門を過ぎて宝塔に至る、骨を埋むるの処なり。一拝して下る。二荒山神社を過ぎて二つ堂の傍より大猷廟に至る、三代将軍を祭る所なり。その模範東照宮に似て小なるのみ。 二十三日。曇、馬を僦って霧降瀧に至る里程三里行路多くは山に縁り川に沿う。一足を誤れば千仭の絶崖に転下すべき処あり。しかも乗馬はこの時をもって始めとす。極めて壮快なりし。瀧は大ならざるに非すといえども評判程のものに非す。 二十四日。含満淵に至る。転じて瀧尾紳社に謁る。共に幽𨗉なり。 二十五日。満願寺に遊ぶ。三仏堂を見る。三仏堂の大さ浅草寺と伯仲す。しかしその中は三個の仏像の充塞するのみ。 二十六日。内氏と鴻巣山に上らんと欲し、路を午頭天王祠に取てもって進む。ここより上、路の通ずるなし。草木繁生、熊篠殊に多し。すなわちともに草をたおし木を伐り誅伐懇ろに到りて小径一条を開く。進むこと数町、力尽きて腹空し。すなわち志を果さずして帰る。 二十七日。雨 二十八日、午後再び鴻巣山に登らんと欲し、前日開く所の道を取り荊棘を誅して行く。この日は靖公も同意を表せられ、随行せしをもって路を開く。更に叮嚀なり。老婆の数に従って進む。終に山頂に上るを得たり。日光今市皆目下にあり、群山皆首を低るか如し。飢渇甚しといえども飲むべきの水なし。目標を立てて帰る。 八月一日。中禅寺に向わんと欲し、先ず路を迂廻し裏見爆に至る。甚た大ならずといえども、その奇なるは驚くべし。なお路を山間に取て、川源に遡り慈観瀧に至る(この瀧は余り人の行かぬ処なり)。更に裏見に返り、本路に出て馬返しに至り、これより山坂の嶮を超て華巌に至る。華厳は日光第一の瀑布なれども、今年は不幸にして水の落つるを見ず。蓋しこの瀧は直ちに中時寺湖より落つるものなれども旱魃のために湖水甚だ減ぜしをもってなり、遺憾極りなし。この夜は中禅寺湖畔の三層楼に宿す。日光町を出出て経過せし所の里程およそ六里許、山坂その半にいる。而し靖公は概ね山籠に依りたまえり。 二日。湖を渡りて龍頭瀧を見、また沼原を経て湯瀧に至る。湯瀧は湯湖より落つるものにして湯湖は即ち温泉のある所なり。俗にこれを湯元という。この温泉は言うに足らざるものなり。 三日、舟を湯湖に放て網す。鯉魚廿余頭を得たり。 四日、日光町に帰る。 五日、宇都宮に帰る。 六日、五時半の一番汽車に乗り大宮に帰り、車を乗り換て上尾、桶川、鴻巣、吹上、熊谷、深谷を経て上州高崎に逹す。これより人車にて伊香保に至る。 二十日、榛名山に上る。往復六里山路崎嶇たり。靖公徒歩また籠を用いず。 二十九日、東京に帰る。 伊香保にある廿余日、その間常に囲棋将棋西洋かるたなどをもって日を消すの具となす。ただ時に大弓場へ出掛るは多少の運動というべきのみ。 先は大略の紀行をいえばかくの如きものに御座候。この紀行中、日光の美麗諸瀑の快壮を略し候。 鴻巣山行などのことを詳にせしものは定靖公の学動を顕さんがために候。この行は特に勇気を養うがためなれば可成如。かくことをすすめ申候。中々壮快なることに御座候えども伊香保滞在中は老公と御一処なるをもって勢自ら異なりて不都合不少悠々無事に多数の日子を経過仕候。昔し某仰者の説に我諸候に生れざる一の幸福なりと宜なるかな、鷹を生むの鳶もまた齢なきものなりと歎息するの外無之候。 この旅行においてはじめ洋服代十円を賜わり、ついで支度金として別に五円を下され、旅費はもちろん官費にて日当は十錢に御座候。その上帰京後に定靖公御手許より慰労として鹿摺一巻及び金五円下賜され申候。 右は先は今回旅行の大概に御座候えば、御一覧を煩し申候乍、憚御偲言奉願候。加藤叔父上様いよいよ交際官に拝命いたされ、何より結構の御事に御座候。羨敷事限なく候。 恐愧謹言。 九月八日 常規 叔父上様
2021.07.06
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内藤鳴雪は、弘化4年4月15日に、松山藩士同人(ともざね)の長男として江戸三田の藩邸内に生まれました。名を素行といい、11歳で松山に帰住し藩校明教館に学んだのち、明治元年に京都、翌年に東京に移り、昌平校に学びます。明治3年に松山に帰って松山藩権少参事になりますが、翌年に廃藩となったため、再び東京に学び、明治5年に帰郷して石鉄県の学区取締となって小学校の設置に従事します。 明治7年に愛媛県権令に着任した岩村高俊は、教育熱心な鳴雪をーに目をつけ、明治8年に学務課長として抜擢し、伊予全体の学事の指揮をとることになりました。 岩村側近のブレーンとして県政につくすともに、南塘と号して漢詩を発表します。明治13年に鳴雪は文部省に転任し、東京に住むことになりました。上京後の内藤は、明治22年4月、服部嘉陳のあとをうけて常盤会寄宿舎監督に就任します。これが子規と俳句の出会いに通じました。 ただ、子規と鳴雪は昔からその名前を知っていたようです。 子規が学生時代に綴った『筆まかせ』には「南塘先生」として、その文中に登場します。そのユニークな人柄を呼んでください。 筆まかせ 第二篇 八月十九日東京発(去年夏先生も暫時帰郷し給えり)(畧)小生も汽車中一首あり博一粲 水架鉄橋山鑿隧、奔車千里響如霆、 沿途回首感今昔、寂莫五十三駅亭、 道後にて古代の器の破片御拾の由新聞に見ゆ 御帰京の時は一見せんと今より楽居候 これはいとおかしき間違也。先生の御帰郷中余は先生に伴ひ道後へ瓦拾いに行き一瓦片を得たり。その事を新聞屋が聞き違え、例の疎漏筆にて余の名のみをかかげし故、先生がその新聞を見られ、全く別物と思われたる也。二物二ならず。却てその破片は先生の手中にあるこそおかしけれ。(南塘先生の手書) 筆まかせ 第三篇 内籐先生の頓智にたけ給ひたる。時に冷罵冷笑をもって人の願を解かるることは、人の能く知る所なるが六月の末つかた、余の帰途に就かんとする前に先生を訪う。談また世事に及ぶ。先生笑うていわるる様「物の局内に在ては何も分るものに非す。その局外に在てこそその局内の形勢をも知ることを得るなれ、世の俗事に奔走し世間の外、また何も知らぬ者が世間を論ずるに至ては、その眼孔のなる、識見の陋なる、実に笑うに堪えたり。世間を論ずるには世間外に立つ者ならざるべからず。少くともなるべく遠く世間を離れたる者ならざるべからず。即ち今やこの世を去らんとする病人の如きものにして、始めて世間を局外に見得る也。人之将死その言也善というもまたこれに外ならざる也。君の如きも去年の病気已来は盆人間に遠ざかりし故、定めて悟を開かるること一層深かりしならん。ただ君と余といずれが多く悟りたるか知らまほしきこと也。しかし今世間的の目をもっていえば君の悟りは少しはや過ぎたり。最少し遅き方却てよかりしならん、しかはあれど、一旦悟りたるものをもとへ返すわけにも行かねば致し方もなかるべし」といわれたり。余これを聞きてその奇警なるに驚きしが答えていう様「先生と余といずれが多く悟りたるかは容易に断定すべからず。蓋し場合によりて自ら異なる所あるべし。殊に余の悟りは子供の頑是なきが如きものにて、未だ経験なきため也。もし今後余が種々の経験をなすに至らば、余の悟りは煩悩と変じ尽すべし。世間出世間のお話は実質に面白く拝聴したり」と。先生また語をつぎて、しかし仏教の僧侶たちが極めて健康なる身体を持ちながら悟る悟るというはおかしきことなり。病人にあらざればとても世間外の位置に立つ能はざるものを」と笑われしかば、余も「しか也、もと仏教の悟りとは知恵の悟りにあらざる也。彼のいわゆる悟りとはメスメリズムの一種にして、智恵の上よりいへばばかになるもの也」といいしに、先生もまた同意を表せられたり。先生いよいよ興に人り膝をすすめて「前にもいう如く少し老衰せねば世間のことはわかるものに非ず、少年の時は血が多いからいかんのである、故に少年は血気にはやること多く、また血迷うたなどとて、のぼせあがること多き理也。余も四十歳になりて大に血の減じ、精神の定まりたるように覚えたり。孔子が四十而不惑といわれしは実事にて、恐らくは経験上より来りしことならん。しかし世の中には例外も多きものにて、西洋人などには多血性多く、殊にビスマルクの如きは非常の多血性と見え、七十余歳になってもなおピンピンとはねまわりいるは笑止千万のこと也。君とても去年已来、血を吐かれて血の量の減ぜしかば、悟りの域に近づかれしなるべし」といわるるに至りて、余は抱腹絶倒、実に先生の諧謔の巧妙なるに驚き、一夜の閑話、百日の法談にまさりぬとて辞し去りぬ。(南塘先生の笑話) 筆まかせ 第四篇 九月廿七日大学に行き、日高氏の数育学の講説をきく。午飯を学校にて喫し、喜久床に髪を切り、その帰りに南塘先生を訪う。先生数日来風邪今なお褥に在り。まずはじめに俳諧談をなし、甲を評し乙を批す。しばらくして身の上話に及びまた一転して世事談に移る。あるいは諧謔願を解き、あるいは魂膽臍をえぐる。一転して余が身に関する俗事を談じ、その結末は終に余が身の上に移りたる時、先生曰く、卿今何歳なりや、曰く廿六歳、曰く、漸く二十六歳、何ぞ老成且つ老衰の甚だしきや。余が廿六歳の時は正に松山にて権少参事に抜擢せられたるの年也。当時余の意気は只今の卿の如く衰耗せしものに非ず。爾後東京に来るの後も、改革の度毎に余は常に罷免の沙汰無きのみならず、却て面目を施したる位なれば、常に余をしてますます前途に望を置かしめたり。しかれども余が厭世の志を発したる明治十九年頃のこと也。妻子のために束縛せられて荏苒官に在りしかども、今は閑日月を俳句小説などによりて消費するに至れり云々と。談ますます佳興に入る。余少時勝山学校に在るの時、すでに先生を知る。一般の噂によりて先生の博学なると先生の早口なるを知りたり。その頃一生相伝えて曰く、先生一夜の間に日本外史二十二巻を通読すと。余ら聞てこれを敬すること神の如く、人間わざに非るの感をなしたり。しかれども数年来先生に親灸するに及んで、前年の神明的尊崇の思想は失せて、ただ博学にして隔意なき。論理に敏にして処事に迂なる(先生自身の語)一先生なりとの思想のみ残れり。しかるに今かく話次、たまたま昔時の思想を喚起し、先生に質すに日本外史通限のことをもってす。先生笑って曰く。咄何物かこの謬伝をなす。余一夜は愚か日本外史を通限せしこと殆んどあるかなきが位也。蓋し余の同輩にして学業を成せし者少きがために、乃公をして一時の虚名をなさしめしのみ、と語り終って大笑す。一話また一話、話頭幾変して止まる所を知らず、長談七時間少しも口を絶たず。しかして終に厭倦を生ぜず。失惹の人、世を談ず概ねこの類也。 とりまぜた一木の色や葉鶏頭(口を絶たざること七時間) 南塘先生一日郊外を散歩す。路を農夫に問う。農夫頬冠を脱して道を教うることはなはだ慇懃なり。先生歎して曰く、天下名利に走り、道徳地を払うこと、一日一日より甚だし。しかして吾なお農夫の頬冠を脱するに及べりと。(常盤豪傑譚 南塘先生津を問う) 南塘先生散歩の癖あり。その京城に住する十余年、城の内外、地理に通せざる所なし。先生致仕後すなわち散歩をもって日課となす。しかして東京内の市区改正及び土木工事を検閲し、心ひそかにその緩慢なるを怒る。因て自ら東京市区改正監督と称す。頃日また東京市図を購い、足かつて踏む所の地は即ち朱を持ってこれを塗る。今や足跡ほとんど八百八街にあまねからんとす。しかれども未だなお尽くさざる也。先生一日竹村稽三郎、正岡升二人を携えて深川の郊外を歩す。行く行く一句を賦して曰く 小春日や野道をぶらりぶらり行く 升、戯れに一句を擬して曰く 小春日や赤すじすらりすらり引くと、三人相見て笑う。(常盤豪傑譚 南塘先生ひそかに東京市区改正監督員となる) 南塘先生は唯物論者なり。常に人に語て曰く、余自ら哲理を研究すること多年。初め耶蘇敦に志せとも我意を得ず。去て仏教に志す。また我惹を獲ず。終に唯物論のもっとも平易にしてもっとも穏当なるに如かずと信ずる也。余小膽浅識なりといえども、突然他人の攻撃を受けて、敢て一驚を喫せざるものは余の哲理なり。しかれども余の実行を顧みるに、余の哲理と撞着する少からず。例えば喜怒哀楽恐怖などの感情に制せらるるが如きこれ也。蓋し是らは先祖代々の遺伝に由て然るのみ。語を換えて言わば、余の喜部は御先祖の喜ばるるなり。余の怒るは御先祖の怒らるるなり。余の恐るるは御先祖の恐れらるるなり。余において何か有らん。(常盤豪傑譚 南塘先生先祖に使役せらる) 南塘先生頃日憂うることあり。一日例の如く正岡升らを携えて東京の近郊を散策す。先生途上の一汚厮に入る。出で来りて升らに謂って曰く、余かつて聞く、水に因て伝播する的のバクテリヤありと。余厮に上る毎に憂うる所は、尿水余の身体と尿桶とを連絡するの際に当たって、龍門に登るの鯉の如く尿水を伝うて余の体中に入るバクテリヤあるや否やにあり。卿らもって如何となす。升等ら曰く、恐らくはこれ無けん。先生曰く、高貴の人深殿の中に棲息すといえども、常に無数のバクテリヤを呑む。いわんやその他出して街厮の前を過ぐる毎に、一陣の薫風颯として至る。その吸う所のバクテリヤまさに肺中に充溢すべきなりと。談論やや佳境に入る。かつ笑い、かつ行く。心しばらくしてまた先生の曰く、今日の一遊、能く頃日の憂鬱を散す。真に卿らの賜なりと。升、例の揚足的論法をもって答えて曰く、時として多量のバクテリャを吸う。また衛生の一法なりと。先生苦笑す。(常盤豪傑譚 南塘先生日々にバクテリヤを呑む)
2021.07.04
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佐藤紅緑は、子規が亡くなって明治40年頃には俳壇から退きます。復本一郎氏の『佐藤紅緑 子規が愛した俳人』には、紅緑の弟子であった韋天の『半自叙伝』を掲載しています。 先生は十七字では自分の思想を盛る事は出来ないと門下にはっきり言うようになり、ほとんど句を顧みなくなった。俳句を生命とする一星、千家、惣之助、私等は大に憤慨した。そこで我々は先生に脚本、小説を止めて俳句一筋に戻り「とくさ」のために再び指導を懇請し、もし先生が肯かなかったら、大机の上にある長崎の俳人が送って来たザボンを先生に叩きつけて別れようとまで相談した。四人でこんこんと先生に頼んだが、先生はどうしてもうんと言わなかった。先生も我々も目に一杯の涙をためての談判だった。遂に決裂したが、ザボンは先生に投げつける事は出来ず、四人で泣く泣く座を立って外へ馳け出すと、先生は待て待てと言って玄関まで後を追って来たが、我々は逃げて仕舞った。 柴田宵曲著『子規居士の周囲』には「心と体を一つにしたいという念願から、一切の俳事を遠ざかって行ったのであった」「俳壇を去った紅緑氏は劇壇にその気勢を揚げた。自然派の一人として小説界に馳駆した時代もある。これ等は子規居士のいわゆる「俗界の紅緑」の一部をなすのであろうか。その後多くの通俗小説の作者たるに及んで、子規居士の系統に立つ文学の天地からは逸し去った観がある。『佐藤紅緑全集』の読者の大部分は、俳人たる紅緑氏を知らず、たまたま明治の俳書に『紅緑』の名を発見しても、その同一人たることを疑うであろう。けれども俳壇を去るということは、俳句を抛棄する意味ではない。子規居士をして「清浄無垢」と評せしめた俳人紅緑氏は、俳壇を去ることによってその天真を守り得たのである。吾々は紅緑氏の子規居士を追慕する文章を読むたびに、そこに一点の塵気をもとどめざることを感ずる。紅緑氏が子規居士から伝えられた道を全うしたのは、つとに俳壇を去り、職業的俳人の群に投じなかったためだといって差支あるまい」と書いています。 その後、紅緑は小説や戯曲を執筆するようになり、明治41年には外務省嘱託として映画研究のためヨーロッパを外遊しています。 そして、昭和2年には、青森出身である講談社の編集長・加藤謙一の依頼により『少年倶楽部』5月号に「あゝ玉杯に花うけて」を連載すると、読者から大反響を呼び、以後は『少年倶楽部』の専属として、『紅顔美談』『少年讃歌』などを連載。また昭和3年からは、同社の『少女倶楽部』にも少女小説を連載し、それらの多くが話題となり、少年少女小説の確固たる地位を築きました。 昭和16年に始まった太平洋戦争の前年、紅緑は作家活動をやめ、かつての俳句に力を注ぎます。戦後は、息子・サトーハチローの文京区弥生町の家に同居し、その町に世田谷区上馬町に移りました。昭和24年6月3日、世田谷区上馬町の自宅で死去しています。 紅緑の父である佐藤弥六について、斎藤康司著『りんごを拓いた人々』に掲載されていましたので、下に掲載します。ご参考になれば幸いです。 佐藤弥六ですが、今ではサトー・ハチロウ、佐藤愛子の祖父として知る人も多くなりました。童謡詩人と女流作家の才能の源はこの祖父に発するようで、「津軽のしるべ」「陸奥評林」といった郷土史の本のほか訳書「林檎図解」 も著しています。彼の三男が洽六すなわち紅緑でハチロウと愛子の父になるわけです。 弥六は元大工町に生まれ、稽古館、洋医佐々木元俊、慶応義塾等に学んだあと、親方町に唐物店を開きました。唐物店というのは洋品を商う店で彼は前垂れをかけて店頭に坐っていたといいます。思うになんにでも興味をもっていずれもひととおりのことはするが、これといって完結したものはない、そのうちに韜晦(才能かくし)して権威権力に背を向け、匹夫野人と交わるといった生き方をしたように思われます。りんごの方でも当時地方では稀な翻訳書の出版までしながら、新寺町にあった三ヘクタールのりんご園をあっさり弘前中学校の新築用地に寄付し、晩年は茂森町に住み、その津軽人らしい気骨を人々に愛され、八十一歳の長命を恵まれたといいます。年々に刊行される弘前の絵地図に個人では珍らしく彼の家が印刷されています。名士たるゆえんでしょう。
2021.07.02
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紅緑も、子規の終焉について書いています。これは明治35年11月15日発行の「木兎子規子追悼号」に書かれたもので、今まで紹介した文章の中でも『子規翁』と同じ頃に書かれたものです。文章は今ひとつリズムにかけるのですが、子規への想いは今までのものよりも、さらに深いものがあります。また、のちに大作家となる紅緑らしい物の見方が随所に散りばめられています。 昨夜は鉄露と二時まで散歩したので草臥れたままグッスリ眠った、朝の七時である突然電報に目覚めて開封すれば「マサオカナクナッタ」という九字である。 余は卒然として跳ね起きた。 余はこれに処するの道を知らなかったのである、車上いろいろの考えはいろいろの考を増殖して根岸庵に着いたのは全く夢の中である、鳴雪翁碧梧桐虚子左千夫義郎の諸氏は既に来ている。 翁の臥室はいつもの如く明け放されて頭を座敷即ち皆なが座っている方に向けたまま、位置は従来と少しも替らずに白き布団の上に身を横たへえているのは翁である、顔にかけたる白き布なくば、枕頭に線香の煙なくこれ純然たる睡眠である、しかしてここに集まれる諸子はただ運坐の会合としか見えぬのである 政宗の額、柱の蓑、曼陀羅の吊、緋色の短冊、室の有様は毫も昔に替らぬ、硝子窓から夕顔棚の影、がさがさと葉の動くが見ゆる。 七月廿六日のことであった、余は近日中に兵庫地方へ行くからしばらく御目に掛りませぬと訣別のためめに翁を訪うた時、この日はいつにない元気で種々政治界の話があり、それから小日本時代のこと、仙田、李坪、露月の噂などありて余程機嫌がよかった、その時に彼の夕顔の方を見ながら夕顔の夕に咲き朝顔の朝に咲く理由などを話され、終りに去年の今頃の夢に真白な夕顔に乗って吹かるるが如く何処ともなく出て行ったが、何でも星が馬鹿に光って頭に突き当りそうで険呑で溜らなかったが、いつのまにか目が覚めたことがあった、その翌朝は非常ないい天気であった、今年はこんなに雨続きで去年のように愉快な天気は無いといわれた、余は多年翁に親炙しているが、翁は夢のことを口にしたこと稀である、この時一種の感に打たれて余は返事さえ出来なかったのである、それから余は摂津より丹波但馬を歴游し、帰るや否や次女の病死彼れやこれやで見舞を怠ること一ヶ月余、今月の十日である蕪村講義のために根岸庵に行た、翁は咋日から足の腫れが段々ひどくなり今は硝子戸(南西)の方を頭に蓑の方(東南)を向いたまま一寸も動くことが出来なくなったとのことで、殆んど余らの方に顔を向けることが出来なかった、それを強てこちらに向かうとするものだから苦痛の様は目も当てられぬので、傍に見ている余は自分の膝からかけて骨の節々が痛くなって来たのである、それでも余らの講義中に誤りがあればそれはそうでなかろうというて自説を吐かれるのである、それがいい終るとアイタタタ、こんなに苦しいことがあるかいなと悩み出す、講義が療んで鳴雲翁と余とやがて帰宅すべう暇を告げた、どうぞ御大事にというたら難有う明日までに死ぬかも知れませんといわれたのでギョツとしながらも今まで幾度も旦夕に迫りながら一年も半年も持ち直したこともあるから左までに心に留めずに帰った、嗚呼これは余に到する最終の言である、余が到底耳にすべからざる声である、その後余は旅行やら失児の騒ぎやらで身体いたく衰弱に加えて急性の下痢を起しこれがために翁を訪うことが出来なかったので、丁度昨夜鉄露と月光を浴ぴながら翁のことを話し足部の腫は最も心配である、明日は是非見舞に行かねばならぬというておった時刻は、即ち翁が月の都に旅立ちたまいし時であったのである、こんなこととは無論知らなかった、危篤であるならば何故夜中でも余に電報してくれぬのか、セメテ最期の際になりと会いたかったと当夜看護の人に対する怨みはムラムラと起った、同時に余は我れに還たような気がして静かに枕頭に線香を点した。 余が復席と同時に碧梧桐と左千夫は寺を決めるに行った、虚子は黙然として五六枚の半紙を綴じたものを余が膝に出したので見ると当夜の記事である(日本に掲載)これで見ると翁の終焉のかく急なるべしとは医師すら思い設けぬことで看護当直の虚子及母堂令妹さえも息を引き取る刹那を知らなかったことがわかり、余らに電報することの出来なかった事情も判明したので、余はただ大なる疲労の如く気も心もゆるむと共に悲しさがこみあげて来たのである 寺のことは大体左の如く決定した、翁は平生没後は東京の近傍に葬って貰いたいといわれておった、それも上野とか向嶋とか花見の帰りに酒臭い息を石碑に吹きかけ、これは正岡子規の墓だなどとステッキの先で突つかれるような処はイヤだとのことであるので、釈清譚に寺のことを照会したら、二つある、一つは高田の方で禅寺であるが余り奇麗でない、一つは田端の大龍寺で律宗であるが清潔であるとのことで、ソコデ衆談の結果兎も角も宗旨は何でも構わぬ、それは翁の余り固執しなかったところである、ただ境内が静閑で墓地の掃除が行き届いておればよい。墓の上にムツキがぶら下がったりなんかは感心せぬからその点からいうと律宗はよく手が屈いて静かにして清潔である。正岡家の宗旨は禅宗であるが、母堂さえ御承諾なら律宗でもよかろうじゃないかとのことで母堂に右の趣を話したら、どちらでも皆さんの御都合のよいようにとのことで、何は兎もあれ一先ずその寺を見て来ようと碧梧桐と左千夫が出向いたのである。 それから戒名のことである、鳴雪翁の説で獺祭書屋子規居士ではどうかというのでそれから種々の戒名の提案が出たが、虚子の話しに翁が在世の時、戒名の長々しいのは馬鹿気ている。自分は俳家人名を調べた時にクダラなく長き戒名のあるのを見て駄名に驚いたという話しがあったとのことから鳴雪翁始め座中の種々推敲の結果、単に子規居士とする事こととなした。 余は戒名のことについて隣の陸先生に相談すべく行った。 先生の説では可成生前の名を多く用いたいから獺祭書屋子規としたらばどうだろうか、居士という字は有ても無てもよいとのことで、しかし衆議決したのならばそれでもよいと別に異論もなかった、湖村、古洲なども来合せて談はことごとく翁の生前のことばかりである、陸先生は端然として語られた。 自分はまだ牛込におった時であるから廿二三年頃だと思う、一二度自分の処に尋ねて来たことがある正岡という一介の書生話しは中々順序が立ておるので面白い人間だと思っておった、何でも廿一二歳の頃であったろう、それから廿五年であった、自分は鎌倉に保養中一二度手紙をよこしたことがある。字もよく書くし文面も整うておるしますます面白いと思たが間もなく見舞にやって来た、その時まだはその大学校生徒たることを知らなかったので、いつの間にか独修でもって高等学校に入り、大学に入ったのであろう、学校は止しましたというから何故止したというたら、詰らないから止したという、今ま一年辛棒すれば卒業じゃないかといえば、卒業したって役に立たぬ、試験通過のために学問をするというのは間違っている、日本の文学を調べるには第一に俳諧を調べなければならぬ、日本文学の骨髄はここにあるようで俳諧がわからなければ他のものは一切解決することが出来ぬから以後はこの方面を深く研究しようと思うというのでそれも面白かろうというたことがある、その前に端書に 神さびて秋さびて上野荒れにけり などいう俳句二三書てよこしたので、アノ人が俳句をやるのかと気が付いたことがある、それから日本新聞社に来たらよからうというわけで入社した次第だがこの時は二十五年の秋であったと思う、意志の鞏固なことは実に絶群であの病気が今まで続いたというのもこれがためだというので、医者などは肝を潰しておる、あんな病人は万人の中にも一人もあるまいということだ。 古洲は卒然として 骨盤は滅って殆んど無くなっている、脊髄はグチャグチャに壊れている、ソシテ片っ方の肺が無くなり片っ方は七分通り腐っている、八年間も持たということは実に不思議だ、実に豪傑だね、豪傑……何んともいいようのない人間だね、脳の健全と意思の強いのとはあんなに病に対しても強情なのかしらん。 陸先生は語を次いだ。 丁度一咋日だ、誕生だからというて赤飯を配って来た。これは例年のことである、それで死んだのは今朝一時というけれどマア十八日の夜と同じだ、して見ると誕生日の翌日に死んだというてよい、をとヽひの糸瓜の水も取らざりき、明月の夜に取った糸瓜の水は痰の薬だというのでこの辞世の句もあった訳だろうが一昨日は即ち十五夜である、十七日の誕生日も過ぎたので感慨更らに深かったのであろ〈う〉。丁度満何年という計算になるがあるいは死ぬなら今まがよいと予てから心懸けたのでもあろうか、ああいう人は気で持っているのだからモウ死のうと思えばいつでも死ぬるのだ、死ぬまいと思えばまだ一年位は死なずにおられるのかも知らん、その辺のこともあろうじゃないか」 碧梧桐は寺を検分した報告のために来た、大龍寺の墓地は極めて清浄である、二十坪の処と四坪半の処があるがどちらがよかろうか、兎も角住持がおらんので午後になるとおるということだから今一度行かねばならぬということである、先ず掛け合った上で廿坪程も入るまいからどちらでもよい方に決めようというので帰った、余もともに帰る、帰れば嗚雪翁正面に左右の人々額を鳩めて葬式のことを相談しつつあった。 軈て嗚雪翁と碧梧桐は寺へ出張した。 午後四時頃篠突く許りの雨は沛然として来た。 日は次第に暮れそめて四五本の鶏頭覚束なく暗うなりゆけば夕顔の花鮮やかになりまさりて表門の椎の木にガチャガチャが鳴き出す頃二人は帰って来た。 墓地は四坪半の方に決め迎僧は僧一人導師一人侍僧四人出棺時刻は二十一日午前九時ということにしたとの話でそれから各々食事に取りかかった。 先ず今明晩の追夜当番を定めようというので、 十九日 左千夫、四方太、義郎、秀真、蕨、紅緑 二十日 虚子、碧梧桐、鼠骨、瓢亭、麓、その他 ということにした。 八時頃雨やや霽れて雲洩る月光静かに硝子戸を斜めに照らす時、新らしき白き布団の上に寝たままの翁を棺におさめその上にまた同じキレの布囲団をかけた、棺は長五尺に巾二尺三寸深さ一尺二寸である。 十時頃余は浄手三拝して薬をもってその鼻及口を浄めまいらすべく棺を開いた、御顔にかけたる白布をとりのけると、嗚呼窶れたまひしかな、生前如何に痩せたまいしもなお稜々の風骨とハキハキとした活気は一点幾微の間に躍出しておったのであったが、今は既に大寂莫に帰してしまったのである、頬の肉はいたくも落ちて鼻筋高く露われそれに元来広かりし額のみはそのままであるので御顛はむしろ長く見えた方であった、余は今まその以上を記するに忍びぬ、大偉人の死後の御顔に接するの大名得を得た余はなお筆を鼓してこの名誉ある記事を完うせんと思えども余はどうしてもこの筆を進ますことが出来ぬのである。 余はつくづくと御顔を拝した、これは一世の御名残である、然り余が死して冥界に再び教訓を受くるまでは以後再び拝する事ことが出来ぬのである、生前その枕頭に障子の響さえ忌ませ給いし翁の御顔に何とて余は一指だも触れるることが出来ようか、御りつさんは薬を調合しながら顔をそむけている、碧梧桐四方太は黯然として棺の向う側に立っている。義郎左千夫は余が背後に立って居いる、この間一語もなく互いの呼吸が聞ゆる許り静かで南下りの月は真直に棺側の畳を照らし線香の烟りは細く細く、立ちのぼって上に行くままに拡がりつつ余が眼にしむのである、 余は薬を握った、御顔を浄めまいらせた、この間一切無意識で全く夢路を辿る如くである、ようよう終ると背後に誰やらが涕啜る音がする、ひたと胸潰れて余は蓋をするや否や柩前に拝伏したのである、その後碧梧桐は帰った。 陸先生同令夫人及令嬢来り、二時頃まで話して帰られた、子規翁母堂及令妹は先刻より衆の勧告で寝に就かれたが間もなく起きられた。その内に空気は次第に寒くなってくる、一座話しも尽きてしまう、遥かに急雨の如き音がすると思う間もなく百雷屋を撼かして過ぎたのは一番汽車でそれから引続き汽車が過ぎ行く、何処やらに鶴の遠音が聞ゆる、障子を開くれば画の如く明らかに月は上野の森から下へかけて一面に籠った薄霧の上に一輪高く懸っている。 五時に至って暁色と月光と相半ばしておったが五時十分には月光薄く消へて夜は全く明け放れた、洋燈の光りもただ棺前を照らす許りで余らの影法師も無くなったのである。 日本新聞及報知新聞の翁に関する記事を読んだ。 一先ず座席を掃除して座布団を有りたけ敷き並べた。 大鉢、煙草盆に巻煙草吸殻山の如く積んであるのを捨てた、 車の音も漸々繁く聞えて来た 余は疲労に堪えぬまま隣へ行ってしばらく眠った 眼がさめると早や十時である、余は再ぴ帰る、四方太左千夫義郎諸氏依然として在り 次で虚子碧梧桐鼠骨前後して来り鳴雪翁も見えたので明日のことの相談に取かかった 嗚雪翁先導たること 白張提灯二対、生花一対その他は用いぬこと 余等は棺側に侍して行くこと 位牌は従弟三並氏奉持のこと 各分担 寺掛 碧梧桐、淡茅、鉄露、碧童 行列掛 嗚雪、瓢亭 参会者攝待 紫人、紅緑 宅の諸務 虚子、左千夫、義郎、麓、秀真 これ等が決まると秀真は銅板に左の文字を彫刻し棺の上にのせて埋葬することとした。 子規 正岡常規之墓 慶應三年九月十七日生 明治三十五年九月十九日没 行年三十六 ここにおいて余は一先ず牛込の居に帰った 病余のためでもあろうが余は昏睡して目醒たのは六時過ぎで驚き車を飛ばし根岸に着いたのは七時過ぎであった 元来翁と特別の関係ある少数の人にのみ通知して新聞に広告も出さなかったのは生前の遺志で可成静かに少数で送葬して貰いたいと常にいわれた言に従うたのであるが、広告はせんでも訃報一度び各新聞紙に出るや遠きものは涙をその弔詞に対し近きものは車を駆って来るので昨日の如きは家の狭いのに困ったわけである。 送葬 廿一日、朝からところどころに流れている雲は次第に東の方に収まって拭うが如き晴天となった、 昨夜余のおらぬ間にあったことは、棺の中に種々の菓物や草花を詰めたことでこれは諸方から手向けのために贈られたものであるそうな、この中には鉄露が庭からきってきたのもあるのである、今年の春余は今の家に卜居してから鉄露は植物園及び早稲田農園に数十種のもの種を買って来て庭一ぱいに畝を作って蒔いてから朝夕の培養怠ずあったので余が兵庫地方から帰った時には驚ろくべき生長をしたのである、その中黄トサカ熱頭赤トサカ鶏頭葉鶏頭の絢爛たる仙人穀の蓬勃たる風蝶花水蝶花の優しき百日草千日草等入り乱れては中々に美くしい花壇となった、この草は培養の日数凡そ六ヶ月鉄露の丹精驚ろくべきものであるが、あに図らんやこれは凡て不吉のものに用いられた、去月は余が次女の死にその半ばを剪り、今また翁の霊柩にこれを剪ることになったのは重ねがさねも恨事である、余と秋草とは蓋し何等かの因縁あるのであろうか、 出棺時刻即ち九時までに早や送葬参会者百五六十名となった、子規庵の東隣二軒目の家を借りてこれを参会者の休憩所に当てたのであるが、一寸、青崖、日南、犀東、独知、戯道、東洋城らを始として屋内に充滴し庭に立っておるものも少なからずあった その内に柩が出る、鳴雪翁先導、それから迎僧、位牌、高炉、高張、柩、令妹という順序である。余らは棺側に侍して行く、来会者の多い割合いに至極静粛なもので袴の裾ざわりが耳立て聞ゆる許りで雑談数語などは全く無い 柩が門前に出る、有名なる鶯横町はその狭きを以もってもまた有名なのであるから、葬式を見に来た近所の子供等は向うの竹垣にひしと取り付いている。『大髪にえらい人だってウチのお父さんはさう言たよ『うちのお父さんもだよ、あんなにエライ人だっていのア今まで知らなかったッて、新聞で見て驚ろいたって『お前見た事があるか『無いよ、十年も寝てるんじゃア僕ア生れない時からだ『僕ァ見たよホラ硝子の戸があるだろう、あすこから見えるじゃないか『嘘だアイ、見えやしねいやアイ、どんな人だ『髭がはえて立添な人だよムツヤージ〈原〉『さうか武者人みたいな人かい『ウムさうだ 柩は既にして鶯横町を出て金杉筋を真直に花見寺の横の方から曲がって極めて閑寂なる町(村?)を通り行く、 この辺り一体に植木屋が多く戸々の垣根、門の内外、三径五畝ことごとく草花が造られ、いろいろな植木鉢が並べられて往来の静かに美くしきこという許りない、某寺の前に満身ことごとく赤い紙をべたべたに張られてある石の二王が立っている所を過ぎて間もなく大龍寺に着いた、根岸からは彼れ是れ二十町余もあるであろう、朱門に大龍寺と書いた額が掲げてあって右方の柱に碧梧桐の手蹟で正岡寺と書いたのが張ってある 式は最も静粛に行われた、燒香順序は令妹、親戚婦人、三並氏、鳴雪翁、陸翁、それから余ら二三人ずつで次は会葬者諸氏である 埋葬に取りかったのは十一時過である、境内を左の方に出て墓地がある、苔もなく湿りたる滑らかなる地面は一つの落葉もなく奇麗に掃除されてある、墓地の行き当りに小高い竹藪がある、藪という程でも無いが兎に角藪であろう、竹藪に通ずる幅さ一間ばかりの路は左右に墓をもって囲まれている、彼の藪の下即ち墓の行き当りは埋葬の場所なので左には少しばかりの茗荷畑があり、隣りの垣を隔てて木魚の音が聞ゆる 深さ八尺、長六尺五寸、巾三尺五寸、ここに子規翁は長えに眠らるるのである、長き夢は如何であろうか、夕顔の花白きに乗って彼の太白星と物語る夜もあるであろう、翁は卯の年生れで琥号は子規。しかして月明かなる夜逝かれたのを以もって見れば、それまた月中に入りて列仙に俳を説くこともあるであろう。 白張は立てられた、正芻一対は木標の前に立てられた、しかして翁は既に三尺の下にある、余らは代るがわる土を盛り四囲を浄め軈て三拝して帰途についた。 一掴み許りの雲はばっと南に拡がって風は急に竹藪を騒がし茗荷畑はざわめき立って彼の隣りの寺は鉦声哀れに際立って聞ゆる 寺門を出れば彼の正岡寺と書いた張札はいつの間にか剥がれて上の糊の付いた所だけはむしれて残って居る、柩をかついで来た人足共向うの木立の間に遠く見えて股引も穿かぬから脛五六本が動いて行く。(佐藤紅緑 子規翁終焉後記)
2021.06.30
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紅緑がなぜ子規を尊敬しているかという理由が書かれているのが明治40年9月1日発刊の「中央公論 正岡子規論」に掲載された『子規先生』です。 このころの紅緑は、新派劇のデビュー脚本「侠艶録」がヒットとなり、新派の座付作者としてつぎつぎに脚本を発表しています。また、「中央公論」に小説『あん火』を発表して自然主義作家として文壇の注目を集め流ようになり、人気作家としての道を歩み始める頃になります。 その中であげているのは以下の事柄です。●子規は天職に忠実であり、死ぬまで研究を続けた。●子規が病床の中で筆を持ち続けたのは、それが趣味であったから。●子規が貧乏であったことは、給料よりもそれ以上の喜びが仕事にあったこと。●子規が喜ぶのは他人の俳句を閲することで、そのことが門人たちの俳句の技術向上につながった。●子規が党をつくったのは、俳句が汚されると思ったからで、芸術として俳句をつくっているため。●写生は、モーパッサンのバカボンドのように、自然をそのままに写すことである。●子規は病苦と長く戦ったために、ほとんど神仏のようになっていた。 △子規先生の事を御話しようなら一日や二日で話しきれません、また私が話さんでも子規言行録やその他の書に遺憾なく書かれてあります、私はただ先生が「芸術家としての態度」というような点だけを御話しましょう。それは目下の文壇に私がすこぶる癪に障ってることもあり、かつ自ら顧る処もあるので。△先生が俳壇を統一したのは何であるかというに私は「天職に忠実」であったからであると思います、昔から豪い人は沢山あるが、先生ほど忠実であったものは、稀であろうと思います、基督、釈迦、孔子、日蓮これらは「誠」の人で苦境の中に非常な楽しさ、いわゆる天の恩寵を感じた人でしょう、子規先生は全くそれです、満身ことごとく文学に捧げたのです、世の毀誉褒貶は問はわなかったです。死ぬるまでが研究的の態度を失わなかったのです、△八年間枕に頭を着けたままで六尺の蒲団の外は畳一畳外へも踏み出せなかったのです、脊髄がぐちゃぐちゃに腐って、片方の肺が無くなって、片方の肺が三分の一だけ残って、それで死ぬる日まで筆を取ておられた、こんなことはまあ人間の出来ることでしょうか。もちろん先生は日本新聞社から月給を貰っているから一日でも書かねばならぬという義務の観念から筆を放さなかったせいもありましょうが、そんな義務なんどいう小さな理由よりも、先生が苦しい身体を枕にもたせて筆を持ておられるその瞬時こそは決して他人の知る能わざる愉快と喜悦とが心に満ちたであろうと思います、本当に趣味の人です、筆を持てる間は天もなく地もなく吾れもなかったろうと思います、この趣味は経験のない人には語られません、△もう一つは貧乏であったことです、日本新聞社からの俸給は只だ四十円、四十円で親子三人、その中に自分の医薬代を払うと、毎月の生計が立ち得る訳はありません、先生はしかもそれに満足されていた、私の処への手紙にも「我等は人より多く働いて少なく月給を取るつもりでいなければならん」と私を励まして下すったのがあります、多く働き、多く苦み、人よりも立派なものを書いてソレで俸給を少なく取るというのは何ということでしょう、人が先生の人格に全く心を捧げるのはこの辺ではありませんか、つまり先生には苦みや働きや貧乏や俸給よりもそれ以上の喜びがあったからです、この喜は即ち文学の趣味ということです、△であるから先生はいつも嬉しそうな顔をして本を読み句を作られている、朝から晩までいやしくも眼の開いてる間は読むことと作ることであったです、一時間でも冗な時を潰しません、よく我々と雑談笑話をされるが、そのつまらない話をも先生はことごとく俳味に化して了うのです、寸刻も油断をしません。ですから先生は何でも研究的態度の人を好きでした、生意気、知た振り、人真似、負け惜み文学以外の世事談、そんなことは大嫌でした。それで先生の力量は一日一日と進歩して行く、我れわれはそうは行かん、いくら袖に縋ってもとても先生の早足には追着き得ない、その中に魂気が尽きて途中で休む、甚だしきは退却する、我等同人間には自分の力が先生初め他の人ととても並行し得ないために途中で俳句を止して了ったものが何十人あったか知れない、中には子規と吾輩とは趣味が違う意見が合わぬなどと勝手な理窟を付けて御山の大将になり済ましたのもある、そういう人は直ぐに吾れわれの方へ足が遠くなる、「あれはどうしたろう」などと噂すると、先生は「俳句の出来ない人に来て貰わんでもいいさ」といわれる、俳句に忠実な人でなければ実際先生の側へ行くことが出来なかった、△私共が先生の病を慰めようと思う時には俳句を沢山作るのです、百句位作って、先生の病床に訪れて、批評を乞う、すると先生は非常に喜ばれて「紅緑君盛んですな」と重き枕を掻げて原稿を見られる、その中に一句でも二句でも先生の気に入った句があると、身体を左右に動かして「すこぶる振ったね」といわれる、その時の先生の嬉しそうな顔は何ともいいようのないことです、私共がこの時の御顔を見るというにいわれぬ愉快を感ずるです、俳句を買められたのが嬉しいのと先生の病苦がいくらかここに依て忘れられるのであろうというのと二つの嬉しさが漲って来ます、ですから怠けて碌々俳句を作らん時には先生を訪ねることが遠くなります、御土産がなくては閾が高いので。△今でこそ普天の下卒土の浜、新派の俳風及ばざる処なしですが、十年前は僅かに二十人内外の人であったので、それは日本新聞に十句ばかりずつ毎日出したのです、その後先生が早稲田文学に頼まれて一段か二段ずつ俳句を出し鳴雪翁が太陽の俳欄を受持たれた時などは始めて雑誌に新派の俳句が出たのでした、自分の句を新聞に出そうとも思わず、世間に見て貰おうとも思わず、いわば同好の士が寄り集まって、根抵から俳句というものを研究して見よう、古来の悪弊を破って我らの信ずる処を練習しようというのが目的で、それが今日こんなに世間に他播しようとは思も及ばなかった処でした、門戸を構えるの党派を作るのとは夢さらさらもっての外の事でした、それをここに岡野知十という人は風聞記というものを毎日新聞に書いて子規派、日本派と吾れわれを党派の如くにいうたのです、△党派については私大いに議論がある、党とか派とかいうものは互角のものが二つ以上ある場合にいうものでしょう、もし我れわれを日本派子規派というならば我れわれに角逐するものは何派でしょうか、いいえこれは子供らしい話として打捨ておく訳には参りません、これは先生も口にいわねど内々癪に障っていたに違いなし、私の如きものはすこぶる癪に障るからついでにいいたいのです、日本派に対して秋声会派というです、紅葉、竹冷、松宇その他いろいろの人の会です、然るにこの会は如何かというに、私の眼から見ると全でものになっていません、俳句として一文の価値がないです、百句の中に一句でも俳句らしいものを見出すことが困難です、てんで相手にはなりかねるのです、それならば彼らには一寸の虫も何とやらで彼ら相応の特色があるかというに、これもありません、五年前に私どもの経て来た処を五年後になってからようやく気が付いてそれを真似ているのです、自家の特色もなく時代後れの真似をするというのは元緑や桃山が流行り出す時節柄とはいえ、芸術としては全くゼロではありませんか。無論秋声会の方の人と私どもとは芸術に対する考が違っております、秋声会では道楽半分にやっているので、私どもは芸術として生命を打ち込んで研究しているのです、彼らは骨董屋で私共は創作家です、かくいえば何も彼も分明するのですが、世間ではそうは見てくれません、彼らも我等も同じものと見ております、私がこういうのは何も看板争なんてそんな卑劣な根性ではありません、つまり私どもが身命を捧げて神聖なものとしておるのを彼等は理髪床の小僧同様にやはり俳句を慰み半分道楽半分にやるから腹が立つのです、俳句の神聖を犯すものは親の敵よりも憎いのです、秋声会は俳壇の天理数のようなものでしょう。△先生はいつも私どもに向て「どうも皆なが大家になったから句を作らんようになった」と皮肉な言をいわれました、私は今でもそれを思い出す度に冷汗が出ます、碌々俳句も出来ない癖にもう大家顔して句作もせず、苦心もせず、研究もせず、先輩気取でいたということは先生の眼から御覧になったら、どんなに苦々しくキザでイヤミで生意気で、可愛そうで憐れであったろうと、昨今の俳人を見るに付けひしひしと自分の陋劣が思い出されます。△終りに臨んで私はこの一つだけのことをいいたいです、これは私が終生忘るることの出来ない、私の唯一の座右の銘としている処ですが、それは先生が私どもに遺された「創作の趣味」です、この点は紅葉さんが小説においてその門人に伝えられた趣味と同じものでしょう。△福本日南翁はかつてこういうことを私にいわれた、日本の詩の中で俳句が最も発達してかつ詩そのものの特色を保っているというのは即ち俳句が創作的にして模倣的でないからである、凡て創作というのは自己の発現である、自己の発現はその中に必らず精力が籠っている、万葉の歌の面白いのもこれがためである、これに反して模倣は自己を卑しくして他の声色を作るのである、声色はいくら上手でも役者に及ばざる遠しだ、古今以下は詰らない模倣的だからであると。これは実に至言だと思った、子規先生が俳句でも和歌でも文章でも、手を染めたものはことごとく創作的で、決して他を踏襲したり模倣したり、そんなことはなかったです、俳句に至っては非常に厳格で古人の句今人の句にいやしくも似寄たのがあるとそれを大恥辱と思うておられました、私はこの点を実に感謝しています、たとえ痩せても枯れてもこの点だけは守って行きたい、この感化に触れたことを私は非常な幸幅に感じています。△芭蕉は創作家であった、これを真似して自家の独創を発する能はざる門人数十人、ここにおいて蕉翁死するや否や俳壇は沈衰した、蕪村は創作家であった、決して芭蕉をも模倣せぬ、ここにおいて俳句に生命が吹き込まれた、蕪村死して幾もなく模倣俳人ことごとく腐敗した、百年の後、子規先生出でて蕪村を呑み芭蕉を噛みことごとく消化して独創の見を起された、創作の人は世紀を作るのである、目下の俳壇が漸次沈衰しかけて来るようですが、それはことごとく子規先生の模倣だからでしょう、時代の思潮が段々代って来る以上はこれに伴う創作が必要でありますまいか、これを思うと私共は未だ未だ研究の初歩にあるのです、私はそれを八釜しくいうのです、もう少し新思想に入ろうではないかと御互に子供の積で昔に返って研究しようじゃないかというのです、けれども対岸の火事視して同意してくれません、私のいうことを狂人のように思ってるようです、どうも早く大家にはなりたくないものです、貴方方は小説家の方面の内情を御存知で実に文士というものはイヤなものだとよく仰るようですが、小説家の方はまだ余程宜い方でしょう、どうも俳人と来た日には目も当てられません、虚名と衒気で持ち切て嫉妬が深く思想が古く頑固一点張でしょう、子規先生が死んでから五年になりますが、もう俳壇は全く研究的態度を失って了ったのです、滅亡近くにありといい得るでしょう。△写生文のことですが、あれは私はよく知りません、あれは子規先生独創のもので、私はその時から写生文には趣味を持たなかったです、先生が完成しない中に死なれたのだから、どうといふうことは出来ませんが、生きておられたら、只今の写生文のような淡薄な無趣味のものには終らなかったのでしょう、つまり先生の未成品です、未成品をもって先生を論ずるのは世の評者蓋し酷なりです、虚子君や四方太君の写生文もどうにか発逹しなければあれでは私は全然反対です、漱石君をもって写生文の方に繰り込んで了うのは乱暴です、漱石君のは子規先生の伝えた写生文とは非常に違います、読んで見たら一目瞭然じゃありませんか、つまり俳人であるからまたホトトギスに関係があるからという点で、同一視するのでしょう、私は先生の伝えられた写生文よりもむしろ漱石君の方に感心しています、無論文章の上です思想の上からは全然反対です。△先逹て漱石君の書いた文学論(?)の中に私が同君と到談の折りにモーパッサンのバガボンドを推奨したことを記し、かかるものを喜ぶのは道徳心の麻痺した人間であると書いてあります、漱石君は疑もなく私を道徳心の麻痺した人間と思っているらしいです、実際この点が今の技巧派と自然派との岐るる処ですから漱石君のこの論定を私は非常に愉快に訊みました、その意のある処が明瞭になったからです、それで私は一つ誂論を吹掛けに行こうかと思いましたが、向うは学者で私は無学、議論では負けるに決まつてる、口惜しいと思うているとふとこんなことを考えました、もし子規先生在世であったならば何方に賛成するであろうか。△先生は自然を尚んだ人で、俳壇の自然派であった、して見るとバガボンドの自然なる情慾を描いた処に賛成するに相違ないと思いました、それと同時に写生文も進歩したならばバガボンド位まで進みそうなものだと思いました、今の写生文は極めて不自然なるもので、何でも彼でも美化しなければ止まぬという技巧一方に偏したもので、葛生という名前とは極めて矛盾してるものでしょう、先生在世ならばもうちと何とかするだろうと思います、景色や人事ばかりを彩色せずに人間そのもの、吾れわれ人類の生活の実際を自然に写すことになるだろうと思います、しかしそれは想像です、想像であるが何だかそのように思われて、まあ自分だけが安心しています、春情文学も随分振ってるねと先生が破顔一笑されるかも知れません。△一体子規先生の唱えられた俳句は自然を主としたのは無論であるが、俳句は字数が少ないから同じく自然を写すにしても措辞の関係上余程技巧を要するのです、ソコは散文と違う処です、今一つ極端の場合をいうと、俳人は自然を作るのです、自然という海の中から真珠を拾い取るのでなく、海の水を掬いかためて真珠を製造する場合があります、理想の句などは最もこの部類です、かくの如く自然の製造術に練磨を経た俳人のことですから技巧ということは決して脱し得ません、先生の句はこの製造は余り多くないです、吾れわれ門人仲間の昨今は随分製造が盛んです、であるからかくの如き頭脳をもって写生文を書くと写生文でなく製造文になるのは免れ難い処でしょう、なぜそんなに製造するかというに「美」という禍神が付きまとってるのです、一にも美、二にも美、三にもまた美です、その結果は万象を美化するということになる、何事によらず美くしく製造しようと力める、美の色を塗らない物品は文学でないとしてあるのです、私も一時はそう思うていたのです、が、よく考えると美というものはどんなものかということになるでしょう、俳人の美とするもの以外に未だ忘れられたる美が沢山あるではありませんか、漱石君の所謂をもって見ると情欲及び情事に美が無いというのでしょう、そこは問題です、バガボンドを見て面白いと思うものが理性の麻痺患者だとすると、私はそういう人こそ助平人種だといいたいです、諸君は裸体の石膏像を見て春情を起しますまい、けれども助平国の住人熊公八公が見ると、やあこいつあ堪らねえななどと騒ぎ立てます、この頃ある役者が私の処へ来て博覧会の白木屋陳列場で結婚の盃をしている人形を見た時、この次はど真実を書くことは出来んです、私は先生の在世中にこの議論を聞くことの出来なかったことをすこぶる遺憾に思います。△写生文は先生晩年の創造です、先生の晩年は多年の病苦と戦ったために人格はほとんど神の如く潔くなっておりました、けれども一方には非常な神経質となられたです、第一喧嘩の話が嫌いになって、狩猟などの鐵砲騒ぎの話よりも釣のような話が好きになられました、当時ある人の句に「春の夜の撲られ損や人違ひ」という句がありました、同時に私の句に「朧夜の人を嚇すや人違ひ」というのがありました、私は撲られ損の方が面白い自分の句は詰らないといいましたが、先生は君の句の方がいい、撲られたら痛からうじゃないかといわれました、この時私はああ先生もまた病に疲れたるかなと思うて何ともいえぬ悲しい思が湧きました、同時に只だただ先生の思想が大醇に向われて美の紳がその苦しい呼吸の間に月の如く立っているような気がしました、けれども私はこれは美感を重んずる極端の傾向だと未だに記憶しております、無理のないことです、なお更ら先生の如く四方八方頭から爪先まで苦痛、灼熱をもって責められている人は美にあこがれ美に楽むのは無理のないことです、だが身体の逹者な吾れわれまでが、嚇され〈る〉よりも撲られるのが痛いからいやだなどなどと病人らしいことをいうたら、さとは訳が違って来るだろうと思います。 佛前に供へん秋の草もなし(佐藤紅緑 子規先生)
2021.06.28
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佐藤紅緑は、明治33(1900)年 に再び東京へと帰り、 報知新聞社に入社。従軍記者として清国に渡り義和団の乱を取材します。それからも福井新聞社や万朝報社などにつとめました。 昭和9年9月15日に発行された『日本及日本人』の子規居士三十三年記念号に掲載された『糸瓜棚の下にて』には、明治29年から晩年にかけての子規の思い出が綴られています。 この文を書いた頃の紅緑は、すでに『あゝ玉杯に花うけて』の発表後(昭和2)で、すでに児童小説の第一人者です。 ただ、子規の死去までの紅緑は、不遇の時期です。子規は紅緑をどのように見ていたかというと、『仰臥漫録』10月10日に「嗚雪翁が先日の茶話会の結果を聞きに来られしことなど碧梧桐話し、話頭紅緑の上に移る。紅緑はこれまで世上にてとかく善からぬ噂ありたれど、俳句における紅緑は全く別人の如く清浄無垢なりしかば、われらもどこまでも清浄無垢の人として相当の敬礼を尽したり。しかるにこの頃紅緑の挙動など人づてに聞く所によれば、俗界の紅緑は俳句界の紅緑と混和して世の中に立たんとするが如し。これ紅緑人格の上に一段の進歩なるべきも俳句界の紅緑は多少の汚濁を被るやも測られず、ここ一大工夫を要す」と書き、紅緑を心配している様子が見て取れます。 年々庭に絲瓜を植えて亡師を偲ぶよすがとなす。今年三十三回忌に当り筆硯を棚の下に運んで思い出るままを記す。 前書附の俳句は中々むずかしいものだ。蕪村が淡々の三聖に題する句、閑古烏稲負鳥呼子鳥、を読めたが、題句としては上等の方だ。こういうものになると月並の宗匠の方が我々より巧いよ。 子規先生がある時僕に語られた。 明治二十九年だったと思う。僕は碧梧桐君を誘うて煎餅旅行をした。大宮まで塩煎餅を囓りながら行吟したので、碧梧桐君は当時の「日本」に紀行文を書いた。その時に僕は菅笠一蓋を買った。笠を持って行って先生に題句を御願いすると、先生は、 この上に落花つもれと思ふかな 子規 と書かれた。席上嗚雪翁に御願いすると、 行春や愧爾東西南北人 嗚雪 と書かれた。それを見て子規先生は微笑して「うまい」と言われた。順番は牛伴君に廻った。君は、 寝んとすれば春の雨戸を叩く人 牛伴 と書いた。先生はそれを見てまたもや「うまい」と言った。ひどく感動したように見受けた。碧梧桐君のも振っていたと思うが今は忘れた。虚子君にはその後君の宅を訪うて書いて貰った。 陽炎がかたまりかけてこんなもの 虚子 五百木君に頼んだら恐ろしく大きな字で書いた。 花紅柳緑我れを紅緑子と申す 瓢亭 後に先生にこの句を語ったら「瓢亭調だ」と言って笑われた。 当時僕は職を失うて放浪の身であった。東京と郷里としばしば往来した。京を辞する度に先生はこう言った。「また逢えるかどうかね」 この言葉を聞くのは堪らない苦痛であった。先生には黙って行こうかと思ったこともあった。初夏の頃僕が郷里へ帰るので碧梧桐君を訪うた。二人は先生を訪ねた。その時黒門町の八百屋で初めて枇杷を見た。二人の襄を傾けるとようやく二十錢あった。それで枇杷を買って持って行くと先生は珍らしい珍しいと言って大方一人で食べてしまった。 枇杷の質を食うて別るヽ今日もあり 碧梧桐 この短冊は不思議に今も僕の手許に残っている。一度碧梧桐君に見せたい。 林檎食ふて牡丹の前に死なんかな、とは先生の句である。先生は実に林檎が好きであった。僕の父は庭園の林檎が熟するとそれを箱詰にして送ってくれたので、僕はその度に先生の病床に供した。当時は林檎なるものは珍らしかったのである。先生歿後十余年にして郷里へ帰ると満園の林檎紅玉累々として居た。 故郷の林檎熟れたり師を憶ふ 当時の追懐である。 ある時、御見舞に行ったら座敷の方に立派な牡丹の鉢が五鉢ばかり、縁側に二鉢ばかり並んで居いた。左千夫が先生のために丹誠を節めて作り上げたのだそうだ。先生は僕に「どれが一番好きですか」と問われた。僕は黒くいぶされたような深紅の牡丹に指さした。すると先生はひどく考へ込んだ。何のために考へ込んだのか後で解った。「そうだろうね、俳句の連中は大抵それを取るよ。歌の方は……桃色が好きなんだよ。困ったもんだ」 内藤嗚雪翁は英語交りでものを言ったことはない。小説などの話をしてもキッスという言薬を使わない。接吻という場合にもセッフンというのだ。吻を「プン」と半濁昔にして、セップンと言うと、唾が飛ぶような感じがするというので、翁はいつもセッフンと言っていた。ある時五、六人会合の時、やはりそういう議論が出て賑わった。すると先生は黙って縁側のカナリヤ箱を見ていられたが、やがてにこにこして鳴雪翁に言った。「先生、カナリヤがセッフンをやっています」 満座一度に笑った。翁は依然として真面目である。「あれはセッフンでありません。雌に餌をやってるのです」 再ぴ哄笑が起った。 ある日。 期せずして同人が六、七人先生の枕頭に会した。三並良氏(先生の従兄弟)が久し振で訪ねて来た。先生の機嫌が好かった。その時は先生が晏汁一滴(?)に自力他力の問題を書いた時なので哲学者の三並氏も気持よく先生と談論した。それから間もなく三並氏は暇を告げて起ち上った。「良さん!」 突然先生の叫び声が聞えた。同時に先生は声を挙げて泣き出した。僕等は只驚いてどうしたのかと怪しむばかりであった。三並氏は棒立になったまま動かない。一座は全く悽然としてしまった。すると先生は泣きながら言った。「もう少し居ておくれよ。お前帰るとそこが空っぽになるじゃないか」 これですっかり解った。同人靄々として団欒していたものが、一人でも鋏けると座敷が急に穴が明いたように調和が乱れる。それが先生には堪らない苦痛であったのだ。三並氏は座に復した。ものの十分も経てから先生は晴やかに言った。「もういいよ良さん。帰ってもいいよ」 三並氏の眼鏡の底が涙に光っていた。 過日、陸先生未亡人の御葬儀のため久し振で上京した。その夜肋骨庵を鼠骨君とともに訪ねた。碧梧桐君も来会した。四人は三十三年前の話をした。「君は随分叱られたものだね。君と四方太は一番よく叱られたよ。側から見てハラハラしたよ」と 肋骨君は僕に言った。「そうだ、随分叱られたよ」「此奴は、と思うとどしどし鉗鎚を加えるんだね。全く猛烈だった」「しかし叱られた点から言えば僕よりも碧梧桐君や虚子君がもっと激しくやられたろうと思うよ。だが叱られた時は僕の最も楽しい時だったね。叱ってくれる人がなくなってから三十三年、淋しい月日だったね」 四人は暗然とした。僕は字を書く事が下手で、いつもそれで叱られた。字が拙くては文学者になれない。同人の中で最も字が拙いのが二人ある。一人は君で一人は君と同郷の竹子という男だと先生がいった。先生は僕に新聞紙を広げさして筆の持ち方を教える。それ、君は一本の指を掛けるからいけない。二本の指を……ああ鷲掴みではいけないよ。指と指の間だ。ああいけないな。 まるで御母さんが子供に教えるような騒ぎである。それは僕が二十七、八歳、もう一人前の新聞記者だったのである。碧梧桐君は側に坐ってげらげら笑っている。やがて人も段々集まり運座も済んで帰り途に碧梧桐君は僕を慰めてくれる。「君、僕等も降分八釜しく叱られたもんだよ」 稀に運座の清書に僕が上手に書けた文字が一つでも目付かると、先生は砂の中から宝玉を目付けたように喜んでいう。「紅緑君、子の字は中々うまいね」 僕の拙筆が余程気になったと見える。ある時先生は僕にこういった。「君は御家流を稽古したら必ずうまくなると思うよ」 先生を喜ばせる第一の妙築は佳句を多く作って先生の閲覧を乞うことだ。僕等は大抵百句ばかり作って一と綴りとなし、病気見舞かたがた先生を訪う。先生は仰向けに臥ったまま句稿を披いて朱筆を取ってその中の佳句に○を付け、一通り見終つてから今度は◎を付ける。◎がどしどし並ぶと先生の顔はみるみる朗らかになる。「今度は振ってるね」 先生は振ってる振ってるというのが口癖であった。実際先生が◎を付ける時の嬉しそうな顔は今ここに筆に書き表わすことが困難である。病を忘れるとはこの事だらう。 だから僕等は句作に懈っている時には敷居が高くて先生を訪ねることが出来ない。病気が気になりながらも「御みやげ」が出来ない以上は心ならずも御無沙汰をしている。このために見舞に行こうと思えば先ず句作をせねばならぬ。こういう風で病気見舞のために仕方なしに句作したことがしばしばである。僕ばかりでない。多くの同人は互いに素れを語り合って苦笑したものだ。 晩年になってから先生は叱らなくなった。こうして僕についての非難を碧梧桐や虚子の両君にいい、両君についての非難を僕にいうという風であった。これは甚だ不愉快だ。我々は皆んな兄弟のような間柄だが、しかも互いに衿持があるのだ。悪いと思ったら僕を呼び寄せてどしどし叱って下さるがいい。蔭で他の人にいうのは情けない話だ。僕はこう思ってこの不平を虚子君に訴えた。すると虚子君はこういった。「実は僕もそれが不服なので四、五日前に不平を述べ立てた。すると正岡はこういうんだよ。だって面と向ってはいえないじゃないかと」 僕は心胸釈然とした。メンと向っては言えない! そこに先生の気の弱りが見え、先生の慈愛が見え、いいたいけれどもいえないので、心配の余り兄弟ともに悶々の一端を漏らす苦衷も見えた。そうしてしみじみと先生に心配さしては済まないと思った。 先生には底の知れぬ魅力があった。触るる所のものを皆な同化してしまうのだ。この点に至ると一種の宗敦的魅力といってもいい位だ。いつでも若々しいこと、天空海濶なこと、度量の広いこと、親切であること、自分に対して厳正なること、他の非を忍容すること、いつまでも研究的であること、金銭に淡泊であること、胸襟を披いて人に接すること等々。挙げて数うべからずだ。 磊落は新酒を盗む謂にあらず この句は去年頃何かの雑誌で攻撃した人があるが、その人は先生がどうしてこの句を作ったかを知らないから、単に句の表面だけを見て評したのだと思う。この句は先生が僕等同人に反省を促がした一種の警告なので、お前逹は金を貸したり借りたりするのが平気のようだがそれは宜しくない。こんなことまで立入って戒められたのだ。それで僕等は先生この頃いやにやかましくなったね、などと壁訴訟をしたものだ。この時代が解らなければこの句が解らない。無論俳句としては立派なものではないが、僕等の内的生活には隣分深い影響を与えた句である。 先生に接近した人は大抵魅了せられる。日本新聞社のそれを挙げると、露月と僕は筆頭だ。古洲とは古島一雄氏のことで、戯道とは末永純一郎氏で、ふんばったままで流るる蛙かなという句を作って蛙の李坪と渾名を取った諫早氏、給仕の錦浦、士英の二人、植字場の壽静、なども数えられる。陸羯南先生も蕉陰という俳号で、 酒の甜叡慮にかなふ紅葉かな と口吟んだ。いかにも羯南先生らしい俳句だ。 一昨年、大毎俳句会が萩の寺に糸瓜忌を修した。その時子規先生のことについて話をしてくれと相島虚吼氏に頼んだら、虚吼氏はそれは紅緑がよかろうといったそうだ。そうするとその人は紅緑は子規先生とどんな関係があるかと訊いたそうだ。僕に講演してくれといって来たから十九日の日を先生の追懐談に過すのは嬉しいことだと思って快諾した。行って見ると百何人という盛会だ。発起人の木国君が起って僕を紹介してくれた。そうして僕が子規先生に親近した門人であることを精しく述べた。 それだけ精しく話さなければ先生と僕の関係が来会者に解らないのである。これには僕も一驚を喫した。僕の頭は一日たりとも先生を離れたことはないのだが、世間では夙に二人の間を引離してしまった。悲しいことだ。今の俳人の眼から見ると子規先生は丁度芭蕉や蕪村のように遠い遠い徳川時代の人の如く思えるかも知れない。無理もない。三十三年前の人だ。三十二歳の人が生れない前に歿した人だ。然るに僕は現在の人だ。若い人から見ると俳人紅緑なるものは今の紅緑と別人であると思えるかも知れない。それはそれに違いない。先生に別れて三十三年、僕から見ると一年位の月日だが、若い人逹から見ると三十三年は随分長い月日だ。 この長い月日の間に俳風も変った。僕は講座の上から会衆を見渡した。会衆は果して僕が咄々として一時間半にわたって語った先生の行欣記を謹聴したであらうか。先生その人を識る興味よりも一句でも多く作る興味の方が豊かでなかったであろうか。会衆はペンを持っている。鉛筆を持っている。俳句の用紙は新聞紙のような洋紙を切ったものである。 俳句は万年ペンで洋紙に書かれる時代になった。こう思うと悪寒を感じた。先生は俳席に紙を吝まなかった。上等の改良半紙を贅沢に使った。菓子箱に入った硯を磨って禿筆で書いた俳席の趣味は遠く去ってしまった。三十三年がそうさしたのだ。 肋骨庵で四人が会した時、今年の三十三回忌の次は十七年後の五十回忌である。それまで御互いが生きているだろうかと鼠骨君がいった。「君なら大丈夫生きるよ」 と三人が碧梧桐君にいった。同時にこんな話は詰らないことだと互いに気が付いて黙った。 絲瓜忌や墓前に恥る事多し(佐藤紅緑 糸瓜棚の下にて)
2021.06.26
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三十一年九月七日の書(前文は略す)さて今般ほととぎすを東京に移して虚子これを招任し小生と二人にてやって行くことに相成、苦しさは思いやられ候えども、今更引くわけにも参らず死を決し申候。貴兄も遠方より御加勢被下度候(以下略) 昨夜野分あり。庭前の秋草狼藉を栖め候。 野分して蝉の少なきあした哉△三十一年十一月廿四日余が句稿の終りに朱で書いたる消息 この二三日は衰弱ノ気味にて殊に昨日はこの冬はじめての寒さ故、蒲団を被り終日寝ていたが今日は上天気になったので起きて色々なことをした、その内発句函をしらべるも一つの役であったのでくだらない句どもを見ているところへこの御稿も出て来た、それからあけて見ると全体に句が面白いので無闇に丸々をくっつけて見た、これはくだらぬ句を多クく見た後であったから自然に標準が低くなっていたのであろー、しかし今度の御稿はあるいは前のに比していくらか佳句が多いのではないかと思われる、が何しろ今日は朝からの働きで弱っておるところへ昨日の頭痛の名残が加わって少し頭脳の乱れておるのを我慢しているのだからたんのつけようも甚だ覚束ない、露月はしきりに医者の口を探しておる。 四方太も肋骨も女房が出来た 虚子の子は笑うようになった 牛伴は横浜で肖像をかいておる 鼠骨は「日本」にいる 愚哉は東海道に旅をしている 鳴雪翁再び俳句会に出られる 墨水石版屋で把栗は教師か分らぬ 十一月廿四日夜 東京根岸僑居にて 子規しるす 坐りようが歪んでいるからこんなに行が歪んだ。起き直って見て自ら驚いた。 あとで二点をつけるつもりで再び繰り返して見たが点をつけるに苦んだ、どうもこの稿には極上の句が少ないのか知らん 僕はこの頃非常に苦吟するようになった、句合の十句を考えるに三日半かかった、今日なども一句のために朝半日費やした、それでどんな名句が出来たのかと思うといやはやお話にもならんので、どーしても実景に遠ざかってはだめです。 翁は常にいうておる、足の二本あるものはドコヘでも行くがよい、家に引き籠って俳句が出来る筈がないと。 △病に対しては一種の考えを持ていた。かつて余が肺炎に罹った時、それを聞くやいなや翁はただ左の一行の手紙を送られた。 心を静かにせよ その後の書に曰く 肺炎は死ぬる病には無之候。小生の如き結核性のものにても決して死ぬることには無之候。ただしばしば喀血すれば身体の衰弱を来す故、可成風邪を引かぬように用心致し候。貴兄もその辺御注意可被成肺炎などはわけのなき病にて候えばあせらずに御静養可然候。 肺病は死ぬ病でないとは翁の定見であった。△人と交るに長所のみを知て欠点を知らなければ永久の交りは出来ぬ。また交わる方面を別に定めて置かねばならぬ。政治家で俳句をやる者があれば、その俳句の方面で交り、政治の方は問わんでよろしい。実業家、商人、何でもそうである。故に世間的のこと即ち我が交るところの俳句の方面において義を欠いたところがなければ他の実業や政治においてどんな失策があろうとも、そは別にしなければならぬ。中にも僕の如き数年病蓐にあるものは一切世間のことに遠ざかったから、他からアノ人はこうであるの、こんな失敗があるのという者があってもそれは本当か嘘か判断が付かぬ。されば多少その言を信じなければならぬ。ヨシこれを信じてもそれが俳事に闊係がなければ、やはり俳友として交はるにさしつかえないとはかつて余に語られたところである。△今春訪ねた時、非常の苦悶中であったが、暫らくして苦しき息のとぎれとぎれにいうた。「どうもこんなに苦しくてはヒドイじゃないか、もう死んだと同じだ、死んだ方がよい、誰れか殺してくれんかしら、ウムそうだ、君に相談しようと思ってるんだが、西洋では到底生命覚束なき瀕死の病人をその苦痛の時間を減ずるために劇薬をもって早く死なしてしまうことがあるそうだ、これは実にもっともだと思う。僕はモウ苦しくて堪らんからそうしてもらいたいと思うのだ。君は賛成してくれませんか」余は答うる所を知らぬ。「内藤さんの持論はこれである。しかしこの手段を僕に用うることは不賛成なそうだ。矛盾してるじゃないか。陸君も略々賛成だけれどもやはり内藤さんと同じらしい。誰か賛成者はあるまいか、あれば瓢亭位のものだ。近日親戚朋友会議を開いて一つこの事を相談しようと思う。その前に瓢亭を一つ買収しておいて政府委員にして置こうか」苦痛はいくらか減じたと見えて緩やかな笑いも含まれている。「アアそうだ。瓢亭に薬を造ってもらうのだね、それを飲めば死んでしまうのだとして、モウ苦しくて堪らんから死のうと思た時にそれを飲むことにきめて置くのだ。なかなか飲まんだろうと思う。本当に死ぬんだと思えば決して飲まれるものでない」しばらく話は途切れたが「劇築のつもりで、瓢亭は何か笑い薬か踊り薬というようなものを入れておいたら山が出来るね。いよいよこの一服で死ぬるのだというので、家族のものやら君らが枕元に並んでいるさ。水を打たる如くになっておるさ。そこで僕が飲む。自分でもう死んでしまった積りになっておるさ。そうすると薬が利き出して、急に笑い出す、踊り出す、ステテコか何かで踊ったら滑稽だろうじゃないか」翁の話は大抵この様に悲しい話でも御しまいは滑稽に帰着してしまうのである。△翁はミゼラブルの愛読者で、余らは枕頭に侍してその講義を聞いたことがしばしばである。いつか余は自転車で翁を訪ねた時、近頃物騒で、玄脳においた誰れかの洋傘が盗まれた。君の自転車も盗まれはせんかとしきりに気にしておられたが、この裏木戸やら庭を通して表門の方に出るものが沢山ある。屑屋やら酒屋やらいろいろな奴が通るから、この木戸の通行を禁止しようかと思った。しかしミゼラブルのミリヱル僧正は泥棒を宿めたこともあるから、それを思い出すと心持が別になってマア構わんことにした。多少は気になるがそう思えばどうでもなくなるね。△翁は無邪気な人を愛する。謙遜な人を愛する。研究的に学んで行く人を愛する。口よりも手の人を愛する。議論も批評も実際的である。好んで人の言を容るる。人の欠点を見ることはむしろ鈍な方で、人の長所を認めるには極めて鋭敏である。自ら信ずる所は飽くまでも強硬である代りに、自ら知らぬことは勇んで人に聰くことを好む。非常な負け嫌いである代りに、一旦自説の非を覚れば、ほとんど別人の如くそれを改める。この点は〈著〉るしきものである。△俳人というものは物に拘わらざるものだ。磊々落々善罵善嘲世間を冷観するものだと、余は思うていた。翁の二十九年頃までの境涯はそれに近いもので、その身なりや、その金遣いなどを見ても俳人はかく垢抜けがして豪放でなければならぬかの如く思うたのであるが、三十年の頃から翁は一変した。時間の約束、金銭上の闊係、言語の慎み、老長に封する敬礼、これらは凡て厳格になって来た。これは余等が余りに正岡かぶれになって物に構わぬという点から身を持するに余りやりばなしになったから、先ず翁自身から修めて余等を反省せしめたものであろう。△元来翁には奇矯人を驚かすというような点が少なかった。絶無かも知れぬ。極めて温厚な実着な性質である。△いつの頃であったか、君は四季の中でどの季が好きですかと尋ねられたことがある。冬が一番好きですというたら、そうだろう、先逹て牡丹のいろいろある中に二三の人は薄紅を誉めておったが、あれは大方秋の季が好きであろう。君は深紅のむしろ黒色に迫ったのを誉めたから、冬が好きだろうと思った。碧梧桐は真白のを賞めたから夏が好きだろう。こんな研究をすれば面白い。物の趣味は必らず一條の腺脈が通じておるのだ。僕は初期において秋が好きで、それから春、それから冬と夏は同じ位であったが、段々進歩してくると夏が好きになる、それから進むと四季同じようになると語られた。△僕は身体が逹者であるなら文学に身を送るのではないのだ。とは二十九年頃しばしば聞いたことである。△洋行するという人に別れる時には何時でもこの生別は死別だと思う。君が従軍した時もまた逢われるかどうかと思うてイヤな感じになった。しかし近頃になると何も諦めようでそんなでもない。浅井さんには会われるかも知れんが、不折にはとても会われまいとは今春の話であった。九月十日に翁の宅で蕪村の講義のあった時に余らが帰る時に臨んで、鳴雪翁がその中にまた御目にかかります御大事になさいというたら、ナニそのうちに死んでしまいますというた。然りこれが生別れとなったのである。(佐藤紅緑 子規翁)
2021.06.24
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これらは入門の手始めで、それからのことは大抵人の知っている通りであるが、余は煩を避くるために、ただ翁が生前余に語りもし、また行いもしたことを想い出るに任せて記そうと思う。△余の初めて俳句を学ぶに第一に注入せられたのは滑稽的思想で、翁の従軍前には一茶の句を愛読されていたことと、また余が狂歌が好きななどの点からして自然にその方に導かれたのでもあろうか。その時の団々珍聞の川柳に「日本が広くなったぞ初鴉」というがあった。それを見てこういうのは一茶調であるなどと岩いわれたが、非常に余の心に泌み込んだのである。△余の翁を翁と呼んだのは廿九年六月廿四日からである。その前に保吉という俳人は白雄の門人であるが、この人は二十二三歳で既に翁と呼ばれたのであるという話があった。余は廿四日帰省の時短冊に何か書けと命ぜられたので子規先生に留別と書こうと思ったが、先生といわるるを嫌うておったから、君にしようかと思ったが、これは無論失礼であると思い、即ち子規翁に留別と書いたのでそれを見せたら笑っておられた。それからは余はいつでも翁と称したのである。△翁は非常に勤勉な人であるから、他の人も自然怠慢を制するようになる。当時余らは一週間も見舞を怠ることがある。何やら気が済まぬので行く気になるが、行くには俳句を持て行かねばならぬ。余らが多くの俳句を作ることを翁は病中の至楽としておった。余らの句中に秀句があれば翁は病を忘れてそれを喜ぶこと、御自分の句に対するよりも甚だしい。それで見舞に行くには句を作らねばならぬからしてその関係からして余らは俳句に勉強するようになったのである。余の如きはしばしば俳壇を退こうと決心したこともあったが、俳事の関係より俳事からして進み来った師弟の関係、朋友の交誼上からしてどうしても翁と離るることが出来ぬので、却って其そのために俳句を作るべく余儀なくせられ来った感がある。この感は余一人ばかりでなく、いやいやながらもただ「正岡」を慰むるために句作したという人も大分あるだろうと思う。△能く諸子の長所短所を知ているにはしばしば驚く所である。例の句作奨励として翁は人十二ヶ月女十二ヶ月など作り、それを諸子に選評させるのであるが、人十二ヶ月の時に豫め碧梧桐はこれを一番にするだろう、虚子はこれだろうと自分で見当を付けて置いたので余の第一番に取たのは「稲の花人相書の廻りけり」という句で、これは君が取るだらうと決めておいたとのことにギョットした。他の人は大抵六番以下に取ったのである。凡て如斯である。二十九年の冬である。虚子碧梧桐の二氏が変調をやり初めた時、余は仙台から翁に向けて両氏は邪道に陥いったのである、あれを黙視しておらるるは何かわけがあることであるかと不平かたがた手紙を送った。するとその返事に両氏の変調は今においてこそ変調なるかも知れねど後に考えれば正調かも知れず、兎も角も進歩は開拓なり、開拓はその時に困難にもあり、また無理にも思わるれど、そがために新天地を得れば何よりも喜ぶべきことであろう、二子は我派の急先鋒で我れわれは殿であるから、前軍は一に先鋒に一任するがよいではないかとのことであった。これがために余は釈然として大に得る所があったのである。△三十一年春余が富山におった時翁より給わった書面を左に記す。 拝啓二年ぶりの手紙云々の一語を見て小生も一種の感慨にうたれ申候。兎角筆無梢なれは御無音かちに相成申訳無之候。今日も高橋秀臣氏来り御噂致居候。小生自分病気にて心細く候まま諸子の行末など按じるとはなけれど考へることも有之、時勢と運命とは致し方なきものとするも半分は自分のやりよう次第にて善くもなり悪くもなることと存候。殊に貧乏に生れたものは余計に苦努せねばくらしにさえ困る訳なれば、つまり我等は貧乏鬮を引たものにて不幸無この上人より余計に働いて僅の給金をもらうも前世の我儘が報いて来たものかも知れす候。世の中をうまく渡るという人あれどもうまくわたる人はいつでもしまいに失敗するかと存候。小生はどこ迄までも正直にやるつもりにて、馬鹿といわるる覚悟に御座候。はじめから苦辛するつもりでやればいつまでも苦辛に堪え得らる、ものなれどうまくやるつもりてやりそこなったら多くは頓挫致候かと存候。小生などは不幸ばかりうちつづき候故、今ではあきらめ居候。この上まだありとあらゆる不幸は小生の一身にかかってくるものと常に覚悟致候。足は二本とも立てぬようになるべしと存候。月給をもらえぬようになる時もあるべしと存候。熱があり苦痛烈しき最中でも筆をとらねば家族がかつえるというような時も来るべしと存候。かかる空想も小生にありては空想にもあるまじ顔に来るべきかと存候。しかしどこまでも艱難に負けぬつもりに有之候。小生の身で艱難に負けるようなら一刻も生きておられまじくと存候。小生をしてもし身体の健康を得せしむるとも正直に苦辛するつもりなれど、万一小生が山を思いたち候ことあらば、それは命がけの山をやりたく存候。即ち山があたればよしあたらねば死ぬるという山にて(実際死ぬるなり形容にあらず)それも愉快かと存候マアそうでなけれは死ぬるまで難儀を求めてしようという野暮主義を立居候。しかし何を申すにも足の立たぬ人間では致様もなけれど、体の健康な人は十分考えて一時の軽挙に出でぬよう願い居候。今日も貴兄の御地方に評判よしということを聞てうれしくもあるからに何やら例の杞憂も起り候まま、下らぬくり言申上候。別に何という主意もないが可成御辛抱可被成奉祈候。 蕪村句集の解御説おもしろきところも多し。ただ爐に焚ての句は前書を御覧被成ぬかと存候。 玉稿今少し御待被下度候。右御返事まで乱筆如此早々不具。 四月八日 規 紅緑兄 われ病んで櫻に思ふこと多し この手紙は余がバイブルである、御経である、論語である、坐右の銘である、余が欠点、病処を救うの道を数えたのは実にこの書である。(佐藤紅緑 子規翁)
2021.06.22
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この頃の子規と紅緑の交わりを振り返ったのが、明治35年12月27日発行の「ホトトギス子規追悼集」に書かれた『子規翁』です。長い文ですので、何回かに分けて載せていきます。 余の上京したのは明治二十六年の春で羯南先生の玄関番を勤めておったのである、ところが余は当時は空想に駆られて文学というものの趣味には注意もせねば研究をしたこともない、ただ狂歌は面白いなどと蜀山百人首かなどを洋燈の掃除方々読んでおったのである、しかし先生に勧められて法律なんどはいつでも出来るから国学を研究して見たらよかろうというので源語狭衣などを専一に攻めておったが、なかなかわかりかねる所があるので、誰れか親切に数えてくれる人はなかろうかと相談するとこの向いに正岡という社(日本新聞社)に勤めている人がある、その人に願えばよかろう、ということであった。それは幸いだと喜んで見たが、さてその正岡という人は奥州の方を旅行中でいつ帰るかわからぬというのでそのままになってしまった。しかし肺病で血を吐して自ら子規と号したこと、書はなかなか上手に書けること、社の方では何をさしても立派に書くことなどわかった。それから秋の夕暮の頃である、書生部屋に灯を付けようと思っていたら、玄関に案内を乞うものがある。薄暗い中に立っていたのは肩の幅が広く四角で丈けは余り高くない顔は白く平ったい方の人間である。余の案内も待たずのこのこ中に這入らうとしている。この家に来る客の中で案内なしに這入るのは、青崖氏たった一人であるのに、今またこんなへんてこな人が一人殖えたと驚ろいて、名前を聞いたら、正岡ですとハッキリ答えた。丁度向いの住人余が教を乞うべき人とは急に気が付かなかった。 ともかくもこれは子規翁に対する初対面である。この時は翁も全くの書生風で、木綿の兵子帯をしておったのである。それから余は国学院やら法学院やらの浮浪書生となって、国語などは自分の研究したところでモウ沢山だと思ったから別に御向うに推参するの用もなかった。この年の冬である。正岡さんでは謡を始め出した。われわれの日曜日は向いでも必らず謡をやる、そは二人もしくは三人でその中に一番低い声で一番まずいのは正岡さんだろうと玄関で専ら評判であった。その時の宅は丁度羯南先生の門を竹垣を隔てて向うの坐敷から睨むところであるから書生部屋に最も近かったのである。向うで謡をやらかすならば、我々も一つ何か始めて驚かしてやろうとは書生部屋の議案であったが(この時三人)撃剣をやろう、早朝霜を踏でこの庭でどしどしやったら、向うの眠りを覚ますに足り、且は健康上非常によいという余の提談のためにそれに一決し、それから毎朝ガチャンガチャン稽古し始めた。ただ近所困らせの悪戯であったけれども、向うでは少しも感じなかったらしい。ある朝突然垣の外から声かけた者がある。それを見れば正岡さんである。道灌山の樅の枝に鳶が巣をくうて無数の烏が毎朝これを攻囲するというから見に行きませんかというたので、面白い一つ鳶の加勢でもしてやろうという気で、正岡さんと二人で出掛けた。その時に義経船繋松やら、道灌山の由来やらを聞て大に驚き、なかなかこの人は書生のようだがものを知てると感服したことがあった。されども俳句については何も話がなかった。 その翌年の正月である。日本新聞新年附録として蛙歌留多というを出した。蛙ばかりの句である。その時あの人は成程俳諧に精しいのだろうと思ったが、俳句をやる氣にはならなかった。毎夜社の人及び余らで歌留多を闘わすが、いつでも正岡さんには叶わなかった。歌留多にかけてはすこぶる敏捷なもので、しかしてまたすこぶる乱暴で、当人の手は愚か余らまでも手を血だらけにしたこともある。この時の活発な有様は今ま目の前に見るようである。この二月今のところに転宅するというので余はその手伝を命ぜられた。余の第一の喜びはあの人は如何なる書を読んで、どれだけ多くの書を持ているかを見るにあったが、行て見ると第一に驚ろいたのは写本である。それはことごとく自写であるに至ては寒心の外ないのであった。この引越が済むとその時に来ておった色の黒い男(瓢亭君)と余と三人で、新宅で昼飯を食ったので、この時いろいろな文学の話などがあった。「あなたは文学が好きだと陸君から話がありましたが、発句はどうですやりますか」「イヤやったことがありません。狂歌ならば好んで読む位のことです。発句をよんでも狂歌ほど面白くありませんな」などと今から思へば抱腹の至りである。正岡さんは余の話を聞き折おり瓢亭君と顔を見合して笑っておった。これも今から思えば「到底ものになりそうもない奴だ」と思ったのであろう。 それから小日本が発行されて正岡さんは主幹になってやっているということを聞いていたが、その発句には一向感心しなかった。間もなく余は日本新聞社に入社したが、社が違うからともに筆を執るなどということは勿論無いのであった。するとこの年の八月頃小日本が廃刊になって小日本からゾロゾロ人が立還って来た。正岡さんに露月君などもその中にある。余は子規翁を呼ぶに三時代三種の構がある。第一は正岡さん時代で即ちその時までである。御隣りの何々さんと同じ意味であろう。第二は正岡君で生意気にも同社員であるから、また他の人は皆な君と呼ぶのに余のみさんというも可笑しいなどと解した所からだ。第三は二十八年からでこれから先生である。翁と呼ぶことに就ては順次記そう。 当時の正岡君はどうであったかというに、極めて無頓着な粗暴な、構わぬ方で、始終懐手でその懐には売卜者の如く古書やら反古やらを食み出したままに詰め込んでいる。紫色の毛糸の襟巻、この襟巻の掛け様は一種不可思議で、このために襟が寒からぬようにするには今少しく頸に密接せねばならぬ、しかもむしろきたならしい埃じみた襟巻で、単に両肩にくねらしたというに止まるのである。 それに兵子帯が緩いかして始終腹が見ゆる許りにぐだぐだとしている。それに踵がぶっつかる程の大きな俎板下駄を引摺る様にガラアリガラアリと歩行いている。編輯局で何か書いている時には、左の手で肩にヤゾウをこしらへて右の方を机に凭せるようにしている。一寸筆が絶ゆる時には顔を斜めに左の方を向いて考えている。大食には中々の剛の者で、君の原稿紙の存する所に必らず燒芋、蜜柑、菓子を見るのである。金にかけては猶ぼ無頓着である。月給は状袋に入れて渡すことになっているが、その状袋を受取ればそのまま机の上の狼藉たる反古の中に混同せしめていささかも構わん。物を買っても剰銭を勘定せぬ。だから硯箱の中にはいつでも銀貨や銅貨が這入ている。余等は暑い時に氷が飲みたくなれば、いつでも君の硯箱の恩沢に与かるのである。概して「日本」社にはこんな人が多いが、君は別して甚しいように思われた。そのあたり川柳、都々一などは流行して編輯局で隙人がワイワイやりはじめたことがあったが、荒木という老人は中々にこの道には逹者であるので、その人に批判を乞うと君のは何時でも採用されぬので大笑いだった。ある日君は新聞の大組に余とともに植字場へ行っておったが、誤正の折に職工長が述語として又をふんばり又、通を通ふつうなどと叫んでおったのを聞き、「職工はふんばり又で通ふつう」とやった。荒木老人に報告すると川柳の極妙流石に俳諧の人はえらいなどとほめられたので失笑したことがある。戦争の当時で宿直があるので、余は折々君と同会したことがある。宿直室の行燈は赤椽の華奢なやつで、あたかも吉原あたりに用うるのと同じであるから、余はその戸の紙に正岡と書いた。それがいかにも華魁の名らしいというので君も笑いながら「待てど来ぬ夜の灰吹たたきせめて蛇でも出ればよい」と都々一を書かれた。かくの如く君は今の人によくある「気取る」などいう点は毫末もない。非常の話し好きで夜更くるまでも語ることは珍らしくない。 この時にいつも君の家に遊びに来ている書生がある。余と同年位に見えるが飛白の着物の膝が漸やく隠れる許りに短かきを着て、小倉鼻緒の下駄を穿いているが、その下駄の歯には何時見ても大きな石塊がはさまっている。あれを取ってしまったらよさそうにと他人の下駄を気にしておったことがある。その書生は今の虚子君であるのだ。 九月十九日、これは余が君に俳句を学んだ紀念の日である、元来君は決して門戸を作るの心はない。また自らの好む所を強て人に好ませんと世話をやく気もない。自ら信ずる所自ら楽む所に甘んずるという質であるから、余に俳句をやれというたことは一度もないのであるが、この日類題集(?)を社に持て来たので、余はそれを借て見ていたら、どの句は面白いかと問うから「秋風の心動きぬ縄すだれ」が面白いというた、するとこれは心という字が悪い「秋風の吹きそめにけり縄すだれ」ならまだしも善いというたので、何だかそれが非常に趣味を感じた。ナル程それでは作って見よう題を下さい、といえば、薄の題で、この日余は四十句ばかりを作り、その中から二句を取られた。それから毎日題を給わり、三四十句許りを作って見てもらった。五六日過てから、何でも俳句は大なるものがよい、雄渾牡大がよい、そののつもりでやって見たまえ、というのでその日の題は野分、初嵐などであったから素的に大きなやつをやった。「隣村の案山子もてくる野分かな」「臼の礫杵の礫や初嵐」「如是我聞野分に屋根をとられけり」これを見てこれでも困ると笑ったことがある。(佐藤紅緑 子規翁)
2021.06.20
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佐藤紅緑は、明治7(1874)年に青森県弘前市親方町28番地に、佐藤弥六の次男として生まれました。本名は、洽六(こうろく)で、のちにそれの文字を変えて俳号としました。 明治26(1893)、19歳の時に青森県尋常中学(現弘前高校)を中退して上京します。幼い頃からわんぱくで、中学校の頃から悪戯や乱暴で名を馳せました。なぜか、中学3年生の頃から詩や和歌に興味を示すようになり、文芸誌に作品を発表するようになります。地元にいることに耐えられなくなった洽六は、ふるさとで縁のあった陸羯南を頼って玄関番となり、法学院に学びます。 父の弥六は、慶応義塾で英学を学んだ人物で故郷に帰ってからは西洋小間物を扱う商売を始めるとともに、養蚕の導入や林檎をはじめとする農業の改善に力を尽くしました。どうも、進取の気性に富んだ洽六の性格は、父親譲りだったようです。 国学院で古典の勉強を始めまた洽六は、勉強がなかなか理解できず、誰か親切に教えてくれる人はないだろうかと、羯南に相談すると、子規を紹介されます。 自身の『子規翁』には、次のように書かれています。 この向いに正岡という社(日本新聞社)に勤めている人がある、それは幸いだと喜んで見たが、さてその正岡という人は奥州の方を旅行中でいつ帰るかわからぬというのでそのままになってしまった。しかし肺病で血を吐いて自ら子規と号したこと、書はなかなか上手に書けること、社の方では何をさしても立派に書くことなどわかった。それから秋の夕暮の頃である、書生部屋に灯を付けようと思っていたら、玄関に案内を乞うものがある。薄暗い中に立っていたのは肩の幅が広く四角で、丈は余り高くない、顔は白く平ったい方の人間である。余の案内も待たずのこのこ中に這入ろうとしている。この家に来る客の中で案内なしに這入るのは、青崖氏たった一人であるのに、今またこんな変挺な人が一人殖えたと驚いて、名前を聞いたら、正岡ですとハッキリ答えた。丁度向いの住人余が教を乞うべき人とは急に気が付かなかった。(佐藤紅緑 子規翁) 子規の周りの人物秘話31:佐藤紅緑01 翌年、紅緑は日本新聞社に入社して子規と机を並べることになり、俳句にも親しむようになります。紅緑という俳号となった洽六は、たちまちのうちに頭角を現しますが、明治28年(1895)夏には脚気のため帰郷。「東奥日報社」の記者となりますが、翌年には仙台の「東北日報社」に入社し、明治30年には同志と仙台で「河北新報」を創刊し、5月に24歳の紅緑は「河北新報社」の社長の義妹である19歳の鈴木はると結婚しました。 その時に、子規から妻の名前を詠み込んだ「婿となり嫁となるはるのちぎりかな」という、ふたりの結婚を祝う句をもらい、婦人家庭欄の初代主筆となっています。 しかし、紅緑の腰は落ち着きません。明治31年1月には大隈重信の推薦で「富山日報社」に入社し、やがて主筆となりました。 大隈重信の進歩党に入党していた紅緑は、明治31年に青年急進党を組織するという噂を聞いた子規は、4月8日、紅緑に手紙を送ります。「体の健康な人は十分考えて一時の軽挙にいでぬように願いおり候。きょうも貴兄の御地方に評判よしということを聞てうれしくもあるからに何やら例の杷憂も起り候まま下らぬくり言申上候」と忠告し、「われ病んてさくらにおもふこと多し」という句を送りました。 紅緑は、この手紙がよほど肝に答えたのか、「この手紙は余がバイブルである、御経である、論語である座右の銘である、余が欠点、病処を救うの道を教えたのは実にこの書である」と『子規翁』に書いています。 この年の初秋、紅緑は肺炎に罹りました。子規は「心を静かにせよ」とだけの文を送り、次便で、「肺炎は死ぬ病には無之候。小生の知き結核性のものにしても死ぬことには無之候。ただしばしば喀血すれば身体の衰弱を来す故かなり風邪を引かぬように用心致し候。貴兄もその辺御注意可被成。肺炎などはわけのなき病にて候えば、焦らずに御静養可然候」と、紅緑を励ましています。 また、さらなる不幸が訪れました。生まれて間もない男児が亡くなったのです。子規は、10月12日の紅緑に宛てた手紙で、「生れ子を失ひたまいし由は聞及びしが、この頃は御持病さえ起りたると聞く。なるべく静に養生あるべく候。肺病は死ぬる病気にはなく候えども、たびたび煩えば身体弱り可申候。この後も風など引かぬよう御心掛可然候」と送つています。 紅緑は、その悲しさを紛らわそうと、体調が思わしくない中、句作に励み、百四句の句稿をまとめ、「かりがね集」と名付けて、子規のもとに届けました。 その冒頭には「かなざわの洗耳、雁と友に来る。この春おうて、今復たあう。げに浅からぬえにしなりけり。かりがねの友をもとむるということもあればとて、かりがね集と題しつ」と書かれています。この名前は、「かりがねの友」である金沢の俳友・北川洗耳にちなんで名づけたものでした。
2021.06.18
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瀾水は、大正7(1918)年、高知新聞の外部記者となり、随筆や研究などを発表します。 また、帰郷してから書画に興味をもち、中山高陽を研究し、書画鑑識の大家としても知られるようになりました。大正10(1921)年には、俳誌「海月(くらげ)」を創刊して、45歳で俳壇に復帰しています。瀾水は悠々自適の晩年を送り、昭和36(1961)年に亡くなりました。 瀾水には、『「子規子の死」の反響ー付鼠骨君尺牘ー』という文が遺っています。晩年に書かれたもので『若尾瀾水俳論集 子規の死とその前後』に掲載されたものが『子規全集 別巻三 回想の子規 二』に掲載されています。 この文章には「少しも心に疼しくないのみならず間違ったことをしたと思っていない」とあり、『子規子の死』に対しての反省が全くないことがわかります。 悪口で埋め尽くされた文の作者は、懲りない人物だったようです。そして、遺された文もまた、一方的な視点で書かれ、詭弁に満ちていました。やはり、文章は人間性を露わになるようです。 私は昔し子規先生の終焉を弔う文を草しすこぶる罪を江湖に得た。しかし少しも心に疼しくないのみならず間違ったことをしたと思っていない。 角力取りの弟子が師匠の関取りに稽古をつけて貰う時、師匠拝みで手も足も出さない、ただ師匠に土俵へ転ろがさるるを喜んでいたとしたらどうであろう。この野郎世話する甲斐のない意気地なしとして捨てらるるであろう。一生懸命に対抗意識を掻き立て親方に蹴たぐりを懸けるものを進取の気象あり前途有望なりとして喜ぶであろう。芭蕉が身命を拗って開いた俳諧の大道に雑草が茂って月並の俗陋に陥ったのは、後続者が余りに芭蕉を尊崇し、片言隻語も紳聖なるものとしこれを剖析し研究することを怠ったがためである。けだし地上にあるものはことごとく不完全のものである。殻を破って自由の身とならなければ新しい生命は得られない。進歩の前提には破壊が先立たねばならぬ、人情は別に披瀝する途がある。進まんがために隣害を排除する作業と人情とを混淆して、正しい研究をその萌芽にして摘み取らうとするのは悪魔の仕業である。 明治三十五年九月十九日の暁、子規先生は桐の一葉と散って帰らぬ人となられた。しかしその短い生涯を賭けて闘われた文芸革新運動はほぼ成就され、全国に圧倒的な多数の支持者を得られ、有能な後続者にも事を欠かなくなっていた。同時に指導者を失った我等のグループに、逝ける先生を偶像化しようとする動きが見え出した。私は情において先生を悼惜するが、そのために偶像化にまで発展させようと思わなかったばかりか、そういう気勢はこれを阻止する要ありと思った。私は当時俳句とは縁の遠い方面の学生であり、それゆえに俳句にも遠ざかって胃たものであるから、進んで容啄するのは適当でなかったし、非力愚文であるから止せばよかったのであるが、まだ若かったので俳誌「木兎」が追悼文を求め来るに合いてツイ筆をすべらして仕舞った。 想い起す俳巻「春夏秋冬」春の部が刊行された前後であった。私は虚子君を訪問した。坐に既に碧梧桐岩がいた。春夏秋冬の選句用に使った台本が幾冊か取り出されてあった。それは土佐判紙を二つ折りとしそれを台紙として日本新聞掲載の俳句を一句宛丹念に切り取り類題分けに整理し紙面に糊貼したものであった。毎冊三四十枚位観世よりでとじ合せてあった。処々句の頭に朱圏が施してあるのが子規先生の筆の跡である。碧梧桐君はその一冊を膝に取り捻り返えしながら「ノボさんは褥中にばかりいて屋外のものを見ないから平凡な句ばかり択んでいる」と呟いていた。虚子君は無表情で何にもいわなかったが、私は碧梧桐君の言は極端すぎるが全く理のないものでないと心の裡に思ったことであった。 俳句の革進は先生文芸活動の大動脈であって辞世の吟も 絲瓜咲て痰のつまりし佛かな 痰一斗絲瓜の水も間にあはず をとヽひの絲瓜の水も取らざりき という俳句を書れたそうであるが、その俳句に関してすら健康状態が著しく害された以後は時に精神も混濁することがあったと見え批判力創作力ともに低下するを免れなかったと見ゆる。虚碧二君に示して批を求めたという百合十句の如き二君はその好む所に従て各々異った句を採ったが先生はそれに不満で 畑もあり百合杯咲いて島ゆたか の一句は苦心してまとめたものであるのに二君は取らないと歎いたという。私をして点ぜしめば先生衰えたり一句も戴けないといい度い。たとい同一人の所説所作であっても前非後是がある。等債値に見るべきものでないと思う。これを批判し掏抄することは必要である。清冽な霊泉も洗浄を怠れば腐敗し滓渣に埋り飲料にならなくなる。神聖なりとし手を付くることを禁ずるは道の賊である。 先生の遺業は俳句を第一とし次には和歌がある。和歌はその後継者により痛く変形されている様だがなお正しい気脈を伝えているものもある様だ。精神さえ得れば形に拘泥しないでもよかろう。 第三の活動は写生文であるが、後織者は専ら先蹤に依傲し活趣を得ない恨みがある。先生在まして直接指導に当たっていられたなら、大に面目を新にせらるるものが有ろうと思わるる。といって残されただけのものが先生の理想だったとすれば私は不満である。それでは小学生の習作同然のもので浅薄で幼稚だとの世間の批評を甘受しなければならないことになる。もつと深刻に人生生活を観察し自然の秘密を剔摘する努力熱心がなければならぬ。徒らに様に依て胡藘を絵がき得意になるのは月並みである。 先生第四の業蹟は小説である。先生は夙に小説に指を染めたい希望があったが累見畳出する頽廃的な恋愛賛美の小説は嫌いであった。たまたま露伴の風流仏を読んで深く感動し小説は当さにかくの如きものでなければならぬ。我もまた顰に傲うて一作しようと決心し、駒込の奥に敗屋を借りて移り住み、雨戸を一両枚開いたままの暗らい室中に籠居して月の都を草した。不衛生な生活が祟って肺病にもなったと聞いている。 それ程犠牲の多かった作品だというのに、読んでチッとも面白くない。思索の底が淡い。懐疑の煩悶も深刻でない。幽玄な感じが稀薄である。夢幻と実在とが梢ややもすれば離れ離れになって調和が取れず、無理なつぎはぎになっている。古白の人柱築島由来の妖気繚繞しているのにさえ遠く及ばない。あるいは理想がないともいえる、内から迫ってくる力が認められない。露伴の作は猛炎の様な積極性があり、霊気横逸してその力強さにおいてとても較べものにならない。 その他先生には花枕、一日物語、当世媛鏡、曼珠沙華、等の明治三十年頃執筆せられた諸作もあるが、実はあまり読んでいない。細かい評は困るけれど概観して描線が弱々しく陰気である。 しかし面白いことは露伴にも俳句の嗜があって元禄俳書の研究に耽り多数の註訳書さえ残しており、その谷中五重塔の近傍に寓居していた時には子規先生も親しく訪いよりともに杜鵑を題にして句を闘わしている。そして小説において勝っていると反対に俳句においては子規先生の脚下にすら及ばない。一長一短げに不審議の因縁である。ここに到りて私は東京帝国大学法科二十九号教室で講演せられた時の露伴先生の風貌を想起する。 場内にギッシリ詰った聰衆の瞳は等しく先生に注がれた。先生は何の気取りもなく、羽織、袴の出立ちで樺色のスリッパを穿いて現われ物静かに徐歩して講壇に上られた。書齋におられた時のままで少しの取り繕いもしていないようであった。聰衆の眼に迎えられた時ちょっと気まり悪そうに頬を染められた。頭髪は丸苅りで油気なく少し延び、幾分平べったい感じのする頬に疎らな鬢がのびていた。眼付は尋常であった。眼光爛々として人を射たのは内村鑑三先生であったが、露伴先生のは穏かで落付いていた。発音は中音であったが明晰で抑揚をつけず娓々と続けられた。これは明治何年頃のことであったか忘れたが日露戦争の前で大学の総長は山川健二郎先生であった。 第五は新体詩にも興味を持ち多数の作品を残されていることであるが、その大部分は無脚韵で十の六七まで雑誌日本人で発表せられたものである。洪水と題する一篇もその一つである。立木の乱伐により美わしかった山々が赤膚をあらわし荒廃して行くのを歎く山の神が河の神と話しあい雨の神を語らって、大雨を下し洪水を氾濫せしめた。目前の利慾にのみ耽り少しも後をおもんばからなかった人間どもは忽ち難を蒙って狼狽した。その一つの挿話として憐れむべき母親が頑是なき我子をつれて救援の舟に乗り難を逃れて行く光景を細叙している。これが恐るべき災害を反襯しているのだ。この詩は読で一応は面白いが空想ででッち上げた作品だけありて切実な感が起らないし、心ない幼な児のやんちゃも小細工すぎて通俗小説を読む様な甘さしか感ぜられない。 鹿笛というのがある。これは蘭更の 鹿笛に谷川渡る昔せ の句から着想したものだ。猟師が鹿笛を吹くその笛の昔を擬音と知らず牡鹿の呼ぶと誤り聞きて哀れな一頭の牝鹿があわただしく谷川をわたって行く。第三者の地位に立って作者の蘭更はその水昔に聞耳を立てているのだ。そして牝此の恋に狂いて命の危きをもおもんばからぬやる瀬なき思慕を憐れんでいるのだ。先生はこれに反し猟師の側に立ち、牝鹿をおびき寄せ容易く仕止めた物質的な喜びを露骨に喝采している。物の哀れを知らないであろうか、まさかそうでもあるまいけれどこの場合私は蘭更のいささか型にはまった慈悲心的の惑傷をよしとしたい。蘭更の句体の優雅なのに比べて新体詩は余りにも朴訥である曲折がなさすぎる。 一体先生の思想は常識的で平明である。すべてのものを割切って仕舞う。疑問もなければ煩悶もない。その代り物にかくし立てがなく、八面玲瓏、天真爛慢だ。開けッ放しですこしの暗翳もなく、胡麻化しもない。これが多くの人に愛せられ共鳴せられた所以であるとともに一方において浅薄なり立体的な深みがないなどとそしらるる所以であろう。 第六には、先生はもっとも論難に長じていた。立論が常識的であるとともに裏付けになる例証が万人を服せしめたことである。そしてこういう例証をいくらでも豊富に提供することが出来るのにあった。これは平凡な様で一寸むつかしいことである。多数の厳論を好むものは大抵この用意がなく、筆に任せていい加減なことをいっている。外見は筋が通っている様でも、実証を求めらるると狼狽して馬脚を露わしてしまう。創作に兼ぬるに弁難攻撃の文をよくしたればこそ短日月にして多数の共鳴者を得た訳であるが、同時にあらずもがなの分類や分析が列ねられる弊もあった。慾をいうともっと徹底した議論も聞かせて欲しかった。物の核心に触れた論もあってよかったことと思う。 こういう反逆思想が私の脳中に醞醸している一方、世間では全国の新聞がスッカリ感傷的になって子規先生の病欣を他へ大騒ぎになっていた。苦々しいのは咋日まで先生を無視していたものすら我劣らじと報道を競い憂慮した。当時学事の関係で俳句から遠ざかっていたとはいえ親しく示教を受けた恩誼は忘却しなかったが、軽薄な弥次の振舞にはひどく反感を持った。先生滅後但馬翌岡の木兎から弔辟を草する様懇求せられたので、愚かものの思慮浅く廻らぬ筆を呵してその責めを塞いだが、虫けら同前の私であるしチッポケな地方俳誌であるし反響があるとは思っていなかった。 私の考えでは子規先生は文豪であらるるとともに我々とも血の通う人間であると思い度かった、お厨子に納まって人間離れのした神聖なる木像と思い度くなかった。人間である以上賢愚の差はあってもその能力には限りがあり、過を犯すこともあり思慮不足のこともあってよい訳である。欠点があればあるだけ自分逹の仲間に近づくのだとも思っていた。しかし故先生を囲続する先輩逹は先生の死が齎らした衝撃で非常に興奮しており、天下を挙げて我子規仏を哀傷するはそれ当然の義務であると思っていたようだ。先生に対しあたかも批判がましき言を発するのは罪悪でありきっと徴らしめねばならぬと掟ていた。 そこで名文をもって天下に鳴る五百木瓢亭先生が椽大の筆を揮うて子規先生の追悼記事を草するに当り忽ち私を捉えて問題とし、数日に渉り叱呵攻撃せられた。弱虫の私たるもの何ぞ驚き恐れざらんや、尻帆三千里下宿の押入に閉じ籠り蒲団の間にもぐり込み桑原々々と唱うるのみであった。猶コテンコテンにやっつける筈だったそうであるが、瀾水如き小物を相手にして攻撃すると却って孺子をして名を成さしむることになりまずいというので鉾を収めたと後に聞いた。先ずは命が助かって有難いことであった。 鼠骨君尺牘 昭和二五、八、八。 却説昔のむかしのその昔、貴兄が子規を評論した木兎であったか但馬の俳誌に発表されました。私は当時全面的に貴説を支持したので、私も共謀の一人だなど。噴飯々々。あの貴兄の論文の写しでも欲しく候。何とか御心配願えませんか。暑いのにあつい御たのみ。御ゆるし下さい。(俳懺誨)(「子規子の死」の反響ー付鼠骨君尺牘ー)
2021.06.16
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『子規子の死』の最後に、瀾水は「九月二十九日広陵の旧草盧において稿し了る時に日暮れんとて陰雲四方に起る」と書きました。この雲はまさに瀾水の人生への暗雲でした。 瓢亭の文の効果もあり、瀾水の文がいかにくだらないものであったかをみんなが知ることになりました。門人の中には瀾水を葬れと息巻く人もいましたが、そうした騒ぎによって瀾水の名前が知られることは、門人たちにとって不本意な事態に陥ります。門人たちは、瀾水に対して敵意に満ちた沈黙を守ります。そして、それは瀾水の子規門からの追放であり、瀾水は俳壇という狭い世界で生きることができなくなりました。 明治39(1906)年、東京帝大法科を卒業した瀾水は高知に帰郷します。瀾水の生まれた吾川郡弘岡下ノ村(現高知市春野町)には、多くの田畑が遺されており、老いた母では管理が難しかったためだといわれています。 先生の文学上における功蹟は人の驚嘆しつつ説く所なれども、予をもって見れば、シカク光栄なるものや否や疑わし。もっとも先生の関与したりし詩文の様式の種類は、はなはだ多端なりき、先生は漢詩をも作れり、和歌をも作れり、俳句も作れり、新体詩も作れり、俳句の英訳をもなせり、(いうに足らざれど)諸種の戯文をも作れり、口語を用いて一種の美文をも創作せり、新聞の雑報も書けり、政論も書けり、風俗論も書けり、俳論も書けり、美衛論も書けり、しかして小説をも作りたり、また晩近数年には絵画をも写したりと、その範囲の広汎にして多様なる、もし遺漏なく挙げんとせば、僕を換うるも尽ざるべし。しかれども先生があらゆる様式中、もっとも力を尽し自己の生命としたるものは、いうまでもなく、俳句なりき、先生が二十四五の齢より、死に至る三十六歳の暁まで、日夜孜々として研究せしもこれに外ならず、先生が俳句に関する編著述作は浩瀚なるその生産物の半以上を占むといわずや。先生初め天保の俗調を学び、刻苦してその藩籬を出で、元緑の諸家に沈湎し、更に歴史の流に沿うて享保に下り、天明に入り、寛政文化に及び、力の及ぶ所捜らざるなし。故に先生の俳句を論ずるや、刻博精窮、前人の未だいい及ばざる所、今人の夢想せざる所、先生いうて余蘊なし。元来先生の最長所は批評眼の犀利なると、文藻の流麗にして、思想の脈賂整然乱れざるにあり、ココをもって先生の筆を呵して俳諭を草し来るや、時に独断薄弱の見を立つることなきにあらざるも、読者をして知らず知らずその論旨に左膽せしめ、とかくの非難を容るるを許さざるの概あり。恐くはこれ先生大得惹の場所なるべし。俳句も三十一年二年にわたる吟詠は、なかんずく光焔の颺れるを見る、二十九年以前三十四年以後の諸作の如きは、備さに拙劣を極む、宜しく先生の為に稿を焚くべかりしなり。予昨年たまたま日本新聞を閲し、先生の近作を見、ソゾロに味気なきを覚え何ぞ先生の衰えたることやと嘆じたり、次に先生が第二の生命とせるは、三十一年頃より唱え初めたる和歌なり、和歌は俳句の如く門人盛ならざりしも、なお一派の勢力として、『こころの華』などに蟠踞せるを見る。次に第三の生命とせるは三十二年頃より創始せる口語の写生文なり、佐藤紅緑、先生の意を揣摩して曰く、先生既に俳句和歌に成效せしも、自己の創体ならざるをもって、意に安せす、遂に案出して空前の文体を始む、これ実に正岡の新機軸なりと、この言当れるや否やを知らずといえと、あるいは先生の真意に近からん、次に二十九、三十年頃専ら世に出したる新体詩の如き、今春来日本新聞に登載せし画論の如き、小日本に出したる小説『月の都』新小説に出したる紳話的小説の如き、また先生の本色と見るべきものなり。その他の政論、漢詩などに至っては彼もまたかかることをなすというに止まる、深く論するまでもあらず。要するに先生は文士としてもっとも多技多能の人なりき、ついでその関与したる文芸については強盛なる精力をもってことごとくある程度まで成功したるに至っては充分に人の驚駭を買い得べし、先生の賞賛すへきはまことにこの点に在り、しかれども更らに厳密なる眼をもって先生の製作を検査する時は、予はかえって先生を尊敬すべき所以を見出すに苦しむを覚う。何ぞや、先生の諸作は、ことごとく前人の摸擬に外ならざればなり。先生が第一の生命とせる俳句について見るも、明治の新機軸として誇るべきものは、一つもなく、皆な元緑天明にその粉本を発見するにあらずや。和歌についていうもうるさきまでに万葉を摸傲し、死語の驢列を見るにあらずや。例の写生文につきていうも、西歌の詩集にその元物を見るのみならず、一九が膝栗毛のある章の如き、描法において材料において、先生の新機軸と誇る写生に髣髴たるにあらずや、なおこれより近きは、江見水蔭が小品文にあらすや、実に二者の差は一は写生し一は空想するにあるのみ、結局先生は一つも新機軸と誇称するものを有せざるなり。加うるに先生の写生文は、先生自身もいえる如く事件と事件をツギ合せ按排してなるが故に読過、先ず匠気のいちじるしきを覚う。予常に評すらく先生の写生文は、まことに面白く、よく書かれたりと思えど、何となく『造り物』なりとの感起る、先生の文は、習気ありと、また先生の新体詩は、ただ俳句を引きのばしたるものに過ぎず、一種とはいい得べけんも、新体詩といわんは穏当ならず。先生の小説に至ては当時評判のみ聞き、本文を読みたることなかりしも、伝うるが如くんば、西欧神話の不出来なる摸倣のみ。先生かつて予が小説を翻訳などと評するものあり、怪しからずと敦圉きたれど模擬物に過ぎざるものならば、翻訳の不名誉と少しも択うなきにあらずや。しかして先生が画論をなす如きは、興味ある事に相違なきも数年以前不折先生の口より発せられたると一同の記事を、再び先生の筆によりて繰返さるるはあまり好ましきにあらず、故に先生の製作中、もっとも衿るに足るは、ただ一つ俳句の評論あるのみ。しかれども先生がその評論の筆を舞すに当てや常に英国風の学者がなす如く、好んで煩多の分類をなす、曰く主観的、曰く客観的、曰く秩極的、曰く消極的、曰く何、曰く何、と毎文耳だこの入る程現わる、成程事物に関する精細の攻究をなさんとせば勢いその種類により分別彙蒐せざるべからざるは勿論なるも、これに勉むる弊として不必要、無意味の区別をなし、奇言俗耳を驚かさんとするに至るは往々免れざる処なり、けだし先生の如き頭脳明敏にして斯道に精通せるものにあらざれば、かくまでに分析分類をなすを得ずといえど、予はむしろその冗漫にたえざるを覚う、しかしこはなお恕すべしとするも、先生の評論にはややもすれば、哲学上の術語を多用せり、そもそも学芸の専門語は世俗に乱用錯使せられて正確なる意義を失うを忌む、故にもし先生にして術語曖昧の蛹をなせりとせば先生もまた学界の罪人たらざるべからず。なお先生の真面目は俳人たりしをもって、俳人に共通なる欠点は、先生といえども免るるを得ざりき。詳言すれば、先生の文章は俳人的機智に富み、軽快に、新奇に字句の間引き締り、淡泊に洒落なりしも、遂に規模の雄大にして気格の高遠なるを期し肯せざりしなり、先生の文は気がききすぐる故、荘重なるあたわず、軽快なる故、沈鬱なるあたわず淡泊なるゆえ、深遠なるあたわず、洒落なるゆえ、勁健なるあたわず。加之、先生の文を読んで著しく感得する弊処は、恐らく先生が人格の小なるに帰納すべきものにして、先生の文を草するや、満身の智識を搾り尽して傾注すると覚しく、初めは得々として脱兎の態あるも、終りには気息滝々として、倒れて絶せんとす、『俳人蕪村』は先生が一代の傑作なるべきも、結尾に近き頃は、何をか書せんとして最早や書する文字なく、想涸れ気竭き、徒らに苦悶するものの如し、先生の文の裏面には現実の先生を極度に膨脹せしめたる映像を常に見る、故に文一度成ってまた先生なし、先生の文には余裕一点もなし、彼の偉人の著書において往々感ずるを得る言説以外に図るべからざる巨大のものを認むるが如きは、遂に先生の害において望むべからす、先生はいつかもいえる如く、偉大なるものにてあらざりしなり。 以上予は先生の為人とその功蹟欠点の大略を描画せり。しかり予は大膽に先生の短所を斥言したり、しかれどもこれ敢て先生を毀たんとするにあらず。予はむしろここに宜誓し得るが如く、勤勉、忍耐、不屈、独行、秩序、義務などの諸美徳具有し、健全なる趣味識を文界に覚醒し、隠れたる古大家を現在に紹介し、生ケる間は精励すべしとの記臆を、人間の頭脳に捺印したる、文学者子規子に対しては、心より師弟の愛情をもって、尊崇するものなり。予素より人間の完全ならざるを知るがゆえに、尊崇する同一の人は、また幾多の凶徳の持主なるを怪しまず、また凶徳のために美徳を埋没せんとは思わざるなり。去りとて多くの痴人の如く、自己か好む所なるがために、凶徳を矯めて美徳といいなし崇拝の目的をもって本尊の阿弥陀の如く円満具足と誣て、愚かに歓喜するを嫌悪す。先生の英霊もし知るあらば予が告白に向い果して如何の思をなす、あるいは狂愚の言を不快とせらるるやもしらず、しかれどもこれらは予において頓着なし、予は只ただ自心を満せざれば足る也。 子規子の容貌は、色白く、面長にして、額広く平に、眉毛は寧ろ薄き方なりき、鼻筋よく通り、人物の気高きを示し、眼は細長くしてその冷血なるを表せり、口はやや大にして、笑う時、美わしく並びたる歯と、齦とを現わす、音声は穏にして明晰なり、頭顱は丸く大に、髪は黒天鵞絨の如きを五分刈にせり、耳染は厚からざれども格好よく、鬚髯は防寒の用意なりとて冬向は蓄えたるが如し、予が先生を訪うは大概夏秋なりしをもって、先生の髯を見たること少し、客に対するには、隣室にこれを引き、襖を開け放ちて面晤す、談興に入れば枕を腋の下にあてて少しく上体を起し、戯謔するを常とせり、彼の有名なる蓑笠は先生が寝室なる中柱の上に懸けられたりき。《完》〔九月二十九日広陵の旧草盧において稿し了る時に日暮れんとて陰雲四方に起る〕(若尾瀾水 子規子の死02)
2021.06.14
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『子規子の死』に対し、日本派では中山稲青ひとりが、主宰する俳誌「アラレ」で瀾水の勇気に声援を送っています。 同門の人たちは、この文章にはげしい憎悪と反撥を抱きましたが、瀾水を黙殺しました。 五百木瓢亭は、10月21日から31日にかけて「日本」紙上に連載した追悼記『正岡子規君』で「▲この頃「木菟」という田舎の俳諧雑誌で瀾水という男が、子規を評して一面その長所を揚ぐるとともに、一面冷血、狭量、嫉妬、同党異伐、衒学、みだりに人を罵り独り高うすること、自買自鬻の痕著しきことなどを列挙して、これ先生の凶徳なりと指示したが、子規をしてもし健康の人たらしめ、しかして今日の成功と同情とを世間より得せしめんためには、この種の非難は更に多く更に烈しく起こったに違いない、いや真に彼を了解し得ざるものをして爾か感じ瀬しむるだけの所はあった。▲瀾水という男は我輩も二三度は顔を見たように覚えているが、子規の生前しばしば根岸庵に出入りした人だから、まるで想像ばかりであんなことを書いたのではない、むしろそれは正直に感じていたところをありのままに書いて見たのだろうと察せらる。しかしこの男はまだ若い人ではあり、かつほんとうに子規を解釈し得るほどの間柄でもなかったであろうし、一つは子規に叱られたことや、同郷の中江兆民やその他の先輩を子規が無遠慮に罵ったことや、たのしょ門下の親しきものほど優遇されなかったことや種々の関係から実際彼に取りては欠点を見られたことが多かったろうし、従て世間で爾かく同情する子規に対し独り毅然として無遠慮にその短所を数えることが、彼れの青春の好奇心をも煽動して、終にあんな評をも下したのであろう。しかり一つは若い人の常として、始めはさほどに思わぬことも、筆を進めるうちになんとなく勢いに乗って往々極端の文をつくる風があるものだが、この瀾水の評なども幾分かそんな気味があるらしい」と評しています。 また、瀾水の批評に対し瓢亭は諭すように反論しました。 ▲我輩がしばしば繰り返した如く、子規はその強き理性をもって常に感情を制御していたのである、故に彼れはいわゆる姉女子の涙を見せることを嫌って無為の輩無能の徒は強てこれを抱き止めようとはしなかった、彼れは誰れよりも高き見地に立って、すこぶる堅牢なる自信を持っていたのである、そうして彼れは一体に裸体主義で、何の虚飾もなく信ずる所を発表したのである、故に彼れは自己の標準に照らして臆面なくすべての者を批評し、篤倒すべきは即ち無遠煎に罵倒した、これ彼れが一面に敵を受くべき性格を有していた所で、その冷血といい、狭量といい、嫉妬といい同党異伐といい、尊大倨倣という、皆なこれより来る所の評語である。▲冷血、あるいは事実であったかも知れぬ、子規と意見合はず子規に容れられざりし人が、他の親しき人の如く親しみ得なかったのを、その容れられざりし人より見れば冷血と感ずるであろう。しかしこの冷血は何人も有する冷血で、特筆すべき冷血でない、いやこれを尺度に冷血と総評することはできぬ、狭拡、確固たる主義を樹立し堅守するために、その異主義のものを容れないことが狭量ならば、彼れの主義彼れの見地と異なる人より見て彼れは実に狭量であったろう、しかし如是を狭量といえば広量はやがて無主義である。彼れは無主義の人たらんよりは、好んで狭拭の人となったであろう。▲彼れは本来その富める理性と堅き意思と強き自信とにより、どこまでも敢為にどこまでも猛進したとともに、彼れは実に渾ての虚偽を排し虚飾を排し、赤裸々で飛ぴ出すのが常であった、故に彼れは自己の意見にたがうものは、何人を問はず飽くまで戦い飽くまで争うたが、彼れが理性に富める質は、かかる時自己の誤れることを知った以上、少しも未練気なく敵に降伏したのである。しかし彼れは多くの場合においてまだ彼れを降伏さす敵に逢わなかった、もしこの主義のためのこの勇士の挙動、即ち自信の為めあくまで戦い、あくまで争ふうこの態度を同党異伐というならば、彼れは最も激烈なる同党異伐の人であったろう。▲彼れは爾く赤裸主義のムキダシであったとともに、一切万事が自力的でいやしくも他に詰い求めるということがなかった、今や全国に彼の流派を汲む幾万の同志も、畢竟彼れが独往邁進の間周囲より自然に付随し来った勢力で、彼れは求めてかかる勢力団体を作ろうとしたのではない、彼れは燃るが如き功名心をもっていたけれど、それは朋党的の勢力により一時の虚名を博せんとするが如き浅薄卑俗の野心ではないので、彼れは文界において古今を通じ真の力量ある傑物と成らんと欲したのである、彼れが渾てに対しお上手を云いわず、籠絡的手段を採らず、同志は来れともに学ばん、反対者は去れ、飽くまで道の上に戦わんと立はだかっていた所は、我輩などより見れば誠に勇ましい大太夫の構えである。▲彼れはよく罵った、しかし猥りには罵らなかった、必らず罵るべき正当の理由を確認してでなければ罵らなかった、彼れは独り高うしていた。しかし自己の力量を顧みず徒らに高慢がったのではない、得意なる勿れとは彼の坐右の箴であって、自から高しとするは彼の独り心に抱く所でそれを求めて人に爾か思われんことを迫るが如きことは更になかった、彼れはむしろこの点においては深くその鋒鋩を蔵めていたのである、彼れもまた人間じゃ、嫉妬の情が皆無ではない、しかし嫉妬などいう劣情を人前に発露するには、彼れは余りに理性的であった、それほど馬鹿には成り得なかった。(五百木瓢亭 正岡子規君) 瓢亭の文章に対して、自分の批判が狭量のだと気づかないなら、瀾水は大タワケであると思います。悪口は自分の姿を投影するもので、子規の姿に瀾水は自分の隠れていた悪い部分を見たとしか思えません。徒らに他人を批判することは、自らを傷つけることでもあるのです。
2021.06.12
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悪口や批判は確かに注目を浴びるのですが、そのためには文章に「芸」が必要となります。瀾水の文章は、確かにある一面は真実なのでしょう。ただ、対象への視点の厳しさに対し、自らのスタンディングポイントのことが感じられません。悪口を「芸」にできるのは、周りから信用を得る社会上の立地があるか、あるいは権力志向のなさが必要です。瀾水は、そのどちらも持ち合わせていませんでした。 また、どちらかというと無名の俳誌に掲載するということも、瀾水に油断を起こさせたのかもしれません。そのため、同門の人たちもひそかに認めていた子規の赤裸々な姿を白日のもとに晒せば、真実の文として評判になるかもしれないと考えたのかもしれません。 ただ、それは若さの持つ無法さであり、思慮のなさでした。子規が歿して門人たちにが落胆している時期、傷口に塩を擦りつけるような文を発表することは避けるべきでした。それが、子規の門下に列していた人間としての最低限のルールです。 瀾水は、自らのスタンディングポイントを見失い、ただ徒らに悪口を続けたのです。文章が、その人の姿勢を表すものだとしたら、そこには醜い己の姿が見えるはずです。そこに瀾水は、気がつきませんでした。 瀾水は、子規の欠点を「凶徳」として、その内容を挙げ列ねます。「数多き先生の凶徳は如上の美徳と同様極めて猛烈に着色さる。もし予をして無遠慮に先生の肖像を描き出さしめば、恐らくは嫌悪すべき一人格の現出を見んやも知るべからず」と書き、門人たちの子規に対する態度を批判します。 まずは新しく子規の門に加わろうとする人たちです。瀾水は彼らを「先生を賛美するを新派俳人の重要資格と心得え」た、「お難有連」と書きました。 もう一派は、古くから子規のもとで学んだ先輩たちです。「先生の『お声懸り』を得て、自己の虚名を高め得んと、更にはなはだしきに至ては、先生の名を吹聴するによって自己の身に箔を付け」る「お菰連」と読んでいます。 そして「先生の凶徳中、予をして最も不快の念に耐えざられしめしは、そのいちじるしく冷血なることなり」、「先生が枕を欹てて、時々きれ長き三白限を以て客の面上を顧盻しつつ、最も満足げに説き出し来る話頭は、多くば厭うべき人身攻撃、もしくは他人の失策話、または嘲笑すべき愚人の行為等なりき」「先生は物に同情せんよりは、むしろ冷評するにおいて愉快を感じたるが如し」「先生の狭最、嫉妬、我執はその冷血の変体とも見るべきや。先生は党同伐異の念はなはだ強し、自己の門弟以外のものは容易にその美所を賛揚せず」「この他先生の性格に関する欠点を指摘すれば第一、衒学の弊あること、第二、猥りに人を罵りて、独り高しとする風あること、第三、自買自鬻(セルフアドハーチースメント)の痕著しきこと等なるべし」と、子規の「凶徳」を挙げていきます。 瀾水の卑怯さは、こうした子規の冷血さを例示するときに、虚子や鼠骨ら門人たちの名前をあげて自分の正当性を強調するとともに、子規を「先生」と呼んで、自らを生徒として位置付けていることです。こんなに嫌な人に教えを乞うていたのなら、さっさと門人の座から退いたらいいのにと思ってしまいます。 しかれども以上の美点は先生があらゆる諸徳の総高なり。これと反対に数多き先生の凶徳は如上の美徳と同様極めて猛烈に着色さる。もし予をして無遠慮に先生の肖像を描き出さしめば、恐らくは嫌悪すべき一人格の現出を見んやも知るべからず。けだし世俗の先生を実価より遥に過褒濫賞する所以は、二種の潰々者流が所為に帰納せざるべからず、一は駈け出しのホヤホヤ俳人にして先生に親炙したることもなく従て先生の性格に何等の智識なき愚俗なるが軽佻にも先生を賛美するを新派俳人の重要資格と心得え、薄き唇を反らしてややもすれば先生の病状に心痛の体を装い、読まざるに先生の文章を切り抜きて保存し、先生の名をだに署したるものならば、如何なる拙悪の句文といえど、勿体なげに首をひねりて感心す。その馬鹿々々しさ加減、猥褻なる本願寺法主の足下に跪拝する無智の媼爺の如し。故に予憤激してこの徒をお難有連と呼ぶ。彼等の心理状態は常情をもって到底解すべからず。一は先生が直門と自称する劣漢の一群にして、他に対して滑稽にも先逹風を吹すと同時に、先生に対しては、口に筆に阿諛諂佞至らざるを恐るるものの如し。以為楽、アハよくば先生の『お声懸り』を得て、自己の虚名を高め得んと、更にはなはだしきに至ては、先生の名を吹聴するによって自己の身に箔を付け、ならびに利を射るの方便とするものあり。故に名けてこの徒をお菰連という。心術の卑野を嘲るなり。前者は虚に吠ゆる犬の如く、後者は宗朝子が客の如し一は影に驚く愚人にして一は求む所あるために言をなす陋者なり、アア汗下なるお菰連、蠢味なるお難有連、何をか知らんや、先生に関する嘆美いよいよ繁うしてますます鵠に遠かるも、無理ならず、誠に片腹痛き哉。思うに先生の凶徳中、予をして最も不快の念に耐えざらしめしは、そのはなはだしく冷血なることなり。高浜虚子の如き、先生を崇拝して余念なきものなれども、なおこれを認め、寒川鼠骨の如きも、しばしば先生の冷血を予に語りき。先生が枕をそばだてて、時々きれ長き三白眼をもって客の面上を顧眄しつつ、最も満足げに説き出し来る話頭は、多くは厭うべき人身攻撃、もしくは他人の失策話、または嘲笑すべき愚人の行為等なりき。先生は物に同情せんよりは、むしろ冷評するにおいて愉快を感したるが如し。故に先生は人を採るにも、一面聴敏、なるものを愛好せしにかかわらず、冷笑的翫弄的に蠢愚迂拙の人物をも喜びたり、頓間なる面白不格好なる歩態の至粗野歯蒙に見る風采などは、如何に先生の冷眼に映じて、面白きものと現じけん。恁の如く怖に冷なりしも、先生は自己に対して決して他人の冷淡なるを寛假し得ざりき、勿論先生の病苦は人間の口舌をもって尽すべからざる甚深甚激のものなりしならんも、先生のこれを訴うるや、慰藉の詞を発するあたわざるまで、残酷に他の同情を搾り取り、なお滴足せざりしなり、先生の母氏令妹は日夜看護に怠りなきも先生はなお思いやりなしとて苦々しく叱罵せり。先生の狭量、嫉妬、我執はその冷血の変体とも見るべきや。先生は党同伐異の念はなはだ強し、自己の門弟以外のものは容易にその美所を賛揚せず。もし社会がある人の成效を嘆賞する時は、先生に取っては苦悶なり、負痛なり、故に悍然として立ち自己の心意に鎮痛剤を投せざるなし、則ち強て敵手の暗所欠点を描いて攻撃するなり、紅葉を罵り兆民を罵れるが如き、全くこれなり、なかんづく如上の凶徳は、先生の病痾漸重し、痛苦漸加するに従うてますます甚しきに趣けるを覚う、また先生の尊大倨傲を喜ぶやほとんど児戯に類せる虚飾をなす、例えば年少者に対する詞遣を特に横柄にし、あるいは門人の新古の等級に応じて手加減をなし、手紙を与るあり、端書を与るあり、全く与えざるあり、手簡中の文句の如きも、年少者に対しては勉めて尊大冷淡なるものを択び、絶えて融々たる真情の人を酔わしむるものなし、宛名の如きも殿と書し様と書し、種々の使い分をなす、実に先生ともあらんものがかくの如く噴飯すべき小刀細工を得意になさんとは思われざるなり、しかして先生は『俳人蕪村』中に蕪村の名特に冷淡なるを惜しみし程ありて、声誉に頓着すること一方ならず、些末のことなりとも神経過敏に感受す、彼の北越の俳士が奈古の浦とかいえる句集を出し、先生の怪しげなる肖像を挿みたるに憤慨したるが如き、その意必ず後世これを見て、あるいは先生を卑野俗陋の容貌をなせる田舎漢の如く、誤解するを恐れたるに非ざるや、あるいは先生の名を慕い筆蹟を乞うの新聞雑誌あるも、先生すべて与えず、陸羯南が亜鉛凸板を以て蕪村の『新花摘』を翻刻せんと欲し、先生肉第の序詞を請いしすら、謝して許さざりきという、しかれども先生は他人に文字を認めやるを厭えるにあらず、また自己筆蹟を板に付するを欣ばざるにあらず。おもえらく我かくの如くせば後人必ず我を異とせんと、先生の身後を憂うるつくせりというべし、予が言あるいは鑿に失せん。あらず、先生は一事一事細心に他の是非を喜怒するものなり。先生の希望はあらゆる手段をもって自己の美点のみを歴史に留めんと焦燥するに外ならず、かつ先生の自己を装うに急なるや、自己を妄に崇拝するものを喜び見、自己に意味なき賛美を奉る愚者の声に耳を傾く、先生は何にまれ媚びらるれば満足し、否らざれば忿恨す、かつて一雑誌を出して先生の和歌を詈れるものあり、後予先生に見えしに先生喜ぴざる容貌をなし、曰く汝某を知れりや彼は予を悪口せりと、鼻で冷笑せることありき、しかれども先生門下の俳歌人連は親疎を問わず、全く先生の礼拝者に外ならざるをもって、これに対する先生の態度は他の競争者に対するが如き苛酷冷淡なるものにあらずして極めて寛大親切なり、先生はその聡明なる頭脳をもって反復丁寧に教示し、自己の教義を十二分に理解せしめたり、故に根岸庵一回の運座に列るは、地方一月の修練に勝れりといわれたる程なりき、高浜虚子かつて先生を賛頌して曰く、正岡の人を導くや、人々の長所を認め、その長所について教誨すること、あたかも孔子の教育法に似たり、妙なるかなと、まことに先生にあっては謂うが如きものありしならん。しかしながらこの良教育を受けんとて、先生の学校に入れる生徒の報酬もまた不廉なりき、先生はあらゆる生徒に、馬車馬的崇拝を強いたり、先生の学校に通うものは、あらゆる世間の智識に耳を塞ぎ、先生の口吻に従って、世の名士名文を罵詈すべかりき、たまたま群を離れて、他の名士に交わる如きは、先生の刑法に照して、謀反の重罪なりしなり、昔時先生が股肱の門人某、某小説家を訪いたりとて、先生暴怒して止まず、不見識極ると叱り懲したることありき、また予が知れる某、先生の和歌の例会に出席する傍ら、某歌人と往来せしに、先生はなはだ不快なりしと見え、門弟某を使嗾して、彼に他歌人と絶交するか、もしくはこれを根岸庵一味の徒党に、引き入るべしとの趣を、勧告せしめたりという、これ先生が偏狭執拗なる半面なり。かくいえばとて、一向悪文字を連ねて、先生が死屍に笞たんとするにはあらず。予はただ公平に、先生を描けるのみ。細に考うるに、如上は先生の凶徳なりといえど、この凶徳の力、また大に先生をなすにあずからざるや、けだし寛大は美徳なりといえど、斟酌せすんば人を得るあたわず、嫉妬擠排は凶徳なりといえど、擠排せすんば与党を堅くすべからず、与党既に成る、味方を挙げ他を抑えざるべからず、味方勢を得ずんば何をもって自己の地歩をなすを得んや、しからばこれ先生の弊所にして、美所といわざるべからず、かつ古来世にある事業を建造するほどの人は、多くは先生と同じく、冷血、我慢、倨傲などの諸性格を備えざるものなし、温情、短気にてはことをなすあたわず、自信なければ遂ぐるあたわず、倨傲は則ち腐敗せる自信なり、腐敗せるはまことに厭うべきも腐敗せざる純潔の自信は聖賢にあらされば免れ難しとせば、必ずしも腐敗せるをもって独り先生に病むべからず。この他先生の性格に関する欠点を指摘すれば第一、衒学の弊あること、第二、猥りに人を罵りて、独り高しとする風あること、第三、自買自鬻(セルフアドハーチースメント)の痕著しきこと等なるべし。(若尾瀾水 子規子の死02)
2021.06.10
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明治35(1902)年9月19日に正岡子規が亡くなりました。10月、瀾水は大阪から由利由人が出していた俳誌「木菟(ずく)11月15日号」に、「子規子の死」と題する約1万字の文章を発表します。 この内容が問題になりました。多くの子規追悼文が子規の哀悼の気持ちで綴られていたのと異なり、瀾水の文は子規に対する罵詈雑言で埋められていたのでした。最初こそ、「予が子規子の訃を聞知せしは、本月二十四日なり。この朝晏起、食卓に就きまさに飯せんとす、家人新聞を読む、既にして驚いて予に報して曰く、新紙子規先生の訃を伝うと、予措愕箸を抛って立ち、新紙を熟覧すれば、果して然り。噫先生殁せるか、昔容恍としてなお耳にあり、遺教追うべし。黙然眼を閉じて瞑思すれば、不覚の涙潸然として数行下る。後二日、先生の病牀に侍するを夢む、先生なお活けりや、覚めて後かつ疑えり。すなわち旦に嗽ぎ室を払い浄几を設け、遺墨を展し、謹で先生の霊を祭る。香煙縷々先生が手択を燻ず、杜鵑再ぴ啼かず、雲外縦跡なし、惜しむべきかな」と子規の死にショックを受けたことが綴られています。 そのあとは子規の欠点を「つらつら子規子の為人を思うに、文士としては巨多の欠点を有し、個人としては一層多くの欠点を有したり、しかれども先生たる所以はこれらの欠点に超越して厳存す」と挙げながら、子規の偉業をなんとか賛美しています。そのあとは若き日の瀾水が見た子規の門人たちへの悪口です。 瀾水は、この時数え年26歳で、東京帝国大学法科大学政治学科に学んでいました。子規に接した時間が短く、若いために子規何者ぞとする批判的な部分が強かったのでしょう。瀾水が子規門に通った時期は、俳句よりも和歌や写生文に関心が移っていた時期です。俳句に関心を寄せていた瀾水は、子規の俳句の力量をもどかしく感じていたのかもしれません。また、エリート意識に加え、土佐っ子の反骨精神があったのかもしれません。そこで、誰もが俎上にしようとしない子規の欠点をあげて、自分が特別だと読者に認めさせようとしたのかもしれません。 まずは『子規子の死』の冒頭部分です。難しい言葉をやたらと使い、いくらか褒めている部分でありながらも、子規を自分よりも低い位置に引きずり落としたいという不遜な気持ちが滲んでいます。 次回は、ご紹介した文章の後の部分での悪口に言及します。 予が子規子の訃を聞知せしは、本月二十四日なり。この朝晏起、食卓に就きまさに飯せんとす、家人新聞を読む、既にして驚いて予に報して曰く、新紙子規先生の訃を伝うと、予措愕箸を抛って立ち、新紙を熟覧すれば、果して然り。噫先生殁せるか、昔容恍としてなお耳にあり、遺教追うべし。黙然眼を閉じて瞑思すれば、不覚の涙潸然として数行下る。後二日、先生の病牀に侍するを夢む、先生なお活けりや、覚めて後かつ疑えり。すなわち旦に嗽ぎ室を払い浄几を設け、遺墨を展し、謹で先生の霊を祭る。香煙縷々先生が手択を燻ず、杜鵑再ぴ啼かず、雲外縦跡なし、惜しむべきかな。 つらつら子規子の為人を思うに、文士としては巨多の欠点を有し、個人としては一層多くの欠点を有したり、しかれども先生たる所以はこれらの欠点に超越して厳存す。その精微透徹なる頭脳と、強大汪盛なる精力とは、相まって先生の人格をなせり。先生かつて予に語って曰く、予他長なし、ただ刻苦勉励してしかも怠ることなきの一点は、何人にも譲るまじと思う、故に予が技能中やや拙なからざるものありとせば、皆な一に勉強の賜なり、予は天才ある人の如く努力せずして巧なる能わずと、先生自らよく知れり、その性向の結果として、先生の思想は極めて秩序的論理的なり、しかして安息ぜざる智識の欲求と外来の智識に対する驚くべき消化力とを有す。高浜虚子曰く、正岡は徒爾に書を読まず、歴史を読み、地誌を読み、その他科学に関する書をひもとくも、常にある一定の見識をもって、これを判断しつつ理解す、故に一冊読み了れば、これに対する意見あり、予懶惰無学なれども、正岡の病牀に侍し、種々の話を聞くを楽めり、正岡の話は実に面白しと、またある時語って曰く、正岡が承久の乱に関する書籟を読み、東国勢上洛の有様を地図に引き宛てて論じ、かつ歴史が明記せざる、当時の情勢を揣摩描しつつ話しくれたり、正岡の頭脳は異常なるかな、紛糾乱雑せる古代の記録を秩序立て歴然掌を指すが如く明快に述べて興味尽きずと、先生の智識を求むるやまた勉めたりというべし。先生は多くの才人の如く自主自尊の念はなはだ強し、故に先生はすこしも助を他に侯ずして自啓自発し着々その思想を拡充しその見識を上進す、先生の頭脳は柱の時計の如し、躍進することなき代り、退歩することなし。中村不折かつて曰く、正岡の頑冥にはむしろ腹の立つことあり、しかれども彼のエラキは何程邪路に迷い入るも一旦豁然として醒悟し、従来固執せる繆見を打ち捨つる日、遅かれ早かれ必ずあるにあり、彼は独立独行の男ゆえ迷うにも困苦して迷い、悟るにも困苦して悟る。悟って迷うはあり、再三迷うて悟るものは稀なり。これ予が彼を取る所以と、不折や、麤糲を食うて不味なりとせず、梁肉を食うて甘しとせず、弊袍を着てか冠冕の間に立ち、自ら称して、予書画の外衣食翫好などにおいて一切嗜好する処なしと放言し、忍耐堅持、勉むることを解して、怠ることを解せざる恠物なり。思うにこの性格を有せる彼が先生を評す、当に先生が長所の一角を道破するにおいて遺憾なかるべし。しかして予が最も先生に異とする一事は、普通東洋の文学者に有勝なる放狂乱雑を嫌忌し、秩序を酷愛し、義務の観念の確立せるにあり。かつて先生を訪えるものはその家宅のコジンマリとして什具装飾品などの排置整然たるに気付かざるはあらざるべし、間毎々々奇麗に洒掃し、清き白布の蒲園の上に横臥せるを見ん、先生は病苦の間、しばしば湿布をもって皮膚の垢塵を拭い取らしめ、理髪師を呼びて寝ながら頭髪を刈らしむるなど、常に身辺の清潔に留意し、来客をして病者に対する不快の念をすくなからしめんとせり。故に先生が周囲にありてはあらゆるもの秩序あり、あらゆるもの清潔なり。先生が文草を草する時も絶えて枕辺に書巻の狼藉たるを見ず、その書冊は疲室の押入に秩序正しく彙類して襲蔵されたり。先生は実に勤勉、細心、秩序、清潔などの諸徳の権化なり。かつその文士たる天職に対して義務を感ずるや往々濱死の苦痛を忍んで筆を執る。日本新聞社主陸謁南ら諫めて曰く、卿少しく自愛せよ、猥りに短促して心血を耗尽する勿れ、と。依て新聞社より資を給して海岸の地に静養せんことを勧誘するも先生喜びすして曰く、予が筆を執らざるに至らんか、予において死と択ばず、いやしくも一日生を保つ、一日書ざるべからず、予に空しく生よと勧むるは死せよというと一般なり、のみならず、ツマラなき記事なりとも、毎日の新聞に、自己の文書を見るは、病中の楽事、実に愉快なるをや、かつ予に静養の地を与えらるる如きは好意謝すべしといえど、予が不潔汚穢なる東京の空気を忍てここに住する所以は、資力なきよりも日夕故旧の宋訪を辱するが為なり、アア予の友人に慰藉せらるる事いくばくぞ、友人なかつせば病余の羸躯は寂寞のために悶死せんのみと、先生また日本新聞社に籍をつなげたるをもって、その入社より死に至るまで始終力を尽してこれに報いたり、新紙の伝うる所によればその死に先つ二日前まで、病牀六尺の記事を続けたりというにあらずや。先生戯て曰く、予は日本新聞より給料を受けて生活す、故に『ほととぎす』などに書くようならば先ず日本に書かざるべからず、『ほととぎす』に書き『日本新聞』に書く、煩忙いちじるしい哉と。先生は義務を知れり、みだりに好む所に厚うすというべからず。先生すでに『ほととぎす』に執筆するに及び、また自己の職務を広廃せんことをおもんばかり、和歌に関する記事だけは、必ず日本新聞にて発表することとし、俳句俳論等は適宜二者の一に載することとせりという。先生が森厳なる義務の観念を有し勤勉知己に報ずること、おおむねかくの如し。(若尾瀾水 子規子の死01)
2021.06.08
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若尾瀾水は本名を庄吾といい、高知県吾川郡弘岡下ノ村(現高知市春野町)の富裕な郷士の家に生まれました。明治27(1894)年、京都の第三高等学校に入学し、在学中の明治29(1896)年に、同窓の寒川鼠骨より日本派の俳句の教えを受けます。同窓には、のちに修竹・秋竹と号する日本派の竹村修もいましたが、顔を知っているだけで、それほど親しく交際してはいませんでした。瀾水が親しくしていたのは永田秀次郎で、彼も鼠骨に教えられて俳句を作るようになり、初めは椋の舎と号しましたが、後に青嵐と号します。 当時、日本派の俳句結社は東京の子規庵句会、松山の松風会があるだけで、他の地方にはまだ俳会がありませんでした。大阪の水落露石が入洛した折、鼠骨は中川紫明を訪ね、話のうちに京阪在住の日本派俳人で句会を作ろうという話がまとまります。 その会に瀾水も誘われます。その句会は「京阪満月会」といい、以下のような規約がつくられていました。 京阪俳友満月会無趣意書 一、満月の夜をもって会し雨天にても構はざる事 一、遅くとも月の出まへ二時間に集会すべき事 一、会場には満月会と記したる大提灯を出し目印と致すべき事 一、会は興尽きざるも月の中せざる前に解散致すべき事 一、政談は月の西より出づることあるも禁制の事 一、酒肴はめいめいおのが飲みおのが食うほど持参すべき事 一、会費は満月に縁ある銀貨もしくは白銅貨をもって十五銭と致す事 一、会費は席料筆墨茶菓料の外、なお余りあれば協識の上まんまるき焼芋を買うことなどあるべし 満月会の第一回は、智恩院門前の茶店で開かれました。明治29年9月21日の仲秋名月の宵、京都の中川紫明(四明)、寒川鼠骨、竹村秋竹、若尾瀾水、徳美愛桜子、永田青嵐、遠藤痩石、大釜菰堂、寒月、大阪の水落露石、武富瓦全、永井鹿水、飯原翠竹、相田不落、松瀬無心(青々)、小西由挙とともに、郷里から上京する途中の高浜虚子が参加しています。 第二回は、10月21日に祇園花見小路の万花園で開かれました。露石、鼠骨、瀾水、雲僊、菰堂、嶋秋、蜻蛉、夢堂、椋の舎、四明が参加。 第三回の満月会は、大阪桜之宮下流の綱島鮒宇楼で11月15日に行われ、第四回は再び京都万花園て12月15日に開催されています。 瀾水は、仙台で佐藤紅緑が設立した日本派の句会「奥羽百文会」に入ります。主宰者であった紅緑が仙台を離れると会は衰退していきますが、重症の脚気にかかっていた瀾水が復帰すると、瀾水は中心として会の発展に努めます。明治33年には会員は40名に増え、この時期は「瀾水時代」と呼ばれるほどの隆盛を極めました。 明治33(1900)年、二高を卒業した瀾水は、東京帝国大学法科大学政治学科に入学すると、子規庵句会の常連となり、子規門下の俳人として注目を浴びるようになりました。
2021.06.06
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碧梧桐の俳句は、「新傾向俳句」と呼ばれます。これは、明治41(1908)年、大須賀乙字(おおすがおつじ)が『アカネ』誌上に『俳句界の新傾向』を掲げ、子規の客観的写生に対する象徴的暗示を主張しました。以後、定型を破り、季語さえも排して、生活に密着した心理的な描写を追求する俳句のことをいいます。この論文は、大きな衝撃を与え、碧梧桐の「中心点を捨てて想化を無視する」「人為方則を忘れて、自然の現象そのままのものに接近する」という「無中心論」や、のちの自由律俳句、新興俳句に大きな影響を与えました。 碧梧桐の門人には、実作よりも俳句評論に秀でた論客がたくさんいました。河東碧梧桐の門下として、乙字と喜谷六花、小沢碧童らは「碧門三羽カラス」と呼ばれます。また、中塚一碧楼、自由律俳誌「層雲」を主宰する荻原井泉水らの感性豊かな独自な俳句も評判になりました。 しかし、碧梧桐は新しい俳句の創造に歯止めをかけることなく、定型と季題を無用とする自由律俳句へと進んでいきます。 碧梧桐の冒険心は、止まるところわ知らず、そのために仲間たちとも決別していきます。「層雲」では、季語廃止に急進的な井泉水と意見が合わず、大正4(1915)年に「層雲」を去り、俳誌「海紅」を主宰しますが、その後、中塚一碧楼にこの座を譲ります。また、昭和元(1925)年には風間直得とともに「三昧」を創刊し、俳句にルビを振った俳句を試作しますが、これは俳句の本流とはなりませんでした。 昭和8(1933)年、碧梧桐は、還暦祝賀会の席で俳壇から引退を発表します。碧梧桐はその際に大阪毎日新聞の「自らを愛撫するーー俳壇隠退に際して」で「芸術の成立衝動とその存在価値に対する厳粛な批判は何よりもまず自己の芸術良心なんだ。……芸術良心の肯定せぬ批判を偽って、死ぬまでやれようはないのだ」と書いています。 結局、碧梧桐と若くして台頭してきた人たちとの距離が広がったためで、潔く俳壇との決別を決めたのでした。では、碧梧桐は、俳壇をさって何をしようとしたかというと、煎餅屋の開店でした。しかし、本人は真剣でしたが、家族や門人たちの反対にあい、計画は一向に進ませんでした。 昭和12(1937)年1月、碧梧桐は腸チフスを患い、敗血症を併発して、2月1日に64歳で死去します。 虚子は、この報を聞き「たとふれば独楽のはぢける如くなり」と詠みました。
2021.06.02
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子規がまだ命を永らえていた頃から、碧梧桐と虚子の俳句に対する考え方は異なっていました。碧梧桐は子規の革新的な面を受け継ぎ、虚子は俳句の伝統的な側面を持ちました。 子規が明治29年「日本人」に掲載した文学時評「文学」には、すでに「碧梧桐は冷かなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し。碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るがごとく、虚子の草木を見るはなお有情の人間を見るが如し」と書かれており、子規はふたりの特徴を挙げて、その違いを見抜いています。 子規の死後、その対立が表面化します。碧梧桐の「温泉百句」を虚子が批判したことから、「温泉百句論争」が起ります。虚子は、碧梧桐の新傾向俳句運動の過激な点である技巧に走りすぎることと、珍奇な句になりがちなことを明治36年10月の「ホトトギス」「現今の俳句界」でそのことを指摘したのです。 温泉の宿に馬の子飼へり蠅の声 碧梧桐 碧梧桐は最も材料の新しいのを好む。……その結果「温泉の宿に馬の子飼へり合歓の花」「温泉の宿や厩もありて蠅多し」というがごとき単純なのろい句では満足しないのである。 実景そのままを何の飾り気もなく叙したつもりで、馬の子には絵の声が調和するとかせぬとかいうことは考えるいとまもなかったのである。 碧梧桐は、子規が提唱した「写実主義」をさらに進めようとしたもので、そのためには技巧や新しい表現も積極的に取り入れるべきだと主張しました。しかし、虚子は情緒的で俳句の伝統を守るべきだと考えていたのです。碧梧桐は11月号の「現今の俳句界を読む」で反論、すると虚子は翌月の12月に「再び現今の俳句界について」を書きました。 俳句界では、新しい時代を目指す碧梧桐の方に人気が及び、虚子の「ホトトギス」は低迷を続けます。そして、碧梧桐は、新傾向時代を実現するため、 明治39年より数年に渡って全国旅行に出ることになります。これには東本願寺法主の大谷光演の資金援助により実現したもので、この旅の紀行は『三千里』として本になりました。 一方、虚子は明治41年8月31日、「国民新聞」に連載している小説『俳諧師』に全力投球するため、俳句を休止すると宣言します。このことで、「ホトトギス」はだんだんと文芸誌に足を置くようになりました。 虚子は、俳句に文学的な空想感を盛り込むことを好みました。そこが碧梧桐の写実一辺倒の姿勢とは異なっていました。また、変化し続ける碧梧桐と作風の安定を求める虚子の違いは「ホトトギス」という守るべき本のあるなしに起因しているのかもしれません。そして、虚子は「花鳥諷詠」の姿勢を貫きました。
2021.05.31
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子規が亡くなった後、9月23日に、俳句の選者が河東碧梧桐に継承されます。 日本新聞に「俳句の選者について」の題で「子規子は病中に在ても選句を怠らざりしが九月十七日の市場を最後として故人となった、ついては爾今は碧梧桐子を起して先駆の主任を嘱することにした。名節、虚子の諸君が助くるのは勿論である」という記事が出ました。 虚子は「ホトトギス」の消息に「ご承知のごとく碧梧桐君は日本新聞の俳句欄を担当され候。……碧梧桐君は目下忙殺の有様にて、したがって本誌編集のことは再び小生の担任となり申し候。読者に捕手はご迷惑と存じ候えども、彼の日本俳句欄は子規遺業中において第一指を屈すべきもの、そのため多忙なる碧梧桐君を、しいて本誌のために束縛すべくもあらず、一商賈たる小生は再び文壇に立ちて諸君に見えざるを得ざる境遇に立ち申し候」と書きました。 この文には虚子の自虐と皮肉があふれています。「一商賈」とは、碧梧桐ら数人の俳人が虚子を「俳諧師四分七厘、商売人五分三厘」と呼んだことへの反発で、ことさら「忙殺」「多忙」と皮肉を込め、碧梧桐をたたえているように見せながら、忸怩たる内面を覗かせています。 反対に碧梧桐は子規に代わって投句欄を担当することへの重責を感じていました。27日の「日本」に次のように書いています。○子規子がすでに死んだ後は誰にやらしてくれというような遺言をしておかなかったので(もっともそんな遺言は出来もすまいが)社の二三の評議で予が選句主任ということになった。○子規子の後に出た予は大関のあと二段目の出たようなものである。○投書家は予が不憫を憫んで、昔のように続々投書あらんことを希望する。 碧梧桐の心配通り、古くからの同門たちは「日本」への投句がぐんと減ってしまいます。碧梧桐はこれを自分への不信と捉え、新しい傾向を感じる俳句を選んで行ったのでした。
2021.05.29
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二十九 死後 辞世を書いて間もなく、電話をかけた虚子が来た。医者が親類へ電報でも打った方がいいだろうと注意したが、二人はまだそれ程さし迫った状態のような気がしなかった。今まで幾度か狼狽させられた経験が、容易く危篤感を受け入れないのである。ただ主な松山の親類にだけ葉書を出す事にした。 子規は昏々として眠ったり醒めたり、別に非常時らしい気合はなかった。二、三の来客も、それでもただならぬ部屋の空気に圧せられてか、皆、長坐せずに去った。 午後五時前後であった。病人がまた苦悶の声を上げ始めたので、モヒ頓服をしたが、それがまた功を奏しないと言って、叫喚号泣、酸鼻の場面になった。主治医へ電話して、その来診を待つまで、ただ手に汗を握るのみであった。 宮本主治医は、さまで重大事する様子でもなく、また注射しますかな、三十分前にモヒ頓服した旨を話しても、ただ「イエ」。病人は、それでも宮本主治医と、か二言三言応答した。そうして、間断なく悲鳴を挙げるのである。「今に楽になりますよ。「そうで…あ痛ッ…糞ッ…。 さすが主治医も、もう応答の余地がなかった。また周囲に居る者を捕らえて、病状報告の余裕も無かった。 凝視と胸の鼓動が、病人の上に死の如き沈黙を翳すのであった。 注射後頓みに静かになって、すやすや眠るようになった。私は「ほととぎす」の校正が迫ったので、この間にと子規庵を出た。今朝からの重圧を解法されたような気になると同時に、明朝はまた、昨日は騒がせてすまなかったな、と朗らかな顔している子規を見るだろう予測を描いて、伸び伸ぴした心持になった。そんなことを言ってわるいが、また狼来れりと、独りで首肯くのでもあった。 校正が手間取って、夜遅くもなった。明朝、見舞うつもりで、子規庵から帰って来た姉に容体をきくと、ウーウー時々唸るような声はするが、まだ熟睡しているとのことであった。私の予想などを話して、寝についた。 草臥れてグッスリ寝込んでいる処を叩き起こされた。虚子の声で、「升さんお死にだよ」と言った。アタフ夕着替えて、子規庵に来た。余りよく熟睡しているので、虚子も寝かせて貰ったが、起こされて見ると、もう子規は冷たくなっていた、とのことだ。余りのことに、涙も出なければ、挨拶の言葉も出ない、呆然としてただ枕頭に坐ったままだ。ただ駆け付けて来る中、十七夜の月が、磨ぎすました刃のように、冷たく凄く皎々としていたことが、何か子規の死と因緑づけられたもののあるような、ポンヤリしたことが頭の中を往来していた。 やがて陸翁が見えたので、三人しめやかな後事談に入った。成るべく故人の意志を尊重するたてまえで、近郊のお寺に土葬するため、道潅山辺のお寺を選ぶこと、すべてを質素内輪にして、死亡通知も、親戚親友の範囲にとどめることなど大体の方針がきまった。あとで知人名簿などを開いているうちに夜が明けた。 虚子は「ほととぎす」に死亡通知を間に合わせると言って出掛けた。 宮本主治医から、石炭酸、硼酸水、包帯など持って来て、屍体を始末するとのことであったが、居残った私らにしては、どうもいつまでも、病臥のままの姿を見守っているに堪えなかった。いまだに号泣苦悩したままの寝姿で、脚部の方は、半分布団から食み出したような姿勢であった。それは病間の中央を占めて、一寸触っても声を立てそうな様子でもあった。「どちらかへ片付けましょうか。 とは言ったが、それといきなり手は出せなかった。「さよよ。 おばさんとお律さんと私と三人顔見合わせて、しばらく言葉のあとがつづかなかった。始めて胸へこみ上げて来る熱いものを感じるのだった。「そうよなア、このままじゃ… おばさんがそう言われてから頭の方へ、お律さんが裾の方へ。ともかく斜かいになった身体を真直に直さねばならない。静かに枕元へにじり寄られたおばさんは、さも思い切ってという表情で、左り向きにぐったり傾いている肩を起こしにかかって、「サア、も一遍痛いというてお見。 かなり強い調子でいわれだ。何だかギヨッと水を浴ぴたような気がした。おばさんの眼からは、ポタポタ雫が落ちていた。お律さんも瞼をしばたたいて伏目になって…。「サアネそちらも早ヨおしんか。 おばさんに励まされて、どうやら真直に布団に寝た形になった。少し北寄り、ずっと東の襖の方へ、布団ともずらした。「どうも長い間お骨折りでしたが。 そんな御挨拶はこの際口には出なかった。また「長いことお世話になりましたが」そんな辞礼を言おうともされなかった。 私は昨夜「ほととぎす」の校正を終わって後ー当時、活版所は神田の熊田というのであったー帰途宮本に寄って、同国手にも会い、まだ四、五日は異変あるまいとの事に安心していた話などをした。モヒ剤のあとすぐ注射した、それが病体にきき過ぎたとでもいうのであろうか、と話し合いながら、升さんにはお気の毒であるが、もう一遍「アッ痛ッ」とか、怒鳴るのでも怒るのでもよい、正気づいた声が聞きたかった、というような一つの思いに押されて行った。そう言えば、何時頃であったか、一度眼をさまして、牛乳でも飲もうかという、余り元気な声でも無かったが、もう食欲が出たというので何れも安心し、すぐゴムの管付きをもって行くと、一杯だけ快く飲んで後、至極落ち着いた声で、「誰々が来ておいでるぞな。 と言った。あれが子規の言葉として最後のものであろうとのことだった。お律さんが、丁度枕頭にいた虚子、鼠骨、私の姉の名前を答えられたが、その後また前後不覚に、うつらうつら眠ってしまったとのことだ。子規が大往生を遂げる三、四時間前のことであった。 一体子規という人の精神は、何処まで正確で透明であったのか。注射をしたから昏睡状態に入ったが、もし注射をしなかったら、阿鼻叫喚をつづけつつ、やはり九月十九日午前一時頃幽冥境を異にしたであろうか。 名僧の中には、自分の死期を何時何分とまで明言し、その時に合掌しつつ眠るが如く往生した、などというのがいくらもあるが、それが果たして何処まで真実であるかは保証し難い。そういう坊さんも、おそらく子規のように、病気のため精神をそこなわれず、錯覚や昏睡の微塵もなかった状態をいうのでないかと思う。もし子規の号泣怒号するのをそのままに看過していたとすれば、卒然として「馬鹿ッ糞ッ」で言葉を断った、それが子規の大往生であったというようなことになりはしなかったか。怒号しつつ子規は死んだ、という大結末であってもいいような気もする。それは名僧の死期を知って、眠るように逝くのと同じことなのではないか。私はそんな瞑想にも耽っていた。 いつか蕪村忌の大勢で撮った写真の裏へ、「碧眼録」の物真似だと言って、 お前方みんな腹の空いた奴ばかりだ、俺の小便で頭を洗って来い。 とか何とか書いたことがある。また一つへは、 お前一人か連衆はないか、連衆あとから汽車で来る、その連衆に懐中をスリ取られるな、芭蕉蕪村掏摸の親玉。 とも書いた。その通り、我々はその小便で頭の洗いようが足りなかった。掏摸に取られてばかりいた我々なのだが、また一人子規という親玉が増えたことになった。 小便で頭を洗うと言えば、もう洗うにも何にも、溲瓶もへったくれもなくなってしまった。今まではこちらで洗いたいと思えば、いつでも用が足りた。それを思う存分洗わずに怠けて過ごしただけなのだ。いくらか懸命に洗いたくなった時には、その小便はもう水の手が切れたのだ。笑い事じゃない。お前らどうでも勝手にしろ、と突き放されたのだ。頭の洗濯はして呉れる、甘い餌さを飼って呉れる、こっちへ来い、そっちへ行くなと手を取って呉れる。痒い処へ手のとどく、着物の着ようから箸の上げ下ろしまで世話やいた、その命の綱とも頼む者が無くなったのだ。一人立ちの出来ない、よろよろした日蔭の蔓草で取り残されたのだ。我々はどうすればいいのか、イヤどうなれと言うのか。 何も今に始まった事ではなし、とうからこうなる運命を忘れていたのではない。ちゃアんと心得てはいたのだ。さて事実がこうなって見ると、事前の予想と、事実への直面とは、また別な迫真力が違う。もういよいよどうにかしてくれる、何とかなるだろう他力本願は言えなくなったのだ。ここで我々がヘマをやろうものなら、第一に故人を辱める。俳道が闇になる。と、いうより我々そのものが丸潰れになるのだ。 芭蕉の歿した後のことを考えて見るがいい。蕪村の死んだその後を見てもわかる。元禄から宝永享保となって芭蕉の息のかかった連中が、世を去ってしまう頃には、もう俳道は真闇、月並の南風吹き荒んだではないか。芭蕉の息のかかった連中にしても、本尊歿後間も無く、アヤフヤな俳論をして、もう帰趨に戸惑いしているではないか。そう言えば、去来、丈草、其角、嵐雪、許六、支考、十哲じゃの何じゃのいうが、やはり我々同様日蔭の蔓草であったのかも知れない。蕪村の後はと言えば、召波、几董、大魯は早死にしたが、月居のような秀才視された奴が、化政時の大宗匠になりすましているではないか。子規歿後!、それは我々の事なのだ。我々の頭の上には、もう大きな大きな、重みを持った、月並の笠が落ちかかっているのだ。それを着なければならない自然の運命のように。思えば思うほど重大な事変と直面している自分であることにおののかれるのだ。 瞑想は瞑想を生み、妄想は妄想を胎んで、いつまでも果てしがない。「宮本さん、遅いな。 おばさんの言葉に、ハッとして、それから我々で始末をすることに一決した。まもなく大勢のお悔やみ客が来るであろうに、このままでは我々の方でいい感じではなかった。 私は表へ飛び出して、繃帯と石炭酸と脱脂綿をウンと買って来た。腰から下を包んでしまって、一切臭気のしない、清らかな感じにするには、五本や十本の繃帯では足りないと思ったのだ。 患部を御存知のお律さんと二人で、先ず存分に石炭酸を撒くようにふりかけ、それから脱脂綿をあて、繃帯を巻く手順のため、足を持ち上げた時に、覚えず我々の面を打つ意外なというより、不気味な事実が突発した。 こんなことを書いて、読者諸君に気味の悪い、イヤな感じを与えるのも本意ではないが、子規の病体がほぼどんなものであったか、約五年釘付けになった病床が、どんな影響を与えたかの一端を語るものとして、ただ一言、丁度雪隠で見るような尾のある虫が這い出した、ということを御報告して置きたいのだ。 私は前に、子規は肉体に生きず精神に生きたことを述べたが、如実に、子規の半身は疾くに腐乱していたのだ。生きていたのはただ上半身だけだったのだ。私は改めて、半身を蝕まれても、さらに減退しなかった、生きる力の強固さに打たれるのであった。 胴からかけて脚まで、すっかり織帯の木乃伊のようにして、顔や手には湯潅をし、布団を改め、衣を代え、初めて正常な仏様になったような気がした。 北枕にして、線香台、一本の楷、懐剣一振、一通り体裁の調った処へ、瓢亭、鳴雪、四方太、古一念…いつの間にか故旧堂に満つることになった。 鳴雪を座長にして、戒名は「子規居士」に定まり、田端大竜寺を新たに菩提寺として、墓地見聞を済ませ、葬儀の日取、当日、各部署の分担、追悼句会の決定等、すべてすらすらと運んだ。なお墓穴には、棺上に墓志銘として、永久不滅の物を入れる事にしたが、かつて子規自ら作った墓志銘のあることは、当時まだ判明していなかったように思う。で、「子規、正岡常規、慶応三年九月十七日生明治三十九年九月十九日歿享年三十六」の三十五文字を刻むことにした。 十九日の御通夜は、ホンの親近の五、六名に過ぎなかったが、翌二十日の夜は「日本」の同人、俳句和歌の連中等二十余名、談笑平日の如くなるべしの遺言通り、各所に旧事近状の故人を偲ぶ談笑尽きず、子規もまたその席に在るかの感があった。 二十一日の葬儀は白張二対、野花一対を先頭に、百五十余名の会葬者粛々として、根岸庵より徒歩、田端天竜寺に着。かたの如く読経焼香を終わって、「正岡常規墓」の墓標を新たに仰いだのは、丁度午前十一時頃であった。私は先着の準備係として、大竜寺門前に「正岡寺」の三字を書した紙を貼付した。 初七日の法事、弔文、弔句、弔歌、香霙等の恵贈者に対する挨拶。四十九日の法要追悼会等歿後の諸事ほぼ結了して、そうして我々に残されたものは、日に日にまさる寂真の感のみであった。 子規歿後約一ヶ月を経て、「日本」の文苑俳句襴の選を私にやれとのことだった。子規遺業のうちで、重大性を帯ぴていたとでもいうものは、先ずこの「日本」の俳句襴であった。表向きは、虚子は「ほととぎす」をもっているからという理由に過ぎなかったが、「ほととぎす」を継続してやるということより、「日本」を継承することは、遥かに重大な意味を持っていた。 子規のような人であるから、あるいは意中の人を作っていたかも知れぬ。自分亡き後は、誰を選者にすると、内々漏らしたことがあるかもしれない。が、我々には、一切そういう問題に触れて話したことはなかった。またわれわれにしても、誰が後継者になろうと、一向念頭にもおいていなかった。おおかた「日本」の方にも、内意が漏らされていなかったので、従来の関係をたどって、私を指名するーまたは虚子を指名するー外なかったものらしい。 この際「日本」の選者になることは、言うまでもなく、名誉に伴う苦難の焦点であった。社会的にも文学的にも、身の安全無事を希う者の、容易に立ち入るべき位置ではなかった。世の諺にも、亡くなった奥さんの後入りには嫁ぐなという、偉人の後を承くるもののすべてが凡人視されるのは当然のことである。まして無限の信頼のかけられた子規一代身上の俳句である。如何に猪突的な私でも、一応は考えて見ねばならなかった。 もし子規意中の人であったと仮定するなら、それを途中で奪うようになるのは望ましくない。意中の人の有無は別として、従来の歴史や位置が私に幸いしたと思われるのも余りいい心持ではない。大いに子規の後継者顔をして勤勉これ努めたにしても、結局「成っておらん」不名誉を克ちうるのは、なおさら好ましいことではない。と言って、ただ子規の後塵を拝して、どうやらお茶を濁してる程度と思われるのもいささか癪だ。 これまでの子規直系の作家に、どうか宜しくお願いします、と投句の憐れみを乞うのも不面目なことだ。もし私がこの選を辞して受けなかったら、それでは誰がやる、というより、社の方では、きっと生意気を言うとせせら笑うだろう。一体この「日本」の俳句襴は、今では子規派というより、日本の俳道の中心と言った、公的性質のものになっている。早い話が、今後誰がやるにしても、その公的性質を傷つけたり、その価値を滅殺するようであれば、公選的にその選者を交代せしめてもいいのだ。我と思わん者は、俺がやると自薦運動をしても、いい位のものだ。また一旦引受けてやって見ても、自己批判で面白くないとなれば、さっさと旗を捲いて引き下がればいいのだ。何もそう子規の声望と信頼を重大に見て、躊躇送巡するに及ばない意味もある。どうせ子規のように、抱擁性の大きさも選抜眼の鋭さも、我々に具わらないのは知れきっている。偏ったものであろうと、局部的のものであろうと、文学的レベルの上に活躍してさえおれば、もってその任を果したと言い得るのだ。あえて子規の管見を批評するのではないが、この一、二年「日本」の俳句襴は多少ダレたとは、私のみでなく、一部の人士も認めている。子規の健康の障害によるものと想像されるが、たしかに三四年前の溌剌味を欠いていることは争われない。ことに子規の永久の死は、この沈滞気分に一層の暗影を翳しはしないか。 私はこんなことを考えている間に、幾分気分の軽くなるのを覚えた。そうして、この任に当たって私のベストを尽くすことが、とりも直さず子規への報恩の第一であると思うようになった。 おそらく子規は、俳句の前途がどうなるものか、帰趨の如何に多少の不安を抱いていたであろう。我々門下生の今後にも、必ず破端百出の危惧を感じていたに相違ない。その不安と危惧を、最少程度でも取り去ることが、結局後に残されたものの第一の務めでなければならない。それがまた、監視者のなくなった我々個人としての今日を処理して行く、生活のモットーでなければならない。「ナア升さん、アシに「日本」の選をやれというのじゃが…。「まアそうじゃろうな・・・おやりや。 私は何心なく、子規とのこんな応答を夢のように描いて、一応子規の承認を得たいような、また得たような淋しく不安な気持ちを心にくりかえすのであった。
2021.05.27
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