旧:無菌室育ち

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メビウスの輪


                      『メビウスの輪』

オランダの画家、エッシャーの作品、『メビウスの輪』。ねじれた輪の上を歩き続ける蟻たち。
『メビウスの輪』は、ひとひねりしてつなげた帯だ。表をたどっているといつのまにか裏へ。鉛筆で線を引くとよくわかる。
エッシャーは、もともと建築家だ。彼の絵は、トリック・アートや騙し絵とよばれるものかもしれないが、その中に、永遠・矛盾・精神世界を見る人も多い。

だが、絵画の意味は全て、観る者が後からつけたもの。画家が“自分の感動”を作品に反映させたとしても、それを見て“画家と同じ感動”を感じることはできない。

観る側も、先入観に毒されていることが多い。
例えば、『ブルータス像』の前で「ブルータス、お前もか」と言って通り過ぎる人のいかに多いことか。いや、その人はあのブルータスじゃないぞ。
情報が先に入っているから、ピカソの『ゲルニカ』は「戦争の悲惨さを表現している」と思い込んで見る。本当か?ピカソがゲルニカに強い衝撃を受けて、それを描いた作品が、結果として戦争の悲惨さを伝えてくる、と、いうのが正しいのではないのか?
人間性の負の面を描こうとする情動が、もともとどんなものだったのかは誰にもわからないのだ。時の流れに洗われて過激さが薄れただけではないのか?
ゴッホが、自分の耳を切り落とした自画像を描く。ドラクロアが、屍を乗り越えて進む民衆を導く美しい女神を描く。ギーガーが機械と癒着した生体を描く。そこにあるのは生々しい不快感ではないのか。

意味は、後付け。理由を付けることによって、初めて人は、作品を安心して観る事ができるのである。

ミロは(ミロのヴィーナスではない)、子供のような心で描かれているんだそうだ。では、ミロ展で全ての作品を“子供のような心で”鑑賞したら…、たぶん出口で頭痛がする。ミロだって一日で作品を描き上げるわけではないのに、それを数時間で自分の感動に取り込もうなんてのは無理だ。子供のように見るのなら
「好き!嫌い!興味ない、興味ない…、あ、これ好き!」
と、見るものではないか?子供は、自分が好きなものしか見えていないぞ。
本気で見るのは数点、好きな作品だけじっくり見る。それでいいと思う。

人は、メビウスの輪をひたすら歩く蟻。作品の内面には行けない、どこまでも自分の上をひたすらなぞっているのではないか?

そうやって、作品と向き合ってると、必ずいるのが「うんちくたれ」。
私が、私の感想を自分の中に構築しているとき、アナタの感想は邪魔なんだなー。

薀蓄は、展覧会を出た後喫茶店で話して欲しい。


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