コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第六話 牙城クスコ(6)

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【 第六話 牙城クスコ(6) 】

さて、再び、物語を現実的な状況に戻そう。

あのクスコ戦以来、トゥパク・アマル率いる反乱軍とクスコのスペイン軍とは、互いにピチュ山を隔て、無言の睨み合いを続けたまま数日間が過ぎていた。

そのような状況の中、全身から激昂のオーラを発し、まるで鬼のごとくの形相をした一人のインカ族の男が狂ったような勢いで馬を駆り、トゥパク・アマルの本営に乗り込んできた。

本営入り口の兵たちが必死で止めるにもかかわらず、男は乗馬のまま砂塵を蹴散らし、トゥパク・アマルの天幕まで、まるで切り込むがごとくの勢いで馬を乗り入れた。

「何事だ?!」

衛兵たちが血相を変える中、すぐにビルカパサが騒然としている兵たちをかきわけ、衆目の中央にいるその人物の方に飛び出していった。

その人物はビルカパサの方を見るなり、「トゥパク・アマルはどこだ?!」と、真っ黒な埃にまみれた顔で怒鳴るように言い放つ。

「アパサ殿…!!」

ビルカパサは、予想だにしない突然の来訪者に、思わず目を疑った。

トゥパク・アマルの有力な同盟者の一人であるこのアパサは、反乱幕開けと共に、このペルー副王領に隣接するラ・プラタ副王領にて挙兵してから、実に多くの戦果を上げていた。

しかしながら、現在も、アパサはラ・プラタ副王領で兵を指揮しているはずだった。

草の大地

目を見開いているビルカパサに、アパサは、チッと地面に唾を吐いた。

「あのクスコでの、トゥパク・アマルの目も当てられぬ惨敗を聞いて、こうしてわざわざ素っ飛んできたのだ。

なに、心配するな。

本拠地の方は、できる部下に任せてある。」

しごく簡単に説明した後、「それより、トゥパク・アマルに会わせろ!!あの、とんでも野郎に!!」と、目を吊り上げてビルカパサに詰め寄った。

ビルカパサは、改めて、アパサを見た。

実際、アパサは全身、土と埃と汗まみれで、何日間も一目散に馬を飛ばし続けてきたことは一目瞭然だった。

まともに食事もとっていないのではないかと思われるほど頬骨も出ていたが、眼だけは不気味なほどに炯炯として鬼気とした迫力が漲っている。

ビルカパサは、「アパサ殿、本当に、よくお越しくだされた。トゥパク・アマル様も、さぞ驚かれるであろう。」と言ってから、「いや、お喜びになられるであろう。」と慌てて言い直す。

そんなビルカパサに冷ややかな視線を投げて、「何だ?俺は招かれざる客か?!」と憎々しげにアパサが言う。

ビルカパサは「まさか。」と手で軽くいなし、「まあ、どうかお気を悪くせずに。アパサ殿のお働きにはトゥパク・アマル様はもちろん、我々側近一同も、深く敬意を抱いているのですから。」と、なだめるように言いながらトゥパク・アマルの天幕の方にいざなっていく。

そんなやり取りをしながらこちらに向かってくる二人を見つけたアンドレスは、彼もまた、一瞬、目を疑ったように頭を振った。

そして、改めて、喰い入るように前方を見据える。

「アパサ殿!!

やはり、アパサ殿!!」

アンドレスは半ば叫ぶように言うと、感極まった表情で、そちらに走り込んでいく。

「アパサ殿!!

本当に、アパサ殿ではないですか。」

歓喜の声で己の名を幾度も呼ぶ眼前の若者を見るアパサの目も、思わず懐かしさと不意に込み上げる特別な思い入れから、その光を和らげる。

国中探しても右に出る者のそうはない程に武勇に秀でたこのアパサは、トゥパク・アマルに見込まれて、かつてアンドレスに武術を一から叩き込んだ師でもあったのだ。

「アンドレス。」

「アパサ殿!!」

二人は、互いの目を真っ直ぐに見つめ合い、あまりに深い感慨故に言葉にならぬ思いを無言で交し合う。

それから、どちらからともなく、がっしりとその腕で抱擁した。

ビルカパサも、そんな二人を、思わず目を細めて眩しそうに見守る。

「それにしても、どうされたのです、アパサ殿。

突然、このようなところまでお見えになるとは。

アパサ殿は、ラ・プラタ副王領にて、今も軍を指揮している真っ最中かと思っていましたが…。」

そんなアンドレスに、アパサは再び険しい表情になって、苛々と貧乏ゆすりのように体を揺らした。

「トゥパク・アマルに話があってきた。

…ったく、あの野郎、いい加減にしやがれよ。」

殆ど独り言のように、しかも、吐き捨てるように言う。

ビルカパサは既にアパサの言わんことを察して、難しい表情になっている。

しかしながら、恐らく何日も馬を飛ばしてここまで馳せ参じたアパサを、まさか無碍(むげ)に追い返すわけにもいかなかった。

「トゥパク・アマル様に取り次いで参ります。

暫し、お待ちを。」

そう言い残し、ビルカパサはトゥパク・アマルの天幕に向かった。

彼が天幕に入ると、まだ負傷の後遺症を引き摺りながらも最近では大分自由に動けるようになってきたトゥパク・アマルが、既に外の騒然とした気配を察して、「何事か?」と静かに問うてくる。

「はい。

アパサ殿が、トゥパク・アマル様とのお目通りをと、ご来訪でございます。」

ビルカパサが恭しくも、少々案ずる眼差しでトゥパク・アマルを見た。

「アパサ殿が…!」と、トゥパク・アマルも少なからず驚きの色を見せるが、「すぐに通してくれ。」と、真摯な声で言う。

「はっ!」

再び、恭しく礼をして、ビルカパサは急ぎアパサを呼びにいく。



間もなく、アパサがドカドカと足音荒く、トゥパク・アマルの天幕に乗り込むがごとくに現われた。

トゥパク・アマルは、思わず懐かしさの感情が先に立つ。

「アパサ殿!!

よくお越しくだされた。」

そんなトゥパク・アマルの様子を完全に無視して、アパサはズカズカとトゥパク・アマルの鼻先まで迫り来ると、「おまえ!!何を考えている!!」と獰猛に睨みつけた。

そして、トゥパク・アマルが立ち上がる間も与えず、その口角から唾を飛び散らせながら、猛り狂った鬼のような剣幕で捲(ま)くし立てはじめる。

「トゥパク・アマル!!

おまえ、クスコ戦のあの時、何故、リマの褐色兵どもを討たなかった!!

たとえインカ族であろうとも、敵は敵だ!!

あの時…、あの時、おまえが怯(ひる)みさえしなければ…今頃、クスコは必ず奪還できていた!

さすれば、この国の、この最悪の植民地支配を瓦解せしめられていたに相違ないのだ!!

それを、おまえは…!!」

両目をこれ以上ないほど吊り上げて荒れ狂うアパサは、しかし、最後は、あまりの無念さからであろう、思わず言葉に詰まり声にならぬほどであった。

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トゥパク・アマルも、そして、周囲に集まってきていた側近の者たちも、思わず、すぐには返す言葉が出ない。

恐らく、皆、心のどこかでは、同じ思いがあったのかもしれなかった。

「トゥパク・アマル…、おまえの、その判断の誤りが…結局は、あの褐色の敵兵たちの何十倍、何百倍ものインカ族の兵を、そして、民衆を、再び苦境に追い込むことになっていくのだ…!!」

憤怒と悔しさのために震える声でそう言うと、もはや、感情を押さえきれぬアパサは、トゥパク・アマルの胸倉に掴みかかった。

「いいかっ!!

これ以上、こんな馬鹿げたことは、やめるのだ!!

すぐに、あのリマから来た褐色兵どもを一掃しろ!!

トゥパク・アマル!!」

無抵抗のままに胸倉を掴まれ、揺さぶられ、アパサの為すがままになっているトゥパク・アマルを見かねたディエゴとビルカパサが、ついに溜まりかねて背後からアパサを押さえ込む。

「アパサ殿、いい加減に…!」と、険しい声で制しかけるディエゴに、トゥパク・アマルは沈着な、だが、毅然とした声で、「アパサ殿をお放しするのだ。」と言う。

アパサは背後の二人を「チッ!」と鋭く不遜な視線で一瞥し、押さえ込まれていた腕を荒々しく引き抜いた。

それから、アパサは、改めて、トゥパク・アマルに、にじり寄った。

そして、今度は、地底から湧きだすような、感情を押し殺した低い声になって、まるで勧告を突きつけるがごとくに言う。

「わかったな…?

すぐに、奴らを討ち倒すのだ。

おまえが本当にインカのことを思うなら、今こそ、それを示せ…――トゥパク・アマル!!」

貫くように己を険しく見据えるアパサの眼は、トゥパク・アマルがこれまで知るうちで、この男の最も真剣なものだった。

「アパサ殿…。」

トゥパク・アマルは苦しげな、しかしながら、ゆるぎなき眼差しで、真正面から相手の目の奥を見返した。

「それはできぬ。

同じインカ族を殺すことはできぬ。」

「おまえ…まだ、そんなことを…!!」

瞬間、アパサの髪がメラメラと逆立った。

「アパサ殿、ここはわたしに任せてほしい。

考えがあるのだ。」

「何だ!!

言ってみろ。」

もはや怒りの極みに達し、目を白黒させながらアパサが吐き捨てるように言い放つ。

「褐色兵の将と話し合い、説得する。」

トゥパク・アマルの声は、さざ波ひとつない湖面のように静かである。

アパサの目元がぴくぴくと引きつるように痙攣しはじめた。

もはや、言葉も無い、と言わんばかりの形相である。

長い沈黙の後、アパサは言った。

「…――トゥパク・アマル。

おまえとは、もはやこれまでだ。」

ぶち切れるのをギリギリ押さえているかのような、氷のごとくに冷ややかな声であった。

「アパサ殿…。」

トゥパク・アマルも眉間に皺を寄せる。

「アパサ殿、インカ族同志で血を流し合うなど、いかなる状況でも、決してあってはならぬことなのだ。

一人一人のインカの民を守るために、やむなくこの反乱を起こしているのだ。

その反乱のために、民がかえって不幸な死を迎えるなど、決してあってはならぬことだ。

たとえ、一人の命でも、その重さは我々と変わらぬものなのだ。

わかっておくれ。」

しかし、アパサは、既にトゥパク・アマルを見ようともしない。

「おまえが殺(や)らぬのなら、俺が殺る。

既に兵をすぐ近くまで連れてきているのでね。」

憎々しげにそう言うと、「あばよ。もう会うこともないだろう。」と踵を返した。

「アパサ殿、待たれよ!!」

トゥパク・アマルの声が、にわかに鋭くなる。

「わたしに、もう少しだけチャンスをくれ。

それで駄目であれば、そなたの好きにするがよい。

だから、今暫く待たれよ。」

しかし、アパサは見向きもせず、天幕を出て行きかける。

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その瞬間、トゥパク・アマルが鋭い手つきで、天幕の出口で警護に当たるビルカパサに何かの合図を送った。

その合図を受けて、ビルカパサは一瞬、目を疑ったが、しかし、迷う間も無く、すぐにその命に従った。

ビルカパサは己の剣を抜き、天幕の出口に立ちふさがった。

さすがのアパサも、にわかに目を見張る。

「アパサ殿、ここをお通しすることはできませぬ。」

低い声で言うビルカパサを鋭い目で睨んだ後、アパサはトゥパク・アマルを険しい表情で振り向いた。

「何の真似だ?!」

一方、トゥパク・アマルはすっと立ち上がって、アパサの方にゆっくりと歩みくる。

真正面からアパサを見据えるトゥパク・アマルのその表情には、今、一縷の感情も見えない。

アパサは、思わず固唾を呑んだ。

彼の傍まで来ると、長身のトゥパク・アマルはアパサを見下ろすようにして目を細めた。

「アパサ殿、今、そなたが褐色兵を討ちに行くと言うのであれば、ここをお通しするわけにはいかぬ。

暫く、この本営をお出にならぬよう、そなたには見張りをつける。

アパサ殿、これはただの脅しではない。

わたしは、本気だ。」

背筋も凍るような無機質で抑揚の無い声である。

「トゥパク・アマル…!

おまえ…まさか俺を監禁するつもりか…?!」

アパサは予期せぬ展開に驚きと、そして、突き上げる激しい憤怒と苛立ちを感じつつも、一方で、どこか身の毛のよだつのを感じた。

トゥパク・アマルの感情の無い、能面のごとくの、その表情を再び見る。

その全身からは、青白い光のようなものがジワジワと放たれはじめている。

(こいつ…――!!)

アパサの額に、いつしか油汗が滲みはじた。

その顔面が、にわかに引きつる。

その時、アパサは、トゥパク・アマルのもつ、ある種不気味な空恐ろしさを、はじめて体感していた。

そして、同時に、アパサにとっては単なるトゥパク・アマルの廉潔のなせる失態と思っていたクスコの敗退劇が、その裏に、激烈なほどにゆるぎなき彼の信念と決意があってのことであることを、この局面に至ってはじめて認識させられてもいた。

アパサの引きつっていた口元に、微かに苦笑が浮かぶ。

「ふん…。

褐色兵の将と話し合うだと?

おまえ、本気でそんなことが通じる相手だと思っているのか?」

「アパサ殿、わたしに任せてくれ。

何事もやってみなければ、わからぬ。

それに、わたしには、説得できる自信もあるのだ。」

「チッ!!

おまえ、いつもそう言っておきながら、此度のクスコ戦でも惨敗しやがったくせに!!」

アパサの暴言ぶりに、トゥパク・アマルの脇に控えるディエゴが、激昂の表情で再び一歩を踏み出しかけるのを、トゥパク・アマルが無言のままに鋭い手つきでそれを制した。

トゥパク・アマルは沈着な、低い声で続ける。

「アパサ殿、何事もやってみなければ、わからぬ。

民の犠牲を最も少なくするための方略を、我らは追及し続けなければならぬのだ。

それは、戦乱の今の時期にあってこそ、忘れてはならぬことだと、わたしは思っている。」

憎々しげに己を睨みつけているアパサを見つめるトゥパク・アマルの目には、蒼白い焔が燃え上がる。

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アパサは、その目の色を確かめるように、喰い入るほどにトゥパク・アマルの顔面を見据えてから、再び、「チッ!!」と舌を鳴らした。

「トゥパク・アマル…おまえは、いつだってそうだ!!

結局、おまえは、俺の話など聞く耳なんか、もたねえんだっ!」

「アパサ殿!

そのようなつもりでは…!」

「ああ、ああ、もういいって!!

おまえの好きにしやがれってんだ!

はいはい、わかりましたって。

今は、褐色兵に手は出しません、はい、トゥパク・アマル様!…ッテんだ。

クソッ!!」

アパサの完全に不貞腐れた皮相な態度に、トゥパク・アマルを囲むようにしている他の側近たちの顔色は、憤りやら、呆れ返りやらで、すっかり赤くなったり、青くなったりしている。

だが、トゥパク・アマルの表情は動かない。

「アパサ殿…。」

「だからっ!!

おまえの、好きにしろって言ってんだろうが!!」

「アパサ殿、本当に、わたしに任せてくれるのだね?」

トゥパク・アマルは、相も変わらず、あの感情の無い能面のごとくの表情で、真意を探るように、じっとアパサを見下ろしている。

アパサは、そのトゥパク・アマルの視線を鬱陶しそうに手で払いのける仕草をした。

「おまえっ!!

俺の話が聞こえねえのか?!

リマの褐色兵はお前に任せるって言ってんだよ、俺は!!

ああ、そうとも。

今暫くは…、な。」

「本当だね?」

トゥパク・アマルがやや目の色を和らげ、念を押す。

「ああ、だから、その化けて出そうな顔はやめろ!!

監禁もごめんだ!!」

やっとトゥパク・アマルは頷き、手でビルカパサに合図を送る。

同盟者として、そして、アンドレスの師として、もう長い付き合いになる眼前のアパサは、どのような形であれ、一度決めた約束を違(たが)える男ではないことを、トゥパク・アマルは既によく知っていた。

トゥパク・アマルの合図を受けて、ビルカパサは瞬時に剣を収めて後方に退(ひ)いた。

アパサも、ふっと小さく息をつく。

彼は、まだ納得しきれている表情ではなかった。

だが、それでも、一応の決が出た今、いつまでも云々といい続けても不毛であることも知っていたし、実際、このトゥパク・アマルがそこまで言うなら、一旦、任せてみる価値もあるか、とも、思えてこぬでもなかった。

そして、まず何よりも、今は互いに力を合わせ、いかにこの危機的局面を打開していくかの方がよほど重要であると、本質的には賢明なアパサには、そのことも良くわかっている。

結局は、トゥパク・アマルがアパサに今も篤い信頼を置いているように、アパサも、表面では何と言おうとも、彼もまた、内心ではトゥパク・アマルを変わらず深く信頼してもいたのだった。

二人は、改めて互いの顔を見据え合い、無言のままに、今、やっと、その眼差しで深く頷き合う。

そして、先刻までの、あの不貞腐れた調子とは異なる真面目な声で、アパサが言う。

「トゥパク・アマル、気をつけろよ。

おまえの首には、2万ペソ(註:邦貨に換算して約1千万円)もの大金が報奨金として賭けられている。

たとえ、同族同士でも、決して甘くは見るな。

おまえのように、いかにも清廉潔白な上に、金(かね)の本当の苦労など知らぬ奴には、金の本当の魔力はわかるまい。

あれだけの大金がかかっていれば、…あるいは、今は敵でなくとも…目の眩む奴が出てこないとも限らぬ。

おまえには、生きててもらわにゃならんのだ。

この植民地体制を突き崩すまでは、な。」

トゥパク・アマルも、いつもの穏やかな眼差しに戻って、深く頷き、微笑んだ。

「そなたの言葉、深く肝に銘じよう。

ありがとう、アパサ殿。」



ひとまずは大人しくなったアパサが、再び本拠地のラ・プラタ副王領に兵を率いて戻っていくと、早速、トゥパク・アマルは側近たちと会合をもった。

ディエゴを筆頭に、参謀オルティゴーサ、アンドレス、ビルカパサ、ベルムデスなどのかねてからの側近たちの他、最近ではロレンソもトゥパク・アマルの信任を受け、側近の一人として加わるようになっていた。

しかしながら、今、それらの面々の中に、フランシスコの姿はない。

もちろん、これまでと変わらず、トゥパク・アマルは重要な側近の一人としてフランシスコにも会合への出席を求めていたが、当のフランシスコ自身は体調不良を理由に己の天幕に引き篭ってしまっていた。

今回もフランシスコの姿が見えないことに、トゥパク・アマルは悲しげに目を細める。

戦闘の心理的な後遺症が緩和するまで戦場に出てはならぬとフランシスコに伝えたあの時、自分の言い方がまずかったのかもしれぬ、言葉が足りなかったのではないか。

彼は心の中で小さく溜息をついた。

そして、アンドレスもまた、最近、フランシスコの姿をめっきり見かけぬことを気にかけていた。

彼の脳裏に、サンガララの決戦が終わった夜、二人で話した時の光景が甦る。

あの時、あまりに残虐な戦闘による心理的な衝撃によって身体症状を呈したフランシスコが、その苦しい息の下で自分だけにそっと打ち明けたあの言葉…。

『今日、あの戦場で、わたしは、自分が生き残るのに必死だった。

…わたしは、ただひたすら逃げ続けたのだよ。

あの酷い戦闘のどさくさに、味方の中に身を潜ませ、敵の刃を逃れて、必死に…。

そう…味方さえ、盾にしたさ。

そうでもしなければ、わたしは今頃、死んでいた。

そして、やっとのことで生き延びた。

…本当に怖かったのだ。

怖くて、怖くて…その挙句が、このざまだ。』

(フランシスコ殿…。)

アンドレスの目が思いつめた色になる。

(あのサンガララの戦いの後、クスコ戦でも戦場に出ていらしたけれど、かなりご無理をされていたのではあるまいか。)

フランシスコの繊細な一面を己の一面とも重ね合わせて見ているアンドレスにとって、フランシスコの心痛は他人事とは思えなかった。

そして、さらに、あの同じ晩の、フランシスコの言葉を思い出す。

『アンドレス、そなたは勇敢で、心根も、姿も、美しい。

トゥパク・アマル様の覚えもめでたい。

実に、羨ましいよ。』

今、あの時の言葉を想起するアンドレスの眼差しは、いっそう思いつめたように苦渋に歪む。

(フランシスコ殿…何故、あのようなことを仰ったのか…。

トゥパク・アマル様が今でもあなた様をどれほど大切に思われているか、誰が見ても明らかなのに。)

アンドレスには、あの時の言葉以上に、それを語った時のフランシスコの表情が、今も生々しく脳裏に焼きついて離れなかった。

その苦しげな言葉とは裏腹に、底知れぬ異様な、背筋を凍らすほどの色味を帯びたあの時のフランシスコの微笑みは、あの時はあまりにも不可解で、アンドレスを深い混迷に陥れた。

(でも…。)と、アンドレスは、今、苦しげにその瞳を揺らす。

(今思うと、あの時、それほどまでに、フランシスコ殿はひどく追い詰められた心境になっていたのではあるまいか…。)

アンドレスの脳裏に、もはや止められぬままに、あの晩のフランシスコの言葉が走馬灯のように巡り続ける。

『トゥパク・アマル様には、全く、ご迷惑ばかりおかけしてしまって、わたしは身の置き所のない心境なのだよ。』

『トゥパク・アマル様は、表面にお気持ちは表さぬお方だ。

ご本心では、何を考えているかなぞ、わかるまい。

それに、他の側近の者たちがどう思っていることか…。

皆、口には出さぬだけで、きっと心の中では、わたしを責め、苛立っているに違いあるまい。』

『わたしは、キキハナの代官を逃してしまった汚名を注ぎたくて、今回のサンガララでは力を奮いたかった。

だが、実際には、あの恐ろしい戦場でわたしは身がすくんでしまったのだよ。

わたしは、あの戦場で逃げ続けた。

ふふ…そんなことは、トゥパク・アマル様には言えないが…。』

(フランシスコ殿…――!!)

アンドレスの中に、今更のように強く案ずる念が突き上げた。

(あの時、俺は、フランシスコ殿の様子がおかしいと気付いていながら、あの晩以来、心のどこかであのお方のことを遠ざけてしまっていたのかもしれない。

もっと…、もっと、しっかりとフランシスコ殿のお気持ちに寄り添うことをしていれば…――!!)

彼の中に自責の念が渦巻いていく。

蒼い波 2

アンドレスは、いつもフランシスコが座していたディエゴの隣のあたりに目をやった。

今は空席になっているその場所に、ふと気付くと、トゥパク・アマルもまた、周囲に気付かれぬよう僅かにうつむき加減になりながら、その場所にじっと視線を注いでいた。

アンドレスは、ハッとしてトゥパク・アマルを見る。

トゥパク・アマルもアンドレスの様子に気付いており、二人の目が真っ直ぐ合った。

(アンドレス、そなたも、フランシスコ殿のことを気にかけてくれているのだね。)

トゥパク・アマルの目が無言で語っている。

それから、アンドレスの目の中で、トゥパク・アマルは静かに微笑んだ。

周囲からはいつもと変わらぬ微笑みと取れたかもしれぬが、アンドレスには、それに宿る寂しげな感情をはっきりと読み取ることができた。

彼の胸は、いっそうの自責と切なさで苦しくなる。

(フランシスコ殿、あなたは、このように大切に思われているのに…!!)

そんなことを思っていると、まもなく、武人らしい表情に切り替わったトゥパク・アマルの、いつも通りの感情を統制した声が聞こえてきた。

「あのリマの褐色兵の将、フィゲロア殿と早急に話をつけねばならぬ。」

一同も頷きはするが、「しかし、いかにして。」とディエゴが皆の内面の声を代弁するかのごとくに問う。

「わたしが直接、これからフィゲロア殿のもとに行き、彼と1対1で話をして参る。」

「え?!

トゥパク・アマル様、今、何と?!」

側近たちが、どよめき、騒然となった。

アンドレスも目を見張って、「そんな無茶な…!」と、思わず小さく叫ぶ。

「トゥパク・アマル様の仰ることの意味が、よく解(げ)しかねるのですが…。」

険しく、しかし、やや混乱した表情で再びディエゴが問う。

トゥパク・アマルは側近たち一人一人に頷き返すようにして全体をゆっくりと見渡しながら、包み込むようなあの眼差しで微笑んだ。

それだけで声に出さずとも、案ずるな、と、側近たちの心に響いていく。

天幕に静けさが戻ると、トゥパク・アマルは改めて、決意を秘めたゆるぎなき声で再び言った。

「これから、日が落ち次第、わたしはクスコのフィゲロア殿の屋敷に行ってくる。

そして、彼と1対1で話をして参る。」

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再び、どよめきかける側近たちを、トゥパク・アマルはそのしなやかな褐色の手をさっと翻し、鋭く制する。

瞬時に、周囲は水を打ったように静まった。

トゥパク・アマルの目がにわかに遠くを見る眼差しに変わる。

彼の脳裏に、あのクスコ戦で、直近で見た際のフィゲロアの目の色が甦る。

その目は、非常に凛として、そして、極めて純粋であり、とても真っ直ぐなものだった。

「案ずるな。

大丈夫だ。」

トゥパク・アマルのその声は、全くの沈着で、絶対的な自信に満ちていた。

結果、側近たちの表情にも、徐々に落ち着きが戻ってくる。

トゥパク・アマルは、アンドレスの朋友、ロレンソの方にゆっくり視線を向けた。

不意に目が合い、ロレンソが瞬時に恭しく深い礼をする。

トゥパク・アマルも礼を払う。

「ロレンソ殿、そなたはクスコの地の出身であったね。」

「はい!!」

ロレンソが力強く応える。

トゥパク・アマルは頷き、「クスコに放った斥候によって、フィゲロア殿の屋敷は既に掴めている。クスコの城門を通らずに、街の中心部まで行く抜け道を知ってはいまいか。」と問う。

ロレンソはしっかりと頷き、「幾つかのルートがございます。」と自信をもって応える。

「それはありがたい。」と、トゥパク・アマルは目を細めた。

「それでは、ロレンソ殿、そなたに案内をしてもらい、二人で早速でかけよう。」

そのトゥパク・アマルの言葉に、周囲は今度こそ本当に騒然となった。

「暫し、待たれよ!!

二人で行かれるとは、いかなることです?!」

やはりトゥパク・アマルに正面切って常に切り込む役割は、さすがにトゥパク・アマルの右腕ディエゴであった。

「案ずるなと言うのに…。」

トゥパク・アマルは少々肩をすくめて、小さく息をついて、それからニコリと微笑んだ。

「クスコに潜入するには、わたしであることを決して敵に悟られぬように行かねばなるまい。

大勢で行けば、もう、それだけで怪しまれるであろう。」

「トゥパク・アマル様であると知られぬように…?!」

一同が息を呑み、しかし、どこか少々合点がいったような顔に変わる。

その表情に応えるように、トゥパク・アマルは再び全員に行き渡るように丁寧に目配りをして、「姿も変えていかねばなるまいね。」と、そして、「どのような姿なら、わたしだとバレずにすむだろうね。」と、呟いた。

その声と表情は、いたずらを考えている少年のような色さえ帯びている。

側近たちは、驚き、唖然としつつも、もはやトゥパク・アマルを止められぬことを悟って、且つ、実際、他の方法も考えつかぬため、深く溜息をつきながらも同意するしかなかった。

しかし、ディエゴだけは最後まで、「何という無謀なことをお考えになるのだ。そのお命、我々インカの存亡を左右するほどに重要なものだというのに…。それを、それほどの危険に晒すとは…。」と、苦渋に満ち満ちた表情で半ば睨みつけるがごとくの気迫でトゥパク・アマルを見据えていた。

そして、さらには「トゥパク・アマル様のお考えには、もはやついていけぬ時がある。全軍を率いる将として、いかなるものかと思う時さえある…。」と独り言のように言い放つと、あからさまに大きく溜息をついた。

かといって、他に妙案も浮かばず、彼もまた、腕を組んだまま黙るしかなかったのだが。



それから、側近たちは、クスコに潜入するトゥパク・アマルが彼であると決して敵に悟られぬために、いかなる変装をしたらよいかという、今まで練ってきた戦術の類(たぐい)とは全く異質な難題に頭をひねらすことになった。

トゥパク・アマルの知恵袋でもある年配のインカ族の重臣、ベルムデスに皆の視線は集まった。

しかしながら、さすがのベルムデスも「う~む…。」と言って、顎にその褐色の骨ばった手を添えたまま首をひねっている。

皆、思いつくままに、「一民兵を装う。」「いやいや、いっそのこと物乞いはどうだ。」「おしろいを塗って白人になりすますとか…。」など、一応アイデアを出してみるが、言うだけいっそう虚しくなっていく。

トゥパク・アマルも、やや前傾姿勢になったまま神妙な顔になって、「ううむ。」と考え込んでいる。

各人がそれぞれにイメージを膨らますかのように、皆、改めてトゥパク・アマルの方を見た。

それから、誰彼とも無く「はあっ…。」と、溜息をつく。

ついにアンドレスが観念したように、「恐れながら…。」と、トゥパク・アマルの方に畏(かしこ)まって言う。

「トゥパク・アマル様は、ええと、何と申しましょうか…――、ともかく、そのお姿というか、雰囲気というか…、何にしろ、もともと目立ちすぎるのです。

いえ、決して悪い意味ではないのですが。

ただ…、どのようなお姿になられても、恐らく、すぐ敵に分かられてしまいましょう。」

「そうそう、そうなのです。」と、他の側近一同もアンドレスに深く同意する。

その時、ずっと腕組みをしたままムスッと黙っていたディエゴが、不意に言い放った。

「いっそのこと、女人(にょにん)にでも扮して行かれたらどうです。」

それは、もう、明らかにヤケッパチな口調であった。

「えっ?!」

側近たちがギョッと目を見張る。

トゥパク・アマルも、びっくりした目で、思わずディエゴを見た。

ディエゴは腕組みをしたまま、その大柄な体を反らして軽く横を向き、相変わらずムスッと不貞腐れた表情のままである。

「ディエゴ、そなた、相当怒っているのだな…。」

さすがのトゥパク・アマルも、様子を伺うような声になる。

「あ!!

でも、それ、いいかもしれませんね!」

不意に明るい若者の声が響く。

トゥパク・アマルをはじめ、皆が再びギョッとして振り向いた先には、アンドレスの朗らかな笑顔があった。

「女装をすれば、さすがに敵方もトゥパク・アマル様だとは分かりかねるでしょう!

背は高すぎますけれど…、顔もお綺麗ですし、髪も長いし、その上、被(かぶ)り物か何かをなさいますれば、お姿も大分隠せましょう。」

そう言うアンドレスの口元からは、彼なりにこらえようとしているのだろうけれど、どうにも止められぬ感じの楽し気な笑みがこぼれている。

「アンドレス…そなた…面白がっているな。」

トゥパク・アマルが、じぃっと恨めし気な目でアンドレスを見た。

「いえいえ、そんな、まさか…!」と、必死の体(てい)で否定しながらも、アンドレスはどうにも勝手な想像を止められず、ついには笑いだしてしまった。

そんなアンドレスを前にして、いっそう恨めし気な眼差しになっているトゥパク・アマルの周りで、しかし、他の側近たちもそれぞれに想像を膨らませ、思わず吹き出してしまう。

あれほどムッとしていたディエゴすらも、顔を隠すようにしながらも、ついにこらえきれずに吹き出した。

「そなたたち…。」

わななく声でそう言いながら、暫し、眉間に皺を寄せてじっと固まっていたトゥパク・アマルだったが、しかしながら、久しぶりに見る側近たちの明るい表情に、思わず彼自身の瞳の色も優しく変わっていく。

なかなか笑いを止められずに苦しそうな側近たちを見渡しながら、「全く、そなたたちは。」と呟くトゥパク・アマルの眼差しは、まるで全員の保護者のごとくに深い包容力を宿した穏やかなものになっていた。

ひとしきり笑い終えた後、皆、ふうっと深く息をつく。

アンドレスは相変わらずあの輝くような笑顔を浮かべて、是非、そのアイデアを実行しましょう、と言わぬばかりの目でトゥパク・アマルを見上げている。

トゥパク・アマルはその眼差しに怯(ひる)むように、さっと視線をそらした。

さすがに女装などとは、冗談だけにしてほしい!!…――当然、トゥパク・アマルの心境はそれである。

しかしながら、「いやはや…、しかし、確かに、女装とは妙案かもしれませぬ。」と、ついにあの賢者ベルムデスさえも言い出す始末だった。

「あなた様まで、そのようなことを…!」と、トゥパク・アマルが思わず気色ばむ。

「いえ、トゥパク・アマル様、わたしも賛成です。というか、他に、手段がありませぬ。」と、ビルカパサさえ言い出す始末。

「ビルカパサ、そなたもか…!!」

もはやトゥパク・アマルの眼差しはひどく恨みがましい。

その目つきに、側近たちもにわかに我に返りはじめ、「しまった、やりすぎたか…。」と、それぞれの心の中で冷やりとする。

トゥパク・アマルは眩暈を覚えたかのような足取りで、寝台の方にフラフラと歩いて行くと、そこに座り込んでしまった。

薄暗い天幕の隅で闇に紛れるようになってしまったトゥパク・アマルの様子を、側近たちが気まずい雰囲気で、暫し、見守る。

当のトゥパク・アマル本人は、少し集団と離れたその場所で、しかし、今、真剣な思考の状態に入っていた。

まるでふざけたような今しがたの一連のやり取りではあったが、あながち、的をはずれてはいないかもしれぬ、と、冷静な頭で振り返る。

実際、普通の変装では、いかなる身なりをしようとも、敵の目をくらませるとは思えなかった。

しかし、いくらなんでも女装などとは!!…――と、内心ではやはり大いなる抵抗を覚え、トゥパク・アマルは深く溜息をついた。

そんな彼の様子を、すっかり頭も冷えて、今や先刻の自分たちの態度を客観的に振り返ることの出来てしまっている側近たちは、少なからず緊張の混じった表情で見守り続ける。

トゥパク・アマルはゆっくりと顔を上げた。

そして、何か言おうとして、しかし、躊躇(ためら)うように一瞬うつむき、しかしながら、再び顔を上げると今度こそ思い切ったように言った。

「女装に扮して、クスコに参ることにする。」



こうして、トゥパク・アマルは、スペイン兵の嫌疑の目を逃れてクスコ入りを敢行するために、ついに本当に女性の身なりに扮することになった。

トゥパク・アマルのこの陣営には、彼の館があるティンタ郡の本陣にて物資の補給に当たる、かのトゥパク・アマルの妻ミカエラから、あらゆる物資が滞りなく届けられていた。

インカ軍には多数の女性も参戦していたから、当然ながら、女性用の衣類もミカエラの手によって補給されていた。

星の欠片(緑)

今回、それらの衣類の中から適当なものを選ぶのは、やはりトゥパク・アマル自身である。

決して女装に積極的な気分ではなかったが、しかしながら、他の側近たちの中で、今回の目的に相応しい女性用の衣装を適当に見繕えるようなセンスの持ち主など殆ど思い当たらなかったのだ。

ところで、もともと戦場に届けられる物資に含まれるような衣類は、機動性重視の簡素なものばかりである。

目的に合った適当な種類の衣服を選びたいのは山々であったが、男性の中でも特に長身のトゥパク・アマルには、とりあえず己の身の丈に合うような女性用の衣類を見つけ出すことさえ非常に難儀であった。

もはや、己の身長に合うものであればどのようなものでも構わぬ、という心境になってくる。

トゥパク・アマルが眉間に深く皺を寄せながら、すっかり閉口した表情で女性用の衣類を掻き分けているのを、その物資を保管している天幕の入り口で警護に当たるビルカパサは心配そうに見守った。

(ああ…トゥパク・アマル様が、あのようなことを…!

しかも、もう、随分長いこと、ああしておられるが。

やはり女装など、トゥパク・アマル様のお気持ちが乗らぬのであろうな…。

だから、いっそう適当なものがみつからぬのであろう。)

先刻は、自分も女装を推奨するような発言をしてしまって、あれは非常にまずかったな…と、今、改めて、つくづく苦々しく感じてもいた。

しかし、一方では、「とはいえ、他の扮装では、トゥパク・アマル様だと明らかであるし…。」と、ビルカパサの口元からも深い溜息が漏れた。

相変わらず女性用の衣類の山を掻き分け続けているトゥパク・アマルの姿を見ながら、ビルカパサは苦虫を噛み潰したような表情になる。

(しかし…いくら事情があるとはいえ、トゥパク・アマル様があのようなことを…あまり見たい光景ではなかった…。)

ビルカパサはトゥパク・アマルの方から視線をはずし、再び溜息をつく。

それからだいぶ経ってから、トゥパク・アマルが深い紫色のビロード調の衣類を手に、やっとのことで天幕を出てきた。

「適当なものがございましたか?」

微妙な表情で問うビルカパサに、トゥパク・アマルも微妙な笑みを返す。

「従軍僧用の僧衣が混ざっていたので、それを持ってきた。

あれなら、ロングドレスのようにも見えるしね。」

そして、やれやれと小さく溜息をついて言う。

「他のものでは、衣服の丈が全く足りないのだ。」

「そうでしょうね…。」

ビルカパサも納得して頷いた。

それから、トゥパク・アマルはビルカパサに視線を向けて、「そなたの姪御殿に、身だしなみを手助けしてもらおうかな。」と、やや頼りなげに呟く。

「えっ!?

あのマルセラに、ですか…?!」

ビルカパサは、いっそう微妙な声色になる。

あの男性的なマルセラに、女性らしいセンスを期待するのはかなり無理があるのではないか、という思いがビルカパサの中をかすめていくが、藁にもすがる様子のトゥパク・アマルを見ていると、少なくとも自分よりはマルセラの方がまだマシか…、という気になっていく。

トゥパク・アマルとビルカパサと、どちらからともなく「はぁ…。」と、またもや溜息がこぼれた。

「わかりました…。

マルセラをトゥパク・アマル様の天幕に遣わしましょう。」

自信なさげにビルカパサが言う。

「そうしてくれると助かる。」と応えるトゥパク・アマルも、何とも所在無げな様子であった。



ハギと月

こうして、女装に扮するのを助けるために、叔父であるビルカパサから声をかけられてトゥパク・アマルの天幕に向かったマルセラだが、彼女も全くもって苦虫を噛み潰したような表情である。

(ああ…もう、憂鬱~…!!

私、こういうの、すっごく苦手なんだけどなぁ…。

叔父様ったら、わかってるハズなのに、なんで断ってくんなかったのかなぁ…、もう~…。)

既にゲンナリした表情のマルセラが当の天幕に近づくと、その入り口付近ではアンドレスやロレンソが心配そうな表情で、外側から天幕の様子を伺っている。

辺りは既に日が暮れかかっていた。

「アンドレス様に、ロレンソ殿!

トゥパク・アマル様は、クスコにこれから行かれるのですか?」

そんなふうに問いながら、憂鬱と戸惑いの混ざったような表情を見せているマルセラに、アンドレスたちが頷く。

「ああ、そのようだよ。

夜の方が人目につきにくいから、と。

トゥパク・アマル様だと決して分からぬようにお着替えになられたら、でかけるらしい。」

「そう…なのですか。

にしたって、何という危険なことを…。」

ぶつぶつと呟きながら、今は目前の任務に、アンドレスのこともロレンソのことも殆ど目に入らぬ風情のマルセラは、「入っていいのかしら?」と、天幕に足を踏み入れかけて問う。

「ああ…。

君が来たら通してほしいと、仰っていらしたよ。」

そう応えるアンドレスに、マルセラは、相変わらず憂鬱そうな顔で問う。

「トゥパク・アマル様は、中で、もう、お着替えを…?」

アンドレスは微妙な表情で頷いた。

「ああ。

既に、お着替えになられているらしい…。

君には、仕上げを手伝ってほしいと言っておられたが。」

「じゃ…あ、既に、女の人の恰好になってるの…かしら?

あのトゥパク・アマル様が…?」

「ああ…らしい…。

俺も、どんな恰好なのかまでは、詳しくは聞いてないけど…。」

「…。」

アンドレスとマルセラと、二人を見守るロレンソも、暫し、複雑な表情で視線を泳がせる。

想像しているだけの段階なら笑い話でも、実際に、あのトゥパク・アマルが女装となると、皆、真顔にならざるをえなかった。

あのトゥパク・アマル様が、まさか、本当に女装…――?

(いくら美麗なお人とはいえ、やっぱり…顔も、体つきも、男性的なタイプだし…。)

三人とも、改めて、苦々しい表情になる。

(見たくないかも…――。)

声に出さずとも、三人の心中は同じだった。

やがて、アンドレスがマルセラの心中を察するように躊躇(ためら)いがちに、しかし、やむなく促す。

「さあ、ともかく、マルセラ、はやく中へ…。

トゥパク・アマル様がお待ちだ。」

「う…はい…。」

アンドレスに促されるままに、覚悟を決めて、マルセラは天幕入り口の垂れ布をめくった。

「トゥパク・アマル様、マルセラです。

お着替えのお手伝いに参りました。

失礼いたします。」

そう言いながら天幕に足を踏み入れたマルセラは、しかし、次の瞬間にはハッと己の目を見張った。

そのまま、天幕の少し奥にいるトゥパク・アマルの姿に釘付けられる。

騎士の誓い (紫)

足元まで隠れるほどの裾長の、深紫色をしたビロードの僧衣を纏ったトゥパク・アマルは、神聖で高貴な雰囲気に包まれ、まるでその背後には白く輝く光が放たれているかのごとくに、それはもう眩いばかりの神々しい美しさを発していた。

さらに、その僧衣にはゆったりとした幅広の純白の袖飾りがついており、その様子がまた、トゥパク・アマルの清冽とした雰囲気と優雅さをいっそう高めていた。

マルセラは無意識のうちに胸の前で両手を組み、祈りのポーズを取ってしまったほどだった。

濃い紫の衣服にかかる彼の絹のような漆黒の髪は、いつにも増して艶やかに輝き、女性のマルセラから見ても胸がドキドキするほどに妖艶な色味を放っている。

そして、その美しい長髪と深紫のしっとりとした衣装に包まれて、彼の精悍ながらも端正で繊細な顔立ちはいっそう引き立ち、ことさらに、深い憂いを秘めたその美しい切れ長の目元が見る者の目を無条件に惹きつけた。

マルセラは暫し言葉を失って、呆然と、トゥパク・アマルのその姿に目を奪われていた。

放心したように立ち尽くしているマルセラを、しなやかな手つきで手招きし、「さあ、こちらへ。」とトゥパク・アマルがいざなう。

「は、はい。」と答え、おずおずと天幕の奥に入るマルセラの心臓はいっそう速く打ちはじめる。

「どうだろうか。おかしくはないか?」と真剣な目で尋ねてくるトゥパク・アマルに、「はい。とてもよく似合っておられます。」と、すっかり上擦った声で応える。

何やらとても硬くなっているマルセラの緊張をほぐすかのようにトゥパク・アマルは優しく微笑み、マルセラの前に数枚の美しい布を並べた。

「これらの布をベールのように被ろうと思うのだが、どれが良いと思う?」

トゥパク・アマルの問いかけに、マルセラはいっそう身を硬くした。

(うぅ…こういうの選ぶのって、本当に苦手なんだけど…。)

マルセラの横顔を一筋の冷や汗が伝う。

そんなマルセラの様子に、トゥパク・アマルは彼女の内面を察したかのように、「本当に、こういうことは難しいね。」と静かな声で言った。

それから、トゥパク・アマルはじっと数枚の布を眺め渡した後、優雅な手つきで自ら一枚の布を選び取った。

僧衣と同じような深い紫色の、艶やかな光沢を発する柔らかな布地である。

布の周囲には、金と銀の糸から成る細やかで上品な房飾りが施されている。

「これなど、いかがであろうか。」

トゥパク・アマルの問いに、マルセラはひたすら深く頷く。

そして、「おつけしてみましょう。どうぞ、お屈みになってみてください。」と言うマルセラの言葉に促されるように、トゥパク・アマルも頷き返して、すっと身を屈めた。

マルセラはその美しい布を慎重に手に取ると、「失礼いたします。」と恭しい手つきでトゥパク・アマルの頭にフワリと被せた。

そして、頭から肩、そして背を覆うその布を丁寧に整え、胸のあたりもほどよく覆い隠すように調整していく。

その布はトゥパク・アマルの逞しい肩幅をも上手い具合に覆い隠し、もともと顔も小さく、長髪の彼は、女性にしてはかなり長身すぎるという点を除けば、十分、女性の姿に見えた。

その様子にマルセラは満足そうに頷き、いつもの少年のような闊達な笑顔になって瞳を輝かせた。

作業をはじめると、思いのほか、そのことに集中して生き生きとした眼差しになっているマルセラに、トゥパク・アマルは微かに目を細め、その一連の作業を委ねている。

さらに、マルセラは器用な手つきで、トゥパク・アマルの顔にかかる辺りの布を幾度か吟味するように開けたり狭めたりしながら、彼の美しい切れ長の目だけが覗くように慎重に調整した。

こうしてベールのように布を被ると、僧衣も女性の纏う上品なロングドレスさながらに見える。

マルセラは改めてトゥパク・アマルの全体像を見渡して、思わず吐息を漏らした。



◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ 第六話 牙城クスコ(7) をご覧ください。◆◇◆








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