《櫻井ジャーナル》

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2024.08.15
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 1945年8月15日、昭和天皇(裕仁)は「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表した。いわゆる「終戦勅語」だ。

 この「勅語」について堀田善衛は「負けたとも降服したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者(帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦=引用者注)に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」と書いている。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)

 その年の 4月12日、 アメリカでは国の在り方を大きく変える出来事があった。ニューディール派を率いていた フランクリン・ルーズベルト大統領が急死、副大統領のハリー・トルーマンが大統領の職を引き継いだのである。トルーマンはルーズベルトと違う考え方の持ち主で、 副大統領時代、大統領と会ったのは2度だけだともいう。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 トルーマンは第1次世界大戦の頃、兵営内で日用品などを販売する酒保をオクラホマ州にあったフォート・シルで経営して成功したのだが、そこで知り合いになったジェームズ・ペンダーガストの叔父はカンザスシティ政界のボス、トーマス・ペンダーガストだった。

 当時のカンザスシティはギャンブル、売春、密造酒や麻薬取引、恐喝が盛んで、そうした「ビジネス」の上に君臨していたのがトーマスに他ならない。そのトーマスの下でトルーマンは稼いでいた。(Jonathan Marshall, “Dark Quadrant,” Rowman & Littlefield, 2021)

 こうした「政治マシーン」がトルーマンを副大統領の座に付けることになるのだが、そうした彼に多額の政治資金を提供していたひとりがアブラハム・フェインバーグなるシオニストの富豪。裏ではシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、イスラエルの核兵器開発を資金面から支えることになる人物だ。

 ルーズベルト大統領が信頼していた文民は ハリー・ホプキンスとヘンリー・ウォーレスだと言われている。ルーズベルトはファシストの巣窟と見られていた国務省を信頼せず、外交はホプキンスに頼っていた。つまり当時の国務省とルーズベルト大統領を一体化させて議論することは間違いである。そして副大統領に据えたのがウォーレスだ。

 JPモルガンをはじめとするウォール街の富豪たちがルーズベルトが初めて大統領に就任した直後、1933年から34年にかけてクーデターを目論んだことは本ブログでも繰り返し指摘してきた。そうした金融資本はトルーマンを引き上げた政治マシーンの背景でもある。

 そうした勢力にとって邪魔な存在だったウォーレスは、ドイツの降伏が見えていた1944年に行われた大統領選挙の際、民主党幹部の意向で副大統領のポストから引きずり下ろされ、商務長官にされている。 ウォーレスが義理の弟で駐米スイス大使だったカール・ブルグマンへ機密情報を話し、それがドイツ側へ伝わっていたという怪しげな話が使われた。(Simon Dustan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)

 ルーズベルトが急死、トルーマンが昇格という流れは1933年から34年にかけてウォール街が試みたクーデターの目的に合致する。新大統領のトルーマンは当然とことながらウォーレスを嫌い、1946年9月、商務長官を辞めるように通告してホワイトハウスから追い出した。ホプキンスは1946年1月に55歳で死亡している。ホプキンスは1939年に胃癌という診断で胃の75%を切除していた。

 その間、1945年 5月上旬にドイツが降伏、その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連を奇襲攻撃する作戦を立てるようJPS(合同作戦本部)に命令、5月22日に「アンシンカブル作戦」が提出された。 その作戦によると、攻撃を始めるのは日本が降伏する前の1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動されなかった理由は、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 日本が1940年9月にドイツやイタリアと三国同盟を結び、そのドイツが1941年6月にソ連へ軍事侵攻したことから日本とソ連は敵国になったのだが、ドイツ降伏後、イギリス軍は両国が手を組むことを懸念したとする見方もある。

 実は、日本が真珠湾を奇襲攻撃する前、イギリスには「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようという案があった(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies,” Macmillan、1988)のだが、1939年に日本軍はノモンハンでソ連軍に敗北、その後に南進、つまり東南アジアへ矛先を向けてイギリスの利権と衝突することになり、この同盟は不可能になった。イギリスの支配層は当時の日本には「反ソ連派」と「親イギリス派」がいると考えていたのかもしれない。日本・アングロ・ファシスト同盟を結成しようという案は反ファシストだったルーズベルト米大統領とも衝突する。

 1945年7月16日にアメリカではニューメキシコ州のトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験に成功した。ポツダム会談が始まる前日に行いたいというトルーマンの求めで予定が早められ、この日の実験になったという。

 実験の成功を受けてトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可、そして26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型が投下された。その3日後には長崎へプルトニウム型が落とされているが、原爆投下がソ連を意識したものだったことは本ブログでも繰り返し書いてきた通り。原爆以外にもアメリカ軍は東京を含む日本の都市を焼夷弾で焼き尽くした。3月から7月にかけての沖縄戦は日本の降伏が遅れたためだ。

 第2次世界大戦後の日本のあり方を決めたのはジャパンロビーだとされている。その背景にはウォール街の富豪が存在していた。そのジャパン・ロビーの中心人物だったジョセフ・グルーはJPモルガンが1932年に日本へ駐日大使として送り込んだ人物にほかならない。彼は皇室を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。大戦後、日本に天皇制は残る。「象徴」になったと弁明されているが、天皇が東京裁判に引き摺り出されなかったのは、敗戦前の天皇は「象徴」に過ぎないとされたからだ。

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最終更新日  2024.08.15 00:00:15


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