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比嘉周作 トーク&タップダンス
彼女はいかにしてそれを知ったか 作:安里
「悲しい映画を見ても、切ない恋愛小説を読んでも、寂しい曲を聞いても、泣くことが出来なくなった」と。
社会に出て働くと、泣いたり疲れたり怒ったり落ち込んだりすることが沢山ある。
あまりに沢山あって、そのたびに、ぼくたちの心はダメージを受ける。
そのうち、傷口がかさぶたで覆われていくように、ぼくたちの心は固くなっていく。そうなると、以前のように笑ったり泣いたり出来なくなる。
もしあなたがそうなってしまっているのなら、この悲しい話を紹介しようと思う。
いまだに癒えることのない、とてもとても悲しいこの話は、二年前の夏に起こったんだ。
その日は、帰宅途中から波乱の予感があった。
ぼくにはつきあっている女性がいる。結婚を前提に付き合っていて、同棲していた。
そして、つきあっている女性以外につきあっている女性がいる。簡単にいうと、浮気をしている。相手は同じ会社の後輩だ。
先週の日曜日、その浮気相手の女性とデートをしたのだが、どうやらその情報を、彼女がつかんだらしいのだ。恐ろしい話だ。
そしてこれから、ぼくは彼女と対決することになるだろう。家には彼女が待っている。どこからかつかんだ浮気の情報を確認するべく。
アパートにたどり着き、ドアを開けると、いつからそうしているのだろう、玄関に彼女が仁王立ちで、ぼくを直視していた。
そして、「ただいま」をいうぼくの言葉をさえぎって、彼女はいった。
「日曜日、どこに行ってたの?」
その表情、その口調、ただ事じゃない。危険レベルDだ。ぼくは瞬時にあせった。
しかし、この場合、あせっていることを相手に悟られてはならない。だからぼくは、靴下を脱ぎながら、平静を装って答えた。
「仕事があったんだ。いわなかったっけ?」
靴下を脱ぐために下を向いているから、彼女からはぼくの顔が見えない。
顔を見られなければ、表情を読まれることもない。
われながら惚れ惚れする作戦だ。ブラボー。
しかし、彼女は返事をしない。何もいわない。
だからといって、彼女が追及の手を緩めたとは思えない。なぜなら、彼女から発散される怒りのオーラが、びんびん伝わってくるからだ。
ぼくは靴下を脱ぎ終えた。そんなに時間が稼げる作業でもない。
顔を上げると、目の前に彼女が立っていた。
「馬鹿な!」
そう叫びそうになるのを、かろうじてこらえた。先ほどまで、ぼくと彼女の間は一メートルの距離があった。靴下を脱いでいる間に、彼女はぼくの目と鼻の先にいる。
足音どころか、気配まで見事に断ち切って、ぼくの至近距離まで接近していたのだ。ただ者じゃないとは前から思っていたけれど、いま、このときにそんな技を見せられると、思わず身の危険を感じてしまう。
そんなぼくの恐怖にかまわず、にっこり笑って、彼女はいった。
「日曜日、どこ行ったの?」
目が笑っていない。
「どこって、会社」
ぼくは答える。会社に行ったのは嘘ではない。なぜなら、その日浮気している女性は午前中残業があったので会社で待ち合わせをしたのだ。
どこへ行ったの、と彼女は質問した。何をしたの、とは訊いていない。
だから、会社へ行った、というぼくの言葉は嘘にはならない。
後は自分の無実を訴えるべく、まっすぐ彼女の目を見るだけだ。そう、このとき、ぼくは完全に余裕を取り戻していた。どうやら彼女はぼくの浮気に気がついているらしいが、所詮は「勘」止まりだろう。
彼女もぼくに微笑み返した。
「じゃあ、お昼の一時十六分ごろ。どこで誰と食事してたの?」
頭の中で、緊急警報のサイレンが鳴り響いた。
彼女の今のいい方は、確信情報を握った人間特有の口調だった。
やばい。具体的な数字を出し始めた。
ぼくの脳の中の「彼女にばれずに浮気を楽しもう委員会」のメンバーが全員緊急召集され、至急対応策を話し合った。
出された指示は「とりあえず、時間を稼げ!」だった(推定一.八三秒)。
その指示にすがりつくように従うことにする。
「そういえば、おなかすいたなあ」
ぼくは彼女から目をそらし、体をそらし、質問をそらしてキッチンへ向かった。彼女の声が、追いかけてくる。
「質問に答えて」
彼女の声が一オクターブ下がった。
いや、気のせいだろう。クーラーの利いたこの部屋で、ぼくがびっしょり汗をかいているのと同じように。
「スパゲティを作るから、待ってよ」
「どのくらい?」
「スパゲティが出来るまで」
鍋に水をいれてコンロで沸かし、その間にパスタを取り出した。
その作業中、ぼくの脳内に提示された選択肢は二つ。
1.被害が拡大する前に謝る。
2.あくまでしらばっくれる。
「彼女にばれずに浮気を楽しもう委員会」は、全会一致で選択肢2をチョイスしている。では、2を選んだ場合の作戦だが、これも大きく二つに分かれる。
1.画期的かつ芸術的な話術で、とにかくこの場を切り抜ける。
2.ぜんぜん関係のない話題にスライドさせる。
作戦2に関しては、意図的に「逆ギレ」することで、話の方向を強引に違う方向へ持っていくことが出来る。「何だ、そのいい方は!」とか怒鳴って浮気の話から遠ざかれるはずだ。
しかし、彼女がそれに乗らなければ、怒ったことが浮気を証明してしまうように受け取られかねない。
やはりここは、ぼくらしく作戦1を実行すべきか。
ふと横を見ると、またしてもいつのまにか彼女がぼくの隣に立っていた。その気配の断ち方、移動の仕方のすさまじい妙技は、彼女がテレポートしたと解釈するしか説明が出来ない。
しかも、彼女が立っているポジションがまずい。非常にまずい。
包丁立ての前に、彼女は立っているのだ。
「お昼、誰と、どこで食事をしていたの?」
彼女の目と包丁が怪しく光った。
窮地だ。絶体絶命のピンチだ。
しかし!しかし、ぼくにはまだ切り抜ける自身があった。たっぷりあった。嘘をついたり、ごまかしたりするときのコツは、自分の嘘の自信を持つことだ。嘘を嘘と思わず、本当にあったことだと自分で思い込むことが出来れば、それはもう嘘じゃなくなる。
長く厳しく険しい人生経験から、ぼくはそのことを学んでいた。自信を持つこと。それがいかに大切なのか。
ぼくは彼女の目を見つめて、答えた。
「ああ、あの日はね、一緒に仕事をしていた同僚と近くのレストランに行ったよ、確か」
視線をそらすことは、嘘をついていると教えるようなものである。全身全霊を込めて、ぼくは彼女の目を見つづけた。
「休日出勤していたのは、ぼくを含めて五人いたんだけど、他の三人は、仕事が終わってそのまま帰ったんだ。だから、結果的には、もう一人の女の子と二人で食事したことになるね。それが何か?」
そしてぼくは微笑んだ。
完璧だ!すばらしい!自分に乾杯!
「それからどうしたの?」
彼女はまだぼくに食いついてくる。しかし、今のぼくには、どんな質問も切り抜ける自信があった。
「どうしたって、食事をして別れたよ。その後、本屋へ行ったり、友達と会ったりしてたんだ」
「へえ、そうなの」
「うん。そうだよ」
「じゃあ、食事の後、○×レンタカーから借りてきた赤いフェラーリに乗って高速道路を快調に飛ばして海へ行ったのは、誰だったのかしら?」
「……」
「そのあとすぐに遊園地へ行って二時間二十六分楽しく遊んでいた、あなたは誰で、相手は誰だったのかしら?」
「…………」
「そのあと、あなたと池上由美子さんが夕食をどこで取ってどこへ行こうとしていたのか、私の口から聞きたい?」
「ごめんなさい」
その日から、ぼくは浮気をしないように、月二万円の小遣いで生活する羽目になったんだ。
……もちろん、それだけではすまなかったけど……。
ね?悲しい話だと思いませんか?
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