コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第八話 青年インカ(12)

翼を休め

【 第八話 青年インカ(12) 】

アンドレス軍の陣営に到着したロレンソやマルセラの軍団の兵たちは、アンドレス軍の兵たちの手を借りながら、まずは、多数の負傷兵たちを用意された治療場へと運び、従軍医の治療を受けられる手はずを整えた。

それから、長く危険な旅路を、負傷兵を庇護しながら移動してきた健康な専門兵や義勇兵たちにも、食糧や衣服などの物資が補給され、実に久々に、彼らは野宿ではなく、安全な天幕の中で休養をとりながら、羽を伸ばしていた。

遠征中のアンドレス軍の兵たちとて、もともとはトゥパク・アマル軍、つまりはインカ軍の本隊に属していた兵たちであり、今宵は、いずれの兵たちも、懐かしい仲間との再会に心浮き立っていた。

陣営のそこかしこから、煮炊きする食料の匂いと共に、和やかな賑わいと談笑のさざめきが湧き起っては、風に乗って夜のアンデスの谷間を流れゆく。

また、義勇兵たちの中には、インカ族や混血児のみならず、トゥパク・アマルの訴えに賛同する多数の黒人兵たちが、今でも多く加わっていた。

次第に戦況がインカ側にとって厳しくなる時勢にもかかわらず、インカ軍を見捨てることも離脱することもなく、時に前線で死闘を展開し、時に負傷兵たちを守ってきた――そうした黒人兵たちの中には、ロレンソと共にマルセラの軍団に加わっていた黒人青年ジェロニモの懐かしい姿を見ることもできた。

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そして、若いながらも、今や、いっぱしの隊長をつとめるロレンソやマルセラは、その晩、早速、ささやかな祝杯のためにアンドレスの天幕に招かれていた。

ロレンソと共にアンドレスの天幕を訪れたマルセラの、あまりに懐かしい姿に、アンドレスは再び深い感動を噛み締めた。

陣営内の一角にある温泉で湯を浴び、こざっぱりとした姿に戻ったマルセラは、以前と変らぬ闊達で溌剌(はつらつ)とした笑顔で、アンドレスの前に立っている。

まるで、時が過去にタイムスリップしたかのような、不思議な感慨に包まれる。

とはいえ、実際には、それぞれの者たちが乗り越えてきた、この数ヶ月の試練と道程は、言葉に尽くせぬ尋常ならざるものだったのだが。

この再会さえ、全く、実際は、奇跡にも等しきものなのだ。

さすがに感極まった様子で、あの男勝りのマルセラさえも、今はその澄んだ瞳に涙を滲ませる。

「アンドレス様!

ご無事で……!!」

「マルセラも!

本当に、無事でよかった」

そんなマルセラを前にして、アンドレスの瞳も揺れていた。

アンドレスは二人に深く頭を下げながら、しみじみと言う。

「あの…ロレンソ…、そして、マルセラ…、俺は君たちに何と礼を言っていいのか」

明らかに頬を上気させながら、声を詰まらせるアンドレス――その様子に、彼が、コイユールのことを言いたいのだと察したロレンソもマルセラも、微笑ましげに優しく目を細める。

ロレンソはアンドレスの肩に手を置いて、その顔を上げさせる。

「アンドレス、わたしたちは、ただ普通に軍を指揮して進んできただけだ。

コイユールは、その根は、我々のような貴族なんぞより、よっぽど逞しい。

我々が、特別に何かをした、というわけではなく、むしろ、コイユールに助けられたのは我々の方だったかもしれぬ。

もっとも、わたしが合流するまでは、マルセラ殿の一軍が負傷兵を抱えながらの退避を敢行されていたのだから、そのことを思えば、マルセラ殿の功労は並大抵のものではないと思うが」

ロレンソがそんなふうに話していると、晩餐の天幕の中に、にこやかな表情のベルムデスが姿を現した。

再び、再会の歓喜が交わされる。

やがて、4人で再会の祝杯を交わしながら、戦場故の、ささやかながらも、祝宴の彩りを添えた晩餐を囲む。

アンドレス、ベルムデス、ロレンソ、マルセラ…――かつてトゥパク・アマルの元で共に戦ってきた、そのあまりにも懐かしい、そして、深い絆で結ばれた者同士の再会に、その場の空気には高揚と特別な親密さが芳しく香っている。

トゥパク・アマルの父の代からトゥパク・アマルの代を、ずっと、その傍に仕え、今、こうしてアンドレスの横にいる老練の重臣ベルムデスにとって、この厳しい時勢にありながらも、次代を担う若きインカの末裔たちの健全なる姿を前にして共に集えることは、深き安堵を伴う無上の喜びであった。

そして、アンドレスたち3人の若者たちも、その優れた徳と智恵と武芸とでトゥパク・アマルたち先代を支え続けてきた老賢者ベルムデスに、深い敬意と信頼を寄せていた。

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暫し、戦(いくさ)のことも忘れて、かつての懐かしい思い出話に花を咲かせた後、アンドレスが、ふっと思い出したようにロレンソを見た。

「ロレンソ、そういえば、さっき、俺に何かを言いかけていたが…?

トゥパク・アマル様が、牢で、どうとか……?」

ロレンソは、口元に運んでいたチチャ酒のグラスを、静かに手元に置いた。

そして、少し真顔になって、アンドレスと、それから、ベルムデスを交互に見渡す。

脇に座るマルセラは、「あのことね?」と、何かを察したような目になり、居住まいを正した。

ロレンソは、アンドレスとベルムデスの両者を沈着な眼差しで見つめながら、「これは、あくまで内々な噂なのだが」と、やや声を低めて話しはじめる。

「トゥパク・アマル様が、クスコの牢を脱出されたらしいのだ」

「えっ?!!」

アンドレスとベルムデスが、同時に、叫びを上げた。

「トゥパク・アマル様が?!

それって、本当に?!!」

早くも打ち震えるようなアンドレスの声音に、ロレンソは、相手の昂(たか)ぶりを押さえるように、感情を押し殺した低い沈着な声で応える。

「シッ…――外の衛兵に聞こえては不味い。

いや…だから、あくまで風の噂にすぎぬのだ。

噂の出所も、全く分からぬ。

ただ、トゥパク・アマル様がミカエラ様や皇子様がたを連れて、牢を抜けたらしい…と」

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さすがのベルムデスも興奮に頬を熱く火照らせながら、身を乗り出して問う。

「ロレンソ殿、では、敵方の役人たちの動きは、どうなっておりましょうか?

トゥパク・アマル様の脱獄について、何か言っておりますかな?!

いや…あの者たちのこと、たとえ皇帝陛下が脱獄を果たしておられようとも、真実は易々とは明かしそうにはありませんがな。

して、表向きは、今は何と?!」

ロレンソは、真摯な面持ちで、ゆっくりと頷いた。

「はい…そこなのですが…。

敵方は、今までと何ら変わったこともないとして、トゥパク・アマル様がたは従来通り牢に投獄されている、と、執拗なほどに声高に言い放っております。

ですが、噂では、そのスペイン役人たちの言動も、インカの民を扇動せぬためのハッタリではないかと…」

込み上げる感動を噛み締めるように息を詰め、非常に真剣な眼で聞き入るアンドレスとベルムデスを前にして、ロレンソも、そして、マルセラも、暫し、継ぐ言葉を探しあぐねる。

ここにいるアンドレスもベルムデスも、いかに噂にすぎぬと言えども、それを信じたい気持ちが誰よりも強い二人に相違ない――。

(伝えたのは、時期尚早であったか……)

ロレンソが少々難しい表情になっている先から、うわ言を囁くかのような、アンドレスの恍惚とした声が漏れる。

「トゥパク・アマル様が…牢を抜けられたかもしれない……!」

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アンドレスの大きな漆黒の瞳は、潤みながら激しく揺れて見開かれ、顔色は上気して興奮に紅く染まっていく。

そんな友の様子に、いっそう沈着に声を落として諭すように、しかし、観念したように、ロレンソが言った。

「ああ…だが、何度も言うようだが、あくまで噂にすぎぬのだ。

あまり、期待感を持ってはならぬ。

民の願いが…――皇帝陛下を救い出したいという人々の非常に強い切望が、そんな噂までをも生み出してしまったのかもしれぬ。

それに、もし、陛下が奇跡的に牢を抜けておられたとしても、あの敵方のことだ――追跡の手は容赦なかろう。

何もかもが今のところ全く曖昧で、はっきりしたことは何も分かっていないのだ。

ただ……」

ロレンソは、乾いた唇に、光るチチャ酒のグラスを触れた。

「ただ…もし、皇帝陛下が囚われているままならば、未(いま)だ、処刑の日取りも何も、具体的なことが公示されないのは、むしろ不自然だとは思わぬか?」

その場にいる誰もが、激しい興奮と恍惚の空気の中、固唾を呑んで頷いた。





やがて、晩餐を済ませた後、すっかり高まった場の空気に酔った気分のマルセラが、夜風に当たろうと天幕の外へ出たところを、追うようにしてアンドレスも外に出た。

アンドレスは、まだ今しがたのロレンソの話に頭が痺れるような感覚のままにいたが、そんな彼に、マルセラは笑いながら早々に釘を刺す。

「アンドレス様!

トゥパク・アマル様のことだったら、私は、さっきのロレンソ殿の話したこと以上は知らないですよ」

アンドレスはハッと瞳を見開いて、「い…いや、そのことじゃなくって…」と、ブルブルッと想念を振り払うように首を振ると、改めて、真剣な目でマルセラを見た。

「コイユールのことなんだ。

コイユールをここまで無事に連れてきてくれて、マルセラ…俺は、本当に、君に何と礼を言っていいか」

「え!

あ…コイユール……?」

マルセラは、以前と変わらぬ、青年のような笑顔を向ける。

「何です?

やめてください。

アンドレス様、そんなふうに!

コイユールならば、やっぱり、さっきロレンソ殿が言った通りですヨ。

私は叔父様から引き継いだ自分の連隊を、普通に指揮していただけです。

普段は泣き虫のくせに、いざとなると驚くほどに気丈な、あのコイユールですもの!

こっちこそ、どれほど支えられたかしれません」

「マルセラ……」

アンドレスは、マルセラの笑顔に懐かしく嬉しく感じ入りながら、改めて、じっと彼女を見つめた。

厳しい戦況を乗り越え成長したためなのか、以前にも増して、芯の据わった頼もしさを纏(まと)い、それでいて、女性的な美しさも増しているような…と、そんなふうに感じられてくる。

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もともとマルセラには、彼女特有の中性的な魅力があったのだが、それが、いっそう磨かれたと言ったら的確だろうか。

長髪の女性が多いインカ族には珍しく短髪で、しかも、耳まで見えるほどに、きっぱりと切り上げられている。

敵の背後からの攻撃をかわすために、男性でさえ、インカ族の者たちは長髪だというのに、マルセラは大丈夫なのか?と、心配になるほどである。

そして、相変わらず機動性を増すためだけの理由で短くされたスカートからは、スラリと引き締まった褐色の脚線美がのぞく。

このマルセラの叔父であるビルカパサは、トゥパク・アマルの最も傍近くに仕えてきた敏腕の護衛官だが、そのビルカパサの持つ精悍さを受け継ぐ凛々しい眼差しに、年頃の女性らしい華やかさが備わり、それに、これまで気付かなかった柔らかさも加わったような…――?

コイユールと同様、幼い頃から付き合いの長い、しかも、お転婆だったマルセラのことは、気心の知れた同性の友のような感覚を抱き続けてきたが、そのアンドレスの目にも、今、眼前のマルセラは、とても艶やかに綺麗になったと眩しく見える。

そんなマルセラに見入りながら、彼は、「そうか…!」と、独りで合点して、急に微笑ましげに頷いた。

(きっと、ロレンソと、うまくいってるんだな……)

こちらを眺めながら、独りで勝手に納得したように頷いたり微笑んだりしているアンドレスに、マルセラは、照れ臭さと決まり悪さの入り混じった顔で、「なんです?」と、つっと横を向いた。

それから、思い出したように、横目でアンドレスに視線を返して、ニッと笑う。

「で?

アンドレス様は、どうなんです?

今すぐにでも、コイユールと会いたいのでしょ?」

「えっ!!」

逆に、マルセラの方から切り返されて、アンドレスは咄嗟に顔から火を上げた。

以前と変わらぬ、本人の意志とは裏腹な、アンドレスのあまりに率直な反応が微笑ましいのと、可笑しいのとで、マルセラは思わず吹き出してしまう。

「ぷっ…――あはは!

図星ですね?

そうですよねぇ…。

さんざん待たされたことでしょうからねぇ?

それで、コイユールに、何か言付(ことづ)けですよね?

何なりと、キューピッド役、お受けいたしましょう!」

アンドレスは赤面したまま、それでも、マルセラの明るい声につられるように、彼も、ついに吹き出した。

「はは…マルセラには、全く、かなわないよ」

そう言いながら、懐から、そっと一通の封書を大事そうに取り出した。

「これ…。

コイユールに渡してくれないか?」

アンドレスが照れ臭そうに差し出したコイユール宛ての手紙を前に、マルセラは、まるで我が事のように込み上げる嬉しさと、それに持ち前の悪戯心も加わって、つい大袈裟なリアクションになる。

「えっ!!

うそっ!!

もう用意されていたのですか?!

ずっと忙しそうにしてたくせにぃ、いつの間に?!!」

「シ…シーッ!!」

アンドレスは、再び、真っ赤になったまま、周囲を慌てて見回した。

衛兵がチラリとこちらを見たのを、「何でもない、何でもないからっっ!!」と、慌てて、身振り手ぶりで合図を送る。

衛兵は僅かに首を傾(かし)げたが、そのまま、また陣営の見回りに戻っていった。

フゥーッ……と、深く息をつきながら、すっかり顔を火照らせて、まるで純情な少年のような素振りのアンドレスに、もともとお転婆なマルセラの悪戯心は止められない。

手紙を受け取ったマルセラはそれを月明かりに透かし見るような素振りをしながら、「ふふ…今更、恋文って間柄でもないでしょうに?」と、茶化した声を上げた。

「ああ!!

こらっ、やめろ!!

透かして、見るなぁ!!」

本気でうろたえているアンドレスの様子が可笑しくて、もう耐え切れぬマルセラは、ついに大声を上げて笑い出した。



そんな二人の賑やかな声を聞きつけて外に出てきたロレンソの視界に、息が詰まるほどに笑い転げているマルセラが映り、さらに、その脇で赤面したまま絶句しているアンドレスの姿が映る。

ロレンソは軽く咳払いすると、「マルセラ殿、やりすぎだ」と、アンドレスに助け舟を出した。

そんなロレンソに、マルセラは、「あ、はい!すいません…ふふ…」と、まだ止まらぬ笑みを堪(こら)えて一礼する。

それから、アンドレスの方にも手紙を掲げて、笑顔のまま一礼を送った。

「必ず、お渡ししますから!

アンドレス様、おやすみなさい」

ロレンソも、瞬間、事態を察して、ちらっとアンドレスに視線を投げた。

まだ耳元を赤々と染めたまま、溜息交じりに「おやすみ」と応えるアンドレスに、マルセラとロレンソも、「また、明日!」と、微笑ましげに目を細めた。

二人が去ると、アンドレスは思わず地に向かって、はぁ~っと深く息をつく。

「ふう…マルセラには、参る……」

そんなふうに呟きながら顔を上げたアンドレスの瞳の中に、ふと、去り行く二人の後ろ姿が映った。

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アンドレスの顔に、いつしか、あの柔らかな微笑みが浮かび上がる。

(そうか…。

悲しいことばかりが、あまりに多かったこの反乱だけど、悪いことばかりじゃないんだ)

すっかり仲睦まじげに、寄り添うように肩を並べながら歩くマルセラとロレンソの後ろ姿を見つめながら、アンドレスは、心の中に、とても温かなものが波紋のように広がっていくのを感じていた。





一方、途中でロレンソと分かれたマルセラは、そのまま、いそいそとコイユールのいるはずの治療場へと向かった。

過酷な長旅を生き延びてきた負傷兵たちに十分な治療と休息の場を整えるために、コイユールたち看護の女性たちは、埃まみれの姿もそのままに、自分たちの旅の疲れを癒すことなどすっかり忘れて、忙しそうに働いている。

そっと近づきながら、治療に勤(いそ)しむ姿をうかがうマルセラの目には、今宵のコイユールの横顔に、旅の疲れなど本当に何処吹く風で、押さえようにも押さえきれぬ歓喜の色が滲んでいるのが分かる。

黙々と熱心に治療の手を動かしながらも、その目元や口元からは、無意識のうちに、嬉しそうな微笑みが静かに零れている。

コイユールの持つ清(す)んだ気配が、今宵は、いつにも増して澄んで見えた。

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そんな大切な友の様子を見ていると、マルセラの内にも、えもいわれぬ嬉しさが込み上げてくる。

(そうだね…コイユール。

アンドレス様と、こうして、また本当に会えたんだもんね……。

ご無事であることが分かって、また傍にいられて、あんたが、どんなに喜んでいるか…すごく分かるよ!)

そんなコイユールが看護に一区切りつけたところを見計らって、マルセラはコイユールに近づいた。

「コイユール!」

「あ…マルセラ!」

コイユールが声を上げて振り向くと同時に、周囲の負傷兵や従軍医、他の看護の女性たちも、パッとこちらを振り向いた。

そして、マルセラの方に向けて、礼を払った空気が流れる。

今やマルセラも隊長という立場にあり、増してや、トゥパク・アマルの護衛官ビルカパサの身内ということもあって、一義勇兵のコイユールと気軽に話すには、どうにも注目を集めてしまって、以前のようにはいかぬ厄介な状態になっていた。

マルセラはコイユールに目で素早く合図を送ると、他の兵たちに笑顔で礼を返しながら、サッとその場を退いていく。

そして、少し間をおいて、コイユールも、さりげなくその後を追った。



コイユールが治療場を抜けて人気(ひとけ)の少ない道端に出ると、月明かりに照らされた大木の陰から、「コイユール、こっち、こっち!」と、マルセラが手招きをしている。

コイユールは、そちらに駆け寄った。

息をはずませている彼女に、マルセラは先ほどアンドレスから預かったばかりの手紙を差し出した。

「はい、コレッ!!」

「え…?」

最初、キョトンとしたコイユールだったが、すぐに察して、「えっ?!」と、咄嗟に耳を紅くする。

その瞬間、肩の前にさがる長い三つ編みが、はじけるように跳ねて揺れた。

もしかして!!…――と、瞳を輝かせて見上げるコイユールを、マルセラは肘で軽く小突きながら、笑顔で急(せ)かす。

「大当たりぃ!!

アンドレス様からだよ。

はやく、はやく、あけてみてっ!!」

「アンドレスから……!!」

息を詰めるコイユールの指先が、喜びのためなのか、驚きのためなのか、微かに震えながら手紙を開く。

マルセラの見守る視線の中で、月明りをたよりに夢中で手紙を読むコイユールの褐色の頬は、夜闇の中でも鮮明に分かるほどに薔薇色に染まっていく。

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マルセラは、コイユールに、にじり寄った。

「どう?

なんて書いてあるの?!

もしかして、これから、どこかで会おう、とか書いてあるの?」

コイユールは、ますます頬を紅く染めながら、言葉に詰まっている。

「あ…えっと…――」

「えっ?!

やっぱり、待ち合わせ?!

今からっ?!」

自分で問いかけておきながら驚いたような声を上げているマルセラの脇で、コイユールは、込み上げる喜びを噛み締めるように笑みを零しながら、コクンと頷いた。

「ほぉ~…本当に……?

こんな時間から…!」

マルセラは独り言のように呟いた。

既に、深夜に近い、結構な遅い時間である。

マルセラは、時刻を確かめるように、思わず天空の月を振り仰いだ。

(アンドレス様…さすがに、一刻も待てない…ってかぁ)

上を向いたまま、マルセラは驚きと感慨の表情で吐息をつく。

一方、当のコイユールは、まるで潮の満ちてくるような歓喜の気配を全身から溢れさせながら、それはもう愛しそうに、その華奢な手の平に乗せた手紙を幾度も読み返している。

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マルセラは、コイユールを眩しそうに見下ろした。

そして、真面目な目になって相手の顔を覗き込む。

「それだったら、待ち合わせ場所まで送っていくよ!

コイユールの保護者として、こんな夜中に、一人で、見知らぬ夜道を歩かすなんて、できない。

待ち合わせは、どこ?」

「え…ほ、保護者?!

大丈夫…一人で行けると思うわ」

そう言いながら首を振っているコイユールに、手足のスラリと長い長身のマルセラは、身を屈めて、自分よりも大分目線の下にある相手の背丈に合わせるようにして、真正面から向き直った。

「コイユール!!」

「は、はい!」

「だからサ、陣営内とはいえ、こんな夜中に見知らぬ土地を一人で歩くなんて、本当に危ないんだって!

どこに敵の斥候が潜んでいるかも、分からんのだから!

あんたが人質になんて取られたら、あのアンドレス様のことだから、速攻、白旗、揚げそうだしぃ~」

「え?

し、白旗って?」

「つまり、インカ軍は降服するっていうことよ!

そんなことになってもいいわけ?」

「はぁ……」

「あ~もうぅ、早くしないと、アンドレ様、待ちくたびれちゃうよ!!

ホラ、どこ?!

大丈夫、送ったらすぐ帰るし、あんたたちの邪魔なんてしないから!」

マルセラの真剣な…というか、本気で凄んでくる眼差しに、コイユールは観念したように頷いた。

「陣営のはずれにある川辺って書いてあるの」

「川辺で待ち合わせ?

へぇ…ここって、川のそばなんだ」

「うん…そうみたい…」

コイユールが見下ろす手紙には、くっきりとした懐かしいアンドレス直筆の文字と共に、簡単な略図が添えられていた。

ちなみに、インカには文字が無い。

そのため、皮肉にも、手紙の文はスペイン語に頼らざるを得ないのが実情だが、コイユールも、この頃までには、それなりにスペイン語を習得するに至っていた。

学校になど行けるはずもない貧しい農民の娘であったコイユールに、スペイン語を覚えるきっかけを与え、実際に先生役をしてくれたのも、思い返せば、幼い頃に出会ったアンドレスや、そして、今も目の前にいるマルセラだった。

ともかくも、そんなコイユールが、「それじゃ、これから…」と歩みはじめるのを、マルセラは「ちょっと、待った!!」と制し、コイユールの腕を、はっし、と掴んだ。

「コイユール、あんた、そのままの姿で行くつもり?」

「えっ?…――あっ」

ハッと己の全身に意識を向けたコイユールは、サッと青ざめた。

この陣営に到着してからも負傷兵の看護に追われていた彼女は、顔も髪も手足も服も、長旅の風雨に晒された、埃まみれの悲惨な状態のままだった。

「ど、どうしよう……」

泣きそうな顔になっているコイユールを、マルセラは、先ほど自分が湯を浴びた温泉に引っ張っていく。

陣営はずれにある露天の温泉は、深夜だけあって、さすがに人の気配は無い。

辺りには、岩の間から湧いて流れる湯の音だけが、静かに響いている。

その様子を眺め渡すと、マルセラは、コイユールに素早く頷いた。

「今なら誰もいないから、大丈夫。

さあ、急いで、埃や泥を落としておいで!

その間に、私が何か着替えを持ってくるから」

「マルセラ…ありがとう!」

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「さ、急いで!」と、マルセラが風のように走り去ると、コイユールも夜露に光る柔らかな草の上で素足になって、大急ぎで木陰に寄った。

そして、浮浪者も驚くほどにくたびれた服を脱ぐと、そのまま白い湯気に包まれた湯の方に向かう。

コイユールは、手早く長旅の土埃と汗を湯で流し清め、それから、灰被り姫のごとくのススだらけの長い髪も、その三編みをほどいて、急いで湯で流した。

それだけのことでも、まだ18歳の若い娘らしい瑞々しい青銅色の肌と、艶やかな漆黒の髪が、たちまち甦る。

コイユールが走るようにして湯から出てくると、既に義勇兵用の新しい服を手にしたマルセラが、「はやく、はやく!」と、ヤキモキしながら待っていた。

そして、相手が着替える間も惜しむように、「さ!!急いで、行くよ!」と、走り出す。

コイユールは慌てて頷くと、男性もかなわぬほどの駿足のマルセラの後を追って、懸命に走った。

十分に乾かす間も無く、編み込むことができなかったコイユールの洗い立ての長い黒髪が、夜風に溶けるように舞っている。



ほどなく、二人は、手紙で指定された場所の界隈までやってきた。

そこは陣営のはずれではあったが、さすがに陣営内の地理を知り尽くしているアンドレスが指定した場所だけあって、その場所への道程は、人気(ひとけ)は少ないながらも見通しが良く、月明かりに煌々と広く照らし出されて、何かあればすぐに衛兵が飛んできそうな、いかにも安全そうな場所であった。

「ふうん…さすがに…」と小さく呟き、マルセラは、改めてアンドレスの采配に感心する。

やがて、空気もどこか湿り気を帯びてきて、水の緩やかに流れる音と共に、清涼な川の匂いが漂ってきた。

マルセラは、足を止めた。

そして、隣で大きく息をはずませているコイユールを振り向いて、目を細める。

「もう、川は近いようだね。

ここからは、邪魔者は消えるよ。

さあ、コイユール、行って!」

包み込むような眼差しで微笑むマルセラに、コイユールは、今は素直に、ありがとう!…と感じ、それを伝える。

「やめてよ、水臭い!

それより、頑張りなよ!」

「え…!」

コイユールが頬を染めている間にも、「じゃ、ね!」と、青年のような闊達な笑顔を見せて、マルセラは踵を返した。

そのままカモシカのような足で敏捷に走り去っていく大切な友の後ろ姿を見送ると、にわかに高まりはじめた胸を押さえつつ、コイユールは川岸の方に向かって歩みはじめる。



◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ 第八話 青年インカ(13) をご覧ください。◆◇◆








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