夢を紡ぐ徒然日記

夢を紡ぐ徒然日記

第一章


 ほのかに汐の香りを含んだ雨は、絹糸のように細かった。
 川は星ひとつない夜空を溶かし込んで漆黒の流れを湛えていたが、河口に架かる【夢紡橋】の周辺だけは、街灯でライトアップされた橋のシルエットを映じて、淡い光の帯を揺らめかせていた。川の流れが橋脚にぶつかって湿った音をたてている。
 水面を辿る風は、いつになく気まぐれで乱暴だ。
 氷室悠太は顔をしかめて、キャメル色のダッフルコートの襟元をきつく掻き寄せた。橋の途上にたたずんで、街灯が照らす濡れた路面に淋しげな影法師を落としながら、ひとつ大きな溜め息をつく。脚のラインを強調したデニムのジーンズが、成人男子にしては線が細い長身痩躯の躰によく似合っていた。
 遠目に見えるL-Cityの街灯りが、群れ惑う雨滴に滲んでいる。夜空にまたたく星々みたく遠くかすかに明滅を繰り返すさまは、まるで星屑が降り積もっているかのようだ。その静かなたたずまいを眺めていると、繁華街の喧騒をにぎやかに彩っていたクリスマスツリーの輝きや周囲に溢れていた楽しげな旋律たちのなかに、つい今しがたまで自分がいたことが、悠太には信じられない気がした。
 街並みに背を向けて河口のあたりに目をやると、左岸にひろがる埋立地のコンビナートが遠望できた。決して眠ることのない工場群は、いまも煙突から橙黄色の焔を吐き出し、無数の作業灯が都心の高層ビルディング群さながらに光の羅列を海上に投じている。
 戦後しばらくして、今の十分の一にも満たなかった埋立地に大企業の誘致が決定すると、折からの高度経済成長の波に乗って、わずか十年あまりのあいだに街は驚くほどの様変わりをみせたのだった。
 海岸線は大きく後退し、拡張された埋立地には系列会社の工場が次々に林立した。周辺の道路は舗装され、一時間に数本しか走っていなかった市営バスはいつのまにか姿を消して、コンビナート内も周回する通勤バスがこれにとってかわった。
 海が見下ろせる小高い丘は、宅地開発されて【ブルジョワの丘】と呼ばれる風光明媚な高級住宅街になり、洒落たデザインの分譲住宅や別荘・マンションなどが建ちならんだ。漁船の舟溜まりにすぎなかった麓一帯は埋め立てられて、ヨットハーバーを中心とする【漣マリーナ】として生まれ変わり、その明るさを対岸のコンビナートと競っている。
 定期的に配管から噴き出される高圧蒸気のパージ音、ポンプや攪拌機など大型モーターの回転音、ブロワーのダクトから送り出されて来る大量の空気の吐出音……、コンビナートの工場群が紡ぎだすさまざまな機械音が、沖合の波に洗われながら海風に溶けていた。それは最初の工場にパトロールランプが点されて以来、一度も途絶えたことのない彼らの荒い息づかいだったのだが、遠く海岸線から漂ってくるその海の低い囁きに耳を傾けていると、悠太には幼いころ、祖父と過ごした懐かしい日々の記憶が鮮明によみがえってくるのだった。
 その遠雷にも似た響きは、いまではほとんど聞くことすらできなくなってしまった海鳴りによく似ていた……。

 悠太は漁師だった祖父・勝次の家へよく遊びに出かけたものである。
 早くに連れ合いをなくした勝次は、まだ幼な子だった悠太の父・亮一を背負って漁にでる毎日をおくった。それは生計と子育てを両立させるための勝次なりの苦肉の策だったのだが、いずれは代々受け継がれてきた海と舟を息子に託すつもりでいたから、遠巻きに投げかけてくる周囲の咎めるような視線も意に介さなかった。
 そんな勝次にとって、信じて疑わなかった息子が埋立地に完成したばかりの工場で、見習い職工として身を立てる道を選んだときの衝撃は、並大抵のものではなかっただろう。それは長い歳月を費やして積みあげてきたものが、砂上の楼閣にすぎなかったことを思い知らされた瞬間だったにちがいない。漁師の倅でありながら、彼らから海を奪おうとしているコンビナートの工場で働きだした息子と、その当時、漁業組合長をつとめていた父親がともに暮らしていけるはずはなく、ほどなくして亮一は対岸の丘の中腹に建てられた会社の独身寮へ移り住むこととなった。
 結局、勝次は亡くなるまでひとり暮らしを貫いた。亮一が結婚し、悠太が産まれてからも息子夫婦が実家の敷居をまたぐことを許さなかったからだ。ただ孫の悠太だけは可愛くてしかたがなかったらしく、悠太がひとりで遊びにいくと、いつも穏やかな笑顔を泛べて招き入れてくれるのだった。
 祖父の家を訪ねることは両親に固く禁じられていたので、悠太はこっそり通っていたつもりでいたのだが、いまにして思えば知らないふりをしてくれていたのだと思う。それは双方にとって暗黙の了解だったのかもしれない。悠太を通じて、息子はひとり暮らしの老いた父親の様子をそれとなくうかがい知ることができていたし、老父は孫と交わす何気ない会話のなかから、細々とではあるがしっかりとつながっている家族の絆を確かめていたのだろう。
 だが、小学生の悠太にそんな大人の事情など理解できるはずもなく、両親の目を盗んで祖父の家を訪ねた帰り道、見つかって叱られる自分の姿を想像するたびに、家路を辿る足取りは枷をはめられたように重くなるのだった。それでも祖父のことが大好きだった悠太は、会いにいくのをやめようと思ったことは一度もない。
 やがて漁へでることもなくなってすっかり気弱になり、孫と過ごす時間がおそらく唯一の生き甲斐になってしまった老父のひとり暮らしを案じたのだろう、少しでも元気を取り戻してもらおうと、亮一は毎年、息子の手を引いて老父が住む鄙びた漁村を訪ねるようになった。
 灯篭船の行列が名残惜しげな送り火の連なりを川面に淡く灯すころ、二学期が始まるまでの数週間、亮一は息子を勝次のもとに預けることにしたのである。
 遠くに勝次の家が見え隠れする砂浜までくると、亮一は夏休みの宿題や着替えなどがびっしり詰めこまれたショルダーバッグを悠太の肩にかけてやり、
「向こうに着いたら、おじいちゃんの言うことをよくきいて、いい子にしてるんだぞ」
 それから、背広の内ポケットから一通の封筒を取りだして、手にしていた紫色の包みと重ねて、こう言った。
「おじいちゃんに会ったら、真っ先にこれを渡すんだ。わかるな?」
 父親に見送られて砂浜を駆けだしていきながら、悠太は祖父とふたりきりで過ごす夢のようなひとときに胸を躍らせるのだった。
 悠太が勝次のところで寝泊りしているあいだ、ふたりはよく港へ釣りにでかけた。勝次の家から村の漁港までは、歩いても十分足らずの道のりである。年を追うごとに漁船の数を減じていく漁港の両端から、海へ向かって真っすぐに伸びている二本の防波堤は、惹かれ合うように内側へ折れ、互いの突端で港の出入口を形造っていた。いっぽうの防波堤の先端には朱色の灯台が静かに沖合いを見守り、もういっぽうにはこれと向かい合うかたちで海神さまを祀るちいさな祠が鎮座していた。ふたりはいつも祠の近くに並んで腰を下ろしては、仲良く釣り竿をならべるのだった。
 若いころ遠洋漁業の船乗りだった勝次が、釣り糸を垂らしながら語り聞かせてくれる見知らぬ異国の話は、悠太を心躍る空想の世界へと連れていってくれた。悠太は一人前の船乗りになった気になり、何度も舟に乗せてくれとせがんだが、すでに舟を下りていた勝次は決して悠太を乗せてやろうとはしなかった。
「漁師ばやめるときは、きちんと覚悟ばせんといかん。舟ば下りたら、海の宝ば恵んでくれらしとった海神さまに、舟ばお返しせんばならんとよ。そいけん、ユウ坊ばじいちゃんの舟に乗せてやることはできんとよ」
 そう言って、駄々をこねる悠太を背負って、あやすように近くの砂浜を歩いてくれたものだった。祖父のがっしりとした広い背中とかすかに香る汐の匂いを悠太は今でもおぼえている。
 海が穏やかな夜には、縁側の戸を開け放ってお月見をしながら、枕を並べて寝たものだ。蚊帳越しに眺める夜半の月は美しかった。庭先では、スズムシやマツムシなど秋の虫たちが夏の終わりを告げる調べを奏で、波打ち際の砂浜と戯れる幾条もの細波は、降り注ぐ月の雫に照らされて、青白く息づいている――。
月明かりを溶かした海の絶景だった。
「じいちゃん、明日もまた、蝉取りに連れてってくれる?」
 昼間、砂浜を少し行った松林の中で捕虫網と虫かごを持って走り回った楽しさが、悠太の声を弾ませていた。
 だが、勝次の返事は素っ気なかった。
「明日は海も浜も荒れるけぇ、家でおとなしゅうしとった方がよかよ」
 悠太は浮かれていた気持ちに水を差されたような気がして、ムキになって言った。
「どうして、じいちゃんにそんなことがわかるん?」
「海鳴りが聞こえてきちょるけぇのぉ」
「海鳴りって?」
「よう聴いてごらん。波の音といっしょに海の向こうから聞こえてきちょるじゃろ」
 言われて耳を澄ませてみたが、悠太にはいつもの波の音にしか聞こえなかった。それが悔しくて、
「解らん」
 無愛想に言い返すと、
「そのうち、ユウ坊にもわかるようになるじゃろ」
 勝次は、そう言ってしばらく押し黙った後、思いついたようにポツリと呟いた。
「海鳴りが聞こえるようになったら、じいちゃんの舟に乗せてやってもよかよ」
「本当?約束だよ!」
 しかし、悠太が祖父の舟に乗ることは叶わなかった。
 祖父と孫の思い出がたくさん詰まった海沿いの家は、今はもう跡形もない。蝉取りに興じた松林も月明かりに青白く輝いていた砂浜も、貪欲に海岸線を浸食し続けるコンビナートに飲み込まれて久しい。
 勝次が亡くなったとき、悠太は祖父が恋しくて毎日のように家の前の砂浜で陽が沈むまで海を眺めて過ごしたものだ。そうした日々を送るうちに、悠太はいつのまにか押し寄せる波音の中から海鳴りを聞き分けることができるようになっていた。
※     ※     ※     ※     ※     ※     ※ 
 マリーナの喧騒が、橋の上にたたずむ悠太のところにまで聞こえてきていた。ハーバーライトに彩られた定番のクリスマスソングが、時折びっくりするくらい間近に聞こえてきたりするのは、いたずら好きな風の妖精の仕業である。
 悠太が少年期を過ごした社員住宅は、【ブルジョワの丘】にあった。中腹の高級住宅街に建ちならぶ分譲マンションのいくつかを会社が借りあげたもので、悠太たちは最も海に近い棟に住んでいたから、最初は洒落た舟溜まり程度に過ぎなかった【漣マリーナ】が、やがてヨットハーバーと呼ぶにふさわしい規模と風格を身につけていくさまを、一家はベランダ越しに眺めながら暮らした。また、時節の催し物ごとに繰り返されるマリーナ全体のお色直しもよく見知っていたので、風に乗って流れてくるそのざわめきを耳にしただけで、クリスマスで賑わうマリーナの様子を、悠太は容易に思い泛かべることができるのだった。
 マリーナの中心は半円型の広場である。
 直線部分の護岸から張り出した桟橋には、たくさんのヨットやクルーザーが繋留され、満艦飾さながらにマストをイルミネーションで着飾りながら、寄せるさざ波に合わせて優雅に舳先を上下させていた。護岸沿いにひと際大きく区切られたバースには、現役を退いた小型客船が永久繋留され、船上ホテルとしての余生を内海の穏やかな波間に泛かべている。
 円周部分のなだらかな曲線に沿って、オープンテラスをひろげたカフェ・レストランや飾り窓のクリスマス向けディスプレイに趣向を凝らしたブティック、様々にアレンジされたクリスマスツリーやリースが店頭を華やかに彩ったフラワーショップなどの店舗が軒をならべていた。なかでもデッキシューズから中古のクルーザーまで、海の百貨店を自称する品揃えが自慢のマリンショップは、地元出身の前衛建築家が手掛けた、空に架かる虹をイメージしたという独特のフォルムで通りかかる人々の目を引いていた。
 広場のなかでは、競争相手より少しでも注目を集めようとして、車体にカラフルな塗装を施したり、商品の写真をラッピングしたりした移動販売車が、彩りを添えるように点在している。彼らが扱う商品は多種多様である。クレープ・ドーナツ・ワッフルなどのスイーツやホットドッグ・ハンバーガー・たこ焼きなどのファーストフードは年中無休で店頭にならべられ、夏の盛りになるとジェラートやかき氷などの期間限定メニューがこれに加わる。
 毎朝決まった時間に乗り入れてくる生鮮食品を満載した〝ピッチピチ号〟の車影が遠目に見えてくると、【ブルジョワの丘】から下ってきた奥様方が広場に集まりはじめる。手際よく車両から店舗にトランスフォームした〝ピッチピチ号〟の前は、水揚げしたばかりの魚や新鮮な野菜を手に取りながら、今夜の夕食の献立や旦那様と子供たちのうわさ話に花を咲かす奥様方の社交場に早変わりだ。
 広場の処々に配されたベンチの傍らには、ヒイラギやヤブツバキなどの樹々が植えられて、昼間はベンチでくつろぐ人々にそっと木陰を落とし、夜になると身にまとった電飾で辺りを優しく照らしてくれる。
 ドームの頂点部分に建つ三階建てのテラスハウスは、マリーナの管理棟である。一階のほとんどのスペースを占めるロビーの奥まった一角には、二階へ通じる階段と三階直通のエレベーターが隣接していて、その手前にこぢんまりとしたレセプションが設けられていた。二階のゲストハウスはドミトリーだけでなく、個室もいくつか確保されてあって、廊下の突き当たりには共用の簡易キッチンとシャワールームも完備されていた。三階にはオーナーズルームをはじめとして、大小の会議室のほかに予約制のプライベート・シアターやマリーナの景観が楽しめるバーラウンジもあった。
 広場に面した全面ガラス張りの正面には、スノースプレーで描かれたサンタクロースが、トナカイに引かせた橇に乗って今にも広場を飛び立とうとしていた。そうして背中越しに振り返り、とびっきりの笑顔を人々に向けているはずだった。
 悠太は、彼女とマリーナで過ごした一年前のクリスマスを思い出していた。あの夜、悠太にはふたり寄り添って歩く未来しか見えていなかった……。

「わぁ、きれい!」
 船上ホテル内にあるレストランでディナーを満喫した後、前甲板へ続く回転扉を抜けた途端、彼女が思わず感嘆の声をあげた。デッキの大きく開けた視界いっぱいに、マリーナの光の雑踏がひろがっていた。
「大袈裟だなあ」
 醒めた口調で言ったが、無邪気にはしゃぐ彼女を見ていると悠太の心も弾んだ。吹き渡る風が、ワインで火照った頬に心地よい。
「ねえ、来て来て!」
 いちはやく船べりの突端まで駆けていった彼女が手招きしている。悠太は締めなれないネクタイを緩めながら、彼女の横にならんだ。
「みんなも楽しそうだね」
 広場中央にある噴水のパステルカラーのきらめきの中、軽い口づけを交わす恋人たち、大きなぬいぐるみを大切そうに小脇に抱えて家路を急ぐ若いパパ、レストランで食事を終えて埠頭を散策する家族連れ――、聖なる夜を愛する人たちと祝う広場の様子が見渡せた。
 広場越しに【ブルジョワの丘】が見えていた。中腹の瀟洒な住宅街は夜の帳に半ば紛れ、点々と灯る家明かりとマリーナから漏れ届く光の残滓によってできた、薄暗い闇だまりにひっそりと息を潜めていた。丘の頂上あたり一帯は霊園として整備されていて、海を見下ろす斜面に沿って連なる白亜の墓碑が、園内の足許を照らす柔らかな灯りによって、ぼんやりと浮かび上がって見えている。
 二人から見ることは出来なかったが、頂上は公園として整備されていて、ゾウさんの鼻を滑降するすべり台や漕ぐたびに猿みたくキーキーと騒ぎたてるブランコなどの遊具が、霊園の駐車場も兼ねた広場をとりまくように配置されていた。
 悠太は、むかしよく遊んだ公園の様子を思い浮かべた。
「悠太、あそこに住んでたんでしょ?」
 彼女が中腹の暗がりを指差しながら訊いてきた。
「もうずいぶん前の話しだけどね」
 氷室家が社員住宅を出て、郊外に建てた一軒家に移り住んだのは、悠太が中学生になった年の秋のことだ。突然の転居は、その一年前の祖父の死と無関係ではあるまい。いつものように祖父の家へ遊びに行った悠太は、縁側で倒れている勝次を発見したのだった。そのときの衝撃を悠太は今も忘れることができない。
 大好きだった祖父をたったひとりで淋しく死なせてしまった父親に、悠太がこれまで感じたことのなかった反感を抱かなかったと言えば嘘になる。今にして思えば、このことがきっかけとなって、父親との関係が綻びはじめたのだと悠太は思っていた。さらにそれから一年も経たないうちに祖父の家を売り渡し、手にした金を元手にして社宅暮らしから脱け出した父親に対して、悠太はわずかな綻びに吹きはじめた隙間風を強く意識した。その思いがけない冷たさは、悠太自身ですら持て余すほどだった。
「あの丘のてっぺんには公園があってさ、じいちゃんによく連れて行ってもらったっけ」
 暗くなるまで逆上がりの練習に毎日付き合ってくれたこと、補助輪が外せるようになるまで後ろから自転車を押してもらったこと……。あの公園には祖父との思い出がたくさん詰まっている、と悠太は思った。
 だが――。父親と遊んだ記憶は、悠太にはなかった。
「悠太は、おじいちゃんっ子だったんだね」
 無邪気に彼女が言った。
「俺には、父親と呼ぶに相応しい人がいなかっただけさ」
 悠太のいつにない強い口調に彼女が思わず振り向いた。
 秘めた想いを閉じ込めていた心の箍が緩んだのは、飲み慣れないワインの酔いのせいもあったろう。
 気まずくなった二人のあいだと後ろ向きの父親への想いを取り繕うように、悠太は祖父との思い出話しを彼女に語って聞かせた。聞くたびに心が躍った見知らぬ異国の話、夢中になった松林での蝉取り、かすかに汐の香りを含んだ祖父の大きな背中の温もり、縁側でお月見をした時の月明かりの欠片を散りばめたような波打ち際の蒼さ、そして砂浜で日が暮れるまで佇んで聞いていた海鳴りの轟き。
「……少しお喋りが過ぎたかな?」
 悠太は、照れ臭そうに周囲を大げさに見回しながら言った。
「ううん、そんなことないよ。だって、悠太が大切にしている思い出でしょ?」
 そう言って、彼女はにっこりと微笑んでみせた。
「話してくれて、嬉しかった」
  ※     ※     ※     ※     ※     ※     ※
 細雨は、いつのまにか雪まじりになっていた。橋の下から吹き上がってくる風が、コートの裾を勢いよく翻らせていた。雨間も短くなってきたようだ。
 最後に別れた夜、駅の改札口で後ろ向きに手を振りながら遠ざかって行った彼女の姿は、今でもはっきりと瞼に焼きついていた。それはほんのひと月足らず前のことなのに、悠太には何年もむかしの出来事のように感じられてしまうのだった。
 暗い空を見上げて、「終わっちまったなぁ」と独りごちる。
欄干の平らな親柱の上にそれはひっそりと置かれてあった。見憶えのあるオルゴールは、彼女が少し前までここにいたことを物語っていた。
 それは一年前のクリスマスにマリーナの船上レストランで彼女に贈ったもので、白いドレスに青い薔薇のコサージュが印象的な淑女が、椅子に腰掛けてバイオリンを構えている。
 悠太はコートのポケットから、小奇麗に着飾られた小箱を取りだした。それは今夜、彼女に渡すつもりでいた二つ目のオルゴール。ピンクのリボンを紐解けば、黒いタキシードに身を包んだ異国の紳士がピアノを弾き語り、サザンオールスターズの名曲〝いとしのエリー〟を奏でてくれるはずだった。
 アパートの衣装ケースの抽斗の奥には、背筋をピンと伸ばして楽しげな表情で弦に弓をあてているチェリストと、バイオリニストと同じコサージュをタキシードの胸元に飾ったビオラ奏者が、それぞれ同じように洒落た小箱に入れられて静かに出番を待っていた。
 彼らを初めて目にしたのがいつだったか、悠太の記憶も曖昧なままである。
 趣味の雑貨屋めぐりの最中に見つけた、舞台を模した台座の上で魅惑的なカルテットを気取った四体のオルゴールは、悠太を魅了してやまなかった。
「お気に召したかしら?」
 何度も足繁く通ううちに馴染みになった店主が、店頭のショーケースの中でスポットライトを浴びている楽団を指差しながら言った。こぢんまりとした店構えと小洒落た品揃えにぴったりの小柄で上品なおばさんである。派手な羽根飾りをつけた、濃い緑色のチロリアンハットをいつも目深にかぶっている。
「取り置きしといてあげましょうか?」
 思わず「お願いします!」と言おうとして、悠太は慌てて口をつぐんだ。掲示されている価格は、悠太には贅沢過ぎた。
 店主は、そんな悠太の気持ちを察して目許に微笑みを宿したまま、ショーケースから台座ごと取り出してみせてくれた。
「お気に入りは、どの子かしら?」
 言いながら店主は無造作に一体を台座から取りはずして、悠太に差し出した。悠太は白いドレスを着た淑女を受け取ると、掌のうえにそっとのせてみた。精巧なガラス細工のオルゴールは硬くて冷たかった。
「聴いてみる?」
 店主がオルゴールについているちいさなネジ回しを指差して言った。
「いいんですか?」
「もちろんよ。納得して買って頂いたほうが、大切にしてくださるでしょ?」
 生命を吹き込まれたバイオリニストが、ショーケースのステージ上で演奏をはじめると、店主が店内に流れていた有線放送のスイッチを切ってくれた。思いのほか静かになった店のなかに聞こえてきたソロリサイタルの曲目は〝エリーゼのために〟。間接部分のわずかな隙間から、黒い骨組みがのぞいている。少しぎこちない仕草で懸命に弦を操る姿が、悠太にはいじらしく思えた。
「ひとつずつ売ってあげても構わないけど、この子たちずっといっしょだったから、ひとりぼっちにするのは可哀想でしょ?それにね、この商品にはとっても素敵な仕掛けがございますのよ。ほら、ご覧になって」
 四体のオルゴールが織りなす、優しく澄んだアンサンブルが狭い店内に響いた瞬間、悠太の躊躇いはその美しい音色に溶けてなくなった。
 そのとき悠太は、僅かな蓄えのほとんどを切り崩して手に入れたからくり仕掛けのオルゴールが、何年か後、彼女と暮らすリビングの飾り棚の中で、二人を優しく見守ってくれている光景を思い泛かべていた……。
 ※     ※     ※     ※     ※     ※     ※
「麻衣子」
 悠太はそっと彼女の名前を呟いていた。
 ―― どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 幾度、繰り返しても満たされることのない想い。それに対する彼女なりの答えが、橋の上に残された二体のオルゴールに託されているような気がした。
 彼女から〝サヨナラ〟を聞かされた時、悠太の頭の中で何かが音をたてて弾け、哀しくて切ないシンフォニーのタクトが振られたのだった。
 その日――。この冬、初めて雪が舞った。


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: