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みなさん、大丈夫でしょうか? こちらはおちょこ一個が大破しましたが、ほかはとくになく。 ツイッターではそれなりに発言してきましたが、あきあきしています。あの「おれ、いま何かしている」感。 莫迦じゃなかろうか、いや馬鹿でしょ。 被災者を思うなら、すこしでもネット回線をあけなさい、節電を呼びかけるなら、ツイートを減らしなさい。 こうした正論は通りません。 だって「善意」だから。 その「善意」が誤報や虚報を流している反省はありません。 いま、私たちにできること。私たちとは被災者ではなく、どうにかこうにか日常生活が送れる私たちです。 仕事しましょう。株を買いましょう。そして祈りましょう。 被災者がもどってきた日常が豊かで平和な日本であるように。
Mar 15, 2011
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正義の味方面しているブラックキューピー孫正義さんはともかくそれに尻尾を振る人に溜息を覚えます。だからムジナさんだって、auもドコモと同じ穴の。 孫さんはビジネスマン。儲けにさといのは当然で、本稿で記したように、普通の商売なら「分かりやすい料金」になるのが当然で、ヤフーBBも定額料金で、フレッツもauプラス(いずれも家庭用通信回線サービス)も同じです。 ところが「なぜか」、携帯電話だけ複雑な料金体系になっている理由は・・・金儲けというのが私の結論。 公正取引委員会と総務省が動けば是正できるんですがね。■マイコミジャーナル高すぎる携帯料金への邪推とガラパゴスゾウガメの気持ちhttp://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/103/index.html
Mar 9, 2011
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売れるモノなら媚びでも売ります。 営業マンの心得です。 「ものづくり」の人間として許せない一線があり、そんなときは 勝ってくれるなら喧嘩も売ります。 じつはこれも営業マンの裏心得です。 ただ、できるだけ仲良くするに越したことはありません。 そこで編み出したのが本稿で紹介する一石二鳥のサクセスストーリー。■心得其の207手軽で実用性の高いサクセスストーリー。ペンだけで作れる販促コンテンツhttp://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/03/09/9891
Mar 9, 2011
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知日派と目されていたケビン・メア米国務省日本部長が沖縄県民を「ゆすりの名人」と称したとか。これに一斉に日本のメディアが噛みついています。 アメリカ人如きがなにをかいわんやと唾を吐きかけたい・・・ところですが、私の知っている沖縄の人で、似たようなことをいう人が少なくありません。ある人は「甘え」といい、ある人は「ぶらさがっている」と。 基地問題にしても「本当に米軍がいなくなったら経済がもたない」というのは一致しています。 一方で、何万人(笑)も広場に集まり、基地反対集会が読谷の広場で行われたり、デモ行進ばかりが報じられ混乱します。 これは本当に親しくしていた沖縄(伊良部島出身)の人がいっていたことですが、「沖縄県民は嘘つき」 とのこと。私は額面通り、うけとってはいませんが、大らかさを拡大解釈すればそうみることもでき、定刻の前後1~2時間を許容する「オキナワンタイム」も約束を守っているか否かの視点で厳密にジャッジすれば「嘘つき」です。少なくとも東京のビジネス街でオキナワンタイムを繰り返せば、嘘つきという誹りは免れません。 基地はいるかいらないか? こう尋ねれば「いらない」というでしょう。しかし、基地がもたらす経済効果と、ルーピー鳩山が学んだ方便の「抑止力」などと絡めて尋ねて、それでも「いらない」と答えるのでしょうか。 基地に反対しながら基地が主催するフェスティバルには参加し、基地に反対しながら、基地に関連した補助金を貰うことは当然と考える沖縄人がいます。 それについての明確な答えを出せないままに僕はこの時代への空気に雑然とした殺意のようなわななきを隠しきれない。あ、つい「大江健三郎」風の、傍観者のふりをしながら、読者を誘導する阿部四郎(極悪レフリーとして名を馳せた女子プロレス黄金時代のレフリー、ヒールを贔屓する)のような表現になってしまいました。 沖縄というと大江健三郎さんのプロパガンダ作品を思い出さずにはいられなくなるのと、私が沖縄の政治活動を見る目は重なります。 それはそれ、これはこれ。フェスティバルはフェスティバル。 補助金は補助金、そしてでていけ。 こうした沖縄の現実をみてきたケビン・メアさんが「ゆすり」と思うことに私はなるほどと。つぶやきます。 それは彼が「たかりの名人」であるアメリカ人だから。 戦争を仕掛けて上前を跳ねる「たかり」的な米国発想から見ると静かな恫喝と感じて「ゆすり」と表現したのではないかという見立てです。 そして穿った見方をすれば、ルーピー鳩山&民主党による、日米同盟の亀裂を修復するきっかけとなるはずだった前原前外務大臣のポカにより失脚で、されに遠のきそうになった日程を、米国側の失点により、挽回するチャンスをメアは用意したのでは・・・ってことはありませんね。 いずれにしろ「チャンス」です。菅内閣のラストチャンスかと。 交渉相手の失言はチャンスカード。 ただ、民主党の人たちって失言を囃し立てることしか知らないので、宝の持ち腐れになりそうですが。 ついでにいえば調査捕鯨が環境テロリスト「シー・シェパード」によって妨害され、中断して帰国の途につきました。船員の安全を考えて引き返してきたのですが、こんな馬鹿な話しはありません。 私ならこうします。「自国船艇警護のため海上自衛隊派兵・・・を、検討」 日豪は先の大戦で戦っており、いまも日本嫌いの豪州人は少なくありません。カンガルーとコアラの観光都市のイメージから、脳天気な日本人は勝手に親しみを持っていますが、祖父母の時代の憎しみは伝承するものです。ついでに言えば白人主義から来る人種差別感情は理で理解しても感情を制御できるものではないということは、お気楽な日本人にはわかりません。 クジラもその轍にのって存在しているのです。 威嚇するようなことをしたら相手の感情を逆撫でする。 と、日本人は考えるでしょう。しかし、ゆすりとたかりの解釈があるように、同じ行動を世界はこう考えるのです。 本気で怒っている。 さて、その時に、国際法に則った調査捕鯨を、違法行為で襲い続けるシー・シェパードを豪州が守るか否か・・・というチャンスだったのですが、これも無策で放置して、尻尾を巻いて逃げ帰るように指示しました。 相手国の傷口には塩を塗るのが国際ルール。 前原さんの辞任を受けて、さっそく中国は尖閣諸島にちょっかいをだしてきて、今日明日にでも露西亜が動くと私は見ています。 だから「ゆすり発言」は、日本のチャンスカード。「米軍も日本からたかってばかりいないで、尖閣諸島に第七艦隊で も派遣しなさいよ」 と、いえる政治家は・・・与野党どちらにもいませんでした。 しかし、オフレコ発言をヒステリックに捉え大騒ぎするのはルーピーです。私が沖縄の基地反対派なら、この言葉を持って、永田町に押しかけて「言質」を引き出すことでしょう。それが交渉です。
Mar 9, 2011
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立て続けに「うつ」ばなしを耳にしたもので、この春のうつ対策の一助となればと自分語りをしています。 これは私見で医学的根拠はありませんが「自覚」もうつには大きいとみています。それも2種類。ひとつは「仮病系自覚」。用語は私の命名で「家庭の医学」にないことばです。 最近多い「ぷちうつ」を自称するひとに多く見られます。仮病なので単なる落ち込みや身体の不調に起因するものですが、油断ならないのがこの思いこみから「本気」になることがあるのです。こちらについては症状が固定化する前に手を打ちたいモノです。 つぎの「自覚」は、症状がでていることを自覚して、前向きにひらきなおるということ。私はこちらで・・・と、続きは本文にて。■心得其の206Web担当者の憂鬱。うつは治る? 治らない?http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/03/02/9787
Mar 2, 2011
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100回記念以降、コンサルタントづいています。 と、いうのは「実戦」に身を投じているものの多くは、手の内を語らず、そこから遠い人ほど、ペラペラと語り、唆すからです。 そして日本人に善人が多く、だれもが自分を騙さないと根拠もなく信じて疑いません。そんなわけはないのですが。 コンサルタント・・・それも0.2・・・は人を騙しています。 その言葉を換えれば「エンターテイメント」。 近いものが「泣き売」。 つまり「さくら」。 ・・・はぁ。本当に多いのでご注意くださいませ。■マイコミジャーナルキャンセル待ちセミナーのからくりは「コンサルタント0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/102/index.html
Mar 2, 2011
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最近、お気に入りのキーワードは「苦役列車」。 西村賢太さんによる第144回芥川賞受賞作品のタイトルです。 作品は読んでいないので「語感」によるものですが、私の周囲になんだかピッタリの人間が多く、本作の示唆するところと違うかも知れませんが、この列車の住民のいちばんの問題は、自分の置かれている環境の不幸に気づいていないことです。 ある意味、ポジティブ。それは人間が本来持つ「性」でありそれがゆえに悲しみにも不幸にも苦役にも耐えられるのですが、そこから這い上がるには、いま置かれている環境がネガティブなベクトルに包まれていることを自覚しなければならないことに気がつかない無限ループに突入します。 つまり、「よくない」「悪い」環境にいるのだということを知らなければ、いま置かれている環境をポジティブに受け入れてしまい、それは受け入れることによりようやく人は生きていけるというコメディのような人間の真実がそこにあるのです。 繰り返しになりますが、自分の置かれた環境がネガティブであることに気がつかない限りひとはそこを抜け出せることはありません。 逆説的に北アフリカの革命ドミノが裏付けています。 ネットや衛星放送により、自分たちの置かれている環境がネガティブだと気がついた民衆により行われており、環境を知ったことが爆発の導火線となり、携帯電話やツイッター、フェイスブックにより点火されたのです。 反対にポジティブにおいても同じです。自分が置かれている環境がポジティブな選択を許されることに気がつかない限り、ひとは不幸の奴隷となります。 仕事があり、彼女もいて、食べるのには困らないが、自分は恵まれていないと思う人がいます。彼の周辺にはもっと金持ちがおり、さらに美人の彼女がいる友人がいて、体型を気にしてダイエットばかりしていることにより幸福感は損なわれてしまいます。 しかし、仕事があるのならそれに没頭し貢献することで、自己実現は容易で、この場合の自己実現とは周囲の信頼を勝ち取ることであり、スキルアップです。追加投資も自己啓発も必要ではなく、「ひとりでできたもん」 なみの自然な満足を与えてくれることでしょう。これは経験則ですが、大きなプロジェクトを任されるには、こうした小さな信頼を積み重ねていくしか近道はありません。 つぎに彼女の美醜は主観に過ぎず、しかし、彼女という人間と過ごす時間をどう楽しむか、どう楽しんで貰うかは前向きな努力でいくらでも改善できます。 そして美味しいものを少しずつ食べるというダイエットもあれば、日頃小食にして、ハレの日にご馳走を食べたり、賛否はありますが一日一食ダイエットを奨める医師もおり、これなら体型を維持しながら贅沢をすることも不可能ではなく、充分な満足を得ることができることでしょう。 苦役列車の乗客と比較して相反することをいっているようですが、幸せには、他者との比較からうまれる相対的な評価と同時に自ら創り出す絶対評価もあり、列車の乗客は相対的な不幸を知らず、幸運が日常の人間のなかには絶対評価があることを知らない人がいるということです。 平易な言葉に落とし込めばこうです。「馬鹿と貧乏人は不幸な世界に甘え、 小利口ものは幸福に囲まれながら不平と不満を繰り返す」 ・・・自己啓発ではなく、社会制度や道徳の話しです。「職業訓練校」 というとどういうイメージがあるでしょうか。 手に職をつけるための施設で、新卒、社会人を問わず、ここでまなび、ハローワークと連携して、就職を斡旋します。 いまは「職業能力開発センター」など別の名称で呼ばれますが本稿では「職業訓練校」のほうが語感が良いのでこれで通します。 ここの電気工事科とは、住宅設備などの配線工事の基本技術を学び、一年をかけ国家資格の取得を目指すコースです。 以前は読み書きができれば入学できたのですが、数年前より「算数」は必須命題となっており、単純な話し、算数ができなければが抵抗や電圧の計算が怪しく、実際、そのレベルを克服できず卒業時に国家資格の取得が困難となった反省からです。 知識や勉学においてはその程度です。しかし、現場では頭の回転だけではなく手先の器用さや肉体の耐久性も求められるガテン系です。 コンクリート打ちざらしの建築中のマンション、そぼ降る雨がみぞれへと変わるなか、カンテラのあかりを頼りに配線する手先は尋常ではない寒さに震えるといいます。 しかし、面白いものでネガティブな環境で育った苦役列車の住民は、肉体的な辛さへの耐久力をもっているもので、つらくても仕方がないとあきらめる悲しいまでの人間の本能で、辛さも受け入れることで生き抜く人間の業です。 進学できなければ働けばよい。 という環境で育った人間は現場で、親方や上司に判子のかわりに拳固を貰い仕事を学びます。かつては「手に職」といわれた世界の未来はいま、ほの暗いのです。 各種規制がゆるく、よく言えばおおらかだった時代、職人は無学でも仕事ができ、「矜持」から仕事の手を抜くことなど考えられず、ゆえに資格は重視されませんでした。技術は複雑となり、社会は不寛容となり、矜持は捨て去れれ仕事の担保となるのは学歴を含めた「資格」になりました。 「腕一本」で食えた時代は去り、資格がしゃもじとなり、持たざるものは「配給」を待つだけとなりました。つまり無資格者は腕が良くても下請け仕事しかまわってきません。これも時代の変化と言えば、それまででしょう。 そして「職業訓練校」に大卒が学びます。 資格を取るために、就職口を得るために「学士」が苦役列車に乗り込んできます。 今年、ある職業訓練校の電気工事科は異例の盛況で、募集人数を大きく上回り、近年まれに見る倍率となりました。東京の職業訓練校は都営ですから公平性が求められ、倍率を超えればテストの点数による順番で機械的に選抜されます。 この春中学を卒業する15才と大学を卒業した22才が競争します。 選抜からもれた少年には苦役列車の指定席が渡され、少なくとも大学卒業までの9年間、学生生活を謳歌した学士が、さらに一年間、広義での「学生」を続けます。 この話を聞いたある区立中学校教諭は「狡い」とひとこと。 補助金という税金が投じられた大学を卒業して、さらに公的機関に通い資格を取り、一方では「義務教育」で学習機会を奪われ、苦役列車に乗り、労働者として税金を納めます。 しかし、リアル苦役列車を知っている私にとってはごくありふれた日常のひとこま。ザ・ブルーハーツのテーマが耳に響きます。「弱いもの達が夕暮れ、さらに弱いものを叩く」 弱いものが這い上がるチャンスは・・・希です。
Mar 2, 2011
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宗旨替えしたわけではありません。マネタイズ=換金のために尻尾を振っているわけではありません。海外向けのチャネルとして向いています。Facebookは。 ただし、本稿で詳しく述べるように「国内」向けではないのでご注意を。 Facebookを使って国内で儲ける方法は本を書くことぐらいです。 薄い中身でも出版社が飛びつき、薄い中身だから書籍離れがすすむという自作自演の切ない光景が、Facebookでも展開されています。■通販支援ブログ 孤独な社長の裏マニュアル 第26回【第26回】Facebookを奨める理由http://blog.scroll360.jp/ec/keiei/post-553.html
Feb 23, 2011
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神田昌典さんのという自己啓発系ビジネス書のカリスマがいます。 彼の書籍に出会ったのはもう10年近く前になるかと思いますが、手に取ると不思議なことが書いております。「本書を手に取った方はショッキングピンクの書籍という非常識さに 抗えなかった(意訳)」 自称「ピンク本」の前書きにあったと記憶しています。 でも、私が最初に手に取ったのは「ブルー」で、ピンク本の続編でした。書店を冷静に眺めれば分かりますが、ピンクの装丁は珍しくなく、たしかに「ビジネス書」と限定すれば珍しいかも知れませんが、それは丸の内丸善や紀伊国屋など、ビジネス書コーナーが充実しずらっと並んでいる書店限定の話しで、育児書と併設されている街角の書店ではピンク本など珍しくも何ともありません。 ここで予言の手品を思い出しました。 封筒からマッチ箱とカードを3枚取り出し並べます。 相手に好きなカードの上にマッチ箱を置かせます。 真ん中のカードの上にマッチ箱が置かれました。 マッチ箱をそっとどかして、カードをめくるとこう書かれています。「あなたはこのカードを選ぶ」 神田昌典さんの手品は小学生でもできるものです。 種明かしはこう。 右側のカード選ぶとマッチ箱を開け、そこには 「あなたはこのカードを選ぶ」 と書かれています。 左側ならこうです。「あなたはこのカードを選ぶ」 と書いた紙が封筒に入っているのです。 つまり、すべてのパターンが「予言」されているということ。 自己啓発系の洗礼を受けているコンサルタントがよく使う方法ですのでご注意を。 しかし、この「手品」。子供だましですが子供には受けます。 応用編としては「プロポーズ」にも使えます。 あなたの運命の人を予言しますとして、自分の名前を「予言」するという・・・寒いですか? クサイですか?■マイコミジャーナル行列を作るコンサルタントのビジネスモデル「0.2」が量産される背景http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/101/index.html
Feb 23, 2011
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やれFacebookだTwitterだと大騒ぎするWeb屋が多いのですがこれはみな「ツール」。カンナやノミと同じです。新しい電動ドリルがでて生産性は向上しますが、設計図が引けなければ何も作れず、居住者の家族構成や趣味嗜好が分からなければ快適な家造りはできません。 が、Web業界はカンナとノミに大騒ぎします。 お陰様で・・・のんびりと商売をさせていただいております。 保守契約を取る方法。営業マン時代に編み出した「提案営業」です。■心得其の205Web屋の営業マン必見。リピーター対策の特効薬http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/02/23/9791
Feb 23, 2011
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先日、いま話題沸騰中の「マイケル・サンデル」ハーバード大学教授が日本テレビのバラエティ番組で「講義」を開いておりました。 内容を要約するとこうです。「ブレーキも警笛も壊れた電車の進行方向に5人の作業員がいる。 運転手であるあなたはどうするか?」 つづけて「よくみると側道があり、そこには一人の作業員がいる。 そのまま進めば5人を殺し、ハンドルを切れば1人を殺すことに なる。あなたならどうするか?」 これに自民党の石破茂さんは明確に答えます。1人を殺すと。 それを決断するのが政治の仕事であるとは私の意訳です。 その答えへの明言をさけ、マイケル教授は次の例示をします。 この時点で私は苛立ちました。理由は単純。「人にものを尋ねたのなら、相応の態度で答えるのが礼儀だろ」 ・・・ま、テレビは編集もあるので、そこはグッと我慢します。「実はあなたは高台からこの様子を見ており、隣には巨大な大男が いて、彼を突き落とせば5人を救うことができます。 さて、どうしますか?」 馬鹿馬鹿しいので、ここまで。マイケルの結論は、次に北朝鮮による日本人拉致を、これまた突飛なケースと比較して、どちらかと聴衆に迫り、結論は「どちらも正しくて、これが哲学だ」 とのこと。ふーん。 まず、大学では哲学と呼ぶのでしょうが、私の知っている下層社会でこの論法を使う人を「詐欺師」と呼びます。まったく違う価値観をさも比較対象できるかのように並べて、どちらかしか選べないように迫るのは、安物の絵画を価値あるものと前提した上で「現金で買うか、ローンを組むか」 とせまるシーンに似ています。「どちらも正しくて、これが芸術だ」 とね。 たとえ例え話でもおかしいものはおかしいと指摘しなければ素人が哲学に出会うのは難しいでしょう。専門家ではないおまえが言うな・・・というかたはこの質問にどう答えるでしょうか?「死ぬほど空腹の時に他人の庭にいたニワトリが卵を産んだのを 見た。あなたは卵を盗んでそのまま食べますか?」 この質問のポイントは「そのまま」。日本人にとって生卵は違和感なく食べ物ですが、ある欧米人はこういいました。「蛇じゃないし」 卵の生食文化がなければ、そのまま食べるという行為そのものに抵抗を感じ、哲学的思考に辿り着くのが難しいということです。 多くの日本人がマイケル教授の設定に違和感を覚えるのではないでしょうか。以下、列挙します。1:作業員は列車の運行時間を知っていたのか2:現場監督、運行管理者はなにをしていたのか3:列車のブレーキが故障し、警笛まで使えないのは整備不良に よるものではないか 運行ダイヤが正確で当然と思っている日本人にとって、まずそこがひっかかります。 次にすべての機械は正常に運行していると信じる日本人にはブレーキも警笛もきかない状況に違和感を覚えます。 ついで、人数的に1人を殺す選択は合理的に見えますが、1人は「時刻表からこの時間はこの線路に列車は通らないから作業をしていた」 となればどうでしょうか? さらに、丘の上で見ていたとして、大男を突き落とすのが鉄道会社と無関係で、さらに、国交省の職員でもなければ、「国民の生活が一番」 とニタニタ笑う政治家でもない人間を、不注意で作業している5人(だとして)を救うために犠牲にしろということに「道理」が通りません。 日本人は命の軽重よりも「道理」や「義」を優先する思考回路がある・・・、失礼、昭和の頃まではありましたし、私は装着しています。 道理や義を優先すると人数では割りきれません。 そしてこの思考を「非合理的」と非難されても、哲学とはその国の文化を構成するひとつで、日本人からすれば「アメリカ人如きに言われる筋合いではない」 如きの前を中国人に、韓国人に、パプア・ニューギニアにおきかえても同じです。 バラエティ番組に目くじらを立てるのも大人げないのですが、「哲学」とは、それだけが切り離されたすべての人類に共通するなどというのは妄想に過ぎないということです。 マイケルの批判ではありません。ただ、自説のための我田引水は、結論に向かうために都合の良い状況設定や、論説を引っ張りだすので気をつけましょうねと言うはなし。ちなみに、今週のWeb担当者Forumの原稿では正反対のことを書いています。それは「商売用コンテンツ」とは、自説の都合にあわせて作るもので、その視点に立てばマイケル・サンデル教授の論理展開は絵画商法並みに役立ちます。 あいすいません、いつも通りここまでが「前置き」。 世界中で「民主化ドミノ」と大騒ぎしています。 テレビでラジオで新聞で、そしていつもは既存メディアの報道にはすべて否定的な「ネット系ジャーナリスト」まで歩調をあわせます。 なかには「なぜ、既存メディアはエジプトを報じないんだ」と主要新聞が全紙、朝刊で報じた朝にツイッターでこうつぶやいた「佐々木俊尚」 さんのような勇み足もありますが、概ね好意的に報じます。 それは政変にフェイスブックやツイッターが使われたことも大きいでしょう。そしてなにより「民主主義」への盲目的礼賛があります。ネット系は「地球市民」という幻想を抱えており、その思考回路はルーピー鳩山に似ています。私がネット業界の「言説」に否定的なのは、このルーピー的コスモポリタンをまったくもって信用していないからです。 そして民主主義の礼賛派は「独裁政治と民主主義、どちらが自由か?」 と、結論に導くためのレトリックで、民主主義の参加者全てが自由だと誰が決めたのでしょうか。民主主義の結論して独裁を選び、自由な報道を規制する可能性だってあるのです。 そしてアラブ諸国で「政変」の後に必ず民主主義国家が生まれるという保証はありません。逆に独裁者による強権で保たれていた平和が脅かされることもあるでしょう。部族が社会の基本単位である彼らの常識は、われわれとは異なるのです。 もちろん、これはその国の住民が決めることであり、どちらが良いとも悪いとも言いません。 ちなみに我が国のことを考えれば、中東諸国の安定が崩れることは危険です。産油国であることで、日本のライフラインへの危機はもちろんですが、相対的に露西亜の国力が高まるからです。 ご存じでしょうか。いま、世界最大の産油国は露西亜なのです。 外貨を手にした露西亜がジャイアンの本性をむき出しにすることは誰もが知っていることです。アラブ諸国の民主化のために日本の安全保障が脅かされかねない事態に、諸手を挙げて喜ぶ行為を私は「国賊」と亡父に教わっています。地球市民から見れば狭小なと侮蔑されることでしょうが、私は日本人。日本のことを第一に考えるのです。 この「革命運動」が中国に波及すると、ジャーナリストは色めきだちます。そこに全共闘の影を見るのか、ジャーナリストは革命に好意的です。 さて、中国で民主化が進んだとします。国民が共産党一党独裁を打倒したさきにどんな政権が生まれるでしょうか。 中国国民が選ぶことです。日本鬼子(日本人への蔑称です)の関知するところではない・・・とは言い難い問題があります。 中国はいわずとしれた「核保有国」なのです。共産党が倒されても人民軍が残っていればと楽観視はできません。上に方策あれば下に対策があるくにです。 思い出してください。「毒餃子を横流し」 していた国民のいる国です。 共産党崩壊のどさくさで「核兵器の横流し」がおこらないとだれが保証できるでしょうか。 核兵器はその管理が難しいとされ、維持費にもお金がかかります。一計案じ、はりぼての外見だけを残して、中身を売り飛ばす可能性ははたしてゼロでしょうか。 いまは、中国共産党と人民軍が睨みをきかせています。 睨みが消えた時に、維持費負担が大きく、売り飛ばせば莫大な利益を生む「商品」を目の前にして心は動かないでいられるか。 我々、日本人の発想からすればあり得ない話しです。 また、国家への帰属意識を持つ欧米人なら、安全保障の観点から他国に売り渡すことに躊躇するでしょう。 しかし、それは日本人と欧米人の「哲学」であって、はたして中国人も同じ「哲学」をもつのか。現代中国人の哲学の「利益」を軸にして構成されていることを忘れてはなりません。 中国の民主化を否定はしませんが、礼賛するほど脳天気に私はなれないのです。 そしてなにより哲学的に問いかけます。「民主主義はそんなに良いものか」 菅直人さんと小沢一郎さん、そしてルーピーの顔を思い浮かべてから400字以内に答えよ。なお句読点、カギ括弧も一字と数える。
Feb 23, 2011
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恐ろしくて実名を挙げることなどできませんが、まぁ業界人なら誰のことをいっているかは分かることでしょう。多分、結論は「黙殺」 私も彼らをあげつらうことを目的としている訳ではありませんし「河野武」 氏のように、喧嘩を売られない限り、私も押し売りはしません。 ただ、いかにWebやその周辺業界の人間がいい加減なこと・・すなわち「0.2」であるかを100回記念にまとめました。 ちなみに一年前。ツイッターは実名であると広言する連中がうようよいて、彼らの大半がいまFacebookにうつっていますが、ミクシィのとおった轍をツイッターが爆走していることをしつこく指摘するのは私ぐらいです。つまりは匿名化が進んでいます(笑)。■マイコミジャーナル祝!100回「メール送ったけど見た?」が支える「0.2」の世界http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/100/index.html
Feb 16, 2011
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以前、なんどか紹介した「ペニオク」。自腹を切ってみました。 結果は本稿にて。 無料でコインをくれるというサイトを追いかけてみました。 まず、IPチェックをしていません。サイトに接続したIPで一定の制限をかけないと言うことは、Gmailやヤフーメールなどのフリーメールアドレスを作り続けて、そこから無制限にアクセスできるということになり、時間さえ許せば、何度も無料で参加でき、主催者の取り分はなくなるどころか大赤字になります。 裏返せば「落札できない仕組み」になっていると見て、間違いはないでしょう。 他には入札者のニックネームがみな怪しい点。だれもがそうそうニックネームを「自称」できるものではもなく、自分の名前や子供+ママなどの「定番」が一定数あらわれるものですが、これが異常なほど少ないのも、同一人物、あるいは社内で作っているため名前を使いたくないという心理が働いているのだろうと見ています。 まだまだ怪しいところはありますが、続きは本稿にて。■心得其の204「やってみました「ペニオク」実費体験ルポ、グレーゾーンを見分けるWeb担心得」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/02/16/9731
Feb 16, 2011
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かつてイラクで三人の日本人が捕まり騒動となりました。 そのとき「自己責任論」がひとり歩きして、さも自己責任が悪者のように語られたことを覚えているでしょうが。いまもって、この呪縛から日本人は抜けられず「自己責任」という言葉にネガティブなイメージを投げかけます。 でも人生は自己責任。 古代ローマ帝国においての「奴隷」の定義とは、足を鎖でつなぐことにはなく、あるいは身体のおおきな男女を「交配」させたといわれる米国のそれでもなく、「人生を自分で決められない身分」 とされていたと、塩野七生さんの「ローマ人の物語に」ありました。 イラクの事件を「騒動」と称するのは、そのあまりにも粗忽な責任への自覚のなさと、それに連動した国内の政治活動から呆れてのことで、当時は本稿でなんども繰り返したものです。 昨日、地下鉄に乗ると、20代前半とおぼしき若者が、どうどうと「優先席」に座っています。それほど混雑しておらず、優先席は専用席ではないので、まぁいいでしょう。そして、どうどうと携帯電話を操作します。 注意しようかと逡巡します。そして反対側の優先席を見ると「iPhone」らしきものを操作しています。らしきものというのは、仮に注意した際に「これ、iPod touchだけど」 といわれる可能性を考え、やめてしまいました。また、総務省の見解として、携帯電話の周波数がペースメーカーなどに干渉しない帯域を使うようになってきており、今後ガイドラインを見直すともいわれています。 そして「なし崩し的」に電車内での携帯電話の使用は解禁されようとしています。 それもいいでしょう。古代ローマ人の基準で言えば、我々は奴隷ではなく、電車内で携帯電話すると決めることができる身分なのですから。 近未来に、iPadやその発展系で、持ち運びができる立体ディスプレイ型のコミュニケーションツールが登場=仮にこれを「i Real touch」と名付けます=したとして、それで車内で別空間にいる誰かと「対話」をするような社会が訪れても、そのとき、いま電車内で携帯電話を操作する人に文句をいう資格はありません。 なぜなら、電車内での携帯電話の操作は、電波による健康被害などもありますが、「公の空間にプライベート空間の権利を持ち込んだこと」 として語られることになるからです。 電車内の化粧も同じです。 それまでパーソナルエリアで行われていた連絡や検索を、電車内という他人と隣接する公の空間で行うことを「常識」にしたのは我々の時代と後世の人は嘆くかも知れませんし、そんなことも禁止されてたいのかと驚かれるかはわかりませんが。 優先席で操作した彼も、それを注意することをあきらめた私も同罪です。時代の空気を是認した共犯者です。 いま、日本国中が不況や閉塞感を嘆きます。少子高齢化がすすみ後期高齢者医療の問題など先行きは暗黒とされています。年金支給年齢はさらに引き上げが検討され、人生の先輩がたがこう嘆きます。「年寄りイジメだ」 返す刀で吐き捨てます。「こんな日本に誰がした」 わたしはその言葉を半身でかわし、籠手を撃ちます。「あなたたち」 と。 人生の先輩方・・・面倒なので本稿では「年寄り」とします。 年寄りがいまの日本を創り出したのです。戦後復興も年寄りのお陰で、それにより現在の豊かな日本となり、われわれ後進が飢えることなく暮らしていけるのは、年寄り連中が粉骨砕身してくれた果実です。 だから若造どもが「借金ばかり作りやがって」と憤る気持ちは分からんでもありませんが、電車内からも彼女に愛のメッセージを届ける携帯電話を苦もなく買える現代日本はその借金を作った年寄り様のお陰様です。 年寄りはこう反論するかも知れません。「俺たちが借金を使ったわけではない。政治家が悪いんだ」 ならば踏み込み袈裟切りにします。「その政治家を選んだのはあなたたち」 私の知る限りにおいて、少なくとも戦後の日本は民主国家だと記憶しています。正しくは戦前より政治は選挙により、おこなわれており先日までのエジプトのような独裁国家ではなかったのですが、これはいずれまた。 少なくともとしたのは、いわゆる「普通選挙」で、身分や資産に関係なく投票できる選挙制度が戦後日本の政治を動かしてきたという事実からです。ユダヤやフリーメーソン、あるいはCIAによる統治があったとする説を信奉していても、反論のご意見は丁重にお断りしておきます。迷惑なので。 つまり、戦後60年以上、日本の民衆が政治屋を選択してきたということです。 古代ローマにおいても、「投票権」はローマ市民権の保有者で共和政体から帝政にかわっても、最高指導者である「執政官」は投票により認証されました。 歴史が苦手な方のなかには、オクタビアヌスよりはじまる帝政を「王様」と混同する人がいますが、形式上でも市民の投票により皇帝が決まっていたのです。そのため、不人気な皇帝はたびたび暗殺されます。ときにはクーデターも起こります。そして最後は市民の投票でインペラトール(皇帝)が決まるのです。 古代ローマ人は指導者は自分たちで選ぶことを知っていました。 結果による不幸も受け入れます。なぜなら、「人生を自分で決められる身分」 であり、市民生活を送る以上、政治と人生は不可分だからです。 現代日本人は奴隷ではありません。日教組的史観をもつものとしても、戦後の日本人は奴隷ではないはずです。ごめんなさいね。マルクス・レーニン主義的な「資本家の奴隷」というのは馬鹿馬鹿しいので無視しています。こちらも抗議は受け付けません。 奴隷でない立場に立つので「年寄りが悪い」というのです。 こんな日本にしたのは年寄りなのです。 私も不惑になりました。18才で社会に出るまでは勘弁してもらったとしても、残りの「22年」には応分の責任があり私という年寄りも片棒を担ぎました。はじめて選挙に行ったのは都知事選挙で、「内田裕也」に投票したのもそのひとつです。 60才になれば42年。大卒で学士様になるための4年間を免除したとしても38年。日本社会の一因として、その時の「こんな日本」 への責任があるのです。 政治だけではありません。電車内での携帯電話の使用も同じですし、例えばオートバイの「追い越し車線からのすり抜け」 などもかつては「暴走族」しかやらないことでした。これはいずれ取り上げたいと思っていますが、自動二輪に「オートマ」免許が新設され、取得が容易になったこととモラル低下に相関関係があるとみています。 運転つながりで言えば、プリウスなどのエコカーに最近装備されるようになった「エゴ運転モード」 もそうです。エコではなくエゴです。自分の車の燃費のためにふんわりアクセルでそろりと発信し、ゆっくりブレーキで、制動距離を長めに取ります。その結果、ひとつの青信号で通過できる車両台数が減り、合流や右左折ができずに、無駄なガソリンを垂れ流すクルマが増えたとしても、自分の燃費には関係がないという「エゴモード」です。 エコの美名のもとにエゴ運転が是認されつつあります。 これを実践し、あるいはそれに異議を唱えないという消極的支持により、未来の日本が作られていきます。 繰り返しますが、「こんな日本」とは我々が作り、民主党政権を挙げるまでもなく、政治は我々が選択肢、借金ばかりの体質は、バブル崩壊後の自民党政権が口火を切り、それを支持したのは、私も含めた年寄りです。ゴメンね。 だから、私は政治が悪いと投げたりしません。政治を決めるのも自己責任。奴隷になんかなりたくないので自分で決めます。 そしていいます。「年寄りが悪い」と。 未来の自分への戒めも含めて。
Feb 16, 2011
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水嶋ヒロさんに触発されて小説家を目指しています。 と、いうのは嘘。拙著を上梓し、うかれ気分でいたころ、法事で敬愛する伯母が「おばちゃんには難しいわ、でも頑張って読んでみる」 といったことがひっかかっていました。小説などの物語なら伯母はもっと喜んでくれるのではないかと。 漫画の原作を手がける機会に恵まれた時、進まぬ企画の影で小説風の別のストーリーを書いたこともあります。 そして、今年の目標は一本物語を書くこと。 と決意して原稿用紙に向かい重大の事実に気がつきます。「小説ってどう書くんだっけ?」 私が好きな小説は歴史物や、史実をベースにしたモノばかりで他は海外作家のベストセラーをときどき読みますが、自分で書きたいと思うジャンルではありません。 迷った時は「ベタ」に限ります。 というわけで手にしたのが浅田次郎の「鉄道員」。 映画化もされ説明不用でしょう。 ただ、表題作・・・職業に人生を賭す生き様と、そこに重なる魂に涙しましたが、どうしても気になったのは「つくりばなし」 である点。短編集であるので読み進めるうちに薄れてはきますがどこで頭にひっかかります。 しかし、「角筈にて」でやられました。 自分を捨てた父親との邂逅、育ての親のおじさんの優しさに涙腺が崩壊します。 中学生になりクラス名簿に「堀内方」とあることがイヤで、苗字を変えて欲しいと願った主人公に答えず、風呂桶職人だった伯父さんは仕事場にこもり、板きれに主人公の名前を下手くそな字で書き込み「どうでえ、これでカタサマはいらねえだろう」 と表札をかけてくれたこと。その表札は、家を継いだまたいとこがまだ掲げていること。そしてそれは約束によって掲げられたものだったと。 気がつきました。 小説って「つくりばなし」。つらすぎる現実からしばし見る夢と。■鉄道員http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4087471713
Feb 9, 2011
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プロにはそれぞれの「技」があります。 料理の撮影に立ち会った時のこと。大皿料理を取るのにカメラマンは脚立を使い、離れた距離から撮影することで立体感をだすのだといいます。 そのとき、なにかが違うとポケットから取り出しのは「10円玉」。 さらの置くにはさみ、肉眼ではわからないぐらいの「角度」をつけるのです。できあがった写真は一目瞭然。10円在りの迫力に唸りました。 印刷屋のおやじさんの技も見事でした。たいした力も入れずに印刷物を結わいて渡され、これでは崩れるなと内心文句をいいながら受けとったところ「ぴし」とまとまっており、ずれることはありません。 ところがこれに素人が口を出します。特にデジタル技術の進歩がやっかいです。市販のプリンターの性能が上がったことで、商業印刷と趣味のそれを比べるのですから。 ちなみにこのエピソードが肉感的な迫力を持って迫るとしたら、筆者の体感から滲み出ることであるのは秘密です。■マイコミジャーナルマグロの「赤」が牛肉の「赤」に見えるチラシは失格か!?「プロ0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/099/index.html
Feb 9, 2011
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そういえば「ツイ割り」ってどこにいったんでしょうか。 なんだかね。結論を述べればネット系の「ブーム」ほど怪しいモノはなく、それを喧伝する人を冷静に見てスポイルすべきと考えます。いやされるものでしょう「リアル」では。 ところがされません。それはネット関係者がみんなグルだから。 半分は本気。半分は苦笑い。本気派は過去の失敗を振り返ることなくポジティブでオプティミスト。リアル社会においては何かが欠落している連中です。そしてこれは下層社会から見た人間のリアルですが、「自信たっぷりについた嘘を信じる人は意外と多い」 のです。そしてネットではしゃいでいる人には内弁慶ならぬ「ネット弁慶」 が多く、ネットを礼賛するネタを好意的に受け止めます。そして苦笑い組はそれにより儲かる人々。 結果、損をするのはリアルの住人。痛い思いをした彼らはネットから離れ、そして嘘つきと弁慶と苦笑い組がいつもそこにいます。 でもね。ネットやそのツール、サービスは「道具」なんです。 使い方次第。そしてリアルの人がネットという道具を商売に活用してくれるようになれば、無節操な礼賛派をいつかスポイルできるのではないかと。■心得其の203「ABS卸売りセンターから知るフラッシュマーケティング活用法(後編)」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/02/09/9688
Feb 9, 2011
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あれだけ優しかった民主党を袋叩きするメディアは・・・まぁ、あい変わらずですが、メディアが「反自民党」かと思っていたところに民主党の甘さがあります。 海外のメディア(言論の自由があるとされる国家限定)の多くが「反政府」 の立場に立つのは、権力のチェック機構という自負からで、こうしたグローバルスタンダードに立つだけで、政権交代後には政府となった民主党(この表現が建前上異なることは存じておりますが、実態として)が「的」にされるのは当然のことです。 悲しいかな民主党。イデオロギーも綱領もなく、各議員が腹を割った瞬間に党が割れる理念の開きをまとめたのが「党是」ともいえるものが「政権交代」 すなわち「反自民」だったのです。ちなみに、足立区で選出され地元の繁華街である北千住で、飲み屋のねえちゃんを口説き不倫し、あまつさえ、正妻との夜の巴戦を希望したと週刊誌に奉じられた「平山たいろう」 氏は、一昨年の衆院選、竹の塚駅前での辻立ちで繰り返したのは「民主党です。政権交代です。平山たいろうです」 政策を語ることはありません。ちなみに不倫をしていたと報じられた彼には4人のお子さんがおり、子供手当を人数貰っていることでしょう。年収3000万円を優に超えているのですがね。 ついでに彼のどうでも良い名誉のために、彼の主張を記しておきますが、支持者には一連の不倫報道を「ヤクザ案件」 と漏らしているようです。この不況でヤクザ屋さんも暇になったのでしょうかね。一回生議員にハニートラップを仕掛けて、なにを得るつもりだったのでしょうか。それとも、彼が大物政治家になるとでも見ていたのならふし・・・大穴を狙いすぎです。 話を戻します。 反自民、政権交代だけをお題目として布教された新興宗教は、その目的を達し、仏教的にいうところの涅槃へ、あの宗教でいうところのエル・カンターレに到達しており、すでにやることがなく新人議員は蜂蜜をなめます。 そして新興宗教にありがちな原理主義からこう考えます。「民主党にあらずんば人に非ず」 さらに、「民主党を崇めることこそ人の道」 で、マスコミ対策を誤りました。 一般的なメディア人、あるいはメディア出身のジャーナリスト全般に通じるところですが、彼らは優秀な成績で優秀な大学をお出になり、世間一般で言うところの一流企業に勤め、取材先や関係先もおハイソであられ、しかるにこういう考え方が基本にあります。「俺が一番賢い」 高卒のひがみではなく、新聞記者などと腹をわって話すと、驚くほど自覚症状があり、それゆえ、危機感を募らせているのですが、社内のマジョリティは「賢い」と自負する連中で、なかなか難しいとこぼします。 メディア人の本音は「俺がやったら上手く行く」 という思い上がりです。それは民主党の幹部も全く同じで、優等生タイプの集まった現政権と与党幹部は、腹の底で同じ思いでそれが「反自民」という教義とかさなっていただけに過ぎません。「批判、批評、事実の報道」 を使命とする海外メディアとの違いで、それは政治屋ごっこをする読売新聞の一番偉い人が証明しております。 だったらやれよ。と思うのですが、優等生タイプは汚れ仕事は他人がやるものと信じて疑いません。これなどは民主党と完全に重なります。大臣の発言をきいても、他人事のようで、ワイドショーのコメンテーターと大差がないようにです。 メディア系の人間が大所高所から説教垂れる構図と、民主党のお家騒動の本質が重なって見えるのは・・・そう、悪化した乱視のせいでしょう。 しかし、いま私は民主党、いや菅直人首相に感謝してやみません。 管首相のお陰で、甥に「人の道」を説くことができたのですから。 高校受験を控えた甥は、訳あって、いま私のところで生活しています。 詳しくはミクシィの「甥日記」にて、日常を追っかけながら連載しているのですが、彼との生活で驚いたことがひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと指を折れば足りないのですが、そのなかでもひとつ挙げるならこれです。「謝らない」 悪さをしても謝らないのです。 15才のすることで、当初は優しい目でみており、世話になっている叔父の下で、しかられて萎縮しているために声に出すきっかけをなくしているのかと見逃していました。 なんども、なんども同じことを繰り返す、彼を見ていて、そして我らが菅直人首相をみて、受けた啓示がこれです。「謝罪という思考回路がない」 菅直人首相と比べると甥に可哀想・・・もとい、一国の首相に失礼ですので反対の賛成ですが、ふたりに共通するのはこんな価値観です。「謝るのは負け」 国際的には謝れば非を認めたことになり、不利になることもあります。私の営業の師匠も、頭を下げると責任を押しつけられるので絶対にダメだと教えてくれました。 しかし、ここは日本です。また、国家間はともかく、ひとりの人間としてなら、外国人相手でもさしたる違いはないのではないでしょうか。もちろん、ケースバイケースであることが前提です。 菅・・・もとい、甥の話です。いくら説教をしても頭を下げません。 自分が悪いと理解していることは表情から読み取れます。 ところがどれだけ水を向けても「ごめんなさい」が言えなかったのです。 首相のお陰で気づき諭します。 悪いと思えば謝罪しなければならない。 それによって命を取られても仕方がないばあいもある。それは悪いこと、謝罪しなければならないことをしたからだ。 逆に考えてご覧。謝らなければ、どうして相手が許してくれるんだい? それは伸子夫人・・・コホン、君と接するすべての人間がママなら話は違うだろう。一般的な母親というのは、子供がしたことはたいてい許してくれるらしい。らしい・・・というの理由はおまえが大人になったら話すことができるが、叔父さんの母親、つまり君のおばあちゃんはちょっと違う人だったから。 でも、おまえのママはどうだい? 許してくれただろう。いつか忘れたふりして許してくれたんだろう。 だけどな。世間は違う。すくなくとも反省したという意思表示のためには「ごめんなさい」という言葉が必要なんだ。それが次へのスタートラインになるんだ。 納得したようなので説教を続けます。 ついでにいっとく。おまえは嘘つきだ。 驚く甥を無視して話を続けます。 いいか、嘘というのは相手を騙そうという悪意がなくても嘘になるんだ。例えば、「できるといってできないこと」「やるといってやらないこと」 これはすべて嘘だ。悪意のあるなしがひっかかるかもしれない。 もちろん、「罪」という尺度で見れば、悪意のある嘘とは等しくはない。しかしちょっと想像してご覧。おまえは友達と遊ぶ約束をしている。それをテレビが見たいからと、一方的に約束を破れば、おまえが悪いのまではわかるだろ? うなずく甥。 それじゃあ、おまえが学校から帰ったら、家族で出掛けなければならない用事が待っていて、友達は自宅の電話に出ず、携帯電話をもたずに約束の場所にでかけており連絡がつかなかったとしたら? 約束は先に成立している。これはわかるよな。 翌日、学校に行って、こういったら友達はどう思う。「昨日帰ったら、突然家族で出掛けるっていわれてまいったよ」 待ちぼうけを食らった友達はどう思う。事実関係において、おまえに悪意はない。しかし、まず「ごめんなさい」じゃないか? おまえが友達の立場なら・・・どう思う? 結果的にできないことは仕方がない。しかし、迷惑をかけた人がいれば、素直に謝るべきだと叔父さんは考える。また、深く考えもせずに「やる」「できる」といって、できなければ? その言葉に期待していた人は落胆する。言葉を換えれば裏切りだ。 叔父さんはどちらも「嘘」だと思う。だから「ごめんなさい」と頭を下げて、次から「嘘」をつかないようにするところに人間の成長があるんだ。 ・・・「謝る」ということの意味を理解したようです。もちろんわかったからといってすぐにできるわけではなく、悪戦苦闘は今日、いま現在も続いているのですが、菅直人さんの身を持って示した「不信が生まれる構図」により、甥は少しだけ人間的成長ができたのです。 ありがとう民主党。ありがとう菅直人首相。 あなたがたのマニフェストのお陰です。
Feb 9, 2011
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卯年を迎えてもピョンピョンと跳ねるほど景気の良い話しどころか、チュニジアの政変に連鎖する形で、エジプトへと飛び火し、ネット関係者(オプティミストとネットユートピア信奉者)の多く時代の変革と興奮しております。 それは一昨年のイランの選挙で「ツイッター」の活躍事例を捉えての馬鹿騒ぎなのですが、日頃「ツイッターはツールに過ぎない」 と気取っているIT識者まで、「ツイッターが革命を!」 とはしゃぐ様は売れない芸人のネタのように笑えません。 ツールなのです。携帯電話が普及し、ブロードバンドが浸透し、既存メディアに言論の自由が保障されていれば、ツイッターがフィーチャーされることはなかったことでしょう。 事実、エジプトではショートメールやその他の伝達手段も併用されており、携帯回線とネット回線を「切断」するという対抗手段に現政権は乗り出したのです(携帯電話回線は復活)。 だから、いまの盛り上がりは・・・そう、ピープルパワー。 というほど青くもないのですが、独裁制の打破と民主化は等価ではなく、よりよい独裁制が生まれる可能性と、より悪い独裁者が誕生するリスクも内包しているのです。 さらに、アラブ諸国に波及すれば・・・と、暗い話しばかりをしていても何ですので、暇な二八(ニッパチ)に突入記念として少しは未来を楽観できるようにの楽観論です。 サッカーアジアカップでは準決勝でPKの末に下した韓国ですが太極旗の勢いは衰えを見せません。 実際、さきのサッカーでもスポンサー名に韓国の電機メーカーの名前がならんでおり、それはフィギアスケートにおける「かぶちゃん農園」 とどっちが多いかと数えてしまいたくなる衝動を抑えるのに必死でした。 ガラパゴスと揶揄されながらも世界最高技術を誇った携帯電話市場でも、いまや韓国サムスン(もう、三星電子って表記を知らない日本人も多いのではないでしょうか)のギャラクシーは市場評価も高く、こちらも食い荒らされる・・・というか敗北色が漂っています。 しかし、安心めされよ。 いま、韓国が抱えるジレンマが「対日貿易赤字拡大」 なのです。 平たく言えば韓国製電子機器が売れれば売れるほど、大量の日本製部品を日本から輸入しなければならず、赤字が拡大するのです。 産経新聞の記事にありましたが、サムスン電子の会長はこういいます。「中身で日本に追いつくには多くの時間が必要だ。 学ぶべきことは多い」 おべっかを差し引いても対日貿易赤字が事実と物語ります。 彼の地ではこの赤字を「日本のせいだ!」 と非難する声もあると言いますが、ここはまぁお客様の些少のワガママは受け流すのも下請けの処世術ですので軽く流しておきましょう。 モノヅクリの民が怒るべきは品質についてであり、感情的ないいがかりに関しては、かつてあった「ジャパンバッシング」 で経験済みと軽く受け流すのが吉。 ついでにいうと、某国際競技で某国の某代表選手が、日本人をサルとからかったようですが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」によれば、もともと「富国強兵」 のために、表面上の「日本式」を捨てて、欧州の文化、風俗生産技術を積極的に取り入れた日本を、華夷秩序により日本を見下していた中華文明圏の方々、日本人を「猿まね」 と呼び出したのが始まりらしく、そうみれば彼選手にとっては伝承された文化でしょうからニタニタと受け流すのが日本国民の所作というモノです。ただし「外務省」は「遺憾=ざんねん」と関係者スジから情報リークさせるぐらいの小技を見せて欲しいモノでしたが。 日本製の「部品」が優秀でも・・・と、憤るのは分かりますが、それではどうして韓国メーカーは、もっと安い中国製を使わないのかと考えると「楽観」の意味がわかることでしょう。 中国製が粗悪品とは言いません。しかし、粗悪品が混じる確率が高いのも事実です。もちろん、すべてではありませんが、政治的リスクも考えれば日本の方が「安全」で、それは日本人だからです。 高機能、高品質、安定供給。 まず、これです。 日本国内ではガラパゴスと日本人らしい自虐性を発揮して卑下しますが、高機能でなにが悪いのでしょうか。特に世界にブランド展開するステージに達した韓国メーカーにとって高機能は絶対条件となりつつあります。 同時に高品質。故障が多くてはブランドどころではありません。 そして安定供給。 東南アジアに切断用砥石を輸出している「トーホーシャープストン」 の栗林社長に聞いた話です。 いま、東南アジア各国で日本製の工具への人気が高まっているといいます。もともと親日家も少なくない土地柄に加えて、国力がつくにつれて、その昔使っていた「メイドインジャパン」への回帰が進んでいるというのです。 以前は中国製でした。品質はまぁそれなりでしたが、一番、現地商社が困るのが「安定供給」だというのです。 平たく言えば、原材料費や輸送にかかる原油価格が上昇するとすぐに便乗値上げをするので、欲しい時に欲しい道具が手にはいらなくなるというのです。 そしてもちろん、品質の当たり外れも少ない点がメイドインジャパンが支持される理由です。 これらはすべての日本製品に通じることでしょう。 だから、楽観的に・・と、まだ不安ですか。 たしかに「下請け」に甘んじるリスクはありますが、突然すべてがなくなるわけではなく、下降線を辿りながらも踏ん張れる下地があるだけラッキーだということです。 そんな不安性のあなたにはさらにサービス。「ブランド力」「信用」 が我らが日本にあるのです。 先ほどの切断用砥石の話しを思い出してください。 先人が積み上げてきたブランド力と信用。 グッチやシャネル、プラダは高いから価値があるのではなく、ブランド力と信用が価格を支えているのです。 ええいっ! おまけだ、もうひとつ。これはとっておきだよ。もってけ露●・・・もとい、どろぼう!「勤勉性」 同じ製品をより良く、より早く、より安く提供しようと、現場の一兵卒まで取り組む勤勉性が軌跡の戦後復興を支え、日本ブランドを創りあげたのです。 これは世界に誇れる日本人の特性です。 どうです? まだまだ楽観できるのです。 だから、「いま」、なにをするかなのです。 ・・・え? 勤勉性で不安になった。権利ばかりで義務を果たさないし、真面目にコツコツを嫌う風潮がある? それに「党を良くしようとしない一兵卒がいる与党」 だって? たしかにそうです。 だから、築き上げた信用が崩れる前に「教育」から見直そうとしつこく繰り返すのも「勤勉性」です。
Feb 2, 2011
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イベントのための「スケジュール管理」。それはタイムマシン。 簡単なことで作り出せます。ところがこんな簡単なことをやっている社長は希です。 面白いモノでiPhoneやアンドロイド携帯で「びゅーん」と、これ見よがしに操作する社長は掃いて捨てるほどいますが、高橋の手帳をひらき、来月の予定を見据えて仕事をしている社長は少数派。 この理由は簡単。iPhoneなどで遊んでいる社長は流行に躍らされる側で、来月を見ることができる社長は流行を創り出す側。 どちらを選ぶかはあなた次第。 今回のマニュアルは社員も活用できます。■通販支援ブログ 孤独な社長の裏マニュアル 第25回【第25回】タイムマシンにお願い。未来予想図でビジョンを示す http://blog.scroll360.jp/ec/keiei/post-548.html
Feb 2, 2011
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読み切りコラムです。 情報弱者体験を語るモノで、昨年末に私が経験した実話。 いいわけするなら、日頃は事前に地図をチェックして、東西南北を確認するのですが、夕闇も過ぎると太陽の位置がわからず・・・とそういえば先日、散歩も過ぎて川口市の安行慈林を越えて、そろそろ帰ろうかとまっすぐ進むと、自分の影がどうもおかしな方角に延びており、そこで「迷子」になっていることに気がつきました。 もしかしたら・・・方向オンチなのかと不惑になって自分を疑っています。【実話】スマホで客が迷子になる日。モバイル迷子とゲゲゲの墓場http://journal.mycom.co.jp/series/johjaku/007/index.html
Feb 2, 2011
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電子教科書議論ですっぽり抜けているのが「誰が教えるか」です。 ただでさえ教員の質の低下が叫ばれる中、あらたなツールを与えて、それを使いこなせるのかが不思議です。 それは近所の小学校のボランティアをしていた経験からも明らかです。 一例を挙げれば「月間予定表を一太郎の罫線記号で作成」「行揃えはスペース」「文字サイズの変更ができない」 フォローするなら「先生は忙しい」。 夏休み、冬休み、春休みがあり、週休二日でも先生は忙しいらしいのです。 そこに電子ツールが加わります。教科書を電子化しても、先生は生身の人間です。機械の体はアンドロメダ終着駅までいかなければ貰えませんし、現代科学では火星までも2年の歳月がかかり、機械の体を貰える頃には即身成仏となっていることでしょう。 そんな教育現場の実態です。■マイコミジャーナル潜入ルポ! 公立中学校のデジタル教育に見る「電子教科書0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/097/index.html
Feb 2, 2011
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宅急便はヤマト運輸の登録商標です。さて、アニメ映画「魔女の宅急便」 はどうしてその名称を使えたのでしょうか。 事実確認はともかく、こうした小ネタならウィキペディアを探せば掃いて捨てるほどあります。ウィキペディアの情報を頭から信じるのは大変危険ですが、ブログに書くぐらいなら充分に使えます。 だから「ブログのネタがない」というのはアリエンティ。 つづけられない人に共通する特徴から、その対処法を紹介しています。 そしてもっとも肝心なことは「評論家になるな」 詳しくは本稿へ。■心得其の201「魔女の宅急便とクロネコ。書き続けるための心得 Ver.201」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/01/26/9592
Jan 26, 2011
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テレビの公共性をどうたらこうたら。ネットで言う「マスゴミ」を完全否定できないのはその「自浄能力」のなさです。 分かりやすいところでは自社社員の痴漢やセクハラなどの報道は戒厳令がひかれ必要最小限しか報じず、他社のネタなら嬉々として報じます。 また、自分がフジテレビのアナウンサーであることをちらつかせセクハラ、不倫をしたケースなどは、いまではすっかりなかったことになったようで、地上波に出演している社員がおりますが、「セクハラ、不倫、パワハラ」 と、これが一流商社の事件なら「由々しき問題です」 と小倉智昭さんあたりが、したり顔で苦言を呈するのでしょう。 そして「内容」に関してもそうです。 利益と比較して、べらぼーに安い「電波使用料」しか払っていないテレビ局は限られた電波を独占する担保として「公共性」を謳います。 そこが単純な営利企業と違うのだという言い訳になっているのですが昨日、フジテレビ系列で報じられた「世界おもしろ珍メダルバカデミーUSA」 の番組紹介にはこうあります。「家族そろって笑えるおバカ映像番組決定版!」 番組の終盤に流されたのは、パンツをお尻に食い込ませて、そこにカスタネットをはさみ、ブルーハーツの「リンダ・リンダ」を歌いながら、尻の肉の収縮と解放を繰り返し音をならすというものです。 演奏者は知り丸出しの半裸。 の、どこに「公共性」があるのでしょうか。 だいいち、家族揃っては笑えません。 もともとはネットの動画投稿サイトにあった映像で、それなら問題にはしません。ネット全体には公益性は求められますが、個別のコンテンツは利用者の意思で選択されるもので、そこで超馬鹿、くだらない、下劣、低俗な映像を流したとしても、視聴者の趣味嗜好による選択に過ぎないからです。 テレビもチャンネルを替えれば同じだろう。という意見にはノーです。テレビは野放図に電波に乗せて流されているのではありません。国家管理された電波を独占的に使用する権利を得ており、そこに流して良い「映像」というのは自ずと制限されなければならないと考えるからです。つまり、放送免許という「特権」を得ている以上、社会的責任が生じるということです。 100歩譲って、これがシンデレラが帰宅した「深夜」ならばありかも知れません。この時間帯は「よい子」は寝ているはずですから。 よしんば1億歩ゆずって、番組スタッフや出演者が一丸となって「馬鹿」をやっているなら認めましょう。無駄なことこそ文化という主張に一理ありますし、そうした無駄なら私は大好きです。 そのばあい、子供と見たとしても、こうした馬鹿な映像をとるためにADが体をはって実験し、出演者も交えて何時間も議論をし、受けなければ反省会をするという裏側を語るのも、社会勉強につながることでしょう。 ところがこれは「ネット映像」。それもすでにネット界では著名なお馬鹿映像で、スタッフがしたことといえば、ネットで検索して関係者に使用許諾をとっただけ。 どこに「公共性」があるのでしょうか。 ゴミのような放送を撒き散らかしている以上、「マスゴミ」と罵倒されても反論できません。 そして、ひさかたぶりに本業がらみのネタを。 まぁ「マスゴミ」の相似形が「Web業界」です。 頭に「日本の」といれるべきでしょうね。 双子のようですが、キャリアからみれば「一卵性親子」といったところでしょうか。あるいは「一子相伝」。 Webにはゴミのような情報が散乱しています。 あ、ここで「ゴミじゃない、リサイクルすれば資源だ」というオチを思いついたのですが、あまりにもくだらなすぎるのでここで浪費しておきます。 根拠なく、なんでも騒ぎ立てて本質をスルーします。 公共性などそこにありません。分かりやすく言えば「これからは●●の時代!」 と囃し立てて、それが外れても反省も謝罪もしないどころか言及すらしません。ケツでカスタネットを叩く映像のほうがまだマシです。ケツカスタネットは「コンテンツ」を作りますがWebのゴミ情報とは、流行を無理矢理作ろうとするあまり、脅迫、恫喝、恐喝まがいの発言を繰り返す連中の発言です。 ことしは「Facebook(フェイスブック)」。 フェイスブックとは平たく言えばアメリカ版のミクシィで、世界中に6億人の利用者がいると喧伝されています。 Web担当者Forumの原稿でも書きましたが、このネットサービスを否定するモノではありません。海外向け、とりわけ英語圏の人間と商売をしたいのなら、フェイスブックが果たす役割は大きく期待してもよいでしょう。 しかし、これが「インフラ」になるという主張のくだらなさには鼻水が垂れてしまいます。ブログの時もセカンドライフも最近ではツイッターでも同じことをいわれていたことです。 そして脅迫とは「やらなければ××」、恫喝とは「取り残される」、恐喝とは「今すぐ!」。はっきり言いましょう。 やらんでもOK。やりたければどうぞ。 ここは日本です。グーグルが世界制覇したと喧伝されて久しく時が過ぎても、「ヤフー日本城」を攻めきることができず「万年2位」 だったことをWeb業界人は口にしたがりません。 結局、検索エンジンの提供という「同盟」のような形で、「日本制覇」 となった訳ですが、グーグル礼賛派の多くが、グーグルのテクノロジーや開発者魂、マッドサイエンティスト的な要素を喧伝していたのに、その手法は「大人の取引」でした。そして日本のWEB業界人は口にしませんが、グーグルの世界制覇の大半が「大人の取引」で、純粋にネットサービスの利用者を増やして世界制覇したわけではありません。グーグルのそれはビジネス戦略として見事で賞賛に値します。しかし、その本質に触れずに礼賛を繰り返すのが日本のWEB業界人の言論の特徴です。 いま、フェイスブックを礼賛する連中はその「実名性」を喧伝します。たしかにフェイスブックの規約上は「実名」となっています。 しかし、かつての「ミクシィ」が実名と謳われたことが幻と消えたように、フェイスブックがならないわけがありません・・・というかすでになりつつあります。 偽名や変名、ペンネームで登録している人は数知れず、・・・・と、いうより、Web業界人の少なくない人間が匿名でアカウントを取得していないと信じるほど、私はウブなねんねじゃありません。 かつてのミクシィ。さいきんのツイッター。 どちらも「実名推奨」とされるなかで、数々の著名人が偽名アカウントを取得していたのは公然の秘密です。あるWeb著名人は著書でどうどうと複数のアカウントを取得していることを記しています。 ここからみても「6億人の利用者」が「ふかし」にみえて仕方がありません。 それは、チュニジアやイランなど国情が不安定な国でフェイスブックが政権交代に役だったという声からもです。 まず、他に連絡手段があれば、そちらを採用したことでしょうし、セカンドベストの選択肢としてフェイスブックやツイッターが利用されたと見るべきでしょう。それに、そうした「命がけの政治活動」をするものが、ひとつのアカウントだけを利用するのは現実的ではありません。 本当に実名でひとつのアカウントだけで「つながる」としたら、当局がひとりを拉致してしまえば、あとは芋づる式に逮捕できるからです。命がけの反政府活動をしている方々がそんなマヌケだとしたら、転覆した政府は相当のお人好しです。 そこからみれば利用者数の水増しは世界規模と考えるのがリアルです。 もちろん、これはフェイスブックの責任を問うのではなくネットのリアルをしっていれば、誰もが気づき、そして気づいていてもクチしないところが「マスゴミ」とそっくりなWeb業界という指摘です。 自分たちに都合の良い結論のために「公共性」を弄ぶように「実名性」をもてはやしています。ケツカスタネットに公共性はなく、日本のWEBに実名性は馴染まないのです。 実名性についても少し補足しておきます。 多国籍な移民国家のアメリカと、そこから繋がる経済圏において「自分(アイデンティティ)」を証明するのは生き残るために当然の作業で、ネットにおいてもそれは同じです。そのため「実名」を隠す労力と、公開することで減る労力(自分の存在証明)を天秤にかけて、得だと思うから実名を公開できるのです。 翻って日本はどうでしょうか。語弊を怖れずに言えば単一民族の村社会です。リアルの世界でどこの誰かを証明することは出身学校でも語れば充分で、ついでに世界に冠たる戸籍制度もあり、素性を「洗う」のは簡単です。 そして村社会故に、放り投げた発言が一生を縛るレッテルとなることもあります。 最後に新聞のゴミっぷりにも言及しておきましょう。 日経新聞の厚顔ぶりは先日紹介しましたが、今回はナベツネ新聞。もとい「読売新聞」社会面より<就活「3年終了後から」 国立、私立大側 初の見解> いわずとしれた大学生の就職活動の時期について、国立大学協会と私立大学団体連合会で就職問題を担当するふたりの学長への取材結果で、それぞれこう述べている、同じ紙面の右下にはこうあります。<読売新聞社 技術総合職を募集中> 要件のひとつはこうです。<4年生大学を2012年3月までに卒業見込み> ま、「募集」や「告知」ならありかも知れないと読み進めると<応募締め切り 2月22日(火)必着> つまり、現役なら大学3年生までが対象と言うこと。 これも「舌の根の乾かぬうちに」というのでしょうか。それとも「まだ決まっていない」、あるいは「法律で禁止されていない」とでもいうのでしょうか。 なんだか懐かしい、あの人のこんな台詞が脳裏をよぎります。「お金儲けしちゃいけないんですか」 ケツカスタネットに盲目的な礼賛。取材結果を無視した自己利益の追求。そこにモラルや道徳という言葉は見つかりません。
Jan 26, 2011
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論点モノが流行っているようなので便乗しました。 日本のWeb業界の病巣といってもよいでしょう。 本稿執筆に当たり5年前の資料を引っ張り出したのですが、まぁ実名を挙げたくなるほど、いまツイッターやフェイスブック関連で「ソーシャルの時代」 といっている連中が「Web2.0」を騒ぎ、祭りの後始末をしないまま馬鹿騒ぎをしているのが現状です。 こんなのもありました。「SNS酒場」 Web業界にどっぷり使っている人なら、これだけで誰のことかピンと来るでしょうが、ミクシィを使って創りあげた紹介制を採用したBarということですが、平たく言えば「会員制」で、それはなにも珍しいモノではないという突っ込みは辞めておきましょう。 なぜなら、彼らはリアルのモノをネットに置き換えただけで、「新しい」「革新」と呼ぶのですから溜息が止まりません。ならばメールでの愛の告白をこう呼ぶのでしょうか。「eコクリ」 馬鹿にしているのでフォローはしません。で、まぁこの酒場はすでに「終了」していますが、その時期はこの酒場を自著で紹介してから半年後です。 邪推をするなら、本で紹介したものの大ブレイクしなかったので潮時を見た・・・というところでしょうか。 これらが何を語るかと言えば本稿から落とした部分です。「商売を知らない人間がWEBを語る」 ・・・さらに述べてよろしいでしょうか。「技術を知らない人間もWEBを語っている」 後者については絶句しますが実在します。それも多数。はぁ。 あ、ゴメンなさい。200回、ありがとうございます。 読者の皆様のお陰様です。■心得其の200「これまでのWebの話をしよう。日本のWebの論点2011」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/01/19/9548
Jan 19, 2011
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優しい嘘。残酷な沈黙、おしゃべりなつぶやき。2011年のベストセラー(予定)。筆者は松本徹。本名だったので気づかなかったパターンは、今後の出版界のトレンドに・・・なるわきゃないですね。水嶋ヒロさんを揶揄するのならこうでしょうか。「おばあちゃんがいっていた。世界は自分を中心に回っている」仮面ライダーストロンガー・・・もとい、カブトでの台詞です。でも、どちらも洒落としてネタにしていますが、結局はエンタメの世界で、裏側を楽しむより、その「表現」を受け入れるかどうかで、モラリストのシド・ヴィシャスが伝説になったわけはなく、ボランティア活動を売りにしている音楽プロデューサーが結果的におんなのをとっかえひっかえしたとしても、本人の問題にすぎません。ま、わたしは嫌いですが、それも主観に過ぎませんし、強制はしません。しかし、まぁそれが「実用書」にまで派生しているのが日本の出版業界の現実で、これにはいささか嘆息しますが、それも客が望んでいるのですから致し方ありません。そして「WEB業界」は・・・見事なエンタメです。■マイコミジャーナル麻木久仁子が教えてくれた「嘘だらけのツイッター0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/096/index.html
Jan 19, 2011
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日本全国に伊達直人に矢吹丈、ほかには坂本龍馬などなど、歴史からフィクションまで様々な「善意」が溢れかえっています。 何度も述べているように偽善でもやらんより、やった方がマシ。 というのが私のスタンスですから悪いことではありません。 ただし、同時に、これも繰り返しになりますが、「愛のない100万円より愛のある1円」 というどこからのテレビ局のしっかりギャラを受けとっていると噂される、あのバラエティとは一線を画すものです。視聴者から小銭を集めるより、CMのスポンサーフィーから支払えば、桁違いになるなどという野暮はいうまい。きっとこういうでしょうから。「みんなの善意を集めることが大切」 ふーん。 でもそうなるとやっぱり、スポンサーから報酬を得ている、テレビ局にいわれたくないなぁと、もう10年以上(多分、もっと)あの番組は見ていませんし、出演したタレント(を、知ればですが)は向こう1年色眼鏡で見ることにしています。 それに比べれば「タイガーマスク募金」は、罪がないというよりはるかにマシです。 ただ、今週になって沈静化しましたが、こうした「ブーム」は手のひらを返した時に、恐ろしく、また、愛情は失った時の方が悲しいものだということを知っていると切なくなります。 まず、議論を単純にするために「児童養護施設」で統一します。 児童養護施設の運営は様々な団体が行っていますが、いわゆる役所の出先機関ではなく、それぞれの自助努力が求められます。 補助は出ますが、基本カツカツです。それを助けるのは伊達直人ではなく、日常的寄付をしたり面倒を見る篤志家です。なかには駐車場経営といった事業での収益で賄っている施設もあります。 だから伊達直人・・・と、いうのは勿論。しかし、ランドセルはこの時期、施設によっても異なるでしょうが、すでに用意していることもあり、だぶつくこともあります。また、親もなく、ものもない子供でも、好き嫌い、好みはあり、これを「贅沢」といわれれば、それまでですが、善意という美名の前に率直な欲望を口にできない子供の心を妄想して涙がにじみます。 あのね。子供だって遠慮もすれば気も遣うのです。 ランドセルをあげるぐらいは・・・そうですね。 それはそうでしょう。やらないよりやった方が遙かにマシ。 なにより善意を腐そうものなら人非人あつかいを受けるので得か損かで語れば褒めそやす方が得です。 しかし、施設でサイズの合っていない洋服は珍しくありません。なぜなら、お古を「シェア」しているからです。 いやいや、それでも施設に入れる子供はまだ幸せだという論もその通りです。「入居待ち」している児童は少ない数ではありません。 多少でも行き先があれば、それが本人の望む形でなくともいかざろうえません。いや、行くところがあるのならそれもまた「贅沢」だという主張を否定しきれません。ソマリアやハイチを想像するまでもないでしょう。 そして私の知っている施設にいる子供にとって、唯一の楽しみは日曜日の「ご馳走」だったといいます。一番嬉しかったのは「ラーメン」だと。 よくよく聞くと「サッポ●一番」のようなインスタントですが、それでも嬉しかったと言います。 施設にいる子供の境遇は様々です。親に殴られた子供などざらです。ある中学生は親に鎖で縛られて、軟禁されていたといいます。また「弱い」子供だけでなく、「荒れた」がために親が引き取りを拒否することもあります。 こうした「色んな子供」を一緒に育ててくれているのが施設です。 さて、伊達直人のプレゼントとして、何が喜ばれるでしょうか。 ツイッターで、児童施設にパソコンを送ろうと呼びかける声を見ました。もちろん、施設に問い合わせてパソコンが欲しいと望みそれをプレゼントするなら素晴らしいことです。 ちょうどパソコンが古くなっており、渡りに船なら運命的な幸福を感じることでしょう。 しかし、それを望まない施設ならばどうでしょう。 こうしてメルマガやブログを呼んでいる人にとってパソコンは筆記用具レベルかも知れませんが、いまだに覚束ない人は多く、そこに「機械」だけを持ち込んでも負担になるだけです。 色んな子ども達がいます。そして今般の報道であまり触れていないのですが先生と呼ばれる親代わりの「職員」は激務で、そこにパソコンを覚えろと私は口が裂けても言えません。 パソコンを寄付するのであれば、セットアップから「指導」まで含めるほうが実状に沿っていると私は考えます。 また、先ほど述べたように、「色んな子供」がいます。 彼らのなかには「ネット」に触れる環境が好ましくない子供もいます。 例えば施設に入る前に「保護所」という、児童相談所の管轄下の公的施設があり、ここに入居した子供は互いの素性を明かすことや連絡先を交換することを禁じられています。しかし、子供の口にも戸は立てられず、「出所後」にネットができるようになったら「××で検索して、俺のブログあるから、遊ぼうぜ」 という誘惑もあるのです。完全無菌にはできませんが、こうしたリスクをネット孕んでおり、タイガーマスクからパソコンが届けられたことに職員が「余計な仕事が増えた」と考えたとしても、私は責める気持ちにはなれません。 つまり、与える側の「希望」が必ずしも施設の需要とマッチするわけではないのです。 そして皆さんの善意を疑うわけではありませんが、私には大手新聞社も含めた手放しの礼賛にこう思うのです。「ものだけ与えても子供は幸せになれない」 モノがなければ困るのは当然ですし、愛がなくても100万円のほうが大切です。しかし、人はパンのみに生きるに非ず、子供はランドセルだけで育つわけではありません。 ついでにいえば施設の職員が持て余すような「もの」よりキャッシュのほうが実情に即しています。こんな場面を想像してください。 ある施設の運営はやはり厳しく、そこから公立小学校に通う直子ちゃんは、自分のお洋服がお古であることが不満でした。両親の虐待により施設に預けられたのですが、まだ夫婦仲が良かった頃は、お出かけする度にお洋服を買って貰っており、子供といえども「楽しい記憶」にすがるのは人間の自然な防衛本能です。 戯れに新しい服が欲しいといっても、お金がないと施設の先生は相手にしてくれません。興が過ぎてしつこくなるのも子供ですから仕方がありませんが、わがままはきつく戒められます。 先生としても我が子同然の子ども達に新しい洋服の一枚ぐらい買ってあげたいのですが、預かっている子供のひとりだけとはいかず、全員となればポケットマネーでは足りません。 現実の生活は子ども達が想像するより厳しいのですが、現実の全てを伝えるには幼く、しかし、現実との接点から逃れる術はありません。 直子ちゃんの前にタイガーマスクが現れました。 タイガーマスクは洋服をおいて去っていきました。 洋服は先生が分配してくれましたが、一緒に暮らす友達のほうを直子ちゃんは欲しくて仕方がなく、先生にこう求めます。「私が貰ったものジャン」 ・・・架空のストーリーです。 そしてしつこいようですが善意は尊重した上ですが、私は体験からこう懸念するのです。 職員の日頃の苦労を見ずに、モノを与えた満足感と喜ぶ子供の笑顔という上前をはねる行為。 私事についてはミクシィの非公開版で書くつもりですが、豊かな側、恵まれている側からだけ見る「善意」というものに懐疑的です。 もちろん「偽善」でもやらんよりはマシ、なのですがね。 ただキャッシュなら「先生」が分配できますし、あるいは施設に相談した上で望むものを「提供」したのなら、そこにも「親」の意思を繁栄できるのでより望ましいのではないでしょうか。 あのね。人間の残酷な真実としても「ものをくれる人」には従うモノで、それを家庭教育では活用するもの・・・ということを誰も語らないのが不思議です。 ちなみに「子供手当」を受け取れない施設の子供はいます。
Jan 19, 2011
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優しい嘘。残酷な沈黙、おしゃべりなつぶやき。2011年のベストセラー(予定)。筆者は松本徹。本名だったので気づかなかったパターンは、今後の出版界のトレンドに・・・なるわきゃないですね。水嶋ヒロさんを揶揄するのならこうでしょうか。「おばあちゃんがいっていた。世界は自分を中心に回っている」仮面ライダーストロンガー・・・もとい、カブトでの台詞です。でも、どちらも洒落としてネタにしていますが、結局はエンタメの世界で、裏側を楽しむより、その「表現」を受け入れるかどうかで、モラリストのシド・ヴィシャスが伝説になったわけはなく、ボランティア活動を売りにしている音楽プロデューサーが結果的におんなのをとっかえひっかえしたとしても、本人の問題にすぎません。ま、わたしは嫌いですが、それも主観に過ぎませんし、強制はしません。しかし、まぁそれが「実用書」にまで派生しているのが日本の出版業界の現実で、これにはいささか嘆息しますが、それも客が望んでいるのですから致し方ありません。そして「WEB業界」は・・・見事なエンタメです。麻木久仁子が教えてくれた「嘘だらけのツイッター0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/096/index.html
Jan 18, 2011
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全国に広がるタイガーマスク現象。 私がもっとも懸念しているのは「掌かえし」です。 例えば届いたランドセルが余ってしまった。 あるいはピンクのランドセルが10個届いたが、女児は7人しかおらず余った、また男児に背負わせた。 コンピュータの場合は、職員が使った、転売した、使いこなせずに放置されていた。 食品の場合は食べてしまえば良いので、ある意味、こうした心配は少ないのですが、それでも残した、腐らせたとなったときに、マスコミや世論(せろん)の針が逆に振れてしまうことです。 誰も損をしないから良いだろう。そういう意見もあるでしょうし、否定はしません。しかし、受けとる子供も単純に嬉しいと思うばかりでなく、この「ブーム」が去った後に「消えていく愛情」を知り、どう思うか。 そしてこういうフワフワした善意の前にこういうことを述べれば「KY」と呼ばれるのでしょうが、児童養護施設から一般の小学校に通う子供の中にはこうした言葉をぶつけられることもあるでしょう。「おまえのランドセル、タイガーマスクから貰ったんだろ」 これにたいして「そうだよ。うらやましい?」 と、強くなれと施設で小さな戦いを繰り返す児童をけしかけるデリカシーは私にはありません。 そこで報道にもひとこと。「●●の児童施設」 とまで報じずに、都道府県レベルで留めて下さいと。
Jan 12, 2011
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今回で199回。いま、200回の原稿を校正中。 で、本当は200回記念にと考えていたとっておき。 Web屋で独立を考えている方は必見です。 そして字数が足りなかったのでここで補足。「セレブ」とはマリエさんや、鳩山由紀夫さんだけではありません。 業界において影響力のある人のことで、マーケティング用語では「スピーカー」 と呼ばれる人です。WEB屋の言葉で近いところでは「インフルエンサー」 他人に影響を与えるという意味です。 こう絞るとですね。地元にも身近でも、結構いるんです。セレブ。■心得其の199「Webで簡単に結果をだす方法。客を選べば格差社会が味方となる」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/01/12/9497
Jan 12, 2011
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毎週火曜日公開の原稿が水曜日になりましたことお詫び申し上げます。 理由は担当さんの手違いですが、私の名前で公開されているものです。 私が頭を下げるのは当然です。 ところが、これができない社長が多いのです。 部下の失敗を辿った究極は社長に帰結します。もちろん、売れる売れないも同じです。 ところがこれを認めません。それどころか、悲しいことに、こちらの方が多いのです。「売れないのは社員がわるい」 そして「コンサルタント」に依頼します。 そしてその「コンサルタント」は、社員も気づいていることをなぞります。 はぁ。迷走する会社はいつも同じ軌跡描き地平の彼方へ。■マイコミジャーナル潰れる中小企業の共通項「迷走するアドバイス0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/095/index.html
Jan 12, 2011
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私にはじめて10円ハゲができたのは小学校6年生の頃。 きっかけは「宇宙はどこまであるのか」。 ビッグバンにより生まれた宇宙は極限まで達した時に、収縮へと転じると当時は考えられており、極みに達した時、人もチョロQも点に帰ってしまう・・・というのは論理的に理解しました。 すると次に湧き上がった疑問は「死後の世界とは? 輪廻とは? 神とは?」 一神教の方に投げかけると激怒されそうですが、神道と仏教のゴーヤチャンプル状態の日本人的宗教観から、漠然と死後の世界があり、輪廻もあり、神も仏も悪魔もゲゲゲの鬼太郎もいるだろうと信じていた小学生にとって、ふたつの理論は噛み合いませんでした。 つまり、ビッグバン以前、そして大収縮以後の世界に「人」が存在しないのであれば「死」とは永遠の停止を意味し、すべては無に帰する存在でしかない・・・てなことを考えいるウチに不眠症になり10円ハゲとなり、ハゲを見つけて女子にもてないと反省して、ハゲは改善へと向かうわけですが、また、ハゲができそうな本を手に取ってしまいました。「宇宙は何でできているのか」 平易な文体で、高度で複雑な箇所は「知らなくていい」と言い切るところが素敵です。そう、学者の書籍の問題点は、本論に微少な影響しか与えない各論であっても、すべてを論じようとする真面目さにあります。 まぁいい加減。良い加減という表記が正しいでしょう。 宇宙には暗黒物質があり、4次元も存在する。そして素粒子をつきつめることで宇宙の果てを知ろうとする試みは、手塚治虫先生の「火の鳥」 で、極ミクロの世界と極マクロの世界を主人公に見せるシーンと重なります。 そして永遠の定義に考えが及ぶと10円ハゲの出番です。 本書に永遠の定義はでてきませんし、宇宙は収縮しないという発見もあったそうですが、私たちの銀河がアンドロメダ銀河とぶつかる日・・・と、考えると、ねぇ。■宇宙は何でできているのかhttp://www.as-mode.com/check.cgi?Code=434498188X
Jan 12, 2011
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ハッピーと感じたことのないハッピーマンデーも終わり、人によっては成人の日とも呼ぶようですが、とにかく、お屠蘇気分に冷水をかけて酔いを覚ましたように、連休明けの昨日あたりから街の秩序が取り戻されている気がします。 それはわが家においても感じます。同居する甥が学校に通い始め、朝から学校に出掛けることにより、我々も「仕事モード」に切り替えることができるからです。しかし、学校の送り出してからのほうが不安になるのが本日のテーマです。 中学3年生ですから仕事の慣用句的な意味での、手が止まるほど手間がかかるわけではありませんが、受験生のくせして居眠りの常習者で、それはイコール進学をあきらめるレベルの学力しか装備していない彼にとっては、目を閉じることは未来の光を失うに等しく、「本人の問題」と突き放すほど我々は達観もできず、彼が自宅にいる時の私と専務の最大の仕事は「寝かさないこと」 です。30分、1時間と予告なくチェックし、「ものおと」がしなくなれば「威嚇」して睡魔を追い払います。他にも大胆というか、本来は存在していない「勉強の空き時間」を彼は勝手に創り出し、彼の勉強部屋にあてがった弊社応接室兼会議室兼図書室の書棚にあった「尾崎豊全曲集」から、歌詞を書き写したり、半纏のポケットにハンドグリップを忍ばせて、英単語も覚えずに握力を鍛えます。もちろんすべて未来を閉ざす行為です。 自覚のないものの脳みそに学力を詰め込むことは、電極でも埋め込まない限り難しく(埋め込んでも無理です。念のため)、諸事情から一切の折檻、体罰を禁じられているので、「本人次第」によるものしかなく、我々には彼を襲う睡魔と、彼を誘う怠惰を追い払うことしかできないのです。ちなみに、費用はかかりますが、テレビCMをばんばん流す某塾へいれることも検討したのですが、入塾テストを受けたところ、丁重に辞退されたことを添えておきます。そしてその後、「セールス」の電話が鳴ったことがないといえば実力は想像できるでしょうか。 ずっとそばについて勉強させれば? という暖かなご意見もあるでしょうが、それは馬・・・根本的学力不足の子供や人間についての洞察が足りない机上の空論、あるいは憲法9条があれば戦争は起こらないと信じるぐらいの理想論であり妄想です。 中学3年生、それも受験間もなくのレベルで進学困難なほど学力が準備不足の子供は、学力以外の問題があり、甥のケースでいえば、大人が張り付いていると「遊んでくれることを期待して勉強が疎かになる」 のです。生育歴、環境によるものです。なまじ、大人の中で育った子供というのは、子供好きな大人を見抜く鑑定眼を装備しており、色々と質問するふりして「脱線」することを期待します。大人はよかれと予備知識や、周辺情報を説明し、勉強するより話を聞いている方が楽しいと手を休め、もっともっと、それからどうしたと食い付く様は、絵本をせがむ幼児と同じで、自動的に勉強は停止します。 それでは教えずに「監視」だけした場合でも、子供好きな大人を見抜く鑑定眼があると厄介です。「遊んでくれない」 と無意識下で逆ギレ状態になるのです。 ただし、彼が生まれた時から「強い大人(オジサン)」を演じ続けた私へは、トラウマかと思うほどの恐怖心とリスペクトがない交ぜで、私が監視している間は寝ることはありませんが、専務(妻)の場合はなめてかかって寝てしまいます。 そこで先ほど述べた30分から1時間のあいだの「不定期便」に落ち着いたのですが、・・・仕事にならないのです。細切れの時間でこなせる仕事は問題ないのですが、充分な時間を要するものは難しく、また彼を襲う睡魔は不定期で、そこに神経を貼りながら、仕事への集中力を維持するのは困難だったのです。 塾に入れて貰える程度の学力と、それを応援できる「財力」があれば、17日間ものバカンスを「修行期間」にあてることもできるのですが、それも叶いません。 幸いにして、夫婦ふたりで爪に火を灯しながら、その燃えるタンパク質のイヤな匂いで遊びながら暮らしてきた我々には、塾に通わせる程度の貯金はあったのですが、塾から断られてしまい、専属の家庭教師をつけるなど、もっとお金のかかる方法ならあったのですが、隙あらば居眠りし、尾崎豊を写経し、握力を鍛える人間に投資するのは、1万円札の白線流しです。お客様から頂戴した貴重なお金をドブ・・・自覚のない子供に投じることはできません。 そこで甥と一緒に大型書店に出向き、2時間ほどかけて、彼が「これなら」と思う(もちろん、我々大人が誘導したことは否定しません。教育に強制は不可欠と考えますので)参考書を「大人買い」 して、取り組ませます。塾代に比べれば安いものですが、日頃少年ジャンプと「あびるの空」の単行本しか買ったことのない甥はその金額に目を輝かせます。 買い与えただけで、勉強をしてくれるほど甘くもなく、あの手この手の工夫をした17日間だったわけです。 そしていよいよ学校。「もう、はやく学校に行って欲しい」 とは子供いる家庭の奥さんがよくこぼす愚痴です。 しかし、私は先週末からこう思うようになりました。「学校に行く必要はない」 某宗教団体や、怪しいチャンプを生み出すボクシング一家のそれとは違います。甥にとってのいま、最大のミッションは高校入試で合格・・・する以前に、善戦できる程度の学力を身につけることです。それは昭和の表現で言うところの偏差値や内申点を論じるレベルではありません。 いや、逆に5点、十点に鎬を削る受験生にとっては、学校になど通いたくないと考えても仕方がないことを痛感します。 原則を大切にする私からすると論理矛盾しているかも知れませんが、それは一個の人間として判断できる大人への注文であり、子供へのそれではありません。しかし、それでも「叔父馬鹿」故に論がぶれているという批判は甘んじて受けましょう。しかし、学校教育がおかしいのです。 まず、冬休みの宿題(課題、目標など様々な表現がありますが事実上)にこんなものがあります。「ウィンタースポーツを体験、または観戦せよ」 冬休みに入る直前、甥が私の仕事部屋にきてこう訊ねます。「オジサン、ウィンタースポーツって何?」 即座に答えます。「受験生がやってはならないもの」 私の脳裏には広瀬香美の懐かしのヒットソングと共にスキー、スノボーが広がり、クリスマス前と言うこともありニューヨークのロックフェラーセンター・リンクでヤンキーが興じるアイススケート場で伊藤みどりさんが3回転半ジャンプします。 いずれも「滑る」競技で、時に「転び」、古来より受験生の忌み嫌うものだったと教えます。 真面目に考えてもあとは駅伝ぐらいでしょうか。追い込みの受験生になにをさせるのかと憤慨しましたが、箱根駅伝をおせちでも食べながら観戦したとお茶を濁せばよいという温情と解釈することにしました。 書き初めもありましたが、こんなものは「さっさ」と書けば10分もあれば充分ですから、受験の妨げにはなりませんし、日本人の文化風俗としても大切です。 不可解で、私が「学校に行くな」と考えた宿題が「総合」 の時間で使う資料集めです。「最近気になったもの」 というテーマに沿って、各種媒体、インターネットを通じて資料を集めろというのです。そして、それを受験勉強が忙しいこの追い込みの時期に「発表」までやるというのですから呆れてしまいました。 最近気になったもの・・・自発的な興味を喚起して、自主的な学習意欲の喚起・・・とでもいいたいのでしょうか。違います。断言します。教師の手抜きです。 正解のない出題は禅問答のように真実の深淵に辿り着くという美名もありますが、真実の深淵を知らぬものが評価などできぬのもまた真実です。問題は中学生の「気になったもの」に真実の深淵があるかも知れませんが、それを高校受験を間近に控えた生徒にやらせる価値があるのかということです。「受験が全てじゃない」 とは大嘘です。その理由は簡単。中学3年生で行われる三者面談とは「どの学校を受験するか」という受験相談だからです。 さらに私的体験を重ねると、進学可能率測定不能の甥の学力を冷静に判断して「就職」の可能性を三者面談で訊ねたところ、昨今の景気を踏まえた上で「不可能に近い」とこちらも拒否され、最初の願書の段階で「夜間高校(定時制)」まで提示されています。 つまり、中学校も「進学」を前提に動いていながら、実際のカリキュラムはそれに即していないのです。 私は何も「予備校にしろ」といっているのではありません。 総合の授業も必要でしょう。しかし、それが何故? いまなのかということです。とりあえず受験が終わる2月末から2次募集(いまは後期とも呼ぶ)の3月初旬まではたっぷりと時間もありますし、あるいは一学期に進路を考えるための「自由研究」として「総合」を活用する方法だってあるでしょうに、よりにもよってこの追い込みの時期に。 さらにおかしな日々が続きます。 いまは都立高校にも推薦受験があり、この願書の提出日は1時間目の学活だけで、下校、さらに翌日の私立高校願書提出日も1時間目の学活だけで下校します。なぜでしょう? 願書を出願しにいく生徒が授業を受けられずに「不平等」 だからでしょうか。 どうしてこういう考えになるかと言えば、その先にある都立高校の推薦受験の当日は3時間授業で下校するからです。 都立校の推薦は諸条件により異なりますが、学力を検査する筆記試験はなく、事前に学校側より提出された調査書と小論文などと面接で終了するので、たいていは午前中で終了し、それは3時間目の終了時間とほぼ重なります。 昭和時代、願書を出しに行く生徒を羨んだものです。「いいなぁ、授業さぼれて」 そこかい! という突っ込みがきこえてきそうですが、願書出願という現実のプレッシャーに青白い顔のクラスメイトの表情から、軽口を叩いたことを恥じました。つまり願書(我々の頃は私立だけ別の日)を出しに行くのは個人の問題で欠席にはなりませんが、他の生徒の授業を妨げるものではなかったのです。 ところが「推薦」「私立」と、それぞれの「都合」にすぎない事情に公(集団)があわせるという本末転倒が起こっているのです。 話を総合します。 長い冬休み、自由という名の無責任な資料集め、悪平等による授業の短縮。 ここから導き出される結論はこうです。「学校に行くな、塾に行け」 ・・・ただし、これは「学校差」がかなり激しいので、お子さんの通学されている学校の方針によりますが。そしてなにより「塾がいれてくれれば」 です・・・はぁ。 入塾拒否された我が甥は拾ってくれるところはありませんが、この3ヶ月見ていて、学力が伸びたのは学校の授業ではなく、「自宅軟禁状態での参考書地獄」 です。 週末や連休に学力が伸び、学校に通いだすと学力が低下します。 今回の原稿は迷いました。なぜなら、本稿の公開により、子供の将来を左右する教師のご機嫌を損ねた先に何が待っているか・・・言葉を選ばずに言えば「人質」にとられているのですから。 ただ、馬・・・まぁ、それを気にする次元ではないので、もし受験生をお持ちの読者がいれば、お子さんが通学される学校の「事実」をチェックされることをオススメします。 公立学校の「モラル」や「レベル」って想像以上に崩壊しています。
Jan 12, 2011
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子供との会話は執筆作業に似ております。 それは「前提」や「状況」を説明しなければならないからです。 プロの原稿は読者レベルにあわせなければなりません。例えば私の連載「Web担当者Forum」では、ある程度Webの知識がある前提で書き上げることができますが、マイコミジャーナルの「エンタープライズ0.2」においては「知らない読者」向けの解説が必要であるようにです。 例えば「昔は」と前置きするだけで、同年配以上の方なら説明は不用ですが、現代の中学生や小学生には「パソコンのない時代」 を説明しなければ、「ネットで検索」 などできなかったことを説明できません。 これは「調べる」をテーマにした甥との会話で、彼が粗忽であることにも要因があるのでしょうが、「図書館の意味」 を知りませんでした。漠然と本を読むところ、自習する場所という認識はありましたが、「調べ物をする」 という用途を知らなかったのです。よくよく訊ねると学校でも「調べ物=パソコン(ネット)」と教師は教えているそうです。 今回は「教育」がテーマではないので掘り下げませんが、教育現場はなかなか「香ばしい」ようで、いずれ特集します。 唐突ですが「命とは時間」です。 言葉を足せば「ひとりの人間が使える時間には限りがあり、その限りが命」 ということ。哲学の話しではなく、時間というの概念は人間にとって大切なものであることは言うまでもなく、おはじきやビー玉と同列に語るものではない・・・ということに異論はないでしょう。 しかし、現代日本において時間がビー玉と同列に扱われています。 その証拠が「俺の三個上」。 こう書くと分かりやすいでしょうか。「おれの3コ上」 すでに若者だけではなく中年まで、年齢の上下を、学年の差を「個数」で表すようになっているのです。 何歳、何学年、いくつ。時間を表す言葉が豊富にあるのにです。 英語でも時間は区別して数える理由は簡単です。「ジェームスはジミーの何個上ですか?」 英文で問われたら、こう聞きかえすでしょう。「その前にジミーは何を何個もっていますか?」 ものと時間は区別されており、その区別とは「相互理解」の上での「お約束」です。 言葉は生きているから変化に目くじらを立てることはない。 日本語の変化(あるいは退化)を嘆くと、こう反論する人が必ずいます。しかし、基本を知った上で無視するのと、基本を知らずに濫用するのでは意味が異なります。 甥が私と姉の年齢差をこう訊ねます。「なんコ違うの?」 私は答えます。「私と姉はビー玉ではない」 そしてそもそも年齢を「コ」と数える習慣などなかった時代があったことから説明しないと彼らは理解できません。それほど昔ではなく、90年代初頭は一般的ではありませんでした。 言葉は年齢と共に変化します。小学生が「ばぶー」といわないように、社会人がいつまでも「学生言葉」を使うのはいただけません。しかし、それは「コ」に表れるように学生言葉が継続されます。 コの普及に一役買ったのが携帯電話とみています。 年齢を個数で表すのは学生の言葉で、この表現が広まり始めた当初の90年代中期には大人にたしなめられていた風景をよく見かけたものです。 幼稚園から小学校、中学校から高校、大学、社会人と時間を経て環境が変わることで「言葉」は変化する・・・ものでした。「自分」を「名前」で称する時代から、「ぼく」「わたし」になり「俺」、そして「わたくし」と。朱に交わったからか、郷にはいったかは分かりませんが、環境の変化が言葉を変えていったのです。 かつて「固定電話」が個人的な情報伝達の主役だった時代は生活環境が変われば連絡を取ることは難しくなり、次第に距離が生まれ、反対に今置かれている環境に馴染むよう努力しました。 ところが携帯電話の普及により、いつでもどこでも「連絡」がとれるようになりました。高校生になっても「地元の友達」と遊ぶ頻度は高く、社会人になっても「学生時代の友人」とつるむことができ、最近ではこれにミクシィやツイッターが拍車をかけます。 そして「コ」からの脱却するチャンスを見逃して一般化したと説明しなければ、「コ」で事足りている世代は理解しません。 平たく言えば「知らない」ことが多すぎるのです。 もっとも中学生なら「当たり前」で、それを説明するのが年長者の仕事と噛みしめております。
Jan 5, 2011
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子供との会話は執筆作業に似ております。 それは「前提」や「状況」を説明しなければならないからです。 プロの原稿は読者レベルにあわせなければなりません。例えば私の連載「Web担当者Forum」では、ある程度Webの知識がある前提で書き上げることができますが、マイコミジャーナルの「エンタープライズ0.2」においては「知らない読者」向けの解説が必要であるようにです。 例えば「昔は」と前置きするだけで、同年配以上の方なら説明は不用ですが、現代の中学生や小学生には「パソコンのない時代」 を説明しなければ、「ネットで検索」 などできなかったことを説明できません。 これは「調べる」をテーマにした甥との会話で、彼が粗忽であることにも要因があるのでしょうが、「図書館の意味」 を知りませんでした。漠然と本を読むところ、自習する場所という認識はありましたが、「調べ物をする」 という用途を知らなかったのです。よくよく訊ねると学校でも「調べ物=パソコン(ネット)」と教師は教えているそうです。 今回は「教育」がテーマではないので掘り下げませんが、教育現場はなかなか「香ばしい」ようで、いずれ特集します。 唐突ですが「命とは時間」です。 言葉を足せば「ひとりの人間が使える時間には限りがあり、その限りが命」 ということ。哲学の話しではなく、時間というの概念は人間にとって大切なものであることは言うまでもなく、おはじきやビー玉と同列に語るものではない・・・ということに異論はないでしょう。 しかし、現代日本において時間がビー玉と同列に扱われています。 その証拠が「俺の三個上」。 こう書くと分かりやすいでしょうか。「おれの3コ上」 すでに若者だけではなく中年まで、年齢の上下を、学年の差を「個数」で表すようになっているのです。 何歳、何学年、いくつ。時間を表す言葉が豊富にあるのにです。 英語でも時間は区別して数える理由は簡単です。「ジェームスはジミーの何個上ですか?」 英文で問われたら、こう聞きかえすでしょう。「その前にジミーは何を何個もっていますか?」 ものと時間は区別されており、その区別とは「相互理解」の上での「お約束」です。 言葉は生きているから変化に目くじらを立てることはない。 日本語の変化(あるいは退化)を嘆くと、こう反論する人が必ずいます。しかし、基本を知った上で無視するのと、基本を知らずに濫用するのでは意味が異なります。 甥が私と姉の年齢差をこう訊ねます。「なんコ違うの?」 私は答えます。「私と姉はビー玉ではない」 そしてそもそも年齢を「コ」と数える習慣などなかった時代があったことから説明しないと彼らは理解できません。それほど昔ではなく、90年代初頭は一般的ではありませんでした。 言葉は年齢と共に変化します。小学生が「ばぶー」といわないように、社会人がいつまでも「学生言葉」を使うのはいただけません。しかし、それは「コ」に表れるように学生言葉が継続されます。 コの普及に一役買ったのが携帯電話とみています。 年齢を個数で表すのは学生の言葉で、この表現が広まり始めた当初の90年代中期には大人にたしなめられていた風景をよく見かけたものです。 幼稚園から小学校、中学校から高校、大学、社会人と時間を経て環境が変わることで「言葉」は変化する・・・ものでした。「自分」を「名前」で称する時代から、「ぼく」「わたし」になり「俺」、そして「わたくし」と。朱に交わったからか、郷にはいったかは分かりませんが、環境の変化が言葉を変えていったのです。 かつて「固定電話」が個人的な情報伝達の主役だった時代は生活環境が変われば連絡を取ることは難しくなり、次第に距離が生まれ、反対に今置かれている環境に馴染むよう努力しました。 ところが携帯電話の普及により、いつでもどこでも「連絡」がとれるようになりました。高校生になっても「地元の友達」と遊ぶ頻度は高く、社会人になっても「学生時代の友人」とつるむことができ、最近ではこれにミクシィやツイッターが拍車をかけます。 そして「コ」からの脱却するチャンスを見逃して一般化したと説明しなければ、「コ」で事足りている世代は理解しません。 平たく言えば「知らない」ことが多すぎるのです。 もっとも中学生なら「当たり前」で、それを説明するのが年長者の仕事と噛みしめております。
Jan 5, 2011
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子供の学校が休みになると忙しい主婦の気持ちがわかります。 年末に来て急な仕事が入ったことも理由ですが、なにより自分の置かれた境遇をさっぱり理解していない甥の説教タイムに時間を取られてすっかり仕事が溜まっています。 正直に述べれば独立して以来はじめての「越年案件」を抱えています。 ま、それも今年だけのことと信じて。 そして本稿を年末のせわしなさの中お読みいただいているあなたにささやかなプレミアム情報を。ただし、読後に「ちっ、損した」と思われるかもしれませんが、それは自己責任にて。 本年から来年に、平成22年から23年に、西暦なら2010から11に向かう刹那「テレビ」を見ましょう。 それはことしだけ、来年からはなくなります。 それは「カウントダウン」。 来年の今頃は地デジに切り替わっており、アナログはとまっており、するとテレビ越しのカウントダウンはリアルタイムではなくなってしまうのです。 地デジはデジタル情報を「解読」してから、放送しており受信機の解読力にもよりますが、2~3秒遅れて映像が映しだされます。 アナログが完全にリアルタイムかと言えば、例えばBS放送などは地上と衛星とのタイムラグから遅れますが、地上波においては「ほぼ」リアルタイムといっても過言ではありません。 すると来年からはどうなるか? は、さておき、今年から来年にかけてのカウントダウンは最後の「同期」というわけです。 ただしアナログ放送が受信できない、完全地デジの場合はやはり遅れており、ワンセグもしかりです。 それでは皆さん、良いお年をお迎え下さいませ。
Dec 31, 2010
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この原稿を伯母に捧げます。 部下を持った時に伯母の説教に救われました。そしていま、甥と暮らしていてしみじみと感じます。「まず、相手を認めること」 心理学で言う「Yes But」 ですが、伯母は「Yes Please」 そうだね。お願い。なにより「処罰感情」を持たないのです。 子供ためにする説教だから当然ですが、親もまた感情に左右されるもので、だから自問するのです。処罰感情はないか。 部下に対してもそうです。そして説教は社長の福利厚生ではありません。■通販支援ブログ 孤独な社長の裏マニュアル 第24回「説教厳禁の3つの理由。人たらしの部下操縦法」http://blog.scroll360.jp/ec/keiei/post-542.html
Dec 29, 2010
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90ページで涙が涸れました。 まだ、そこまでしか読んでいません。 本書は靖国神社発行の「英霊の言乃葉」より選ばれた「遺言集」で、じっくりと読んだ上でご紹介したかったのですが、身分制度が復活した現代日本とは、英霊が守りたかった日本なのかという憤りから紹介することにしました。 是非、新年に向けてお読みいただきたい。 表題の箇所を少しだけ引用します。 私 建築士の職務上 兄上の部屋を改築し喜んで戴いた事何よりの置土産だとおもひます 父母 兄妹に告ぐ 白木の箱が届いたら泣かずに誉めて下さい 陸軍伍長 島田美好 命 の結びより引用しました。 彼らの「命」に我々はなにをお返しできるでしょうか。■国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4819111078
Dec 29, 2010
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以前から追いかけていた「ペニーオークション」。黒です。 限りなく黒に近い灰色というのが正しいでしょう。 まず、白色部分ですが、これは「低額商品」は落札できることがあるからです。 一方、不透明な部分が多く、その不透明さは「迷惑メール級」ということ。「入札できない」 とはタイミングの問題と答えるでしょうが、「システム」による可能性はかなり高いといえるでしょう。 しかし、私が黒と認識を強めているのは2点。1:画像情報が多い 「会社情報」などをクリックすると、運営責任者や住所などがありますが、これが「画像」になっているのです。これはエロサイトや怪しい情報を売っているサイトなどがよくとる手法で、「検索されにくくする手法」 です。つまり、被害者が検索して運営会社や責任者の情報を取得しにくくするためです。ならば「偽名」を使えばと言うのは素人です。 詐欺の場合は「犯意」の立証が必要で、偽名を使っていればそこをつっこまれる可能性があるのですが、「検索されにくくする」こと自体は罪にはならず、また、誰もがネットリテラシーが高いわけではないので、検索結果で見つからなければ追いかけきれないからです。 いまどき真っ当な企業が、こうした会社やサイトにとっての「基本情報」 を検索されることはありません。よって黒度が上がります。 そして次、2:メルマガに運営会社の連絡先が明記されていない ・・・いわずもがなです。理由は「1」と同じ。 と、いう理由から「黒度」は限りなく黒色に近い灰色です。 もちろん、真っ当な業者もいるでしょうが、くれぐれもご注意ください。「なんだよ、無責任だな。詐欺で捕まえられないのかよ」 といわれても難しいのが、実際に商品を発送しているという「証拠」を用意されていれば「犯罪の立証」は難しいのです。 ということは裏返せば「安い商品」なら落札できて、得する可能性もありますが、すべては自己責任ということをお忘れなく。
Dec 29, 2010
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我が町足立区より選出された都議会議員のブログが炎上しております。例の「エロ漫画規制」によるもので、炎上している状況を以下にまとめます。1:条例反対派が主張2:陳情に行った漫画家のことをブログに晒したことへの批判 大別するとこの2点、「1」については言及しません。理由はなんどもこの問題については取り上げているので時間を省略します。 そして「炎上ブログ」に書き込まれた賛成派の意見を一文字も斟酌しないかのような思考停止状態と、「拡大解釈」「恣意的運用」「表現の自由が殺される」 というリスクだけを過大に過剰に脳内暴走させる病的な被害妄想に付き合う時間は、この師走どころか、商売人が暇になるニッパチに探すことも困難です。あしからず。 ただし、ひとこと。「敵を知り、おのれを知る」 このスタンスに立たない限り、建設的な議論にはなりません。 これに対して「一方的に採決したのは賛成派だ」という主張にはぷっ、と吹き出すことでしょう。その採決をしたのは都議会議員で都議会議員は我々「都民」が選んだのであり、それが間接民主主義なのですから。 私はこの都議ブログ炎上についてゆらぐ民主主義を見ました。 そして、問題視するのは「2」についてです。事実誤認から感情に火がつき、ブログが炎上するのは日常茶飯事ですから、これをもって「ネット世論が」とステレオタイプの批判はしません。 また、本稿執筆現在、書き込みは削除されていませんので、実際を見た上で、個々人が判断されれば良いと考えております。 その書き込みもまた「表現の自由」であり「思想信条の自由」という憲法に保障された権利ですから。 ここからはそれぞれご本人と関係者のブログやツイッターといった「公開情報」と、都議の関係者への取材をもとにした「事実関係」です。 都議会議員は自民党所属「三原まさつぐ」さんで、そもそも条例には賛成の立場です。 事務所に電話がありました。電話口で「竹下登の孫」と名乗り、漫画を描いているといいます。そして「条例に反対して欲しい」と「陳情」します。 本旨からずれるので都議とのやり取りは割愛しますが、この漫画家さんは名前を名乗らなかったと都議の関係者は語ります。 そして都議と漫画家に面識はありません。 さらに述べれば都議は、ネット情報などをみた支援者からこの漫画家の「名前」を告げられても知らなかったとのことです。 炎上しているのはこの「電話」でのやり取りをブログで紹介したことを「晒した」ことを軸に様々な「主張」が展開されています。 この漫画家さんの「許可」を得ずに記事にしたことへの疑問は私も感じます。物書きの末席にいるものとして、情報提供者や取材源については守らなければならないのは当然のことで、自分の考えと違うという理由で「晒した」というのであれば言論による暴力で、それを許せばメディアは「暴力装置」と・・・あ、すでになっていますね。 コホン。ま、あとは「矜持」の問題ですが、疑問を覚えたときの「思考実験」として、当事者の立場に置き換える方法があります。 まず、都議さんから。 既に述べたように「情報源」の許可なく、ブログに記すことは理解できませんが、仮に「漫画家」と名乗ったことに都議が「義気」を感じたのであれば、「反対活動をしている漫画家がいる」 と紹介することで、立場は違えど相手を評価し逆説的にエールを贈っているとみることも不可能ではありません。これを「屁理屈だ」というあなたは私の「思想信条の自由」を犯していると自覚すべきです。あくまで「思考実験」なのですから。 一方、私が「漫画家」で「陳情」したとします。それが都議によりネットで晒されたとして何を臆することがありましょうか。表現の自由を守る尖兵として規制派の矢に刺され、刀で切られ死することがあっても本望と思うのが男子の本懐・・・って後に述べますが、この漫画家さんは女性らしいので、ここはやはりイヤなのかなぁと軌道修正したとしても・・・漫画家も人気商売で名前が世間に露出することを嫌うのは解せぬ話しで、「漫画家として陳情」 したことを晒されて困ることは私には理解できませんでした。 そしてひっかかったのが「竹下登の孫」 とだけ名乗ったことです。つまり「竹下登の孫の漫画家」 この時点で、「影木栄貴」さんとわかったあなたはかなりの漫画通かバラエティ好きでしょう。この件で、私の周辺で調べたところ認知度はゼロでした。そしてこういうと理解を示します。「DAIGOの姉」 あのタレントのDAIGOさんのお姉さんとして「躍る さんま御殿」などでときどき見かけます。DAIGOさんが「竹下登元首相の孫ネタ」でブレイクする前からおもしろい「キャラ」だなと見ていたので、DAIGOさんはミュージシャンという表記のほうが正しいというファンの突っ込みは謹んで辞退します。 話を戻します。そして民主主義の根幹への疑問です。「竹下登の孫ってそんなに偉いの?」 と、その前に影木栄貴(えいきえいき)さんというのはご本人が表明されているわけではなく、名乗らなかったのですから都議さんのブログにあるわけでも、関係者から伺った話でもありません。 ご本人はそれと「匂わせる」ブログは書いており、炎上中の書き込みにも散見しますが、影木栄貴さんの「ご学友」であらせられる某全国新聞の記者さんの「つぶやき」から、影木栄貴さんであろうと判断しています。 すると「竹下登の孫」となぜ名乗ったのでしょうか? ここを解くヒントは影木栄貴さんのブログにありました。■子蔵屋日記 影木栄貴と蔵王大志の不定期メモ。「とりあえず。影木」より抜粋<前略>先日も今後のために某国会議員の先生にお話をきいてもらいに行ってきました。竹下亘おじさんが本当親身になって話を聞いてくれて、アポなどとってくれました。<後略>http://blog.livedoor.jp/eiki2/archives/50965748.html 前略にて「反対活動」していたことに触れ、後略で件の都議について「残念な方々」と表記しています。 このブログだけならさほど気にならないのですが、三原まさつぐさんへの「電話陳情」でのやり取りと重ねるとこんな図式が浮かんでくるのです。「竹下登の孫といえば誰もが平伏す」 ちょっと、炎上中の書き込みの真似をして被害妄想気味に表現していますが、つまりはそこに「特権意識」 はなかったのかということです。あるいは竹下亘さんの名前と「アポを取ってくれた」という記述から、こうも見とれます。「特別な便宜をはかる」 ちょっと想像してください。足立区の八百屋の息子に生まれた青年が東京都の条例に反対しようとして、いきなり国会議員に会えるものでしょうか。もちろん、「親戚の伯父さん」なら可能かも知れません。そして、その伯父さんが「国会議員という地位を利用」 して関係各所にアポを取ってあげたとしたら。さらにここで妄想を爆発させると「その活動により条例が否決された」 としたら。政治は密室で、あるいは国会議員の係累により左右されるということです。そのとき、民主主義は死にます。 完璧ではないにしろ「民意」をもとにルールや仕組みを決めているのです。「元首相の孫」だからなんだというのでしょうか。だからいいます。「竹下登の孫ってそんなに偉いのですか」 仮に竹下登さんが黄泉の国から生還を果たしたとするなら、過去の功績からも一定の重みのある意見となるでしょう。あるいは政治家になられたご子息なら、血縁とは関係なく意味があります。 しかし、「孫」です。さらに重ねれば、漫画規制条例の「利益当事者」 です。利益当事者として活動することは当然の権利とご自由になさって結構ですが、「竹下登の孫は関係ない」 のではないかというのが私のこの騒動の「本質」にしなければならないポイントだと思えてなりません。「俺の兄ちゃん、もと●●エンペラーの総長だったぜ」 というヤンキーならかわいげもありますが、「俺のじいちゃん、もと●●エンペラーの総長だったぜ」 と粋がったとすれば瞬殺されることでしょう。しかし、政治の世界でこれが通るとすれば恐ろしい話しです。 なぜなら、今回の発端は漫画規制と表現の自由を絡めたものですがその逆も真なりで、どんな暗黒的な規制がなされても通ってしまうのです。「市民の付託を受けていない竹下登の一族の主張で政治が決まる」 三原都議が賛成に廻ったから可決されたわけではありませんが、ある意味「竹下登の孫のお願い」にぶれなかったところは、民主国家にとっての朗報だというと言い過ぎでしょうか。 日頃、政治家に厳しい「ネット世論」が都議擁護に廻らないのは都議が匿名の陳情をブログに書いたことへの拒否反応からで、なにより「匿名性」 を絶対と思っているのでしょうが、私には匿名性より「民意が反映される仕組み」 のほうが大切です。だいいち、ネットの書き込みは「IP」が割れているので、警察が本気を出せば2~3日で個人を特定できますからね。 それでは孫と名乗らずに「漫画家」ならば、先ほども述べたように「職業」への「矜持」があるのなら、晒されることを怖れる必要はないと考えますが、これは個人の「信条」にもよるので、晒した都議にイヤミぐらいは言ったかも知れません。しかし、「孫」と語った目的と真意は分かりませんが、いい年した大人がこれを持ち出した時点で「痛み分け」と見ています。 そしてここまで書いて、なんですが影木栄貴さんは、次のブログで「話を聞いていただくため(ブログより引用)」 とのこと。確信犯ですね。■前掲サイト「とりあえず補足」http://blog.livedoor.jp/eiki2/archives/50965980.html だから最後に述べます。「竹下登の孫ってやっぱり偉いんですね」 生まれをだすだけで関係各所が「自動ドア」になるのですから。 ま、もっともこれは「マスコミでは言えないこと」なだけで当たり前のこと。この国には生まれによる「身分」が残っているのです。 人は生まれながらに差別されてはならないのでしょう。 しかし、日本では有力政治家の子孫となれば各所に自動ドアができるようです。 差別はされませんが、優遇されている人はいるようですね。 と、いうわけで以下の本は途中ですが、紹介します。「こんな日本をみたらどう思うのかと」
Dec 29, 2010
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皮肉な話しですが、「ネット」の成功例ってネット出身者以外によって作られていることをご存じでしょうか。 銀行屋さんが作った「楽天市場」に、「ニコ動」を黒字化したのは携帯電話屋出身の経営者です。そして有料情報として結果を出しつつあるのが日経新聞電子版です。 前回の「ネット流行語大賞」の紹介記事に今回、補足(以下に掲載)をつけたのはネットの住民の特性がビジネス向きでないからです。それは「人間くささ」に通じます。 ここを見誤るのが「ネット世論」で、面白いのがこのネット世論に振り回されるのがマスコミ。マスゴミと嫌みを言われているのに。 そしてマスコミも人間くささを忘れがちで、両者は親戚というより双子のように似ており、互いを誹る様は「近親憎悪」に他なりません。■心得其の197「日経新聞電子版の活用法はトイレ。電子書籍元年総括」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/12/22/9430
Dec 22, 2010
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前回の「ネット流行語大賞」で、本紙からずれるので落とした私が考えるみっつの理由を。1:「新」原理主義 ネットの住民はとにかく「新しい」ものが好きで、畑を食い荒らすイナゴの群れのように、次から次へと飛びついていきます。そして潔さからか、あるいは記憶力のなさか、後ろを振り返ることをしません。2:ネット純血主義 手垢を嫌います。まるでマイナーアイドルが売れっ子になってファンを辞めるように、「ネットの外側」に波及したものを遠ざける特徴があります3:同業者のパージ 協賛する多くの企業が、ネット上では「ツイッター」と競合します。「3」についてはどこの世界でもよくあることですがね。■心得其の196 おまけ「ネットの情報収集は視野を広く、 ネット流行語大賞のカラクリを解く“横の比較”」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/12/15/9372
Dec 22, 2010
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今年もこの季節がやってきました。 ノーラッドサンタ追跡プログラム。 地球を駆け抜けるサンタクロースの「映像」をリアルタイムにみることができるサイトです。 同居している甥がサンタクロースについて語りました。「本当はいないのにね」 その言葉の響きにゆらぎを発見して、信じているのかと訊ねると信じていないと強弁します。そして思い出したのが、彼が子供頃に私が見せたのこのサイト。「あの映像はなんだったの?」 ・・・こいつ信じているな。 そこで後悔しないか念を押して「CG」と告白すると「くっそぉっ! 知りたくなかった」 中学三年生だろ、おまえ。 彼はピザ屋が扮するサンタが偽物だとは知っていましたが、本当はどこかにいて、幼き日に見た「映像」は本物だと信じていたのでした。 素敵な「子供だまし」にどうぞ。■ノーラッド サンタ追跡プログラムhttp://www.noradsanta.org/
Dec 22, 2010
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「自由」は野放しではなく、義務と裏表の関係で片面だけで存在することはあり得ません。 また「自由」とは人類普遍の価値といわれますが、その意味は文化や歴史、風土や宗教で異なります。 例えば日本人と韓国人、米国人とイラン人では「自由」は異なります。 もっとも分かり易い例をあげれば「神」について。 神の「パロディ」も表現の自由と認める国もあります。日本はここに属しますが、一切認めない国は世界中には沢山あります。 ついで「政治体制」。 幸いなことに日本の周囲には特殊な(民主主義でないという意味ですが、あちらからすればこちらがとなります)政治体制の国が3つもあり、そこにおいての「自由」はかなり制限されます。 例えばロシア。前大統領で現皇帝の政敵となれば逮捕される国情に日本人が思う自由などありません。そして将軍様の国家はいわずもがなでスルーするとして、民主党が大好きな中華帝国が認める表現の自由には共産党のお墨付きという制限が課せられます。 インターネットは「巨大なLAN」で、不都合な言葉は刹那に抹殺され、ときには書き込んだ人間もリアルに抹殺されるとかしないとかの都市伝説が実行されます。先日、知り合った中国の方は「禁止用語」のはいったブログが数秒で削除されたといいます。 そして民主主義国家においても「自由」は絶対的なものではありません。 より多数の安全を守るためなら少数の自由は制限されるものです。 例えば「暴走族」。いまどきの暴走族は六本木で梨園の坊やを虐めているようですが、一般用語としての彼らはバイクなどで暴走しています。 爆音を轟かせて他人に迷惑をかけることで、自己の存在を確認するそれを「表現」といいます。 しかし、より多数の暴走族以外の市民にとって暴走行為は危険で迷惑この上なく、制限の対象となり取締を受けます。 また、迷惑行為を重ねた結果、「法律」が定められ、あるいは厳罰化していきます。 この「自由の制限」に異論を唱える人は少ないのではないでしょうか。 ついでにいえば「自由」の裏表の「義務」を縦方向に隣接するとすれば、横方向には「他人の自由」があります。自由が成立する要件のひとつはこの「他人の自由」に抵触しないことです。 暴走行為による爆音は「他人が静かにときを過ごす自由」を犯している点からも制限が課せられるのです。 自由というとネットでは東京都では「表現の自由」が声高に叫ばれていますが、これについては次回、年内最終号に寄稿する予定で周辺取材を続けておりますので、しばしお待ちください。 今回のテーマはこれ。「大桃美代子による麻木久仁子と山路徹の不倫ツイッター暴露」 真贋ハッキリしていないことをお断りしておきます。 ここで述べる状況は「ツイッター」から収集できたものです。 大桃美代子さんが元夫のAPF通信社代表の山路徹さんとタレントの麻木久仁子さんが不倫をしていたと暴露しました。 一部報道では「元夫」とだけ報道していますが、通信社の代表というお立場から、本稿では実名としております。第一、ペンネームは晒すもの、もとい公表を前提としていますので。 これを受けてか、頻繁に投稿されていた麻木久仁子さん、山路徹さんの「つぶやき」が止まります。 また、著述業の日垣隆さんが、この麻木久仁子さんへアドバイスをしていたと、こちらも「暴露」しております。 結論を述べれば「どうでも良いこと」。 逆にここ数年の麻木久仁子さんの「思想」がかった発言が鼻についていたのですが、お付き合いしている男性に感化されたものであれば女性はいつまでも乙女で可愛いなぁとニタニタするだけのことです。 また大桃美代子さんにしても、山路徹さんがまだ好きなのだろうという邪推に「演歌の心」をみる想いで「北の宿から」がリフレインします。 山路徹さんはといえば、ま、おもてになるね♪ というぐらいですが、社会正義やエコを訴えるミュージシャンが「となりにいる女性」を大切にしない様を見るにつけ、絵空事の世界の住民なのだとしみじみと噛みしめます。 ツイッターで晒されている情報が事実だと仮定すれば、山路徹さんはこう主張するのかも知れません。「人を愛するのは自由だ」 もちろん。不倫も互いの了解があってのことで日本国内では刑事罰にはなりませんしね。 誰でも自由に情報が発信できる社会はきっと良い社会なのでしょう。 しかし、自由には義務が伴うのであれば、暴露する以上、その論拠を示すのが暴露の自由においての義務です。 繰り返し述べておきますが、他人の睦言はどうでもよい話しで大桃さんにそれを求めているのではありません。 ただ、こうした自爆テロのような「暴露」の先にある懸念から取り上げているのです。 それは、多数の自由を守るために少数の自由は制限され、自由によって他人の自由を侵してはならないもとするならば、大桃美代子さんのような「暴露」を放置し続けることはその先にある「制限」を待つようなものだということです。 これは「ウィキリークス」に通じます。「なんでも晒す」 ことが多数の自由を損ねる可能性の前に政治は強権を発動する日がまもなくやってくるかも知れないのです。 自由というのは野放しではなく、一個の人間として自立したもの同士の間で成立する高度な概念で、一時の感情や、思いこみでの行動を許可するものではありません。 これが守れない人間が自由を謳歌し始めたときに、それをよしとしない「多数の声」が生まれてしまえば、自由を弾圧する声が正義となります。 私が怖れるのはこれです。 民主党政権が嬉々として披瀝した「核の密約」などは私にとっては「何を今さら」で、あったとしてもそこは片目をつぶるのが大人の所作であり、時節柄で述べれば、「サンタクロースはパパだった」 を証明するぐらい下世話なことだと考えます。 そして「真実を知りたくない自由」だってあるのです。 中学生男子の意中の同級生の「好きな男子の名前」が自分以外であることのように。 2010年、「自由」が暴走しかけています。
Dec 22, 2010
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ひとというのは変わるものです。「金が全てじゃない」 のは本当。そして「金がすべて」 という人がいても否定はしません。それは生き方の問題で幸不幸も本人次第です。ところがここに「老い」が加わると事態は厄介なことになります。 かつては「同士」であり「盟友」だったはずの片腕と袂を分かつ理由のひとつが老いです。本人が気がついていないところも事態を悪化させます。 わたしも40才を超えて見えてきたのですが、年齢を重ねると「未来」がないことを実感するのです。すると失敗しても取り返すことができないと思いこみ、手持ちの現金がなくなることを怖れます。 そして自分も他人と思うようになると袋小路です。 未来ある若者も、未来のない自分を重ねて、フラストレーションが暴発します。プライスレスの真心こそが最高の「モチベーション0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/093/index.html
Dec 21, 2010
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受験生は読まないでください(笑)。 そして独自の史観をもち、学術的正当性以外認めない方は手に取らないでください。 平たく言えばクダラナイ本です。 ただし、歴史を理解しながら、歴史を遊べる人、さらに細かなことに拘泥する様を「野暮」と笑える人にはお勧めです。それは東スポの誤字脱字に目くじらを立てないようにです。 戦国時代をスポーツ新聞風に切り取り紹介しています。 全体的にもう少し練り込んでも良かったとは思うのですが、ページを開いて吹き出したのがこのコーナー「お祝い」 こんな感じです。<左記の通り(本文縦書き)お子様がお生まれになりお祝い申し 上げます。 ◆尾張国下四群内領主・織田家ご子息・信秀くん(永正八年)> 信秀とは信長の父ちゃんです。 ちなみにそのすぐ脇には「お悔やみ」として雪舟の死亡が報じられています。 最後は「号外」で「徳川群の悪逆狼藉」。 歴史好きならニタニタすること請け合いです。■戦国カラー絵巻 ニュースで見る群雄割拠時代http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4575451797
Dec 15, 2010
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毎回、専務に校正して貰っているのですが、吹き出しました。「パチプロって」 私の毛並みは「ノラ」。 統計的に計量的にというアプローチは苦手です。 というか「皮膚感覚」で分かっていることをこねくり回すようでいやなのです。 そこでアイドルだった「田山幸憲プロ」を紹介しました。 そしてツイッターで遊んでいる人へのアンチテーゼです。 ネットの視野狭窄にはご注意を。■心得其の195「ネットの情報収集は視野を広く、 ネット流行語大賞のカラクリを解く“横の比較”」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/12/15/9372
Dec 15, 2010
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水嶋ヒロさんの「KAGEROU」。 作品への評価は読んでいませんのでしませんが、それを紹介するコメンテーターの奥歯に物が挟まる具合にすべて現れている気がします。 ただし、作品とは読者によって完成するといわれるように、受け手次第です。 しかし気になるのが辞退した新人賞の賞金2000万円。 先週こんな発表がありました。「10月の記録的豪雨で被害を受けた鹿児島・奄美大島に500万円寄付」 報道を追いますと、水嶋ヒロさんが自分の名前が表に出ることを望まなかったため、ポプラ社として義援金を贈ったとあります。 これに同社社長は「本当に純粋で純潔な方ですよ」と。 水嶋ヒロさんのパーソナリティはともかく、11月の受賞会見直後に賞金受け取り辞退について「多くの作品が生まれてほしい、賞金をそのために有効利用して いただきたいという本人の願いから」 とコメントが出されていたのです。 すると多くの作品は奄美大島から生まれるということでしょうね。 しかし、発売直前にわざわざ寄付する「あざとさ」を私は商売熱心と評価していますが、なにごとも程々がよろしいかと。 そして本当に純粋で純潔な人柄に触れているのであれば、ちったあ感化されて欲しいものです。
Dec 15, 2010
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甥との生活も2ヶ月を過ぎ、彼の受験が迫るにつれ、つくづく感じるのが日教組のバカ・・・もとい、戦後教育の暴走です。 これはわが家の恥をさらすことになり恥ずかしいのですが、昨年他界した姉の一周忌も過ぎたことなので率直に述べますが、姉は教育を間違えていました。「子供のいないおまえに何が分かるか」 という突っ込みにはこう答えます。「子育てはわからん。 しかし、人として大切なことは知っている」 と、いうのは姉は甥の自主性に任せて育てました。 勉強するのも自由、遊ぶのも自由、ご飯を食べるのも自由。 自由には同等の責任を伴うもので、勉強をしない、宿題を忘れる、遅刻をして説教を受けることも自分の責任として、庇うことはしなかった点はさすがですが、自由を与えるのが早すぎたのです。 子供の自主性、また同等に子供の個性を大切にする空気があります。 この空気は戦後教育により醸成され、いまでは常識となりました。 これにはふたつの誤解のタネがあります。 子供の自主性とは、子供の望むままにさせることでではなく、また望んだ未来が手に入らないこともあるという「当たり前」が置き去りにされていることです。 子供が選んだから、子供の人生だから。子供の自主性を建前に子供を放置している親のいいわけで、残念ながら我が姉はこれをくりかえしていました。 それでは子供の選択肢はどれだけあり、子供の知る「人生」とはなんでしょうか。結論を述べれば、大人のそれと比べるべくもありません。だから子供なのです。 強制力を持ってしても「選択肢」を増やすことが親の仕事であり、「勉強」や「掃除・片付け」も、すべてその後の人生の「選択肢」を増やすのに役立ちます。 当たり前のことですが、人には向き不向きがあります。 誰もがイチローになれず、私は性別の壁と時代の違いからAKB48のメンバーにはなれません。 自分に与えられて、いや、得た人生において手にできる未来は自ずと制限されると言うことです。 こんな当たり前が「自分らしさ」という「個性」のまえに口を閉ざしているのです。 はっきりいいましょう。 バカはバカです。そしてバカも個性です。 バカが利口の真似をするのは喜劇であり悲劇です。 バカにはバカの生き方があります。 職業に貴賎がないとするなら胸を張ってバカとして生きれば良いのです。 私の甥は利口ではありません。だから自分にあった生き方を見つけられるための方法を覚えさせるために、いま彼の行動を制限しています。彼に自由はありません。高校受験には遅すぎましたが、彼の人生はこれからですので。そしてこんな学力を放置していた学校教育にもいいたいことがありますが、それはまた別の機会に。 大学卒業後3年間は新卒扱いにしようという動きがあります。 ま、ご自由にというところですが、新卒を後生大事に採用し続ける企業も、大企業にすがりつこうとするどちらも私の価値観から見れば阿呆です。 だからそんな阿呆に政府が力を貸す必要がないと思うのですが、バカにはバカの生き方があると教えてあげるのが親の仕事なら、企業や学生に方向性を示すのは政府の仕事です。 まず、大前提。「誰もが大企業に入れるわけがない」 社会主義や共産主義国家でもなければ、国民の誰もが同じ企業にはいれないわけで、選に漏れるのは自由主義の真実です。 そしてもうひとつ。「新卒でなければ仕事ができない訳がない」 いまのご時世新卒以外採用しない企業など「処女信仰」のある中学生男子程度の愚かさだと誰も言わないのが不思議です。 あ、愚かなのか。ならば教えてあげなければなりません。 しかしいまの日本の政治制度上、民間企業のルールに国家が介入することはできません。そこで菅直人首相はこんなことをいいはじめました。「卒業後3年以内の就職希望者を正規雇用する事業主に対する 奨励金を創設」 阿呆にバカをブレンドするとこうなるんでしょうかね。 奨励金の不正受給は1000000000000%起こるでしょうし、処女信仰を捨てないバカにとってはした金で教義を捨てることはありませんし、なにより処女信仰を持ち続けることができる企業ははした金を受けとる必要性などないのですから。 そもそも中小企業の求人意欲が強いのに、大学生側が処女信仰の強い大企業に恋いこがれているのです。もちろん、個人の趣味を揶揄するつもりはありませんし、現在の日本国では大企業のほうが有利です。 しかし、多くの大企業がベンチャーや中小企業だったことから考えれば、未来のタネをまくにはここへの人材流入が不可欠だと容易に想像できます。 そしてお金は受けとる人により軽重が変わります。 金持ち芸人の東貴博(アズマックス)さんにとっての1万円はあぶらとり紙でも、貧乏人にとっては垂涎のお札です。また、お金のない時に奢って貰った牛丼は至福の味わいですが、豊かになってから「すき家」で奢られても感謝は薄いものです。 私ならこうします。「中小企業勤務の30才までの労働者の所得税をゼロにし、 社会保障費の企業負担分をゼロにする」 もちろん所得制限は必須で、時限立法として保険をかけます。 奨励金の場合、集金した税金を払うわけで、二度手間ですが、税金を受けとらないだけなら手間が省けます。そして所得制限を儲けることで税の減収額を低く抑えることができます。仮に所得税収が減ったとしても、中小企業が活性化することで法人税収の増加が見込めるのです。 卒業後何年ではなく年齢制限にするのも「甘え」と「メリット」を天秤にかけさせる狙いです。「甘え」とは親や環境です。新卒での就職を当て込み、大学を留年する大学生もいるといいます。それが許される経済環境にあるからで、さらに新卒ではいることにより経済メリットがあるからですが、許されずに社会に出る子供との「経済環境格差」を、非課税によりキャッチアップできる可能性が、第一希望でなくても就職する「メリット」となります。 同様に中卒、高卒、大卒による社会通念からの「格差」の穴埋めモノできます。社会通念上の格差とは、大学で身につけた専門知識による能力差ではなく、一般論で言う「大卒」との「初任給格差」などのことです。 つまり中卒は15年間所得税免除、高卒なら12年間、大卒なら8年間で、高校も含めて「進学」するより「就職するメリット」も生まれるのです。 さらにこの適用を「正社員」だけに絞れば、フリーター対策にもなり、派遣社員の解消にもひとやく買うことが期待できます。「税は国家」 といっても良いでしょう。伸ばしたい産業の税を軽減して、規制したい分野に課税します。エコカー減税は好例ですし、タバコはその悪例です。 バカにバカと教えるのが親の仕事であるように、税を動かすことでバカ企業を誘導するのは政府の仕事・・・なのですが・・・とここで言葉を飲み込みます。「仮」にも我が国の代表にバカは失礼すぎるのでルーピーとしておきます。
Dec 15, 2010
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ちょっと真理を。「ほら、これ凄いでしょ?」 と突然問いかけられると善良なる庶民の過半数は頷きます。 理由はこう。「凄いっていっているから」 凄い根拠が明示されていなくても、善良なる庶民はこう考えます。「人は嘘をつかない」 故に凄いと言う人は凄いのだろうと。 それでは凄いという人はどう考えているのでしょうか。「凄い・・・を信じる奴を狙う」 ネットも同じ。SEOを謳いながら、実態がないことは日常的にあります。なにせ素人にはなにが「すごい」かがわからないから。 まぁこれは表題通り選挙も同じです。一票の格差があり選んだ国民の数が違うとしても、「議員」になると同じ扱いになることと。 またこれは内緒の話。ネット関係の「アワード」「賞」もまた団地の中の美人投票、あるいは家庭内美人投票だったり。■マイコミジャーナル一票の格差と団地の美人投票という0.2http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/092/index.html
Dec 14, 2010
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