私の沼

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フェンディの112万のコート







       フェンディの112万のコート









      わたしがそれを見つけたとき
      わたしは28歳
      離婚したばかり
      バイトを3つ掛け持ちし
      年下の男と暮らしていた

      年金なんて払えなかった
      でも先のことを考えると不安で
      毎月5000円ずつ郵便局で定額貯金をしていた
      やっとの思いで健康保険を払っていた
      病気をするのが怖かった

      久しぶりに出掛けたデパートで
      久しぶりに入ったフェンディ
      そのコートはウィンドーに飾ってあった

      とても素敵だと思った
      色はベージュとブラウンを混ぜたような
      裾と襟にミンクを使っていて
      デザインが古典的で
      わたしはひと目でそれが欲しくなった

      「よろしかったらお取りしますが」
      店員に声をかけられ、わたしは思わず頷いた
      店員がわたしの肩にそのコートを掛けてくれた

      鏡にそのコートを着たわたしが映った
      自分で言うのもなんだけど
      それはわたしに似合っているように見えた
      どこの誰でもないなんの力も経歴もない
      家出したばかり将来の展望もない何も見えない
      仕事もお金もないわたしはただのウェイトレス
      でもそのコートを着た瞬間だけわたしは

      10年前に戻ったような気がした
      または、遠い未来へ自分がスライドしたように思った

      わたしはそっと値札を見た
      12万
      だと思った
      それだって高い
      でも違った
      よく見ると、棒が1本多い
      112万
      それがそのコートの値段だった


      わたしは笑顔を作り店員にそのコートを返した


      その夜わたしはそのコートの夢を見た
      朝目覚めると
      別に悲しい夢じゃないはずなのに
      胸が絞られるように悲しい感情が残っていた

      わたしは何度も考えた
      わたしの頭の中にはいろんな情景が浮かんだ

      そのコートを着てわたしは
      薄汚い酒場へ行きたかった
      そして周りの人間にあきれられるほど酔っ払い
      店を追い出されて道路で眠りたかった
      そこはたくさんの車が通る場所で
      眠っている間にわたしは

      また別の想像
      そのコート着てわたしは
      クスリがたくさん撒かれるクラブに行きたかった
      そこで思う存分頭をイカレさせたら
      トイレで見知らぬ男とセックスする
      あのきれいなミンクのファーを
      精液まみれにして
      わたしは男の足元にしゃがみこむ
      その男は変態でイカレてる
      手にはカッターナイフを握ってる
      男は笑いながらわたしを


      あのコートさえあればわたしは


      わたしは今でも時折あのコートのことを思い出す
      まだあれはあのままあそこにあるのだと
      ウィンドーに飾られてわたしが腕を通すのを待っているのだと
      ぼんやりと考える











       初出「現代詩フォーラム」2004・7・11


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