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🔴 福田未来 natsuco & TROT GIRLS JAPAN 1
E 【エネルギー・資源・環境】 原発・太陽光発電・原油・水 101
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【YouTube】Old Polish tango in Polish and Hebrew: Graj skrzypku, graj!https://www.youtube.com/watch?v=wEL0RL_bBkw&list=RDMM&index=1
2021.02.07
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ーーー 複刻記事 ーーー 幽霊駅 そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅があったテーマ:考えたこと 想い出したこと 読んだ本(329)カテゴリ:【東欧】での想い出ちょっと趣を変えて、旧共産圏の東ドイツでのビジネスの話です。この話は以前にも書いたので、一応【復刻日記】とも言えますが、東西冷戦が終わって、もう時効となったので、今なら書けることもあるわけで、かなり書き足しをしています。 □□□□□□□□ ドイツが東西に分かれていた時代の事です。 私は東ドイツ(共産主義体制の方のドイツ)と、ある工場施設の輸出商談の交渉をしていました。 日本側は私の商社とあるメーカーがチームを組み、商社のリーダーは私でした。 相手側は、東ドイツの貿易公団です。 貿易公団も一種の商社で、最終的なユーザーは東ドイツの工場。 私が滞在していた頃は、ベルリンもまだ西ベルリン(西側)と東ベルリン(共産圏側)に分かれてました。 私の会社のオフィスのある西ベルリンから、オフィスの無い、客先の東ベルリンへ毎日通勤?していました。 毎日の交渉は、朝9時から、夕方6時頃まで、びっしりです。その内容を東京に報告するそれは時差があるので主にファックスでやっていました。それに対して、折り返し返ってくる東京の返答を、翌朝、受け取らなければいけません。その返答の内容とは、メーカーからの技術的な解答だったり、客先に示すプラントの部分の値段だったり、様々です。 東京への詳細な報告書を書くだけで2時間ほどかかります。だから、時間的なことを考えれば、もちろん東ドイツのホテルに宿泊した方がいいのです。しかし、それを東ベルリンのホテルでしていたのでは、盗聴している東ドイツ側に情報が筒抜けになります。だから、毎日、交渉が終わったらいったん西ベルリンに帰ってから、深夜、交渉の報告を東京にファックスで送ったのです。 翌朝は、東京からの返答のファックスを見て、東ドイツの客先に向かう。これは睡眠時間がほとんど取れない、厳しい毎日でした。 ~~~~~~~~ 東ベルリンの雰囲気は華やかな西ベルリンから180度ちがっていました。だいたい中欧・東欧の冬は、日も短く、雲が低く、昼間と言えど夕方のような薄暗さ。 温度も零下10度程度の厳寒です。それよりもなによりも、当時はまだ東ベルリンから西ベルリンへの脱出者がいたころでしたから、国境や駅は、非常に暗いし、東ドイツの完全装備の兵士が大勢立っていて、実に重苦しいものでした。 電車で西側から東側に入る寸前、高架の上から川沿いに伸びるいわゆるベルリンの壁が見えて来ます。 壁の周辺は地雷原になっている事が多く、ここで脱出を試みた多くの人びとが射殺されたのです。 中には西側にトンネルを掘って脱出した人々もいます。そんな題材のドイツ映画「トンネル」という映画があるそうですが、私は未見です。 「寒い国から帰ってきたスパイ」「第三の男」 鉄のカーテンをめぐるストーリーの映画も多いですね。 通勤と言っても暗い雰囲気の東ベルリンの駅に到着してからパスポート・コントロール(入国管理事務所)でONE DAY VISAをもらい、税関を通り抜けるまで、それだけで片道たっぷり一時間かかるのです。ホテルからのDoor to Door なら、片道二時間以上かかるのです。 ~~~~~~~~ビジネスの面でも東ドイツの人間は、これ以上ないほどのハード・ネゴシエイターで、そういう相手と厳寒の中、通勤を含めて朝から晩まで、受注の見込みが見えないまま数ヶ月ハードなネゴ(交渉)をしたのは精神的にも肉体的にも辛い経験でした。 客先で出してくれる昼食も、固い食パンにサラミとピクルスをのせたオープンサンド二枚と、ガス入りのミネラルウォータ、それに紅茶だけというスパルタンなもの。面白かったのは、東ドイツ側の人間は、このオープンサンドをナイフとフォークを使って、切って食べていたことですわれわれも、なんとなく、この食事法を真似るようになりました ~~~~~~~~そんな長いハードネゴが延々と続く中、ある日相手側の部長(女性)が、休日に博物館見物に誘ってくれました。 実はこんなに長いあいだネゴをしていても、競争している会社の状況がさっぱりわからず、だからといって公式のネゴの席ではとても聞けるものではなく、困っていた私たちに彼女がチャンスを与えてくれたのです。どういうことかと言いますと、私たちに同情した彼女が博物館の中で人混みに紛れながら何気なく会話をする中で、少々のヒントをくれたのです。スパイなどが情報を渡す場合もあえて公衆の中でメモをやりとりする事が多いようです。 博物館の群衆の中でなら、東側の当局に怪しまれる事があまり無く、しかも、私達の会話を聞き取る事が出来ないような。そういう場所を選んでくれたようです。 ~~~~~~~~ 長い長い商談が大詰めにさしかかって(少なくとも私たちはそう思っていました)、そろそろ契約調印かと私たちは思った私は、本社の取締を呼んで、ライプチッヒの見本市期間中に調印すべく待ちかまえていました。しかしながら、その商談は、最後の最後の段階で、予想外の思わぬ出来事が起こりました。 東独では毎年、夏にライプチッヒで大きな見本市が開かれます。 契約の調印は、その当たりらしいという情報が入っていたので、私は日本の本社の取締役を呼んで、調印式でサインしてもらう手配をしたのです。サインのための高価な万年筆も購入しました。 取締が到着して、東独の貿易公団の人間に挨拶をしていると、ある党幹部が突然現れました。 彼は初対面の人間ですが、彼からの自己紹介で、数社ある貿易公団を総括するトップの人間であることがわかりました。その席上で、彼はなんと、当社の取締に、公団への寄付金を要求したのです。あとで聞く話では、その種の「寄付金」は、公団の秘密資金に回されるのだと言うことでした。 多分、そうなんでしょう。 日本の役所もやっているような。 悪いことに当方側の取締役は、営業出身ではなく、ずっと総務・人事畑を歩いてきた頭が特別固い人で、先ず含みを持たせた返答を相手側にして、時間稼ぎ、様子見をすればいいものを、この要求をアッサリはねつけてしまい、後で考えれば、ここで実質的に当方の敗北が決まりました。 取締役は面子をつぶされたと言い、私は叱責を受けました。これで私の出世は無くなりました。(笑)それまで、中東で、数件の巨額のプラントを受注していたのにね。(笑)商売が生業の商社にも、中には、こういう、どうしようも無いセンス皆無の人間がいて、しかも、そういう人間が取り締まりにまでなったりするのですから、かないませんこの取締は、当社のインドネシアビジネスの話をよく聞かされていて感心していたとのこと知っている人もいるでしょうが、インドネシア・ビジネスというのは、いわば、賄賂のビジネスですどこの商売でも賄賂は多かれ少なかれありうるものですが、インドネシアのビジネス慣習には、賄賂がしっかり組み込まれていて、日本のみならず、各国も、そんなビジネス慣習の中で商売をやる訳でしたがって、客先とつーかーの仲になれば、利益率の大きな商売が出来ますこの取締は、この最も過酷な東欧商売に、インド遠視阿南の大きな利益率の商売を期待していたのです ~~~~~~~~ 東独側の貿易公団も、私たちを担当していた公団の他に数社あったのですが、このプラント・プロジェクトに関しては、ライバル公団の方が政治力が強く、、我々の見積もり条件や価格はライバル・グループに知らされていて、現状としては負けらしいという状況がわかったのです。 東独側は、それまで長い間、われわれと真剣に交渉しているふりをしながら、われわれから技術資料を始め、あらゆる情報を入手して、その一方で、本命の某社と契約する予定だったのです。そういえばあの女性部長も、私が「調印式のために取締役を東京から呼ぶ」と彼女に告げたとき、彼女はなぜか?「呼ばなくてもいいのではないか?」と、少し微妙な、気の毒そうな表情をしていました。もし、私が、もっと鋭ければ、この時に我々の置かれたポジションを察することができたかも知れません。いや、やっぱり無理だったかな? ~~~~~~~~まあ実際のところ、それまでの超ハードネゴで、当方の採算は赤字ギリギリとなってしまっており、その後東独側から要求された東独事務所の新たな設立などを飲めば、さらに赤字が確実でした。それまで私がリーダーとして受注した数件の中東プロジェクトでは、すべて何億円という大幅な利益を出しており、担当メーカーの工場も、○○景気と呼ばれる利益を享受していたのですが、この共産圏の商内は、全く様相がちがいました。 東独商内のノウハウを持っていなかった私、および我が社の限界でもあったのですが、それは東独にプラントの実績がほとんど無かった我が社の限界でもあったのです。 一般に共産圏のメーカーとのビジネスは、一件のみでは利益が出ないもので、数件まとめて、トータルで、だんだんうまみが出てくるものだったようです。はじめの一件は赤字でも名刺代わりに受注し忠誠心を示し、事務所を設置してから、いろいろな関係が構築され、相互のあうんの呼吸で、利益の出るビジネスが与えられた様です。 別の言い方をすれば、双方が癒着することにより、双方に利益がでる。 癒着は共犯ですから、共犯の仲間意識が出てくる。そこまで信頼感?共犯関係を勝ち得るまでが大変なのです。 今考えれば、中東が主戦場だった私は、ビジネス・ノウハウが全然異なる共産圏のビジネスに手を出すべきではなかったのです。 ~~~~~~~~~ 話は変わりますが、共産圏の国の中では、訪問してみると、やはり東ドイツが一番緊張感がありました。 国民性・優秀性もその原因。、 逆に言えば、いろいろな事情で怖かったという事です。その後の共産圏でのビジネスでは、その他の国々でも、ちょっと怖い体験はいろいろありましたが。 何度か、スパイ、またはその手先らしき人物から、電話や実際のコンタクトがあったり。 ~~~~~~~~~ 閑話休題そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅というものがありました。 東西を区切るベルリンの壁の下あたりに駅があるのですが、その駅は東側から西側への逃亡を防ぐため閉鎖されていて無人、もちろん停車もしません。そのまさに幽霊のような暗い無人の駅を地下鉄で通過する時など、実に陰惨な雰囲気でぞっとしたものです。 ~~~~~~~~~ 少し前に東ベルリンを訪問した時には、昔の暗い雰囲気がガラッと変わって、西欧化していました。あの幽霊駅も、使用されているということでした 今となっては、あの暗く重い空気の東独そのものも無くなってしまって、私の想い出の中に残るだけです。あの幽霊駅のように、通り過ぎる時に見えるだけで、実際には下車できない想い出のような。こんな事を書いていると、いろんな記憶が、チリチリとした冷気と共によみがえってくる様な気持ちになります。 「寒い国から帰ってきたスパイ」こういう題名のル・カレの傑作スパイ小説があって、映画にもなっています。この想い出記事では国際ビジネスの裏側をかなり詳細に書いた今は亡き東ドイツ私にとっては、苦い想い出の国である
2018.05.09
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以前の想い出記事の続きである書き直しでもある昔のことで、いろんな事があったなぜかこの思い出話ではただあったことを思いだして書いているだけなのだがこのブログの読者にはあまり興味がわかないことだろうがその想い出をうまく整理して書けない散らばったものを拾い集めて整理しまとめるそんな感じである意味の無い、私だけの個人的な想い出なのでこうなるのかも知れない今回も、最後まで書けないまま次回に持ち越しであるいつ終わるかわからない(笑)今まで私は、思い出話は、一話完結で書いてきたのにこんな途切れ途切れで、繰り返しの尺取り虫のような書き方は初めてであるでも、こういう書き方も、あり得るかな?カタルーニャのジュディス 東欧での夏の想い出 カテゴリ:【東欧】での想い出 若い頃の話だがポーランドに短期滞在していた時期があった東欧には珍しく、プラント案件(繊維工場)が二・三件、あって出張していたのだが せっかくだったので、ポーランド語を習得してやろうと ワルシャワ大学の外国人向けのポーランド語の夏季短期講座を受講した場所は市内のワルシャワ大学の構内の校舎のひとつ校舎と言っても、大きくて古色蒼然とした宮殿風だった その校舎には、昔、若い頃のショパンが音楽講師だった父親と家族と共に住んでいた事がある、と、聞かされたが講座の申し込みのために中欧や東欧独特の広く緩やかな階段を上っていったまるで甲冑を着けた中世の騎士が昇りそうな雰囲気である古い建物なので、階段にも廊下にも照明などはあまり無い がらんとした大きな部屋の窓際に大きな机があって若い女性が座っていた そばに秘書の様な中年女性が少し小さめの机の前で座っていた近づいていって、ポーランド語の夏季講座の申し込みの部屋はどこか?と英語で聞いた まだ、ポーランド語などはしゃべれないので英語である すると、その女性が「ここで受け付けます」と英語で答えた 柔らかく微笑するでも無く少しすました表情である そこで受講の手続きをした講座の開始の日が来た講座は、夕方の時間に始まる教室に入ってみると、十数人の受講者が着席している ほとんどが白人だが、数人、東洋人や黒人もいる男女の比率は、男性の方が多そうである まもなく、講師が入ってきた驚いたことに、あの受付の(笑)若い女性である受付の女性と書いたが受け付けてくれただけで受付の女性では無かったややこし言い方になるが(笑)だだっ広い大きな部屋の大きな机に座って横に助手らしい年配の女性が小さな机で座っていたので彼女は、このワルシャワ大学の教授、またはそれ相当の地位の人だったのであろう初授業開始の前の簡単な自己紹介でわかったことだが彼女は、このワルシャワ大学では無く欧州でも最古の大学のひとつでワルシャワ大学より格上の(笑)クラクフ大学の日本語科を御卒業された才媛なのだ、という事がわかった才媛と書いたのは、クラクフ大学卒だから優秀なのは当然だが頭がいいだけでは無くて同時に美人でもあるので、そういうのを才媛というのだ(笑)しかし、彼女私が講習の申し込みをしたときにはかなり無表情で必要最小限の会話にとどめ私が日本人である事はわかっていたはずなのに「あら! 私、大学では日本語専攻だったんですよこれもご縁ですから、ちょっと、お茶でも如何?」ぐらいどうして言わなかっただ?大きな部屋を与えられている教授様なので威張っているのか?と言うのが私の気持ちであったお茶云々は余計だが(笑)言い遅れたが(笑)彼女は、繊細な感じのする美人だった絶世の美人、と言うほどでは無いが一般的には、誰もが美人と思うであろうクラシックな美貌で色白ではあるが、雪のように白い、と言うより透明感のある皮膚をしていた授業では、私を受け付けた時のように、あまり表情を変えない人なのだがそれはどうも、無理にそうしているようでときどき、精神的な動揺を隠せない所など感受性が強い女性である事がわかる ーーー 続く ーーー
2018.02.13
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「共産主義経済は、なぜ、資本主義経済に負けたのか?」こう言うテーマの記事を書こうと思っているがその前に、まず、共産主義の基礎知識として共産主義国の経済の中で暮らした私の実感を下記の過去ログによって、知ってもらおうと思うただし、この記事において私は共産主義体制での個人の生活が希望や可能性が皆無であるが故に、かえって無責任でノー天気で、楽な側面がある・・・と、肯定的とも受け取られかねない書き方をしてしまったまた、食料品などが根本的に不足しているので食料品の買物には、行列に長時間並ぶなど過酷な状況があったそれらを書き漏らしたこれは、反省材料その点を考慮しながら、読んでみてほしい ーーー 復刻記事 ーーー共産主義国で暮らすとこうなるカテゴリ:【外国】での想い出 共産主義国で住む人間の生活実感 別に共産圏ビジネスは本職じゃ無かったんだけれど、共産圏諸国でかなりの期間、暮らした実績のある人間として、当時の、つまり昔の、共産圏で暮していた人間の俗な実感を、みなさんに教えてあげよう東西冷戦が終わって久しい今日この頃だが共産圏経験のある人など、ほとんどいない日本人にとっていまどき、ちょっと遅い感はあるが、こ~ゆ~情報は貴重だと思う ―――― ◇ ――――昔の共産主義国で住んだ人間の生活実感ただし、これは私が経験した「東欧」の共産主義諸国に限るわけで下記の共産主義諸国についてはよくわからない○ 生き地獄の北朝鮮○ カストロが意地で死守するキューバ○ 金満・欲望地獄で、人治共産制(笑)の中国(笑) ―――― ◇ ―――― ○ 同じ貧乏でも、みんなが平等に貧乏だと、焦りや、嫉妬が無いから、楽なものだ○ 競争が無いから向上心も不要、楽なものだ○ どうせ金満生活なんか、一生懸命働いても不可能だから、努力などしなくていいから、毎日のんびり○ 工場でも「カイゼン」とか、「ゼロ運動」とか、「トヨタのかんばんシステム」などの努力目標が無いから、楽なものだ○ 清貧を日々実践する、清貧を絵に描いたような日々(笑) 自分で選択したわけじゃないけれど○ 反体制活動さえしないで、余計なことをしゃべらなければ、それほど「圧政」の実感は無い○ ただし、計画経済下では、物資不足で、配給で長い列に並ばなければならない これが辛い○ いつでも想定外の「肉」などの掘り出し物に対応出来るように買い物袋の携行が欠かせない○ 外国人にとっては、商品のバラエティーこそ全く無いものの、なにしろ物価がバカ安だから、本国では極貧という人間でも(笑)ここでは王様気分○ 産休は半年ぐらいもらえる○ 産休を一年だって、だれも文句は言わない○ 夏休みは、まるまる二ヶ月ほど○ どこへ旅行しても、交通費も、宿泊費も安い(収入もそれだけ低いが)(笑)○ 計画経済だと、供給量と質が限定されるので、欲しいものはワイロで入手する だからワイロが罪悪だと思う者はいない○ 共産党員はいばっているが、いばらせておけばいい(笑)○ 先祖が貴族などと言う出自の卑しい者は(笑)学校の成績も差別される○ 農奴出身者や代々労働者などという人間が、ここでは(労働)貴族(笑)○ でも、元上流階級・インテリ出身者やその家族は、やはり知的能力や意識やモラルが高い○ だから、農奴出身や労働者専門階級(笑)は、やはり本当は劣等感を持っている○ 本気でプロレタリアート・バンザイと思っている者は少ない○ 商売気のない医者や教員などのインテリ層にとっては、住みやすい世界○ ブランドものや、高級品、贅沢品は原則として売ってないから、物欲は刺激されない○ 服装も共産主義諸国共通のダサイものだが、なかには毛皮などの高級品(に見れる)ものを来ているものがいる しかしそれは共産主義になる以前の時代の、時代物だから、よくみると古色蒼然(笑)○ それで制限のなかでもお洒落はしたいのが女性の性 限られた範囲内でお洒落を試みるが、まあ、多少のデザインの差だけ(笑) やりすぎると、奇抜なものだったり、悪趣味になる○ 資本主義世界の激しい生存競争で生き抜く能力がないくせに、それに憧れる○ 初期の共産主義時代には、資本主義諸国と同等の工業製品や建物などを誇っていたのだが、競争の無い世界では、進歩が無いから、すべてが老朽化して旧型になってしまって、みすぼらしくなって、資本主義国の繁栄?に遠く置き去りにされる○ ポーランドなどでは、昔、米国に移住した(金持ち?)の親戚を「アメリカのおじさん」と呼んで頼りにする○ 現地通貨は価値と権威が無い ドルが強い通貨として珍重されるだから、闇相場があり、闇の交換屋が街頭に立っている○ 前世紀の遺物のような進歩の無い自動車でも一家にとっては誇らしい それにちゃんと動く(笑)○ 共産圏の最新型自動車は、原価や効率など無視した製造法で作られているから、車体は重くて分厚い鉄板で出来ていて、事故にあってもビクともしない(笑)○ もっとも東ドイツでは主な材料が固めた段ボールという車が堂々と人気車だった○ ポーランドはフィアット製の乳母車のサイズの超小型車もあったが、堂々と高速道路を走行○ 全体にスピードを出せる車が少ないから、交通事故も比較的、少ない○ 物資不足だから、職場で働くのはそこそこにして(笑)、買い物の列に並んだり、少々のアルバイトをしたりする○ といっても、土地と物価が安いから、郊外に別荘を持っている人間も多い その別荘の家庭菜園で野菜を作り、物資不足を補う○ 街にはレストランが少ない さらに値段が高いから食事は家庭ですます○ 職場の昼食時、オフィスの外に出てレストランに入る人間はほとんどいない 自宅からサンドイッチやチーズやリンゴなどの弁当持参○ レストランも外国人が宿泊する高級ホテル以外はまずい○ 値段が高いと言っても、闇マーケットのある外貨を持っている外国人にすれば格安○ デパートも数少ないものの一応あるにはある(笑) しかしそこで売っている国産品は、デザインがダサイし、品質が悪くて外国人にとっては魅力ゼロ○ 外国人は金を持っているし立派な服装をしているといっても、外国人のみなが魅力的で美男美女でもない 国産の(笑)女性達に「鄙には希な美人」が多いというのが数少ない自慢○ オペラ・バレエなどの芸術には人民の味方(笑)である国が力を入れていて、入場料は非常に安い 外国人にとってはありがたいことのひとるただ、花形スターは、すぐ外国に引き抜かれてしまう○ 旅行をしても、観光地には特になんにも無い ありのままの自然があるだけ○ 闇ドルの売人が横行する わずかの差額をかせぐらしい 韓国など、いまでも空港でドル買いがいるが、いったい、もうかるのかな~?○ 資本主義の国に較べて、圧倒的に娯楽が少ない せいぜい映画とか芸術鑑賞などの清潔系の娯楽しかない 飲み屋や風俗系が不足している(笑) 猥雑さや淫らさ(笑)の無い世界というのは、多様性に欠けて実に退屈なものだ 風俗など、例えば私のように絶対利用しなくても(本当?)、あるというだけで豊かな気持ちになる(オイオイ) こういう点で、共産圏の国に長く住んでいると、退屈でヒマをもてあまして、西側に息抜きをしに出かけたくなる ―――― ◇ ――――同じ共産主義国でも、体制の締め付けが厳しい国もあれば、そうでない国もある例えば、東ドイツなどだが、 そ~ゆ~違いには、ここでは、触れていない当局にスパイを勧誘されたりしたことにも触れていない知り合った人に、変に、妙に、しつこく接近されたりすることにも触れていない それについては、また別に書こうと思う
2018.01.21
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若い頃の話だがポーランドに短期滞在していた時期があった東欧には珍しく、プラント案件(繊維工場)が二・三件、あって出張していたのだがせっかくだったので、ポーランド語を習得してやろうとワルシャワ大学の外国人向けのポーランド語の夏季短期講座を受講した場所は市内のワルシャワ大学の構内の校舎のひとつ校舎と言っても大きな古色蒼然とした宮殿風だったその校舎には、昔、若い頃のショパンが音楽講師だった父親と家族と共に住んでいた事がある、と、聞かされたが講座の申し込みのために中欧や東欧独特の広く緩やかな階段を上っていった古い建物なので、階段にも廊下にも照明などはあまり無いがらんとした大きな部屋の窓際に大きな机があって色白な若い女性が座っていたそばに秘書の様な中年女性が少し小さめの机の前で座っていた近づいていって、ポーランド御講座の申し込みの部屋はどこか?と英語で聞いたまだ、ポーランド語などはしゃべれないすると、その女性が「ここで受け付けます」と英語で答えた若々しくて美人であるただ、柔らかく微笑するでも無く少しすました表情で私を見るそこで受講の手続きをした講座の開始の日が来た講座は、夕方の時間に始まる教室に入ってみると、十数人の受講者が着席しているほとんどが白人だが、数人、東洋人や黒人もいる男女の比率は、男性の方が多そうであるまもなく、講師が入ってきた驚いたことに、あの受付の(笑)若い女性である ーーー 続く ーーー
2017.12.17
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これから、毎日、過去ログを復刻してみようと思っている過去を、過去の自分の文章を振り返ってみることはある種、効率的である一粒で二度美味しい、かもしれない(笑) ーーー 過去ログ ーーー幽霊駅 そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅があったテーマ:考えたこと 想い出したこと 読んだ本(328) カテゴリ:【東欧】での想い出 この所、私の初の赴任地であるヴィエトナムの思い出話ばかり書いているので、ちょっと趣を変えて、旧共産圏の東ドイツでのビジネスの話です。この話は以前にも書いたので、一応【復刻日記】とも言えますが、東西冷戦が終わって、もう時効となったので、今なら書けることもあるということで、かなり書き足しをしています。 □□□□□□□□そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅があった ドイツが東西に分かれていた時代の事です。 私は東ドイツ(共産主義体制の方のドイツ)と、ある工場施設の輸出商談の交渉をしていました。 日本側は私の商社とあるメーカーがチームを組み、商社のリーダーは私でした。 相手側は、東ドイツの貿易公団です。 貿易公団も一種の商社で、最終的なユーザーは東ドイツの工場。 私が滞在していた頃は、ベルリンもまだ西ベルリン(西側)と東ベルリン(共産圏側)に分かれてました。 私の会社のオフィスのある西ベルリンから、オフィスの無い、客先の東ベルリンへ毎日通勤?していました。 東独側との毎日の交渉は、朝9時から、夕方6時頃まで、昼食時間以外は休憩も無しその内容は東京に報告しなければならない。それはファックスでやっていました。それに対して、折り返し返ってくる東京の返答を受け取らなければいけません。その返答の内容とは、技術的な解答だったり、客先に示すプラントの部分の値段だったり、様々。 時間的なことを考えれば、もちろん東ドイツのホテルに宿泊した方がいいのです。しかし、それを東ベルリンのホテルでしていたのでは、盗聴している東ドイツ側に情報が筒抜けになります。だから、毎日、交渉が終わったらいったん西ベルリンに帰って、ファックスのある事務所から深夜、交渉の詳細な報告を東京にファックスで送ったのです。この作業に、二・三時間かかります食事は、それからホテルにかえって、ホテルのカフェテリアで食べていたはずです 翌朝は、朝に、西ベルリンの事務所に向かい、東京からの返答のファックスをピックアップして、それを読み、難関の国境を越えて東ドイツの客先に向かう。睡眠時間がわずかしか取れない、厳しい毎日でした。 ~~~~~~~~ 東ベルリンの雰囲気は華やかな西ベルリンから180度ちがっていました。だいたい中欧・東欧の冬は、日も短く、雲が低く、昼間と言えど夕方のような薄暗さ。 温度も零下10度程度の厳寒です。それよりもなによりも、当時はまだ東ベルリンから西ベルリンへの脱出者がいたころでしたから、国境の駅(フリードリッヒ・シュトラッセ駅)は、非常に暗いし、東ドイツの完全装備の兵士が大勢立っていて、実に重苦しい雰囲気でした。 電車で西側から東側にあるこの駅に入る寸前、高架の上から黒い川面の川沿いに伸びるいわゆるベルリンの壁が見えて来ます。 壁の周辺は地雷原になっていて鉄条網が長く続き、、ここで脱出を試みた多くの東ベルリンの人々が射殺されたのです。また、なか中には西側にトンネルを掘って脱出した人々もいます。そんな題材のドイツ映画「トンネル」という映画があるそうですが、私は未見です。「寒い国から帰ってきたスパイ」「第三の男」 鉄のカーテンをめぐるストーリーの映画は、どれも寒く暗い雰囲気のものでした東ベルリンのフリードリッヒ・シュトラッセ駅に到着してからパスポート・コントロール(入国管理事務所)で長い列に並んでONE DAY VISAを取得し、それから税関を通り抜けるまで、それだけでたっぷり時間がかかります。ホテルからのDoor to Door で計算すれば、片道二時間以上かかるのです。 ~~~~~~~~ビジネスの面でも東ドイツの人間は、ドイツ最強の旧プロイセンの人達ですからこれ以上ないほどのハード・ネゴシエイターで、また、杓子定規で、重箱の隅をつつく様な執拗さそういう相手と厳寒の中、通勤を含めて朝から晩まで、受注の見込みが見えないまま数ヶ月ハードなネゴ(交渉)をしたのは、中東での酷暑の中でのものとはまた異なった、精神的にも肉体的にも辛い経験でした。 客先で出してくれる昼食も、固い食パンに、サラミとピクルスをのせたオープンサンド二枚と、ガス入りのミネラルウォータ、それに紅茶だけというスパルタンなもの。 ~~~~~~~~しかしそんな中で、ある日相手側の部長(女性)が、休日に博物館見物に誘ってくれました。 実はこんなに長いあいだネゴをしていても、競争している会社の状況がさっぱりわからず、だからといって公式のネゴの席ではとても聞けるものではなく、困っていた私たちに彼女がチャンスを与えてくれたのです。どういうことかと言いますと、私たちに同情した彼女が博物館の中で人混みに紛れながら何気なく会話をする中で、少々のヒントをくれたのです。スパイなどが情報を渡す場合もあえて公衆の中でメモをやりとりする事が多いようです。 博物館の群衆の中でなら、東側の当局に怪しまれる事があまり無く、しかも、私達の会話を聞き取る事が出来ないような。そういう場所を選んでくれたようです。 ~~~~~~~~ 長い長い商談が大詰めにさしかかって(少なくとも私たちはそう思っていました)、そろそろ契約調印かと私たちは思い私は、本社の取締を呼んで、ライプチッヒの見本市期間中に調印すべく、調印のサイン用の高価な万年筆まで購入して待ちかまえていました。しかしながら、その商談は、最後の最後の段階で、予想外の思わぬ出来事が起こりました。 東独では毎年、夏にライプチッヒで大きな見本市が開かれます。 契約の調印は、その当たりらしいという情報が入っていたので、私は日本の本社の取締役を呼んで、調印式でサインしてもらう手配をしたのです。サインのための高価な万年筆も購入しました。 取締が到着して、東独の貿易公団の人間に挨拶をしていると、ある党幹部が突然現れました。 彼は初対面の人間ですが、彼からの自己紹介で、数社ある貿易公団を総括するトップの人間であることがわかりました。その席上で、彼はなんと、当社の取締に、公団への多額の寄付金を要求したのです。あとで聞く話では、その種の「寄付金」は、公団の秘密資金に回されるのだと言うことでした。 多分、そうなんでしょう。 日本の役所もやっているような。 悪いことに当方側の取締役は、営業出身ではなく、ずっと総務・人事畑を歩いてきた、営業センスなど全く無い固い人間で、先ず含みを持たせた返答を相手側にして、時間稼ぎをすればいいものを、この要求をその場でアッサリはねつけてしまい、ここで実質的に当方の敗北が決まりました。 取締役は面子をつぶされたと言い、私は叱責を受けました。これで私の出世は無くなりました。(笑)それまで、私は中東で、数件の巨額のプラントを受注していたのにね。(笑) ~~~~~~~~ 東独側の貿易公団も、私たちを担当していた公団の他に数社あったのですが、このプラント・プロジェクトに関しては、ライバル公団の方が政治力が強く、我々の見積もり条件や価格はライバル・グループに知らされていて、現状としては負けらしいという状況がわかったのです。 東独側は、それまで長い間、われわれと真剣に交渉しているふりをしながら、われわれから技術資料を始め、あらゆる情報を入手して、その一方で、本命の某社と契約する予定だったのです。そういえばあの女性部長も、私が「調印式のために取締役を東京から呼ぶ」と彼女に告げたとき、彼女はなぜか?「呼ばなくてもいいのではないか?」と、少し微妙な、気の毒そうな表情をしていました。もし、私が、もっと鋭ければ、この時に我々の置かれたポジションを察することができたかも知れません。いや、やっぱり無理だったかな? ~~~~~~~~まあ実際のところ、それまでの超ハードネゴで、当方の採算は赤字ギリギリとなってしまっており、その後東独側から要求された東独事務所の新たな設立などを飲めば、さらに赤字が確実でした。それまで私がリーダーとして受注した数件の中東プロジェクトでは、商社としてだけでもすべて何億円という大幅な利益を出しており、担当メーカーの工場も、○○景気と呼ばれる利益を享受していたのですが、この共産圏の商内は、全く様相がちがいました。 戦い慣れた中東とは違い、東独にプラントの実績がほとんど無かった我が社の限界でもあったのです。まあ、共産圏貿易と言っても、対ソ連貿易以外、日本の実績など、ほとんど無いのですが 一般に共産圏のメーカーとのビジネスは、一件のみでは利益が出ないもので、数件まとめて、トータルで、だんだんうまみが出てくるものだったようです。はじめの一件は赤字でも名刺代わりに受注し忠誠心を示し、事務所を設置してから、いろいろな関係が構築され、相互のあうんの呼吸で、利益の出るビジネスが与えられた様です。 別の言い方をすれば、双方が癒着することにより、双方に利益がでる。 癒着は共犯ですから、共犯の仲間意識が出てくる。そこまで信頼感?を勝ち得るまでの長期的なスパンでの見通しと、忍耐が大変なのです。一件のプラント契約ですぐ利益を望むこと自体が、間違いだったわけで 今考えれば、中東が主戦場だった私は、ビジネス・ノウハウが全然異なる共産圏のビジネスに手を出すべきではなかったのです。と言って、東南アジア以外の地域でのプラント商内の契約交渉ノウハウをを持つ人間があまりいない当社ですから、中東で実績を上げ「アラビアのロレンス」と呼ばれた(笑)私が、土地勘の無い東欧に出て行かなければ仕方が無かったのですが ~~~~~~~~~ 話は変わりますが、共産圏の国の中ではやはり東ドイツが一番緊張感がありました。 厳しい国民性・優秀性、共産主義への忠誠心もその原因。秘密警察が非常に機能していた商談の交渉員の中にも、当然、秘密警察の要員がいたはずです共産圏の恐ろしさでは、チェコが、東独に次ぐかな?しかし、チェコ人は、面従腹背(笑)という、いわば、ずる賢い国民性それだけに独特の複雑さがありましたポーランドは抵抗勢力、ワレサの連帯があり、国民の信頼を集めるカトリック教会があり、国民性自体も反抗的(笑)共産党政権も、手をやいていました国民同士では、共産党政権の悪口を言うのが当たり前というお国柄(笑)チャウチェスクのルーマニアは、体制自体は恐ろしいものの、東欧の海に浮かぶラテン民族ですから、どこか陽気なところがありました女性が美人だったし(笑)一言に、ソ連の衛星国と言えども、国によって様相が異なりました ーーーー この東独での経験をかわきりに、その後の共産圏でのビジネスにも、少々関わりましたが、受注は出来なかったまあ、貧乏国が多いので、そもそも、商売の可能性自体が低かったわけで徒労とも言えるわけですが ーーーーその他の共産圏の国々でも、ちょっと怖い体験はいろいろありました。 何度か、当局、スパイ、またはその手先らしき人物から、電話や実際のコンタクトがあった。美女が仕掛けるハニートラップが無かったので、引っかかりませんでしたが(笑) ~~~~~~~~~ 閑話休題そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅というものがありました。 東西を区切るベルリンの壁の下あたりに駅があるのですが、その駅は東側から西側への逃亡を防ぐため閉鎖されていて無人、もちろん停車もしません。そのまさに幽霊のような暗い無人の駅を地下鉄で通過する時など、実に陰惨な雰囲気でぞっとしたものです。 ~~~~~~~~~ 少し前に東ベルリンを訪問した時にはガラッと変わって、西欧化していました。なんだか、夢を見ている様な気分になるほど、変貌していましたあの幽霊駅も、使用されているという。 今となっては、あの暗く重い空気の東独そのものも無くなってしまって、私の想い出の中に残るだけです。あの幽霊駅のように、通り過ぎる時に見えるだけで、実際には下車できない想い出のような。こんな事を書いていると、いろんな記憶が、チリチリとした鋭い冷気と共によみがえってくる様な気持ちになります。 「寒い国から帰ってきたスパイ」こういう題名のル・カレの傑作スパイ小説があって、映画にもなっています。 私は、スパイではありませんが(笑)
2017.12.08
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この数日以前から私の過去ログを読んで下さっているという奇特な繊維問屋・小売ナンチャラさんが私の過去ログ、数編をわざわざ、掘り起こして下さって私との対話が弾み私自身も、久しぶりの過去ログに懐かしさを感じ今日もそんな過去ログのひとつ『リキ・マンションの欧陽菲菲』https://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/200507290000/comment/write/#commentと言う過去ログについてコメントを下さったこの過去ログは、硬派の私にしては珍しい(笑)私の昔のガールフレンドのひとりに関する過去ログなのだが私自身も読み返してみて私の若い頃の淡い恋を思い出したりしたいや~!女性って、いいもんですね~!(何を今さら)(笑) ーーーーこれに触発されてこれから、国際時事論評などは一時停止して(笑)過去の女性に関する「想い出記事」を連載して行きたいと思う(いきなりかい?)(笑)というのも硬派の私にも(こればっかり)今は老いさらばえた私も長い人生に於いてはそれなりに(笑)、女性との接点もあったわけで不良接点も中には有ったが(笑)行く春を 近江の人と 惜しみけり 松尾芭蕉そんな気持ちで(全然違うが)過ぎし日の美女達に思いをはせてみたい美女シリーズの最初の過去ログは東欧の某国での、この私が危うく命を失うところであったエピソードであるこれは、もう、過去にも復刻したものではあるが読者層も入れ替わっているだろうし何! かまい知ったことでは無い(笑) ーーーー『男が本当に好きなものは二つ・・・、危険と遊びである。 男が女を愛するのは、それが最も危険な玩具であるからだ』と喝破したのは、かのニーチェだが ーーーーやはり、危険な玩具を愛しては、死に至る病気、になってしまうかもしれない心すべき事である ーーー 過去ログ ーーー某国の秘密警察将校の人妻との怖い話(前略)東欧のある国での出来事ですある日の夕方、季節は冬で雪が積もっていました。 彼女たちの友達の一人が主催するパーティーに、私も誘われて同行しました。 着いてみるとその国の人々が中心で、私としてはどの人が英語をしゃべれるのかわからないまま、しばらくは、暗~くひとりで酒だけを飲んでいたのです。奥様方は hen's party というのか、女性同士でおしゃべりに夢中です。その内に、その家のホスト役の男性がアコーディオンを弾き出してリクエストを募ったので、私はその国の愛国歌というか悲しい軍歌というか?そういう歌をリクエストしたのです。その曲の内容・歌詞は私も知っていて、国のために死んだ兵士の血がひなげしの花の様に赤く・・・という歌詞 一人で飲んでいた私は酔いもあったのか?その曲を皆と一緒に歌いながら、どうしたことか?私の目から水分が、つまり涙がボロボロ出てきたのです。 外国人のくせにその曲を歌いながら泣くという愛国的な??私に、周りの人々がちょっとひいていてのを覚えています。その後すぐダンスの時間になって、このパーティーに連れてきてくれた奥さん連中が誘いに来たのですが、私はこれでもシャイというか? ダンスが下手というか?(全然違う理由だろう?)それに、未だ踊っている人が少ない状態では踊れない人間なのです。 「申し訳ないが、後でね」・・・と断っていたのですが。そのうちに、いつの間にか、身体にピッタリとした黒いドレス上半身は紗が透けたゴージャスな装いですブロンドの女性が私に近づいてきて、黙って私の手を取って、・・・気がつくと、私は、彼女と踊っていたのです。 私はダンスにあまり自信が無かったので、彼女の反応を見ようと彼女の顔を見てみると、とても優しい表情でニッコリ笑うのです。しかも彼女、美人です。その国の女性は一般的にやや小柄で、小粋で、どちらかというとほっそりした女性が多いのですが、彼女はどうもゲルマンの血が入っているらしく、私と釣り合いの取れる長身で、しかもしっかりした体つきでゴージャス系の美貌、いわゆるクラッシー(上流)な容姿です。東欧にはドイツ騎士団の領土があり、ゲルマン系のドイツ系やオランダ系の血が混入しています彼女、容貌的には似ていないのですが、雰囲気はちょっとマレーネ・デートリッヒを思わせる感じです。 彼女の笑顔に元気づけられて二三曲踊って、もう止めようかなと思ったのですが、彼女は止める様子がありません。 「私はダンスがへたでしょう?」と聞いてみたら「いえ、上手よ」とお上手を言ってくれました。 彼女がますます美人に見えてきました。 6曲程も踊るとタンゴの曲がかかり、これには私はついて行けず、席にもどりました。それからようやく英語を話すスエーデン人の少年を見つけ出して話し相手が出来ました。しばらくすると、くだんのブロンド美人がまた寄ってきて、今度はその家の内部を案内してくれたのです。 自分の家でも無いのに・・・です。その家の夫婦の寝室にまで入って行って、そこの壁に掛かっている家族や共通の友人達の写真についての説明をしてくれるのです。 私としてはすこぶる付きの美人が優しく親切にしてくれるのでなんの不満もありません。と・・・、その時、ドアが開いて、奥さん連中の一人があわただしく入ってきて、私に「もう帰ろう!」と、強く言うのです。 私としては「え~~?どうして」です。まだまだパーティーは続くはずです。それにこんな美人と親しくなったのですから、できればパーティーの最後までいたい。 何かハプニングもあるかもしれないし・・・。この期待の方が大きかったかも知れません(笑)ブロンド美人が、入ってきた奥さんに何か文句を言って、奥さんが言い返していました。 私は結局、その奥さんの厳しい表情に押されて、一緒に来た他の奥さん連中と一緒にそそくさと帰ることになりました。 その車の中では、奥さん連中がむっとしている様な雰囲気なのです。 私が彼女たちとのダンスを断りながら、その一方であの美人とは何曲も踊ってしまったからでしょうか?そのひけめもあって、ムッとしている理由を尋ねることはしませんでした。 ~~~~~~~~~それから半年ほど経って、またその奥さん連中と会い飲んでいました。そのうち、私がなにげなく「あのパーティーはあれからどうなったの?」と聞いたところ、一人の奥さんが急に険しい表情になって、「実はあなたはあの時、ビッグ・トラブルに直面していたのよ」というのです。 「あなたがダンスしていた女性は、秘密警察の将校の奥さんだったのよ。あの奥さん、あなたとダンスをした後で『彼と make love したいわ!』って言い出したのよ。そうしたら、あとでそれを伝え聞いた彼女の夫が、怒り出してピストルを引き向いて『その男を殺してやる』って言い出して大騒ぎになって、だから、あなたを急いで連れて帰ったのよ。 私達はあなたの命の恩人よ!それに私達とのダンスは断りながら、彼女とばかり踊って・・・」。 奥さんのひとりの旦那さんが、傍でこの会話を聞いていて、「秘密警察の将校?それはすごい地位じゃないか?」と他人事の様に感心していました。しかし私は・・・ ガ~~ン!! 「日本人出張者の射殺死体が発見された」・・・という新聞記事が目に浮かびます。 私の死体はドライアイスを詰められて日本に無言の帰国をする。以前、私の同僚が海外の事故で死亡、そういう場面がテレビでも放映されました 多数の女性が、私の棺をすすり泣きながら出迎える・・・。 (これは無いか?)それでも、実は、私は、あのブロンド美人について、もう少し、少しだけでも詳しい話を・・・、どこに住んでいるとか、電話番号は?とか・・・、そういうことを・・・少しでも、なんとか教えてもらいたい・・・秘めた強い願望があったのですが、奥さん連中の厳しい視線を前にしては、もうとても何も聞き出すことは出来ませんでした。それにしても私も危ないところだった。それに彼女はどうしてパーティーの場でそんなことを言い出したんだろう。その国の愛国歌に涙した外国人の私に感情を動かされたのでしょうか?あの秘密警察の夫も、美人だが淫乱な妻に苦しんだことだろう。 (淫乱という言葉が好きなので、乱用しています)。ひょっとしたらもう何人も射殺しているかもしれない。私で、何人目だ? 少なくとも、あれに似た事も、一度ならず起こったんだろう。それにしても、安全な状況で、もう一度彼女に逢いたい・・・という気分も、正直言ってあります・・・。あっ!そんなことを言っても、昔の話だった。
2017.11.27
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2016.09.03
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もう、余生が短いせいか?昔の事が懐かしく思い出される私にも,若い頃があったのだ!ということで十年以上前に書いた過去ログなのだが以前にも復刻したのだがまた、復刻してみよう「死にかけた話」のひとつ ―――― 過去ログ ――――ヴィエトナムでの「死にかけた話」は未だあるんですが、今回は趣を変えて旧共産圏の某国での「死にかけた話」。あるパーティーにその土地の奥さん連中に誘われて参加したのですが。なぜ奥さん連中に誘われたのか?を先ず説明しましょう。ベルリンの壁の崩壊前の東西冷戦の時代です。旧共産圏はレストランも原則的に国営ですからあまり美味しくありませんでした。そこには競争原理が働いていないからです。それに比べ少数派の私営ライセンスを持っている店はかなり美味しいのですが、そもそもレストランの数が少ない。市の地図を見てみるとその中にフォークとナイフのシンボルでレストランの位置が示されています。その数がほんの数えるほどです。それに値段も高いから(外国人にとっては貨幣価値の関係で実に安いのですが)なにか「ハレ」の事でもない限り、あまり現地の人々はレストランには行かないのです。でもそういう国では必ず家庭料理が旨い。必要は発明の母、少ないレストランの数は美味しい家庭料理の母・・・。私は独身だったのですが、レストランで一人で食べるのでは味気ない。自分でマーケットに買いに行って自炊もしたのですが、やはり男の自炊は料理の種類もミニマムですし、美味しい料理を作り出す境地にまではなかなか上達しません。ある時、仕事上で知り合った現地のある男性の家庭に招かれ家庭料理をごちそうになり、楽しいおしゃべりをしながら(このクラスの奥さん達はけっこう英語も話しました)美味しい料理を思い切り食べたのです。私が出されたウォッカを飲みながらモリモリ(ガツガツかな?)食べるとその奥さんは非常に喜んでくれました。彼女たちの旦那さん達はこの奥さん達が手間をかけた美味しい料理に対する感謝のジェスチャーが、ふだん大いに不足していたらしいのです。「もっと食べなさい もっと・・・」と、食事をすすめてくれるのです。(もちろん私もおみやげにワインやウィスキーや花を持って行きましたが)。食事だけではなくて・・・。奥さん連中は中年期、いわゆる倦怠期の人達で旦那さん達からは彼女の「美」に対しての賞賛のジェスチャーが大いに不足している様で、さらに子供たちも巣立っていわゆる「空っぽの巣症候群」(元は英語でそれを正確に思い出せないけれどvacant nestかな?)奥さん連中はいろんな不満からアル中になっている人も多かった。気の毒。私は食事の恩義もあり、こういう「元美女」の昔の栄華?をしのびながら「あの奥さんはまだまだ美しい」とお世辞を言ったのです。事実昔の写真や肖像画を見ると美人でした。これ以降、ときどき、「あなた、食べにいらっしゃい」と奥さん連中のプチ・パーティーや休日の別荘などに招かれるようになって、本当に美味しい食事をごちそうになりましたし、家族旅行などにも参加したりもしました。今でも彼女達に電話して「あの人は今どうしている?」など、懐かしい人達の話をすることがあります。~~~~~~~~~で、ある日の夕方、冬で雪が積もっていました。彼女たちの友達の一人が主催するパーティーに私も誘われたのです。着いてみるとその国の人々が中心で、私としてはどの人が英語をしゃべれるのかわからないまま、しばらくは暗~くひとりで酒だけを飲んでいたのです。奥様方は hen’s party というのか、女性同士でおしゃべりに夢中です。その内にその家の主人がアコーディオンを弾き出しリクエストを募ったので、私はその国の愛国歌というか悲しい軍歌というか?そういう歌をリクエストしたのです。その曲は私も知っていて、死んだ兵士の血がひなげしの花の様に赤く・・・という歌詞だったかな?一人で飲んでいた私は酔いもあったのか?その曲を皆と一緒に歌いながら、どうしたことか?私の目から水分が、つまり涙がボロボロ出てきたのです。外国人のくせにその曲を聞いて歌って泣くという愛国的な??私に、周りの人々がちょっと引いたのを覚えています。その後すぐダンスの時間になって奥さん連中が誘いに来たのですが、私はこれでもシャイというか?ダンスが下手というか?(全然違う理由だろう?)、未だ踊っている人が少ない状態では踊れない人間なのです。「申し訳ないが、後でね」・・・と断っていたのですが。そのうち、身体にピッタリとした黒いレースのドレスを着たブロンドの女性が私に近づいてきて、黙って私の手を取って・・・私は気がつくと彼女と踊っていたのです。(この国の女性はほとんどブロンドなのですが)私はダンスにあまり自信が無かったので、彼女の反応を見ようと彼女の顔を見てみると、とても優しい表情でニッコリ笑うのです。しかも彼女、美人です。その国の女性は一般的にやや小柄で、小粋でどちらかというとほっそりした女性が多いのですが、彼女はどうもゲルマン系の血が入っているらしく、その国の人間の中でも背の高い方である私と、ちょうど釣り合いの取れる長身で、しかもしっかりした体つきで、ゴージャス系の美貌、いわゆるクラッシー(上流)な容姿です。(東欧にはドイツ騎士団の領土があり、ドイツの植民もありゲルマン系のドイツ系やオランダ系の人がいました)。顔つきは違うのですが、雰囲気はちょっとマレーネ・デートリッヒを思わせる感じです。彼女の笑顔に元気づけられて二・三曲踊って、もう止めようかなと思ったのですが、彼女は止める様子がありません。「私はダンスがへたでしょう?」と聞いてみたら「いえ、上手よ」とお上手を言ってくれました。彼女がますます美人に見えてきました。6曲程も踊るとタンゴの曲がかかり、これには私はまるっきりついて行けなかったので席にもどりました。それからようやく英語を話すスエーデン人の少年を見つけ出して話し相手が出来ました。しばらくすると、くだんのブロンド美人がまた寄ってきて今度はその家の内部を案内してくれたのです。自分の家でも無いのに・・・です。その家の夫婦の寝室にまで入って行って、そこの壁に掛かっている家族や共通の友人達の写真についての説明をしてくれるのです。私としてはすこぶる付きの美人が優しく親切にしてくれるのでなんの不満もありません。と・・・、その時、奥さん連中の一人があわただしく入ってきて、私に「もう帰ろう!」というのです。私としては「え~~?どうして」です。まだまだパーティーは続くはずです。それにこんな美人と親しくなったのですから、できればパーティーの最後までいたい。何かハプニングもあるかもしれません。ブロンド美人が何か奥さんに文句を言って、奥さんが言い返していました。私は結局その奥さんの厳しい表情に押されて、手も引っ張られて他の奥さん連中と一緒にそそくさとかえることになりました。車の中で奥さん連中がむっとしている様な雰囲気なのです。私が彼女たちとのダンスを断りながら、その一方であの美人とは何曲も踊ってしまったからでしょうか?恐ろしくて、それ以上、尋ねることは止めました。~~~~~~~~~それから半年ほど経ってまたその奥さん連中と飲んでいました。私がなにげなく「あのパーティーはあれからどうなったの?」と聞いたところ、一人の奥さんが急に険しい表情になって!、「実はあなたはあの時、ビッグ・トラブルに直面していたのよ」というのです。「あなたがダンスしていた女性は秘密警察の将校の奥さんだったのよ。あの奥さん、あなたとダンスをした後で『彼とどうしても make love したいわ!』って言い出したのよ。そうしたら、彼女の夫がそれを聞いて、怒ってピストルを持ち出して『その男を殺してやる』って言い出して大騒ぎになってあの家の主人が彼をなだめている間に私たちが、あなたを急いで連れて帰ったのよ。私達はあなたの命の恩人よ!それに私達とのダンスは断りながら、彼女とばかり踊って・・・」。奥さんの旦那さんの一人が傍でこの会話を聞いていて、「秘密警察の将校?それはすごい地位じゃないか?」と他人事の様に感心していました。しかし私は・・・が~~~ん!!「日本人出張者の射殺死体が発見された」・・・という新聞記事が目に浮かびます。私の死体はドライアイスを詰められて日本に無言の帰国をする。多数の女性がすすり泣きながら迎える・・・。(これは無いか?)それでも実は私はあのブロンド美人についてもう少し詳しい話を・・・、どこに住んでいるとか、電話番号は?とか・・・、そういうことを少しでも、なんとか教えてもらいたい・・・ところだったのですが、奥さん連中の厳しい視線を前にして、もう何も聞き出すことは出来ませんでした。それにしても私も危ないところだったのね~。それに彼女はどうしてパーティーの場でそんなことを言い出したんだろう。彼女、キレル人なんだな~。なんだかハリウッドの淫乱な女優、エイヴァ・ガードナーの話を聞いているようです。「若き獅子たち」で淫乱なドイツ将校夫人を演じたマイ・ブリットも思い出します。あの秘密警察の夫も美人だが淫乱な妻に苦しんだのだろうな~。(淫乱という言葉が好きなんで乱用しています)。ひょっとしたらもう何人も射殺しているかもしれない。(それは無いか?)少なくとも、ああいうことも一度ならず起こったんだろうな~。それに彼女、どうして初対面の東洋人の私と・・・・。これは謎のままです。それにしても、虫のいい話ですが安全な状況でもう一度彼女に逢いたいな・・・という気分も、正直言ってあります・・・。あっ!そんなこといっても昔の話だった。 ―――― ◇ ――――この話には、あとでいろいろコメントを戴いたのですが確か「惜しいところまで行ったんですね でも、あなたが彼女と昇天したら すぐ,その秘密警察のご主人に射殺されて 二度目の本当の昇天ですね」と言う、怖いコメントもありました
2016.02.03
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正月と言えば、ウィーンフィルと言う事で思いだした過去ログを掲載 ―――― か ――――2005/01/0元旦に「ウィーン・フィル・NEW YEAR・コンサート」を途中から観た・・・、と言うか、聴いた。ベルリン・フィルのシルヴェスター・コンサートも格式があるが(こちらの方は今年、三大テナーコンサートでの指揮で有名なラトルが指揮)、なんとなく、根拠無く、正月はウィーン・フィルでしょう。(意味不明)このウィーン・フィル新春コンサートは、このところ毎年、日本のテレビで放映するようになった。指揮のロリン・マゼールが、各国語のあいさつに日本語も入れている。「アケマシテ オメデトウ ゴザイマス」と、ちゃんと言っていた。それはそうだろう。観客というか聴衆というか、お客さんの中で、「日本人」が多いのだ。白人でないがゆえに一層目立つのだが。日本のお金持ちの、それも文化を意識するお金持ちの、一つのステイタスになっているような雰囲気なのだ。嫉妬心の強い私など、思わずこの方々の悪口を書きたくなったが、・・・ハーハー・・・。思い直して・・・ コホン! ほめよう!こう言うのはいいのではないかな~。みなさん、落ち着いた品性のある熟年夫婦(カップル)だし、他の悪趣味な新春じゃないものね。文化的には最高!マゼールは、バイオリンを弾きながら指揮。えっ? ヴァイオリン、弾けるの?いや、その前に歌ったりしたらしいのだ。考えてみたら音楽家だから、歌えて弾けてもいささかも不思議は無いのだが、ついつい指揮者は、棒を振っているだけの人だと思いこんで、・・・失礼しました。このヴァイオリンがすごかった!ちょっと音色が、倍音がかっていたけれど(どうしてかな?)、そのフィーリングがすごくよかった。そう言えば、マゼールはアンジェラ・ゲオルギューを見いだした人なんだった。彼女を自宅に呼んでテストして、その歌唱に驚いたというのだが、本当は彼女の美貌に惹かれていなかった?マゼールさん。・・・と言う風に、とてもよかったのだが、途中で見はじめたので例年の指揮者との比較ができないままにおわってしまった。それに今回は、演奏会の結びの恒例となっている、あの満場の手拍子の!「ラデツキー行進曲」を、スマトラ沖大津波に配慮し、演奏を自粛してしまった!それはないよ!マゼールさん!残念。椿姫の「乾杯の歌」とともに、「ウィーンの森の物語」「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」が大好きだった母(介護中)に、テレビの音を大きくして聞かせてみた、あまり反応を示さない。三大テノールのビデオを聞かせても同様。人生とは哀しいものだ。そういえば、風船くんさんは療養中のお母様を見舞うために数年ぶりに帰国したのに、正月にお母様が亡くなったとのこと。ご冥福を祈ります。~~~~~~~~~この演奏が催されるウィーンの「楽友会館」という邦訳が、なんていうのかな~ 微笑ましい。多分、直訳なのだろうと思うのだけれど。楽友会館の内部は、それこそ西欧文化の極致を金銭的に表現したもののようで、先日、NHKで放映された「ドナウの旅」(だったかな? 言ってきますけれど!!、私はNHKの味方です プロレスの味方ではありませんが) での、シェーンブルン宮殿の、人類の文化と豪奢の極致というような装飾だらけの、キンキラキンと同じだ。すごい すごい!日本のシンプル・質素な皇居とは正反対だ。これを見て、チェコ・プラハの国立オペラ劇場を想い出した。私はプラハに長期出張していたことがあって、その時に、スメタナの「売られた花嫁 Prodana nevesta」などを見に行ったのだ。ついでですがプラハはすごい街ですよ。百の塔の都と呼ばれていて、中世の街並みがそのまま残っているという点では世界一。だから、ハリウッドの時代劇はほとんどプラハでロケするという。それにチェコの映画技術というのは戦前から定評のあるところ。というところで、チェコ出身の映画女優、ヘディー・ラマーを想い出した。彼女については、明日にでも書こうかな?チェコ・プラハの国立オペラ劇場。戦前はドイツ劇場と呼ばれていたオペラ劇場で、内部のキンキラぶりもかなりなもの。「売られた花嫁」を聞きに、劇場へ行ったはいいのだが、立ち見席しか取れない。しかたなく、とりあえず入ったが、開幕前にゴンドラ席の裏へ行ってみた。突如、なんの脈絡もなくお勉強ですが、共産主義経済というものはそもそも、計画経済だから需要量に見合った商品しか生産しない。その点、資本主義は需要量に関係なく生産するから余剰が出て、競争原理が働く。その結果、品質・デザインなどがよくなって、共産主義国の製品をしのぐ。結果的に共産主義経済は資本主義に負けて崩壊した。・・・ということを書きたいのではなくて、共産主義国では計画経済なので需要ギリギリの製品しか生産しないから、その製品を手に入れるためにはワイロしかない。かくて共産主義国では生きて行くためにはワイロが必須だった。・・・と言うことを書きたいのではなくて、共産主義国ではワイロが非常に効果的だったのだ。で、ゴンドラ席のうらあたりには、案内のおばちゃんたちがうろうろしていて、このおばちゃんに「面倒みてよ!」とお願いしたら、よろこんで「空いているゴンドラ席」に案内してくれるのだ。切符は売り切れのはずなのに「空いている貴賓席」があるというのもおかしいが、それが不条理の共産主義社会なのである。で、「売られた花嫁」も、豪華なゴンドラ席で観劇させていただきました。ワイロと言っても、私にとってはほんの小遣い銭程度なんだけれど、オバチャンもハッピー、私もハッピーで win win situation だった。だれも、損をする人がいない
2015.01.02
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この前の記事中南米でのタクシー利用の際の、注意事項に関連して欧州での、今回の、タクシートラブルについて書く今回の欧州旅行で、タクシーのトラブルは、二回あった二回とも、チェコの首都・プラハでの出来事(パリでも、メーター以上の料金を要求するタクシーはあったが それは、英国からユーロスターで帰国した際 ユーロスターで深夜到着したときの 駅前の生気タクシーの乗り場がわからず 白タク、または、二倍ほどの料金を請求しようという タクシーを経験したが、 これは、状況と場所が、例外的かも知れず 乗ってからぼったくり料金を請求するというような 悪質なものでは無かった)プラハのタクシーは、ぼったくりが多いと言う事は予備知識として、持っていたのだが私は、昔、共産主義国であった時代にプラハに、二ヶ月ほど滞在した事がある共産主義の国というものは、国家権力が強いので案外、治安は、いいそれでも、タクシーの料金は、メーターがしっかりしていない事もあって、トラブルの種だった今回は、もう、ベルリンの壁も無くなって途中経由した隣国ポーランドでは一週間に近い滞在中、知人が同情したこともあるがタクシーはメーター通りで、トラブルがなかったのだがプラハのタクシーも変わったかと思っていたのだがそうでもなかった一回目のトラブルはカレル橋から拾ったタクシーが、ぼったくり料金を提示適正料金を知っていたから、それを示したら、おとなしくひきさがり、それで、納まったしかし、油断はならないことは、わかった二回目も、カレル橋からのタクシー二回とも、タクシーの運転手が無愛想なところが共通ホテルについたら、メーターがあるのに、2倍以上の料金を平気で要求する私は、予め、後部座席から、メーターを含む運転手をカメラで撮影しておいたのだがその料金は適性でないと言ったが、従わない口論のあげく「それでは、ホテルの人間を呼ぶから」と言うと、あわてだしたホテルのボーイに、フロントの人間を呼んでくれるように頼んだら運転手は、ドアを開けたまま、ホテルの隅の方に移動危険な行為であるその時は、同乗者がいて、怖がって適正料金を払ってしまったので、そのタクシーは、逃げていった翌日、出発する時に乗った同じタクシー会社のタクシーに撮影したその運転手の映像をカメラの液晶画面で示したら知っている、と苦笑いをしていたもう少し時間があれば、警察または、このタクシー会社に通報して、こらしめたかったのだが、出発前日で時間が惜しかったので、あきらめた旅行中に警察に行くと、恐ろしく時間と手間がかかるそれで、解決も、まず、しないチェコ人は、東欧陣の中では、怜悧な国民とされているしかし、反面、面従腹背、表面では服従する振りをするが腹の中は逆と言う定評がある昔、大使館員も、その事を指摘していただから、私は、偏見かも知れないが、チェコ人は、信用していない乱暴なことはしないが、ずるい国民性であるタクシーが、いまだに、ぼったくりとは、チェコも、恥ずかしいではないか?私が呼んだホテルのフロントも、接客中だったこともあるがトラブルに出ては来なかったフロントに、トラブルを報告したら、笑うだけである昔、第二次大戦において隣国ポーランドは、ナチスに対して、ワルシャワ蜂起をして、全市民が戦いその報復として全市を爆撃・破壊されたチェコは、ナチスに反抗することなくおかげで、プラハの街は、そのまま残り大きな観光資源となって居るポーランドでは、共産党政府に対しての悪口は言い放題だったがチェコでは、声をひそめなければならなかったポーランドは、ワレサの連帯が、ベルリンの壁崩壊の下地を築く長年の反抗を示したがチェコは、その後、やっと、ビロード革命とやらで面目を保った隣国同士であっても、言語は、ほぼ同一でもほぼ同じ民族でも国民性は異なる
2014.11.05
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モモンガさんが石川達夫「プラハ歴史散策」について記事を書いていて以下は、それに入れた私のコメントマイナーチェンジあり ―――― ◇ ――――先頃の欧州旅行でワルシャワと共にプラハも訪問してきましたプラハには,昔、業務で(PTTとの電話網プロジェクトの交渉で)一ヶ月ほど滞在していたことがあります20年ほど前で、まだ、ベルリンの壁崩壊以前のことです共産圏での滞在はいろいろストレスがかかる事がありますが一番楽だったのはワルシャワ国民全体が共産党政権に対して反抗的で政権の批判悪口はみんなの趣味(笑)それに比べて,他の共産圏諸国では秘密警察の締め付けがきつくて国民がみな萎縮していてそれがこちらにも伝わる----言語の話になるとチェコ語は隣国ポーランドのポーランド語およびスロバキア語と共に西スラブ語グループに属してポーランド語とは、60%ぐらいの互換性がありますただ、チェコ語は長年、使用を禁止されていた時代があってその間に、語学的変化が止まったのでポーランド語がラテン語の影響を受けてやや西欧化したのに比べてスラブ祖語の形態を、より多く残しています例えば犬は・ ポーランド語 PIES ピエス・ チェコ語 PIS ピスポーランド語は、「E」を入れて響きを柔らかくしていますがチェコ語の方がプリミティヴな形を残しゴツゴツした語感がありますその頃ホテルで英語で会話をしたら従業員が私に対して「ドイツ語を話せないのか?」とあたかも、ドイツ語の方が優位であるかのごとき優越意識で接してきたので驚いた記憶がありますチェコに対するドイツ語世界の歴史を感じると共にチェコは、いまだにドイツへの属国意識が抜けないな~と思った記憶があります今の時代、ホテルと空港では、こでも、英語でしょう共産主義のソヴィエトの衛星国はこう言う古い意識のまま、世界から取り残されていたんですね----私は,ポーランドにも滞在経験があるのでチェコとポーランドとの、二国の・ 国民性・ 歴史・ 言語に、興味があります隣国ポーランド人は国民性として反抗心が強く支配者ドイツ・ロシアに反抗的でベルリンの壁崩壊の遠因を作った事が知られて居ますが隣国のチェコ人は面従背反民族で(笑)(日本大使館員もそう言っていました)ポーランド人がワルシャワ蜂起などで神風的精神で徹底的にナチスに反抗したのに比べチェコは反抗せずそのため、ワルシャワはドイツの徹底的な空爆で灰燼に帰したがチェコのプラハはまるまま街ごと残りました(笑)ただ、ワルシャワもプラハと共に世界遺産となって居ます再訪したプラハは欧州でも唯一、中世の街並みを残した大都市として大人気となり、観光客が溢れ非常に混雑してなんだか汚れて世俗的になって居ました昔の共産主義時代の閑散としたしかし中世そのままのたたずまいのプラハの街が懐かしかった
2014.08.07
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チェコとポーランドは、チェコの旧パートナーであるスロヴァキアと共に、西スラブの国々であるちなみに、スラブ人の国家は、おおよそ下記の3グループに分けられる◇ 東スラブロシア・ウクライナ・白ロシア◇ 西スラブポーランド・チェコ・スロヴァキア◇ 南スラブスロヴェニア・クロアチア・セルビア・マケドニア・ブルガリア他にもあったかも知れないなお、ルーマニアは、バルカンの南スラブの中の孤島のような国だが、スラブ民族ではなくて、ローマ帝国ゆかりのラテン民族であるもっとも、民族・言語も、相当、スラブ化しているが ―――― ◇ ――――下記は、トイモイさんの、「プラハ 2」という記事に寄せた私のコメント----プラハには、あるプロジェクトの契約交渉で数ヶ月、滞在しました私は、ポーランド語が少し出来るのですが(チェコ人はポーランド人とほとんど同民族ですので)チェコ語はポーランド語と60%ぐらい通じて面白かったワルシャワは全く面白くない醜い都市ですが、プラハはある意味、世界一ただし、隣国でもチェコ人とポーランド人は国民性がかなり違っていますチェコ人は合理的で面従腹背ポーランド人は、無鉄砲で意地っ張り第二次世界大戦時の行動でも、それが言えますチェコはナチスに無抵抗でプラハは破壊を免れたポーランドのワルシャワは蜂起した懲罰として、空爆で街ごと破壊し尽くされたタクシーで運転手がぼろうとする時、その運賃は違うだろうと指摘すると、チェコ人は「それじゃあなたの言う運賃でいい」と言い、ポーランド人は「勝手にしろ!」と腹を立てて料金も取らずに走り去る「チェコ人は面従腹背の民族」だとは、日本大使館の書記官もハッキリ言っていたことで、私も全く同感ですつまり、スラブ人としてはリアリストでクレヴァーなんですが、それだけに、あまり可愛げは無いただ、やはりスラブ人だけに、一皮剥けば、感情的な民族です
2012.12.21
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あるきっかけで、共産主義社会の利点を再確認することになった共産主義体制は、結局資本主義には負ける運命・構造なのだがその中で生きるという事は、意外にも、それほど悪い生活でもないのだ第一に、格差のない社会というものは、安心なのだ(笑)人間の不幸感というものは、ほとんど、他者との比較から発生するまあ、それが、人間の特質だが旧共産主義国であった東ドイツの国民のほとんどが共産主義であった頃の方がよかったという意見だというそう言えば、ポーランド人から聞いた話でも旧体制化の医師や教師などのインテリは旧体制のもとでは、ちゃんと生活を保障されていたがベルリンの壁が崩壊し、資本主義の体制になってからは生活が苦しいという儲かるのは、一部の闇商人や強欲な資本家まあ、何よりも、厳しい競争にさらされて、格差の悲哀を味わうことがつらいのだ----共産主義経済は、計画経済であるだから、その製品は、最低限のニーズを満たせばいい程度のもので、資本主義経済が生産する製品には、市場で惨敗するもし、この世界すべてが共産主義社会であるか、共産主義社会を資本主義経済との競争にさらされないように、シールド、密閉しておく、クローズドな世界にしておくことが出来れば、共産主義経済も生き残れるかも知れないしかし、それは、しょせん、不可能資本主義との接点で、ほころびが出来て、やがてそれが拡大して、崩壊に向かうのである経済だけ見てもこういうことだが、これは、思想・言論の面からも、ほぼ、同じ事が言える共産主義というものは、このように、異質性や競争というものに対して脆弱な社会なのである----「コロンビア大学白熱教室第二回」を見たテーマは、「選択」米国人は、朝の歯みがきから洗顔1日のすべてを「選択」と感じて、選択しているという一方、アジア系、日本人などは、歯みがき・洗顔を単なる生活の中のルーティーンとしてとらえていて、選択とは感じていないという私も、そうだがいずれにしても、選択というのは、確かに人生そのものかも知れない選択が非常に限定されていた旧共産主義諸国での生活なかなか、参考になると思う(笑)過去ログだが、再現してみよう クリック ↓共産主義国で暮らすとこうなる 過去ログ
2012.02.21
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共産主義国で暮らすとこうなる 共産主義国で住む人間の生活実感私の本職は、中東湾岸産油国でのプラントビジネスだったのだがベルリンの壁の崩壊以前の共産圏でも、プラント輸出の営業活動をした経験がある外国人にとっては物価が安く気楽な一面がある共産主義国での生活だがやはり今、こうして思い出してみるとその中でも共産主義国独特の主ぐるしい抑圧の感覚がよみがえってちょっと重い気分になるものであるそれはともかく東欧の共産圏諸国でかなりの期間、暮らした実績のある人間として当時の、昔の、共産圏で暮していた人間の俗な実感をみなさんに教えてあげよう東西冷戦が終わって久しい今日この頃まして共産圏経験のある人などほとんどいない日本人にとっていまどき、ちょっと遅い感はあるが、こ~ゆ~情報は貴重だろうと思う ―――― ◆ ――――ただし、前提条件としてこれは私が経験した「東欧の共産主義諸国に限る」わけで下記の諸国についてはよくわからない● 生き地獄の北朝鮮● カストロが意地で死守するキューバ● 金満・欲望地獄の人治主義共産制(笑)の中国(笑) ―――― ■ ――――○ 同じ貧乏でも、みんなが平等に貧乏であれば、焦りや、嫉妬が無いから、楽なものだ○ 競争が無いから向上心も不要、楽なものだ○ どうせ金満生活なんか、一生懸命働いても不可能だから、努力などしなくていいから、毎日のんびり○ 工場でも「カイゼン」とか、「ゼロ運動」とか、「トヨタのかんばんシステム」などの努力目標が無いから、楽なものだ○ 清貧を日々実践する、清貧を絵に描いたような日々(笑) 自分で選択したわけじゃないけれど○ 反体制活動さえしないで、余計なことをしゃべらなければ、それほど「圧政」の実感は無い○ ただし、計画経済下では、物資不足で、配給で長い列に並ばなければならない これが辛い○ いつでも想定外の「肉」などの掘り出し物に対応出来るように買い物袋の携行が欠かせない○ 外国人にとっては、商品のバラエティーこそ全く無いものの、なにしろ物価がバカ安だから、本国では極貧という人間でも(笑)ここでは王様気分○ 産休は半年ぐらいもらえる○ 産休を一年取っても、だれも文句は言わない○ 夏休みは、まるまる二ヶ月ほど○ どこへ旅行しても、交通費も、宿泊費も安い○ 計画経済だと、供給量と質が限定されるので、欲しいものはワイロで入手 ワイロが罪悪だと思う者はいない○ 共産党員はいばっているが、いばらせておけばいい(笑)○ 先祖が貴族などと言う出自の卑しい者は(笑)学校の成績も差別される○ 農奴出身者や代々労働者などという高貴な人間が、ここでは(労働)貴族(笑)○ でも、元上流階級・インテリ出身者やその家族は、やはり知的能力や意識やモラルが高い○ だから、農奴出身や労働者専門階級(笑)は、やはり本当は劣等感を持っている○ 本気でプロレタリアートバンザイと思っている者は少ない○ 商売気のない医者や教員などのインテリ層にとっては、住みやすい世界○ ブランドものや、高級品、贅沢品は原則として売ってないから、物欲は刺激されない○ 服装も共産主義諸国共通のダサイものだが、なかには毛皮などの高級品(に見れる)ものを来ているものがいる しかしそれは共産主義になる以前の時代の、時代物だから、よくみると古色蒼然(笑)○ それで制限のなかでもお洒落はしたいのが女性の性 限られた範囲内でお洒落を試みるが、まあ、多少のデザインの差だけ(笑) やりすぎると、奇抜なものだったり、悪趣味になる○ 資本主義世界の激しい生存競争で生き抜く能力がないくせに、それに憧れる○ 初期の共産主義時代には、資本主義諸国と同等の工業製品や建物などを誇っていたのだが、競争の無い世界では、進歩が無いから、すべてが老朽化して旧型になってしまって、みすぼらしくなって、資本主義国の繁栄?に遠く置き去りにされる○ ポーランドなどでは、昔、米国に移住した金持ち?の親戚を「アメリカのおじさん」と呼んで頼りにする(まあ、当時のポーランド人に比較すれば米国の庶民でも金持ち)(笑)○ 現地通貨は価値と権威が無い ドルが強い通貨として珍重される○ 前世紀の遺物のような進歩の無い自動車でも一家にとっては誇らしい それにちゃんと動く(笑)○ この共産圏の最新型自動車は、原価や効率など無視した製造法で作られているから、車体は重くて分厚い鉄板で出来ていて、事故にあってもビクともしない(笑)○ もっとも東ドイツでは主な材料が固めた段ボールという車が堂々と人気車だった○ 中にはフィアット製の乳母車のサイズの超小型車もあったが、堂々と高速道路を走行○ 全体にスピードを出せる車が少ないから、交通事故も比較的、少ない○ 物資不足だから、職場で働くのはそこそこにして(笑)、買い物の列に並んだり、少々のアルバイトをしたりする○ といっても、土地と物価が安いから、郊外に別荘を持っている人間も多い そこの家庭菜園で野菜を栽培して食糧不足を補う○ 街にはレストランが少ない おまけに値段が高いから食事は家庭ですます○ 職場の昼食時、オフィスの外に出てレストランに入る人間はほとんどいない 自宅からサンドイッチやチーズやリンゴなどの弁当持参○ レストランも外国人が宿泊する高級ホテル以外はまずい○ 値段が高いと言っても、闇マーケットのある外貨を持っている外国人にすれば格安○ デパートも数少ないものの一応ある(笑) しかしそこで売っている国産品は、デザインがダサイし、品質が悪くて外国人にとっては魅力ゼロ○ 外国人は金を持っているし、良い服装をしている と言っても外国人がみな魅力的で美男美女でもない 国産の(笑)女性達に「鄙には希な美人」が多いというのが数少ない自慢○ オペラ・バレエなどの芸術には人民の味方(笑)である国が力を入れていて、入場料は非常に安い 外国人にとってはありがたい事のひとつただし、抜きん出たスターは、すぐ、西側に引き抜かれてしまう○ 旅行しても、観光地にはなんにも無い ありのままの自然があるだけ○ 闇ドルの売人が横行する わずかの差額をかせぐらしい 韓国など、いまでも空港でドル買いがいるが、いったい、もうかるのかな~?○ 資本主義の国に較べて、圧倒的に娯楽が少ない せいぜい映画とか芸術鑑賞などの清潔系の娯楽しかない 飲み屋や風俗系が不足している(笑) 猥雑さや淫らさ(笑)の無い世界というのは、多様性に欠けて実に退屈なものだ 風俗など、例えば私のように絶対利用しなくても(本当?)、あるというだけで豊かな気持ちになる (オイオイ) こういう点で、共産圏の国に長く住んでいると、退屈でヒマをもてあまして、西側に息抜きをしに出かけたくなる ―――― ◇ ――――同じ共産主義国でも、体制の締め付けが厳しい国もあれば、そうでない国もあるそ~ゆ~違いには、ここでは、触れていない当局にスパイを勧誘されたりしたことにも触れていない知り合った人に、変に、妙に、しつこく接近されたりすることにも触れていないそれについては、また別に書こうと思う
2009.11.02
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東欧の想い出 【復刻日記】takrankeさんが読んでくださっているようなので、旧共産主義国ネタを続けている旧東ドイツの体験談のリライト作業が進まないので、この【復刻日記】にする ―――― ◇ ――――【復刻日記】東欧の想い出私は仕事の関係で旧共産主義の東欧諸国にも長期出張したことがあるが、ベルリンの壁の崩壊以前の時代の正統的な?共産圏ではテレビのチャンネルも2チャンネルぐらいしか無かった。もちろん公共放送、それも白黒。だから、全国民がほとんど同じ番組を見ていたわけである。ラジオもだいたいそんなもので、みんなが同じ番組を聞いているものだから、夏休みの昼間のガラーンとした建物の間で、その番組の音声が各家庭から響いて共鳴していたのを思い出す。長い夏休はフランスの専売特許ではない。共産主義の数少ない余録として、共産圏の労働者諸君はけっこう長い期間の夏休みが取れた。夏にはほとんどの人が街からいなくなる。(産休は数ヶ月あって、これは女性にとってうらやましい話しだと思う)東側と言えど、別荘を持っている人はざらにいたし、別荘を持っていない人も組合の施設に宿泊したり、農家に一時的に間借りをしたりと方法はさまざまでも、とにかく海や田舎に向かう。私はポーランドに滞在中の夏休みにはワルシャワ近郊の避暑地の別荘に泊めてもらうことが多かった。共産圏・東側・東欧の夏なんて寒いのではないかと思われるかも知れないけれど、カラッと湿気が無くて温度も結構上がって、日本の夏よりはるかに過ごしやすい。日本の軽井沢とか北海道の夏と言えば当たらずとも遠からずだが、しかしもっと温度は上がる。経済破綻に陥った当時の東欧だから避暑地といっても物質文明の恩恵を受けたものではなかったけれど、かえってひなびた雰囲気で、避暑地の自然そのものを味わえるひっそりとした夏だった。貧しい玩具を売る屋台やジュースやアイスクリームを売る店、ビールのカフェぐらいがせいぜい。子どもは川へ泳ぎに行ったりだが、おとなの楽しみは寄り集まってのおしゃべりだ。もう一つある。夜のテレビの映画放映である。黒沢作品はあちらでは非常に人気があって、昼間の話題からすでに「今晩は黒沢の映画があるよね」などと言う。私もそんな機会に「七人の侍」をテレビでた。観ていて奇妙に感じたのは、私達が洋画を字幕で観るのとはちょうど反対で、セリフはオリジナルの日本語で、字幕が現地語になるから、鑑賞は非常に楽(?)だった。もっともテレビそのものの性能も劣悪だし、テレビ局の放送の発信装置も旧式で画面はとても西側のそれとは比較にならない程度のものだが、それしかないとなるとそれほど不満は感じないものだ。ラジオの方となると、夜8時頃の定時になるとポーランドの人たちがラジオにかじりついて聞く番組があった。短波放送かなんかで聞きづらいものだから、彼らは旧式で大型のポータブルラジオを耳に押しつけて聴いていた。それはロンドンのポーランド亡命政府からの、たしか、「自由ポーランド放送」とかいった放送だった。ドイツの侵攻以降、ポーランド政府は地下に潜り、やがてはロンドンにその本拠を置く事になり、その放送はその亡命政府からのもので、言論統制されていた当時のポーランド国民にいろんな「真実の」情報を提供していたわけである。この亡命政府には多くのポーランド人が参加し、ドーバー海峡をはさんだ英国とドイツ軍の有名な空戦(ある意味でドイツ敗戦の大きな原因となった)「バトル オブ ブリテン」にも多くの優秀なポーランド人パイロットが義勇軍として参加、大活躍した。しかし戦争が終わると英国はこのポーランド人パイロットの活躍をほとんど認めないまま歴史の闇の中に葬ってしまった。プライドの高い英国としては英国人パイロットだけの手柄にしたかったわけだ。私は一度ワルシャワからロンドンへの機中で隣の座席に座ったロンドン在住のポーランド人老夫妻と話す機会があったのだが、奇しくもそのご主人が、くだんの「バトル・オブ・ブリテン・パイロッ」トの一人だった。・・・といってもそれを当のご本人からでは無く、なにくれと彼の世話をしている奥様から聞いた。その戦功から英国永住権はもらったのだろう。ご主人は、もう痴呆が進んでいる様子で、ただただ黙って窓から外をながめていた。大戦末期のイタリア戦線のローマ近くにそびえる丘の上にある堅塁モンテカシーノ僧院での史上最も激しかった歴史的な戦いというものがある。連合軍側がいかに攻めに攻めてもドイツ軍が頑強な抵抗を示して、死屍累々となった戦場だが、長い長い戦闘の後、多大な犠牲をだしながら僧院に踏み込んでその国旗を掲げたのはこの亡命政府系ポーランド軍だった。アンジェイ・ヴァイダ(ワイダは英語読み)の名作「灰とダイヤモンド」。その一場面で女性が「モンテカシーノの赤いケシの花」という歌を直立不動の姿勢で歌いますね。あれはモンテカシーノの戦いで戦死した多数のポーランド兵たちの流した血を赤いケシの花にたとえた歌なので
2009.10.27
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【復刻日記】 秘密警察将校の夫人とダンスをしたら昨日の「あなたの浮気度チェック」という日記に、ウイッシュ108さんがこういうコメントをくださった ~~~~~~~~>もう少しで殺されかけるようなそそそそ~~そーんな恐ろしいことがあったのですかぁ~@@日記のどこかに書いてありますか??・・ ~~~~~~~~マフィアのメンバーの奥さんとの「想い出」は、二日にわたって書いたが、その最後の部分はまだ日記に書いていないそのうちに書くことにしよう過去日記を探して、同じく「もう少しで殺されかけた話」の一つを今ようやく探し当てたせっかくだから、それに今日はかなりの二日酔いだから、この日記を【復刻日記】にしてしまおう―――― ◇ ――――【復刻日記】ヴィエトナムでの「死にかけた話」は未だあるんですが、今回は趣を変えて旧共産圏の某国での「死にかけた話」あるパーティーにその土地の奥さん連中に誘われて参加したのですがなぜ奥さん連中に誘われたのか?を先ず説明しましょうベルリンの壁の崩壊前の東西冷戦の時代です旧共産圏はレストランも原則的に国営ですから、美味しくありませんそこには競争原理が働いていないからですそれに比べ、少数派の私営ライセンスを持っている店は、かなり美味しいのですが、そもそもレストランの絶対数が少ない首都の地図を見てみるとその中にフォークとナイフのシンボルでレストランの位置が示されていますその数がほんの数えるほどですそれに値段も高いから(外国人にとっては闇ドルの貨幣価値の関係で実に安いのですが)なにか「ハレ」の事でもない限り、あまり現地の人々はレストランには行かないのですでもそういう国では必ず家庭料理が旨い必要は発明の母、少ないレストランの数は美味しい家庭料理の母・・・私は独身だったので、レストランで一人で食べるのは味気ない自分でマーケットに買いに行って自炊もしたのですが、やはり男の自炊は料理の種類もミニマムですし、美味しい料理を作り出す境地にまではなかなか上達しませんある時、仕事上で知り合った現地のある男性の家庭に招かれました家庭料理をごちそうになり、楽しいおしゃべりをしながら(このクラスの奥さん達はけっこう英語も話しました)美味しい料理を思い切り食べたのです私がモリモリ(ガツガツかな?)食べるとその奥さんは非常に喜んでくれました彼女たちの旦那さん達はこの奥さん達が手間をかけた美味しい料理に対する感謝のジェスチャーが、大いに不足していたらしいのです「もっと食べなさい もっと・・・」と、あきれている旦那さん達に見せつける様に、私に食事をすすめてくれるのです(もちろん私もおみやげにワインやウィスキーや花を持って行きましたが)食事だけではなくて・・・奥さん連中は中年の、いわゆる倦怠期の人達で、旦那さん達からは彼女の「美」に対しての賞賛のジェスチャーが大いに不足している様で、さらに子供たちも巣立っていわゆる「空っぽの巣症候群」(元は英語でそれを正確に思い出せないけれどvacant nestかな?)奥さん連中はいろんな不満からアル中になっている人も多かった気の毒私は食事の恩義もあり、こういう「元美女」の昔の栄華?をしのびながら「あの奥さんはまだまだ美しい」とお世辞を言ったのです事実、昔の写真や肖像画を見ると美人でした直接本人には言わず間接的に他の奥さん経由これも陰険ですが、初めから意図したところではありませんただ効果は大ありでしたこれで「あなた、食べにいらっしゃい」と奥さん連中のプチ・パーティーや休日の別荘などに招かれるようになって、美味しい食事をごちそうになりましたし、家族旅行などにも参加したりもしました今でも彼女達に電話して「あの人は今どうしている?」など、懐かしい人達の話をすることがありますついに離婚をしてしまったカップルもいるのですが~~~~~~~~~で、ある日の夕方、冬で雪が積もっていました彼女たちの友達の一人が主催するパーティーに、私も誘われて同行しました着いてみるとその国の人々が中心で、私としてはどの人が英語をしゃべれるのかわからないまま、しばらくは、暗~く、ひとりで酒だけを飲んでいたのです奥様方は hen's party というのか、女性同士でおしゃべりに夢中ですその内にアコーディオンを弾き出す人がいてリクエストを募ったので、私はその国の愛国歌というか悲しい軍歌というか?そういう歌をリクエストしたのですその曲は、死んだ兵士の血がひなげしの花の様に赤く・・・という歌詞だったかな?一人で飲んでいた私は酔いもあったのか?その曲を皆と一緒に歌いながら、どうしたことか?私の目から水分が、つまり涙がボロボロ出てきたのです外国人のくせに、その愛国歌を歌いながら泣くという愛国的な??私に、周りの人々がちょっとひいていてのを覚えていますその後すぐダンスの時間になって、このパーティーに連れてきてくれた奥さん連中が誘いに来たのですが、私はこれでもシャイというか? ダンスが下手というか?(全然違う理由だろ?)、未だ踊っている人が少ない状態では踊れない人間なのです「申し訳ないが、後でね」・・・と断っていたのですがそのうち、身体にピッタリとした黒いレースのゴージャスなドレスを着たブロンドの女性が私に近づいてきて、黙って私の手を取って、・・・私は気がつくと彼女と踊っていたのです(この国の女性はほとんどブロンドなのですが)私はダンスにあまり自信が無かったから、彼女の反応を見ようと彼女の顔を見てみると、とても優しい表情でニッコリ笑うのですしかも彼女、美人ですその国の女性は一般的にやや小柄で、小粋で、どちらかというとほっそりした女性が多いのですが、彼女はどうもゲルマン系の血が入っているらしく、長身で、しっかりした体つきで、ゴージャス系の美貌、いわゆるクラッシー(上流)な容姿です(東欧にはドイツ騎士団の領土があり、ドイツの植民もありゲルマン系のドイツ系やオランダ系の人がいました)顔つきは違うのですが、雰囲気はいわばマレーネ・デートリッヒを思わせる感じです彼女の笑顔に元気づけられて二・三曲踊って・・・、もう止めようかなと思ったのですが、彼女は止める様子がありません不安だから「私はダンスがへたでしょう?」と彼女に聞いてみたら「いえ、上手よ」とお上手を言ってくれました彼女がますます美人に見えてきました6曲程も踊ると難易度の高いタンゴの曲がかかり、ダンス入門者の私はついて行けなかったので席にもどりましたそれからそこで、ようやく(笑)英語を話すスエーデン人の少年を見つけ出して話し相手が出来ましたしばらくすると、くだんのブロンド美人がまた寄ってきて、今度はその家の内部を案内してくれたのです彼女はお客だから、自分の家でも無いのに・・・ですその家の夫婦の寝室にまで入って行って、そこの壁に掛かっている家族や共通の友人達の写真についての説明をしてくれるのです私としてはすこぶる付きの美人が優しく親切にしてくれるのでなんの不満もありませんと・・・、その時、奥さん連中の一人があわただしく入ってきて、私に「もう帰ろう!」というのです私としては「え~~!? どうして???」ですまだまだパーティーは続くはずですそれに、こんな美人と親しくなったのですから、できればパーティーの最後までいたいなにか、ハプニングもあるかもしれないし・・・なにかというか、そ~ゆ~種類の・・・そのブロンド美人が何か奥さんに文句を言って、奥さんが言い返していました私は結局、その奥さんの厳しい表情に押されて、他の奥さん連中と一緒にそそくさと帰ることになりました車の中で奥さん連中がむっとしている様な雰囲気なのです私が彼女たちとのダンスを断りながら、その一方であの美人とは何曲も踊ってしまったからでしょうか?何か言いたくても、恐ろしくて(笑)、彼女たちがムッとしている理由を尋ねることはしませんでした~~~~~~~~~それから半年ほど経って、またその奥さん連中と飲んでいました私がなにげなく「あのパーティーはあれからどうなったの?」と聞いたところ、一人の奥さんが急に険しい表情になって!、「実はあなたはあの時、ビッグ・トラブルに直面していたのよ」というのです「あなたがダンスしていた女性は、秘密警察の将校の奥さんだったのよあの奥さん、あなたとダンスをした後で『彼はチャーミングだわ彼とどうしても make love したいわ!』って言い出したのよそうしたら、彼女の夫がそれを聞いて怒って、ピストルを持ち出して『その男を殺してやる』って言い出して大騒ぎになって、だから、私達はあなたを急いで連れて帰ったのよだから私達はあなたの命の恩人よ!それに・・・私達とのダンスは断りながら、彼女とばかり踊って・・・」奥さんの旦那さんの一人が傍でこの会話を聞いていて、「秘密警察の将校?それはすごい地位じゃないか?」と他人事の様に感心していました当時の東欧では確かにそうでしたしかし私は・・・ガ~~ン!!「日本人出張者の射殺死体が発見された」・・・という新聞記事が目に浮かびます私の死体はドライアイスを詰められて日本に無言の帰国をする多数の女性がすすり泣きながら迎える・・・(これは無いか?)それでも・・・、実は、私は、あのブロンド美人について、もう少しだけ、詳しい話を・・・、どこに住んでいるとか、電話番号は?とか・・・、そういう情報を、少しでも、ほんの少しでも、なんとか教えてもらいたい・・・強い願望があったのですが、奥さん連中の厳しい視線を前にして、もう何も聞き出すことは出来ませんでしたそれにしても私も危ないところだったそれに彼女はどうしてパーティーの場でそんなことを言い出したんだろう彼女、キレる人なんだな~あの秘密警察の夫も、美人だが淫乱な妻に苦しんだのだろう(淫乱という言葉が好きなので、乱用しています)ひょっとしたらもう何人も射殺しているかもしれない(それは無いか?)少なくとも、ああいうことも一度ならず起こったんだろうそれにしても、安全な状況でもう一度彼女に逢いたいな・・・という気分も、正直言ってありました・・・あっ!そんなことを言っても、昔の話だった
2009.10.23
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■ チェコ・プラハの国立オペラ劇場での贈賄疑惑 【復刻日記】ブログを書くと言うのも、時間を取られるし、ブログの倦怠期と感じる時もある忙しくて書けない時もある疲れて書けない時もあるなぜ書いているのか?まるで読者へのサービスのために続けているような気持ちになって休みたい時もある毎日書いている人はみな、そういう時があるはずだと思う私など【復刻日記】を交えているので、まだ楽をしている方だがしかし、ほとんどの毎日更新組は、そういう倦怠感とか疲労感について書かないな~そう言う人達は超人だと思うまあ、内容にもよるけれどリフレッシュのために小旅行にでも行こうと思いながら、諸事情でなかなか行けにでいる今日も【復刻日記】で省エネである ―――― ◇ ――――元旦に「ウィーン・フィル・NEW YEAR・コンサート」を途中から観た・・・、と言うか、聴いた。ベルリン・フィルのシルヴェスター・コンサートも格式があるが(こちらの方は今年、三大テナーコンサートでの指揮で有名なラトルが指揮)、なんとなく、根拠無く、正月はウィーン・フィルでしょう。(意味不明)このウィーン・フィル新春コンサートは、このところ毎年、日本のテレビで放映するようになった。指揮のロリン・マゼールが、各国語のあいさつに日本語も入れている。「アケマシテ オメデトウ ゴザイマス」と、ちゃんと言っていた。それはそうだろう。観客というか聴衆というか、お客さんの中で、「日本人」が多いのだ。白人でないがゆえに一層目立つのだが。日本のお金持ちの、それも文化を意識するお金持ちの、一つのステイタス・シンボルになっているような雰囲気なのだ。嫉妬心の強い私など、思わずこの方々の悪口を書きたくなったが、・・・ハーハー・・・。思い直して・・・ コホン! ほめよう!こう言うのはいいのではないかな~。みなさん、落ち着いた品性のある熟年夫婦(カップル)だし、他の悪趣味な新春じゃないものね。文化的には最高!マゼールは、バイオリンを弾きながら指揮。えっ? ヴァイオリン、弾けるの?いや、その前に歌ったりしたらしいのだ。考えてみたら音楽家だから、歌えて弾けてもいささかも不思議は無いのだが、ついつい指揮者は、棒を振っているだけの人だと思いこんで、・・・失礼しました。このヴァイオリンがすごかった!ちょっと音色が、倍音がかっていたけれど(どうしてかな?)、そのフィーリングがすごくよかった。そう言えば、マゼールはアンジェラ・ゲオルギューを見いだした人なんだった。彼女を自宅に呼んでテストして、その歌唱に驚いたというのだが、本当は彼女の美貌に惹かれていなかった?マゼールさん。・・・と言う風に、とてもよかったのだが、途中で見はじめたので例年の指揮者との比較ができないままにおわってしまった。それに今回は、演奏会の結びの恒例となっている、あの満場の手拍子の!「ラデツキー行進曲」を、スマトラ沖大津波に配慮し、演奏を自粛してしまった!それはないよ!マゼールさん!反対なんじゃないの?景気のいいラデツキー行進曲でみなを元気にすればいいじゃないのだいたい、自粛って、どんなものでも私は嫌いだなおもねているか、かんちがいである椿姫の「乾杯の歌」とともに、「ウィーンの森の物語」「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」が大好きだった母(介護中)に、テレビの音を大きくして聞かせてみた、あまり反応を示さない。三大テノールのビデオを聞かせても同様。人生とは哀しいものだ。~~~~~~~~~この演奏が催されるウィーンの「楽友会館」という邦訳が、なんていうのかな~ 微笑ましい。多分、直訳なのだろうと思うのだけれど。楽友会館の内部は、それこそ西欧文化の極致を金銭的に表現したもののようで、先日、NHKで放映された「ドナウの旅」(だったかな? 言ってきますけれど!!、私はNHKの味方です プロレスの味方ではありませんが) での、シェーンブルン宮殿の、人類の文化と豪奢の極致というような装飾だらけの、キンキラキンと同じだ。すごい すごい!日本のシンプル・質素な皇居とは正反対だ。これを見て、チェコ・プラハの国立オペラ劇場を想い出した。私はプラハに長期出張していたことがあって、その時に、スメタナの「売られた花嫁 Prodana nevesta」などを見に行ったのだ。その当時の共産圏は芸術の入場料が外国人にとってはメチャメチャ安くてありがたかった芸術振興という共産主義諸国の政策はよかったついでですがプラハはすごい街ですよ。百の塔の都と呼ばれていて、中世の街並みがそのまま残っていて、まるで中世にタイムスリップ下みたいだから、ハリウッドの時代劇はほとんどプラハでロケするという。それにチェコの映画技術というのは戦前から定評のあるところ。というところで、チェコ出身の映画女優、ヘディー・ラマーを想い出した。チェコ・プラハの国立オペラ劇場。戦前はドイツ劇場と呼ばれていたオペラ劇場で、内部のキンキラぶりもかなりなもの。「売られた花嫁」を聞きに、劇場へ行ったはいいのだが、立ち見席しか取れない。しかたなく、とりあえず入ったが、開幕前にゴンドラ席の裏へ行ってみた。突如、なんの脈絡もなくお勉強ですが、共産主義経済というものはそもそも、計画経済だから需要量に見合った商品しか生産しない。その点、資本主義は需要量に関係なく生産するから余剰が出て、競争原理が働く。その結果、品質・デザインなどがよくなって、共産主義国の製品をしのぐ。結果的に共産主義経済は資本主義に負けて崩壊した。・・・ということを書きたいのではなくて、共産主義国では計画経済なので需要ギリギリの製品しか生産しないから、その製品を手に入れるためにはワイロしかない。かくて共産主義国では生きて行くためにはワイロが必須だった。・・・と言うことを書きたいのではなくて、共産主義国ではワイロが非常に効果的だったのだ。で、ゴンドラ席のうらあたりには、案内のおばちゃんたちがうろうろしていて、このおばちゃんに「面倒みてよ!」とお願いしたら、よろこんで「空いているゴンドラ席」に案内してくれるのだ。切符は売り切れのはずなのに「空いているゴンドラ・バルコニー席」があるというのもおかしいが、それが不条理の共産主義社会なのである。で、「売られた花嫁」も、豪華なゴンドラ席で観劇させていただきました。おばちゃんに渡したお小遣いも、私にとってはほんの小遣い銭程度なんだけれど、オバチャンもハッピー、私もハッピーで win win situation だった。共産主義よ、再び!・・・なんていうと、怒る人がいる。
2009.03.01
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東欧の想い出 【復刻日記】共産主義の話が出たついで、それに多忙?なのでまた【復刻日記】としたい □□□□□□□□私は仕事の関係で東欧圏諸国にも滞在したことがあるベルリンの壁の崩壊以前の時代の正統的な?共産圏では、テレビのチャンネルも2チャンネルぐらいしか無かったもちろん公共放送、それも白黒だから、全国民がほとんど同じ番組を見ていたわけであるラジオもだいたいそんなもので、みんなが同じ番組を聞いているものだから、夏休みの昼間のガラーンとした建物の間で、その番組の音声が各家庭から響いて共鳴していたのを思い出す長い夏休はフランスの専売特許ではない共産主義の数少ない余録として、共産圏の労働者諸君はけっこう長い期間の夏休みが取れた夏にはほとんどの人が街からいなくなる東側と言えど、別荘を持っている人などは結構いたし、別荘を持っていない人も組合の施設に宿泊したり、農家に一時的に間借りをしたりと方法はさまざまでも、とにかく海や田舎に向かう私はポーランドに滞在中の夏休みにはワルシャワ近郊の避暑地の別荘に泊めてもらうことが多かった共産圏・東側・東欧の夏なんて寒いのではないかと思われるかも知れないけれど、カラッと湿気が無くて温度も結構上がって、日本の夏よりはるかに過ごしやすい日本の軽井沢とか北海道の夏と言えば当たらずとも遠からずだが、しかしもっと温度は上がる経済破綻に陥った当時の東欧だから避暑地といっても物質文明の恩恵を受けたものではなかったけれど、かえってひなびた雰囲気で、避暑地の自然そのものを味わえるひっそりとした夏だった貧しい玩具を売る屋台やジュースやアイスクリームを売る店、ビールのカフェぐらいがせいぜい子どもは川へ泳ぎに行ったりだが、おとなの楽しみは寄り集まってのおしゃべりだもう一つある夜のテレビの映画放映である黒沢作品はあちらでは非常に人気があって、昼間の話題からすでに「今晩は黒沢の映画があるよね」などと言う私もそんな機会に「七人の侍」をテレビでた観ていて奇妙に感じたのは、私達が洋画を字幕で観るのとはちょうど反対で、セリフはオリジナルの日本語で、字幕が現地語になるから、鑑賞は非常に楽(?)だったもっともテレビそのものの性能も劣悪だし、テレビ局の放送の発信装置も旧式で画面はとても西側のそれとは比較にならない程度のものだが、それしかないとなるとそれほど不満は感じないものだラジオの方となると、夜8時頃の定時になるとポーランドの人たちがラジオにかじりついて聞く番組があった短波放送かなんかで聞きづらいものだから、彼らは旧式で大型のポータブルラジオを耳に押しつけて聴いていたそれはロンドンのポーランド亡命政府からの、たしか、「自由ポーランド放送」とかいった放送だったドイツの侵攻以降、ポーランド政府は地下に潜り、パリに行き、やがてはロンドンにその本拠を置く事になったその放送はその亡命政府からのもので、言論統制されていた当時のポーランド国民にいろんな「真実の」情報を提供していたわけであるこの亡命政府には多くのポーランド人が参加し、ドーバー海峡をはさんだ英国とドイツ軍の有名な空戦(ある意味でドイツ敗戦の大きな原因となった)「バトル オブ ブリテン」にも多くの優秀なポーランド人パイロットが義勇軍として参加、大活躍したしかし戦争が終わると英国はこのポーランド人パイロットの活躍をほとんど認めないまま歴史の闇の中に葬ってしまったプライドの高い英国としては英国人パイロットだけの手柄にしたかったわけだ私は一度ワルシャワからロンドンへの機中で隣の座席に座ったロンドン在住のポーランド人老夫妻と話す機会があったのだが、奇しくもそのご主人が、くだんの「バトル・オブ・ブリテン・パイロッ」トの一人だった・・・といってもそれを当のご本人からでは無く、なにくれと彼の世話をしている奥様から聞いたその戦功から英国永住権はもらったのだろうご主人は、もう認知症が進んでいる様子で、ただただ黙って窓から外をながめていた ―――― ◇ ――――ポーランド軍が参加したもう一つの激戦がある大戦末期のイタリア戦線ローマ近くにそびえる丘の上にある堅塁モンテカシーノ僧院この僧院は連合国軍の進軍の途中にあって、そこでは史上最も激しかった戦闘のひとつという歴史的な戦いが行われた連合軍側がいかに攻めに攻めてもドイツ軍が頑強な抵抗を示して、死屍累々となった戦場だが、長い長い戦闘の後、多大な犠牲をだしながら僧院に踏み込んでその国旗を掲げたのはこの亡命政府系ポーランド軍だった日露戦争の203高地の戦いのようなものであるアンジェイ・ヴァイダ(ワイダは間違い)監督の名作映画「灰とダイヤモンド」その一場面で女性が「モンテカシーノの赤いケシの花」という歌を直立不動の姿勢で歌うあれはモンテカシーノの戦いで戦死した多数のポーランド兵たちの流した血を赤いケシの花にたとえた歌なのです
2008.09.19
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この所、私の初の赴任地であるヴィエトナムの思い出話ばかり書いているので、ちょっと趣を変えて、旧共産圏の東ドイツでのビジネスの話です。この話は以前にも書いたので、一応【復刻日記】とも言えますが、東西冷戦が終わって、もう時効となったので、今なら書けることもあるということで、かなり書き足しをしています。 □□□□□□□□そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅があったドイツが東西に分かれていた時代の事です。私は東ドイツ(共産主義体制の方のドイツ)と、ある工場施設の輸出商談の交渉をしていました。日本側は私の商社とあるメーカーがチームを組み、商社のリーダーは私でした。相手側は、東ドイツの貿易公団です。貿易公団も一種の商社で、最終的なユーザーは東ドイツの工場。私が滞在していた頃は、ベルリンもまだ西ベルリン(西側)と東ベルリン(共産圏側)に分かれてました。私の会社のオフィスのある西ベルリンから、オフィスの無い、客先の東ベルリンへ毎日通勤?していました。毎日の交渉は、朝9時から、夕方6時頃まで、びっしりです。その内容は東京に報告しなければならない。それは時差があるので主にファックスでやっていました。それに対して、折り返し返ってくる東京の返答を受け取らなければいけません。その返答の内容とは、技術的な解答だったり、客先に示すプラントの部分の値段だったり、様々です。東京への詳細な報告書を書くだけで二時間ほどかかります。だから、時間的なことを考えれば、もちろん東ドイツのホテルに宿泊した方がいいのです。しかし、それを東ベルリンのホテルでしていたのでは、盗聴している東ドイツ側に情報が筒抜けになります。だから、毎日、交渉が終わったらいったん西ベルリンに帰ってから、深夜、交渉の報告を東京にファックスで送ったのです。翌朝は、東京からの返答のファックスを見て、東ドイツの客先に向かう。それは睡眠時間がほとんど取れない、厳しい毎日でした。 ~~~~~~~~東ベルリンの雰囲気は華やかな西ベルリンから180度ちがっていました。だいたい中欧・東欧の冬は、日も短く、雲が低く、昼間と言えど夕方のような薄暗さ。温度も零下10度程度の厳寒です。それよりもなによりも、当時はまだ東ベルリンから西ベルリンへの脱出者がいたころでしたから、国境や駅は、非常に暗いし、東ドイツの完全装備の兵士が大勢立っていて、実に重苦しいものでした。電車で西側から東側に入る寸前、高架の上から川沿いに伸びるいわゆるベルリンの壁が見えて来ます。壁の周辺は地雷原になっている事が多く、ここで脱出を試みた多くの人びとが射殺されたのです。中には西側にトンネルを掘って脱出した人々もいます。そんな題材のドイツ映画「トンネル」という映画があるそうですが、私は未見です。「寒い国から帰ってきたスパイ」「第三の男」鉄のカーテンをめぐるストーリーの映画も多いですね。通勤と言っても東ベルリンの駅に到着してからパスポート・コントロール(入国管理事務所)でONE DAY VISAをもらい、税関を通り抜けるまで、それだけで片道たっぷり一時間かかるのです。ホテルからのDoor to Door なら、片道二時間以上かかるのです。 ~~~~~~~~ビジネスの面でも東ドイツの人間は、これ以上ないほどのハード・ネゴシエイターで、そういう相手と厳寒の中、通勤を含めて朝から晩まで、受注の見込みが見えないまま数ヶ月ハードなネゴ(交渉)をしたのは精神的にも肉体的にも辛い経験でした。客先で出してくれる昼食も、固い食パンにサラミとピクルスをのせたオープンサンド二枚と、ガス入りのミネラルウォータ、それに紅茶だけというスパルタンなもの。 ~~~~~~~~しかしそんな中で、ある日相手側の部長(女性)が、休日に博物館見物に誘ってくれました。実はこんなに長いあいだネゴをしていても、競争している会社の状況がさっぱりわからず、だからといって公式のネゴの席ではとても聞けるものではなく、困っていた私たちに彼女がチャンスを与えてくれたのです。どういうことかと言いますと、私たちに同情した彼女が博物館の中で人混みに紛れながら何気なく会話をする中で、少々のヒントをくれたのです。スパイなどが情報を渡す場合もあえて公衆の中でメモをやりとりする事が多いようです。博物館の群衆の中でなら、東側の当局に怪しまれる事があまり無く、しかも、私達の会話を聞き取る事が出来ないような。そういう場所を選んでくれたようです。 ~~~~~~~~長い長い商談が大詰めにさしかかって(少なくとも私たちはそう思っていました)、そろそろ契約調印かと私たちは思った私は、本社の取締を呼んで、ライプチッヒの見本市期間中に調印すべく、調印のサイン用の高価な万年筆まで購入して待ちかまえていました。しかしながら、その商談は、最後の最後の段階で、予想外の思わぬ出来事が起こりました。東独では毎年、夏にライプチッヒで大きな見本市が開かれます。契約の調印は、その当たりらしいという情報が入っていたので、私は日本の本社の取締役を呼んで、調印式でサインしてもらう手配をしたのです。サインのための高価な万年筆も購入しました。取締が到着して、東独の貿易公団の人間に挨拶をしていると、ある党幹部が突然現れました。彼は初対面の人間ですが、彼からの自己紹介で、数社ある貿易公団を総括するトップの人間であることがわかりました。その席上で、彼はなんと、当社の取締に、公団への寄付金を要求したのです。あとで聞く話では、その種の「寄付金」は、公団の秘密資金に回されるのだと言うことでした。多分、そうなんでしょう。日本の役所もやっているような。悪いことに当方側の取締役は、営業出身ではなく、ずっと総務・人事畑を歩いてきた固い人で、先ず含みを持たせた返答を相手側にして、時間稼ぎをすればいいものを、この要求をアッサリはねつけてしまい、ここで実質的に当方の敗北が決まりました。取締役は面子をつぶされたと言い、私は叱責を受けました。これで私の出世は無くなりました。(笑)それまで、中東で、数件の巨額のプラントを受注していたのにね。(笑) ~~~~~~~~東独側の貿易公団も、私たちを担当していた公団の他に数社あったのですが、このプラント・プロジェクトに関しては、ライバル公団の方が政治力が強く、、我々の見積もり条件や価格はライバル・グループに知らされていて、現状としては負けらしいという状況がわかったのです。東独側は、それまで長い間、われわれと真剣に交渉しているふりをしながら、われわれから技術資料を始め、あらゆる情報を入手して、その一方で、本命の某社と契約する予定だったのです。そういえばあの女性部長も、私が「調印式のために取締役を東京から呼ぶ」と彼女に告げたとき、彼女はなぜか?「呼ばなくてもいいのではないか?」と、少し微妙な、気の毒そうな表情をしていました。もし、私が、もっと鋭ければ、この時に我々の置かれたポジションを察することができたかも知れません。いや、やっぱり無理だったかな? ~~~~~~~~まあ実際のところ、それまでの超ハードネゴで、当方の採算は赤字ギリギリとなってしまっており、その後東独側から要求された東独事務所の新たな設立などを飲めば、さらに赤字が確実でした。それまで私がリーダーとして受注した数件の中東プロジェクトでは、すべて何億円という大幅な利益を出しており、担当メーカーの工場も、○○景気と呼ばれる利益を享受していたのですが、この共産圏の商内は、全く様相がちがいました。東独商内のノウハウを持っていなかった私の限界でもあったのですが、それは東独にプラントの実績がほとんど無かった我が社の限界でもあったのです。一般に共産圏のメーカーとのビジネスは、一件のみでは利益が出ないもので、数件まとめて、トータルで、だんだんうまみが出てくるものだったようです。はじめの一件は赤字でも名刺代わりに受注し忠誠心を示し、事務所を設置してから、いろいろな関係が構築され、相互のあうんの呼吸で、利益の出るビジネスが与えられた様です。別の言い方をすれば、双方が癒着することにより、双方に利益がでる。癒着は共犯ですから、共犯の仲間意識が出てくる。そこまで信頼感?を勝ち得るまでが大変なのです。今考えれば、中東が主戦場だった私は、ビジネス・ノウハウが全然異なる共産圏のビジネスに手を出すべきではなかったのです。~~~~~~~~~話は変わりますが、共産圏の国の中ではやはり東ドイツが一番緊張感がありました。国民性・優秀性もその原因。、逆に言えば、いろいろな事情で怖かったという事です。その後の共産圏でのビジネスでは、その他の国々でも、ちょっと怖い体験はいろいろありましたが。何度か、スパイ、またはその手先らしき人物から、電話や実際のコンタクトがあったり。~~~~~~~~~閑話休題そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅というものがありました。東西を区切るベルリンの壁の下あたりに駅があるのですが、その駅は東側から西側への逃亡を防ぐため閉鎖されていて無人、もちろん停車もしません。そのまさに幽霊のような暗い無人の駅を地下鉄で通過する時など、実に陰惨な雰囲気でぞっとしたものです。~~~~~~~~~少し前に東ベルリンを訪問した時にはガラッと変わって、西欧化していました。あの幽霊駅も、使用されているという。今となっては、あの暗く重い空気の東独そのものも無くなってしまって、私の想い出の中に残るだけです。あの幽霊駅のように、通り過ぎる時に見えるだけで、実際には下車できない想い出のような。こんな事を書いていると、いろんな記憶が、チリチリとした冷気と共によみがえってくる様な気持ちになります。「寒い国から帰ってきたスパイ」こういう題名のル・カレの傑作スパイ小説があって、映画にもなっています。
2007.12.18
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【復刻日記】 東欧の想い出 01 私は仕事の関係で東欧圏にも滞在したことがあるが、ベルリンの壁の崩壊以前の時代共産圏では、テレビのチャンネルも2チャンネルぐらいしか無かった。もちろん公共放送、それも白黒。だから、全国民がほとんど同じ番組を見ていたわけである。ラジオもだいたいそんなもので、みんなが同じ番組を聞いているものだから、夏休みの昼間のガラーンとした建物の間の街路で、同じ番組の音声が各家庭のラジオから響いて共鳴していたのを思い出す。長い夏休はフランスの専売特許ではない。共産主義の数少ない余録として、共産圏の労働者諸君はけっこう長い期間の夏休みが取れた。夏にはほとんどの人が街からいなくなる。東側と言えど、別荘を持っている人などは結構いたし、別荘を持っていない人も組合の施設に宿泊したり、農家に一時的に間借りをしたりと方法はさまざまでも、とにかく海や田舎に向かう。私はポーランドに滞在中の夏休みにはワルシャワ近郊の避暑地の別荘に泊めてもらうことが多かった。共産圏・東側・東欧の夏なんて寒いのではないかと思われるかも知れないけれど、カラッと湿気が無くて温度も結構上がって、日本の夏よりはるかに過ごしやすい。日本の軽井沢とか北海道の夏と言えば当たらずとも遠からずだが、しかしもっと温度は上がる。経済破綻に陥った当時の東欧だから避暑地といっても物質文明の恩恵を受けたものではなかったけれど、かえってひなびた雰囲気で、避暑地の自然そのものを味わえるひっそりとした夏だった。貧しい玩具を売る屋台やジュースやアイスクリームを売る店、ビールのカフェぐらいがせいぜい。子どもは川へ泳ぎに行ったりだが、おとなの楽しみは寄り集まってのおしゃべりだ。もう一つある。夜のテレビの映画放映である。黒沢作品はあちらでは非常に人気があって、昼間の話題からすでに「今晩は黒沢の映画があるよね」などと言う。みんなが楽しみにしているのだ。私もそんな機会に「七人の侍」をテレビでた。観ていて奇妙に感じたのは、私達が洋画を字幕で観るのとはちょうど反対で、セリフはオリジナルの日本語で、字幕が現地語になるから、鑑賞は非常に楽(?)だった。もっともテレビそのものの性能も劣悪だし、テレビ局の放送の発信装置も旧式で画面はとても西側のそれとは比較にならない程度のものだが、それしかないとなるとそれほど不満は感じないものだ。ラジオとなると、夜8時頃の定時になるとポーランドの人たちがラジオにかじりついて聞く番組があった。短波放送だから聞きづらい。いや、日本にはない長波だったかな?だから彼らは、旧式で大型のポータブルラジオを耳に押しつけて聴いていた。それはロンドンのポーランド亡命政府からの、たしか、「自由ポーランド放送」とかいった放送だった。ドイツの侵攻以降、ポーランド政府は地下に潜り、やがてはロンドンにその本拠を置く事になり、その放送はその亡命政府からのもので、言論統制されていた当時のポーランド国民にいろんな「真実の」情報を提供していたわけである。この亡命政府には多くのポーランド人が参加し、ドーバー海峡をはさんだ英国とドイツ軍の有名な空戦(ある意味でドイツ敗戦の大きな原因となった)「バトル オブ ブリテン」にも多くの優秀なポーランド人パイロットが義勇軍として参加、大活躍した。しかし戦争が終わると英国はこのポーランド人パイロットの活躍をほとんど認めないまま歴史の闇の中に葬ってしまった。プライドの高い英国としては英国人パイロットだけの手柄にしたかったわけだ。私は一度ワルシャワからロンドンへの機中で隣の座席に座ったロンドン在住のポーランド人老夫妻と話す機会があったのだが、奇しくもそのご主人が、くだんの「バトル・オブ・ブリテン・パイロッ」トの一人だった。・・・といってもそれを当のご本人からでは無く、なにくれと彼の世話をしている奥様から聞いた。その戦功から英国永住権はもらったのだろう。ご主人は、もう痴呆が進んでいる様子で、ただただ黙って窓から外をながめていた。大戦末期のイタリア戦線のローマ近くにそびえる丘の上にある堅塁モンテカシーノ僧院での史上最も激しかった歴史的な戦いというものがある。連合軍側がいかに攻めに攻めてもドイツ軍が頑強な抵抗を示して、死屍累々となった戦場だが、長い長い戦闘の後、多大な犠牲を出しながら僧院に踏み込んでその国旗を掲げたのは、この亡命政府系ポーランド軍だった。アンジェイ・ヴァイダ(ワイダは間違い)の名作「灰とダイヤモンド」。その一場面で女性が「モンテカシーノの赤いケシの花」という歌を直立不動の姿勢で歌う。あれはモンテカシーノの戦いで戦死した多数のポーランド兵たちの流した血を、赤いケシの花にたとえた歌なのです。
2006.10.27
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今日は非常にいそがしい(はず)ので、【復刻日記】とします。(連日なんだけれど) ~~~~~~~~【復刻日記】チェコ・プラハの国立オペラ劇場での贈賄疑惑元旦に「ウィーン・フィル・NEW YEAR・コンサート」を途中から観た・・・、と言うか、聴いた。ベルリン・フィルのシルヴェスター・コンサートも格式があるが(こちらの方は今年、三大テナーコンサートでの指揮で有名なラトルが指揮)、なんとなく、根拠無く、正月はウィーン・フィルでしょう。(意味不明)このウィーン・フィル新春コンサートは、このところ毎年、日本のテレビで放映するようになった。指揮のロリン・マゼールが、各国語のあいさつに日本語も入れている。「アケマシテ オメデトウ ゴザイマス」と、ちゃんと言っていた。それはそうだろう。観客というか聴衆というか、お客さんの中で、「日本人」が多いのだ。白人でないがゆえに一層目立つのだが。日本のお金持ちの、それも文化を意識するお金持ちの、一つのステイタスになっているような雰囲気なのだ。嫉妬心の強い私など、思わずこの方々の悪口を書きたくなったが、・・・ハーハー・・・。思い直して・・・ コホン! ほめよう!こう言うのはいいのではないかな~。みなさん、落ち着いた品性のある熟年夫婦(カップル)だし、他の悪趣味な新春じゃないものね。文化的には最高!マゼールは、バイオリンを弾きながら指揮。えっ? ヴァイオリン、弾けるの?いや、その前に歌ったりしたらしいのだ。考えてみたら音楽家だから、歌えて弾けてもいささかも不思議は無いのだが、ついつい指揮者は、棒を振っているだけの人だと思いこんで、・・・失礼しました。このヴァイオリンがすごかった!音色が、倍音がかっていたけれど(どうしてかな?)、そのフィーリングがすごくよかった。そう言えば、マゼールはアンジェラ・ゲオルギューを見いだした人なんだった。彼女を自宅に呼んでテストして、その歌唱に驚いたというのだが、本当は彼女の美貌に惹かれていなかった?マゼールさん。・・・と言う風に、とてもよかったのだが、途中で見はじめたので例年の指揮者との比較ができないままにおわってしまった。それに今回は、演奏会の結びの恒例となっている、あの満場の手拍子の!「ラデツキー行進曲」を、スマトラ沖大津波に配慮し、演奏を自粛してしまった!それはないよ!マゼールさん!残念。椿姫の「乾杯の歌」とともに、「ウィーンの森の物語」「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」が大好きだった母(介護中)に、テレビの音を大きくして聞かせてみた、あまり反応を示さない。三大テノールのビデオを聞かせても同様。人生とは哀しいものだ。そういえば、風船くんさんは療養中のお母様を見舞うために数年ぶりに帰国したのに、正月にお母様が亡くなったとのこと。ご冥福を祈ります。~~~~~~~~~この演奏が催されるウィーンの「楽友会館」という邦訳が、なんていうのかな~ 微笑ましい。多分、直訳なのだろうと思うのだけれど。楽友会館の内部は、それこそ西欧文化の極致を金銭的に表現したもののようで、先日、NHKで放映された「ドナウの旅」(だったかな? 言ってきますけれど!!、私はNHKの味方です プロレスの味方ではありませんが) での、シェーンブルン宮殿の、人類の文化と豪奢の極致というような装飾だらけの、キンキラキンと同じだ。すごい すごい!日本のシンプル・質素な皇居とは正反対だ。これを見て、チェコ・プラハの国立オペラ劇場を想い出した。私はプラハに長期出張していたことがあって、その時に、スメタナの「売られた花嫁 Prodana nevesta」などを見に行ったのだ。ついでですがプラハはすごい街ですよ。百の塔の都と呼ばれていて、中世の街並みがそのまま残っているという点では世界一。だから、ハリウッドの時代劇はほとんどプラハでロケするという。それにチェコの映画技術というのは戦前から定評のあるところ。というところで、チェコ出身の映画女優、ヘディー・ラマーを想い出した。彼女については、明日にでも書こうかな?チェコ・プラハの国立オペラ劇場。戦前はドイツ劇場と呼ばれていたオペラ劇場で、内部のキンキラぶりもかなりなもの。「売られた花嫁」を聞きに、劇場へ行ったはいいのだが、立ち見席しか取れない。しかたなく、とりあえず入ったが、開幕前にゴンドラ席の裏へ行ってみた。突如、なんの脈絡もなくお勉強ですが、共産主義経済というものはそもそも、計画経済だから需要量に見合った商品しか生産しない。その点、資本主義は需要量に関係なく生産するから余剰が出て、競争原理が働く。その結果、品質・デザインなどがよくなって、共産主義国の製品をしのぐ。結果的に共産主義経済は資本主義に負けて崩壊した。・・・ということを書きたいのではなくて、共産主義国では計画経済なので需要ギリギリの製品しか生産しないから、その製品を手に入れるためにはワイロしかない。かくて共産主義国では生きて行くためにはワイロが必須だった。・・・と言うことを書きたいのではなくて、共産主義国ではワイロが非常に効果的だったのだ。で、ゴンドラ席のうらあたりには、案内のおばちゃんたちがうろうろしていて、このおばちゃんに「面倒みてよ!」とお願いしたら、よろこんで「空いているゴンドラ席」に案内してくれるのだ。切符は売り切れのはずなのに「空いている貴賓席」があるというのもおかしいが、それが不条理の共産主義社会なのである。で、「売られた花嫁」も、豪華なゴンドラ席で観劇させていただきました。ワイロと言っても、私にとってはほんの小遣い銭程度なんだけれど、オバチャンもハッピー、私もハッピーで win win situation だった。共産主義よ、再び!・・・なんていうと、怒る人がいる。 ~~~~~~~~以上が【復刻日記】なんだけれど、ニコルさんがコメントで「alex99さんは、賄賂をよしとするのですか?」という直截な質問があり、ちょっとひるんだ。原則的にはいけないことですが・・・、この状況では現に席が余っていたのであって、他人の席を盗み取った訳ではない。それに私の芸術への希求が強すぎて・・・。・・・というところで、許して欲しいと思うところであります。私の主張というものは、常に私欲によって揺らぐものなのであります。
2006.10.03
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東欧の想い出 01私は仕事の関係で東欧圏にも滞在したことがあるが、ベルリンの壁の崩壊以前の時代の正統的な?共産圏ではテレビのチャンネルも2チャンネルぐらいしか無かった。もちろん公共放送、それも白黒。だから、全国民がほとんど同じ番組を見ていたわけである。ラジオもだいたいそんなもので、みんなが同じ番組を聞いているものだから、夏休みの昼間のガラーンとした建物の間で、その番組の音声が各家庭から響いて共鳴していたのを思い出す。長い夏休はフランスの専売特許ではない。共産主義の数少ない余録として、共産圏の労働者諸君はけっこう長い期間の夏休みが取れた。夏にはほとんどの人が街からいなくなる。東側と言えど、別荘を持っている人などは結構いたし、別荘を持っていない人も組合の施設に宿泊したり、農家に一時的に間借りをしたりと方法はさまざまでも、とにかく海や田舎に向かう。私はポーランドに滞在中の夏休みにはワルシャワ近郊の避暑地の別荘に泊めてもらうことが多かった。共産圏・東側・東欧の夏なんて寒いのではないかと思われるかも知れないけれど、カラッと湿気が無くて温度も結構上がって、日本の夏よりはるかに過ごしやすい。日本の軽井沢とか北海道の夏と言えば当たらずとも遠からずだが、しかしもっと温度は上がる。経済破綻に陥った当時の東欧だから避暑地といっても物質文明の恩恵を受けたものではなかったけれど、かえってひなびた雰囲気で、避暑地の自然そのものを味わえるひっそりとした夏だった。貧しい玩具を売る屋台やジュースやアイスクリームを売る店、ビールのカフェぐらいがせいぜい。子どもは川へ泳ぎに行ったりだが、おとなの楽しみは寄り集まってのおしゃべりだ。もう一つある。夜のテレビの映画放映である。黒沢作品はあちらでは非常に人気があって、昼間の話題からすでに「今晩は黒沢の映画があるよね」などと言う。私もそんな機会に「七人の侍」をテレビでた。観ていて奇妙に感じたのは、私達が洋画を字幕で観るのとはちょうど反対で、セリフはオリジナルの日本語で、字幕が現地語になるから、鑑賞は非常に楽(?)だった。もっともテレビそのものの性能も劣悪だし、テレビ局の放送の発信装置も旧式で画面はとても西側のそれとは比較にならない程度のものだが、それしかないとなるとそれほど不満は感じないものだ。ラジオの方となると、夜8時頃の定時になるとポーランドの人たちがラジオにかじりついて聞く番組があった。短波放送かなんかで聞きづらいものだから、彼らは旧式で大型のポータブルラジオを耳に押しつけて聴いていた。それはロンドンのポーランド亡命政府からの、たしか、「自由ポーランド放送」とかいった放送だった。ドイツの侵攻以降、ポーランド政府は地下に潜り、やがてはロンドンにその本拠を置く事になり、その放送はその亡命政府からのもので、言論統制されていた当時のポーランド国民にいろんな「真実の」情報を提供していたわけである。この亡命政府には多くのポーランド人が参加し、ドーバー海峡をはさんだ英国とドイツ軍の有名な空戦(ある意味でドイツ敗戦の大きな原因となった)「バトル オブ ブリテン」にも多くの優秀なポーランド人パイロットが義勇軍として参加、大活躍した。しかし戦争が終わると英国はこのポーランド人パイロットの活躍をほとんど認めないまま歴史の闇の中に葬ってしまった。プライドの高い英国としては英国人パイロットだけの手柄にしたかったわけだ。私は一度ワルシャワからロンドンへの機中で隣の座席に座ったロンドン在住のポーランド人老夫妻と話す機会があったのだが、奇しくもそのご主人が、くだんの「バトル・オブ・ブリテン・パイロッ」トの一人だった。・・・といってもそれを当のご本人からでは無く、なにくれと彼の世話をしている奥様から聞いた。その戦功から英国永住権はもらったのだろう。ご主人は、もう痴呆が進んでいる様子で、ただただ黙って窓から外をながめていた。大戦末期のイタリア戦線のローマ近くにそびえる丘の上にある堅塁モンテカシーノ僧院での史上最も激しかった歴史的な戦いというものがある。連合軍側がいかに攻めに攻めてもドイツ軍が頑強な抵抗を示して、死屍累々となった戦場だが、長い長い戦闘の後、多大な犠牲をだしながら僧院に踏み込んでその国旗を掲げたのはこの亡命政府系ポーランド軍だった。アンジェイ・ヴァイダ(ワイダは間違い)の名作「灰とダイヤモンド」。その一場面で女性が「モンテカシーノの赤いケシの花」という歌を直立不動の姿勢で歌いますね。あれはモンテカシーノの戦いで戦死した多数のポーランド兵たちの流した血を赤いケシの花にたとえた歌なのです。
2006.05.01
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【復刻日記】 チェコ・プラハの国立オペラ劇場での贈賄疑惑
2006.02.15
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昨日の「あなたの浮気度チェック」という日記に、ウイッシュ108さんがこういうコメントをくださった。 ~~~~~~~~>もう少しで殺されかけるようなそそそそ~~そーんな恐ろしいことがあったのですかぁ~@@日記のどこかに書いてありますか??・・ ~~~~~~~~マフィアのメンバーの奥さんとの「想い出」は、二日にわたって書いたが、その最後の部分はまだ日記に書いていない。そのうちに書くことにしよう。過去日記を探して、同じく「もう少しで殺されかけた話」の一つである「秘密警察将校の奥さん」を今ようやく探し当てた。せっかくだから、それに今日はかなりの二日酔いだから、この日記を【復刻日記】にしてしまおう。 ―――― ◇ ――――【復刻日記】ヴィエトナムでの「死にかけた話」は未だあるんですが、今回は趣を変えて旧共産圏の某国での「死にかけた話」。あるパーティーにその土地の奥さん連中に誘われて参加したのですが。なぜ奥さん連中に誘われたのか?を先ず説明しましょう。ベルリンの壁の崩壊前の東西冷戦の時代です。旧共産圏はレストランも原則的に国営ですからあまり美味しくありませんでした。そこには競争原理が働いていないからです。それに比べ、少数派の私営ライセンスを持っている店は、かなり美味しいのですが、そもそもレストランの絶対数が少ない。首都の地図を見てみるとその中にフォークとナイフのシンボルでレストランの位置が示されています。その数がほんの数えるほどです。それに値段も高いから(外国人にとっては闇ドルの貨幣価値の関係で実に安いのですが)なにか「ハレ」の事でもない限り、あまり現地の人々はレストランには行かないのです。でもそういう国では必ず家庭料理が旨い。必要は発明の母、少ないレストランの数は美味しい家庭料理の母・・・。私は独身だったのですが、レストランで一人で食べるのでは味気ない。自分でマーケットに買いに行って自炊もしたのですが、やはり男の自炊は料理の種類もミニマムですし、美味しい料理を作り出す境地にまではなかなか上達しません。ある時、仕事上で知り合った現地のある男性の家庭に招かれました。家庭料理をごちそうになり、楽しいおしゃべりをしながら(このクラスの奥さん達はけっこう英語も話しました)美味しい料理を思い切り食べたのです。私がモリモリ(ガツガツかな?)食べるとその奥さんは非常に喜んでくれました。彼女たちの旦那さん達はこの奥さん達が手間をかけた美味しい料理に対する感謝のジェスチャーが、ふだん大いに不足していたらしいのです。「もっと食べなさい もっと・・・」と、あきれている旦那さん達に見せつける様に食事をすすめてくれるのです。(もちろん私もおみやげにワインやウィスキーや花を持って行きましたが)。食事だけではなくて・・・。奥さん連中は中年の、いわゆる倦怠期の人達で、旦那さん達からは彼女の「美」に対しての賞賛のジェスチャーが大いに不足している様で、さらに子供たちも巣立っていわゆる「空っぽの巣症候群」(元は英語でそれを正確に思い出せないけれどvacant nestかな?)奥さん連中はいろんな不満からアル中になっている人も多かった。気の毒。私は食事の恩義もあり、こういう「元美女」の昔の栄華?をしのびながら「あの奥さんはまだまだ美しい」とお世辞を言ったのです。事実、昔の写真や肖像画を見ると美人でした。直接本人には言わず間接的に他の奥さん経由。これも陰険ですが、初めから意図したところではありません。ただ効果は大ありでした。これで「あなた、食べにいらっしゃい」と奥さん連中のプチ・パーティーや休日の別荘などに招かれるようになって、美味しい食事をごちそうになりましたし、家族旅行などにも参加したりもしました。今でも彼女達に電話して「あの人は今どうしている?」など、懐かしい人達の話をすることがあります。ついに離婚をしてしまったカップルもいるのですが。 ~~~~~~~~~で、ある日の夕方、冬で雪が積もっていました。彼女たちの友達の一人が主催するパーティーに、私も誘われて同行しました。着いてみるとその国の人々が中心で、私としてはどの人が英語をしゃべれるのかわからないまま、しばらくは、暗~くひとりで酒だけを飲んでいたのです。奥様方は hen's party というのか、女性同士でおしゃべりに夢中です。その内にアコーディオンを弾き出す人がいてリクエストを募ったので、私はその国の愛国歌というか悲しい軍歌というか?そういう歌をリクエストしたのです。その曲は私も知っていて、死んだ兵士の血がひなげしの花の様に赤く・・・という歌詞だったかな?一人で飲んでいた私は酔いもあったのか?その曲を皆と一緒に歌いながら、どうしたことか?私の目から水分が、つまり涙がボロボロ出てきたのです。外国人のくせにその曲を歌いながら泣くという愛国的な??私に、周りの人々がちょっとひいていてのを覚えています。その後すぐダンスの時間になって、このパーティーに連れてきてくれた奥さん連中が誘いに来たのですが、私はこれでもシャイというか? ダンスが下手というか?(全然違う理由だろう?)、未だ踊っている人が少ない状態では踊れない人間なのです。「申し訳ないが、後でね」・・・と断っていたのですが。そのうち、身体にピッタリとした黒いレースのゴージャスなドレスを着たブロンドの女性が私に近づいてきて、黙って私の手を取って、・・・私は気がつくと彼女と踊っていたのです。(この国の女性はほとんどブロンドなのですが)私はダンスにあまり自信が無かったので、彼女の反応を見ようと彼女の顔を見てみると、とても優しい表情でニッコリ笑うのです。しかも彼女、美人です。その国の女性は一般的にやや小柄で、小粋で、どちらかというとほっそりした女性が多いのですが、彼女はどうもゲルマン系の血が入っているらしく、私と釣り合いの取れる長身で、しかもしっかりした体つきでゴージャス系の美貌、いわゆるクラッシー(上流)な容姿です。(東欧にはドイツ騎士団の領土があり、ドイツの植民もありゲルマン系のドイツ系やオランダ系の人がいました)。顔つきは違うのですが、雰囲気はちょっとマレーネ・デートリッヒを思わせる感じです。彼女の笑顔に元気づけられて二三曲踊って、もう止めようかなと思ったのですが、彼女は止める様子がありません。「私はダンスがへたでしょう?」と聞いてみたら「いえ、上手よ」とお上手を言ってくれました。彼女がますます美人に見えてきました。6曲程も踊るとタンゴの曲がかかり、私はついて行けなかったので席にもどりました。それからようやく英語を話すスエーデン人の少年を見つけ出して話し相手が出来ました。しばらくすると、くだんのブロンド美人がまた寄ってきて、今度はその家の内部を案内してくれたのです。自分の家でも無いのに・・・です。その家の夫婦の寝室にまで入って行って、そこの壁に掛かっている家族や共通の友人達の写真についての説明をしてくれるのです。私としてはすこぶる付きの美人が優しく親切にしてくれるのでなんの不満もありません。と・・・、その時、奥さん連中の一人があわただしく入ってきて、私に「もう帰ろう!」というのです。私としては「え~~?どうして」です。まだまだパーティーは続くはずです。それにこんな美人と親しくなったのですから、できればパーティーの最後までいたい。何かハプニングもあるかもしれないし・・・。ブロンド美人が何か奥さんに文句を言って、奥さんが言い返していました。私は結局、その奥さんの厳しい表情に押されて、他の奥さん連中と一緒にそそくさと帰ることになりました。車の中で奥さん連中がむっとしている様な雰囲気なのです。私が彼女たちとのダンスを断りながら、その一方であの美人とは何曲も踊ってしまったからでしょうか?恐ろしくて、ムッとしている理由を尋ねることはしませんでした。 ~~~~~~~~~それから半年ほど経って、またその奥さん連中と飲んでいました。私がなにげなく「あのパーティーはあれからどうなったの?」と聞いたところ、一人の奥さんが急に険しい表情になって!、「実はあなたはあの時、ビッグ・トラブルに直面していたのよ」というのです。「あなたがダンスしていた女性は、秘密警察の将校の奥さんだったのよ。あの奥さん、あなたとダンスをした後で『彼はチャーミングだわ。彼とどうしても make love したいわ!』って言い出したのよ。そうしたら、彼女の夫がそれを聞いて怒って、ピストルを持ち出して『その男を殺してやる』って言い出して大騒ぎになって、だから、あなたを急いで連れて帰ったのよ。私達はあなたの命の恩人よ!それに私達とのダンスは断りながら、彼女とばかり踊って・・・」。奥さんの旦那さんの一人が傍でこの会話を聞いていて、「秘密警察の将校?それはすごい地位じゃないか?」と他人事の様に感心していました。しかし私は・・・ガ~~ン!!「日本人出張者の射殺死体が発見された」・・・という新聞記事が目に浮かびます。私の死体はドライアイスを詰められて日本に無言の帰国をする。多数の女性がすすり泣きながら迎える・・・。(これは無いか?)それでも、実は、私は、あのブロンド美人について、もう少しだけ、詳しい話を・・・、どこに住んでいるとか、電話番号は?とか・・・、そういうことを少しでも、なんとか教えてもらいたい・・・強い願望があったのですが、奥さん連中の厳しい視線を前にして、もう何も聞き出すことは出来ませんでした。それにしても私も危ないところだった。それに彼女はどうしてパーティーの場でそんなことを言い出したんだろう。彼女、キレる人なんだな~。あの秘密警察の夫も、美人だが淫乱な妻に苦しんだのだろう。(淫乱という言葉が好きなので、乱用しています)。ひょっとしたらもう何人も射殺しているかもしれない。(それは無いか?)少なくとも、ああいうことも一度ならず起こったんだろう。それにしても、安全な状況でもう一度彼女に逢いたいな・・・という気分も、正直言ってあります・・・。あっ!そんなことを言っても、昔の話だった。
2005.10.27
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【復刻日記】ラウンドな人物像 「元首の謀叛」昨日は立花隆氏の見解を引用して、フィクション、つまり小説家の想像力も現実のノンフィクションの世界に比較すると及ばないと言うことを述べたが、それは特に海外を舞台にした場合にいえることではないかと思う。もちろん海外を題材にした素晴らしい作品もある。一例を挙げると、永井荷風の断腸亭日乗などだが、ここに描かれた海外経験などはたしかにその素晴らしい作品に該当するのだが、これは単純にフィクションとは言い難い。小説家の日記だからフィクションは織り交ぜてあるのは当然ではあろうが、やはり日記というか記録文学というか、あるいは紀行文学かも知れない。そうするとノンフィクションのジャンルに入ることになる。冒険小説も海外に題材を取った作品が多い。日本冒険小説協会という組織があって、多くの小説家がいる。逢坂剛 大沢在昌 景山民夫 北方謙三 斎藤純 佐々木譲 志水辰夫 高村薫 谷甲州 辻真先 馳星周 藤田宜永 船戸与一 南洋一郎 宮部みゆき 森詠 夢枕獏 隆慶一郎これに、内藤陳御大も含めるべきだろう。日本冒険小説協会会長内藤陳氏。彼のバー「深夜+1(シンヤプラスワン)」 は、新宿ゴールデン街にあって、日本冒険小説協会公認酒場であり、かの007のショーン・コネリーが入ってきて日本冒険小説協会の会員に登録させられたという話を聞いたことがある。このなかで海外に舞台をとって、冒険小説を書く人と言えば、主に逢坂剛・船戸与一氏あたりだろうか?逢坂剛氏などは、自身がフラメンコギターの奏者でもあり、スペインを何度も訪問しているし、スペインや中南米を舞台にした作品が多い。名前は想い出さないが、やはり週刊紙などに連載された、海外に題材を求めた作品を、途切れ途切れではあるが、かなり読んだ。しかし、私としてはどうもしっくり来ない。作品としては、よくできているのだが、なにか「和製感覚の欧州」という感じがぬぐえないのだ。人物も風土もである。人物などはそれらしき人物像を与えられてはいるが、なぜか私には「日本人が恐る恐る作り上げた、あまりバタくさくない、人間くさくない、マネキン人形的な欧州人」という感じがするのだ。ステレオタイプな欧州人のように思えるのだ。彼らのワキガや体臭まで漂ってくるような、髪の毛のふけまでが飛んでくるようなそんな生な人間像になりきれていないと思うのだ。う~~ん。どうもうまく表現できないのだが。一流の作家の書いたものに、楽天日記作家ごときの私がダメだしをしても、向こうは痛くも痒くもないとは思うが、それでも・・・である。それは、彼ら(と言っても小説家の先生達だが)が欧州での滞在の体験を持ってはいても、それはあくまで短期のものであったり、会話を交わしてもそれは片言ベース(失礼!)、またはそれほど流ちょうなものでは無く、意思疎通がやっとというレベルであったり、関係も単に「友人」どまりであったりで、欧州の風土や人間に対する溶け込み方が少ないのではないだろうか?欧州の人間と親友同士になったり、欧州の女性と結婚したり、離婚したり、(これは余計だが)、してはいないのではないだろうか?心においても肉体においても、混じり合い、体液を注ぎ合ったことがないのでは無かろうか?(私も相当無理を言っているかも知れない)その結果、欧州人の人間としての特性を、体感するまでには把握していないのではないだろうか?東洋人が欧州人を描くのは難しいし、その反対はさらに難しいだろう。欧米人が日本人を描いた小説など、やはりミステリアスな黄色人種という前提がどうしても抜けていない。映画でも同じ事で、外国映画に出てくる日本人なんて、おおよそ噴飯ものである。演劇・文学などのフィクションにおける「character論」においては、「flat character」 と 「round character」 と言うことが言われる。フラットな人物像とは、いわば二次元・平面のような、人間としての「特性」の少ないもの。現実的には陳腐なステレオタイプの人間像を指すわけで、近ごろの言い方をすれば「キャラが立っていない」状態を指す。それに対してラウンドな人物像とは、立ったキャラで、球形の、三次元の、つまり奥行きのある人間像であり、特性が多く、しかも矛盾した特性も含む人間像。フィクションではこのラウンドな人間像を創造できるかどうか?という所が key point になる。欧州人を描くに際して、一般に日本の作家たちは、ラウンドな人間像を書けていないのではないか?白人・欧州人の特性をもうひとつ把握できていないのではないか?そんな気がする。その一方で、同じ白人でも、比較的つきあい慣れた米国人については、ある程度、ラウンドな人物像が描けている場合が多いように思える。これは気のせいなのだろうか。 ★ ★ ★ ★ ★ ★私が感心したと言うより、ノックアウトされた長編小説がある。「元首の謀叛」 中村正軌 文藝春秋。この題名は、「げんしゅのぼうはん」と読む。直木賞受賞の傑作国際謀略スリラー小説。もうかなり昔のベスト・セラーなのだが、昭和55年7月刊。著者はJALの欧州駐在員の経歴を持ったサラリーマンと言う異色の人。この著者の名前は「マサノリ」。この「ノリ」の字は、正確には、左が「車」、右が「几」。機種依存文字なので、ネット上では一般に「軌」が使われている。この作品は東ドイツを舞台にした国際政治の権謀術数を描く優れた政治小説というか政治冒険小説と言うべき作品。ある書評から引用。~~~~~~~~~ある日、東ドイツの国境監視塔が轟音とともに崩れ落ちると同時に、ソ連軍や東独軍が不審な動きを見せ始めた。西側への侵攻準備だろうか? 各国の首脳が疑心暗鬼におちいっている間に、一人の東独空軍中尉が、密かに西ドイツに潜入した。彼は東独書記長の親書を西独首相に手渡すという、重大な秘密任務を帯びていた。東独書記長ホーネッカーは、ソ連の圧制からのがれ、東西ドイツの統一を実現するために、驚くべき手段を講じようとしていた。世界大戦を起さずにヨーロッパの地図を塗りかえる─この狡智極まるソ連の野望に西側諸国は?東西ドイツ国境線での大爆発から始まる直木賞受賞の国際謀略小説。~~~~~~~~~私は東西冷戦時の東ベルリンに滞在していたことがあるので、当時の東西ドイツ情勢を恐ろしく緻密に描いたこの小説には驚いた。まるで現場にいるようなリアルさなのである。他の海外冒険小説が、まるで一瞬に色褪せてしまうような質と量と密度だ。だからといっても言い訳にはならないが、この小説は読みでがあり過ぎて、私は初めの部分しか読んでいないのだが、それはそれとして。この単行本は絶版になっていて、今は文春文庫に上・下巻として入っている。また、文春ウェブ文庫という、 web site で読むことも出来るようだ。いずれにしても、いつかはこの小説を、あの冷え冷えとした東ベルリンを思い出しながら読まなければいけないと思っている。
2005.08.30
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元旦に「ウィーン・フィル・NEW YEAR・コンサート」を途中から観た・・・、と言うか、聴いた。ベルリン・フィルのシルヴェスター・コンサートも格式があるが(こちらの方は今年、三大テナーコンサートでの指揮で有名なラトルが指揮)、なんとなく、根拠無く、正月はウィーン・フィルでしょう。(意味不明)このウィーン・フィル新春コンサートは、このところ毎年、日本のテレビで放映するようになった。指揮のロリン・マゼールが、各国語のあいさつに日本語も入れている。「アケマシテ オメデトウ ゴザイマス」と、ちゃんと言っていた。それはそうだろう。観客というか聴衆というか、お客さんの中で、「日本人」が多いのだ。白人でないがゆえに一層目立つのだが。日本のお金持ちの、それも文化を意識するお金持ちの、一つのステイタスになっているような雰囲気なのだ。嫉妬心の強い私など、思わずこの方々の悪口を書きたくなったが、・・・ハーハー・・・。思い直して・・・ コホン! ほめよう!こう言うのはいいのではないかな~。みなさん、落ち着いた品性のある熟年夫婦(カップル)だし、他の悪趣味な新春じゃないものね。文化的には最高!マゼールは、バイオリンを弾きながら指揮。えっ? ヴァイオリン、弾けるの?いや、その前に歌ったりしたらしいのだ。考えてみたら音楽家だから、歌えて弾けてもいささかも不思議は無いのだが、ついつい指揮者は、棒を振っているだけの人だと思いこんで、・・・失礼しました。このヴァイオリンがすごかった!ちょっと音色が、倍音がかっていたけれど(どうしてかな?)、そのフィーリングがすごくよかった。そう言えば、マゼールはアンジェラ・ゲオルギューを見いだした人なんだった。彼女を自宅に呼んでテストして、その歌唱に驚いたというのだが、本当は彼女の美貌に惹かれていなかった?マゼールさん。・・・と言う風に、とてもよかったのだが、途中で見はじめたので例年の指揮者との比較ができないままにおわってしまった。それに今回は、演奏会の結びの恒例となっている、あの満場の手拍子の!「ラデツキー行進曲」を、スマトラ沖大津波に配慮し、演奏を自粛してしまった!それはないよ!マゼールさん!残念。椿姫の「乾杯の歌」とともに、「ウィーンの森の物語」「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」が大好きだった母(介護中)に、テレビの音を大きくして聞かせてみた、あまり反応を示さない。三大テノールのビデオを聞かせても同様。人生とは哀しいものだ。そういえば、風船くんさんは療養中のお母様を見舞うために数年ぶりに帰国したのに、正月にお母様が亡くなったとのこと。ご冥福を祈ります。 ~~~~~~~~~この演奏が催されるウィーンの「楽友会館」という邦訳が、なんていうのかな~ 微笑ましい。多分、直訳なのだろうと思うのだけれど。楽友会館の内部は、それこそ西欧文化の極致を金銭的に表現したもののようで、先日、NHKで放映された「ドナウの旅」(だったかな? 言ってきますけれど!!、私はNHKの味方です プロレスの味方ではありませんが) での、シェーンブルン宮殿の、人類の文化と豪奢の極致というような装飾だらけの、キンキラキンと同じだ。すごい すごい!日本のシンプル・質素な皇居とは正反対だ。これを見て、チェコ・プラハの国立オペラ劇場を想い出した。私はプラハに長期出張していたことがあって、その時に、スメタナの「売られた花嫁 Prodana nevesta」などを見に行ったのだ。ついでですがプラハはすごい街ですよ。百の塔の都と呼ばれていて、中世の街並みがそのまま残っているという点では世界一。だから、ハリウッドの時代劇はほとんどプラハでロケするという。それにチェコの映画技術というのは戦前から定評のあるところ。というところで、チェコ出身の映画女優、ヘディー・ラマーを想い出した。彼女については、明日にでも書こうかな?チェコ・プラハの国立オペラ劇場。戦前はドイツ劇場と呼ばれていたオペラ劇場で、内部のキンキラぶりもかなりなもの。「売られた花嫁」を聞きに、劇場へ行ったはいいのだが、立ち見席しか取れない。しかたなく、とりあえず入ったが、開幕前にゴンドラ席の裏へ行ってみた。突如、なんの脈絡もなくお勉強ですが、共産主義経済というものはそもそも、計画経済だから需要量に見合った商品しか生産しない。その点、資本主義は需要量に関係なく生産するから余剰が出て、競争原理が働く。その結果、品質・デザインなどがよくなって、共産主義国の製品をしのぐ。結果的に共産主義経済は資本主義に負けて崩壊した。・・・ということを書きたいのではなくて、共産主義国では計画経済なので需要ギリギリの製品しか生産しないから、その製品を手に入れるためにはワイロしかない。かくて共産主義国では生きて行くためにはワイロが必須だった。・・・と言うことを書きたいのではなくて、共産主義国ではワイロが非常に効果的だったのだ。で、ゴンドラ席のうらあたりには、案内のおばちゃんたちがうろうろしていて、このおばちゃんに「面倒みてよ!」とお願いしたら、よろこんで「空いているゴンドラ席」に案内してくれるのだ。切符は売り切れのはずなのに「空いている貴賓席」があるというのもおかしいが、それが不条理の共産主義社会なのである。で、「売られた花嫁」も、豪華なゴンドラ席で観劇させていただきました。ワイロと言っても、私にとってはほんの小遣い銭程度なんだけれど、オバチャンもハッピー、私もハッピーで win win situation だった。共産主義よ、再び!・・・なんていうと、怒る人がいる。
2005.01.02
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欧州では11月一日に「万聖節」All Staints‘ Dayというキリスト教の祝日があって、諸聖人を記念する、日本のお彼岸にあたるものです。その前夜祭がハロウィンですが、これは主にアメリカで盛んなようです。クリスチャンの国でも敬虔なカトリックの国などになると、各人の名前は大体聖人の名前になっていて(例えばミカエルーミシェルーマイケルーミハウ)(これは各国語の名前ですが同じ名前です)、その聖人はたその聖人の日というものがあり、各人が自分の名前の聖人の日になると、皆がその人を祝福します。例えば会社の事務所内でも、ちょっと時間を割いて「今日は○○○ name’s day だから・・・」ということでみんなが集まって、ケーキとコーヒー、それにブランデーなどでミニ・パーティーをします。「おめでとう」と祝福し、カードを渡したりもします。どういう訳か? 人気のある聖人日は年に二三回もあって、そのたびに name’s day です。その上に、当人自身の誕生日も加わるので、プチ・パーティーがしょっちゅうという感じになります。この日は、そういう各聖人の記念日をまとめて面倒をみる日であり、また家族の中で亡くなった人を偲ぶ日でもあります。そうして、日本でお彼岸にお墓参りをするように、カトリックの国でも皆がお墓参りをします。これは当日だったか? それとも翌日だったか? 忘れてしまいました。お墓は大きな公園のようになっていて、市内の各地にあります。この日には、家族が連れ立ってそう言う墓地に行って、墓地の入り口に立ち並ぶ露店でローソクと花を買い(花はやはり菊です)、広い墓地の中に入って、番地を頼りに(墓地が大きいので迷うことがあります)お墓に行き着き、お墓の草を刈り、墓石を磨き、ローソクを灯します。キリスト教は土葬ですから、故人はそのお墓に眠っています。お墓は大きな石のプレートに加えて縦の塔型の墓石が立っています。故人の名前や生年月日、亡くなった日、その業績などが彫り込まれ、中には生前の写真が写し込まれた墓石もあります。お金持ちや由緒ある家の墓石は大きく豪華なようです。ポーランドのお墓用のローソクは、日本のローソクとはちがって茶色いビンに入っています。私はそうとは知らずにこのローソクを買って灯していたことがありますが、普通のローソクより油煙が激しくておかしいなと思っていたら「それはお墓用のローソクだよ」と注意されてやっと気がつきました。ポーランドでは、このローソクの他に蜜蝋(みつろう)で作られたローソクがあります。お墓用のローソク(キャンドルと呼んだ方がいいかな?)が油煙を上げたように、一般のローソクは、石油製品であるパラフィンでできています。蜜蝋ローソクとは、蜜蜂(ミツバチ)が巣作りのために身体の中で作り出すワックス、蜜蝋で作られたものです。これは灯しても油煙が出ないローソクです。 ★ ★ ★ ★ ★ ★墓地といえば、インドネシアで合弁の相手先の重役さんが亡くなり、その墓地にお参りしたことがあります。インドネシアは宗教がイスラム教ですが、お墓は西洋のお墓とそれほどちがわなかった記憶があります。ただ、ブーゲンビリアなどの花が一杯供えてあり、非常にカラフルな墓地でした。バリ島に休暇で遊びに行った事がありますが、クタビーチでバリ式の葬式に遭遇しました。どうもバリ島なのでイスラムよりヒンデゥーの影響が強い葬式のようで、花に飾られた舟型の棺桶を人々が担いで、その舟に火を放って海へ送り出していました。
2004.11.05
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ポーランドについて書いた日記のリクエストがあったので、その一つを復刻日記としたい。------私は仕事の関係で東欧圏にも滞在したことがあるが、ベルリンの壁の崩壊以前の時代の正統的な?共産圏ではテレビのチャンネルも2チャンネルぐらいしか無かった。もちろん公共放送、それも白黒。だから、全国民がほとんど同じ番組を見ていたわけである。ラジオもだいたいそんなもので、みんなが同じ番組を聞いているものだから、夏休みの昼間のガラーンとした建物の間で、その番組の音声が各家庭から響いて共鳴していたのを思い出す。長い夏休はフランスの専売特許ではない。共産主義の数少ない余録として、共産圏の労働者諸君はけっこう長い期間の夏休みが取れた。夏にはほとんどの人が街からいなくなる。東側と言えど、別荘を持っている人などは結構いたし、別荘を持っていない人も組合の施設に宿泊したり、農家に一時的に間借りをしたりと方法はさまざまでも、とにかく海や田舎に向かう。私はポーランドに滞在中の夏休みにはワルシャワ近郊の避暑地の別荘に泊めてもらうことが多かった。共産圏・東側・東欧の夏なんて寒いのではないかと思われるかも知れないけれど、カラッと湿気が無くて温度も結構上がって、日本の夏よりはるかに過ごしやすい。日本の軽井沢とか北海道の夏と言えば当たらずとも遠からずだが、しかしもっと温度は上がる。経済破綻に陥った当時の東欧だから避暑地といっても物質文明の恩恵を受けたものではなかったけれど、かえってひなびた雰囲気で、避暑地の自然そのものを味わえるひっそりとした夏だった。貧しい玩具を売る屋台やジュースやアイスクリームを売る店、ビールのカフェぐらいがせいぜい。子どもは川へ泳ぎに行ったりだが、おとなの楽しみは寄り集まってのおしゃべりだ。もう一つある。夜のテレビの映画放映である。黒沢作品はあちらでは非常に人気があって、昼間の話題からすでに「今晩は黒沢の映画があるよね」などと言う。私もそんな機会に「七人の侍」をテレビでた。観ていて奇妙に感じたのは、私達が洋画を字幕で観るのとはちょうど反対で、セリフはオリジナルの日本語で、字幕が現地語になるから、鑑賞は非常に楽(?)だった。もっともテレビそのものの性能も劣悪だし、テレビ局の放送の発信装置も旧式で画面はとても西側のそれとは比較にならない程度のものだが、それしかないとなるとそれほど不満は感じないものだ。ラジオの方となると、夜8時頃の定時になるとポーランドの人たちがラジオにかじりついて聞く番組があった。短波放送かなんかで聞きづらいものだから、彼らは旧式で大型のポータブルラジオを耳に押しつけて聴いていた。それはロンドンのポーランド亡命政府からの、たしか、「自由ポーランド放送」とかいった放送だった。ドイツの侵攻以降、ポーランド政府は地下に潜り、やがてはロンドンにその本拠を置く事になり、その放送はその亡命政府からのもので、言論統制されていた当時のポーランド国民にいろんな「真実の」情報を提供していたわけである。この亡命政府には多くのポーランド人が参加し、ドーバー海峡をはさんだ英国とドイツ軍の有名な空戦(ある意味でドイツ敗戦の大きな原因となった)「バトル オブ ブリテン」にも多くの優秀なポーランド人パイロットが義勇軍として参加、大活躍した。しかし戦争が終わると英国はこのポーランド人パイロットの活躍をほとんど認めないまま歴史の闇の中に葬ってしまった。プライドの高い英国としては英国人パイロットだけの手柄にしたかったわけだ。私は一度ワルシャワからロンドンへの機中で隣の座席に座ったロンドン在住のポーランド人老夫妻と話す機会があったのだが、奇しくもそのご主人が、くだんの「バトル・オブ・ブリテン・パイロッ」トの一人だった。・・・といってもそれを当のご本人からでは無く、なにくれと彼の世話をしている奥様から聞いた。その戦功から英国永住権はもらったのだろう。ご主人は、もう痴呆が進んでいる様子で、ただただ黙って窓から外をながめていた。大戦末期のイタリア戦線のローマ近くにそびえる丘の上にある堅塁モンテカシーノ僧院での史上最も激しかった歴史的な戦いというものがある。連合軍側がいかに攻めに攻めてもドイツ軍が頑強な抵抗を示して、死屍累々となった戦場だが、長い長い戦闘の後、多大な犠牲をだしながら僧院に踏み込んでその国旗を掲げたのはこの亡命政府系ポーランド軍だった。アンジェイ・ヴァイダ(ワイダは間違い)の名作「灰とダイヤモンド」。その一場面で女性歌手が「モンテカシーノの赤いケシの花」という歌を直立不動の姿勢で歌いますね。あれはモンテカシーノの戦いで戦死した多数のポーランド兵たちの流した血を、赤いケシの花にたとえた歌なのです。
2004.10.15
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日記を書く時間が取れないので、このところ連日復刻版日記。まあ、自分の日記だから、何をしても自由だ・・・ということにして。 ----------------東欧の想い出 01 (2) 01月26日(月) ----------------私は仕事の関係で東欧圏にも滞在したことがあるが、ベルリンの壁の崩壊以前の時代の正統的な?共産圏ではテレビのチャンネルも2チャンネルぐらいしか無かった。もちろん公共放送、それも白黒。だから、全国民がほとんど同じ番組を見ていたわけである。ラジオもだいたいそんなもので、みんなが同じ番組を聞いているものだから、夏休みの昼間のガラーンとした建物の間で、その番組の音声が各家庭から響いて共鳴していたのを思い出す。長い夏休はフランスの専売特許ではない。共産主義の数少ない余録として、共産圏の労働者諸君はけっこう長い期間の夏休みが取れた。夏にはほとんどの人が街からいなくなる。東側と言えど、別荘を持っている人などは結構いたし、別荘を持っていない人も組合の施設に宿泊したり、農家に一時的に間借りをしたりと方法はさまざまでも、とにかく海や田舎に向かう。私はポーランドに滞在中の夏休みにはワルシャワ近郊の避暑地の別荘に泊めてもらうことが多かった。共産圏・東側・東欧の夏なんて寒いのではないかと思われるかも知れないけれど、カラッと湿気が無くて温度も結構上がって、日本の夏よりはるかに過ごしやすい。日本の軽井沢とか北海道の夏と言えば当たらずとも遠からずだが、しかしもっと温度は上がる。経済破綻に陥った当時の東欧だから避暑地といっても物質文明の恩恵を受けたものではなかったけれど、かえってひなびた雰囲気で、避暑地の自然そのものを味わえるひっそりとした夏だった。貧しい玩具を売る屋台やジュースやアイスクリームを売る店、ビールのカフェぐらいがせいぜい。子どもは川へ泳ぎに行ったりだが、おとなの楽しみは寄り集まってのおしゃべりだ。もう一つある。夜のテレビの映画放映である。黒沢作品はあちらでは非常に人気があって、昼間の話題からすでに「今晩は黒沢の映画があるよね」などと言う。私もそんな機会に「七人の侍」をテレビでた。観ていて奇妙に感じたのは、私達が洋画を字幕で観るのとはちょうど反対で、セリフはオリジナルの日本語で、字幕が現地語になるから、鑑賞は非常に楽(?)だった。もっともテレビそのものの性能も劣悪だし、テレビ局の放送の発信装置も旧式で画面はとても西側のそれとは比較にならない程度のものだが、それしかないとなるとそれほど不満は感じないものだ。ラジオの方となると、夜8時頃の定時になるとポーランドの人たちがラジオにかじりついて聞く番組があった。短波放送かなんかで聞きづらいものだから、彼らは旧式で大型のポータブルラジオを耳に押しつけて聴いていた。それはロンドンのポーランド亡命政府からの、たしか、「自由ポーランド放送」とかいった放送だった。ドイツの侵攻以降、ポーランド政府は地下に潜り、やがてはロンドンにその本拠を置く事になり、その放送はその亡命政府からのもので、言論統制されていた当時のポーランド国民にいろんな「真実の」情報を提供していたわけである。この亡命政府には多くのポーランド人が参加し、ドーバー海峡をはさんだ英国とドイツ軍の有名な空戦(ある意味でドイツ敗戦の大きな原因となった)「バトル オブ ブリテン」にも多くの優秀なポーランド人パイロットが義勇軍として参加、大活躍した。しかし戦争が終わると英国はこのポーランド人パイロットの活躍をほとんど認めないまま歴史の闇の中に葬ってしまった。プライドの高い英国としては英国人パイロットだけの手柄にしたかったわけだ。私は一度ワルシャワからロンドンへの機中で隣の座席に座ったロンドン在住のポーランド人老夫妻と話す機会があったのだが、奇しくもそのご主人が、くだんの「バトル・オブ・ブリテン・パイロッ」トの一人だった。・・・といってもそれを当のご本人からでは無く、なにくれと彼の世話をしている奥様から聞いた。その戦功から英国永住権はもらったのだろう。ご主人は、もう痴呆が進んでいる様子で、ただただ黙って窓から外をながめていた。大戦末期のイタリア戦線のローマ近くにそびえる丘の上にある堅塁モンテカシーノ僧院での史上最も激しかった歴史的な戦いというものがある。連合軍側がいかに攻めに攻めてもドイツ軍が頑強な抵抗を示して、死屍累々となった戦場だが、長い長い戦闘の後、多大な犠牲をだしながら僧院に踏み込んでその国旗を掲げたのはこの亡命政府系ポーランド軍だった。アンジェイ・ヴァイダ(ワイダは間違い)の名作「灰とダイヤモンド」。その一場面で女性が「モンテカシーノの赤いケシの花」という歌を直立不動の姿勢で歌いますね。あれはモンテカシーノの戦いで戦死した多数のポーランド兵たちの流した血を赤いケシの花にたとえた歌なのです。
2004.07.09
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ドイツが東西に分かれていた時代の事です。私は東ドイツと、ある工場施設の輸出商談の交渉をしていました。日本側は商社とあるメーカーがチームを組んで、相手側は東ドイツの貿易公団です。貿易公団も一種の商社で、最終的なユーザーは東ドイツの工場。私が滞在していた頃は、ベルリンもまだ西ベルリン(西側)と東ベルリン(共産圏側)に分かれてました。オフィスのある西ベルリンから、オフィスの無い東ベルリンへ毎日通勤?していました。東ドイツのホテルに宿泊してもいいのですが、毎日の交渉の内容の報告を東京にしなければいけませんし(それは電話とファックス)、それに対する東京の指令を受け取らなければいけません。しかし、それを東ベルリンのホテルでしていたのでは、東ドイツ側に情報が筒抜けなので、毎日、交渉が終わったらいったん西ベルリンに帰ってから深夜、東京と情報交換をしたのです。睡眠時間がほとんど取れない厳しい毎日でした。東ベルリンの雰囲気は華やかな西ベルリンから180度ちがっていました。だいたい中欧・東欧の冬は日も短く雲が低く、昼間と言えど夕方のような明るさですし、温度も零下10度程度の厳寒です。それよりもなによりも、当時はまだ東ベルリンから西ベルリンへの脱出者がいたころでしたから、国境や駅には完全装備の兵士が大勢立っていて、実に重苦しいものでした。電車で西側から東側に入る寸前、高架の上から川沿いに伸びるいわゆるベルリンの壁が見えて来ました。壁の周辺は地雷原になっている事が多く、ここで脱出を試みた多くの人びとが射殺されたのです。中には西側にトンネルを掘って脱出した人々もいます。そんな題材のドイツ映画「トンネル」という映画があるそうですが、私は未見です。「寒い国から帰ってきたスパイ」「第三の男」鉄のカーテンをめぐるストーリーの映画も多いですね。通勤と言っても東ベルリンの駅に到着してからパスポート・コントロール(入国管理事務所)でONE DAY VISAをもらい、税関を通り抜けるまで片道たっぷり一時間かかるのです。ビジネスの面でも東ドイツの人間はこれ以上ないほどのハード・ネゴシエイターで、そういう相手と厳寒の中、通勤?を含めて朝から晩まで、受注の見込みが見えないまま数ヶ月ハードなネゴをしたのは精神的にも肉体的にも辛い経験でした。出してくれる昼食も、固い食パンにサラミとピクルスをのせたオープンサンド二つとガス入りのミネラルウォータ、それに紅茶だけというスパルタンなもの。しかしそんな中で、ある日相手側の女性部長が休日に博物館見物に誘ってくれました。実は長いあいだネゴをしていても、競争している会社の状況がさっぱりわからず、だからといって公式のネゴの席ではとても聞けるものではなく、困っていた私たちに彼女がチャンスを与えてくれたのです。どういうことかと言いますと、私たちに同情した彼女が博物館の中で人混みに紛れながら何気なく会話をする中で、少々のヒントをくれたのです。スパイなどが情報を渡す場合もあえて公衆の中でメモをやりとりする事が多いようです。博物館の群衆の中でなら、東側の当局に怪しまれる事があまり無く、しかも私達の会話を聞き取る事が出来ないような・・・そういう場所を選んでくれたのです。そんなことがあっても、その商談はさ以後の段階で思わぬ出来事があり、受注できずに終わりました。共産圏の国の中ではやはり国民性・優秀性もあって、東ドイツが一番緊張感がありました。逆に言えば怖かったという事ですが。共産圏では、ちょっと怖い体験はいろいろありました。そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅というものがありました。東西を区切るベルリンの壁の下あたりに駅があるのですが、その駅は西側への逃亡を防ぐため閉鎖されていて無人、もちろん停車もしません。そのまさに幽霊のような駅を地下鉄で通過する時など、なんというか実に陰惨な雰囲気でぞっとしたものです。少し前に東ベルリンを訪問した時にはガラッと変わって、西欧化していました。今となってはあの東ドイツも無くなってしまって、想い出の中にあるだけです。あの幽霊駅のように、通り過ぎる時に見えるだけで、実際には下車でき無い想い出のような。こんな事を書いていると、いろんな記憶が冷たい空気と共によみがえってくる様な気持ちになります。「寒い国から帰ってきたスパイ」こういう題名のル・カレの傑作スパイ小説があって、映画にもなっています。リチャード・バートン主演。
2004.05.16
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ヴィエトナムでの「死にかけた話」は未だあるんですが、今回は趣を変えて旧共産圏の某国での「死にかけた話」。あるパーティーにその土地の奥さん連中に誘われて参加したのですが。なぜ奥さん連中に誘われたのか?を先ず説明しましょう。ベルリンの壁の崩壊前の東西冷戦の時代です。旧共産圏はレストランも原則的に国営ですからあまり美味しくありませんでした。そこには競争原理が働いていないからです。それに比べ少数派の私営ライセンスを持っている店はかなり美味しいのですが、そもそもレストランの数が少ない。市の地図を見てみるとその中にフォークとナイフのシンボルでレストランの位置が示されています。その数がほんの数えるほどです。それに値段も高いから(外国人にとっては貨幣価値の関係で実に安いのですが)なにか「ハレ」の事でもない限り、あまり現地の人々はレストランには行かないのです。でもそういう国では必ず家庭料理が旨い。必要は発明の母、少ないレストランの数は美味しい家庭料理の母・・・。私は独身だったのですが、レストランで一人で食べるのでは味気ない。自分でマーケットに買いに行って自炊もしたのですが、やはり男の自炊は料理の種類もミニマムですし、美味しい料理を作り出す境地にまではなかなか上達しません。ある時、仕事上で知り合った現地のある男性の家庭に招かれ家庭料理をごちそうになり、楽しいおしゃべりをしながら(このクラスの奥さん達はけっこう英語も話しました)美味しい料理を思い切り食べたのです。私がモリモリ(ガツガツかな?)食べるとその奥さんは非常に喜んでくれました。彼女たちの旦那さん達はこの奥さん達が手間をかけた美味しい料理に対する感謝のジェスチャーが、ふだん大いに不足していたらしいのです。「もっと食べなさい もっと・・・」と、あきれている旦那さん達に見せつける様に食事をすすめてくれるのです。(もちろん私もおみやげにワインやウィスキーや花を持って行きましたが)。食事だけではなくて・・・。奥さん連中は中年期、いわゆる倦怠期の人達で旦那さん達からは彼女の「美」に対しての賞賛のジェスチャーが大いに不足している様で、さらに子供たちも巣立っていわゆる「空っぽの巣症候群」(元は英語でそれを正確に思い出せないけれどvacant nestかな?)奥さん連中はいろんな不満からアル中になっている人も多かった。気の毒。私は食事の恩義もあり、こういう「元美女」の昔の栄華?をしのびながら「あの奥さんはまだまだ美しい」とお世辞を言ったのです。事実昔の写真や肖像画を見ると美人でした。直接本人には言わず間接的に他の奥さん経由。これも陰険ですが、初めから意図したところではありません。ただ効果は大ありでした。これで「あなた、食べにいらっしゃい」と奥さん連中のプチ・パーティーや休日の別荘などに招かれるようになって、本当に美味しい食事をごちそうになりましたし、家族旅行などにも参加したりもしました。今でも彼女達に電話して「あの人は今どうしている?」など、懐かしい人達の話をすることがあります。 ~~~~~~~~~で、ある日の夕方、冬で雪が積もっていました。彼女たちの友達の一人が主催するパーティーに私も誘われたのです。着いてみるとその国の人々が中心で、私としてはどの人が英語をしゃべれるのかわからないまま、しばらくは暗~くひとりで酒だけを飲んでいたのです。奥様方は hen’s party というのか、女性同士でおしゃべりに夢中です。その内にアコーディオンを弾き出す人がいてリクエストを募ったので、私はその国の愛国歌というか悲しい軍歌というか?そういう歌をリクエストしたのです。その曲は私も知っていて、死んだ兵士の血がひなげしの花の様に赤く・・・という歌詞だったかな?一人で飲んでいた私は酔いもあったのか?その曲を皆と一緒に歌いながら、どうしたことか?私の目から水分が、つまり涙がボロボロ出てきたのです。外国人のくせにその曲を歌いながら泣くという愛国的な??私に、周りの人々がちょっとひいていてのを覚えています。その後すぐダンスの時間になって奥さん連中が誘いに来たのですが、私はこれでもシャイというか?ダンスが下手というか?(全然違う理由だろう?)、未だ踊っている人が少ない状態では踊れない人間なのです。「申し訳ないが後でね」・・・と断っていたのですが。そのうち、身体にピッタリとした黒いレースのドレスを着たブロンドの女性が私に近づいてきて、黙って私の手を取って、・・・私は気がつくと彼女と踊っていたのです。(この国の女性はほとんどブロンドなのですが)私はダンスにあまり自信が無かったので、彼女の反応を見ようと彼女の顔を見てみると、とても優しい表情でニッコリ笑うのです。しかも彼女、美人です。その国の女性は一般的にやや小柄で、小粋でどちらかというとほっそりした女性が多いのですが、彼女はどうもゲルマン系の血が入っているらしく、背の高い私とちょうど釣り合いの取れる長身で、しかもしっかりした体つきでゴージャス系の美貌、いわゆるクラッシー(上流)な容姿です。(東欧にはドイツ騎士団の領土があり、ドイツの植民もありゲルマン系のドイツ系やオランダ系の人がいました)。顔つきは違うのですが、雰囲気はちょっとマレーネ・デートリッヒを思わせる感じです。彼女の笑顔に元気づけられて二三曲踊って、もう止めようかなと思ったのですが、彼女は止める様子がありません。「私はダンスがへたでしょう?」と聞いてみたら「いえ、上手よ」とお上手を言ってくれました。彼女がますます美人に見えてきました。6曲程も踊るとタンゴの曲がかかり、私はついて行けなかったので席にもどりました。それからようやく英語を話すスエーデン人の少年を見つけ出して話し相手が出来ました。しばらくすると、くだんのブロンド美人がまた寄ってきて今度はその家の内部を案内してくれたのです。自分の家でも無いのに・・・です。その家の夫婦の寝室にまで入って行って、そこの壁に掛かっている家族や共通の友人達の写真についての説明をしてくれるのです。私としてはすこぶる付きの美人が優しく親切にしてくれるのでなんの不満もありません。と・・・、その時、奥さん連中の一人があわただしく入ってきて、私にもう帰ろうというのです。私としては「え~~?どうして」です。まだまだパーティーは続くはずです。それにこんな美人と親しくなったのですから、できればパーティーの最後までいたい。何かハップニングもあるかもしれません。ブロンド美人が何か奥さんに文句を言って、奥さんが言い返していました。私は結局その奥さんの厳しい表情に押されて、他の奥さん連中と一緒にそそくさとかえることになりました。車の中で奥さん連中がむっとしている様な雰囲気なのです。私が彼女たちとのダンスを断りながら、その一方であの美人とは何曲も踊ってしまったからでしょうか?恐ろしくて訪ねることは止めました。 ~~~~~~~~~それから半年ほど経ってまたその奥さん連中と飲んでいました。私がなにげなく「あのパーティーはあれからどうなったの?」と聞いたところ、一人の奥さんが急に険しい表情になって!、「実はあなたはあの時、ビッグ・トラブルに直面していたのよ」というのです。「あなたがダンスしていた女性は秘密警察の将校の奥さんだったのよ。あの奥さん、あなたとダンスをした後で『彼はチャーミングだわ。彼とどうしても make love したいわ!』って言い出したのよ。そうしたら、彼女の夫がそれを聞いて、怒ってピストルを持ち出して『その男を殺してやる』って言い出して大騒ぎになって、だから、あなたを急いで連れて帰ったのよ。私達はあなたの命の恩人よ!それに私達とのダンスは断りながら、彼女とばかり踊って・・・」。奥さんの旦那さんの一人が傍でこの会話を聞いていて、「秘密警察の将校?それはすごい地位じゃないか?」と他人事の様に感心していました。しかし私は・・・が~~~ん!!「日本人出張者の射殺死体が発見された」・・・という新聞記事が目に浮かびます。私の死体はドライアイスを詰められて日本に無言の帰国をする。多数の女性がすすり泣きながら迎える・・・。(これは無いか?)それでも実は私はあのブロンド美人についてもう少し詳しい話を・・・、どこに住んでいるとか、電話番号は?とか・・・、そういうことを少しでも、なんとか教えてもらいたい・・・ところだったのですが、奥さん連中の厳しい視線を前にして、もう何も聞き出すことは出来ませんでした。それにしても私も危ないところだったのね~。それに彼女はどうしてパーティーの場でそんなことを言い出したんだろう。彼女、キレル人なんだな~。なんだかハリウッドの淫乱な女優、エイヴァ・ガードナーの話を聞いているようです。「若き獅子たち」で淫乱なドイツ将校夫人を演じたマイ・ブリットも思い出します。あの秘密警察の夫も美人だが淫乱な妻に苦しんだのだろうな~。(淫乱という言葉が好きなんで乱用しています)。ひょっとしたらもう何人も射殺しているかもしれない。(それは無いか?)少なくとも、ああいうことも一度ならず起こったんだろうな~。それに彼女、どうして初対面の東洋人の私をそんなに急に気に入ったんだろう?これは謎のままです。それにしても、安全な状況でもう一度彼女に逢いたいな・・・という気分も、正直言ってあります・・・。あっ!そんなこといっても昔の話だった。
2004.05.15
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私は仕事の関係で東欧圏にも滞在したことがあるが、ベルリンの壁の崩壊以前の時代の正統的な?共産圏ではテレビのチャンネルも2チャンネルぐらいしか無かった。もちろん公共放送、それも白黒。だから、全国民がほとんど同じ番組を見ていたわけである。ラジオもだいたいそんなもので、みんなが同じ番組を聞いているものだから、夏休みの昼間のガラーンとした建物の間で、その番組の音声が各家庭から響いて共鳴していたのを思い出す。長い夏休はフランスの専売特許ではない。共産主義の数少ない余録として、共産圏の労働者諸君はけっこう長い期間の夏休みが取れた。夏にはほとんどの人が街からいなくなる。東側と言えど、別荘を持っている人などは結構いたし、別荘を持っていない人も組合の施設に宿泊したり、農家に一時的に間借りをしたりと方法はさまざまでも、とにかく海や田舎に向かう。私はポーランドに滞在中の夏休みにはワルシャワ近郊の避暑地の別荘に泊めてもらうことが多かった。共産圏・東側・東欧の夏なんて寒いのではないかと思われるかも知れないけれど、カラッと湿気が無くて温度も結構上がって、日本の夏よりはるかに過ごしやすい。日本の軽井沢とか北海道の夏と言えば当たらずとも遠からずだが、しかしもっと温度は上がる。経済破綻に陥った当時の東欧だから避暑地といっても物質文明の恩恵を受けたものではなかったけれど、かえってひなびた雰囲気で、避暑地の自然そのものを味わえるひっそりとした夏だった。貧しい玩具を売る屋台やジュースやアイスクリームを売る店、ビールのカフェぐらいがせいぜい。子どもは川へ泳ぎに行ったりだが、おとなの楽しみは寄り集まってのおしゃべりだ。もう一つある。夜のテレビの映画放映である。黒沢作品はあちらでは非常に人気があって、昼間の話題からすでに「今晩は黒沢の映画があるよね」などと言う。私もそんな機会に「七人の侍」をテレビでた。観ていて奇妙に感じたのは、私達が洋画を字幕で観るのとはちょうど反対で、セリフはオリジナルの日本語で、字幕が現地語になるから、鑑賞は非常に楽(?)だった。もっともテレビそのものの性能も劣悪だし、テレビ局の放送の発信装置も旧式で画面はとても西側のそれとは比較にならない程度のものだが、それしかないとなるとそれほど不満は感じないものだ。ラジオの方となると、夜8時頃の定時になるとポーランドの人たちがラジオにかじりついて聞く番組があった。短波放送かなんかで聞きづらいものだから、彼らは旧式で大型のポータブルラジオを耳に押しつけて聴いていた。それはロンドンのポーランド亡命政府からの、たしか、「自由ポーランド放送」とかいった放送だった。ドイツの侵攻以降、ポーランド政府は地下に潜り、やがてはロンドンにその本拠を置く事になり、その放送はその亡命政府からのもので、言論統制されていた当時のポーランド国民にいろんな「真実の」情報を提供していたわけである。この亡命政府には多くのポーランド人が参加し、ドーバー海峡をはさんだ英国とドイツ軍の有名な空戦(ある意味でドイツ敗戦の大きな原因となった)「バトル オブ ブリテン」にも多くの優秀なポーランド人パイロットが義勇軍として参加、大活躍した。しかし戦争が終わると英国はこのポーランド人パイロットの活躍をほとんど認めないまま歴史の闇の中に葬ってしまった。プライドの高い英国としては英国人パイロットだけの手柄にしたかったわけだ。私は一度ワルシャワからロンドンへの機中で隣の座席に座ったロンドン在住のポーランド人老夫妻と話す機会があったのだが、奇しくもそのご主人が、くだんの「バトル・オブ・ブリテン・パイロッ」トの一人だった。・・・といってもそれを当のご本人からでは無く、なにくれと彼の世話をしている奥様から聞いた。その戦功から英国永住権はもらったのだろう。ご主人は、もう痴呆が進んでいる様子で、ただただ黙って窓から外をながめていた。大戦末期のイタリア戦線のローマ近くにそびえる丘の上にある堅塁モンテカシーノ僧院での史上最も激しかった歴史的な戦いというものがある。連合軍側がいかに攻めに攻めてもドイツ軍が頑強な抵抗を示して、死屍累々となった戦場だが、長い長い戦闘の後、多大な犠牲をだしながら僧院に踏み込んでその国旗を掲げたのはこの亡命政府系ポーランド軍だった。アンジェイ・ヴァイダ(ワイダは間違い)の名作「灰とダイヤモンド」。その一場面で女性が「モンテカシーノの赤いケシの花」という歌を直立不動の姿勢で歌いますね。あれはモンテカシーノの戦いで戦死した多数のポーランド兵たちの流した血を赤いケシの花にたとえた歌なのです。
2004.01.26
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