「妻とふたりでカリブ海を旅する」



私が海外旅行情報誌の編集者であった当時、妻は航空会社系の旅行会社に勤めていた。当然、私たちは旅行好きで、私たちは結婚前も今でも、多くの旅行に出ている。
新婚旅行はおもいきって、カリブ海に行った。妻はフラメンコを習っていて、私はラテン音楽サルサのフリークだったから、旅行先は迷わずラテン文化圏に決まった。メキシコのビーチリゾート地カンクン、サルサの故郷プエルトリコ、そしてキューバ。
 お互い年末の慌しい仕事を必死に済ませた後、すっかり解放された気分でカンクンに着いた。パステルカラーが幸せな気分を盛り上げてくれる、申し分のないビーチリゾートに滞在した。「何もしない、しなくていい」というユッタリ感がうれしかった。毎日k、日中はビーチサイドでスケッチブックに色鉛筆で絵を描いて遊んだ。アメリカ本土からきている子供たちなどをスケッチした。コバルトブルーのカンクンの海の色はため息が出るくらい美しく、色を紙上に再現するのは難しい分、楽しかった。色鉛筆を削るためにホテルのフロントに行くと、陽気で礼儀正しいスタッフは皆すすんで色鉛筆を削ってくれた。世界的なビーチリゾート地カンクンでも5本の指に入るホテルなのに、肩が凝る威圧感がない。ビーチサンダルと水着でもバスタオルをはおれば、人目も気にせず、ロビーを横断できる、そんなホテルだった。
 プエルトリコでは、オールドサンファンの要塞の大砲台の跡や、石畳の街中、偏西風のたわんだココ椰子と赤い砂浜を背景に妻の写真をたくさん撮った。ポンセという都市に滞在した時はパッケージツアーでは行けないカリブの島の田舎の風情をたっぷり堪能した。旅行手配が仕事の妻は、このポンセのホテルや交通手段を手配するさいには、生来の計画性と几帳面な性分を存分に吐きして、私を驚かせた。
 キューバでは、イタリア人の青年二人組と仲良くなり、街角でサルサを踊り、サルサ楽団の招きに応じてステージにあがり、歌を歌ったりして遊んだ。
ちょうど大晦日だったので、幸せな喧騒が町のあちこちに渦巻いていた。
 私たちが投宿したのは、ハバナのクラシックな中型ホテルだった。部屋からロビーに降りていくと何度か、目を奪われずにはいられない美しい黒人キューバ女性を見かけた。彼女はいつも落ち着かない様子で佇んでいた。スラっとしたスタイルで黒真珠のような光沢のある肌。紫色のドレスを着た立ち姿は、まばゆいばかりの姿である。
 投宿3日目の夜、フロントでチェックアウトしていると、その彼女が人ごみの向こうから、私たちのほうにまっすぐ小走りでやってきた。妻と私の顔を見比べながら、スペイン語で話しかけてきた。妻はスペイン語が少しできるので、彼女の話を理解できた。彼女の話を要約すると、こういうことだった。
 彼女は、以前ハバナに来た日本人男性と恋仲になった。青年がキューバ滞在中はとても楽しい時を過ごした。彼が日本に帰ってから、手紙を書くが返事が返ってこない。彼に会いたいが日本には行けない。愛しいかれのことを思うと辛くてしょうがない。手紙がちゃんと届いたかもわからない。郵便事情は信頼できない。このホテルは外国人旅行客が来るので、いつか日本人も来ると思い、ここしばらく待っていた。ぜひ、この手紙を彼に届けてほしい。
 この話をし終わると、彼女の黒くて大きな瞳がみるみるうちに涙でうるんできた。大粒の涙がとめどなくこぼれた。妻はハンカチで彼女の涙をぬぐい、マスカラの乱れをやさしく拭いた。いまや泣きじゃくっている彼女の素顔は少女のようであった。妻は彼女を抱きしめ、子供にするかのように髪をなで、きっとこの手紙を届けるという旨をたどたどしいスペイン語で告げていた。妻も泣いていた。気持ちが落ち着いてきた彼女は、ホテルのコンセルジュの木製の机を借り、何か書き加えて、手紙の署名のところに口づけして、大きなキスマークを印し、なきそうな表情で手紙を妻に渡した。そして、私たちに何度もお礼を言って、ホテルの回転ドアを押して、幾分ふらついた歩調で暗い街路に消えていった。
 キューバから再びカンクンに戻って、また夢のような日々を満喫した。昼寝もたっぷり楽しんだ。日中の激しい日光は思ったより人を疲れさせた。
 日本に帰ると妻は、早速キューバ女性から託された手紙を別の封筒に入れ、宛名を書いた。その男性の住所は大阪だった。妻が手紙を投函してから一ヶ月ほどで、なんとその男性から返信が届いた。彼もそのキューバ女性が、そのように自分を待っていたのは意外で、だが、済まなく思ったらしい。私たちに対する心からのお礼文と、必ず彼女に手紙を書くと記されてあった。文面からは誠実な人柄がにじみ出ていた。彼はお礼として自分で編集したキューバ音楽のテープを一本同封してくれていた。妻は「良かったね」と何度も繰り返した。また、目がうるうるしてきそうだったが、今度は泣きはせず、封筒を、買ったばかりでまだいい香りがする箪笥の引き出しの奥にそっと収めた。


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