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今度は、もうちょっと自由に書いていこう!と新しいブログを立ち上げました。「一番の自分になろう!」というタイトルです。(^-^) http://ameblo.jp/lovian16/ また、皆さんと新しいブログでお会いできるのを楽しみにしています。 一応、今のところ、コメント受付中です。(笑)しばらくしたら消える可能性ありですが。(^^;; それでは、新しいブログでお会いしましよう!
July 28, 2009
さっきまで、書いていたブログの内容がまたまた勝手に消えてしまった。 「振動数を高くする」ことだけ書けばいいって感じで。 振動数って一口に言っても、バイブレーションの数値のことではなくて、意識レベルの話。だったら、意識レベルって言えば?というと、それとはちょっと違う。こう言うと、余計ややこしくなって、理解しづらいらしい。 それもわかる。 うーん、でも説明するとなると、ものすごくあいまいで、やっぱリ理解しにくいもの、それが「振動数」かも知れない。 振動数を理解してもらうのに、よくその「高さ」で表現している。これはまぁ、3次元的にわかりやすいから。内容はともかく、理解されやすいと思って、数値で表したりする。 私がよく使っているのは、「パワーかフォースか」という本の意識レベルの表。案外、キネシオロジーを知っている人なら、結構読んでいる人も多いみたいだから、知っている人もいるだろう。 この数値には、1,000までしか書いていなくて、最高が1,000という数値になっている。最高レベルは、「キリスト」の意識だそうだ。多分、この著者は、キリスト教圏の人なので、「キリスト」が最高なのだろう。つまりキリストは、1,000。 この意識のマップを使って、以前私は人の意識のレベルを計っていた。もちろん、キネシオロジーを使い、その人にもわかるように。そもそも、キネシオロジーを頻繁に使うようになった最大の理由は、目に見えないものを目に見える形にして見せてあげられる素晴らしいツールだと直感したからだ。 それを使って、最初たくさんの人の振動数を計っていた。 だから、私の人間的な理解の中では、その意識のマップにある1,000がやはり最高なのだろう、と思っていた。 ところがある日、私に新しいメッセージがやってきた。魂のお仕事に関するメッセージだった。そして、それを成し遂げるために、私自身の振動数を30,000まで上げなければならない、と「声」は言うのだ。当然のことながら、私は仰天した。友人と二人、30,000まで上げろ、という声を聞いて、私の頭の中には、「ありえない」という思いしかなかった。だって、そもそも、そんな数字どこから出てくるのよ!?と思っていた。 キリストが1,000レベルだって言うのに、私が30,000なんてありえないでしょー!?というのが私の率直かつ、当然な思いだった。 しかし、刻々と魂のお仕事をする日は近づいてくる。メッセージが、30,000と言ったからには、きっとそれをしなければならない「理由」があるはずだ。魂の声には従う、これが私の中での鉄則。 だったらもう、従うしかない。意を決して、友人と二人、30,000を目指して、振動数をあげることに意識を集中した。もちろん、それはその時の私には、全く簡単なことではなく、途中、頭は割れるように痛くなり、心臓はばくばく言い始めて、呼吸困難に陥ったので、いったん中止。それでも、30,000という数値には、届くはずもなく、こんなんで大丈夫?という思いがあった。 結局3週間をかけて、最終30,000まで上げることに成功した。 やればできるものだ、というのがその時の感想だった。面白いことにその時は、毎日朝から晩まで、あふれるようなメッセージの洪水だった。常につながった状態にあったせいか、それがさも当然のように感じ、ものすごく目が覚めている気がした。 世界は明るく光っていて、色鮮やかなのだ。 もっとも、その時は、魂のお仕事を終えると同時に、そんな数値の状態ではなくなったけれど、それもその時の私の意識が、そうさせていたことを今では感じている。 なぜなら、今では、100,000であろうが、その状態になっていることは可能だからだ。 その本を読んで、500以上になりたいと考えている人たちには、信じられない事かも知れないが、私のところにきている人たちは、セミナー中、振動数を10,000まで上げている人なんてざらにいる。 今では私も、それが特別、大変なことではないことをよく知っているのだ。 なぜならば、エネルギーの世界は、意識したこと、イメージしたことが現実だから。 イメージできることは、即座に現実となりうるのだ。 そのことが理解できないとすれば、その人はまだ、そのレベルに達していないだけにすぎない。 大したことではない。誰でも到達可能なのだ。 そして、到達してしまえば、それがそうたいしたことではないことを理解できるだろう。できないと思う心ができなくし、無理だと考えるから、無理になっていくだけなのだ。 エネルギーの世界では不可能なことなど、存在しない。なぜなら、単純にイメージだから。 嘘だと思うなら、あなたも振動数を上げに来てみればいい。やってもみないで不可能だと思うのが、普通の人。できるかどうかやってみないとわからない、と思う人が自分の望む現実を手に入れる。 あなたが手に入れたいものは、どんな現実なのか、考えてみればいい。 問題を作りだす名人は、間違いなく、振動数が低い。逆に楽観的に物事を見ることができる人は振動数が高いことになる。先を見通す力は、またその上に存在する。 けれど、誰でもその部分に到達可能なのだ。その方法さえ、理解していれば。 エンライトメントHPhttp://www.angel-support.com/
July 23, 2009
なんだか、前回書いてから、ずいぶん経ってしまいました。どうも、毎回書きますね、なーんて書いたらしく、友人に「ちっとも書いてませんよね」なーんて、指摘されてしまいました。スミマセン。 ここのところ、オーラハーモニーやセミナーが立て続いていたもので、プログまでなかなか手が回らずでした。 明日も東京のセミナーなんですが、まだ東京セミナーの準備もそこそこにこれを書いています。 毎回、セミナーでも、オーラハーモニーでも、本当にいろいろ起きてくるのですが、どこから話せばいいの?見たいに思っているうちに、次が来て、前の出来事を忘れてしまう、健忘症な私です。 この間、京都の7回目のセミナーを終えて、セミナーに参加してくださっているデザイナーさんが、「皆、顔が真っ白くなって、それぞれに合う服を着て、かわいくなってたよね。」と言っていました。 そうなんです!振動数が上がるとね、ものの見方や見え方そのものが変わってくるから、自然ときれいになってくるんです。 振動数が上がると、顔や目が輝いてきて、自然にお腹に力が入り、自分に自信がついてきます。 そうすると、本当に勝手に綺麗になっていくんですよ。 顔がくすんで見えるのは、単純に日焼けとか、年齢とかそういうことだけではなくて、内側のあなたが、くすんでいるのかも知れません。 よくね、内側を磨くときれいになるって言いますけど、ハーモニーやセミナーに参加された方が文字通りそんな顔をして帰ります。 内側からぴかって光って来ると、不思議なくらい顔がきれいになるんですね。 そういえば、有名なモデルさんたちなんかも、くすんだ顔をしているときには、マネージャーさんがヒーリングを受けに連れて行ったりするそうです。 心の問題や何かが解決すると、実際に綺麗になることがわかってるんですね。 前回の会津のハーモニーの時には、前日に過去世をやってたのですが、その中で大物の悪役(あえて役と呼ばせてもらいます。)をやっていた人が、その人物の問題をその時解決したら、その後、ほんの一か月くらいで13kgも痩せた、と言っていましたから、本当にびっくりです。実際、二周りくらい小さくなってた感じでしたね。 これまで彼女はお腹がすいていなくても、つい食べてしまう癖をもっていた、と言います。甘いものには目がなくて、ついついお腹がいっぱいにもかかわらず、食べてしまって、後で自分を責めていたと言うのです。 それが、その過去世ワークをやったあとでは、そんなに食べたくなくなったらしいのです。無理して痩せよう、ではなくて、心が満たされているので、食べ物でお腹(心)を満たす必要がなくなったんですね。それで、自然に痩せてしまった、というわけです。 こんな方、案外たくさんいらっしゃるのではないでしょうか?食べたいわけでもないのに、つい手が出てしまう。口に何か入っていないと、なんとなく不安になる、という人は体ではなく、心が原因の場合がほとんどです。 今生で太った最大の理由が、過去世にあったの?という不思議なパターンでした。 実際、こう言うことをいろいろとやっていると、やっている私が「ほー」と思うこともしばしばです。 私は、エネルギーを封入したエッセンスも販売しているのですが、そのエッセンスはすべてその方のエネルギーに合わせてこちらでお選びしています。 たくさんご注文いただいた中で、こんな面白いご注文をいただいたこともありました。「飼っている犬がやせるエッセンスはありませんか?」というものでした。 そのご注文をいただいた時には、「へっ?」って感じでしたが、そのワンちゃんにもエッセンスが 効く、と感じたいたので、「痩せるエッセンス、というものはありませんが、今、そのワンちゃんにぴったりのエッセンスをお送りします。」ということで、お送りしました。 しばらくすると、「すごいです!本当に痩せてきました!」というメールをいただき、こちらが゛びっくりしてしまいました。(笑) 基本的に、エンライトメントではいつもその方に合っているもの、必要なものしかお渡しすることができません。私には、その方が合わないものを持った時に、エネルギーが落ちてしまうのが見えてしまうので、ご要望があっても、必要でないものは販売しない、というのがうちのポリシーです。以前は、よくこれで夫や友人に「頑固おやじの店」と評されていました。(笑) ある意味、便利なような不便なような・・。商売人としては、あんまり成り立たないパターンじゃないの?とずっと思っていましたが、ありがたいことに、うちをご利用いただく方は、私がびっくりするくらい、リピーターの方たちで占められています。 本当にありがたいことです。私自身、皆さんの顔が輝いたり、エネルギーがきれいになっていくのを見ると、本当に「楽」になります。このお仕事って、やっぱりライフワークだと思います。 一番多いご要望は、気に入ったアクセサリーが欲しい、というものでしたが、そもそも私が趣味で作っていてさえ、合っているとエネルギーがどんっと上がり、合っていなければ、落ちてしまうのを目の当たりにすると、とてもではないけれど、下手なものをあげたりできません。 最初に私がアクセサリーを作り始めたきっかけは、ちょっとしたものを自分が作れたら楽しい、という程度だったのですが、初めて作ったアクセサリーを友人たちにプレゼントしたら、なぜか皆が口ぐちに「このアクセサリーには金運があるよ」と言ってくれたんですね。 作った私自身は半身半疑な感じでしたが、まぁ、金運がつくのなら、私のと夫のも作っておこう♪と言うわけで、二人分のを作ると、次の日、夫が興奮して帰ってきて、「やっぱりこのストラップ、金運があるよ」と言うのです。何やらお金を拾ったらしい。(笑) それからというもの、どんどんそのような噂が広がって、次から次へとアクセサリーの注文を受けるようになりました。その頃は、一日で20本くらい作ることもざらにありましたね。(最近忙しいので、あまりお受けしてていませんが^^;) そして、私が驚くことに、次々に、金運だのラッキーだのが起きた、という報告が私のもとに入ってきていました。正直、言うと、私の方がびっくりでした。 そのうち、ストラップやブレスレットを作ると、勝手にエネルギーが入るようになり、メッセージも来るようになって、最近では皆さんそれを「おみくじ」と呼んで(笑)楽しみにしてくださっているようです。 私のHPです♪ 見てね。http://www.angel-support.com/
July 10, 2009
今、エンライトメントセミナーのステージ1を続けています。その内容のほとんどは、「自分と向き合う」というもの。 自分と向き合う内容のワークに向かうとき、たいていの人は、頭でものを考えます。でも頭で考えている間、本当のことは何も見えてきません。なかなか、自分の中の本当の気持ちとか、本当の素直な感情にたどりつくことができないのです。 それはなぜか。恐いのです。人は、自分の中の本当の感情に気づくことをものすごく恐れています。 たいていの人は、そんなことだとは全く思ってもいないでしょう。 けれど、自分と向き合ったことのない人は、いきなり自分の本当の感情に向き合わなくてはならなくなると、パニックに陥るか、真っ白になってとぼけてわからなくなるか、たいていどちらかの反応を示します。 一番多いのは、真っ白になってそんな感情なんてないよ、という態度をとるパターンです。正直、それが一番たちが悪い。でも、私自身、自分の中の見たくない感情に向き合うとき、本当に真っ白になったりしますから、人のことは言えません。(笑) それでも、サポートしてもらって、少しずつ紐解いていくと、何が引っかかっているのかがわかってきます。 自分の絡まった感情を解きほぐすと、これまで問題だったことが、嘘のようにきれいに晴れていきます。そもそも、問題とは、私たちの心の中にしかないものだからです。 そんなことはない!と断言する声が聞こえてきそうですが、もちろん、物理的にどうすることもできないようなことだってたくさんあるでしょう。 それを人は、問題にします。けれど、本当の問題は、それが「問題」であると、感じる心にあるのです。 だからと言って、なかったことにすればよい、と言うことではありません。それは基本、あなた自身の学びなので、それを学びとるまで、宇宙は手を変え、品を替え、問題を作ってくるからです。その問題は、あなた自身が、問題だと感じるところからやってきます。 ですから、一つの人間関係が問題だったとしたら、そこから逃げてもなぜかまた、似たようなタイプの困った人があなたの周りに現れるでしょう。こんな経験したことありませんか? それは、あなたの心が、問題を作り出していることに他ならないのです。 あなたの問題は、あなた自身がクリアしたいと願っていることそのものです。 なぜなら、それをクリアしなくてもよい、と思うなら、あなたにとってその事は、問題にもならないからです。 あなたが解決したいと感じる問題は、事柄に関係なく、あなた自身の心の中に、その問題の原点があります。 その原点は、あなたのものの考え方、そして、あなた自身の物の見方によるものです。 物の見方を検証し、自分の考え方をしっかりと見てください。 なぜ、自分がそう感じるのか、そう考えるのか、なぜ?と思う癖をつけてみてください。 一つ一つ何かの気持ちや考え、感情が出てくるたびになぜ自分はそのように考える癖があるのか、考えてみてください。 ノートに書くなら、それが一番結果が出やすいでしょう。コツは、決してあきらめないこと。 あなたがあなた自身の考えや感情に気づいていけば、次第に自分がどう行動すればいいか、理解できていきます。どう行動すればいいか、人に聞きたいときは、まだその答えが中途半端な時です。 その時は、再び、自分に聞いてみてください。なぜ?、と。 一人でやっていても解決できない時は、友人と二人でやってみる、という手もあります。自分で気づかないことに、相手が気付く場合があるからです。ちなみに何でも、あなたと同意見しか言わないようなタイプとそれをやってもあまり意味はありません。 誰かがあなたに文句を言ったら、言い返せ、というようなことでは、何の解決にもならないからです。 どんなことが起きても、あなたの感情には、あなた自身が責任を持っています。あなたが受け取らなければ、どんなことも、ただ起きたことにすぎません。 しっかりと自分自身を見つめ、検証してみてください。 そのことによって、あなた自身とあなたの周りの人に対して、より寛容になり、より人生は奥深くなり、そしてより、幸せに近づくことになるでしょう。 ********************************** あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 10, 2009
この間から、また、過去生体験が始まっています。過去世の人生だから、過去生。また、新い学びのようです。エンライトメントセミナーで、参加者の方たちが学んでいることを私も別の形で経験する・・、ということなのでしょうか。先日、出てきた過去生は、4つ。最初に出てきたキーワードは、「エディンバラ」。この言葉に引っかかった瞬間、この日一日、「エディンバラ」に捕まってしまいました。そのことが解明されるまで、震えが止まらないような感じ。というわけで、ある友人に電話して、一緒に過去世体験をしてもらうことにしました。彼女とは、こんな感じで何度も何度も、一緒に過去世回帰をやっています。どうも、一緒にいた回数が非常に多かったよう。もしかしたら、これらのことを解消するために、近くに住んでいるのかも知れません。(^^;電話していて、最初に思い出したのが、ただ悲しい、という感情。なんだろう?この悲しいって・・。以前にも、スコットランドの過去生をいくつか見たことがあり、城主の娘だったり、パン屋の娘だったリしていたので、この時も女性・・・かな?と最初はそう思っていました。でも、登場する人物や背景から言って、若い女性は、その場面に特にかかわっている様子はありません。友人が見ていたのは、城の地下、それも拷問室に、たくさんの人たちが連れてこられている様子でじた。たくさんの人たち…、男も女も子供も老人も関係なく、様々な人たちがそこに連れてこられていました。彼女は、拷問されている人たちを可哀相に思っているけれど、自分にはどうしようもないと感じていました。その時私は、拷問室にこんなにたくさんの人が集められているのは、誰かを探すためだ、とピンときました。誰かを探していて、その居場所を探り出すために、あらゆる手段を使っているのだと感じたのです。そして、拷問室に連れてこられた人たちは、その人たちにとって、大切な人をかくまっているのだと感じました。そして、どうしてもその人たちがかくまっている人を教えようとしないので、最悪の手段に打って出ている感じでした。その人の行方を知っているものをすべて殺してでも、そのものをひっ捉える、という目的の元に、拷問は行われている感じ。それなのに、その人たちの決意は固く、決して誰も口を割ろうとはしていませんでした。よほど、その人たちにとって大切な人なのでしょう。それらのことを過去世のシーンから読み取りながら、私自身は、何の関係があるのか、さっぱりわかりません。その時私は、若い女性だと思っていて、拷問室にいるわけでもないので、悲しいのは、誰か女性の大切な人が拷問室に連れて行かれたのかと思っていました。それでどうしようもなく悲しいのかと、思ったのですが、それならこの過去生を見ている意味がわかりません。単純に悲しいだけ、という思いを知るだけなら、今、私がそれを見ても仕方ないはずです。だったら、もしかすると、私は他にいるのでは?と思いました。でも、拷問されている人たちの中に私の姿はありません。ならば、逆にそれをとらえたものの中にいるのか?その中にはさらにいない感じです。すると友人が「皆がかくまっている人がYOKOさんじゃない?」と言った瞬間、私の体に電気が走りぬけました。なんだか、ずーん、とした感覚がありました。それを聞いた瞬間、「そうだ、それが私だ」と無意識に感じていました。どちらかというと知りたくなかった答え、という感じでした。かくまわれている自分を発見したとたん、それまでの流れが全て理解できました。それはいわゆる世継ぎ問題でした。血筋から言って、私はその城の正当な城主となるはずでしたが、城の重鎮である一人の人物が、私ではない人物を城主に据えたがっていました。そこで、私をあらゆる手を使って追い落とし、私を亡きものにしようと企んでいたのです。私は、なんとかその追手の手を逃れ、知り合いのある村にかくまわれていました。ずいぶん、見つからずに済んでいたのですが、ある時、追手に私がまだ生きていることを知られてしまい、その時から再び、追われる生活は始まりました。城の重鎮は、城の中でも大きな実権を握る人物の一人だったので、なかなか巻き返すこともできず、ひたすら、逃げ続け、隠れるようにして生活していのです。けれど、そのためにたくさんの村人たちが捕まってしまったことに対し、自分の無力さを嘆いていました。私は、村人たちを助けるために出ていこうとしますが、命がけの人たちに止められてしまいます。「あなたがいなければ、この国をどうするのか」と。このときの教訓も、自分の力を信じること。というものです。この過去世は、今の私がこの状態であることを示唆していました。つまり、まだ何も始ってはおらず、ただ逃げ回っているだけの力ない私の状態と何も変わらない、と。このときの私は、自分の力のなさを嘆いてばかりおらず、とっとと行動する必要があったのです。様々な人物に協力を求め、自分を助けてくれるように頼み、自分を本来の力ある場所に戻れるよう協力を願い出ることが。このときの私には実行あるのみ、という感じ。そのサインしか出ていない感じでした。なるほど、これが今の私の状態なのね。(^^;;;;;;つまり、まだ何もやっていない、と言いたいわけね。以前なら、これでもそれなりに頑張っている、と思ってぐったりしたであろう、こんなメッセージも、今の私には確かにそのとおりかもしれない、と受け取ることができました。もちろん、だからと言って、たいして行動できてはいませんが。この過去生から受け取る必要があったのは、これだけでした。と同時にこのときの悲しい気持ちは、とっくに去っていました。しかし、この時点ですでに次の過去生への誘いは、始まっていました。またまた、悲しい感じです。でもさっきとは違う感覚。あー、またこのパターンか・・・、と思いつつ。友人に何か見えた?と聞きつつ、私も何かイメージ化やってくるのを待っています。すると出てきたのは、水のイメージ。そして、平家と源氏。一人の尼僧が水の前に立って静かに佇んでいます。彼女はとても悲しいと思っている、そんな風に感じます。尼僧は私ではなく、友人のような感じ。友人はにそのことを告げると、なんだか「子供のことで悲しんでいる気がする」と言います。それを聞いた瞬間私の頭には、幼い子供を連れた人が海に身投げするシーンが見えました。確か幼い安徳天皇は、母ではない人に抱かれて、海に沈んだはず・・。それ・・・?そこからやってくる感じはただ悲しい・・。そればかりです。では私は?ここでも学びが隠れているはずです。また、平家と源氏か・・、と思いました。なぜか、私の周りには、昔から平家の人ばかりが集中していて、過去世で源氏だった人に会ったことがありません。若い頃、親友だった子は、幼いころから平家のお姫様の生まれ変わりだと言われていたと言っていたし、その時の上司も平家にゆかりがあると言い、妹も平家の姫の過去世を持ち、そもそも住んでいた町の集落の一角は平家の落人の末裔だらけの場所。これまで誰ひとりとして、源氏には会ったことがない、私は源氏なのに・・、となぜか幼いころから、ずっと根拠もなく私はそう思っていました。それはともかく、このときの私はやはり源氏の姓を持ち平家にゆかりのあるもの、だったようです。そして、出てきたのは、平家と源氏のどちらとも戦いたくない、という根本的な思いでした。どちらも自分にとっては大切なもの。だから、どちらも生かすすべはないのか、と自問自答している感じでした。このときの私の学びは、やはり自らの力を信じ、もっと違う視点からものを見ることを知る、というものでした。さて、長くなってしまったので、今日はこの辺で。昨日のエンライトメントセミナーの件は、またお話しましょう。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 9, 2009
皆うっちゃってます。(つまり家事をさぼってます。^^;)でも、今日はなんだか、ブログを書く日、みたいな気がして・・。珍しく書く気があるので。(数日前に書いてます。)昨日、東京でエンライトメントセミナーやってきました。参加者の人たちがすごく楽しかった、来て良かったと言ってもらえて・・。私も楽しかったんですね。一緒に泊まった友達が銀座に行きたいというので、セミナーの時間までの間にちょっぴり銀座でお買い物もしました。なんだかそれもちょっと楽しくて。今、セミナーをやってて、参加者の人たちにずーっと、自分に向き合ってもらってます。でも、同時に私自身、自分と向き合わないといけないことがいっぱい出てきます。なにしろ、テキストを作っておいても、人の心はそれぞれだから、想定外の事が山ほど出てくるわけです。自分にとって都合の悪い隠された感情に気づいてもらおうとワークをすると、そこにマイナスの感情じゃなくて、プラスの言葉が入ってたりするんです。闇の部分に光を当てるはずが、そもそも隠されていたのは、光の部分だったりして、びっくり!!したり、そんなもの隠してるの!?????と想定外なことだらけです。それでも、ちゃんとなにがしか出てくれば、対処できるけれど、ものすごく うまく自分をごまかしている時には、全然あさってな答えが出てきて、前に進めず・・、なんてことも。京都と東京とでは、やっている私が驚いてしまうほど、会場の雰囲気も反応も、内容すら、全く違っていて、最後にたどりつく部分だけ一緒なくらい、遥かに違ったことが起きてくるんですね。本当に驚きです。ここでは、常に自分に聞いて自分の中の答えを出してもらうので、私がかってに相手の心の中を読み取って答えちゃいけない。自分で気づいたことは、人から教えてもらったことの何十倍もの価値があります。人から言われたことは、なんとなくそうかな?程度でも、自分で「はっ」と気づいたことは、さすがになかったことにはできないんですね。だから、自分で自分の感情の奥にあるものに気づいてもらうこと、それは何か物事を教えるよりはるかに難しい。本当に毎回、頭を悩ませ、つくづくここが私の学びの場所だと思う今日この頃。でも、逆にだから楽しいんです。誰かのワークに参加して、受け身でいる時には、決して気付くことのない、私自身を育てるワーク。それが私にとっては、セミナーをやっている最大の意味かも知れません。そこに参加する人たちの成長とともに私も成長する。なんだか、それって子育てに似ているな、と思ったりします。子育てって、手探りなんですね。育てながら、親も育っていく。子供に教えられることはしばしばで、そうやって本当の大人になる。私は、自分の子供が生まれたとき、神の目をした赤ん坊の顔を見ながら、きっとこの子は、大人の宇宙人で、本当は何もかもわかっていて、すごい才能もあるけれど、突然こんな知らない星にやってきたと思ったら、動かないししゃべれない、ものすごく不自由な体の中に入れられて、パニックに陥ったりしているんだろうな、なんて思ったんですね。(笑)子育てをしながら、親が育てられる。昔、行きつけの喫茶店のおばぁちゃん(店主)が「人は子供を育てないと一人前になれない」と私に教えてくれた事がありました。結婚する気のなかった私は、それを聞いた時、珍しく反発するよりも、「ああ、そうかもしれない。じゃあ、私は子育てしないから、一生大人になれないなぁ・・」と妙に納得したことを思い出します。最近、昔から私を知っている人が、「優しくなったね」とよく言ってくれます。でも、それは優しくなったというより、忍耐強くなった、と言う方が正しいかもしれません。子育てをしていたら、忍耐強くなくてはならない時間が長いんです。相手の成長に合わせてどうしても待たなくてはいけないし、子供のわがままにキレて、他の誰ともしたことがないくらい喧嘩してみたりした結果、全身の力を使って喧嘩しても、何にもならないことが理解できました。(笑)終わった後、ほとほと疲れるんですよ。それで、喧嘩するのは、もうやめた、と。疲れるだけで何の益もないんですよね。子育てしていて、一番私に身に着いたのは、忍耐力だろうと思います。待つことの大切さを本当に子供に教えてもらいました。一歳で、片手をつなげば歩けるから、もう本当は歩けているのだから、手を放してみようと一度、手を放して歩かせてみたら、それっきり手をつないでもしばらく決して歩こうとしなくなりました。それを見たとき、猛烈に反省しました。私が焦っても何にもならないことをあの時、悟ったんですね。時が来るのをただ待っていれば、おそらく子供は勝手に一人で歩き始めたのだと思います。私たちは、普段コンビニでテレビでパソコンで、すごく快適な生活を送っています。たいていのものは手に入り、さほど不便も感じない生活。便利になる一方の日本。その代わりに私たちは、ちょっぴり忍耐を置き忘れてきた気がします。ちょっと頑張る、ちょっと待つ。ちょっと努力する。これって当たり前みたいだけれど、日常で案外これができない人の方が多いですよね。何事にも待てないんです。私もそうですが、関西弁でいう「いらち」という奴です。「いらち」は、せっかちとか気が短いというようなニュアンスで使われます。快適な生活のおかげで、少しばかり待ったり、耐えたりすることに弱くなっているのかな、と感じます。私も以前は、「努力」とか「忍耐」とか言う言葉が大嫌いで、私の辞書にはそんなものありませんでした。(笑)ものすごいですよね。(爆)でも、少し待ったり、少しばかり相手の話を聞いたりするのは、それが余裕につながってくるんだとわかると、できるようになるんですね。そして、余裕のある事こそが幸せになる第一歩。ゆとりは、私たちの思っているような自由な時間のことじゃなくて、私たちの心が生み出すもの。時間があっても、カリカリしている人はいるし、逆に時間にゆとりがなくても、落ち着いている人もいる。自分にとって何が幸せかは、自分の心が知っているんです。自分の気持ちにゆとりを持たせれば、苦しいことも少し、離れてみることができるようになってきます。いつもちょっとだけ、ゆとりを持つ時間を作ってみませんか?朝、30分だけ早起きして、外の空気を吸うだけでも、人の心は不思議と違ってきます。自分の心をと体をリフレッシュしてあげれば、一日が心地よく始められる。自分の行動から、変えていくことは、案外心にも効き目があります。一度お試しあれ。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 6, 2009
なんか最近、ブログを書くのが楽しみになってきたかも?なーんて言いながら、今、ちょっとノッてるんでしょうね。(笑) 今も、毎日庭で、虫たちと格闘中です。なんだか、最近、は何も虫にも詳しくなってきたような・・。******************************************今日のテーマは、魂の歓び。いやー、意味わからないテーマでですね。うーん。 私がこれを書くのか?って感じですが。魂の喜びって、「愛のこと?」と思うと、うん。でもそれだけじゃないって感じ。 愛を表現する、愛を受取る、愛を伝える。それらは、どれも皆、自分を生かすため。そんな感じがします。 それが魂の歓び。愛を受取り、愛を伝えていく。それはあなたの中の神の表現。 私も含めて、人は、愛を伝えることも下手だけれど、受け取ることは、もっと下手な気がします。 でも、下手ってことは、上手になれるってことですよね! 以前、子供が3歳だった頃、私は、心の声に呼ばれるようにスコットランドのフィンドホーンというところに、二週間行ってきました。 今思うと、そこはスピリチュアルなコミュニティだったのですが、私にとっては、妖精が住む花がたくさんあって、植物が生き生きと育つ美しい場所でした。それを見たくて、どんな風に花や植物が育つのか、見たくて、行きたかったのが、本音でした。 だから、そこで四六時中、スピリチュアルワークがあるとはあまり思っておらず(笑)、なすがままって感じでしたが、それらのワークの中に、自分で解決したい(?ここら辺はうろ覚えです。)、と思うテーマを決めて、行うゲームに参加したのですが、そのゲームのテーマに私は、「愛を受取る」と決めました。 まだ、私がこんなお仕事を始めるずっと前です。そのゲームは一見すごろくゲームなのですが、それをどんどんやっていくと、本当に自分の心の中がすっきりして行くのを感じたのです。 実際には、ただ自分が持っている言葉を書いたカードで、自分の頃の痛みを消します。みたいに宣言していく単純ななゲームだったのですが、たったそれだけの行為、本当に自分で決めて言葉に出して、そしてそこにカードを置いていくだけなのに、なぜか気持がスーッとしていくのを感じた時、ものすごく不思議な気がしました。 そして、たったそれだけの行為が自分の中の問題がスーッと、薄れたり消えていくのを体験したとき、感情というもの、感覚というもの、考えというものが、本来非常にシンプルに単純にあるものなのかも知れない、とすごく新鮮に感じたのをすごく新鮮に感じたのを覚えています。 過去生が、いつも私に語りかけてくるのは、「自分を信じよ」ばかりです。いつも、自分を信じていなかったのか?とびっくりします。 でも、全く信じていないわけではなくて、物事はらせん階段のようなものだから、自分の学びもまた、螺旋になっていて、信じる、という気持ちも、螺旋で上がっていくと、以前とは全く違ったものになるのだと、今は感じています。 セミナーでは、結局毎回、色々自分自身に宣言してもらうことになっています。物事は、順番に起きてくるのではない、という私の経験から、このようなプログラムが組まれています。 物事は、自分がやりたいと思ったら、まず「やる」と決めてから、その他のことに頭を使うことが必要なのです。そうでなければ、たいていのことは叶う前に、あなたの心の中で考えただけですべてが終わってしまいます。 私は、自分が本当にやりたかったことは、結局すべてやってきました。だから、私は自分の人生に後悔はありません。それに今が一番楽しいから、昔に戻りたいとは、全く思いません。この10年くらい、ずっと「今が一番楽しい」と言っています。本当に今が一番楽しいのです。昨日よりも今日今日よりも明日と、私の人生はよくなっていく一方です。今の自分にとって、何一つ足りないものも、困ったこともありません。もし、何かまだ気に入らないことがあれば、それは私がそれを変化させたり、自分が変化するためのツールだし、楽しみの一つです。 変えられる余地があるのは、私にとって、表現できる場所が残されている、ということです。それは、非常に楽しいことです。 「愛は厳しい」というけれど、それは本当の愛を手にするまでのこと。それまでは、どれが本当の愛かが理解できないから、たいていの人は痛い方向は避けて、楽な方を取ろうとし、結局自分をより大変な状態にしていくのです。 「過去に感謝できない人に未来はない」、と言った人がいます。私は、「今の自分に感謝できない人に未来はない」と思っています。逆にいえば、どんな状況、どんな問題を抱えていても、あなたが自分の素晴らしさを感じ、自分の置かれた状況が本当のチャレンジだと感じられる物の見方さえあれば、あなたにとって、問題はチャレンジであって、問題ではなくなるのです。 どこからものを見るか、何を持って、あなたがあなたの真実を感じるのか、それを知るのか、そはあなた自身のものの見方が全てを決めていることに気づいてください。 物の見方とは、簡単に言うとあなたが「これまで育った環境で創りあげられてきた基本の考え方」と言っていいでしょう。 そしてその、ものの見方は、ほとんどの場合、マイナスから思考する、という不思議なまでのパターンがあります。過去語られてきたあなたの頭にさんざん刷り込まれてきたマイナスのイメージがあなたの人生を決めているのではないか、と疑ってみてください。誰かの言うとおりにしなければ、あなたが不幸になる、と思っているなら、それこそ、あなたは自分を不幸にするものの見方にはまっているのです。 つまり、それは私がここであなたに向かって語りかけていることを全部鵜呑みにするな、ということでもあります。あなた自身の心で感じ、頭で考え、「あなた」が何をよしとするのか、そのことについてしっかりと考えて欲しいのです。 それが、あなたのこれからの人生に大きくかかわってくるから。 それでは、また・・。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 5, 2009
ずっと以前に、「笑うセールスマン」というアニメをやっていた。「あなたの願い事、叶えます。」と「もぐろふくぞう」という名のセールスマンが相手の願いごとをかなえた後に、相手が「こんな筈じゃなーい!」と叫ぶのを聞いて(はっきり覚えてないのでこんな感じ?)にやりと大きな口で笑うシーンが、シュールなアニメだった。でも、案外現実に起こる願い事が叶うパターンって、そんな感じだと常々私は思っている。笑うセールスマンの話をしたら、子供がなにそれ?と聞いてきた。そりゃー、キミは知らないかぁ。そこでこんなたとえ話をしてみた。「シンデレラの魔法使いは、シンデレラが「舞踏会に行きたい」と言ったら、彼女が口に出してもいないのに、綺麗なドレスに着替えさせ、ガラスの靴を与え、御者と立派な馬車まで与えて、お城まで懇切丁寧に送りだすでしょ。するとシンデレラは、りっぱなどこかのお姫様にしか見えないから、当然のように歓迎されて、舞踏会に参加し、王子様に恋までされるわけよ。でもこれが「笑うセールスマン」の場合なら、シンデレラは「舞踏会に行きたい」と言ったので、「それでいいんですね?」と笑うセールスマンは念を押し、実際、ボロボロの格好のままのシンデレラを舞踏会の真ん中に連れていき、シンデレラは曲者として、衛兵に捕まって、牢屋入れられる、なーんていきさつになるようなパターンが笑うセールスマンってわけ。」と。この話って、結構シュールに聞こえるけど、実のところ、後者の「笑うセールスマン」のパターンの方が人を見てると願いの叶い方としては圧倒的に多くて、意外とあのアニメ、秀逸だったなぁ、と思う私だったりする。そもそも、皆、自分の願いってものをろくに知らないのだ。シンデレラは、舞踏会にぼろぼろの姿で行きたかったわけではもちろんないだろう。美しいドレスを着て、若い女の子らしく王子さまとダンスを踊る夢だって見たはずだ。そんなところまで全部、なぜ魔法使いは知っていたのだろう?普通の女の子だったら、それが望みなのかも知れないが、たまには違ったりもするのでは?人によって、望みの叶い方には、違いがある。どんなことをどんな風に望むのか、それをはっきり望んでいなければ、笑うセールスマン的望みの叶い方、ってものが普通にやってくる。「舞踏会に行きたい」というシンデレラの望みは、魔法使いのやり方にしろ、笑うセールスマンにしろ、同じようにどちらも叶っているのだ。ここに注目してもらいたい。どんな望みかをはっきりさせる、ということは、単純に「舞踏会に行きたい」というだけでは足りないのだ。シンデレラが自分の本当の目的を達成するためには、(つまり王子様に恋をさせてお妃さまになるという夢だ・・ホント?)「まず、私に似合う美しいドレスと靴を用意して、立派な金の馬車と素敵な御者と従者も用意して、私を舞踏会まで連れて行って、私を世にも美しいお姫様に見せて。」ぐらいには、言わなければならなかったはずだ。これを聞いたら、ものすごく高慢ちきに聞こえるが(笑)、実のところ、宇宙にするお願いごとは、これくらいでないと人は叶ったと思ってすらいないのだ。実際、笑うセールスマン的望みの叶い方は、皆が望むようなものではないだろうから、その時点で願いが叶うどころか、ひどい目に遭った、と思っている人が多いことを私は知っている。けれど、残念ながら願いごとは叶っているのだ。どのような願い事であれ、あなたが心に描いたことは、皆叶ってしまう。そして、常に願いごとは、私たちの頭の中で渦巻いていて、刻一刻と、その願いごとは叶おうとしている。よくも悪しくも。自分の中の望んでいないことも、同じように叶ってくる。願いごとをかなえる時は、とにかく具体的にしよう。できるだけ事細かに思い描く。そうすると、面白いくらいそのように叶ってくる。叶った時を想像して感じてみる。感じ方が実感があるほど、叶い方は早くて確実だ。さあて、それじゃあ、何を願おうか。**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 4, 2009
この話は、以前何かに書いたことがあったけれど、きっと知らない人もいるよね、ということで書いてしまいます♪ この前の東京のセミナーが終了した後、一時間余分に会場を借りていたので、そのあとお話会と称して、いろいろ皆でおしゃべりしてました。 その時に、私が「私って、疑り深い人間だから、自分が見たもの以外は案外信じないんですよね。だから、毎回、いろいろなものが見えると、本当にびっくりするんです。」とかいう話をしてました。 そこで飛び出したのが、この黄色いクマの天使の話。 これはもう、子供がまだ2歳くらいだったころ。10年くらい前なんですけれど。私は夫の家族との人間関係で夫と喧嘩していて、あまりの怒りに「明日絶対、市役所に離婚届け取りに行ってやる!!」と息巻いて、食事の洗い片付けをしていた時のことでした。 ご想像いただけると思いますが、離婚までしようと思って怒ってる私の頭の中は、夫に対する不信感や彼の家族に対する怒りとか恨みとかでいっぱいでした。 当然、他のことを考える余地は、全くありません。 ガチャガチャとお茶碗を割りそうな勢いで(実際、割れてもいいと思っていたんですね^^;;)洗っていると、突然、「まぁまぁ、そのへんで許したってぇなぁ」とべたべたの関西弁が聞こえてきました。 そんなべたべたの関西弁をしゃべる人間はうちにはいないはずだけど・・?その声に思わず振り向くと、そこにいたんです。黄色いクマのぬいぐるみの天使が。 いや、クマのぬいぐるみじゃなかったのかも知れないけれど、どう見ても、目が点しかなくて、間抜けな顔のクマのぬいぐるみにしか見えなかったんです。それが小さい羽をパタパタさせて、目の前に浮かんでいるのを見て、第一声「あんた誰っ!?」って反射的に聞いてしまいました。ものすごく怒っていたので、勢いが止まらなかったんですよ。(笑) するとそのクマ天使は、夫を指さして(指ないから肉球?)「わいはなぁ、あいつの守護天使や」って言ったんですね。 それを聞いた瞬間、私は腰が砕けました。(笑)こんな黄色いクマのぬいぐるみ天使が夫の守護天使って!!って。それもそんな姿でべたべたの関西弁をしゃべってるのがまたおかしくておかしくて、あまりにも面白くて、私はその時、完全に怒っていることを忘れてしまいました。 それを聞いた参加者のお一人が「うさん臭い」と言ったんですけど、こんなの見てなきゃ、そりゃあ、うさん臭いですよねー。どう考えたって、作り話に聞こえますよ。(笑) でも、少なくともこの時の私には、かわいいクマのぬいぐるみの天使なんて、想像する余地はありませんでした。 そもそも、私の頭の中にクマの天使のイメージはなかったですから。(笑) それから、3日くらいは、夫の顔を見るたびに、黄色いクマのちび天使を思い出して、噴き出さずにはいられませんでした。 今思うと、天使は、私の性格をものすごく把握していたんだな、と思います。あえてあの姿、あの言葉でやってきたんだと思います。これでも私は、たいてい不思議なものは見慣れています。 だからあの場面で、私が想像するような美しい大人の天使が出てきて私に優しく語りかけて説得しようと試みたなら、私はきっと逆ギレしていたでしょう。(天使に逆ギレって^^;;) でも、あんな間抜けな姿で、出てこられたら、もう完敗です。怒る気力は失せ、そもそも何で怒っていたのかすら、忘れてしまいました。 夫の守護天使恐るべしって感じです。(笑)それから、離婚しようと思っていたこともすっかり頭から消えて、なんだか元通りの生活に戻ってしまいました。 なにしろ、しばらくはその天使をネタに笑ってばかりいたので、怒る気持ちにはなれなかったんですね。もしかすると、そんな後々のことまで、考えてそんな姿に身をやつしてくれたのか?と思うと、すごい、やるなぁって感じですね。 あの時、あの天使が出てきて、私をいさめてくれなかったら、今私は、ブログを書いたりしていなかったかも知れません。魂のお仕事に目覚めることなく、自分の生活に追われていた可能性も大です。そして、心のどこかで悶々としていたでしょう。自分が本当にやることは何かを求めて。 そう考えると、どこまでも私のことをわかってくれていた、あれはひょっとしたら、私の守護天使だったのかも知れません。 そもそも、天使も神様も存在そのものは、形があるわけではなく、光だと感じています。時々姿が見えたりするのは、単に私たちの意識にわかりやすく出てきてくれるのだと、私は思っています。だから、逆に形を持って、しっかりと存在感をもっている時、私はいつもびっくりしてしまうのです。 以前、ベランダで洗濯物を干していた時にも、ふと背中に視線を感じると思って振り向くと、そこには巨大な龍がこちらを鋭い眼でぎろりと見ていて、思わず洗濯物をとり落としそうになったことがあります。 ひ、ひぇーっ(^^;;;な、何か御用・・・? 一言で言うと、その存在は迫力そのものです。いるだけで、すくむ。ちょうど蛇に睨まれたカエルみたいな気分でした。 思わず私はあたりを見回して、この龍を見ている人が他にもいないか確かめたくなりました。こんなものすごい存在感を誰も気づかないなんて、ありえないよね!?と他の人に同意を求めたり、つかまったり(笑)したかったんです。 でも、そんなときに限って、誰もいなかったりするんですよね。 それも見計らってる?とは思いましたが。 私が疑り深いことは、きっと、どの存在にもばれてるんだろうなぁ、と思います。まぁ、それに色々メッセージをもらっても、20数年も無視し続けてきたんですから、それも無理もないってものですね。(笑) 人間の私は、びっくりするぐらい合理的なことが好きで、非合理なことは嫌いです。無駄遣いも嫌いだし、余分なものを家に置くのも嫌い。我が家に遊びに来た人たちは、こぞって家を片付けたくなる、と言うのですが、うちが片付いている最大の理由は、単にお掃除が楽だから。 美しいのは好きだから、飾るのは嫌いではないけれど、そうしたものには、ほこりがつきやすくて、お掃除が大変。だから、うちには、あまり飾りものは置いてないんですね。なにしろ、そんなにマメじゃないから、管理できなくなってしまうから。 特にガラスとか、光りものは、光らせておかないと汚く見えて、エネルギーが落ちるので要注意です。 なんだか風水みたいな話になっちゃいましたけど、綺麗にしておくって、色々な面で大きい影響を及ぼすよね、と思うのでした。 今日は、この辺で。(^^)**********************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 3, 2009
富士山のつづ゛き・・、の予定だったんですけど、うーん、書いちゃダメって感じなんです。どうしても、そこを避けて通ろうとする感じだったので、何かあるの?って感じですが、いまやっているエネルギーの流れを作るオーラハーモニーに関係としているのかもしれません。それが終わるまでお預けって、感じですね。楽しみにしていてくださった方、申し訳ありません。まぁ、それでなくても、いわゆる不思議なお話と言われそうなことは山ほどあるのですけど。20歳くらいの時は、いつもそんなこと続きで、だんだん不思議たとは、思わなくなったものでしたが、いまだに、自分が見たことのないものは信じていません。(笑)だから、毎回、新しい体験をするたびに驚いています。と同時に、自分が見えないから信じないという人の気持ちも実は私、理解できるんですよね。自分がそうだから。(笑)自分がそういうことを見たりする人間じゃなかったら、ものすごい懐疑主義者だったかもしれないとすら思います。私にとって、別にそういう不思議なことは、どっちでもいいこと。家族と仲良く暮らせて、毎日が彩りに満ちて幸せなこと、それが私にとって一番大切なことです。人に愛を語ることも、最近、ものすごく楽しいことの一つになってきました。愛を語り始めてるって、感じると熱が上がってきて、楽しい!って感じます。人がそれに反応してくると、もう面白くてたまらなくなります。人をマッサージしてる時と同じような快感ですね。人が変わっていくのを見るのは、快感だけれど、自分が変わるのは、もっと快感なのかもしれないな、と最近思います。実際、自分が変わった時は、変わった、とは思わないけれど、周りが変わるんです。「あ、この人素敵になった。」とか、「話が合うようになった」とか「うわ―こんなに理解のある人だったっけ?」と思うようなときは、たいてい自分が先に変わっているんですね。人に自分の思うように変わってほしい!と思っている時の気持は、重くて重くて、相手はどんどん強くなって、がん!として変わりそうじゃない感じ。でも、自分が変わったら、魔法のように「あーら不思議」って変わってくる。これが不思議の世界でなくてなんだというんでしょう。(^^)人の変化で自分を計ると、相手を変えようとすることがばかばかしくなってきます。相手を変えようとすると、相手は抵抗しまくって、大変なことになるし、自分を変えた方がはるかに効率がいいってものです。どんどん変わって、そこから嬉しさを倍増させたい!だから、まだまだ私、これからも変わりますよ。(^-^)今回、なんだか書くモードって感じなので、いっぱい書いてます。明日からも毎日ブログ更新できるかも。****************************************あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 2, 2009
そうするとどういうことが起こるか、といえば、だんだん自分が何が好きで、どんなことがしたかったのか、それすらよくわからなくなってしまう。何かをした方がいいと思うのだけれど、いったい自分にどんなことが向いているの?なんてことを人に聞くことになる。 よく考えてみてください。向いているかどうかなんて、やってみなくちゃ分からない。それに、向いていようといまい、続ければ、そのうちなんだって上手くなってくものなんです。 でもその好きなことがわからなくなっている人がものすごく多いんです。びっくりします。 でも、本当のこと。 結局、自分の感情を表に出さないことが大人だと、思いこんで生きているから、自分の感情をなかったことにしてしまう。そして、それがだんだん積もって、大きな問題になるわけなんですね。 エンライトメントの考え方は、感情を抑えて我慢することかが大人なのではなくて、もっと高い位置からものを見られるようになることで、自然に腹が立たなくなったり、それまでものすごい問題だと思っていたことが大したことじゃなく感じられるようになっていくようになることが、本当の大人だと思うんです。 小さな子供にとっては問題でも大人になれば、大したことじゃないように、その視点の違い、ものの見方の違いが、私たちの人生の質を決めているんです。 自分が幸せになることを自分に許すのも、自分が不幸になるのを自分に許すのも、自分次第です。 自分だけが自分を幸せにも不幸にも、していくんです。 私は感情は神様からの贈り物だと思っています。どんな感情であれ、ないがしろにしていいとは思っていません。 ないがしろにされた感情は、必ずどこかで反乱をおこすんですよ。感情が爆発するのならまだしも、大きな病気の引き金になったり、人間関係のもつれになったり、必ず、問題を引き起こしてくれます。 だから、しっかり感情は、吐き出してあげる必要があるんです。だからと言って、怒鳴るとか、暴力をふるうのではなくて、きちんと相手に向かって「こう言われて自分は悲しかった」「つらかった。」と表現することなんです。 コミュニケーションをとるには、案外技術がいるんですよ。人はすぐ、相手の言葉に反応してしまうから。近い人間関係(家族とか)なら、特に。 反応して、売り言葉に買い言葉を返すことは、人の顔面にボールをぶつけているようなものです。ボールを顔にぶつけられた人は、当然痛いので、また相手の顔にボールをぶつけます。 これが私が見ている限り、たいていの人がやっている「話し合い」です。これはコミュニケーションとは、言わないのでは・・・? もし、あなたが顔にボールをぶつけられたら、どうしますか?相手に「はい」って何事もなかったように、優しくボールを返せます?それは無理ですよね。だからこそ、自分が最初にそれをするのは避けなきゃならないんです。自分の感情を分析する。そして、それを「上手に伝えるにはどうすればいいか」これを考えるんです。人は、ボールをぶつけられた相手に対して、どうやって相手をぎゃふんと言わせるかには、頭を使おうとするのですが、不思議なことに仲良くなることには、案外使おうとしません。 最初から諦めているからです。でも、最初から諦めて、どうやって、関係の修復なんてできるんでしょう? 本当の人間関係は、面倒くさくて、大変だと思っているなら、やっぱりのあなたはまだ本物の人間関係を手にしていないんです。本物の人間関係は、面倒くさくも大変でもなくて、むしろそれがなかったらどうしていいかわからないくらい、大切で、美しくて、喜びに満ちた関係です。 お互いがお互いを尊敬し合い、どちらが上でも下でもなく、思いやりがあって、一緒にいるだけで本当に癒される、そんな関係です。 そんなの理想だと思う人は、幸福の本当の意味を知らないだけなんです。それらは、決して理想ではありません。現実に私と夫との関係は、そんな感じです。以前は離婚しようとすらしたのに、今は、毎日いてくれてありがとう、幸せだね、と言い合えるのです。 今のこの瞬間、あなたにも、感謝したり、幸せに感じられるところがどこかしらあるものです。あなたが自分の現実を不満だと思っているなら、確実にあなたには、良いと悪いの両面の現実があるのです。あなたにとって、悪い面ばかりを見て、自分を可哀相に思っていても、あなたは決して幸せになれません。 なぜなら、あなた自身があなたの幸せを決めているからです。あなたが、あなたのものの見方を変える決意をしない限り、あなたの現実を変えることなんてできないんです。 セミナーやってても、自分が大変な目に遭った、ひどい目に遭った、と思っている人は、なかなか過去の自分の恨みや悲しみを手放そうとはしません。 でも、その思いが、誰に帰ってくるかというと、恨んだ相手ではなく、その人自身なんです。 悲しくなったり、恨んだり、憎んだりしたエネルギーは、相手に届いていると思っているかも知れませんが、そのエネルギーは確実にあなた自身に返ってきています。 これがエネルギーの法則です。あなたが出したものが全てあなたに返ってくるのです。 愛を出せば愛の中に生きることができ、恨みや憎しみに染まっていれば、その中で生きることになります。 本物の喜びに満ちた関係を、皆さんもぜひつかんでください。その関係を得るのに一番の早道は、自分の感情をまず知ることです。そして、同様に相手の感情の奥に何が本当は、隠れているかに気づくことです。 怒っている相手は、必ず愛を求めています。あなたの愛が必要だから、あなたに向かって怒っているんです。不思議でしょ?いじめている相手に助けてほしい、とSOSを出していたりするんです。 自分の心をまずしっかり見てください。あなたが本当は何が欲しいのかに、自分自身がまず気づいてあげてください。 そして、自分の感情を掘り下げ、しっかりと感じてください。感情は感じ尽くせば、手放せます。感じてはいけないと思うから、しつこく残るんです。感情を感じ尽くして手放し、ほんものの幸せをどうぞ手にしてください。 あなたの喜びが、私の喜びです。読んでくださってありがとう。(*^-^*)***************************************よかったらクリックお願いします。(^-^)
June 1, 2009
続きを書かなくては・・、と思いつつ、書きたいことだらけで、そっちを優先してしまうと、本当に続きものは止まってしまいます。(^^; 光ってて。5の続きはどうした!!という声は、重々承知しつつ・・。(^^;;; コーヒーブレイク?ってことで。 とにかくたくさん書きたいことはあるんです。ただ、忙しくて追いついていないだけ・・。 ここのところ連続して、会津のオーラハーモニー、京都のセミナー、東京のセミナーと続いています。明日、明後日がその東京セミナ―なんですけど。(^-^;)案外暇ない感じ? ブログも書けるときと、書けない時の差がはげしいですね。 会津でのオーラハーモニーは、本当に不思議な感じでした。いつもに比べ実際のハーモニーは、あっという間に終わってしまった感じ。今回珍しくお城でハーモ二―というので、自分的にもどんな感じになるのか、想像もつきませんでした。去年までは、お寺とか神社とか、神様仕事がかかわっていたので、なんとなくそれらしいところへ出向いていたのですけれど、今年のオーラハーモニーは、そもそも最初から、日本を縦断して、エネルギーの流れを作る、というメッセージから始まっていましたので。 そこで何をするの?って感じでしたが、参加者の方たちの事は、前日に全員参加の過去生物語が始まったりして、色々すさまじいものがありました。 自分は会津には来ないはずだったのに、と最後まで言っていた人も思いきり、過去生にかかわりがあって、やはりその場にいる必要があったのだな、と後でわかった感じでした。 それぞれ、会津に様々な思いを抱えてやってきた場所でしたが、前日の過去生は、ある意味非常に大変な感じでしたが、翌日の鶴ヶ城でのハーモニーは、非常にエネルギーも高く、雨が降っているにも関わらずその場の降るようなエネルギーの強さに、皆やたらと暑がっていました。気温自体は低かったんですよ。皆、雨の中、傘をさしているにも関わらず、強い光を感じて日焼けした気がすると口々に呟いていました。(笑) ハーモニーでは、その日その場所、と指定があるだけに、その指定の場所に行くと、それもその時その瞬間だけ、エネルギーがやってくる場所があるんですね。それに従って動いているわけなんですが、当日になるまで私に自身にもその場所が、どういう意味を持つのか、どんなエネルギーなのか、メッセージがやってくること以外は、ほとんど知らないままなのです。 最初のころ、それじゃあ、あんまりだと思って、いろいろ調べたり悩んだりしてみたものでしたが、結局全く意味のない結果に終わる事が判明して以来(幾度も挑戦した挙句)、エネルギーの指し示す方向がやってくるのをただ待つ、という方針に変わりました。 なにしろ、本当にその日になるまで、本当の意味で準備なんてできないのです。おまけにその日私がやることを知るのも、常にその場。最初のころは、このスリリングなパターンにどれほど戦々恐々としたことか。 よく考えてみれば、そのことも最初から天使は、私にそのように教えてれていたのです。「その場になればすべて出てくるから。」と。 人間的には、過酷に思えるこの宣言も、なじんだ今では、恐れることもなく、こなすことができるようになりました。最終的に、本当にその場で、ちゃーんとテーマどおりのことが終了するようなっていくのです。私自身がそのテーマを忘れていてさえ、ああ、こう言うことだったのか、と最後には納得してしまうほど、本当に上手く、プログラムは組まれています。 本当に不思議です。 エネルギーの流れを作る、という本当の意味が私自身にもわかるのは、きっとこれらが終了したときでしょう。それまでは、その時々に、やってくるエネルギーと流れに身を任せておきましょう。 でもつくづくハーモニーがある前後には、天候が変わりやすい、と実感しています。別に何かが起こる、と今更期待していないのですが、かと言って何も起こらなかった試しもないのですね。これが。(^^;; ハーモニーの最中に嵐になったり、突然雲間からぱぁっとまぶしい光がさしてきたり、ものすごい突風が吹いてきて、方向を指し示すなんてことはしょっちゅうで、それもタイミングよく、ハーモニーが終わると、ぱぁっと晴れたりするので、いつも参加してくださる方たちは、ハーモニーでは、何もない時はない、と確信しているようです。 ハーモニーにいらしているうちにだんだん、いやでもエネルギーに敏感になるし、わからないを連発している人たちも、その一言が嘘にしか聞こえないほど、いろいろなことを感じるようになってきます。 敏感になるんですね。 実際、ハーモニーに参加するようになってから、急に光が見え始めたり、感じたり、というのはしばしばあるようです。ただ、案外そういうものを期待する人ほど、わからないということもあるようですが。(笑) ただね、私はそういうちょっと変わったものが見えるとか、不思議なものを感じる、といったことには特に何の意味もない、と思っています。私がハーモニーをやっている本当の理由は、ハーモニーのエネルギーに触れて、振動数を上げ、シンプルに楽に人生を生きられるようになって欲しいから。 でも、これは誰かのためじゃなくて、私がそうしたいから。皆さんも経験すればわかりますが、自分の周りで一人でも、エネルギーが高くなる人がいると、誰よりも自分が楽になるんですね。 それはもう、本当に楽になるんです。そして、その分自分が生きやすくなってくる。誰かがハッピーになったら、その分、自分に帰ってくるんですよ。人がハッピーになって、ついでに自分も楽になって、なんかお得な感じですよね。(笑) かつてマッサージを仕事にしていた時も、人の体が手の下でゆるんで、変わっていくのを見るのがすごく楽しくて、おまけにそれで人にありがとうと言ってもらえて、お金までもらえるんです!(笑) なんかすっごく得した気分でしたね。 オーラハーモニーは、私にとって最初は、そんな説明のできない事をやるなんてありえない!って思っていたのに、やってみると、気持ちいい!おまけに、よく考えたら自分以外の人は、オーラハーモニーってなんですか?とは質問してこなかったんです! すごい画期的ですよね。そもそも本人も何か知らないのに、参加してくださる方たちからは、ハーモニーってなんですか?という質問を受けたことがないなんて・・。 そもそも、うちにいらっしゃる方たちは、もともと本当に普通の主婦とか会社員の方たちで、特別精神世界とか、スピリチュアル系の人だったりしないんです。だから、あんまりそういうことには詳しくない人の方が多い。そういう私も、自分がいわゆる不思議なものが見えたり感じたりしなかったら、きっといちばん懐疑的だったりするでしょうから、ちょうどいい感じです。 ズーっと、友人に「オーラハーモニーってなんだと思う?」って聞き続けて悩ませて、2年ぐらいたってようやく「あっ、そうか!オーラハーモニーは、この世界のものじゃないんだ。だから、それを説明する言葉もまだないんだ!」と気付いた瞬間、私の中で説明しなくてはならない症候群は消えたのでした。 あら、今日はこんなことを書こうと思ったんじゃないんですよ。(^^;;おかしいな。 今、本当に自分自身と向き合うセミナーをやっています。どこまでも自分向き合うセミナー。 って、結構怖いでしょ。(笑)自分の感情や考えを洗いだすような内容です。今まで自分がなかったことにしてきたことや、ないことになっている感情をどんどん思い出して、出してもらいます。そうすると、それまでできなかった様々なことが、だんだん不可能でないとわかってくるんです。 色々な問題ある人間関係の原因は、もともと、自分の心の中にある何か、だという事にも気づく。それに気づくとね、だんだん、本当は自分が何をやりたかったのか、何が好きなのかがわかってくるんです。不思議ですけど、人間って、自分に嘘をつく癖をもっていて、自分の感情を表に出したり、怒ったりしてはいけないという思い込みの元に自分の大切な感情をなかったことにしてしまうんですね。(10,000字超えちゃいました。^^;)2につづく。******************************************よかったらクリックお願いします♪エンライトメントHPhttp://www.angel-support.com/
May 29, 2009
我ながら、自分のブログは、長い!と思っていて、いつも短く、と思っているにも関わらず、のってしまうとどこまでも書いてしまう・・。(^^;;というわけで、今回もきっと長いかも?です。**************************************富士山の時のことを持ち出してこのことを書いていいのか!?と自問自答しつつ・・。 とりあえず、一応、その一連の仕事は終了したから、書いてもいいか・・、と自分に了解をとりつつ・・。(^^;; 時期が来るまで、このことを書くのはやめよう、と思っていたのは、なんとなく怖かったから・・、でしょうか。 (この辺は、一人言なのでお気になさらず・・。) さて、富士山に行け、というメッセージと同時に、7人で一緒にその仕事をする、というメッセージも受け取っていた。そのメンバーが誰なのかは、私も頭にそれぞれの人の顔が浮かぶので、それと知れたのだった。 問題だったのは、私を除く6人に、その話をしないといけないこと。時はすでに9月も半ばすぎ。富士に登る予定は、確か10月の最初の土日・・・。 メンバーの大半が、専業主婦で小さい子供を抱えた人もいるのに、いったいどう言えば、その6人が一緒に富士山に登ってくれるというのだろう? おまけに浮かんだ顔の人たちは、日本全国に散らばった場所に住んでいる。 私の頭はそれを考えただけで真っ白だった。 普通の主婦は、突然「2週間後の日曜日、魂のお仕事があるから、一緒に富士山に登ってくれる?」なーんてことを言って、「はい、行きます。」と言ってくれるとは、到底思いがたい…。(^^;; 私だって、自分がこんなメッセージを受け取ったりする人じゃなかったら、そもそも自分が一番そういうのを胡散臭いと思うタイプなのだ。 どう説明すれば、いいのか?いや、それ以前にそんなことを話して、友達を失いはしないか? などということが私の頭の中を駆け巡っていった。(笑)でも、時間がなかった。とにかく皆に来てくれ、と言うにしても、時間がなかった。迷っている暇はない。 即座に、いつも電話している友人のところへまず、電話をかけた。彼女もメンバーだったから。 彼女は案の定、「そんなの行けないよ!」と言ってきた。お金が・・、とか家族の了解が・・、と言って即座に断られた。・・・・無理もない。 当然の反応といえば、当然の反応だった。私でもそうしたかも。 わかっていても、結構ショックだった。なにしろ、このミッションは、一人欠けても成立しない、とメッセージは伝えてきていたから。 でも、それでも彼女の心の声は、行きたい!と叫んでいるように感じた。その声を聞いたから、人間的にはショックを受けていたけれど、彼女はきっと来る!と思うことにした。 すると、彼女が皆の前で「いやー、あの時はyokoちゃんに迷惑かけちゃってー」と言いながら、照れ笑いしてる姿が目に浮かんだ。きっと、こうなる。私はそう思った。 そして、私は次の人のところに電話をかけた。めげている暇はないのだ。 私は、できるだけ簡潔に、けれど要点をはっきりとさせて自分の言いたいことを伝えた。 このようなメッセージを受け取ったこと。そして、このメンバーは誰かに選ばれたのではなく、生まれるずっと前に自分たちがしてきた約束だったこと、私たちが今この世界に生まれた本当の理由の一つとして、この仕事があること、本当にやりたいことを成し遂げるためにここにいることなどを話して聞かせた。 すると、驚いたことに初めの彼女を除く残り5人のメンバーは全員二つ返事で「行きます。」と即答してくれたのだ。 本当に驚いたと同時に、涙が出るほど嬉しかった。 とにかく私は真剣だったし、必死だった。自分たちがやることがはっきりと何か分かっていないにも関わらず、何かとてつもなく大切なことをするのだ、という感覚だけはあった。 それもずいぶん昔から、このことをする、と望んできたことのような気がしていた。 翌日、最初に断られた友人から、やっぱり行くよ、と電話があった。 かくして、私たちは、7人のメンバーで富士山に登ることとなったのだった。 ********************************** 続きを読みたい人はクリックお願いします。(*^-^*) 人も自分も幸せにするエンライトメントセミナ-全12回東京と京都で開催します。(^-^)http://www.angel-support.com/
May 14, 2009
いったい、いつまでこのタイトルで続けるつもりなんでしょう?(笑) 内容がどんどん、明後日の方向へ行っている気がしながら・・。(^^;; 今日は、まだ家事もほったらかしのまま、ブログを書いているので、部屋が散らかってます。(ひゃーっ)*****************************************光ってて。というタイトルは、以前、友人にHPを人に知らせるには、どうしたらいいか、と相談したことがあって。そのくせ、心の奥には知られたくない気持ちがいっぱいでしたから、人間って、複雑。(^^; その時、友人が言った一言がこれ。「YOKOちゃんのHPは光ってたらいいんよ。」 これを聞いた時、私もなんだか「ああ、そうかぁ」と納得してしまいました。 光ってたら、どこかから人はYOKOちゃんのHPを見つけて来るんよ、という彼女の言葉にになんだか、妙に納得したのでした。 光る、という言葉は、一般的には、ちょっと意味がわからないかもしれないのですが、エネルギーをきらきらさせておくこと、ただ綺麗であればいいんだな、と私は理解したのですね。 それで、とにかく人前に出て宣伝行為をするよりも、ただただ、光っていよう、とその時は思いました。 もっとも、エンジェルサポートをやっていた時には、「人に知られる」事は、私にとって、ものすごーく抵抗のあることでしたから、そういうメールとか、アクセスしてくださった方には、失礼したのではないかと今はちょっと反省しています。 それでもエンジェルサポートは基本、人前には出て行かないを貫き通していました。 基本的に、人に知られるのを恐れていたのは、どうも過去生からの問題にあった気がしています。 とはいえ、結局、エンライトメントに名を変え、名前も顔も出してしまって(!!)、自分の中では相当前に出たなぁ、と思っています。(まだ、その程度。^^;) エンジェルサポートは、私にとって居心地の良い、おうちみたいな感じがありました。いらしてくださる方も皆、お友達、仲間って感じで、気がおけなくて、居心地がよくて、一人ひとりは個性的なのに、皆でいると不思議なくらい丸くなっていく。 初めての人でも居心地の悪さを感じさせない人の良さで、その人たちに会いたいから、次も参加したいという人までいました。 そこがエンジェルサポートの不思議なところで面白いところでした。優しい、穏やかなエネルギーでつながった仲間は、お互いどこかで知っている、みたいな不思議な安心感があって、見ているこちらもなんだかほんわかしてくるような感じでした。 去年までの「魂のお仕事」では、何人かの仲間と一緒に全国を回りました。 「魂のお仕事」とは、私が名付けた名前ですが、去年まで、「神様を起こす」という命題で、やってきたミッションでした。 早い話が、私が受けたメッセージに従って、、色々な所に出かけて行って、そこでエネルギーのお仕事をしてくるのです。 そう言っても、普通全くピンとこないと思いますが、私自身、最初にそのようなメッセージが来たとき、一瞬くらっとしました。意味が分からなくて。(笑) 一番最初に、私がくらっとしたのは(笑)、おととしの10月に、富士山へ登れ、との指示を受けた時でした。あれは、9月も半ばを過ぎたある日。洗濯物を干していた私の頭に突然「富士山」という言葉が飛び込んで来ました。 富士山????まさか、登れって話じゃないよね?って思うと、正解!な感じ・・・。(ひぇーーーーっうっそー ^0^;) 実は、それまでも滋賀の近江富士と呼ばれる三上山に登るはめになり、次は鞍馬山で・・、その次はいきなり富士山って、そりゃあんまり・・。 しかも、10月だから、山頂登山は無理じゃないですか。もちろん、ありえないーって感じでした。 すると、山頂でなくてもよい、とのことで、それだけはほっとしましたが、何のために行くの?と聞くと、『日本は、世界の縮図。富士はその心臓部。そのエネルギーを開く」、と言うことでした。よく富士山は、ピラミッドだと言われます。ピラミッドはそもそも、何のために造られたのか、いまだに謎に満ちています。私がその答えを知っているわけではありませんが、このときのメッセージの語るところによると、富士山は、エネルギーの集積装置であり、かつエネルギーの発信装置でもあるらしいのです。(これがほんとかどうか私に聞かないでくださいね。) こう聞かされても私には何の事かわかりません。でも、たまたま私の友人の一人が今「アマテラス」(美内すずえさん作)っていうマンガを読んでるの。と電話で話をしてくれました。それでいろんな疑問が解けた、と話くれました。 ちなみに彼女は、子供時代の事故がきっかけで、幽霊が見えるようになった人で、そのことで色々な霊障などに悩まされていたのですが、エンジェルサポートに来るようになって、振動数が上がったら、すっかりそういうものに悩まされなくなった人なのです。 それで、私も少しその「アマテラス」という本に興味を持ちました。少女時代に確かその本を一度、少しだけ読んだことがあったのです。 その時の記憶では、この主人公に起きる出来事がなんだか他人の出来事のようには思えなくて、(似たような体験をたくさんしていたので)彼女にいろいろなことを知らせてくれる人たちがいていいなぁ、と思った記憶がありました。 その時の私は、エネルギーのことが全くわからないままに混乱した日々を過ごしていたので、痛切に誰かに自分の状況がどんなものなのか、教えて欲しかったのです。 ふと、それを思い出し、今の私のこのよくわからない状況を知る手がかりになれば、と思って、古本屋さんで購入しました。 4巻で途中までしか出ていないのに、絶版になっているらしいこの本は、いま読むと、マンガの形になんとかしているだけで、内容は、漫画ではないな、とぴんときました。なるほど、この内容ならと、私が自分のことと同一視した謎が解けてきました。 そして、読み進めていくうちに、主人公が宇宙人と交信している場面が出てきました。 そして、そこでピラミッドのことも説明されていて、その時の私には、その説明がものすごく、納得いくものだったのです。 そして、今回の富士へ行く意味について、はっと気がつくところがありました。 メッセージは「富士は地球の心臓。その封印を解く。」といったものでしたが、最初、どうしてもこの意味が分からず、そういう事が書いてある本は、やっぱり苦手で、避けていたので、さっぱり知識もなかったのですが、この漫画を読んだとき、何かが私の心に引っ掛かりました。 そして、人間のチャクラが、やはりピラミッドのように円錐状をしていることを思い出しました。ピラミッドは、正確には、円錐ではありませんが、私はあれは、3次元にあるから、あの形なのだと思っています。3次元というのは、形でいえば、3角形なのです。3角が四つ集まって、ピラミッドの形を形成しているのは、つまりあれが、3次元を表しているから、とそう感じます。 そのマンガの中で、ピラミッドはもともと球体だったと書かれていました。私は、そのことも「ああ、そうだった」と妙に納得がいったのです。私自身の過去生を紐解いた時、宇宙人の過去生がたくさん出てきて、驚いたのですが、その時の記憶では、確かにピラミッドは、そのようなものでした。 ともあれ、5次元の状態のピラミッドは、多分球体なのです。この漫画の中で、ピラミッド状の山の上に、くっついた状態で逆三角形のエネルギーのピラミッドがエネルギーとして書かれている場面がありました。 それを見て、私は、人間のチャクラの形を思い出したのです。人間のチャクラも、方向は違えど、そのような形をしています。円錐状の形で、前と後ろにつながっている形。 そっくりだ。私はそう思いました。 そして、ピンと来たのです。この封印を解く、というこの意味は、もしかすると、富士山のチャクラの真ん中にあるこのつながった部分を解放することではないだろうか、と。 私たちの体にあるチャクラが円錐状に前後にあるのは、かつてのモデルです。進化した肉体を持つ人、進化した意識を持つ人のチャクラは、実は球体なのです。完全な球体が、進化したチャクラ。 多分、富士もまたそれと同じなのではないか、と思ったのでした。 そして、旅は始まりの鐘を鳴らしました。**********************************続きを読みたい人はクリックお願いします。(*^-^*)
May 12, 2009
続きにすると次までの間があくと何を書いていたか忘れちゃいますね。そのたびに自分の中のバージョンが変わるから、書き方まで全然違ってしまいます。(苦笑) よく友人に巫女体質、と呼ばれてきた私ですが、文章の書き方も内容も毎回なんだか違っていく・・・、きっと読んでる人は混乱しているだろうなぁ、と思いつつ。(^^;; 昨日、京都でエンライトメントセミナーの1回目がありました。その内容は、また後ほど・・。(多分 ^^;) ***************************************** オーラハーモニーのコンサートの様子をヴィジョンで見たとき、感じたのは、その場のエネルギーがお客さんたちのエネルギーとあいまって、ともに高く大きく膨らんでいく様子でした。そのエネルギーは光っていて、軽くて、心地よい感じ。 その高揚する感じに身を委ねていると、体も飛んでいきそうに軽くなっていきます。 意識が低い時は、体が重いのですが(体重のことじゃありませんよ 笑)不思議なことに意識が高くなってくると、体がすごく軽く感じられるようになります。 でも、高くなって体が軽くなってくるまで、自分の体が重いかどうかにふつうは気づきません。 何しろ、軽くなった体験がないから、軽くなってみないことには、重い事が普通だと思っているので、重いとは感じないんです。 でもこれが、意識がスーッと上がってくると、体も一緒に楽になってくるんですね。心地よくて、楽で。 体も心も軽くなっていく・・、それが振動数を上げること。いつからか自分でもわからないのですが、ある時から私はずっと振動数をあげよう、と言い続けています。 私がいう振動数とは、人が持つエネルギー(オーラとか)の周波数のことです。って、この説明がまたわかりにくいんですよね。 いつもこの説明に苦心するのですが、何しろこの世界にはまだ、これを端的に表現する言葉がないから、どうしようもないというか・・。というより、概念がない、というべきでしょうか。 人のエネルギーには、高さも大きさもあるのですが、人はよくパワーが大きいことが良いことだと勘違いしている、と私は思うのですね。 たとえば、霊能力者と呼ばれる人なんかでも、パワーが大きくて、物理的な力が強いほど、すごい人だと思われる。もっとも、ほとんどの人には、誰がすごいのか、まったく判別は付かないと思いますが。 この場合、押しの強い人がすごいのかも!? ともかく、パワーこそが力であるこの3次元的なものの見方から言うと、確かにパワーが優位に立っていることは否めませんが、エネルギーの世界から、ものを見れば、本当は繊細で軽やかなものの方がレベルが高いんですね。 高いレベルは、柔らかく、穏やかで、光ってて、軽い。低いレベルは、荒くて、怒りっぽくて、暗くて、重い。そんな感じです。 以前、5次元の敷居を踏め!みたいなメッセージが来たとき、意味が分からなくてものすごく混乱したのですが、翌日、魂のお仕事をする予定になっていたから、そのお仕事をするには、そのメッセージを解読(!)して、実際にやっておかないといけないとわかっていました。 それで、友人と二人、苦心して、そのメッセージの解読に努めましたが、そのことに関してやってくる言葉は「考えるな。」って言葉ばかり。 もう、????ですよね。その晩、それが終わらないと寝かせてもらえない(メッセージがずーっと頭に響き続けるので)ので、仕方なく、夜中に眠い目をこすりつつ、友人と二人悩み続けていました。(笑) だって、頭で考えるなって言われても、じゃあどうすればいいの!?ってまた考える。(笑)で、「考えるな!」 って、頭に声が響く。そんな感じで堂々めぐりしてたんです。 まるで回し車でカラカラ走り続けるハムスターみたいに。(笑)しまいに友人と私、二人とも眠くて眠くて、頭で考えられなくなってきて、もう寝られるなら何でもいい!とか言っていたら、あら? 急に「うわん」って感じに空気が変わったんですね。 頭で考えることをやめて、「もう何でもいいから、5次元の敷居を踏む!」って発言した瞬間、空気が変わってたんです。 空気がきらきらして、体はものすごく軽くなって、やけに部屋が明るくなりました。 「あれ?なんか変わったね。変わったよね。終わった感じ・・、しない?」とお互いの顔を見合わせて、びっくりしていました。 その瞬間、私たちの意識はいきなり、「高く」なっていて、物理的には何一つ変化した覚えはないというのに、体は軽くなり、何もかもが光っていて、明らかに自分たちが違う世界にいることを感じたのです。 二人とも、何が起きたのかさっぱりわからず、首をひねっているばかりでしたが、とにかくこれで終了の鐘が鳴っているという感じでした。 どうやらアセンションしたらしい、ということだけがわかっていて、でも眠い私たちには別に感動も何もなく、けれどやけに光っていて明るい部屋で、心も体も晴れ晴れと明るく軽くなって5次元って、「あ、かるーい(明るいと軽いをかけている)」世界なんだね!」とか意味のわからないおやじギャグを飛ばしまくっていました。(爆) アセンションが特別なことだというのは、人間が考えているだけで、過去も普通に、何度も起きてきたことだし、いずれ皆がアセンションするのだから、別に人にひけらかすことでもない、と私は思うのですよ。 以前のブログには、先にお風呂に入っただけ、と書いてみたんですが、我ながらうまい表現だったなぁ、と悦にいってました。(笑) それに、5次元より上の次元を体験したら、案外5次元も大したことなくて、まだまだ人間臭い世界なんだなぁ、とそのあと感じましたね。 でもね、3次元よりはずーっと生きやすい世界なんです、やっぱり。 明るくて、軽いので、物事が深刻にならない。深刻に考える、ということは、それだけ重いってことでしょう。つまりそれは、振動数が低いってことなんですね。 真剣に考える、ということと深刻に考えることとは、意味が全く違うのでお間違えなきよう。 続きなのかそうでないのかわからなくなってきましたが、また長くなったので今日はこの辺で。(^^;)*************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
May 9, 2009
このときはセミナーを自分が主催するなんて初体験だったので、ものすごい苦労があった。けれど、それを支えてくれた本間先生や友人たち、夫には今でも本当に感謝している。 この場を借りて今一度、お礼を言いたい。 「皆さん、本当にありがとうございました。」***********************************さて、キネシオロジーのキの字も知らない私が、一人30万、5日間ものセミナーを主催する、というのは、どう考えても無謀以外の何ものでもないが、それでも、セミナーは何とか赤字にもならず、きちんと先生に報酬を支払い、ホテルでの開催にこぎつけた。 つくづく、やればなんとかなるものだ、とこの時の私は思った。 そして、この時、本間先生から習ったキネシオロジーは、結局を私を自分の原点へと戻してくれることになった。 子供時代からあった霊感を生かす仕事へと、そこから変貌していったのだ。 私自身には、実は霊能力、と呼ばれることに大きな大きな抵抗があった。そもそも、自分がそういうものがわかる、見える、ということが私にとっては、大きな問題だったから。 だから、スピリチュアル、という言葉も嫌いだった。何かそういうものを私の中に彷彿とさせるから。 キネシオロジーは、筋力の反射を利用して、その人のストレスや、問題を体に聞きながら見ていく一つの治療法だ。 もちろん教わった内容は、エネルギーのこととは全く関係なく、もっと科学的なことに基づいているのだが、私は、この体を使う、ということが気に入った。 体を使うことで、私が見ているもの、オーラやチャクラ、その人の心に浮かぶ、色々なもの、そうしたものを体の反応を見ることで、見せてあげられる、と確信した。 そして、それは全くその通りで、そこから私は今の仕事を始めることになった。 まさか、自分がこの力を使うことになるとは、夢にも思っていなかったのだが、この力を使い始めて、逆に私は健康になったのだ。 もちろん、それまでにもたくさん学んだことを使って、自分を癒してはきたが、結局、本当に何でもなくなったのは、私の魂が望んでいる仕事を始めた、そのことによって治ったのだった。 それはもう、驚くほどで、ヒーリングの仕事を始めると、自分の体の問題はピタッとなくなり、ヒーリングをやめるとエネルギーが体のあちこちにたまって来るのがわかるようになった。 人を癒し続けることが自分を健康にし続ける秘訣だったのだ!そうして、ヒーリングをやっているうちに、毎日その力は、磨かれていった。筋肉と同じで、使えば使うほど、エネルギーと意識は鋭く、鋭敏になっていき、昨日まで見えなかったものが、今日は見える、と言う風にどんどん変わってきた。 しかし、それも終わりになる時が来た。ヒーリングをすることで少しでも人を助けたかったのだが、結局人を助ける、なんてことはできないことがわかったのだ。 人は自分で、治りたいから治り、病気になりたいから、病気になるということを、身をもって知った。そして、ありとあらゆることで私を頼る人が増えて、その人たちが自分の足では歩こうとしない姿を見て、これではいけない、と思った。 人は自分の足で歩かなければ、筋力がなくなって、本当に歩けなくなってしまう。 私が人を癒し続ける仕事をする限り、その人たちの心の筋力を奪ってしまうことに気づいてしまったのだ。 それで、ヒーリングもやめてしまった。 最初は、ヒーリングをやめたことで、私自身にも不調が出た。 実際の行為はやめたけれど、それまでやってきていたエネルギーは相変わらず、私のもとにやってくるので、エネルギーが溜まりすぎて、処理できず、頭痛や体調不良になってしまっていた。 けれどヒーリングに戻るのは違う、と感じていた。そしてメッセージは、「オーラハーモニーをしていく」と言い始めた。 「オーラハーモニー」。天使が、「あなたは人と場を調律するマスター」と言ってくれたことをきっかけに、私がつけた名前。 世界のどこにもない。 私以外に誰も知らない。 だから、気楽だった代わりに、それって何?を説明する言葉も持たなかった。 自然の中で歌った。 それは私の中から、外から、高い振動を伴ってやってくる、未知のエネルギー。 そのエネルギーに身をゆだねると、自分自身が解放され、光はじめ、ものすごく心地よくなる。 最初は、私にとって、オーラハーモニーはそれだけのものだった。自然の中で歌うと、自然が一緒に歌いだす声を聞いて、びっくりした。 その時、勝手にお腹の中から出てくるメロディに、心を委ねていると口から勝手に声が出てくるだけなのだ。 まさしく、私は巫女のような状態になり、ただ恍惚とした感じの中に漂っている。 時々、入ってくる存在は入れ替わり、全く違う感じのメロディへと変化する。それは、私がどんな風に変えようと思っているのでは全くなく、ただそのように変わっていくだけなのだ。 心地よさの中でたゆたう・・。それがすでに癒しで、私はもうそれだけで満足だった。 最初にオーラハーモニーを歌ったのは、友人の家でのこと。友人とその時は、過去生を見るワークをちょっとやっていた。 その時、私はどこかの場所の小さいけれど、優雅なコンサート会場のようなところで、舞台に立っていた。 私の周りには、さまざまな色の大きな水晶があり、いくつものその水晶に向かって私は、踊るように腕を投げかけ、タクトを振るようなしぐさで、エネルギーを送っていた。 すると、水晶はひとりでに振動をはじめ、一つの水晶が鳴り始めると同時にほかの水晶もそれに共鳴して音を出し始める。 私はその時、水晶を使った音楽で癒しと調整を行っていた。 その音があまりに心地よくて、自然に一緒にいた友人たちにその音を再現して聞かせたくなった。 私は口をすぼめて、バイブレーションの音が出るようにして、できるだけその時の音に近いように、再現してみた。 すると、驚くほどその時の音に近い音が出たのだ! その音は、体を振動させ、私たちのエネルギーを調整し、心地よい気分にさせてくれた。 その時私は、「なんだ、今でもできるじゃん」と思った。(笑) 水晶を使って音を出す技術は今はなくても、口を声を使えば、その時の音が再現できる・・・!それは、なんだかとても楽しいことに感じた。 そして、そのあとに見たヴィジョンに自分がびっくりした。 何万人もいそうなコンサート会場で、私がオーラハーモニーを歌っている様子だった。 外の会場で外は森のように木が植わっている。そこでスポットライトを浴びているのは、私・・・。ありえない。またもやそう思った。 でもその時、会場にハーモニーのエネルギーが広がって、同時に世界に向かって広がっていくのを見たとき、ものすごく気持ちがいい!!と感じた。 なんだかどうしようもなく、気持ちが良かったのだ。 そんなコンサート会場でスポットライトは浴びたくないが、その時のオーラハーモニーはやりたい!と矛盾した気持になった。 そしていつの間にか、私はそれをやりたい、と無意識に考えるようになっていった。続く・・。************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
April 30, 2009
友人とHPのことについて話した。 エンライトメントという名前に変更し、そもそもこの名前に変更したとき、何で?と言う思いが私の中にあった。 これまで使っていたエンジェルサポートで、いいじゃないか、という思いもあった。 けれど、私の奥からやってくるものは、もうエンジェルサポートは卒業、という感じだった。 新しい名前、そしてエネルギー。かかわる人も変わるだろう。 ずっと、たくさんの人に知らせていくのが怖かった。色々な人に、知られることを恐れ続けていた。 自分の仕事を広げたくなかった。でも、自分の奥からの要請は、より広く、より多くを望んでいた。 私の奥にある、声は、「人類の進化を促すこと」が、私の本当の望みだと告げていた。 人間の私は、「そんな大胆なこと、ありえない。」そう思っていた。 ずっとそう思っていたのだ。20数年前から同じメッセージを受け取っていても、冗談だと思っていた。 そんなのありえないから。 それはいくらなんでも高望みだし、何で私が???そう思っていた。 マッサージをして、人がよくなっていくのが嬉しかった。自分の手の下で、体が緩んで、心を開いていく姿が嬉しくて、やってあげれば、あげるほど、私も元気になった。 そのうち、それを仕事にした。20年以上も趣味だったマッサージを仕事にするために、しっかりと勉強しようと、色々スクールやセミナーにも通った。様々なタイプのマッサージを覚え、多くの技術を習得した。 同時に、多くのことを学びに、別の分野の数多くのセミナーにも通った。 実際に、マッサージを仕事にし始めると、不思議なことに、だんだんマッサージだけでは物足りなくなった。 体の表面を緩めるだけでは、人は何も変わらないことに、歯噛みしたい気持ちになっていった。 体を触っていると、このコリは実は内面の心の問題からきている、と感じたり、食生活の乱れや、内臓の病気、人間関係の問題など様々な所から、その原因があることが、はっきりと見えるようになってしまった。 そして、マッサージに来られる人たちが、私にマッサージ師以上のものを求めるようになった。医師に相談すべきことを、私に言ってくるのだ。でも、私はマッサージをする人間であって、医師ではない。 中途半端なことを言うわけにも行かず、困惑した。とりあえず、病院へ行ってください、とだけ言った。 自分が知る限りの知識は、教えてあげることができたが、それでは何の解決にもならないと感じていた。 それで、少しずつ私は自分の疑問を解決したくて、数多くのセミナーに参加した。 独学でもひたすら勉強をつづけた。 自分自身がトータルな医者がいてくれたら、と思う人間だった。 子供の時から、原因不明の病気になり、何度か死にかけて、一部分だけを見て判断するのではない、心も体も精神もすべてをトータルに見てくれる医師が必要だ、と、よく思っていた。 人間は、部分でできているのではない。心も体もそして、オーラも密接に関係しあって、存在している統合的な存在なのだ。 どこか一部分だけ、具合を良くしても、違う部分に問題が出て、結局元の黙阿弥になってしまう。 棚の中に、あふれて落ちるほどたくさんの薬を毎日飲み、注射や検査漬けの毎日は、それでも私を健康にはしてくれなかった。 母は必死にたくさんの病院に私を連れて行ってくれた。けれど、どれほど検査しても、いろいろと手を打っても熱も下がらず、あちこち問題があるまま。 霊的に問題がある家に引越してから、病気になったのだが、だからと行って、それを治す医者はいない。それに霊能力者と言っても、その能力は、千差万別だった。意味があるのかないのかわからないお祓いをしてもらったり、いろいろとしてもらったが、全く治る気配はなかった。 そんな中で、物心ついた時には、おかしなものが見えるようになっていたし、そのせいで夜は寝られず、それが霊的なものだったと知ったのはずいぶん後になってからだった。 どんな場面にも、対応できる医師。肉体、精神、心、今ではオーラや魂をも含め、すべてを見通し、看破してくれる医師が欲しかった。 でも、そのような医師に出会うことなく、大人になり、そのうち、自分で自分を治す方向へと、形は変わっていった。 自分を治すには、人の手を借りていては、いつまでたっても治らない、と自分で数多くの書物を読み、いろいろな手法を試し、自分自身を変えようと努力してきた。 私が今、驚くほど健康なのは、かつてそのように学んだ事が役に立っていることもある。けれど実のところ、一番私が健康になった最大の原因は、私が自分の使命に気づいたことにあったのだと今は思う。 仕事を始める以前から、人をマッサージすると、自分の体の具合がよくなることには気づいていた。 結婚して、自分も頭痛がしているにも関わらず、夫をマッサージしてあげると、痛みが消えるのだ。 自分でも不思議な現象だった。人を癒していると、自分の体の問題や症状がどんどん消えて、相手も自分も一緒に元気になっていくのだ。 普通は、こんなこと考えられないことだった。けれど実際、そのマッサージを仕事にしてから、どんなにたくさんの人をマッサージしても、全く疲れを感じないのだ。 むしろ、マッサージすればするほど、元気になっていく自分に驚いた。マッサージすることで自動的に、エネルギーの交換が行われていたらしい。 マッサージは大好きだった。人が癒され、楽になる姿も大好きだった。 でも、物足りなくなった。3回以上同じ人が、同じ場所が悪い、と言ってくるのには我慢ならなかった。 それは、別の原因があるからで、マッサージは治療ではない。だから、どれほどマッサージを受けたとしても、その人が治ることはないのだった。 当たり前なのだ。けれど、仕事をし始めて、私がその事実にぶち当たった時、治療できない、という事実にものすごいジレンマを感じた。 そしてまた、だんだんと別のタイプのセミナーに通ってみるようになった。たくさん学んだ。 けれど、私にとってこれ、という決定打になるものがなかった。 そんな時、キネシオロジーに出会った。Dr.本間のキネシオロジーだ。 その時の私は、キネシオロジーが何か、まったく知らなかった。何一つ知識はなかったにも関わらず、私はこの先生のセミナーは、いつか絶対受けよう!と心に決めていた。 子供のころからの直観で、これはいい!と思ったことは、いまだ一度も外れたことがない。 この時も単に直観に従った。結局、そのセミナーは関西ではなく、東京でだけやる予定だったので、まだ子供も幼児だったし、行けそうにない。 ・・と思っていた。それで、体験会に足を運んだ時、先生に向かって、「関西でセミナーをやりましょう!」と言ってしまった。 自分の口からそんな台詞が飛び出したことに、非常に驚いたけれど、そんな私に先生はこともなげに「いいですよ。」と答えてくれたのだ! 先生は、初対面のマッサージを仕事にしているだけのただの主婦に、何の迷いもなく、OKを出してくれたのだった。 かくて、私は一人30万、5日間のセミナーの主催をすることになったのだった。********************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
April 26, 2009
会社を作った。と言っても、個人事業で大したことはない。 けれど、営利ですか?と聞かれた。 ??? 会社だったら、普通は営利でしょう。 でも私は、社会貢献と答えた。私の中がそういうから。 私の中ではそういう答えだから。 無料で人に教えるのが、愛じゃないのか?とその人は問うた。 以前は私もそう思っていた。 けれど、それが正しくはないことを、実際に身を持って知った。 何度、無料にしても、意味がなくなってしまうことを たくさんの仕事を通して知った。 そして、お金はいただくことにした。無料にすることがその人たちのためにならないことを知ったから。 それでも私はお金をいただくことに、大きな罪悪感を感じていた。 そして、自分がお金を嫌っているということも判明した。 だから、お金をいただくことへの抵抗と、痛みを感じずにはいられなかった。 けれど、このままでは本当の意味で、自分のやっていること、私が目指すことは、なし得ない、と思った。 お金に対する意味のない恐怖を消すことにした。 自分を癒す最中に、 お金は悪魔だ、と自分の口から出てきて驚いた。 お金を忌み嫌う自分の答えに驚いた。 憎しみ、という感情をほとんど知らないで来た。 その私が、お金に対してはほとんど憎しみのような感情を抱いていることに、自分でびっくりした。 いったい、何があったの・・・? 自分に聞きたくなった。 別に貧乏だったわけじゃない。お金に苦しんだ覚えはない。 今ならば、むしろ逆だ。 なのに。 私は、ほとんどお金に憎しみすら抱いている・・。 意味が分からなかった。 けれど、それは子供のころから、私の中に入れられていた観念だったと、知った。 それは、たくさんの自分の周りの意識、お金に対する考え方を吸収した結果だったと、理解した。 それでも、理解しただけでは、私のブロックは外れなかった。 かたくなに、拒否する自分の気持ちをどうすることもできずに、もがいた。 けれど。 ある時、すべてはエネルギーだ、といった自分の言葉をもう一度読み返した。 そう、すべてはエネルギーだった。 エネルギーは、何からできている? 愛だ。 ならばお金もまた、愛だ。 そうか、愛なら私は受け取れる。そう思った。 そして、本当にほっとした。 私は愛しか渡せない、そう思った。だから、愛が返ってくる。 ただの交換なのだ。 愛の交換。 だったら、私は愛を受取ることができる。 そう思ったら、ブロックは勝手に外れた。 ある日、知人に私が必要でないあるものを譲ってくれ、と言われた。もちろん、私にとっては、願ってもないことだった。その人には、必要だったけれど、私にとってはもう用のないものだったから。 そして、お互い納得ずくで、ある金額でそれを引き取ってもらった。 それなのに・・、私は、お金を受け取った瞬間に気分が悪くなった。 お金をおいて走り出したくなった。 でも理性が、その行動は変、というので押し留まったけれど、もし、その理性が何も言わなかったら、きっと私はお金を投げ出して、走りだしていただろう。 なぜ気持ちが悪くなったのか。 自分でも最初、よく理解できなかった。お金をいただいたことに、また気持ち悪くなったのだろうか?ただであげてしまえば、気が済んだのだろうか? それには、私の答えはノーだった。 でも、その時はずっと忙しかったから、私は、そのことについて考えるのをやめた。 すると・・自分でも気付かないうちに、心のずれは、広がっていった。 夕方、友人に電話でそれを指摘されるまで、気付かないふりをしていた。 その電話で、もう一度、ゆっくり自分がなぜそのことで気持ちが悪くなったのか、考えてみた。 お金をいただきすぎたのか?それとも、お金をもらったことに対する罪悪感がまた出てきたのか? どちらも自分の答えは、ノーだった。 実は、その原因は、私の中にあった。私は、自分にとって「いらないもの」をその人に渡した、という事実に引っかかっていたのだった。 「いらないもの」つまり、私はその人に「愛」の代わりに自分にとっては、価値のないものを渡したことに、引っかかっていたのだった。 だからこそ、渡した瞬間に気分が悪くなってしまった。 そのあとの後味の悪さに、しばらく、私の中には、問題が残った。 そして、このとき、どれだけ厳密に「愛」でない行動をとることが、自分にとって大きな負担になるかを知ってしまった。 このときのズレは、大きく響いた。体は不調になり、オーラは不協和音を奏で、精神的に参ってしまった。 そして、生まれて初めて「愛が何か」がわからなくなってしまった。私にとって、これが何よりも、一番恐ろしいことだった。 これまでは、落ちていても、怒っていても、悲しんでいても、どこかで、いまの自分は違う、その感情が愛に基づいていない、と知っていた。 それに気付いていた。 なのにこの時は、そんなことさえ分からなくなっていた。 真っ白な霧の中にあって、前も後ろも、右も左もわからない、自分がどこに立っているのかさえ、わからなくなっていた。 怖かった。 どうしようもなく怖かった。 愛がわからない事がこんなに、何もかも見失うことだと初めて知って、他の人たちが「愛がわからない」という意味が初めて分かった気がした。 こんな怖い状態で、生きていけるなんて考えられなかった。 それなのに、ほとんどの人たちが「愛」が何か分からない、と言っているのだ。 ありえないことだと私は思った。 それは、悲しいとか、苦しいとか言うよりももっと恐怖な体験だった。 愛とは、私にとって、光る灯台のようなもの。いっも高々とそこにあって輝き、私を導くものだと思っていた。 けれど、その瞬間、私は大切な灯りを見失い、どこへ行っていいのか、さっぱりわからなくなっていた。 誰か、私に指針を示してほしい、と本気で思った。どこに行けばいいのか、何が愛なのか、教えてほしいと心から願った。 言葉が必要だった。 少なくとも、これが愛だよ、と具体的に教えてくれる愛の言葉が。 それがないと何一つ判別できない。 その基準がないと理解できないことを、私は初めて悟った。 たとえば、植物が枯れないように見守ることが愛。子供も、パートナーも、家族も、植物と同じ。水がなくては枯れ、水をやりすぎても枯れる。 栄養が足りなくては育たず、栄養を与えすぎれば、枯れる。 子供も同じ。甘やかせば育たず、愛がなくてはグレてしまう。 認証を求め、愛を求める。 愛とは、あるだけでいいと、気づくこと。そこに存在するだけで、価値があると気付くこと。 愛以外のものを与えたら、自分が壊れてしまう・・・。 私は二度とそれを味わいたくない。 灯りをともしておくのは、私自身のため。 魂の仕事をしているのは、ただそのため。 愛を知らせたいから、この仕事をしているのは、単に私のためなのだ。 愛を知らせることが私の生きる道だから。********************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
April 13, 2009
悩んだ方がいいことだってある。早道はない。 でもワープはできる。(笑) 今日思ったのは、どこかに通じる道はどこにもなくて、「今あること」だけがあるんだ、ということ。 だって、私たちには常に「今ここ」しかない。だから、道も何もなくて、ただあるのは、境地だけだって。 あなたは、どうしたい?私は、どうしたい? 私たちは、使われてるんじゃなくて、自分で自分を使ってる。 あなたはどうしたい?
April 13, 2009
ブログタイトル「愛すること」に変えました。 なんだか、一つであることよりもちょっと自由と気楽さを手に入れた気がします。(笑) これから、どんどん自由に選択できる感じがしています。 そうそう、新しいHPを作りなおしました。まだまだ、制作途上なので、中途半端な感は否めませんが、とりあえず、見てやってくださいね。エンジェルサポートのHPを作りなおしてます。(^^;エンライトメントhttp://www.angel-support.com/******************************************Takeさんからリクエストのあった、平行現実について、聞いてみますね。「愛すること」の記念すべき最初がこれでいいの?という素朴な疑問はさておき。 これからは、もっと皆さんの声を聞いていこうかな、と思います。質問がある方は、別にスピリチュアル系である必要はないんです。聞いてみたいことがあったらコメント欄に質問いただければ、順番に聞いてみたいと思います。********************************************さて、平行現実について、ちょっと高次元の存在に聞いてみましょう。って、言っても、よく考えたら、平行現実の何を聞きたいのでしょう? とりあえず、「並行現実って何?」で聞いてみることにします。 Q;平行現実ってなんですか?A;平行現実とは、単純にそこに存在するたくさんの世界のこと。Q;そことはどこですか?A;あなた方が存在する世界。Q;私たちが存在する世界、と言いましたか?それらは私たちと同じ世界に存在しているということですか?A;そう。Q;平行現実の意味を教えてください。A;意味はない。あなた方がそう呼ぶだけ。Q;私たちにわかる形で教えてください。A;形、というのならば、あなた方が知っている世界は、実にごく一部にすぎないということ。あまりにもわずかな世界しか知らないために、多くの誤解を生みだし、混迷する。平行現実は、常に、無数に存在し、あなた方が「自分」と呼ぶ存在もまた、無数に存在している。それは単に「どれ」をとって、現実と呼んでいるかに過ぎない。Q;多分、おっしゃる意味がほとんどの人には理解できないと思のですが、もう少し噛み砕いて教えてください。A;平行現実とは、あなた方が現実と呼ぶ狭い世界の一部にすぎない、ということだ。人は、空間と時間を生み出して、自分を区分けした。そのことによって、その場に存在しているものとそうでないものを分け、その場に存在しないものをないこととして、考えるようにした。そのことが平行現実という現実を生み出してきた。しかし、元は単に一つのものにすぎない。**********************************ええと、またまた訳が分からなくなった感じがありますね。(^^;;;注釈すると、平行現実、というのは私たちの認識が生み出したというだけの世界であり、実際には、私たちのこの世界と同じ場所に無数に私たちが平行現実と呼ぶ世界が存在している、と言いたいようです。 空間や時間は、実は人間が発明したって知っていましたか?人が、空間と時間に「存在」を分けたんですね。ここでもう、遭難しそうな人が多い気もしますが、実際には、過去も未来も現在も、「今ここ」に同時に存在している、というのが定説なんですが、つまり、どんな未来もすべて、今ここに存在する、というわけなんです。 意味、わかりますか? ということは、私たちの未来もまた、すでに存在しているんです。しかも、どのような未来であってもすべて。ということは、私たちは、自分の未来を自分の意志で 「選ぶ」ことができるはずなんですね。どのような未来も存在するから。 もっと突っ込んで聞きたい、というときは、具体的に質問を考えてきてください,ね、Takeさん。(^-^) さて、どのような未来をあなたは選択しますか?本当の幸せって何かを知らせたい・・、応援クリックお願いします。
March 31, 2009
なんだかものすごく、久しぶりにブログを書く感じと思い、パソコンの前に座りました。今、やることが満載で、本当に暇がなくて、なかなか、更新できません。いつも待っていてくださる皆さん、本当にありがとうございます。 ずっと、一つであること、というタイトルでやってきたのですが、そろそろ変化の時かな・・、と。 実のところ、私のブログでありながら、私の「意見」なるものは書いたことがありません。書こうとすると、勝手に消去されてしまうのです。今は、これを書いていても、消去されないので、これもやはり流れが変わったのかな・・、と思っています。 と、言うわけで、これからは、ずっと人間らしい内容や、自分に起きた様々なことを書けるのかもしれません。(でもあんまりあてにしないでくださいね。^^;) 今日は、振動数のこと。というより、これからしばらく振動数のことばかり書けって感じなのです。(あら、やっぱり私のことじゃないの?) というわけで、振動数のこと。振動数って、私はさんざん書いてきましたけれど、基本的にそんなに馴染みのある言葉ではないですよね。私が使う言葉は、だいたい、知られていない言葉ばかりなので、とっつきにくいこと、この上ない。それなのに、足を運んで下さるお客様もたくさんいらしてくださるのには、本当に頭が下がります。 「知らない、しかも来てもよくわからない。でも、なんだか軽くなって楽になったから、また来たい。」みたいな、よくわからない感想をいただいたりする私のセミナー。(笑) ただ面白いことに、いらっしゃる方たちが、自分以外の人は皆わかっているに違いない、みたいな不思議な思い込みがあったりするんですよね。あれは、いつ見ても不思議な現象です。(笑) 振動数のことに話を戻しましょう。振動数って、私がエンジェルサポートを主催しているときから使っている言葉なのですが、その意味するところは、単純に訳すと、意識レベルのことです。意識が高いとか低いとか、いうでしょ?あれです。 だったら、意識レベルって言えばいいのにね、と私も頭では思うのですが、それとはもうちっょと違うらしくて、その言葉では現わせない何か、だというのです。ふーん。 自分でもここのところ、いま一つ納得できない感じなので、ちょっと質問形式で、高次元の存在に聞いてみます。 Q;どうして振動数を意識レベルと言い換えてはいけないんですか? A;本質的に同じものではないから。 Q;でも、この世界の言葉で現すとそんな感じになるじゃないですか。 A;わかりやすいから誤解のもとになる。 Q;と、言うことは、そもそも意識レベルということではない、ということですか。 A;そういうことになる。 Q;じゃあ、なんと表現すればいいんですか? A;振動数。 Q;いたちごっこみたいになってきましたけど、じゃあ、振動数はそもそもなんですか? A;光。存在。エネルギーのありよう。 Q;余計わからなくなりました。 A;頭で考えると理解できなくなる。心で感じること。 そう言われると、急に自分の胸の中にエネルギーがうわーっと広がってきました。 Q;他の人に理解してもらうためにこの対話をしています。理解できそうな言葉でお願いします。 A;頭で理解しようと思わないこと。心で感じることを大切にすること。振動数とは、あなた方の心の中にあるエネルギーの束のようなものだと思えばよい。そのエネルギーの束が減ったり増えたりすることであなたの心のバロメーターが下がったり上がったりする。そして、そのバロメーターが非常に高くなったとき、愛を知ることができる。 *****************************************・・・、結局何かわかりました?振動数が高くなると、心の中のエネルギーの束が増えて、色々なものの見方が可能になるのです。逆に、振動数が低くなると、エネルギーの束が減って、物の見方が狭くなる、というようなことも言いたいようです。このエネルギーの束、というのは、わかりにくいですが、まぁ、電線みたいなものだと思ってもらえればいいでしょうか。 自分から出ている線が一本しかない時、やってくる電気もわずかですが、数多く出ているときには、大量の電気が使えるので、より多くのことができるようになる、というわけなのです。 つまり、この電線の数が多いか少ないかが、私たちの人生の価値を左右している、というわけです。 そう思えば、当然、電線の数は多い方が良いにきまってますよね。つまり、振動数が高い方が、楽に人生を生きられるようになるってわけですね。さて、今日はここまで。次回からは…、そうですね、聞いてみたいことをコメント欄にご質問ください。そのご質問から、ちょっと「対話」形式で、答えを導きだしてみましょう。ただ忙しいので、すぐにはお答できないかも知れません。その辺は、ご了承くださいね。また、変な書き込みや中傷などは削除しますので、そのつもりでお願いいたします。***********************************本当の幸せって何かを知らせたい・・、応援クリックお願いします。
March 24, 2009
上手に世渡りすることが一人前だと思っている。本音は隠すもの。だから、胸に疼く思いはなかったことにする。そうしてうまく立ち回れれば一人前。 皆、そう思っている。そして、そうできないと、半人前の判を押される。 隠しても隠しても、不満は残る。だから、心も曇り、顔も曇る。 そうやって、人は少しずつ、自分を殺す。じわじわ本当の自分を見失う。少しずつ、本物の自分の意志や思いを消してゆく。 そうして気がついたら、自分の本当の望みが何かすら、答えられない。自分が本当に望むものが何かまで、人に聞いてしまう。 自分の本当の答えを見つけようとすれば、これまで蓋をしてきたものまで見なくてはいけない。そんなの無理。そう思っている。 だから、人は自分の望みさえ知らないまま、本当の自分を消し、食べるためだけに生きる。 そして、自分以外の人間にもそれを強要する。自分が得ることのできないものを人は他人に許さないから。 けれど、本当の自分をなかったことにするなら、何のために生きているのか?誰のために生きるのか?肉体を生かすためだけに生きることに何の意味がある? あなたは、本当の自分を殺していませんか? **********************************本当の幸せって何かを知らせたい・・、応援クリックお願いします。
March 6, 2009
新しいHPのURLが変更しました。前のURLだと、ク―デールさんのHPみたいなので、エンライトメントらしく、変更させていただきました。お気に入りに登録してくださった方は、変更をお願いいたします。http://enlightenment_.web.fc2.com/これから、もっともっと、コンテンツを増やして、皆様に来ていただくだけで、幸せを感じていただけるようなHP作りをしていきたいと思っています。まだまだ、作成中なので、いろいろとお気づきの点がありましたら、お問い合わせの欄から、ご連絡いただければ、うれしいです。私への個人的なメールは、こちらへお願いいたします。angelsupport@leto.eonet.ne.jp東京会場(^-^)3月1日(株)クーデール主催10:00~12:00 カラーセミナー開催http://enlightenment_.web.fc2.com/61.html13:30~16:30 オーラハーモニー開催http://enlightenment_.web.fc2.com/031.html当日、皆様にお会いできることを楽しみにしています。*********************************************いつもクリックしてくださってありがとうございます。
February 27, 2009
空を見上げた。「愛だけを見てね。」と声がした。 ふと、目の前を蝶が飛んでいく。やっぱり蝶も「愛だけを見てね。」とつぶやく。 小さな花も、「愛だけを見てね。」と声をかける。 優しい、とても優しい言葉で、語りかけられた。 その優しさが、かえって心に突き刺さる。 その通りなんだけど、そんなに簡単じゃない。そう、思った。 それでも、「愛を見てみようかな。」って思った。きっと、それでいい。それだけでいい。 *********************************************いつもクリックしてくださってありがとうございます。
February 26, 2009
こんにちは!前回の続きを具体的に書く、と言っておきながら、今日は違うお話です。待っててくださった方、ごめんなさい。もうちょっと待っててくださいね。(^^; ******************************************今回は、3/1(もうすぐ!!)に行われるカラーセミナーのご案内です。緒にお仕事をしている(株)ク-デールの社長である伊福さんが、講師を務めるカラーセミナーのご案内です。 講師となる伊福さんは、長年服飾デザイナーとして活躍されています。かつては日本一の売り上げを誇り、その世界では有名な方でもあります。その方が今回、カラーセミナーを開催してくださることになりました。 彼女は、実際にさまざまな企業や中国などでも、カラーセミナーを開催しており、たくさんのデザイナーを育ててきた人でもあります。デザインだけでなく、色々な商品開発で企業が彼女に「売れる」カラーの相談にもたびたび訪れています。 そんなすごい人ですが、性格は明るく気さくな方なので、セミナーは非常に楽しいものになるでしょう。 彼女が講師で、個人の方が参加できるセミナーは、そう何度も開催できないかもしれません。ぜひ、この機会に一度、参加してみてください。楽しいこと請け合いです。 突然決まってしまったので、日程が間近です。お申込みはお早めに。 東京カラーセミナー(色を使って、自分の心の声を聞いてみよう!)*日 程 3月1日(日)オーラハーモニーの前の時間です。*時 間 10:00 ~12:00*会 場 東京都内 池上会館 第一会議室*内 容 カラーセラピー*定 員 100名*参加費 3,150円(税込)*持 物 色鉛筆、クレパスなど詳細、お申込みはこちらから。詳しくはホームページをご覧下さいね『エンライトメント』ホームページからもお申し込み出来ます。http://enlightenment_.web.fc2.com *********************************************たくさんの人に束の間でない、本当の幸せを感じてもらいたい、と思っています。どうぞ下の二つをクリックにご協力お願いいたします。
February 25, 2009
先日、大分でオーラハーモニーをやってきました。毎回、なぜか大分でのハーモニーは楽しい、と思う私なのでした。 理由?来たらわかりますよ。(笑)というのは、冗談ですが、そのお話はまた今度。 **************************今日のテーマは、信じることは愛すること。皆さん、自分のパートナーや、子供、友人のことを愛していますか? このセリフから入ると、愛ってなんでしょう?から入らなくてはいけない気もするのですが、ともかく、愛していますか? きちんとあなたが思っていることを正直にあなたが愛していると思っている人たちに話すことができますか? 「あなたが心で思っていることを、正直に包み隠さず話すことができますか?」この質問、人を愛するうえで、非常に大きな意味を持っています。 自分の思っていることを包み隠さず、正直に話すということは、とりもなおさず、いかにその人を信じているかにつながって来るからです。 自分が言いたいことが喉まで出かかっているけれど、決して話せない、話すのは難しい、と感じているならば、残念ながら、それは本物の愛ではありません。 本物の愛は、いつも信頼からしか生まれないからです。 あなたが本当に相手を信じるならば、どんなことも話せるはずです。こんなことは話せない、と思うことがあるのなら、あなたは相手を信じていないのです。 とても厳しい一言に聞こえるかも知れません。けれど、これは単なる真実にすぎないのです。 本当に相手を信じることがその人を愛することです。少しでも、本当のことが言えないと思うのなら、あなたはまだ相手を信じ切れていないのです。 それはとりもなおさず、自分自身を信用できていないのです。 表面で愛している、と思うとき、こんなことを言ったら、相手に嫌われるかもしれないから、話たくない、と思うのかも知れません。けれどその言い分は、すでに相手を愛していない証拠のようなものです。 嫌われるかどうか、は、あなたが相手を愛しているかどうかには、実は全く関わりがないのです。 これは意外と衝撃的な言葉かもしれません。けれど相手があなたをどう思うかは、あなたが愛することとは、根本的に関わりがないのです。 相手があなたを思っていようと思っていまいと、それでも愛しているのかどうか。だからと言って、決してそれを押し付けるのも愛ではありません。ただ自分が静かに相手を信じていられるか、これが本物の愛かどうかの判断基準の一つです。 あなたが相手にどれだけ本当のことを話せるか、それはあなた自身の愛のバロメーターです。 本当のことを話すのは、誰でも非常に勇気がいります。でもここを逃げているのなら、まだあなたは相手を本当に愛しているとは言えません。 本気で相手を信じる、決めることでしか、本当のことは決して話すことができないからです。本気でなければ、どのようなことも打ち明けることはできません。相手がどんな反応を示すかを恐れている限り、あなたは相手を信用していないことになります。 信じることこそ、愛すること。 愛することは、決して駆け引きの材料ではありません。よく恋の駆け引きと言いますが、それは恋だけで結構。愛と名のつくものは、そのようなことからは、決して手にすることができません。 愛は、育み育てていくものであって、恋のように突然落ちるものではないからです。 人は、愛もまた、恋と同じようなものと勘違いしています。ですから、相手が自分の思う通りにならないと、愛が覚めたなんて表現をしますが、そもそもそんな程度のものは、恋であって、愛とは呼びません。 愛は、本当に信じることからしか生まれません。相手を信じる、自分を信じる。 相手がどんな人だから、ではないのです。どんな人だったら愛せる、と思うのは間違いです。 相手が今あなたにとって、どんな人に見えていても、それは問題ではないのです。 それもまた、学びだから。 けれど、あなたが今すぐ、自分のパートナーを愛する、と決意するなら、そこから全く新しい関係と、信頼が生まれるでしょう。 本気で愛するならば、どのような相手もあなたの理想の人に変身するのです。なぜなら、本物の信頼関係が、あなたとパートナーを本物の赤い糸で結び合わせるから。 これが、パートナーでなくても、家族同士でも、もちろん同じことです。 どんなに、問題があるように思えても、本気で信頼すること、その奥にあるその人の光を見ること、そのことによって、すべては大きく変わります。 次回は、もう少し具体的に話を進めていきましょう。***********************************************************************************たくさんの人に束の間でない、本当の幸せを感じてもらいたい、と思っています。どうぞ下の二つをクリックにご協力お願いいたします。
February 18, 2009
(株)ク―デールさんの大いなるご協力で、新しいHPが立ち上がりました!新しいHPはこちらです。(^-^)http://coupdailes.web.fc2.com/ こちらのHPは、単純にセミナーやオーラハーモニーのイベントのお知らせのためのものではありません。むしろ皆さんがこのHPのエネルギーに触れるだけで、振動数が上がっていくよう、さまざまに工夫を凝らしてあります。 HPの中の「HAPPY GIFT」には、皆さんの振動数が上がって行くように、様々なワークやオーラハーモニーの波動などを入れてあります。どうぞ、毎日このHPを使ってくださいね。 あなたが、一人でも振動数を上げて、変わっていくなら、あなたを含め、周りの人も次第に変わっていきます。 もちろん、だからと言って、あっという間に何もかも変るなんて期待しないでくださいね。 あんまり早く何もかも変わってしまえば、反動も大きいのですから。まずはあなた自身が、受け入れられる範囲で少しずつ変わっていきましょう。 振動数をあげること、それは幸せになる第一歩です。 *************************************いつもクリックしてくださってありがとうございます。(^-^)
February 13, 2009
今年の一月は、我ながらハイスピードで、ブログを書き続けて来たように思っていましたが、2月に入ってぱったりと書いてないね、と友人からの指摘に、「え、そうだっけ?」と今さらながら気付く私でした。(笑) 去年の年末から、とてもたくさんのことが自分の中で起こり、どこから書いていいのかわからないようなことだけらけでした。 変わらないのは、変化することだけ、と、ほとほと実感する今日この頃です。 10月にハーモニー・フェスティバルを開催して、その時にいらしていた方たちにいろいろな話をしていましたが、一番、皆さんが驚いていたのが、その人たち自身の中に、「幸せになっていい」という了解がないこと、「愛されていい」という了解がないことでしたね。 皆さん、どよめいていましたが、それでもそのほとんどの方たちが「幸せになっていいか」と体に聞くと、「ノー」と答えるのです。「愛されていいか」と聞いても、やはり「ノー」と答えるのです。 頭では当然、愛されていい、幸せになっていい、と思っているのに、実際に、その方たちの肉体に聞くと、ノーの答えを出すことに皆さん、本当に驚いていらっしゃいました。 当然ですね。 頭では幸せになりたいはずなのに、別のところでは、幸せになれるはずがない、なんて思っているとは、ほとんどの人が考えたこともないでしょう。けれど、およそ私がお会いしたほとんどの方たちは、「幸せになっていい」「愛されていい」という基本的な部分は、驚くほどOKが出ていませんでした。 頭では、皆さん「幸せになりたい」「愛されたい」と思っているのです。けれど、無意識の部分、自分の過去から持ち越した、認識の部分では、なぜか「自分は幸せになれない」と感じているのです。 そして驚いたことに、ほとんどの人が「自分は幸せになれるはずがない」と無意識に思っていたりするのです。 試しに床に体育座りをするか、椅子に浅く腰かけて、両腕を胸に当てて、「私は幸せになっていい」と口に出して、人に両肩をある程度力を入れて、押してもらってください。 あなたが本当に幸せになっていい、と心からそう思っているのなら、しっかり押されても、あなたの体には腹筋が入っていて、動かないでしょう。逆に、幸せになってもいい、と言いながら、別の部分ではそれは無理、と思っているのなら、お腹の力は抜けて、あっという間に倒れるでしょう。(後ろに、クッションなどをおいて、けがをしないようにしてくださいね。) それは、あなたの肉体があなたの意識を反映して、反応しているのです。肉体にも、オーラにも、同じように反応は現れます。オーラも肉体も感情もすべて、つながっているあなたの一部ですから、何か一つが変化すれば、それぞれのすべてが反応を始めます。 もし、あなたが「幸せになっていい」という言葉に反応して体が倒れたなら、まずは「幸せになる」と決意することからはじめてください。そして、すべてのことは「自分にとって、良いことしか起こらない」と決めてください。 良いことしか起こらないのだから、何か問題が起きたなら、それはあなたにとって、チャンスがやってきているのです。どのようなチャンスなのか、それを考えることに頭を使ってください。そこで頭を凍らせてしまわないでください。どんなチャンスがあなたに訪れているのかを、考えるのです。 昔から、「良薬口に苦し」と言います。問題は、あなたにとって学ぶチャンス。幸せになりたい、と漠然と思うだけでは、幸せにはなれません。 あなた自身が「幸せになる」と宣言し、自分に起こるすべてをいかにしたら、自分のプラスに変えられるか、そのことに頭を使ってください。どう考えれば、それは自分にとって素晴らしく好転したことになっていくのか、そのことを考えるのです。 これは頭のエクササイズです。脳をこんな時こそ使ってください。 不満を漏らしているだけでは、あなたは自分を不幸にしていくだけです。たいてい、大物になった人たちは、当たり前のことを、どうやったら面白くできるかを考えて来た人たちです。 別に大物にならなくていいのです。現代の脳科学でも、わかっていることがあります。人は、物質的に豊かだったり、金銭的にどれほど豊かでも、決してそれが幸せの指標にはならない、ということ。もし、物質的な豊かさが幸せのバロメーターなら、私たちは、少なくとも、食べるものも水もないところに住む人々よりも遥かに幸せなはずです。 けれど、物理的欲求には果てしがなく、その欲求を満たしても、束の間の幸せしか得られないことは、ほとんどの人たちが知っているのではないですか?これを読んで、そんなことはない、まだ私は自分が欲しいものを手に入れていないから、あれを手に入れれば幸せになれるはずだ、と信じているのなら、本当にあなたがこれまで欲しいものを手に入れて来なかったのかを考えてみてください。 忘れているとしても、実はそんなことはないはずなのです。そして、物質的幸せは、本当に束の間にしか、喜びを与えてくれないことを実は、皆さん自身がよく知っているはずなのです。 人間の脳には、良いことはすぐ忘れ、自分にとって良くないことだけをインプットしてしまう機能があるそうです。私はこれを知って、自分でも納得するところがありました。 たくさんの楽しいことがあっても、たった一回の辛い出来事ですべてが帳消しになってしまう、という体験です。たった一回のそれも大したことではないにも関わらず、その出来事は、私の脳裏に、しっかりと焼き付き、他のことを忘れ去らせてしまう、この現象に何度苦しんだことでしょう。たくさんの褒め言葉の後に、たった一言の気に入れない一言ですべてが帳消しになってしまった経験をしたことがないでしょうか? けれどそれを意識的に知り、それを自分の意志でコントロールすることによって、楽しいことを記憶にとどめ、苦しいことを手放すこともできるようになるのです。 でもまずは、最初に自分がどうあろうとするのかをはっきりと決めましょう。人の心の中には、いつも相反する思いが一緒にあったりするものです。幸せになりたいという思いと同じだけ、幸せになれないという思いが強く入っていれば、どちらの願いが叶うでしょうか?それを覆すのは、あなたの意志です。 あなたがどうしたいのか、いつも誰かの判断ではなく、あなた自身があなたに聞いてください。あなたの心の中に、あなたがどうありたいかを、聞いてください。 そして、決意するのです。物事は決意することからしか、動きません。人はたいてい、準備が全部済まないと決意しようとしません。それは物事を現実化するうえでは、順序が逆なのです。 まずは「決意」すること、それからすべては変わっていくのです。あなたの決意の度合いで、その結果は変わります。適当な決意なら適当な結果を、本気の決意なら本気の結果を、あなたは受け取るのです。 本気で決意しましょう。「私は幸せになる」と。*********************************************たくさんの人に束の間でない、本当の幸せを感じてもらいたい、と思っています。共に幸せを広げるお手伝いをしてくださる方は、どうぞ下の二つをクリックしてください。
February 10, 2009
これはちょっと以前に書いたものですが、今日はこれを出そうと思います。 ********************************今日のタイトルは、「問題解決の方法」です。 どんな問題なら、解決できるのか? ということではありません。 皆さん、「問題」って、その実態は何だと思っていますか?当然、さまざまな理由があるに違いない、とたいていの人は考えるでしょう。しかし、その根本にあるものは、ただ一つ。 「問題を問題だと思うあなたの心」にあるのです。 こんなことを書くと、さも、精神論のように聞こえます。そして、そんなことをいったって、実際には何にも解決しないじゃないか、と皆さんは思うかもしれません。 しかし、私の目から見て、たいていの問題は、問題ともいえないような事がほとんどです。そもそも、自分のことでもないのに、自分のことのように悩んで、問題視している人や、人から見れば、何でもないけれど、自分にとっては大問題だと考える・・とか。 しかし、実のところ問題なのは、問題だと感じている内容そのものよりも、私たちの心の中にこそ、その問題が潜んでいるのです。 皆さんにもこのような経験があるのではないでしょうか?たとえば、小さな子供が飴をひとつ落として泣いているとします。子供にとっては、大問題なのですが、少し大きくなれば、そんなことは問題ですらないでしょう。「あ、落としちゃった」というだけのことです。 小学生のころ、ひどい点数を取ってくれば、親に怒られるのではないか、とびくびくしたりしますが、大人になれば、どうってことはありません。問題にさえならないのです。 誰かの深刻そうな話につられて、自分も深刻な気分になったとしても、それはあなたの問題ではありません。 一つ思い出していただきたいのは、「問題」とは、「自分で創りだすもの」であるという事実です。 あなたがそれについて、問題だと思っていない限り、どのような「物事」が起きたとしても、問題ではないのです。 たとえば、お金のない人は、お金があれば問題は何もなくなる、と思うでしょう。けれど、何かがないと問題がなくならない、と思っている間、その意識状態にある間、常にたくさんの問題は、付きまといます。お金に困っていたのが、お金ができると今度は、お金によって財産分与の問題とか、お金にまつわる問題がやってきます。 子供の問題にせよ、配偶者や介護の問題にせよ、問題、と感じている間、実はそれをうまく解決することはできないのです。なぜなら、その意識状態にいる時、人は「どうしていいかわからない」想いの中にとらわれているから。 物の見方が変わって、何だそんなに大変ではないのかも、と思えたり、意識状態が変わって重大意識が消えたとき、初めて人はそれに対する有効な解決策を思いつきます。 そして、これは考えて結果が出せる類のものではない、と言いたいのです。 意識レベルを上げること、認識のレベルを上げること、これこそが本当の問題解決法なのです。 これは、物の見方を変えることであり、意識レベルが変わることによって、それは自動的に変化していきます。 これはもう、頭で考えて理解できるレベルのものではないけれど、意識レベルが上がることによって、唐突に変化するのです。 さて、意識レベルをあげるには、どうすればいいか、ですが、まずは、過去私が書いていた、ブログに振動数をあげるワークというものを紹介しています。こちらを試してみてください。 これがきちんとできるようであれば、自動的に意識レベルは、少しずつ上がっていきます。 ただし、これを試すときには、注意が必要です。初めての方、エネルギーを扱うのに慣れていない方は、決して一日何度も、このワークを行わないでください。また、「練習」と称して、いろいろやってみるのもお勧めできません。エネルギーに「練習」はありません。すべてが実践だと思っていてください。 必ず、注意事項を守った上で、実行してください。 エネルギーを変えることで、意識レベルのみならず、肉体も楽になり、ものの見方や認識が変化していきます。それを一度このワークで体験してみてください。 http://d.hatena.ne.jp/yoko16/20061201 意識すること、自らの力で自らを変えること、それが問題の一番の解決策なのです。 *******************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 29, 2009
覚醒することは、難しい、と人は思っているようだ。 覚醒した人間は一握りで、そもそもそれは特別な存在なのだ、という、いわれのない思い込みが巷に存在する。 特別な人間に与えられた称号のようにささやかれるそれを、手に入れたい勲章のように思っている人たちに出会う。 それを手にしたら、すごいことだと人は言う。 だから、それを特別視し、自分の手に届かない所へ棚上げしてしまう。 そうすると、どれほど頑張っても届かなくなる。がんばれば頑張るほどに、遠くの目標になってしまう。 なぜなら、それは難しく、普通の人間には、そう簡単に到達できない、と思うからだ。 その自らの作り上げた観念によって、それを遠い何か特別なものにしてしまう。 それは違う、とすべての人に言いたい。 覚醒とは、特別な人間に与えられた勲章ではない。 本当は私たちが生まれ落ちたときにすでに持ってきたもの、この世に生まれ落ち、目を開けた瞬間に知りえたすべてを単に私たちは、忘れてしまうのだ。 赤ん坊の目を見た時、その目に叡智を感じたことはないだろうか?そこに神様を見たことはないだろうか?そこに自分にはない、何か神々しいものを感じたことはないか? 自分では何もできない、赤ん坊の目の中には、確かにまだ本当の叡智が宿っている。幼い子供が驚くほど、鋭いことをみな、知っているはずだ。 人は生まれ落ちたとき、皆、覚醒している。 しかし、それは大人になるまでに、ものの見事に無視され、さげすまれ、そのような部分は排除される。 時折、排除されることを無意識に恐れる子供たちは、学校へ行けなくなる。 大人になっても、どこかでその叡智の部分を忘れられない人は、「うつ」になったり、病気になったりする。 けれど、それも皆、無意識な状態だから、自分がなぜそのような気持になったり、絶望したり、問題視されるのかがわからない。 問題なのは「うつ」だったり、学校に行けないことではない。私たちの社会が単にそれを容認していないことに問題があるのだ。 鬱になったり学校に行けない子供たちは、本当はとてもまともで、その中に叡智を宿している。 表面で起きたことだけに注目していたら、本当のことは何も見えない。 人間は、覚醒した自分を、この社会に「適応」させるために、眠らせていく。「適応」または「順応」して生きていくために、必要だったから。 けれど、現代社会は崩壊しつつある。人間が文明社会と思いこんでいるこの世界は、意識レベルから見れば、まだ非常に原始的な世界だ。 自分のパイを手にするために奪いあっている間は、原始レベルと何ら変わりない野蛮さだ。 自分を生かすために、人を殺すのが当たり前のような認識レベルは文明とはいえない。 文明社会とは、愛を根本とした社会のことを指す。 愛とは、皆が思っているような甘ったるいものを指しているのではない。けれどそれは、決して相手を無視したり、知らん顔するものではなく、単に互いの学びを侵さない、自分を尊重し、相手を尊重する世界。 それが文明社会への第一歩だ。誰かより己が上に立つために、覚醒するのではない。誰かよりも己の能力を高めるため、それを誇示するために、覚醒するのでもない。 そこには、比較対象になるものなど存在しない。ただ、己自身の本当の学びを学び、喜びを感じ、幸せとは、ただここにあり、それを感じる事だけに存在することを知ること…。 覚醒とは、それほど大したことではない。本当は、誰もが知っていることなのだから。 もう一度、覚醒した自分を取り戻したいなら、自分の目をふさぐ、心の澱を取り除き、自分の感情の流れや、感性を感じてみることから始める。 「感情」はおろそかにされやすい。けれど、感情とは、実は自分の中の神の力だ。その神が私たちの肉体の中で、何かを知らせようとしている。 感情を感じる、とは、感情に流されることとは違う。 感情に流され、好きなことを言い放ったりすることではない、ただ静かに感情を感じ、自らの中で何が起きているのかに注目すること、そこから新しいものの見方を発見するのだ。 いつも、自分の中に何があるのか、その奥に何が隠れているのか、知る必要がある。 それができるようになって初めて、再び覚醒への道は始まる。 *******************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 28, 2009
いのちは、輝くためにある。 いのちは、喜びのためにある。 いのちは、自分を表現するためにある。 いのちは、自分を生かすためにある。 いのちは・・・、あなたのためにある。 *******************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 27, 2009
じゃあ、どうすればいいの?この言葉をこれまで、何度となく聞いた。 じゃあ、どうすればいいの? と聞くときは、実はチャンスの時だ。 本当の自分を知るチャンスがまさにそこにある。 本当の質問は、「じゃあどうすればいいの?」ではなく、「じゃあ、私はどうしたいのか」だ。 この言葉は、実は自分に投げかけている。この言葉の裏をしっかりと読んで欲しい。 あなたが誰かに、何かを問い詰められて、「じゃあ、どうしたらいいの?」と聞いた時、あなたにはチャンスが訪れている。 ここからがやっと、あなたがあなた自身に聞くべき時だ。人は、この大切な時間に誰かの助言を待ってしまう。自分の考えを放棄してしまう。 だから、解決しない。 なぜなら、本当は誰かにその問題を解決して欲しいわけではないからだ。 自分の意志で解決できないと、意味がないと、自分の奥では知っているから、このセリフを言うとき、その人は他人の意見など聞いてもいない。 聞く必要もない。 この時、たいていの人の頭は真っ白になっているが、そもそも、このとき人は何も考えようとしないのだ。それでも、そこから自分が何を考え、何を望み、何をしたいのかに、着目しなくてはならない。 そこからが初めて、「考えるとき」なのだ。本当の意味で自分を振り返り、自分が何に引っかかっているのかをしっかりと見なければならない。 自分の本質が、大切な何かを知らせてくれる。あなたにとって、何かが起きたその表面の出来事が問題なのではない。その問題になっている事柄の、その奥に何があるのかを知ることが何よりも大切なのだ。 そうでなくては、その問題をやり過ごしたとしても、またいつか、同じような問題にぶち当たるだろう。 問題は、なぜ起きるのか、考えたことがあるだろうか? それらの問題は全て、自分が今生で学ぼうと決めてきた学びなのだ。 だから、その学びを学び終えるまで、私たちがどんなに悲鳴を上げようと、私たちにわかるまで、その問題は次から次へと姿を変え、人を変えてやってくる。 あなたがたとえ、どんな問題にぶつかっていたとしても、あなた自身が解決できない問題は、絶対にやってこない。あなたが解決できるからこそ、あなたのもとにその問題は、「魂の課題」として、やってくるのだ。 頭が真っ白になったからと言って、そこで考えることを放棄してはいけない。 そこからがやっと本番なのだ。そこから、自分がなぜ、そのような思いに囚われているのかをしっかりと感じる必要がある。 その時、どのような感情を抱いたのか、なぜその感情なのか、何故、そのように考えたり、感じたりするのかについて、逃げず、焦らず、しっかりと見つめるのだ。 本当の自分を見るのは、実際、辛い。決して楽な作業ではない。 見たくない、という思いが必ず出てくるだろう。けれど、そこにこそ、あなたの本当の学びが隠されている。それをしっかりと学べば、その学びは、あなたの弱点ではなく、あなたの宝ものとして、輝きを放つだろう。 そして、それは何よりも大切な心の安定と喜びをもたらしてくれる。不安は取り去られ、恐れからではなく、愛から行動できるようになってくる。 愛から行動するには、自分の中に忘れ去られた感情を取り戻す必要があるのだ。自分が忘れ、なかったふりをしている古い感情にスポットライトを当て、二度と見たくなかったその思いをもう一度開いて、その感情を感じ尽くすのだ。 どのような問題も実は、あなた自身が隠してきた、そしてなかった事にしてきた感情にかかわりがある。なぜなら、感情がなければ、それを問題だとは感じないのだから。 自分の中から忘れ去られた感情を紐解くには、少し根気と技術がいる。 「自分の問題の本質は何だろう」と、自分に問いただしてみて欲しい。 何も思い浮かばないなら、その問題を考えた時に、どんな感情になるのか、じっくり感じてみるのだ。 どんな感情があなたを支配しているのか、そして、その感情を最初に感じたのは、いつだったのかをしっかりと思いだしてみよう。 たいていの問題には、最初の瞬間、というものがあるものだ。それが知り、その時の感情をよみがえらせる。 そして、その時のどのような感情も、味わい尽くしてしまうのだ。感情は味わい尽くしてしまえば、自動的に昇華される。自動的に手放すことができるのだ。 そうすれば、その時、自分が感じていた問題も一緒に消えていることに気づくだろう。 どうって事はなかった、と後で不思議に思うようになる。 さあ、自分の問題の根本に何があるのか、自分に問いただしてみよう。 *******************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 24, 2009
人は皆、間違った道を歩きたくない、と思っている。まっすぐに近道だけを選んで歩きたがる。 けれど、知っているだろうか。 神の目から見れば、どの選択も間違っている。 同時に、どれも正しいということが。 どの道が近道なのではない。私たちがどの道を選ぼうと、近道など存在しない。遠回りに見える道が本当は最も近道になることがあるのは周知の事実だ。 結果が人生のすべてではない。 けれど、結果が全てと教わって育ったから、皆、その結果だけに執着する。 結果こそがその人を決める物差しになってしまう。 けれど、思い出して欲しい。 人は、「神がこの世界に自らを体験しにきた存在」だということを。物事の過程、体験こそ、何よりも重要なのだ。 体験こそ、神の望むもの。 自分の真実に気づくために、私たちはここにいる。 正解はない。 そして、間違いもない。 どれも体験だから。 どのような形の体験も貴重なものだから。 けれど、人間として、そんな言葉がつらいのはわかっている。 だから、もし、あなたが自分の本当の道への近道を探したいなら、あなた自身を見なさい。 あなたの奥を探しなさい。同じ道を探るのなら、あなたの奥を見せてくれる人と付き合いなさい。そのような人に師事しなさい。 あなたがあなた自身をきちんとみることが、本当のあなたの近道だ。 もっとも、神への道に近づくことだ。 神への道は、遠くにあるのではない。誰か特別な人だけが知っているものではない。 あなた自身も知っている。あなたの奥にある存在は、それらのすべてを知っている。 そして、あなた自身に見出され、使いこなされるのを待っている。あなたがあなたに目を向け、あなた自身を生きようと目をあけることを。 *******************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 24, 2009
自分の力を信じる。 言うは易し、行うは難し。 と昔の人も言った。 でも、自分を信じることは、自分を知ることに他ならない。自分を信じられないのは、自分を知らないからだ。今の私はそう感じる。 本当の自分を知っていれば、自分の能力が、見かけどおりでないことを知るだろう。 頭が悪い、運動神経が鈍い、気が利かない、掃除ができない、能力がない。 これらは、実はできないのではなく「やらない」という部類だと皆知っているだろうか? 単にやらない、と言っているのと同じだ。 意識すること。 考えること。 こんな時こそ、頭を使う。 たいていの人が頭を使うのは、人に意地悪するときか、自分にとって最悪な結果になる事にしか使っていない。 意味がない。 頭を使うのは、本当は、自分が「なにもしていない」ことに気づいて、行動すると決めて、使うのだ。 それ以外に頭を使っても、何の役にも立たない。本当の意味で、頭を使っている人は、驚くほど素直だ。 知っている限り、本当に物事を行動に移す人は、頭がいい。それで、人は、たいてい「あの人だからできる」なんてことを言う。 甘い。 あなた自身に力がないと思っているのなら、それ自体が何も考えていない証拠だ。 何もないところから、いきなり結果が降ってくるのが、望みがかなうことだと思っている。何でもコンビニで買い物をするように、すぐに手に入ると思っている。 だから何もしない。 「何もできない」なんて、言葉で口を濁す。 そうして、その言葉を口にする人がやっていることは、客観的に見れば、ソファに横になって、ポテトチップスをかじって、テレビを見ている・・、そんな図だ。 こんな暴言には、反論したい人がたくさんいるだろう。けれど、自分がもし、自分に価値がない、と思っているとしたら、本当に自分がのぞむ生き方をしようとしているのかどうかに、目を向けてほしい。 いつか誰かがどうにしかしてくれる、と信じているなら、それは大きな勘違いだ。 「自分にしか自分を変えることはできない」という大原則を思い出してほしい。 あなたが自分を価値ある人間にしようとしなければ、永久に価値ある人間と自分が思えるはずがあろうか。 できない、と言っている間、人は努力しない。 できる人は特別な人間だと単純に信じ、出来ない自分は、その程度だと諦める。 諦めた時点で、何もしない。何も考えない。 それで、結果が得られると思っているなんて、馬鹿げている。 楽して得ようと思ったら、結果はボロボロ。あたり前過ぎる事実ではないか? 自分は何もしないのに、シンデレラのように、王子様が勝手に自分を見染めて、迎えに来る夢なんて、愚の骨頂だ。 何もしないで、嘆いている場合じゃない。 自ら磨きをかけるのは、いまこの瞬間だって遅くはない。どんなに才能がないと言われた人だって、努力し続けて、誰よりも何かがうまくなることなんて、あるのだ。 努力しても実らない、だから意味がない、と思っているなら、それこそ、勘違いというものだ。 成功した人は、いつも結果が出るまでやった人、だ。ただ、それだけ。 「諦める」ということがどれほど、自分にとってマイナスか人は知らなさすぎると思う。 自分にはできない、なんてたった一言で、自分を放りだす。その言葉がどんなに自分に対して、ひどいことを言っているのかに、気づいていないのだ。 そのセリフで、自分を捨てているのと同じだ。あなたが捨てたのに、他の誰かが拾ってくれるなんてあるはずがない。何しろ、あなたの世界にはあなたしかいないのだ。 あなたが自分に希望を持ち、夢を持ち、愛を与えなければ、誰も手を出してはくれない。 なぜか。 それはあなた自身があなたに課した学びだから。 私たちは、自分の世界の主人だと知っている必要がある。 たとえ、あなたにどのような権力をふるう人がいようと、あなたの王国に侵入して、あなたの世界を変えることなどできはしない。 それができるのはあなただけだ。 あなたは、決して誰にも侵害されることはできない存在だから。物理的な部分がどんなに侵害されたと感じても、中にいるあなた自身には、何一つ傷をつけることはできない。 逆にどんな親切もあなたが受け取らなければ、あなたのものにはならない。この意味がわかるだろうか? これこそ、自分にしか自分を変えることができない最大の原理なのだ。「自分がそう思った」事があなたの中で不文律として動いている。「自分がそのように見た」ことがあなたが見たものだ。 ニュース一つをとっても、悲惨なニュースとして取り上げるのか、大したことはなかったように、たださっと流すだけなのか、どの部分をクローズアップするかによって、大きな違いがあることを知っているだろうか。 切って張った情報だけが真実だと大部分の人は誤解する。けれど、情報はいくらでも操作できる。「お金」の力によって、いくらでも変えるこができる。それに左右されるのではない、自分自身の意見を持つこと、冷静に自分を知ること、そのことに目を向けて。 ほとんどの人が、自分の力を使っていない。力があることすら知らない。平凡な自分には何もできないと思っている。 それは大きな誤解だ。誰かより誰かが特別なのではない。 自分が自分を知り、行動することで、特別に見えるようになるのだ。 「あなた」が「あなた」を創る。 「あなた」が「あなた自身の王」だ。 あなたが何ができるのか、何ができないのか、それを決めてきたのは、あなた自身だ。 幼いころ、あなたに張られたレッテルを捨ててしまいなさい。あなた自身が持つ、自分はこんな人という観念やレッテルも捨ててしまえばいい。 レッテルは自分を振り回す。 それによって、あなたの行動は制限され、おそれによって、いよいよ身動きが取れなくなる。 あなたが本当にやりたいことだけをやると決意したなら、あなたにとって「できないこと」は、「やっていなかったこと」に変わるだろう。 掃除ができない人などいない。掃除をしない人がいるだけだ。 計算できない人などいない。計算しない人がいるだけだ。 学べばどんなことも可能になる。学ぶ気がないなら、永久にダメな自分を見せつけられる。 それだけだ。 自分を見る。 冷静にみる。 そして、行動する。 ものの見方を変えること、痛みを学びに変えること、行動すること、そうして初めて、夢を現実にできる。 結果は行動からしか生まれない。 皆、当たり前に知っている。 だったら、行動しなさい。 寝ていたら、永久に夢に手は届かない。 一歩踏み出すことが、あなたを変える。************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 23, 2009
ようやく、本当の仕事に着手し始めた。 そのことが、自分でも驚くほどうれしい。 そして、楽しい。 仕事をしていないとイライラするなんてことがあるとは思わなかった。仕事をしていないと落ち着かない。 仕事がしたくてしたくてたまらない。 こんな気持ちになるなんて思いもよらなかった。「自分にとっての本当の仕事」は、心の底から、歓びをもたらしてくれる。 この真実になぜもっとも早く気付かなかったのか。 実際、もう何年も、私は、自分の本当の仕事をしていると思っていた。けれど、それは100%の真実ではなかった。 私の中で何がそれほど、問題だったのか、最後の一線を譲れなかったのか。 それを発見したとき、本当の流れが生まれた。いや、流れははじめからそこにあった。 ただ、私が気付かないふりをしていただけ。知らない、見ないふりをしていただけ。 自分でも驚いた。人間的には、これほど頑張っていたと思っていたことが、本当は全くできていなかったこと。 必要なことはやってはきたけれど、もっと大きな流れを無視していたこと。 自分の流れを本流に戻していこう。 やっと、本気で動き出した。初めて、そう感じる。 本物の自分。これが本当だと思っていた自分は、確かに私のうちにあり、いつも私を鼓舞していた。 知っていた。ただ、知らないふりをしていただけ。見ないふりをしていただけ。 その勇気がなかっただけ。 自分自身を認めるのが怖かった。何を恐れていたのだろう、と今は思う。 自分を認め、新しい方向へ進んでみたら、これほど、きっぱりとしてシンプルな、こんな状態の何を恐れていたのだろう。 私も皆と同じ。知らないこと、見えないものを恐れる。 けれど、勇気があれば、そこを超えられる。超えたとき、見えてくるものは、純粋に喜びであり、光だ。 新しい世界の始まりは、私が創る。あなたが創る。 自分が気づき、望んだ時初めて、本当の人生が開ける。まっすぐ、ただ進んでいこう。************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 22, 2009
本当の愛は、比べるものがない。 本当の愛は、歓びしかない。 本当の愛は、幸せになることしか望んでいない。 本当の愛は、誰にも貶めることができない。 本当の愛は、誰にも奪えない。 本当の愛は、誰にももらえない。 本当の愛は、いつもあなた自身の中にある。 ************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 21, 2009
「生きる」ことは、食べるためではありません。私たちが、この肉体を生かすためだけに生きるのなら、わざわざ、このような大変な世界にやってくる意味はないのです。 皆さんは、自分で「選んで」この世界にやってきた勇気ある人々だと言うことを思い出してください。あなた方は、皆、この大変だとわかっている世界で、たくさんの学びを学びとるために、ここにやってきたのだということを思い出して欲しいのです。 魂があることは、どんな権威ある人が否定したとしても、否定しきれるものではありません。さも、魂がないように当然のように発言している内容も、冷静に聞けば、理論は壊れています。 それも当然です。何しろ、魂は存在するのだから。見えないものを簡単に否定しますが、ないと思っているものの証明をどうやってするつもりなのでしょう。ないと否定する前に冷静になって考える必要もあるのです。 さて、皆さんは悩んだときに、よく「どうしたらいいの?」という言葉を使うでしょう? その時、皆さんが何を考えているか、わかりますか?教えて差し上げましょう。 その時、皆さんは「何も考えていません。」 「どうしたらいいか」と人に問うとき、あなたの頭の中は空っぽのはずです。「そもそも、考えても思い浮かばないから、困っている」といえば、理屈が通っているようですが、実のところ、ほとんどの人がそれまでだって、考えてなどいないのです。同じ悩みが堂々巡りしているにすぎません。 これが人が悩む時によく起こる思考停止状態です。 思考停止しているのに、人は悩み続けます。いや、同じ所をぐるぐると、ハムスターの回し車のように、回っているだけです。当然何の進展もありません。 まず、「考え」が何かを知らなければ、何一つ知ることはできないのです。私たちは、自分の考えを構築する暇を与えられない生活をしてきました。つまり、ほとんどのものの考えは、人の言った言葉、誰かから受け継いだ考えにすぎず、あなた自身の考えは、そこにほとんどないと言っても過言ではありません。 こう言うと反論が返ってくるかもしれませんが、そう思ったら、あなたが何かを考えたとき、その考えがこれまで全く聞いたことのないあなた自身の新しい考えかどうか、検証してみてください。たいてい、どこかで聞いたことがあるものになっているはずです。 こうして考えると、人は恐ろしいほど、自分の「考え」では行動していないのです。発言も行動も、過去自分の中に入れられた誰かの意見、誰かの考え、誰かの思い込み、で私たちは形作られています。 そこに私たち自身の感情や考えの入るすきのないほど、たくさんの過去の誰かの考えが詰まっているのです。 人とたくさん出会う中で、私が一番感じたのは、ほとんどの人が自分の本当の感情を知らない、という恐ろしい事実です。自分の感情を押し殺して生きているうちに、そのうち自分の感情がどんなものなのかさえ、わからなくなっているのです。 皆さん、考えてもみてください。自分自身の感情すら、知らないまま、一生を終えるなら、いったい、何のために生まれてきたのでしょう?何のために生きるのでしょう? 生きることの喜びはどこにあるのでしょう?本物の喜びを知ることもないまま、肉体だけの快楽を求めても、本物の喜びは決して得ることはできません。 それは、お祭り騒ぎにすぎないので、その時が終わると、また飢えを感じ、次々にそうした表面的な楽しみを見出そうと、様々な欲求に従うでしょう。けれど、そういうことをどれほど繰り返しても、魂の飢えは治まりません。なぜなら、私たちは、単に肉体の満足のために存在するのではないから。あなたも私も魂の望む真実を知るために、ここにやってきているのだから、当然それでは決して本当の満足を得られるはずがないのです。 あなたが魂からの本当の満足を得ることが、あなたがこの世界に生まれてきた意味にほかなりません。 まず、あなた自身の感情を感じてください。どのような感情を感じたか、自分に問うてください。それがどのような感情だったか、それに気付いてください。あの人が「ああ言った」とか「こういうことをした」という表面的なことではなく、あなた自身がそれに対し、何を感じ、そして「本当は」何を感じたのかに気づいてください。 怒りを感じる時、本当は人はさびしさを感じています。理解してもらいたいくて、腹が立つのです。自分の本当の感情を、しっかりと知ってください。誰かを心配する時、その人がこうだから心配なの、と思うだけでなく、なぜ心配なのか、あなた自身が安心したいために、心配し続けていることだってよくあることなのです。その本当の感情や考えに気づいてください。もっと掘り下げて自分の感情を知ってください。 そして、本当の感情の中身を相手に優しく知らせてください。それはあなたの人生にとって、大きな変化をもたらすでしょう。それは、あなたが本当の意味であなた自身を「生きる」第一歩なのです。 **********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 19, 2009
今日のテーマは「生きる」ということについて。「生きる」ということを皆さんはどうとらえていますか? 「生きる」というと、物理的に肉体を生かしていることを指すように思うことが多いようですが、ここでいう「生きる」とは、ご飯を食べ、肉体を保たせるための「生命」のことではありません。もちろん、厳密にいえば、生命とは、永遠に続くものですから、肉体のみの生命とは、私たちが考える一瞬の状態にすぎないのですが、それはまた別のテーマの時に語るとして。 「生きる」とは、ただ私たちが肉体を生かすために、仕事をするとか、勉強するとか、そう言った類のことではありません。 現在、日本で最も、問題になっているのは、何だと思いますか?未曾有の不況でしょうか?仕事がなくなって、大変になっていること?多くの人が、様々な困難に巻き込まれていることでしょうか? 私は、そうは思いません。不況も、いまの困難も、目を開けていれば、誰にでも気付くような事だったではないでしょうか?前を見据えているならば、今のこの現状が見えなかったはずはないのです。 もしあなたが、この不況のあおりを受けて困っていたとしたら、これまでのあなたの生き方を見直すチャンスがきているのです。 目の前しか見えていない生き方。目の前においしい魚があったら、全部獲り切ってしまうやり方。後先考えず、すべてを使いきってしまうやり方。 少なくとも、この日本で全く学歴のない人はほとんどいないはずです。むしろ、どの国よりも、高い教育を受けてきたはずの私たちは、しかし、どの国の人よりもロボットのように、自分の意思ではないところで、動く癖をもっています。 それはこれまでの日本の教育の在り方に、問題があったのかも知れませんが、日本人は、何かが流行ると、そちらへ皆流れてしまい、逆に廃れると、誰も見向きもしないということは、多く人の知るところでしょう。 その行動の根源にあるものは、私たちは、他者の認定をより多く求めている、という一点にあります。 他者が認めることによって、自分もその流れの中にあれば安心、といった思いが、皆さんの中にあることにまず、気づいて頂きたいと思います。 誰かが「あれがカッコイイ」と言ったとして、その仲間がたくさんいれば、それだけで流行りは、つくりだすことができてしまいます。と、言うことは、その逆もまたしかり、なのです。 今の私たちにはそもそも自分の価値観を持つゆとりも時間もありません。子供の頃から追い立てられ、勉強し続け、そのまま大人になった私たちには、独自のものの考え方を構築する暇がなかったのです。 それを教える大人たちにも、自分のものの考え方は、ほとんど存在していないのが現状です。以前はよく「近頃の若い者は・・」と顔をしかめる年配者の方がたくさんいましたが、最近では、年配の人たちの方が、問題を起こしていることもよくあります。 近頃、警察には、さまざまな電話がかかるそうです。「自分は旅行に出るから、代わりに犬の散歩をしてくれ。」とか、「薬が切れたから薬を買って来てくれ。」果ては「トイレットほペーパーがなくなったから買ってきてほしい」というものまで。救急車をタクシー代わりに使う人がいることにも驚きましたが、これはもう価値観の崩壊というより、人をロボットして考えているとしか思えないような行動です。 人を思いやる世界からは、こんなセリフは決して出てこないでしょう。自分を大切にしている人からは、そもそも、こんな考えは出てこないでしょう。それはなぜだと思いますか? 人間とは、どのように考えたいたとしても、自分と他者を実は同等に扱うものだからです。この意味がおわかりいただけるでしょうか? あなたが自分に対し、本当に尊敬の念と、大切に思う気持ちがあったら、人に対して、敬意を払うでしょう。人をないがしろにする行動は、決して起こさないでしょう。自分という存在の大切さに気付くなら、人の大切さを知るからです。 私たちの根本には、皆さんが気づいているといないとにかかわらず、同じもの、という根本的な意識が自動的に働きます。これは、私たちがどのように考えようと、関係なく、もともと私たちの根本に存在するものなのです。 これを変えることはできません。なぜなら、私たちは、根が一つの巨大な木の幹であり、枝であり、葉であるからです。 根本が一つであるために、私たち自身の他人に対するものの見方が、自分に対するものの見方なのだと知っていてください。あなたが他者を召使いのように扱うなら、あなたもあなた自身をそのように扱っていいと、自分に言い聞かせているようなものです。人に対し、自分がどのような態度をとり、どのように思っているかをしっかりと認識してください。その思いがあなたがあなた自身に無意識に感じていることに他ならないのです。 続きはまた次回。**********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 17, 2009
今日のテーマは、「自分の才能を見出す」です。「宇宙のDance」のブログを書いてくれている友人も書いていましたが、皆さんの中には、目に見えない「不思議」と呼ばれる才能が隠れています。 私が人の中に、その人の奥に隠れているものを見つけ出すのも、その才能の一つです。人の心の奥に隠れている、本人も忘れ去っている思いや意識を私は、見ることができます。もちろん、いつもそんなことをしているわけではありませんが、(あくまでその方にとって必要な時だけです。)その人にとってそれが必要な時には、そのような言葉をかけることがあります。 それはしかし、実のところすべての人が持つ才能の一つにすぎません。でも、皆さんは誰でもそれができるわけではない、と思っているかもしれません。 それでも、誰もが実は使っている能力です。ただ、それと知らずに・・。 たとえば、人が怒っているとき、その本人が「怒ってないよ!」とどんなに否定しようと、私たちにはその人が怒っていることを自然に感じます。 相手が言葉では何も言わなくても、ピリピリしていたり、ウキウキしていたり、その感じで、何かがその人に起きたことを察知できるはずです。そう、誰でもできます。 私が行っているのは、それをもう少し、高度にした程度。これはある意味、訓練の賜物なのです。 私は、人類全員が覚醒することを望んでいますが、覚醒しても、すぐに高度な超能力者になるわけではありません。つまり、いきなり魔法のような力が使えるわけでないのです。 自分にはそんな力があるんだ、とわかるだけでは実際には使えません。それはなぜかといえば、覚醒したばかりの時には、まだ皆さんは生まれたての赤ん坊のようなものだからです。 多くの人が覚醒すれば、驚くような超能力を使えるようになったり、様々なメッセージを突然聞けるようになったり、自分の思うように物事が進むようになる、と信じている人が多いようですが、経験から言って、まずそんなことはまずありません。 覚醒したばかりの私たちは、そうした能力に関しては、赤ん坊にすぎません。人間の赤ちゃんは、歩く力を備えて生まれてきますが、そもそも歩く訓練をするから、歩けるようになるのです。 赤ちゃんは、寝返りをうち、はいはいをし、少しずつ筋力を鍛え、大人の真似をして、立とうとします。そして、少しずつ歩き始めます。 しかし、これはあくまでも人間の中にいる赤ん坊だから、歩きだせるのです。どう歩けばいいのか、どのようにすればいいのか、親は実際に歩くことで子供に教えています。そのことによって、赤ん坊は「歩く」ことを覚えるのです。 モデルがいて、自然に訓練する家庭によって、子供は歩くことを覚えます。 オオカミに育てられた子供は、自分を狼と信じ、決して2本足では歩こうとはしなかったといいます。 オオカミに育てられた子供・・・。ある意味、現代社会に生きる私たちは、オオカミに育てられた子供に似ています。私たちは、目に見えないことは存在しないと発言する大人たちに育てられ、心の存在ですら、いまやっと注目浴びているような状態です。単に長い年月の間に、忘れられたというだけのことが、完全になかったものとされる・・、そのようなことは歴史の中で多々、繰り返されてきました。 そして、権力者にとって都合の悪いことは、歴史の上では、常になかったことにされるものなのです。 今、子供たちの中には、生まれつきそうした能力にたけて生まれる子供がたくさんいます。親は、そうした子供たちにどう対処して良いかわからず、困ったりしていることでしょう。 その子供たちは、いままでの観念には、当てはまらず、たいてい違う認識、違うパターンで生きているので、過去の認識で生きる大人から見れば、異常行動に移ることもしばしばです。 それは、単に私たちが過去、教わって来なかった新しい認識によるものである、というだけで、決して子供たちに病気でも問題があるわけでもありません。 これまでの社会に適応できないと将来困るのではないかと、親は躍起になって無理やり学校へやろうとしたり、子供の意に染まないことをやろうとしますが、それは愚の骨頂というものです。 過去の私たちの学校へ通っていれば安心、他の子供たちと同じ行動をとれば心配がない、というのは、子供のことを考えた行動ではなく、実は、親自身が安心したいための行動にすぎません。 それが証拠にこれまで、学校に行きたくない、と言い出す子供を何人も見てきましたが、私の目から見て、彼らに問題があったことは一度もありません。ただ、いまの社会の制度、学校という形が彼らに合わなかったにすぎません。 彼らは、自分がその学校の中で、必要なことを学ぶことは、難しいと感じているだけなのです。本当の意味で、自分和知ることができれば、彼らは、親も教師も驚くほどの実力を発揮し始め、別の人格すら見せるようになるでしょう。それは、私たちがこれまで見ていた世界とは、別の新しい世界の認識をもって生まれた子供たちだからなのです。 学校へ行かない、他の子供たちと自分の子供がどこか違う、と思ったなら、パニックにならずに自分の子供をしっかりと見てください。あなたの子供が本当に何か問題があるのかどうか。 学校に行くとか行かないとか、そこが問題なのではないのです。社会的にどうとか、そういうことに捕らわれて、自分の子供の本当の価値を忘れてはいけないのです。 学校へは、雑多なタイプの子供がたくさんいます。子供だからと言って、皆が皆、エネルギーがきれいなわけではありません。子供ほどより残酷なことも、ままあるではないですか。 自分の目を曇らせず、親は、自分を見てください。自分の子供を見てください。そして、親でない方は自分自身をきちんと見据えてください。 皆さんの中には、人に知られていない、自分自身でさえ知らない、大きな能力と才能があるのです。 いいですか、自分の「良さ」を重箱の隅をつつくようにさがしてください。あなた自身が、何ができるのか、何が得意で何が好きなのか。どんな些細なことでも構いません。 あなたができることをすべて書き出してみてください。あなた自身があなたができることには価値をおいていなくても、あなた以外の人にはそれは大きな価値を持っているかも知れないのです。そんなことはよくあるものです。 オーラハーモニーに来る方たちも、よくそんなことを漏らしています。自分以外の人は皆「わかっている」と。面白いことに、参加するほとんどの方から、そのセリフを聞いた気がします。自分より他の人の方が、より様々なことを理解している、と。 「わからない」という言葉の中に、実は、髄所にわかっていることをそれぞれの方が話しているのです。自分以外の人には、それがわかるのです。 つまり、あなたは実はあなたが思っているほど、無能ではない、ということなのです。あなたにとって価値がなく、「大した」ことではなくとも、他の人にとっては、大したことかもしれません。あなた自身が過小評価している様々なこと。そして、惜しむらくはあなた自身が、自分の短所だと思いこんでいること、そこには、実はあなたの長所が隠れている可能性が大きいのです。 たとえば、さまざまな他人の短所を考えてみてください。そして、あなたが考えるその短所が長所になるように、考え直してみてください。 「物の見方」を変えるのです。 この次元では、物事は、常に表裏一体。表があるなら、必ず裏もあるのです。 となれば、あなたが自分の短所と思っているところも裏を返せば、長所であるかもしれません。まず他者で試してみてください。その人の短所がどのような「視点」で見れば、長所に変わるのかを。そこから自分に対する認識を変えていきましょう。 この大切なことをきちんと理解し、わかっていれば、あなたの人生は本当の意味で、開けていくことでしょう。**********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 13, 2009
幼い私にとって、現実世界は、生きるのが辛く、なじむことの難しいところでした。私の言葉は、誰にも通じることがなく、本当の意味での友人に出会えたのは、20歳を過ぎた頃でした。 子供の頃の私は、20歳までに、自分は、死ぬか気が狂うだろう、と思っていました。いつもこんなものばかり見ていたら、まともな大人になるのは、無理だろう、と子供心に思っていたのです。死ぬかさもなければ狂うのが関の山だ、と。 いつも空を見ては、「私の故郷はここじゃない。別の場所にあるのに。」と泣く事もしばしばでした。空を見ては、「懐かしい故郷に帰りたい!」といつも思っていました。そのころの私は、自分が地球人ではないなどとは、一度も思ったことがないにもかかわらず!です。 この数年の間にたくさんの自分の過去生を見て、私が過去どれほどたくさんの仕事をしてきたかを知りました。この地球にかかわってきたたくさんの存在の中の一人であったこと。そして、自分でも驚くほど、この地球を愛している存在だったこと。そして、この世界では「人間っぽくない」と言われることがあるのに、別の世界では、「君は人間くさくなった」と言われた事。 この数年で驚くほど、たくさんの人に出会い、たくさんの物事が進行していき、それでいて、何一つ進んではいないとも、感じるこの頃。 今年は、まったく新しい仕事をする時期にきているのだ、と感じています。数年前、オーラハーモニーで世界のエネルギーを変えるきっかけを作ったビジョンを見たときから、私の活動は、本格的に始まりました。 生まれたときから知っていた、ヒーリングの能力も、人の心を読む力も、勝手に身についていたのではなく、過去から私が何度も別の人生で身につけてきたことだと知りました。 様々なことを学び、そしてたくさんの人にそれを伝える仕事を長いこと、してきていたのでした。今、私がこの仕事をしているのは、ある意味、自然な流れだったのかもしれません。 ここに来て、これをすることが私の本当の望みだったと知った時、私の中で何かが壊れ、また構築されていきました。 以前の私は文字通り死に、新しい私に生まれ変わりました。新しい私は、もともと、この世界にその約束をしてきた、とはっきりと知っています。今更、それを信じることはできません。 私は、この世界を変える、と誓ってきた、と今ははっきりと声に出すことができます。もう、それを恐れはしません。そして、この世界には私と同じ意志を持って生まれてきた人がたくさんいるはずです。何かしたいけれど、何をしたらいいかわからない、自分の能力が何なのかわからないという人がたくさんいるはずです。 私は、子供の頃から、自分には、何か使命があるはずだ、と思っていました。何か大切な使命があったはずだ、と感じていました。けれど、あまりにも、何をして良いのかがわからなかったために、やってきていたメッセージに気づかず、時間を無駄にしてしまいました。 しかし、今ではそれも大切な時間だったのだ、と思います。私が人間として存分に生き、「愛」とは何かを知るために。 きっと、皆さんの中にもいるはずです。「私には、使命がある」と感じていた人が。 何をしていいか分からない、と思い続けている人が。この危急の時に、私たちが生まれたのは、幻想を生きるためではありません。私たちの、私たち自身の「愛」を実現するためにあるのです。 今、私たちが現実、と思わされているものこそ、幻想です。物理世界から見れば、私の言っていることこそ、幻想に聞こえるでしょう。それはよくわかっています。だから、恐れていました。けれど、もう恐れている時ではないのです。 私の中で、大きく何かが動きだし始めています。皆さんの中でも何かがうごめいているでしょう。 それはあなたに何かを知らせようとしているはずです。あなたが本当に望む魂の望みを。100もの、1000もの形をとって、そのメッセージは、あなたに届けられます。 これは、SFでも、お話でもありません。以前は、20数年前は、私自身、そう思っていました。楽しい物語だと。 自分が、地球を救う物語なんて、笑わせる、と。 でも、私たちは、一人ひとりすべてが、地球を救う、救世主なのです。あなたもあなたもあなたも・・・! 誰一人として、いらない人はいません。皆が目を覚まし、私たちの本来の世界に戻すことをここに誓ってやってきたのです。 私たちの本来の世界は、ここよりもっと高く優しく、輝いています。パワー(力)ではなく、愛が世界を席巻しています。 この世界にそれを運ぶのは、他の誰でもない、あなた自身です。あなた自身が、喜びのモデルになってください。愛のモデルになってください。楽しく嬉しく、自分の本当の人生を生きるために、目を覚まして。それが、最初のそして、本物の一歩です。 **********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 8, 2009
肉体の変化、恐れからの脱却。 今年のキーワードは、変化を受け入れるということかもしれません。 「一つであること」を読んで、頭痛がする方、どこかが痛み始めた方、なにかの調子が悪くなった方がいらしたら、それは間違いなく、時が来ている人に違いありません。これから、あなたがこれまで踏み入れたことのない世界に足を踏み入れる準備がととのった、という事かもしれません。 これまで、なかなか、本当のことだけを書くということが非常に難しく、さまざまに違う形を取って、多くのことを書いてきた私ですが、今年は、そういう気持ちをかなぐり捨てて、最初から、突っ走っていこう、と思っています。 これから、書いていくことは、皆さんにとって、私たち人類全体にとって、大きな大切なことです。 これを読んで、何のこっちゃ、と思われる方は、ここに書かれていることを気にする必要は何もありません。他の方のブログを気持ちよく読んで、ここで読んだことはすべて忘れてください。 私は、今年、皆さんに仕事をしてください、言わねばなりません。皆さんに、仕事が待っている、と誰に対しても、言う必要性が出てきたのです。 魂の仕事が。 このようなことを言うのは、主婦として生きている私には、とても勇気のいることでした。正直、自分の家族と幸せに暮らせるなら、特別なことは何も要らない、それが今の私の人間としての本音ではあります。 けれど、私の奥にいるもの、私の魂は、それこそ、そんなことを望んではいないのです。もちろん、私は家族が仲良くしている、これは、基本だと思っています。家の中が幸福に満ちていること、これが私にとって、活動の原点であり、平和への一番の道だと思っています。 どんなに平和を叫んでいても、自分の家族が不幸だったら、意味がない、と私は思っているからです。 私は、幼いころから、人の目に見えないものを見て育ちました。幼稚園のころ、他の人はそんなものを見ていないのだとわかった時のあの衝撃を今でも鮮明に思い出します。 私にとって、人の目に映らないものであろうと、そこにふつうに存在するもの、人がそれらをどんなに否定しようと、私の中では否定しようのないものたちに囲まれて育ちました。 それがどんなことであるのか、おそらくそうした経験のない方には、想像もつかないのだろうと思います。 私が見ているものを他の人が見ることがないと知った時、それを否定されるとき、私にとって、どうしようもない苦痛が走りました。 皆さんも想像してみてください。あなたの目の前に、コーヒーカップを置いてあるとします。けれど、そのコーヒーカップをあなた以外の誰も見ることはできません。あなたがいくらここにコーヒーカップがあると主張しても、誰もそれを見ることができないので、それは気のせいだとか、頭がおかしいとか言って、嘲笑うかもしれません。それとも、ある人は「そんなものを信じるなんて、頭がおかしくなったんじゃないか、病院に行った方がいいぞ」と勧めるかもしれません。 しかし、あなたはコーヒーカップをまざまざと見ています。「そんなものはない」といくら否定されたところで、あなたの目の前からコーヒーカップはなくなったりしません。 あなたはそこにコーヒーカップがあると「信じている」のではなく、ただ見ているだけにすぎません。そこにあるとただ「知っている」のです。 そのことを否定されたからと言って、知っていることを今更「信じること」も、「なかったこと」にすることもできないのです。何しろ、コーヒーカップは、厳然とあなたの目の前に存在しているのですから。 こんな時、あなたはどう反応するでしょうか? 私は、他の人の目に映らないものを、いまだに毎日見ています。それを私は信じたりしていません。私は、単に「知っている」だけなのです。そこにあると。 自分にとって、当たり前に知っていることをあなたは信じることができますか?歯ブラシが存在することをあなたは「信じる」ことができますか?そんなこと、バカバカしくはないでしょうか? 私にとって、皆さんの目に映らないもの、見たことがないから恐れるものの一部を私は、すでに幼いころから見て育ちました。誰も、それがどんなものかを教えてくれる人はありませんでした。幼いころ、何度もパニックに陥り、不安に思い、たくさんのものを恐れました。怖くて眠れず、助けて欲しくても誰もわからず、悲しい気持ちを持って生きていました。 この世界は、私にとっては、とても荒く「怖い」ところでした。何一つ、知ることのできない不安が私を押しつぶしていきそうでした。 誰も私の疑問に答えてくれることはできませんでした。だんだん、私は寡黙な少女になり、自分の知らないことを知るために、ありとあらゆる本を読みあさりました。 本当に知ることのできる限りの本を読み、自分の知らない世界を知るためには、どんな分野も関係なく、幅広く知ろうとしていました。 心理学の本も山ほど読みました。フロイトの本を持ち歩くような、小学生だった私は、他の子供たちとまったく話が合わず、一人だけいつも浮いた存在でした。 けれど、それでも私は知りたかったのです。自分が見ているこの別の世界の意味を。 **********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 5, 2009
今年一番目のブログは、「概念の書き換え」、です。皆さんの中には、不要な概念がたくさん存在しています。 お金は悪だとか、楽して生きてはいけないとか・・、働かなくては生きていけないとか・・、人の心の中には、さまざまな過去の概念が存在しています。 ここでいう概念とは、私たちの周りで当たり前に存在するものの見方、物の考え方のことを指しています。 それを観念といってもいいでしょう。観念とは、いわゆる子供の頃から、自分の中に蓄積されてきた過去のものの考え方です。 大人や、テレビ、新聞や本、過去からの言い伝え・・、さまざまなやり方で、私たちの中に蓄積されたものの見方です。 私たちの視点はすべて、そこから始まります。そもそも視点を変えるには、概念の書き換えが必要なのです。 なぜなら、新しい概念なしに、私たちは、自分に新しいものの考え方を導入することはできないからです。 たとえば、天使より神様が上なんていうことも概念にすぎません。それは人間が考えた空しい概念です。どちらが上なんてことが意味を持つのは、しょせんこの物理世界だからにすぎません。そんな小さなものの見方からは、本当のことは見えてはこないでしょう。 あなたより誰かがあなたの上や下に存在すると思うのは、しょせん単なる幻想にすぎないのです。 あなたの上にも下にも人は存在しません。いつも、あなたの地点であなたはいて、それが良いとか悪いとか、より上だとか下だとか、他の人と比べることに意味はないのです。 実際、人間に「格」というものは、ものの見方によれば、存在します。 けれど、それはたとえば、人間を一回しかやったことのない人と、1,000回も生まれ変わって苦労した人との間に違いがあるようなものです。それをあの人の方が上だから、なんて、嘆く必要がどこにあるでしょうか? そもそも、そんなことに引っかかる意味は全くないのです。 小学生と大学生では、学力に差があって当然。それはただ先に生まれたか、後に生まれたか、それだけの違いです。小学生もいずれ成長し、学べば大学生になるし、大学生だって、何も学ぼうとしなければ、いずれ中学生並みの能力に戻ったりするのです。 人は、いまの自分だけを見てあなた自身の声を聞け、といつも私は言っていますが、人間のあなたの心の声ではありません。あなたの奥に存在する神の声を聞いてほしいと言っているのです。 頭で理解できることは、ごく僅かにすぎず、私たちの奥には、驚くほど多くの知識と豊かさが隠されているのです。 私たちが本当にそれを理解するようになれば、誰かが誰かより上だ下だということに何の意味も持たないことがわかるでしょう。 それはまさに100点をとれば素晴らしくて、0点を取ったあいつはバカだ、と言っているのとまったく同じです。私たちは一本の木なのに、一つの葉っぱが別の葉っぱを馬鹿にするようなものなのです。そんなことは意味がないのです。 これこそ、過去に蓄積された概念です。大切なのは、あなたがいつも自分の地点で、その学びを学ぶ事なのです。 あなたの中にどんな概念があるかを、きちんと考えてみてください。 皆さんは、考えているようで、たいていのことを考えてはいません。 悩みの本質が何かに気づかないでいると、表面のどうでもよいことばかりに気を取られて、人生の意味を見失ってしまいます。あなたの中にどのような概念があるかに気づいてください。 あなたがどのような概念を持っているか、そのことをしっかりと見つめてください。その概念が今のあなたを作っているといっても過言ではないのです。あなたは、今あなたが知る以上の存在であり、あなたの中に、必要な本当の答えがすべて、存在しているのです。 いいですか?私とあなたに違いがあるとしたら、唯一、私は「わかる」ということを知っているということ。 ただそれだけです。 真実はいつも恐ろしいほど単純で、その真相知ると、笑ってしまいそうですが、人はあまりに簡単すぎると、それが重要だと知らずに、見過ごしてしまいます。 「わかる」と思うことが「わかる」ことであり、「わからない」と思うことは、常に「わからない」状態を生むのです。 このことをしっかりと意識してください。 「わからない」と思った時の自分の状態を考えてみてください。「わからない」と思ったとたんにそれに関する意識はストップしていませんか?五里霧中な状態、つまり霧の中で見えなくなるような状態になり、それについて考えることを無意識にやめてしまいます。 それが「わからない」という状態です。「悩み」もまた、同じです。たいていの人は「悩み」ですらないことに悩んでいます。それについて、「考えているつもり」になっているだけの状態を「悩み」と称しているだけなのです。 悩みがある時、私たちは、そのことにずっと心を奪われています。 今目の前でどんなことが起きても、人がどんなことを話していても、その別のことに心を奪われているために、何も見えず、何も聞こえなくなってしまうのです。 しっかりと目を開けて自分が何を言っているかを考えてください。何を見ているのか、何を聞いているのかに気づいてください。悩みごとは、今考えなくても、いやでもすぐ自分のもとに帰ってきます。だから、いまは、今この瞬間に、何が起きているのか、誰が何を語ろうとしているのか、自分を開き、過去の概念に照らし合わせるのではなく、新しい目で、いつも物を見てください。 自分のやっていることがどんなことなのか、ほとんどの人は気づいてさえいません。あなたが今どんな状態なのか、そして、あなたはいつも「どうしたいのか」について、意識し、気づいていてください。皆さんは、あまりにも自分がどうしたいのかについて、わかっていません。好きなことが何なのか、やりたいことが何なのか、そもそもそれがわかっていなくて、いったい、何ができるというのでしょうか? あなたが、あなた自身の望みをはっきりさせることが、本当の意味であなたがあなたの人生を生きることです。 あなた自身の概念の中に、あなたが自分のやりたいことを阻む何かが隠れているとしたら、他の誰かでもお金でも時間でもなく、あなた自身があなたの邪魔をしているのです。 あなたの概念の書き換えを行いましょう。あなたの中にある不要な概念を別の、より楽しい概念で消していくのです。新年から新しい概念で今年を始めれば、驚くほど変わっていく自分を体験する事になるでしょう。 **********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。 (^-^)
January 2, 2009
以前、「引きよせの法則」の話をHPで書いた時、「そんなことは嘘なんだから、書かないでください。迷惑です。」的なメールをもらったことがあります。そう、そのメールをくれた人にとっては、自分の望んだことがかなっていなかったのでしょう。残念ながら、そういう人は、その自身の固い頭のせいで、「物事が自分にとって都合が悪くなっている」事を知らないだけなのです。 当然、そのように「自分の望みなんて叶うはずがない」と思っていることが「叶っている」ことを知らないだけなのです。 物事は本当にシンプルです。自分の望んだようにしか、物事は動いていきません。 自分が何を望んでいるかも知らないで、生きていて、人に文句しか言えないのでは、その人の人生が楽しくなるはずはないではないですか。 気づいてください。必ず、すべては自分に帰ってくるのです。私たちが人に親切にすれば、親切が。愛を送れば愛が。人の顔にボールをぶつければ、怒りが帰ってくるのです。当然です。 私たちが人に送ったものが私たちが受け取るものです。私たちがどのように人生を見ているかが、私たちの人生のすべてを決めていくのです。 ネットで、誰かを中傷したら、他の誰にも知られなくても、あなた自身は、よく知っています。そしたら、いつかあなたがあなた自身に罰を下すでしょう。その結果を常にどこかで受け取るのです。あなたは、もっと自分を大切にする必要があるのです。 人にひどいことを言うときは、あなたがあなた自身に優しくできていない時なのです。誰かに文句を言っても、楽しくはなりません。その時すっきりしたような気がしても、またもやもやは広がるでしょう。当然です。 あなた自身の中にそのエネルギーは帰ってきているのですから。どうぞ、自分自身に帰ってくるエネルギーをせっかく使うのですから、楽しい方向に向けてください。 それだけでいいのです。 皆さんの中には、そんな小さな暗い喜びで満足しないで、人に大切にされていい、本当に素晴らしい部分が眠っているのです。どの人の中にも必ず隠れています。 自分の視点を変えて、あなたが自分では軽視している良いところを一つでもいいから、毎日見つけてください。 ありがとうを言ってもらえることを一つでもすることができれば、あなたの人生は、もっともっと楽しくなっていくのです。 歓びに満ちた人生は、あなた自身がいつでも創りだすことができます。どうぞ、本当に楽しい、どんな時にも笑っていられる人生を見つけてください。視点を変えるだけで、あなたは大きく変わります。 練習してください。何かが起きたとき、必ずそれは自分にとって良いことだと、考えることができるように。ものの見方の訓練をするのです。 たとえば、病気にかかるのは、「休め」のサインです。自分の心や体が疲れ果てている証拠だと知って、休むのです。雨上がりの街は、いつも私を喜ばせます。汚れたものをみな洗い流し、町がきらきら輝いているのを見たことはありませんか?空気も新鮮で、空は美しく輝いているでしょう。必要のないことは何一つ起きないのです。 いつも、あなたにとって「良いことしか起こらない」と決めて、すべてをあなたの心の中で「良かったこと」に変換してください。それは、あなたにとって、生き方を変えるきっかけとなってくれるでしょう。 **********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。
December 31, 2008
今日のテーマは「視点が人生を創る」です。 皆さんは自分の現実を変えることは難しいと思っているかも知れません。物事はそう簡単には変わらないものだと、たいていの人はそう思っているようです。 しかし、実のところ、ほとんどの人にとって、その人の現実は常にころころと変わっているものなのです。その「事実」に単に気付かないでいるだけにすぎません。 物事は実は、すべてが驚くほどシンプルで単純なことの組み合わせでしかありません。 たとえば、「雨が降った時に、いやだなぁと思った」とします。ここには二つの事柄、事実と現実が混在しています。事実とは変えられないもの、を指します。つまり「雨が降った」は変えられない事実です。しかし、「いやだなぁ。」というのは私たちの中で起きるこの声です。これが私たちが「現実」と呼ぶ部分です。つまり、現実と私たちが呼ぶものは、私たちの日常の感想なのです。 ですから、この「いやだなぁ」という部分、自分の立場や考えが違えばまったく違った内容になってきます。たとえば、子供の時の自分を思い出してください。幼い小さな子供のころのことです。初めて長靴を買ってもらった子供は、雨が降るのを心待ちにしています。わくわくして、毎日雨が降らないかなぁ、と空を眺めます。そんなある日、待ちに待った雨が降ってきました! 子供は勇んで新しい長靴をはき、外へ駆け出します。長靴で、外に出て、存分にその足に雨粒を踏みしめる感触を楽しみ、水溜りの中にちゃぽんと勢いよく入り、長靴の中に雨が入ったら、今度は中に入った雨のぐちゅぐちゅする感じまで楽しんでしまいます。面白く楽しくて仕方ないのです。服が汚れようと、びしょびしょになろうとそれも楽しいのです。 この子供にとって、雨はとても楽しい現実です。たとえば、日照りが続いて、水不足になっているときにも雨は恵みの雨です。あなたがどの意識で、それに対するか、それがあなたの「現実」のすべてを決めていくのです。何しろ、思い出してください。現実とは、「感想」なのですから。 物の見方、ものの考え方、それが全てを変化させていきます。もし、ここに書いていることの意味がわからないのであれば、まずは、意識を高め、振動数をあげることからはじめましょう。(それについては、エンジェルサポートのHPをご覧ください。) 意識レベル、振動数のレベルが高いことが、ものの見方を柔軟にし、やわらかくします。意識レベルが低い時には、一つのことに囚われがちになるものなのです。つまり新しい考え方を素直に受け入れることができない時や、理解できない時には、そんな状態になっていることが多いのです。 新しいアイディアがどんどん浮かぶようになるには、意識レベルの高さが必要です。 意識レベルが高くなれば、自然と新しい考え方に目が向き、自然と受け入れる体制を作り始めるからです。 自分をいかに柔軟にしていくかがあなたが、人生で成功していくかにつながっていきます。 成功なんて言葉でくくらなくても、あなたが幸せでいられるには、あなた自身が幸せを感じられる自分の土壌を培う必要があるのです。 いつまでも、「自分は幸せになれるはずがないんだ」と思っているのなら、確かにそのままの意識から変われないでしょう。人間頭で変わりたい、と思っていてさえ、精神的な部分に阻まれて、なかなかうまく変われないのが常なのですから、頭でも、「無理だ」と思って居続けるなら、当然変われません。 しかし、それは誰か他人があなたにそれを押し付けたのではなく、あなた自身がそれを決めているだけなのです。 今すぐに、そんなつまらないこだわりは捨ててください。こだわりを捨てる、と覚悟し、決意することでしか、あなたの本当の幸せはやってきません。誰かが魔法のように、自分をシンデレラにしてくれると思わないでください。あなたにとって、魔法使いは、あなた自身なのですから、あなたがあなた自身に魔法の杖をふってやればよいのです。自分自身に、許しの魔法をかけるのです。 あなたがあなたに願いごとをし、あなたが叶えたいことをかなえる、と願うのです。 **********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。
December 27, 2008
先日ニュースで、繊維筋痛症という原因不明の病気が紹介されていました。その病気にかかっているという人たちがニュースに出たとき、私は思わず、テレビに向かって話かけそうになりました。 その人たちは、確かに病気でも何でもなく、単に魂のお仕事があって、それに気付かないために病気になっているのがわかったのです。原因は心因性でも、ウィルスでも細菌でも、ストレスでもなく、単純に、その人たちがそのために生まれてきたお仕事(魂の仕事)に気づいていないために起きている、ということが。 たぶん、こんな事を聞いても、狐につままれた気がするでしょう。けれど、この時期、原因不明の病で苦しんでいる人たちのほとんどは、何らかの魂のお仕事を持って、この世に生まれてきています。それは、自分や家族だけを幸せにする、という狭い現実から飛び出し、社会全体を美しくし、輝く未来にするための仕事です。 その繊維筋痛症だけで、日本に約200万人の患者さんたちがいると聞きました。つまり、そのような人たちは今日本にものすごくたくさん存在している、ということに私は勇気づけられました。 その病気だけではありません。原因不明と呼ばれ、病院では何の検査にも引っかからないような病気にかかっている人や、死にそうな大きな病にかかっている人は、そもそも、自分をそのような病気にする力がある人たちです。 病は気から、といいますが、病になるには、実は能力がいるのです。人のために病になることを選ぶ人たちもいます。その人たちは、周りの人々にとって天使のような存在でしょう。周りの人たちを気付かせるために重い病にかかることは、実はしばしばあるのです。小さな子供たちの病気は特にそうです。親のために子供は病気になるのです。そのことによって、よりたくさんのことを学べるように手伝うために。 もし、あなたがこのような症状に該当するようであれば、だまされたと思って、けれど覚悟を決めて、自分にこう宣言してください。「私は、魂として生きる!」と。その気持ちに偽りがなければ、あなたの体は少しずつ軽くなり、病気は次第に軽減されていくでしょう。 薬剤を大量投与されていた人たちは、その結果が出るのは、遅くなります。 もちろん、すべての人が同じ理由というわけではありません。しかし、大半の方が同じ理由を持っていると私は感じています。自分がこの世に持ってきた本当の目的に気づくこと、それが本当のあなたの生きる道へと続いていきます。 「魂として生きる」と宣言した後は、あなたにとって、よりたくさんのお知らせが様々な形を取ってやってくるでしょう。何らかのシンクロニシティが何度も起こった時は、そこに意味を探してください。単純に面白い、と喜んでいないで、それが何を意味するのか、意識してください。 間違えば、再び痛みが現れるかも知れません。しかし、恐れないでください。それはあなたを本当の意味で生かすための知らせなのです。 痛みで耐えられないと思うのなら、違う形で知らせてほしいと自分に頼んでください。たた普通に人に頼むように自分に頼むのです。病気にしているのは、あなた自身の力に他ならないのですから。 馬鹿げていると思っても、どうせ成功しないと思っても、試しにやってみてください。もし痛みがなくならなくても、ばかばかしいと感じるだけで済むのです。言葉だけです。試してみたってあなたは何一つ損しません。 これからは、もっともっと、あなたのもとにどんなメッセージが届いているのか、意識的になってください。それは、耳に聞こえる、という形ではないかも知れません。テレビを見ていて気になる一言、本を読んでドキッとすること、誰かの何気ない一言、それは単なる広告という形を取っているかも知れません。あなたの周りに同じような問題を抱えている人が多いなら、それはあなたにとって、メッセージです。 本当のあなたを知るために、それらのメッセージをもっと自分の身近に感じるよう、意識してみてください。そのことは、あなたにとって、自分を知る大きな助けになって行くでしょう。 もちろん、「魂として生きる」と宣言した時点で、終わりではありません。そこからが本当の人生の始まりであることを知っていてください。 あなたがこの世界で、生き生きと、幸せに生きるための道しるべ。 それがあなたの恐れているその病そのものであるかもしれないのです。すべては、チャンスです。気づき、変わるためのチャンスなのです。 心を開き、自分の魂の存在を知り、自分の心の魂の声を聞いてください。あなたが忘れ去り、おいてきぼりにした心の声が、あなたの体に訴えかけているのです。 その真実を知ることがあなたのこれからを変えるのです。 できるだけたくさんの方が、本当の自分に出会い、本当の人生が生きることができるよう、心から願っています。 **********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。
December 25, 2008
ハーモニーが再び忙しくなって、うっかりこちらを更新するのを忘れていました。(^^; お待ちくださっていた皆様、申し訳ありません。やっと続きを書きますね。*******************************************************人は、他者の姿を見て、自分を知ることになります。あなたの価値観、あなたの無意識の認識、あなたの想い、あなたの生き方が、すべて他者に反映されて見えてきます。どんな人がいるかどうかは、問題ではありません。あなたがそうした人々に何を感じているか、それが一番大切な答えなのです。あなたが自分にとって嫌な人に会うとき、あなたがその人に感じていることがあなたの中にあるものです。その人自身がどういう人であるかは、実のところ、まったく問題ではないのです。自分の中にある価値観を反映して、相手を見ているのです。ですから、あなたがあなた自身に価値を持っていなかったら、当然、人はそのように反応するのです。 逆にあなたが、自分に価値を持っていたなら、人はやはりそのように反応するのです。なぜなら、他者とはあなた自身の反映にすぎないから。 他者に写った鏡の自分を見て、自分を知ってください。それによって、「相手が」ではなく、自分がいま何を考え、何を感じているのかを感じてください。 その人がどんな人だから、ではなく、その人がどんな人であろうと、そのような意識があなたの中にあるのだと知っていてください。 そして馬鹿にされたり、問題視されたりするとき、実は、あなた自身の中にその思いがあることを知っていてください。 他者とは、あなた自身を投影した鏡にすぎません。あなた自身を映したその鏡に何が映っているのかをよく見てください。あなたにとって嫌な人は、あなたの本心を知るための大いなる鍵です。そこにどのような価値感が隠れているのかに、気づいてください。 そして、その価値観でいいのかどうか、自分で検証してみてください。その価値こそが、あなた自身を作り出していることに気づきましょう。それを検証することによって、人は本当の自分の価値とは何かに気づくことになります。 あなたが抱えている闇は、他者に映って見えます。他者の中に映るのは、自分自身です。あなたの中を光らせましよう。あなたが光っていれば、あなたは、他者に自分を虐げさせるような行動は決してとらないでしょう。自分を大切にすることは、自分に価値を持つこと、そしてその価値観によって行動することです。 それは、決して他者の言動に振り回される事ではありません。他者とは、あくまで「あなたの投影」であって、主体はあくまでもあなた自身です。 たとえ、あなたの周りで人が何を言っていても、表面の言葉や行動にとらわれないでください。しょせんそれは、飾りにすぎません。 あなた自身があなたを愛する時、あなたの周囲の人がどうあろうと関係ないことに気づき始めます。そしてあなた自身が変わる時、あなたはあなたの周囲をも巻き込んで、すべてを変えていくでしょう。 それはもう、面白いほど自動的に、変化していくものなのです。なぜなら、あなたの世界は、あなた自身が作りだしているから。 あなたの認識が変わることによって、あなたの周りの人は、あなたにとってこれまでとは、違う人になっていくのです。 あなた自身の価値を他者に決めさせている間、あなたは、自分自身に気づくことはできません。 周りに自分にとって、気に入らない人たちがたくさんいるとしたら、あなた自身の観念をしっかりと見て認識してください。 あなたの奥に、きちんと、幸せになっていい、と入っているのかどうか。あなた自身が自分に価値があると思っているのかどうか。何度も言いますが、他者とは、あなた自身の投影です。 あなた自身が自分に価値を見出し、自分自身に幸せになって良いという了解を出したなら、必ずそのように物事は動きだすのです。どうぞ、その現実を見つけ出してください。 そして、あなた自身が自分に厳しすぎたから、現実は厳しいのだと知っていてください。あなたがあなた自身に気づくとき、あなたの世界は大きく変わるでしょう。**********************************************************いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。
November 9, 2008
魂の価値観、というタイトルで、先日書きましたが、その後、自分の価値をどのように知るかを書きます、と書きましたので、そのことについて書いていこうと思います。 私たちは、神が肉体をもって生きている存在だと書きました。その観点に立ってものを考えると、なぜ神はこんなにもたくさんの人を作ったのか、それが疑問になってきます。 本来神は、私たちが考えるほど、卑小でも小さな存在でもありません。この言い方には、語弊があるかもしれませんが、たとえばここでいう神とは、神社で願いごとをかなえてくれる神様のことではない、と言いたいのです。 ここでいう「神」とは、「存在」そのものを指しています。つまり、本来形はなく、ただ存在する至高のもの。光であり、闇であり、存在するただ一つのもの、その存在を神と呼んでいます。すべてであり、無であるもの、です。 その存在が形をとったものが私たち、人間です。しかし、実はそういう見方をすれば、動物も、植物も、自然も、私たちが作り出した物ですら、神なのです。 ちょっと話が横道にそれました。この話をすると混乱するので、戻しましょう。 私たちは、一つである神が、形をとったもの。それは、「神が自分を知るため」にたくさんの自分を作りだした、のです。それはなぜか?答えは簡単。「一人では、自分を知ることはできないから」です。 私たちは、神が自分を知るために作り出された存在です。つまりあなたもあなたの周りにいる人々もすべて、別の形の神なのです。一人では自分を知ることができない。至高の神ですらそうなのです。なぜなら、自分以外のものが存在しない世界で、どうやって、これは自分だと理解することができるでしょうか? 闇も光もありとあらゆるものが自分なのに、別の視点からものを見るなどと言うことができるはずがないのです。そこで、神は自分を知るために様々な存在、自分と他人、というものを作り出しました。大いなる発明とでも言いましょうか。 その発明は、多くの驚くべき存在を生み出し、また、生み出された存在は、連綿と無数の存在を生み出し続けています。 私たちは、神がもう一つの形をとったもの・・、そういいました。つまり私たちは、神が自分を知るための手段なのです。そしてその神は、あなたの隣にもいます。他者は大きく考えれば、もう一人のあなたなのです。 つまりあなたは、他者を通して、自分を知ろうとしているのです。 こんな経験がありませんか?自分のことだとわからないのに、他人のことだとよくわかる、という経験です。私たちの目に映る他者は、すべて私たちの心の中にあるものを映しだしたものです。私たちは、自分を他者に投影して、見ているのです。ですから、あなたの周りにいる人たちは、たとえどんな人であろうと、あなた自身に責任があります。 あなたがあなた自身を知る時、神と同じように、他者を通して、自分を知ることになります。あなたがあなた自身に価値を見出し、あなたを生きるなら、あなたを映し出すあなたの周囲もまた、あなたに価値を見出し始めます。 そう、つまり他者とは、あなたが自分自身を知るためのツールなのです。あなたにとって、あなたの周りにいる人は あなた自身を映し出す人たちなのです。どんな人がいるかは全く問題ではありません。 いいですか、思い出してください。「すべての人は神」なのです。あなたにとって素晴らしい人、あなたにとってとんでもない人、どんなに愛すべき人も憎むべき人も、実のところあなたのもう一つの鏡にすぎません。なぜなら、あなたの世界はあなたが生み出し、あなたが運営しているのだから。続きは、また今度。 いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。
October 24, 2008
ハーモニー・フェスティバルが終わって、ほっとする間もなく、10月入ったら、オーラハーモニーを最低4回にするよう、指示が来ていました。 確かにエネルギーを感じると、月一回のオーラハーモニーではエネルギーが止まってしまって動き出さず、4回からやっと少しずつ回り始める感じです。 それなら仕方がない!えーい、というわけで、10月から突如オーラハーモニーの回数が増えることになりました。 この先、どうなるかわかりませんが、常にエネルギーの流れに従っていくことだけは変わりません。11月は、もっと増えますし・・・、人間的にはくらっときてますが。(笑) エンジェルサポートはこれまでもやり方が常に変わってきました。それは常にその時のエネルギーの流れに逆らわないという不文律が私の中にあるからです。表面的には、ころころと変わっているように見えるかも知れませんが、基本、エネルギーの流れに従う、という部分は、まったく変わりませんし、変わることはありません。 エンジェルサポートのやり方が変わる度、離れる人、出会う人がいます。それはある意味、自然な淘汰であると同時に、エネルギーの流れ、その質によっても、惹きつける人が変わってくる事の証明なのかもしれないと思います。 安定は、変化の中にだけ存在しています。何も変わらないということは、まずあり得ません。私たちは、変化し、進化し、大きく変わる、これが私たちの生きる道、それが人ととして生まれてきた意味だと感じています。 さて、内容をタイトルの「魂としての価値観」に戻しましょう。「魂としての価値観」とは、私たちの肉体の価値観とは、まったく別のものを指すことは、タイトルからもおわかりいただけるでしょう。 私たちの肉体的な価値観とは、たとえば「成績が良いこと」「運動能力が優れていること」「頭が良いこと」「社会的に成功していること」「お金持ちであること」「美しいこと」「背が高いこと」「痩せていること」「才能があること」などなど・・、数え上げればきりがありません。 さて、ここに書いてあることでお気づきになったことはありませんか?ここに書いたことは、たとえば一つの商品にも当てはまることです。値段が高くて、価値があると思われているもの、新しくて最新の機能の付いた家電・・・。新しくてきれいなものは、大事にされるけれど、古くなって汚れてしまったものは価値のないものとして扱われる・・、どこかで見たことのある光景ではないでしょうか? 人もまた、これらの商品のように扱われている気がします。若くて美しい間、有能でバリバリ仕事をこなせる間は、重宝されますが、年を取って醜くなったり、病気で仕事ができなくなったりすれば、あっさり切り捨てられる、そんな光景を見たことがありませんか? こう書くと、それは非情で悲しい出来事です。けれど、私たちの中に、若いことが価値あること、有能であることが価値あることとして、自分の中に入っているのなら、たとえ人に同じことをしなくても、自分自身には、その価値観を押し付けています。 つまり、100点を取れるなら喜ばれ、0点を取ったら見捨てられる人、それはそのまま自分自身への価値として跳ね返ってきます。100点をとれば、自分は素晴らしくて、0点を取ったら、みじめな自分・・、そんな自己像が出来上がるのです。 しかし、魂としての価値は、そんなところにはありません。100点を取ろうと0点を取ろうと、その人の価値には何の変わりもないのです。つまり、優秀である人と何もできない人との間に価値の違いはどこにもないのです。 優秀であるか否かで振り回されている間、私たちはほとんどの人が自分に不満を持つでしょう。その不満は、妬みや嫉妬、執着や怒りや恐れを生み出し、世界は、そのような意識でいっぱいになってしまっています。 根本的に、私たち自身の価値は実は、赤ん坊のころから何一つ変わっていません。あなたがとても大切だと、赤ん坊のころに受けた愛情そのままに、あなたの価値はそのままあなたの元にあるのです。たとえ、そのような記憶がなかったとしても、だからと言って、あなたの価値は、何一つ変わりません。 私たちは、神が自分自身を知るために、作り出した別の形です。神が肉体を持ったというだけで、その価値を貶めることはできません。私たちは、ひとりひとり、人という形を取った神なのです。 赤ん坊がいるだけで、その場がなごむように、私たちはいるだけで、存在価値があるのです。 それが、魂の価値です。いるだけで 愛される存在、それが私たちの真の価値です。 私たちは、後付けされた価値観に振り回されて生きています。けれど、私たち自身の真の価値は、そうした人の価値観では何一つ落ちることも、蹴飛ばすこともできません。あなたの中にいる神を傷つけることもまた、できません。表面にいる肉体の私たちがそれに評価をつけているだけで、しょせん高い存在には、それは全く意味をなさないことなのです。 私たち自身が自分自身には、価値がある、と知っていることが自分にとって、周りにとって、必要なことなのです。それが魂であることへの第一歩です。肉体の価値には振り回されない。それを知ること。たったそれだけで、あなたの人生は、とてつもなく軽やかになるでしょう。私たち自身が自分を信じること、自分の価値を知っていることが、どれほど大きな影響を人に与えるか、知っていてください。 あなた自身が自分の価値を知っていること、それを認識できること、それこそがあなたの魂への扉を開きます。 具体的に、どのように自分の価値を知っていくのかについては、また次の機会に書こうと思います。 いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。(*^-^*)
October 15, 2008
お金があれば幸せ。結婚して、子供がいて、家があって、それで幸せ。社会的に成功していれば幸せ。本当にそうでしょうか? 人間はそれだけでは幸せになれない、昔から言われる常套句です。「人はパンのみにて生くるにあらず」です。私たちは、肉体だけで生きているのではありません。この肉体は、私たちの魂が学ぶために、ここにあるのです。 肉体を満足させるためだけに生きている時、その幸せはしょせん表面的なものにすぎません。 表面的であるからこそ、自分を満足させていた表面的な要素が一つでも欠ければ、満足でなくなりますし、その欲望に限りはありません。自分の中が満たされなければ、どんなに表を飾りたてても、何の意味もないことをその人たちの魂は、よく知っているのです。 だからこそ、物質欲にも権力欲にも限りはなく、どれだけでも相手から奪おうと躍起になるのです。けれど人の本質は、人のために尽くしたいと願うところにあるのです。人に尽くす、というと誤解が生じるかもしれません。たとえば誰かに席を譲ってあげた時、にっこり笑って「ありがとう」と感謝されたら、その感謝にこちらがうれしくなるはずです。人は自分のために相手に尽くすとき、感謝してくれた相手になぜか感謝したくなるものなのです。 でも、感謝されたくて行動するときには、そんな感動を味わうことはできません。相手が「ありがとう」と言ってくれることを最初から期待して、席を譲ったら、相手が「ありがとう」と言ったら当たり前で、もし言ってくれなかったら恨みにすら思うこともあるでしょう。 この意識の違いがわかって頂けるでしょうか?ナイチンゲールもシュバイツアーもマリア・テレサもガンジーも決して人のためにやったのではないと思います。その人たちは、自分のためにやったのです。自分がやりたいと思うから。 人のために行うことは、本当の意味では自分のためなのだと私は思っています。最初から人のために行うことは、いつか恨みに変わります。けれど、最初からただ自分が望んで行うことは、それが結果的に人のためとなったとしても、本当は自分のためなのです。人に尽くして、「ありがとう」と感謝されたら、それは法外な喜びなのです。それは、皆が自分を必要としてくれている!という何よりも大きな宝物となるのです。 人から認められないと怒り出すよりも、まず自分で自分を認めてあげてください。自分で自分を認めてあげる時、人からの評価はそれほど気にならなくなっります。人からの評価が全てであるとき、私たちの心の中は、不安でいっぱいになってしまいます。誰かの評価や誰かの認識のもとで生きるのではなく、自分自身の了解のもとで生きましょう。人の評価が大切だと感じている間、あなたに本当の平安は訪れません。なぜなら、人の評価は移ろうものだから。昨日あれがいいと言っていても、今日は別のものがいいと言う、それが人の評価です。 あなた自身の価値をあなたが見出すとき、初めて人は自分の中の幸せを見出すのです。 自分の中に「私は幸せになっていい」という了解をあげましょう。「私は幸せになる価値がある」と宣言してください。この言葉が素直に言える時、あなたは自分が本当に幸せになることを許してあげることになるでしょう。 いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。(*^-^*)
October 13, 2008
先日、お知らせしていたハーモニー・フェスティバルが終わりました。 今回、いつもよりも参加してくださった方の人数が多かったこともあり、なかなか私が全ての方に対応する、と言うことはさすがにできませんでしたが、その中で、私が気づいたことを、今日は書こうかな、と思います。 今日のタイトル「私は幸せになっていいという了解」が自分にない人が、本当に多いことに気づかされています。ほとんどの方は、まさか自分に「幸せになってはいけない」などという意識があるとは気づいていません。 そもそも、幸せになることを否定するなんて、頭では考えられない事でしょう。けれど、これまでお会いした方で、「自分は幸せになっていい」という了解がある方は、不思議な事にほとんどいないのです。頭では皆さん「幸せになっていい」と思っているのです。けれど、無意識の領域へ入っていくと、ほぼ必ずと言っていいほど、「自分は幸せになってはいけない」「幸せになれない」などと入っているのです。 こんなものが無意識に観念として入っているとしたら、当然行動は、無意識にその方向へと舵を向け、どうにかして、幸せにならない方向へと向かおうとしてしまいます。それはもう、見事なまでにそちらに舵が切られるのです。これは、頭で考えて行動しているのではないので、ある意味歯止めがかかりません。自分の無意識の観念「幸せにはなれない」というところへ向かって、自然と行動します。私たちの行動をつかさどる脳も、すぐそちらへと考え方を持っていってしまいます。 大脳は、無意識の意識に従って、考えを構築し、私たちを行動させようとします。なぜなら、私たちの起きている時間のほとんどは、実は無意識によって、作り出されているからです。意識していないと、人は、自分が無意識に行っていることのほとんどに気づきもしません。 たとえば、右側から靴を履いたのか、それとも左から靴を履いたのか、一日に何回トイレに入ったか、朝食を食べたとき、まず何から手をつけたのか、最後に何を食べたのか、何時に歯磨きをして、顔を洗ったか、こうした行動のほとんどは、無意識の分野が担当してくれています。 大人になれば、親に言われなくても、朝起きれば、頭が寝ていても顔を洗い歯を磨き、服を着替えて、朝食をとるくらいのことは自然にできてしまいます。 これは、私たちの中の潜在意識の中にその行動がインプットされているからであり、自動的にそのように行動することが可能になっています。 実のところ、この能力こそが私たちの、知らない分野でもあるわけです。私たちは、習慣から、これらのことを起きてさえいれば、どんなにぼーっとしていてもすることができます。また知らない間に学校や会社にたどりつくこともできます。 その途中経過を思い出すことができなくても、勝手にいつもどおりに体は行動し、学校や会社に連れて行ってくれるのです。よく考えてみれば、これは驚異の能力だとは思いませんか? これこそ、無意識のなせる技。素晴らしい能力です。 これは、要するに、機械デにータをインプットしてそのとおりに行動するようにした、という事と同じなのです。私たちが自分に意識的に入れたデータであれば、全く支障なく自分の思ったとおりに行動するでしょう。しかし、ここでひとつ気づいていただきたいのは、私たちは、これらのことでさえ無意識に自分の大脳にインプットした、ということなのです。私たちは、ほとんどの事柄を意識的にインプットしているわけではないのです。むしろ、自分の行動のほとんどを無意識に、入力してしまっているのです。つまり私たちは、自分がその無意識の中に、情報を入力したにも関わらず、現実には、自分の大脳というコンピュータの中に何を入れたかを覚えてもいない、という恐ろしい現実があるのです。何を入れたかわかっていないので、結果として、今、自分が取っている言動のほとんどが、自分の大脳にインプットされた過去の情報の結果だ、という現実に気づくことができません。つまり、ここに無意識に「私は幸せになれない」という情報が入っていたら、「私は幸せになろう」とするときに、当然その邪魔をするはずです。それは自動的にそういう行動を取り始めるのです。 それは、一見、ありえないようなことに思えるかも知れませんが、この世界では当たり前のように、毎日おき続けています。幸せになろうとしている人が、「幸せになれない」行動を取る。そして自分が幸せになれないから、他の人の幸せも阻害する。そんな行動を取る人を一人も知らないという人は、ほとんどいないのではないでしょうか? 私たちは、驚くほど、自分の中に何が入っているかを知りません。自分が何を考え、どのように行動しているかをほとんどの人ははっきり知っている、と思っているようですが、それは大きな間違いです。何しろ、無意識の領域は、私たちの考える顕在意識(気づいている意識)の領域よりも遥かに広く大きいのですから、それらをすべて把握できている人がいたら、その人はもう、天才以上の才能を持っていることになります。 自分の中に何があるかに気づくことは、自分自身が何を望んでいるのかに、気付くことです。あなたが自分の望む本当のことに気づかない限り、どれだけ精神世界を旅したところで、何一つ、価値あるものを見つけることは出来ないでしょう。 表面の強さもパワーもなんの意味も持ちません。肝心なのは、あなたがあなた自身の望むことや、あなた自身が本当は何をしたいのかに気付くことです。 そこからでしか、あなたの本当の人生は始まりません。どんなに逃げていても、あなたの本質は、あなたに自分自身を見つけるように仕向けるでしょう。 私は、このお仕事を通して、たくさんのことを学びました。また、たくさんの人の状態を見せていただくことによって、自分がどこまでも正直になることが大切だと気付かされてきました。 そして、自分の置かれている境遇が自分にとって不幸だと思うとき、人は自分の感受性を閉じて、感じなくするようにしむけ、挙句自分自身の望むものがなにか、自分が何を感じているのかにさえ、気付かない生き方をしてしまうのだということも知りました。 もうそうなったら、その人たちは胡桃の殻の中に閉じこもっているようなものです。胡桃の殻が本来の自分だと思いこみ、胡桃本体は忘れ去られ、自分の心のどこかで不満や苦しみがうずいても、遠いところで誰かが唸っているほどにしか、自分の本当の声は聞こえず、だからこそ、平気で自分の本心を無視してしまえるほど、本当の自分を殺して生きている、と悲しいほど感じました。 生きているのがつらいと思わないために、本当の自分自身を見捨てて、死ぬまで嘘の自分を生きていく・・・、これのどこに幸せが訪れる余地があるでしょうか? 続きはまた次回・・。いつもクリックしてくださる皆様、ありがとうございます。(*^-^*)
October 9, 2008
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