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哀しき清貧一家の哄笑な日々10~18話



祖母の不在を知り、近くのスーパーでサルや九官鳥たちと暇つぶしをした後、ようやく会えた祖母は、憐れみの表情を浮かべながら私に言った。
「旅館で働いてるわ。行くか?」
「行く。どこ?」
「八百屋の角を駅と反対側、市場の方に行くやろ、市場を通り過ぎてしばらく歩くと、大きい道に出る前の右側にあるわ。〈桃の木〉いうい旅館や」
「わかった。行ってくるわ」
「気いつけていきや」
「うん。ありがとう」

2階の窓から顔を出して見送ってくれる祖母に手を振り、私は『桃の木』を目指して歩き出した。

いま考えると、どうして祖母は一緒に行ってくれなかったのかと不思議に思うが、そのころ祖母は
まだ働いていたので、仕事があったのかもしれないし、ほかの用事があったのかもしれない。もしくは、自分が行かない方が、母が素直に家に戻ると思ったのかもしれない。

いずれにしても私は一人で〈桃の木〉に向かった。

果たして、祖母の家から1km弱歩いたところに〈桃の木〉はあった。

〈桃の木〉は、紫色地に桃色の文字(多分。“淫靡だ”という記憶がある)という、子どもが見てもドキンとするような、本能をかき乱すような看板がかかっていて、門の代わりなのか、タイルレンガの壁がジグザグになっていて、玄関が見えない。さすがに、その淫靡な隙間に入っていく勇気がなく、私は裏に回ってみた。すると、お勝手口が開いていて、中がすっかり見えている。中には、紫の着物を着たおばさんたちが、忙しそうに動き回っている。

母が家を出てから10日ほどたったときによこした手紙の文面を思い出した。“旅館で働いている。部屋を与えてもらい、制服の着物を着て頑張っている”と書いてあった。これのことか、と得心した。

ふと気づくと、お勝手口の最も近くにいた女性がこちらを見ている。目が合った。
「どうしたん、あんた。だれかに用?」
色白の、ふくよかな美人顔の若い女性が声をかけてくれた。
「◯◯(姓)◯◯(名)の娘です。母はいますか」
私は緊張して言った。
「いや、◯◯(姓)さんの娘さん? ちょっと、◯◯さんを呼んできてあげて」
その女性は近くにいたおばさんに指示してくれた。
「わかった」
そう言って一人のおばさんが母を呼びに行ったようだった。

親切なお姉さんは、私に何かをくれた。
「食べ。おいしいよ」
「ありがとうございます」
私は少々ためらいながら、手渡してもらった四角い物体を口に含んだ。辛いのか甘いのか、固いのか柔らかいのか。はたまた、海のものか山のものか。あにはからんや、歯ごたえのある甘い壁を噛み切ると、そこからシュワーッと舌に心地よい刺激を伴って何かが広がった。ソーダだった。もっと噛むと、弾力のある甘い物体が口の中を満たしてくれる。はっとした。お菓子屋さんで見かけたことはあるが、値段が高くて買えなかったガムだ。我が家のレベルではせいぜい5枚30円(いまだと120円)の板ガムだった。ドーナツ型になっていて笛のような音が鳴るガムは5つで10円しただろうか。そんな時代に、そのガムは5個包みで50円したと思う。私は“大人のお菓子だ”と買うのを諦めたものだ。

ガムのおいしさを味わっていると、勝手口から見える奥の入り口に、思わず“懐かしい”と思えるような、見覚えのある人が姿をあらわした。

その人は、私の顔を見るなり、床に突っ伏した。私はそれを見ながら、なおもガムのおいしさを
味わっていた。次の展開を予想し、対応について思い巡らせながら……。

                      つづく



第11話 (8)置き去りにされた幼子たち 4

久々に私の目の前に姿をあらわした母は、私の顔を見るなり床に突っ伏した。むせぶような嗚咽が聞こえる。人生初の衝撃的なガムを噛んでいた私は、そのおかげか冷静にその状況を眺めていた。

「おかあちゃん、帰ろ」
私は言った。親切で色白の、美人のおねえさんが
私の様子を見て言った。
「◯◯さん(母の名前)、きょうは一緒に帰ってあげ。あとは私らで何とかなるから、今後のことは、後で考えよ」
母は少し顔を上げ、おねえさんの顔を見て、姿勢を正した。
「うん。ありがとう」
後ろめたそうな表情をしながら、母は再び奥に消えた。

次に母が姿をあらわしたときは、見慣れた洋服(とはいえ、いわゆる“よそいき”というカテゴリーで大切に保管されていた、少し高級な服。家出するときに着て出た服装なのだろう)を来た母があらわれた。私としては、紫の制服の着物の方がよかったのだが。

〈桃の木〉から駅までは1km以上あった。母と私は終始無言で歩いた。意味があったわけではない。意味がないから話さなかったまでだ。電車に乗るときも、乗ってからも、電車を降りてからも、母の口から言葉が出ることはなかった。私としても、学校のことを聞かれたり、おやじや兄のことを非難されたり、家出していた間の母の生活のことを聞かされたりしたら、どんな反応をしていたか知れない。しかし、母は黙っていた。それゆえ助かった。

家に着いた。
家には珍しくおやじがいた。母の霊感がおやじを呼び寄せたのかもしれない。おやじは兄とテレビを見ていた。

私は玄関に入っておやじの存在を確認し、玄関の外にいる母に言った。
「ここで待ってて」
私は靴を脱ぎ、玄関のたたきに正座して、奥の部屋でテレビを見ているおやじに向かって大声で言った。
「おとうちゃん、おかあちゃんを連れて帰ってきました。上がります」
どんな言葉が返ってくるか、戦々恐々としていた。すると
「おう」
おやじはそう言っただけでテレビの画面を見ている。

「おかあちゃん」
振り向いて言うと、
「ありがとう」
母はそう言うとすっと家に入り、荷物を置いて台所へ。男ども二人が汚した食器を洗う音をさせながら、自分の存在を肯定していた。

どうしても気になったので、後日母に聞いた。
「〈桃の木〉はおばあちゃんの紹介?」
「ちがうよ、求人のチラシを見て、おかあちゃんが勝手に面接に言った。おばあちゃんはやめとき、って言うたけど、やけくそやったから何でもよかったんや」
と言った。

祖母は、母が働くということにこの上ない心配をしていたようで、母が家出をして“働きたい”というたびに、家に戻るようにと強く説得してくれていたそうだ。いずれ倒れるか、母自身がいやになるか、雇用主がいやになるか、他の従業員と不和を起こすか……。
いずれにしても祖母は、母が働くということに関してはかなり厳しい考え方を持っていたようだった。

ゆえに、祖母が〈桃の木〉を紹介することはなかっただろう。

としたら、なぜ母は、こんな職場を選んだのだろう。理論的には、「母(祖母)の家に近いから」というのがベースで、「時給がいいから」「食事にありつけるから」というのが必要条件だったのだろう。

もう一つ、あの、ソーダガムをくれた優しいおねえさんがいたから、と言ってもらいたい。

私にとって、母より頼りになり、初体験のガムをもらってうれしくなり、ありがたいと思った経験は、そのころにはなかったことで、親以上に大きな存在になったおねえさんは、以後、私の心を和ませてくれる存在になった。

紫の着物、朱色の帯、純白の襦袢……。
それらの整合性は取れないと思うのだが、男女の仲もまた整合性が取れないものが多い。それを旅館勤めの間に母が知り、彼女なりに直感的結論を見つけたのかもしれない。家出から戻った母から、〈男と女は不毛〉ということを見せつけられたような気持ちになった。

「不毛」は男女にとっていい状態だと思っている。早計な結論を回避し、諦めの境地を誘い、人生の不条理を肯定して受け入れる姿勢を生む。少なくとも我が家の両親にとっては。
金婚式を迎えたいまでさえ、不毛な議論を日夜続けている哀しき清貧一家の両親である。

                       つづく




第12話 (9)次女の哀しき幼少時代 その1

私は清貧一家の次女、末っ子としてこの世に生を受けた。
“生を受けた”といっても、家族や世の中に望まれた誕生ではなかった。

仕込まれたのは、兄が誕生したばかりというときだった。長女の出生から6年を経て、ようやく誕生した待望の男の子に、子ども嫌いのおやじも喜んだそうだ。

ある日、子育てに追われる母に、近所の仲良しのおばさんが言った。
「あんた、子ども、できたんと違う?」
「え? そんなわけないよ」
「病院行こ。私、ついて行くから」
かたくなに“妊娠していない”という母をおばさんが無理矢理病院に連れていった。

「6ヵ月を越えていますね」
母は呆然としたらいし。
「基本的には人工中絶できないのですが、母体に危険が伴うと予想できる場合は、私の判断で中絶できます。どうしますか?」

母は27歳のときに大病を患い、手術に起因した後遺症が残っているし、大病のせいで虚弱体質になっていた。大病から3年しかたっていないし、折しも兄を生んだ直後である。
もちろん、貧困が何より大きな理由であったことは、言うまでもない。
「堕ろせるんなら……」
さすがに母は、生む自信がなかったようだ。近所のおばちゃんと相談し、中絶すると決めた。

手術日を予約し、母は帰宅した。すべてをおやじに話したら、
「そうか」
と言っただけだったそうだ。

果たして手術日の当日、荷物をまとめて家を出ようとしたとき、突然訪ねてきた母方の祖母に母は玄関で出くわした。
「どこに行くの?」
「病院」
「何かあったんか?」
「子どもできてん。堕ろしに行くねん」
そう話す母に向かって、祖母は
「あかん! そんなことしたらあかん」
と強く言った。
「生むのは危険やって、お医者さんが言いはった」
「あんたが死んだら、私が子どもを育てたる。子どもを堕ろすなんて、絶対したらあかん」

かくして私は命拾いをした。

陣痛もほとんどなく、スルスルと生まれたそうだ。
「お兄ちゃんのときは、あんまり頭が大きくて、全然出てけぇへんから、殺せー! って叫んだんやで。あんたはほんま楽やったわ」
母には感謝された。

生まれはしたが、扱いはひどかった。
ベビーベッドは兄に占領されていたので、私は、近所の人からもらったものの、サイズが合わずに積んであった畳の上に寝かされていた。

私は本当に泣かなかったそうだ。必要以上に泣く兄とは対照的だった。多分、本能的に“泣いたら殺される”と感じていたのかもしれない。とにかく大人しい赤ん坊だったようだ。

大人になって、「赤ん坊のときにミルクで育った人は太りやすい」という事実を知った。私は驚愕した。
「あんたは1滴も母乳を飲んでないんや。お兄ちゃんに吸い取られて、あんたが生まれたときは、出ぇへんようになってたんや」
どうやら、兄は食欲旺盛な赤ん坊だったらしく、母乳では足りずにミルクも飲んでいたそうだ。
しばらく私は悩んだ。“太る体質”という言葉が脳裏から離れなかった。

姉に会ったときに聞いた。
「ねえちゃん、ミルクで育った赤ん坊は太りやすいねんて。いややわ。いままで太ったことないけど、これから太るねんやろか」
「え、ミルク? あんた、ミルクなんか飲んでないで」
「でも、おかあちゃんの母乳、出ぇへんようになってたやろ」
「ミルクは○(兄の名)が飲んでたわ。あんたはいつもお茶飲んでたなぁ」
「お茶?」
「うん。好きやったんと違う? いつもお茶やったで」

何ということだ。お茶で育った赤ん坊……。

あんまりというべきだろう。しかし、おかげで“太る体質”の恐怖は回避できたということになる。

いいのか、悪いのか……。

                    つづく


第13話 (9)次女の哀しき幼少時代 その2


年子の食欲旺盛な兄がいたせいで、私はミルクもろくに割り当てられず、お茶を飲んで空腹を紛らしていたと姉に教えられ、わずかにショックを覚えた。

それよりもショックなことが姉の口から明かされた。
「あんた、突然立ったんやで」
「え、どういうこと?」
「生まれて7、8ヵ月くらいのときかな。おかあちゃんは○(兄の名)ばっかり世話してるし、あんたも泣かへんから、ほったらかしにされてたんや。いつも黙って畳のベッドの上で寝とったわ。ある日、ふとあんたの方を見ると、立ってるからびっくりしたわ」
「ハイハイも、おすわりもなしに?」
にわかには信じ難かった。
「そう。畳の端につかまって、立ってたんや」
「……」
「毎日、お茶ばっかり飲まされてたから、命の危険を感じたんと違うか? “こんなことしてたら、殺される。自分で食べ物を手に入れなあかん”って」

そんなことがあるものか、と幾ら想像しようとしても、わが事ながら想像ができない。

母に聞いてみた。
「私って、突然立ったん?」
「えぇ? 覚えてないわ……」
しばらく母は考えているようだった。
「さぁけど、おすわりやハイハイをさせた記憶がないなぁ。もしかしたら、そうやったかもしれん」
「そんなこと、あるの?」
「普通はないわ。お兄ちゃんなんか、2年間寝たきりやったんやから」
「ひょっとして、私の方が早く立ったの?」
「そんな気もするなぁ。あんたは何でも早かったから。ちゃんとは覚えてへんで、それどころやなかったから」

“それどころ”というひどい扱いを受けていたのだ。兄の方が大切だったというわけだ。

夜泣きをすることなくいつも静かに寝ていて、ごはんというと決まってお茶で、ある日、命の危険を感じて突然立ち上がった赤ん坊……。涙なくしては語れない。

ことほどさように、私の人生はこんなことの繰り返しだったように思う。

次女の幼き時代の物語、まだまだ続く。

                     つづく



第14話 (9)哀しき次女の幼少時代 その3

命の危険を感じ、ハイハイもおすわりもすっ飛ばして立ち上がった私は、以後の人生において何度も命の危機を味わった。

一つはネズミの攻撃だった。
そのころの家に、ネズミが出没するのはごく当たり前のことだった。ゆえに、近所ではよく猫を飼っていた。いまの猫はネズミなど見て見ぬふりをするが、昔の猫はネズミと見ると、俄然闘志を燃やしたものだ。さすがに“食べる”ということは、少なかったが、絶命するまでいたぶった。

長屋ゆえ、ネズミが各家庭を行き来していたようだ。ネズミが原因だと断言はできないが、そうではないかと考えられる出来事が起きた。

「腎炎」である。隣家の主人、長女、うちの姉、隣の四女、私の順で腎炎になった。何らかの細菌が体内に入ったことは明らかだった。しかも、世帯が違うのに、連続して同じ病気にかかったということは、ネズミが原因としか考えられなかった。

眠っている間にネズミが唇を噛むのだろう。おぞましいことだが、それが戦後十数年の日本の当たり前の姿だった。

高熱と全身の発疹に襲われた私(当時7歳)は、
「お前はこっちに来るな」
というおやじの言葉に従って、皆が食事する姿を離れて眺めていた。おなかがすいているのに、食べ物を口にすることができない。切なかった。その年齢だと、はしかやおたふく風邪などの感染症にかかるので、親は放っておいてもいつかよくなると思っていたのかもしれない。しかし、そういった感染症とは明らかに違う症状だったはずである。おかゆなどをつくってくれることもなく、皆の食事が済んだ後、果物だけの夕食を済ませた。

数日後、偶然祖母が訪ねてきた。私を見て驚いた。
「病院に行ったの?」
母に聞いた。
「そのうち治るやろ。子どもの病気や」
「違うよ、これは。明日、病院に連れて行きなさい」
「そう?」
「とにかく連れていきなさい」
祖母が母をたしなめてくれた。
夕食のとき、祖母は自分の箸で私に食事を食べさせて
くれた。そんな祖母におやじが言った。
「そんなことしたら、うつるで」
「かめへん。子どもが病気のときに、そんなこと気にして食べさせへん親があるかいな!」
祖母はおやじを一喝してくれた。命拾いをした。満足に食事をしない日が何日も続いていたのだ。

翌日、病院に連れて行かれた。腎炎だった。姉は入院したが(入院費は兄と私のお年玉等々の貯金から支払われた)、私は経済的な理由から、自宅療養となった。1ヵ月間学校を休み、家でひたすらゴロゴロしていた。そのことが、後に学力面で私に負担を強いることになるのだが、元来、怠け者の私にとってはうれしい限りであった。

それにしても、祖母がいなかったら、私はいないと思う。出生にまつわる出来事がすべてではあるが、事あるごとにあらわれて私を救ってくれた。

親より大きな愛情を注いでくれたと思う。
残念ながら、恩返しをすることもできぬままに天国へと見送ったが、いつかまた会えると思っている。来生でも、きっと私を救ってくれるだろう。しかし願わくは、私も少しくらい、生まれ変わった祖母に尽くしたい。

心配せずとも、それができるような気がする。
輪廻転生である。

                      つづく


第15話 (10)サバイバーおやじの憂鬱 その1

清貧一家のおやじは、一言で言うと、「野生」だった。いわゆる“サバイバー”である。

幼いころ、私はおやじに聞いた。
「苦手なものは?」
おやじは即答した。
「マムシや」

私は意外に思った。
おやじはゴキブリを素手でつぶすような輩である。ヘビやウジムシごときに怖れおののくわけがないと思い込んでいたからだ。意外ではあったが、苦手なものがあると聞いてある意味、安堵した部分もあった。

ある日、飼い猫だった「キコ」が悪さをした。外で見つけ、遊びでいたぶっていたマムシを半死にのまま口にくわえて家に戻ってきた。キコはきっと、勇敢な自分を褒めてもらいたかったのだろう。キコはリビングにしばしたたずんだ。チロチロと動くマムシをくわえたまま。しかし、そこには人の姿はなく、ゆえに褒めてもらえず、キコはすぐさまマムシに飽きたのだろう。そして、次の獲物を捕獲したい欲望にかられ、マムシを置き去りにしてどこかに消えた。

「キコ」が去った後のリビングに、何気なく入ったおやじは目が飛び出るほど驚いた。
「まっ、マッ、マムシや!!」
おやじはひるむ間もなくマムシの頭に親指を、顎に人差し指を差し入れて挟んでつかみ、玄関に飛び出た。幸い、夏場だったため、玄関に下駄が出ていた。おやじはすかさず下駄を履き、庭先に出てマムシの頭を下駄の歯で思いっ切り踏みつけた。
『グワシャッヒン』
マムシは頭部をつぶされて絶命した。

その話を夕食のときに聞いた(おやじは、食事時にエグい話をする癖があった)。
「マムシ、苦手なんと違うの?」
「苦手やがな。あんな気持ち悪いもん、おらん」
「それやのに、素手でつかめるの?」
「つかむのがいやなことはないがな」
「え、ほな、何が苦手やのん?」
「毒や! 噛まれたらわやや」

おやじの理論はこうだ。“恐いのは毒で、マムシがいやなのではなく、毒を持つマムシがいやで、毒を排除するためにマムシをつかんだり踏みつけたりすることは平気”ということだ。

理論的ではあるが、一般人にはその割り切りが理解できない。

野獣のような「キコ」と暮らすならば、いつ何時マムシがおやじの生活環境に出現するか、危害を加えるか予測ができない。おやじは考えた。毒のある生物(可能性が最も高いのがマムシ)と
遭遇せずに済む手段を。
しかし、どう考えても「キコ」がいる限り、そんな安寧な状況が得られるとは思えなかった。かといって、猛猫「キコ」を“品猫”に変えたり、手放したり、外に出すのを禁じたりすることも考えづらかった。

おやじは覚悟した。そして私たち家族に言った。
「キコはマムシが好きや。いつまたくわえて帰ってくるかわからん」
私は「キコ」の姿を想像した。マムシをくわえて私の部屋に入ってきたらどうしようかと危惧した。
「もし、家の中でマムシを見つけたら」
私は息を飲んだ。マムシ撃退の奇策か、緊急事態の際の危険回避の技を教えてもらえるのだと思った。
「マムシの頭をつかんで、下駄でつぶせ」

そのままではないか。奇策も技もあったものではない。しかし、おやじは極めて真剣に、かつ真顔で言った。
「それ以外に方法はないの?」
「ない」
即答である。
「子どものころから悩まされてきたからいろいろ考えたけど、踏みつぶすのが一番確実や」

そんな方法を実行できるのは、おやじくらいだろう。我々に進言せずに、自分だけで覚悟してもらいたい。
「マムシがいたら、ワシがつぶしたるから、すぐに言え」
と。

まぁ、おやじ自身、それを家族が実行する期待は余り持っていなかったのだと思う。人に言うことで自分の不安を多少なりとも和らげたかったのだろう。

頼りにならない家族を傍らに、猛猫「キコ」の余りにも野生あふれる行動に、おやじの憂鬱は募るのであった。しかしそれは、それまで清貧一家に飼われた哀れな犬や猫たちの復讐ではないかと思えるほどの猛威をもっておやじに襲いかかり、定年を間近に控え、衰えを隠せないおやじを悩ませることになる。「キコ」だけではなく、“大人しくて臆病な”と思われていた「チコ」の所業にも。

                     つづく



第16話 (10)サバイバーおやじの憂鬱 その2


清貧一家のおやじは憂鬱だった。
69歳のとき、生まれて初めて入院することになった。原因は、ガンだった。20年ほど前から、胃の異常を訴えていたおやじは、幾度となく病院にかかっては大事なく回避してきた(仕事を休みたい怠け者のおやじとしては、少しくらい休む理由が欲しかったが、ついぞかなわなかった)。

そのころは判明していなかったのだが、根本的な原因は『ヘリコバクターピロリ』だった。
何度か胃潰瘍を繰り返し、治療を受けた経験があったが、田舎(故郷ではなく、定年後の生活を送るための居住地)に引っ込んでいたおやじは、ピロリの検査が保険対象になったのを知らなかった。

「ピロリの検査した?」
「してない」
「保険でできるようになったよ。かかりつけの医者に検査してもらい」
「そうか」

おやじは私を信じ、かかりつけの医者に申し出た。しかしその医者は
「そんな話、聞いたことがない」
と、あり得ない言葉を吐き、おやじは一蹴されてしまった。

おやじは私に
「田舎はまだなんかな」
と、気の弱いことを言い出した。常に強気でサバイバーのおやじが。
「そんなわけないやろ。保険がきく、きかんは、地域の問題やない。国の行政に決まってるやろ! そんなわけのわからん医者は無視して大きな病院に行き!」

おやじは私の言葉に従った。地域で一番大きな規模の県立病院に電話をして事情を説明した。
「すぐに来てください」
おやじは翌日朝一番に出向いた。
ピロリの検査である血液検査とともに
「おとうさん、もしピロリやったら、相当長い間持ってはったと思うので、生検も一緒にやっとこか」
「そうでんな」
医者が言っていることの意味もよくわからないくせに簡単に承諾してしまった。

果たしておやじは胃カメラを飲まされてしまった。
「おとうさん、何カ所か、ジクジクしてるとこがあるので、切り取ってみますね」
胃潰瘍の痕と思われる部分が炎症を起こしていて医者は危ないと思ったようだ。切り取られたおやじの胃の一部から、「ガン細胞」が出現したのは言うまでもない。

おやじが私に電話してきた。
「悪い知らせや」
「どうしたん?」
「ガンが見つかったみたいや」

不思議と私は動転しなかった。というのも、20年ほど前に、おやじが精密検査をした国立病院の医者と電話で話した記憶があったからだ。
「良性でした。しかし、定期的に検査をしてください。悪性化する可能性は十分あります」
おやじの胃にできたポリープの検査結果を、職場から電話で聞いたのだった。

「ほんで、手術は?」
「わからん。木曜日に検査結果が出るから、お前、電話して聞いてくれ」
厄介な話である。移動距離にして250キロある実家に戻って医者の話を聞き、その後対処法を考えるような余裕はなかった。電話である程度の事を済ませ、手術するなら立ち会う、しないなら話だけ聞きに帰る、問題ないなら、うっちゃる……。

いろんな方法があるが、とりあえず電話で状況を確認し、必要とされる対処法を取れるように努力する、ということだろうか。

「お父さんはガンです。しかし、初期ですから切ってしまえばかなり高い確率で完治するでしょう」
「浸潤性ではないですか?」
「……はっきり言えませんが、違うと思います」
「どうしてですか?」
「……お、お父さんの胃ガンの原因は、胃そのものではなく、ピロリ菌だと考えられます。クレーター状にはなっていますが、……浸潤性ではないと思います」
「切って治る確率は?」
「…、ま、80%と言っていいでしょう」
「手術してください」
私は即答した。医療界で80%というのは、能動的な選択を回避する理由がないということだ。

おやじは、主治医のこの言葉に励まされ、胃を半分以上摘出する手術を受ける決意をした。しかし、その後、おやじは憂鬱な顔をしていた。それに気づいた私は、おやじに聞いた。
「いいの? ほかの医者にかかって、別の見方をしてもらうこともできるよ」
「ええねん。悪いものは切ってもらったらすっとするわ」

そう言っているにもかかわらず、おやじは憂鬱な顔をしている。

「さしものサバイバーおやじも、ガンには勝てないか」
そう感じていた私に、母が言った。
「おとうちゃん、すごく不安みたいや。なぐさめてやってや。大した手術やないって、言ってやってや」
母は不安そうに私に懇願した。

私は意を決し、おやじの前に座った。
「おとうちゃん」
「ん? 何や」

この後の会話は、おやじの「憂鬱」の実態をいやおうなく知ると同時に、常人にはあり得ないギャップを感じて、感心するやら、あきれるやら。

それは、おやじならではの「憂鬱」であった。

                      つづく




第17話 (10)サバイバーおやじの憂鬱 その3

私はおやじの前に座り、ビール瓶をかざして言った。
「最後の晩餐、しよか。しばらくお酒飲まれへんやろ」
「おっ」
おやじはこちらに向き直ってコップを持った。私がビールをなみなみと注ぐ。次いで、自分のコップにもビールを注いだ。
「ま、頑張ってきいや。お医者さんの話では、まず大丈夫やろってことやし」
「うん」

おやじは言葉を継がずに黙ってビールを飲む。
「なぁ」
「え?」
「何か不安なん?」
「……」
情けない顔をしている。
「手術、延ばしてもええねんで。違う医者に看てもらったら、別の治療法を言ってくれるかもわからんよ」
「手術はええねん。切ってもらったら治るんやから」
「ほんなら、何が不安なん?」
「……副院長が脅かしよるねん……」
「何を?」
「痛いって」
「手術が? 麻酔するねんから、痛いわけないやんか」
「手術やないねん。“管”や。先っぽから入れるねんやろ。『おとうさん、痛いよー』って言うんや、副院長が」
ますます情けない顔になっている。私は呆れた。腹部を20cm以上切開する手術より、尿を出すための管を泌尿器の先端から入れることの方が不安だと言うのだ。本末転倒も甚だしい。

「何を言うてるの。管を入れるのは麻酔をしてからやし、1週間は入れっ放しやから、お父ちゃんの場合、交換はないわ。痛い思いなんかせんで済むよ」
「ほんまか?」
おやじの顔が明るくなった。何と単純な人間だろう。

「それだけで、そんな不安な顔してたん?」
私の質問に、おやじは答えにくそうにした。
「ほかに何かあるの?」
手術費用のこと、母親のこと、チコのこと、その他、自分がいなくなると困ることを思ってのことかと私は思いを巡らせた。
「看護婦さんに……」
おやじは口ごもる。
「え?」
「管を挿すとき、“小さいな”と思われへんか心配でな」

私は心の中でひっくり返った。
ばからしいにも程がある。入院も手術も、初体験ではあるが、そんなことを気にして不安気な顔をする69歳はいないだろう。しかも、孫のような年の看護婦がおやじのナニを見て、小さいだの、大きいだの、曲がっているだのと思考を働かせるわけがない。患者の体の一部に過ぎない。

「あほちゃう? つまらんこと考えんと、生きることの何たるか、生かされていることのありがたさに思いを至らせなさい」
という言葉を残して、私は母の部屋に引き上げた。

「どうや? お父ちゃん、気落ちしてたやろ?」
「うん。でも大丈夫。励ましといた」
真実は語れない。50年を経た夫婦でも、おやじの有様に母は失望するだろう。

「そう、ありがとう」

きっと、この事件に対しての、一般的に言うごく当たり前の「不安」は、母だけのものだったのだと思う。現状の生活や今後に直接影響があるおやじの状態を心配せずにいられない母は、かわいそうである。

サバイバーおやじの、サバイバーなガン闘病記は母のそんな気持ちに関係なく繰り広げられるのである。清貧一家の次女の見守る中で。

                    つづく



第18話 (11)家出かあちゃんの言い分

清貧一家の母は27歳のときに大病を患い、以後、74歳の現在に至るまで、毎日欠かさず常用薬を飲んでいる。それだけで、悲惨なイメージを描くし、実際、子ども心に「かわいそうな人」と思ったことが何度もある。

そんな、悲しき清貧一家の哀れな母は、突拍子もない所業を繰り広げる癖がある。これは、ある意味では悲惨な状況を生むが、ある意味では見事なまでの奇行であり、爆笑ネタであったりもする。

そんな母の所業を徐々に公開していく(実は、その11でも登場しているのだが)。

~~~~~~~~~~

私が小学3年生のとき、ある日曜の朝、母が言った。
「ニチイに行こか」
私はびっくりした。清貧一家が住んでいる場所からニチイまでは、電車で30分以上かかる。
「何で?」
私はおそるおそる聞いた。
「ええやん。行こ」

不安な気持ちを抱きながら、私は母と兄と三人で電車に乗り込んだ。
“ニチイ”に近づくのが恐かった。何があるのか何が起こるのか、想像するだけで体の芯が震えた。

ニチイに到着すると、母は最上階へ直行しようとした。
「どこ行くの?」
母に声をかける。
「レストランや」
「ご飯、家帰って食べよ」
「……ご飯は家で食べるよ」
そう言いながら母は歩調を緩めることなく最上階を目指す。私は言いようのない恐怖を感じ、目を伏せながら母の後をついて歩いた。ふと横を見ると、兄はいたいけな、痛いような無邪気さで母について歩いている。

最上階についた。レストランの前に立ち、
「何でも好きなもん、選び」
母が言った。私は全身に恐怖が貫くのを感じた。貧乏な一家に属する子どもたちに、スーパーといえど、レストランで好きなものを食べるような機会を与えてくれるとは、何か深い理由があるに違いない。レストランに入り、客席に座ったとき、兄が言った。
「プリンアラモード」
デザートの中で最高級品である。プリンの横にアイスクリームが添えてあり、バナナ、メロン、オレンジが周囲を飾っている。しかも、プリンのてっぺんにはくるくると絞り出された生クリームがのっかっているというものだ。
値段も半端じゃない。
〈こんなときに、なんでそんなものが食べられるの!〉
と私は心の中で叫んだ。
「アイスクリーム」
私は言った。
兄:600円、私:170円という世界だ。

幼い兄弟が食べていると、母がおもむろに言った。
「味わって食べや。おかあちゃん明日出ていくから、もう食べられへんで」

私はゲンナリした。その後の行動の記憶はない。

次の記憶は次の日の朝。
「行ってきます」
私は、学校に行く私を見送ってくれる母の顔を見ることができなかった。
“学校から帰ったら、母はもういない”そう思うと、いたたまれない気持ちになった。

学校では茫然と過ごした。それを気遣ってくれる友達がいたが、何を言われても耳から先に入ってはこなかった。

暗く、寂しい気持ちを抱きながら家に帰った。無理とはわかっていながら、カギを開けずに玄関の引き戸を引いた。すると、不思議なことに戸が開いた。さらに驚いたことに、母が玄関先に座っていた。きちんと化粧をし、よそ行きの服を着て。

「どうしたん、おかあちゃん!」
「上田のおっさんがきたんや」
“上田のおっさん”というのは、おやじより10歳ほど年上の同僚で、社宅の中で最もおやじが親しく
していた人物だ。
「え、上田さんが来たん?」
私は不思議だった。そう言った後視線を送った先におやじを見つけて納得した。
「おとうちゃん、いてるの?」
珍しかった。おやじは、独特の嗅覚で、母が家出するのを察知したのだろう。しかも、「上田さん」という他人を使って家出を阻止した。

あれほどの思いをしたのに、と思うほど、あっけない結末だった。子どもとしては、母の家出の
予告は、生きる力を奪うほどのものだった。

しかし、私は覚悟した。母の家出は一度や二度ではなかったので、家出を予感すると、毎日が
気が気ではなかった。

という状況であり、覚悟した後ではあったが、母が家出をしなかったことは、子どもたちにとっては願ってもない福音だった。

「上田のおっさん」様々である。

                   つづく



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