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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第九話 碧海の彼方(10)
【 第九話 碧海の彼方(10) 】
かくして、この頃、洋上では、いよいよ決戦の時が迫っていた。
此度の海戦の総指揮官たるベルナルド艦長は、陸に接近させる前に英国艦隊を迎え撃つべく、スペイン艦隊を引き連れて外洋にいた。
スペイン艦隊の規模は、近隣の植民地諸国から緊急に召還した戦艦も含めて戦列艦8隻、及び、巡洋艦5隻から成る。
他方、報告を受けている英国艦隊の規模は、輸送船を除けば、戦列艦6隻と巡洋艦5隻で、数の上では、スペイン艦隊の方が幾らか優位に立っていた。
しかし、英国艦隊ジョンストン提督の乗艦する旗艦は74門戦列艦――当時、畏怖と羨望をもって「セヴンティーフォー」と呼ばれた、砲力と操縦性共に強壮な艦である。
(註☆写真は、ジェーン・ブードリオ(著)『The Seventy-four Gun Ship (74門艦)』の表紙絵です。)
対するスペイン艦隊の旗艦も70門戦列艦と艦砲数こそ大差は無いものの、そもそも英国艦隊とは対照的に海軍の最盛期を過ぎたスペイン艦隊の艦船は、外見も、機能も、どこか精彩を欠いている。
だが、それでも、今は、高々と聳(そび)え立つ3本のマストに美しい弧を描く褐色の帆が張りしきり、順風をはらむ帆を支える索具類が、快調の証しを立てるかの如くキーキーと絶え間なく軋み鳴り響いていた。
早朝の空はどんよりと曇っているが、その雲間からは幾筋かの陽光が漏れている。
その光をほのかに照り返す海面を滑走する複数の戦列艦――その一隻の舷側通路に立ち、フロレスは波飛沫に湿ったブロンドを風になぶらせながら、ほぼ正横を走行するベルナルド艦長の旗艦を眺めやった。
フロレスの乗艦は旗艦と同等規模の70門戦列艦で、他のスペイン艦たちと共に旗艦を護衛しながら帆走している。
端正な輪郭が振り仰ぐ視界の中では、薄暗い空の下にもかかわらず、各帆に描かれた深紅の十字架が、その碧眼に眩いほど際立っている。
今は、まるで、『無敵艦隊』と異名を戴いていた――とはいえ、それは、かつてスペイン艦隊を打ち破った英国艦隊が、皮肉を込めて命名したものではあったが――当時のスペイン艦隊の誇りを取り戻したかのような光景にさえ見えた。
(だが、実際に英国艦隊と渡り合った時、この誇らしげな気概をどこまで持ち越せるものか……)
フロレスは、黄金色に光る己の帯剣の柄を握り締めた。
そして、そのまま少し離れた位置を滑走する旗艦上の艦尾甲板へと、視線を走らせる。
そこでは、ベルナルド艦長が、彼の副長と、舵を握る操舵手たちを従えた航海長との間に立ち、非常に険しい表情で艦首先に展開する灰色の水平線を見据えていた。
その目元が引きつって小刻みに痙攣しているのが、遠目からも分かるかのようだ。
フロレスも、また、水平線の先へと鋭い横顔を向けた。
(もはや、次の瞬間にも、英国艦隊との決戦の火蓋が切られてもおかしくない時に来ている!)
洋々漠々と広がるかに見える外洋だが、実際には、あちらこちらで無数の岩礁や砂州が海底を占め、また、風や海流の関係からも、艦が安全に航行できる進路は限られている。
ましてや、ヨーロッパ諸国から隔絶された新大陸への航路など、いっそう限定されているのだ。
これまで既に多数の哨戒艇を放ち、周囲の海域を探ってきたスペイン艦隊にとって、迫り来る英国艦隊の進路にあたりをつけることは可能であった。
今、その敵の進路を阻むべく迎撃に向かうスペイン艦隊――だが、当然ながら、英国艦隊とて、それを見越した上で進撃してくるはずである。
「――!」
ハッと碧眼を見開いたフロレスの指先が舷側通路の手すりを反射的に握った瞬間、マストの高みに登っていた見張り員の緊迫した声が、上方から響き渡ってきた。
「艦首右舷前方に、多数の艦影が見えまーす!!」
その声が反響するのと同時に、甲板上の艦首から艦尾まで、一気に張り詰めた緊張感が走り抜けた。
ついに来たか――!!
そう叫ぶ全ての乗船員の緊迫した心と呼応するかのように、朝霧の向こうの水平線から、英国艦隊と思われる陣容の艦艇群が視界に飛び込んで来た。
スペイン艦隊の乗組員たちが生唾を呑み込む間にも、英国艦隊の艦艇群は、薄灰色の曖昧な艦影から明瞭な帆型へと、みるみる姿を変えていく。
そして、神経を昂ぶらせているスペインの僚艦たちを嘲笑(あざわら)うかのごとくに、こちらの進路と交差する進路を威風堂々と進み来る。
フロレスは、自艦のロペス艦長が仁王立ちで前方を見据える艦尾甲板へと、足早に向かった。
「艦長」
緊迫と沈着のない交ぜになったフロレスの低く絞った声に、格闘家のように厳(いか)つい肩をいからせたロペス艦長が、敬礼とも目配せともつかぬ鋭利な目を閃かせた。
眼前のフロレス――本来は陸軍所属とはいえ、副王お墨付きの並々ならぬ経歴を持ち、且つまた、旗艦のベルナルド艦長に次ぐ艦隊全体の副指揮官でもあるこの人物には、巨艦の艦長ロペスも一目置いている。
「フロレス殿、いよいよ決戦ですぞ!」
ロペスは、力強いドスの利いた声で応じる。
その間にも、強い緊張感からか、まるで怒気をはらんだかの如く険しい面持ちをした彼の副長が、大股で駆け寄ってきた。
「艦長!!
奴ら、ついに来ましたな!!」
ロペスは鋭い目線を副長に光らせ、間髪入れずに短く応える。
「即刻、総員、戦闘配置!
ベルナルド艦長の旗艦の信号を見逃すなよ」
「アイアイサー!」
ロペス艦長の言葉に、副官は即座に踵を返した。
そして、既に逆立った髪を振り乱しながら、「総員、戦闘配置につけえ!!」と、がなり声を張り上げ、再び砲列甲板の方へと走り去っていった。
他方、フロレスは、迅速に戦闘態勢を整えいく砲列甲板を見下ろしながら、足元で不気味に揺れ続ける艦の胎動を感じ取っていた。
否、己の足元が、単におぼつかなくなっているだけだろうか?
訓練時には臆病風に吹かれていた艦隊の乗組員たちも、いざや敵を目の前にして、それどころではなくなったのか、あるいは、恐怖を忘れ去るために眼前の仕事に没頭しようとしているのか――?
いずれにしろ、今、誰もが、この瞬間の作業に己の全てを投じているかのように見える。
そのような各々の任務に奔走する乗組員たちを見下ろしながら、逆に、フロレス自身は、にわかに激しい緊張を覚えて拳を握り締めていた。
じっとりと発汗している己の手の熱さを感じる。
己の頭にあれほど叩き込んできたはずの戦術から帆走技術までの何もかもが、今、スルスルと、まるで砂が落ちるかのように零れ去っていくのを感じていた。
次第に水平線の向こうから、英国艦隊の十数隻の艦影が、肉眼でも分かるほどに、はっきりと見えてくる。
英国艦隊の船団は、大型艦船6隻が一糸乱れぬ二列縦陣を成し、それらを護衛しながら進み来る巡洋艦4隻及び輸送船団と共に、波濤を切って決然と進み来る。
目を凝らせば、片側の縦陣の先頭に位置する巨艦の高みでは、ジョンストンの堂々たる提督旗が風を切り裂いて翻っていた。
さすがに、ジョンストンらしく、自ら艦隊の先頭を切って、スペイン艦隊に突撃を加えてくるつもりらしい。
他方、スペイン艦隊側では、フロレスの乗る僚艦が、ジョンストンと対峙する側の縦陣先頭に立ち、そのすぐ後方を進む旗艦を堅固に護衛しながら進み行く。
そのスペイン艦隊の旗艦上では、既に戦闘態勢が整えられており、いずれの大砲にも人員が配置され、いつでも砲撃開始の合図に応えられる状態だ。
そして、それらの乗組員たちを見下ろす艦尾甲板上では、かのベルナルド艦長が、激しい緊張に乾いた唇をしきりに舐めていた。
「報告どおり、敵の旗艦は74門艦か…」
ベルナルド艦長は黄金細工の施された望遠鏡で敵の二層甲板艦を目におさめながら、不規則に痙攣する口元から、うわ言のような呟きを漏らす。
「ついに来おったな、ジョンストンめ。
だが、やはり、天下の英国艦隊も、このご時勢では、さすがに三層甲板艦までは、このような最果ての地に回す余力はなかったと見える」
ざらついた声でそう言って、彼は引きつった笑みを浮かべた。
それから、傍の航海長へ押し付けるようにして望遠鏡を返すと、脇の副長を鋭く一瞥する。
「艦首追撃砲を解け。
それから、全艦隊に向けて近接戦の信号を揚げろ」
そう言う先から、英国艦隊を睨み据えるベルナルドの口元の苦い笑みが、瞬く間に凍りついていく。
「くそっ…!
ジョンストンの奴、本気であの速度のまま突っ込んでくるつもりか――!」
他方、迫り来る英国艦隊の船団は、スペイン艦隊と正面から対峙するコースを、つまぐるように驀進(ばくしん)しながら、ますます距離を詰めて来る。
無数の純白の帆の合間から、海風を切って、真紅の軍艦旗が誇らしげに翻っているさまが見える。
フロレスは、中でも、メインマストに高々と提督旗を掲げる英国艦隊の旗艦に釘付けられた。
まだ遠目からではあったが、船体の線が実に優美で無駄が無く、あれほどの船脚の速さにも頷ける。
それでいて、威風堂々たる、がっしりとした力感が兼ね備えられており、いかにも強靭そうな巨艦である。
そして、何よりも、早朝の薄曇った朝霧の中にもかかわらず、黄金色に煌く艦首像が目に眩しい。
フロレスは、吸い込まれるように望遠鏡をそちらに向けた。
その瞬間、極度に張り詰めた緊迫感も忘れ去るほどに、その見事な艦首像に意識を奪われた。
ギリシア神話にでも登場しそうな、薄絹を美しい肢体に纏った麗しい女神像――その女神の露な肩口が、波間から迸(ほとばし)る水飛沫を受けて艶やかに濡れている。
そして、えも言われぬ妖艶な微笑みを浮かべながら、まるで誘い込むかのように、しなやかな片腕をこちらに差し伸べていた。
咄嗟に、フロレスは、望遠鏡を己の目から引き離した。
彼は、手すり際によって、降りかかる早朝の冷たい波飛沫を顔に浴びながら頭を振る。
(あれでは、まるで艦(ふね)そのものが、敵の魂を奪おうとしているかのようではないか――)
かくして、その英国艦隊の勇壮華麗な旗艦上では、既に完璧な戦闘態勢が整い、艦尾甲板にはジョンストン提督の超然たる立ち姿があった。
提督は、厳然とした横顔に光る鋭い碧眼を真っ直ぐ前方のスペイン艦隊に向けたまま、足早に己の方へと歩み寄って来たキーン艦長へと声のみで応ずる。
「どうかね?」
「はい、提督。
味方艦隊、発射用意は万全です!」
そう応えてから、「今の速度を維持で?」と、ジョンストンへ視線を馳せる。
提督は、がっしりとした両肩で金色に輝く肩章と同色の金髪を風に吹き流しながら、研ぎ澄まされた輪郭を当然のように頷かせた。
「このまま敵艦隊に突っ込む。
初弾から猛攻をかけ、敵を混乱させ、乱戦に持ち込むのだ。
向こうは12戦艦、我が方に比べて数の上では僅かに有利。
だが、個々の戦力は、我が方が勝っているはず。
ならば、撹乱させ、ばらして個々に討ち取る方がよかろう」
「アイ、サー(提督)」
キーン艦長も頷いた。
(註☆写真は、『 Elizabethan Sea Dogs 』の表紙絵です。)
それから、前方のスペイン船団を値踏みするように見やりながら、厳つい顎を太い指で擦る。
「先方は、見るからに――重々しい艦ですな。
いかにもスペイン艦らしい」
「だが、油断はするな。
敵の真の力のほどは、まだ分からん」
そう言って後ろ手に組むと、ジョンストンは厳格な横顔のまま、マストの高みで空(くう)を激しく鞭打つ長旗をうかがった。
それから、再び俊敏に視線を前方へと戻すと、いよいよ距離を詰めてきた眼前のスペイン艦隊に鋭い一閃を走らせる。
「そろそろ、最初のご挨拶を見舞ってやりたまえ」
「アイアイサー!!
砲手長、発砲用意!!」
各自の大砲の傍でジリジリと息を詰めている水兵や士官たちのひしめく砲列甲板に向かって、キーン艦長の雄叫びが響き渡った。
と同時に、英国艦隊の各艦船の砲門蓋が一斉に開き、次々と大砲が押し出されていく。
そして、黒々とした無数の砲口が昇りかけの朝陽をとらえたと思われた次の瞬間、先頭を行く旗艦の艦首追撃砲が轟然と発射された。
かくして、その挑戦的な初弾が、まるで開戦の合図であったかの如くに、英国艦隊全艦から続々と怒涛の如く砲撃が開始された。
他方、正面から突っ込んでくる英国艦隊から、開戦と同時に予想を超える激しい一斉砲火を浴びたスペイン艦隊は、たちまち大混乱の渦中に陥った。
殊に艦首付近の甲板では、艦首追撃砲の傍で戦闘態勢にあった兵たちが、はやくも無残に吹き飛ばされていた。
そして、敵の砲弾に容赦無く破壊されゆく甲板からは、船体の木片が、まるで刃物か硝子片よろしく飛び散り、敵の砲撃にも勝る鋭利な凶器と化してスペイン兵たちに襲いかかっていた。
しかも、その視界は、瞬く間に渦巻く硝煙に遮られていく。
かくして、フロレスの乗艦でも、爆撃音と共に負傷した兵たちの叫び声が渦を巻き、まだ無傷の兵たちも、浮き足立って右往左往している。
だが、それら半狂乱を呈した甲板上を、轟音と悲鳴を貫いて、ロペス艦長の野太い怒声が響き渡った。
「馬鹿者め、しっかりしろ!!
者ども、持ち場に戻れ――撃てえ!!
敵が戦隊に突っ込んでくるぞ!!」
殆ど罵声と化したロペスの声に、衝撃から覚めやらぬ砲手や水兵たちが、それでも懸命に持ち場の大砲へと這い戻り、硝煙にむせぶ涙目を凝らしながら必死に大砲に縋(すが)りつく。
その周辺では、砲撃を指揮する士官たちが、人間離れした獰猛な形相に成り代わって喚(わめ)き声を上げていた。
「あの英国野郎どもに、我らがスペイン艦隊の威力を思い出させてやれ!!」
そして、帯剣を抜き打ち、荒々しく振り上げる。
瞬間、昇りゆく陽光を剣先がとらえた。
「発射用意!!」
ロペスと同様、もはや号令か怒声か分からぬ士官たちのがなり声が軋み渡る――「発射!!」
それと共に、今、まさに自艦隊に猛然と突っ込んできたジョンストンの僚艦たちに、スペイン艦隊から報復の砲撃がぶち込まれた。
しかし、それらの火砲を嘲笑うかのように、敵艦隊からは、さらに強烈な斉射が撃ち込まれてくる。
今、正横を突っ切りながら強力な砲撃を絶え間なく仕掛けてくるジョンストン艦によって、スペイン艦隊の先頭にいたフロレス艦は、殆ど真横から容赦ない猛攻を受けていた。
その船体を構成する堅固で重厚なオーク材さえ、その随所がぶち抜かれ、舷側際にいた兵たちは、血飛沫と共に反対舷まで吹き飛ばされ、あるいは海面へと落ちていく。
瞬く間に地獄絵図と化した艦首及び砲列甲板を見下ろす艦尾甲板上で、砲撃続行を叫び続けているロペス艦長の脇をすり抜け、硝煙の中をフロレスは舷側通路へと滑り降りた。
滑り降りざま、その周囲で混乱している配下の海兵隊員たちに檄(げき)を飛ばす。
「何をしている!!
敵は、狙撃できるほどに近い!!
甲板上から敵艦に射撃せよ!!」
そう言って走り抜けかけて、鋭く足を止めると、海兵隊員たちを血走った眼で振り向いた。
「――敵の指揮官たちを認めたら、奴らを狙え。
もちろん、最大の標的は、提督だ――ジョンストンと思しき人物を見定め、その者を狙え!」
険しい凄味のある声で、そう噛み含めるように言い放つと、フロレス自身は、そのまま大砲が群れなす砲列甲板へ向かって、さらに濃密な硝煙の中を駆け抜けていく。
その長いブロンドが黒ずみ、爆風の中で千々に乱れ、幾度となく逆巻く宙へと吹き上げられた。
今、あまりに猛烈な無数の砲撃の衝撃で、足元が、何かの怪物の上にいるかのように激しく振動している。
だが、いきなり圧倒的な砲火に見舞われ愕然とはしたものの、最初の衝撃が過ぎると、フロレスの頭は次第に冷静さを取り戻しつつあった。
(なるほど――海戦とは、このようなものなのか……)
まだ些少の体験ではあったが、未体験だった頃に比べれば、その味を僅かでも知れば、彼にとってはゼロであった頃とは雲泥の差である。
フロレスは纏わり突く煙霧を払いのけながら、視界の許す限り広い甲板上を遥かに見晴るかし、それから、素早くマストの高みを大きく振り仰いだ。
さすがに頑強に建造された戦列艦だけあって、これほどの砲火に見舞われながらも、未だ打ち倒されても撃沈されてもいないばかりか、まだ、確かに、その船脚を着実に保っている。
そそり立つマストは健在で、張り巡らされた帆も――少なからず敵弾に貫かれた無残な空隙(くうげき)は見られるものの――帆走を続行するのに弊害が出るほどには至っていなかった。
あれほどにオーク材の随所をぶち抜かれた船体とて、まだ致命的なほどではない。
さらに、彼は、すかさず己の僚艦の後方を仰ぎ見る。
そして、硝煙に染みる青い瞳を懸命に海上に凝らすと、後方を進み来る旗艦のマストや船体が、幸運にも、まだ無事であることをも視認した。
その瞬間、その美麗な――しかし、今はススだらけの輪郭に、思わず微笑が浮かぶ。
(この僚艦たち、伊達に重厚にできているわけではないらしい……!)
それから、フロレスは砲列甲板上で大砲をぶち放している砲手たちの元に走り寄ると、一斉砲撃の号令をかけ続けている士官らに向かい、轟音を縫って、声を張り上げた。
「この硝煙の中で、一丸となって砲撃を続けるなど不可能だ!」
それは、彼が陸で指揮を執っていた時と全く同じ教訓である。
「揃って撃とうとするな!!
各砲の装填が済み次第、各個にて撃たせよ!!」
あまりに激烈で絶え間ない英国艦隊の砲撃に、先ほどまでの怒気も萎えて意識も飛びかけている士官の肩を、フロレスは激しく揺すった。
「しっかりしろ!!
確実に敵に命中している!
そのまま自信をもって、砲撃の指揮を続けるのだ!!」
ススで黒ずんだ士官の顔が僅かに輝きを取り戻すのを見届けると、フロレスは、また敵の砲弾を縫いながら艦尾甲板へと急いだ。
士官を力付けるために、ああは言ったものの、あまりに砲煙がひどく、実際には、敵に命中しているかどうかなど彼にも見分けられはしなかった。
だが、視界の危うい中でも、既に洋上が乱戦の修羅場と化していることは、手に取るように伝わってくる。
(このままでは、もはや時間の問題だ。
虚しく消耗させられ続けた挙句、まともな抵抗ひとつできずに、我が艦隊は終わってしまう……!
何か手を打たねば――とはいえ、この状態では、隊形を建て直すのは至難……)
フロレスは砲火をくぐりぬけ、砲列甲板から舷側通路へと駆け出していく。
そして、手すりに大きく身を乗り出し、飛び交う火の粉と爆風によって炎のように熱くなっている碧眼を必死に凝らした。
先刻まで健在だった艦が次の瞬間には如何様になっているのか分からぬ刻一刻と状況の転変する中、果たして、味方の旗艦は生き延びているのか――?!
半ば視認するのが恐ろしいほどの思いに憑かれつつも、再び目を皿のようにして、そちらを振り仰いだ。
「――!!」
フロレスは、ギリッと、きつく唇を噛み締める。
その危うい視界の中で、スペイン艦隊縦陣の片側先頭を疾走していた己の艦の横を激しい砲撃と共にすりぬけたジョンストン艦は、当艦のすぐ後方に位置するベルナルド艦へと、いよいよ大きく接近し、今、まさに苛烈な砲撃の連打を加えている真っ最中であった。
しかも、敵方の二列縦陣先頭を走るジョンストン艦の艦尾を固く守りながら、その提督艦の後方を進み来ていた英国艦も、時を同じくして、フロレス艦の脇を砲撃と共に通り過ぎながら、スペイン艦隊旗艦を早々に討ち取るべくジョンストン艦に加勢せんとしているではないか。
他方、凄まじい砲撃に晒されているベルナルド艦は、なす術も無く、ただ恰好の攻撃の的(まと)となっているばかりである。
その上、硝煙を払って良く見れば、隊形を分断され撹乱されているのはスペイン側の艦ばかりで、対する英国艦隊側は、今も整然たる二列縦陣を見事に維持したまま、その強壮な武力を遺憾無く発揮し続けている。
「くそ――!」
フロレスは、わななく拳を手すりに強く打ち付けた。
その瞬間、彼の頬ギリギリを敵の銃弾が掠(かす)め飛んだ。
辛うじて過(よぎ)り去った鉄弾の焼け付くような熱さと共に、生温かい己の血が皮膚から飛び散るのを感じる。
と同時に、近くにいた海尉の野太い声が、半ば動転しながら、半ば諭すように、険しく響いてきた。
「フロレス殿、どうか動き回っていてください!!
敵の狙撃兵たちは、あなたを狙っているんですから!!
立ち止まっていては危険です!!」
「ああ…すまん。
迂闊(うかつ)だった」
頬の血を素早く拳で拭いながらも、フロレスは鋭く己の肩章に目を走らせ、思わず苦笑する。
先刻、味方の狙撃兵に敵の将官を狙えと言ったのは、誰だったか――。
それから、止まらぬ頬の血を再び拭いながら、暫し、フロレスは、じっと目を閉じた。
いきなり思いに耽ってしまったような彼の傍で、海尉が、困惑と苛立ちの呻きを上げる。
「ですから、動いていて頂かないと…!」
「うむ――已むを得まい」
唐突に呟くと、フロレスは、目元に険しさを増した瞼を見開いた。
「ところで、海尉殿、ロペス艦長はどこかね?」
「恐らく、艦長なら、まだ艦尾甲板におられるものと…!」
フロレスは相手に頷いて俊敏に礼を返すと、「まだ動ける水兵たちに、操帆の態勢を整えさせておきたまえ」と早口で言い残し、艦尾甲板の方角へと踵を返した。
そして、ほどなく艦尾へ辿り着くと、ロペス艦長の姿を探す。
ロペスは、轟音の中、鬼のような形相で頭髪を逆立て、号令をかけているのか吼え声を上げているのか分からぬ様相で、ともかくも、まだ、その命を繋いでいた。
降りかかる火の粉を払いながら、フロレスは大股で相手の傍に走り寄り、その厳つい肩に、グッ、と掴みかかる。
「ロペス艦長」
「フロレス殿?!」
「艦長。
このままでは、味方の旗艦が、もう長くはもつまい」
「フロレス殿――…!」
「そこで、わたしに、考えがあるのです」
「考え?!」
「はい。
すぐに、この艦の進路を変えて頂きたいのです」
「――?!」
相手の言わんとしていることの意味を掴みかね、ロペスは、鬼気たる形相を強張らせ、混乱した目を聳(そび)やかす。
そのような艦長の肩を鷲掴みにしたまま、フロレスは相手の鼻先までにじり寄った。
「今、この艦の脇をすり抜けている英国艦をやりすごしたら――」
そう言いながら、フロレスは、己の僚艦に激しい砲撃を加えながら、ほぼ正横を通り過ぎようとしている敵艦に、鋭い一瞥をくれた。
敵艦隊先頭を行くジョンストン艦の後に付き従う、その二番手の敵艦は、今、まさにフロレス艦の脇をすり抜けながら、フロレス艦の後に続くスペイン艦隊旗艦に向けて、その強烈な艦首追撃砲を存分に駆使して砲撃を開始している。
フロレスは有無を言わさぬ険しい眼で、ロペスの瞳の奥を見据えた。
その頬からは、相変わらず深紅の血が滴っている。
「艦長、すぐに回頭し、こいつの艦尾を突っ切るのです」
他方、フロレスの言葉に、ロペスはギョッとして、まるで気が違った人間でも見るかのように、まじまじと相手の全身を上から下まで凝視した。
それから、ささくれ立った擦れ声を搾り出す。
「フロレス殿、何を言ってるんです?まさか、この脇の敵艦と、それから、あいつの」――と、横をすりぬけつつある二番手の英国艦の後方から、こちらに向けてさらに進み来る三番手の英国艦の方へと狂気じみた視線を投げ――「間に割り込んで行くってことですか?!」
フロレスは黒々とした爆風に長いブロンドを吹き上げられながら、完全に乾き切った唇を舐め、頷いた。
「その通り。
英国艦隊の縦陣を分断しながら、両舷から斉射する」
「そ…そんな無茶な……!!」
「さあ、ロペス艦長、時間が無い。
早く」
「そんな馬鹿なこと!!
あいつの艦首に、こっちの側面が、もろに串刺しにされますよ!!」
「それはどうかな。
むこうとて、そのように特攻隊さながら船体ごと突っ込んでくれば、己にとっても自殺行為であろう」
「しかし…!
あいつの艦首には、我々よりも高性能の艦首追撃砲が搭載されているんです!!
接近したら、必ず、ぶち込んでくる!!」
「なに、大砲の性能が劣ろうが、逆に砲弾の数なら、正面から撃ち込んでくるあいつより、側面から撃ち込める我々の方がずっと多く、有利というもの。
その上、今、この脇をすり抜けようとしている二番手の敵艦は、こちらが回頭すれば、見防備な艦尾を我が方に晒すことになる。
そうなれば、我々は、その艦尾を存分に縦射できる。
脇のこいつと正面から来る三番手のあいつと、その間から両舷斉射を食らわせ、文字通り、一石二鳥というものだ」
そう言って、本気なのか、冗談なのか、真っ黒にススけた唇の端を上げたフロレスを、ロペス艦長は、もはや素人の狂言としか思えぬという眼(まなこ)で呆然と見据えたまま、継ぐ言葉さえ探しあぐねて絶句する。
早朝の曇天から日中の晴天へと次第に移り変わりゆく空の下で、碧海の如く青光りする瞳を鋭利に閃かせ、フロレスは、今一度、ロペスの分厚い肩を握り締めた。
「他に妙案があるなら別だ。
このままでは、まもなく我が方の旗艦が討ち取られてしまう。
旗艦の旗が落ちれば、味方の士気も一気に落ちる。
ロペス艦長、たとえ、この艦が敵艦の間で串刺しになろうとも、蜂の巣になろうとも、旗艦を守ることが先決だ。
さあ、時間が無い!
風の落ちぬ今!!」
「しかし…!」
「このまま手をこまねいていて、旗艦が落とされ、ひいては我らの艦隊が撃滅されるのを、ただ指をくわえて黙って眺めていることができるかね?
最も、その頃には、この艦も、冷たい海底に消えていることだろうが。
艦長、たとえ、この作戦が狙い通りにいかなかったとしても、少なくとも、英国艦隊の強固な陣形を幾ばくかでも撹乱させることができよう。
それだけでも、何もしないより、意味があるとは思わんかね?
ロペス艦長!!」
「フロレス殿……」
ジョンストン艦らに徹底的に打ちのめされ、もはや反撃の気配も見受けられない瀕死の味方旗艦に苦渋の視線を馳せたロペス艦長は、ついに重々しく頷いた。
フロレスは微笑し、まるで己らの意図を察したかのように可能な限り周囲まで近づいてきた味方の巡洋艦たちにも、敏捷な視線を走らせる。
「ロペス艦長、あれらの艦にも援護の信号を」
フロレスの言葉を聞き終わるか否かという間にも、ロペスは、進路変更と作戦の指示のために瞬時に立ち去った。
ほどなく、ロペス艦長のいつにも増して野太い声が、砲列甲板の方から木霊(こだま)のように反響してきた。
「本艦は、敵艦どもの鼻先と尻を突っ切りながら、両舷から縦射するぞお!!」
ドスの利いた、その大々たる声音に、フロレスは、敵艦にまで聞こえるのではないかとヒヤリと肝を冷やしたほどだった。
が、もちろん、この壮絶な爆音の中で、それは取り越し苦労であったろうが。
他方、驚愕しながらも、敵の初弾から受け身一辺倒に回され続けてきて、鬱憤の極みに達していた水兵たちから、高揚と狂気の交ざり合った喝采と雄叫びが激しく沸き上がる。
そして、いよいよ、脇を驀進(ばくしん)していた縦列二番手の敵艦がフロレス艦を通り過ぎんとした時、再びロペスの猛々しい鬨(とき)の声が響き渡った。
「今だ――回せえ!!」
舵輪が大きく回り、まだ動ける水兵たちが負傷兵たちを飛び越えながら甲板を走り、滑車装置へと飛び付いていく。
たちまち各滑車がキリキリと甲高い音と共に勢い良く回り出し、それらと連動して、甲板の上方で太く長いヤード(註:マストから横に伸びた棒で、そこに帆が取り付けられている)が軋みながら大きく回りはじめた。
その回り方のあまりの速さに艦全体が反動でブルブルと激震しており、そのさまは、まるで巨大な怪物が、胴振るいしながら腹の上にしがみつく邪魔者を振り落とさんとしているかの如くである。
爆撃による衝撃波を上回る強烈な振動に、フロレスは、無意識のうちに腰の帯剣を握り締めたまま、足元に強く力を込めていた。
その時、振動の中、彼の傍に海兵隊副隊長――本来は陸軍に所属し、むしろ陸戦に通じているフロレスは、艦隊副指揮官と同時に海兵隊長も兼任している――が走り込んで来た。
「フロレス様!!」
フロレスは副隊長に鋭い眼で頷き、またすぐ海上へと向き直りながら、早口で言う。
「隊員の半数は両舷に分かれて狙撃。
残りの半数は、負傷した水兵たちに代わって砲撃の援護に回ってくれたまえ。
いずれも迅速正確に頼む」
「はっ!!」
素早く敬礼して副隊長が走り去るその間にも、艦は、激震と共に大きく傾(かし)ぎながら、みるみる方向を変えていく。
そして、そのまま、通り去った二番手の敵艦艦尾と、その敵艦後方をこちらへ向かって進み来る三番手の敵艦との間へと、縦陣を分断するが如く猛然と突っ込んでいく。
フロレス艦の誰もが息を呑む瞬間、こちらに進み来る三番手の敵艦艦首が、グッと、せり上がったかのように巨大に迫って見えた。
もし距離感を少しでも誤てば、あるいは潮流や風を僅かでも読み間違えば――たとえ敵艦自体は、そのような自殺行為を望んでいなかったとしても――勢い余った敵艦艦首に、自艦の側面をバックリと引き裂かれてしまうだろう。
だが、さすがに、潮も風も知り尽くしているロペス艦長の判断に、ズレは無かった。
その上、こちらに猛進していたその敵艦は、予想外の……と言うか、常軌を逸したフロレス艦の動きに、さすがに慌てたらしく、大きく艦首を振って、フロレス艦を避けようと急回頭を試みた。
しかし、その無理な方向転換が、かえって風の逆鱗(げきりん)に触れたのか、にわかに裏帆を打ちはじめ、たちまち立ち往生する羽目となった。
その瞬間を逃さず、ロペス艦長の猛々しい雄叫びが、火の粉舞う甲板中を貫いて響き渡る。
「――今だ、撃てえ!!」
一斉にフロレス艦の両舷から、猛烈な斉射が開始された。
つい先刻まで、つまぐるようにこちらに邁進していた――しかし、今は白帆をばたつかせて立ち往生している――縦列三番手の敵艦艦首に向けて。
そして、先刻まで横を突っ切りながらフロレス艦とベルナルド艦長の旗艦に容赦無い砲撃を加えていた縦列二番手の敵艦艦尾に向けても。
いかに精鋭の英国艦とて、その艦尾は脆(もろ)い。
フロレス艦から無数の砲弾の直撃を受け、精緻な彫刻の施されていた敵艦艦尾は、木端微塵に粉砕された木材や硝子片を吐き散らしながら、分厚い船体そのものが内側に窪み込んでいく。
しかも、敵の艦尾を突き破って艦尾楼の内側にぶち込まれた鉄弾は、下層砲列甲板にいる敵兵たちを薙(な)ぎ倒しながら艦首近くまで掘り進み、たちまち敵艦内部を殺戮の修羅場に一変させた。
辛うじて生き残った敵兵たちが砲撃や銃撃で懸命に応戦してはくるが、絶え間なく撃ち込まれてくるフロレス艦の砲弾に、みるみる弾痕だらけの無残な廃船と化していく。
他方、フロレス艦の甲板上では、息を吹き返して勢いづいた海兵隊員たちが、陸戦さながらに敵の艦上を銃撃し、そしてまた、味方の巡洋艦たちも、弱った獲物に群がる猟犬の如く、フロレス艦の砲火と銃撃に晒されている敵の二戦艦に容赦無い砲撃を加え出した。
だが、その優勢も長くは続かなかった。
砲火に見舞われていようとも、敵艦たちは、さすがに英国艦隊の戦艦らしく、怒り狂った亡者よろしく、最後の力を振り絞って応戦を続行している。
その上、先にロペス艦長が語っていた言葉そのままに、三番手の敵艦が備えた精鋭の艦首追撃砲は、恐るべき威力を発揮して、近接距離から、強烈な砲弾を轟然とぶち込んでくる。
そして、ほどなく、兵たちを鼓舞しながら甲板を駆け抜けるフロレスの足元に、ズ…ズンッと、不気味な衝撃波が連続的に突き上げた。
(敵の砲弾が、船体の下腹部に命中したか…!
それも、一つや二つではない……!!)
こうなることは予測してはいたものの、ついに浸水の危機に直面し、フロレスは密かに固唾を呑み下した。
否、浸水の危機のみならず――両舷から斉射を行いながらも、同時に両舷から攻撃を加えられて、フロレス艦の甲板は、いよいよ本格的な火炎に呑まれつつあり、今や狙撃や砲撃を続行するどころか、もはや立っている場所を見つけることさえ難儀なほどだった。
それら激しく燃上する炎の間から垣間見えた光景に、フロレスは、爆煙で涙の止まらぬその眼を見開き、息を詰める。
その視線の先では、フロレス艦からの絶え間ない斉射を浴びつつも、艦首追撃砲で執拗な反撃を繰り返していた三番手の敵艦が、にわかに進路を転じ、この艦から遠ざかっていこうとしていた。
途端に、フロレスの脇の砲列で、砲手たちの箍(たが)がはずれたような獰猛な怒声が上がった。
「あいつ、行き脚をつけてやがる!!
逃げやがる気ですぜ!!
奴を追いかけますか?!」
「いや、深追いは無用」
「ですが、あの程度の損傷じゃあ、応急処置でも施して、すぐまた戦列に加わってきますぜ!!」
フロレスは、去り行く敵艦に向けて、数発、己の銃を撃ち放すと、険しい横顔のまま繰り返した。
「追いかけたくても、この艦では、もはや無理だ。
追っている先から、この艦自身が、業火の中で灰になるか水没するかが関の山であろう。
それに、この艦が息絶える前に、もうひと働きしてもらう余力を残しておかねばならぬからな」
「もうひと働き……?!」
「そう。
これほどの僚艦を、ただで沈めるわけにはいかん」
そう言って、フロレスは、英国艦隊旗艦の轟々たる砲撃音の響き来る方角を、鋭い眼で睨み据えた。
とはいえ、現実を見渡せば、あの三番手の敵艦は当艦の射程範囲から逃げ延びたというのに、転じて、当艦自身は、まさしく嵐のような焔(ほのお)の長い舌に呑み込まれ、今にも海中に没しようとしているではないか。
フロレスは、苦々しい思いを噛み締める。
だが、硝煙の中で振り仰げば、フロレス艦と複数の巡洋艦から猛攻を浴びた二番手の敵艦もまた、自艦と同じ運命を辿ろうとしていた。
いかに頑強な英国艦とて、脆い艦尾から、しかも、ほぼ真後ろの近接距離から、間断無く縦射され続けては、如何様にも生き延びる術を持たなかったのだ。
その傾きかけた敵艦は、もはや己の力では舵を取ることもままならず、風と潮流に押されるままに、縦陣から次第に脱落し、はぐれていく。
その様子を見届けると、フロレスとロペス艦長は離れた場所から互いに振り向き、燃え上がる炎の中で、瞬間、額に手を触れ敬礼を送る。
と同時に、ロペスの指示で素早く信号旗が上がり、敵の爆撃の間を縫いながらも、巡洋艦の一隻が勇猛にもフロレス艦へ荒々しく横付けしてきた。
そして、艦上の生き残った味方の兵や負傷兵たちを巡洋艦上へと避難させていく。
(註☆イラストは、ウィキペディア(Wikipedia)よりお借りした当時の代表的な巡洋艦、「フリゲート」です。
フリゲート艦は、この物語のフロレスたちが乗艦しているような戦列艦よりも小型・高速・軽武装のため、小回りも利き、戦闘(戦列艦の補助等)以外にも、哨戒・護衛等の任務にも活躍しました。)
「フロレス殿もこちらの艦へご移乗を!!
さあ、早くご避難を!!」
水兵たちの促しに、だが、フロレスは首を振り、甲高い音を発しながら無数に弾け飛ぶ火の粉の中で、ロペス艦長を真っ直ぐに見つめた。
「わたしは、ここに残ります」
「なっ、何を言っているのです?!
この艦は、今にも燃え落ちようとしているのですぞ!!」
驚愕しているロペスや水兵たちを、燃え盛る炎を映す瞳で見据えながら、フロレスは早口で続けていく。
「ロペス艦長、有志の水兵たちをわたしに、いや、この艦に、お貸し頂きたいのです」
「な…何をする気です?!
フロレス殿、まさか……!」
フロレスは厳然とした横顔で頷くと、ぐっと目の汗を拭い去り、巡洋艦が横付けされている舷側通路を敏速な足取りで離れた。
そして、はやくも艦首方向に戻りながら、語気鋭く言い放つ。
「さあ、時間が無い!
ロペス艦長、あなたも急いでこの艦を降りてください。
そして、わたしと共に残る水兵たちを、舵と各マストに!」
「待て!!
それならば、わたしが艦に残る!!
艦長として、この艦と命運を最後まで――!!」
すかさず追いかけてきて己の方へ猛然と組み付かんばかりのロペスだったが、フロレスは鋭敏な手つきでそれを制した。
そして、沈着な口調で、諭すように言う。
「ロペス艦長、わたしは、何も、この艦と共に己の命運まで共にすると言っているわけではない。
しかし、今、選択をしなければならないとしたら、わたしよりも、古参の艦(ふな)乗りであるあなたの方が、この海戦では価値がある。
だから、わたしが、ここに残ることにするというだけです」
「…!」
「あなたの先刻の操船も、その手腕は実に見事であった。
いかなる作戦とて、それを実行できる腕が伴わなければ、全ては無為に帰す。
艦長、万一、わたしに何かあれば、あなたが副指揮官としてベルナルド艦長を援護し、この艦隊を統率してください」
「フロレス殿…!!」
それでもなお喰い下がらんとするロペス艦長の厳つい肩に、フロレスは血の滲んだ己の手をガッチリと回し込んだ。
そして、ロペスの肩を強く掴んで、一瞬、相手の横顔に己の顔を寄せると、耳打ちするが如くに低く言う。
「これは命令だ、ロペス艦長」
「――!」
その有無を言わさぬ凄味を宿した声音にロペスが思わず言葉を呑んだ瞬間、フロレスは険しくも真摯な碧海色の瞳で、今一度、深く頷いた。
「艦長、わたしの意図は、あなたが察している通りです。
あなたはこの艦を降りたら、すぐに脚の速い巡洋艦たちに、敵旗艦の前進進路に回り込ませ、逃げ道を塞いでください。
さあ、今は一刻を争うのです。
残る者以外は、すぐに艦を離れてださい!
ロペス艦長、あなたも!!」
その瞬間にも、マストの高みから、燃え上がる円材が、ドーッと、すさまじい轟音を発して足元へ落ちかかってきた。
たちまちフロレスと艦長との間に炎の壁が立ちはだかる。
「フロレス殿――!!」
その燃え盛る火の壁さえも跨(また)ぎ突進せんとする艦長の厳つい胴体や手足に、すかさず多数の水兵たちが飛びかかり、殆ど捕らえ拘束せんばかりの勢いで取り押さえた。
「ロペス艦長!!
フロレス殿の仰る通りに、とにかく、ここは我らと共に!!」
士官や水兵たちに半ば掴みかかられ引き摺り下ろされるようにして下艦させられていくロペス艦長の姿を見届けると、フロレスは艦首楼の上へと駆け上がった。
そして、己と共に命運を共にすることを選んだ有志の水兵たちを見晴るかすと、瞳で彼らにしかと頷き、右手を挙げて敬礼を払う。
それから、決然と前方に向き直り、業火の中で腰の帯剣を引き抜いた。
焔を反射する鋭利な剣先が、ジョンストン提督の旗艦を貫くように指し示す。
「目標、英国艦隊旗艦!!
このまま、この艦ごと突っ込んでいけ!!」
さすがに覚悟を決めて残った有志の水兵たちだけあって、フロレスの号令は自ずと予測のうちではあった。
が、それでも、いざや現実ともなれば、にわかに動悸も速まり、身を強張らせずにはいられない。
そのような水兵たちにフロレスは一瞥を走らせ、炎の中で微かに笑みを見せた。
「案ずるな。
そなたたちを艦と共に道づれにするつもりはない。
だが、もう暫く、そなたたちの力を貸してくれ」
この期に及んで、なお沈着でゆるぎないフロレスの声音に、水兵たちも我を取り戻したのか、その逞しい体を翻し、燃え上がる火柱の間を持ち場へと走り抜けて行く。
他方、フロレス自身は、この状況下においても沈着さを保っている己自身を、どこか他人事のように感じていた。
沈着?――否、このような事態の中では、恐怖も何も、ただ麻痺しているだけではないのか?
そんな己の空洞のような心を見透かしながら、しかし、すぐに彼は、それらの雑念を振り払った。
そして、再び前方に真っ直ぐ向き直ると、火の粉と共に頭上から落ちかかりくる索具類を、バシッと、剣先で力強く薙(な)ぎ払った。
「進撃!!」
他方、半ば傾ぎつつも赤々と炎を上げながらフロレス艦が突撃してくる時、敵旗艦たるジョンストン艦は、ベルナルドの旗艦に止(とど)めの砲撃を加えながら、さらに、周囲の他のスペイン艦たちにも、容赦無い猛攻の火の手を広げているところであった。
しかしながら、炎上するフロレス艦が己の方へと真っ直ぐ進路を定めてくるさまに、さすがに砲撃の対象を変えてきた。
先刻のフロレスの反撃によって、己の背後を守っていた二番手の僚艦を失っていたジョンストン艦は、今や火の玉の如くと化したフロレス艦に、かなりの範囲、その脆い艦尾を晒す形となっている。
ジョンストン艦の艦尾に備えられていた艦尾迎撃砲が、突如、苛烈な閃光と共に火を吐き、獰猛な魔物の如く鉄弾が、フロレス艦めがけて凄まじい勢いで飛び込んできた。
と同時に、大地震さながらの激烈な衝撃波が、フロレスや水兵たちの足元を轟々と揺るがす。
一挙に、数名の水兵たちが、無数の粉砕物と共に舷側手すりまで弾き飛ばされた。
だが、彼らは血の滲む歯を食い縛り、ガクガクと上下する手すりに獣のように四肢ごと組み付き、意地でも海面に叩き落とされまいと必死で激震に耐えている。
一方、フロレス自身もまた、傍の板張りに落雷の如く突き刺さってきた第二弾の砲撃による衝撃で、数メートル先まで猛烈な勢いで吹き飛ばされ、その全身を燃え上がる床面に激しく叩きつけられた。
「――!!」
この時とばかりに乗り移らんと覆い被さってくる炎を懸命に払いのけながら、振動を続ける床板を踏み締め、無我夢中で身を起こす。
切れた口中から溢れ出す血に染まり、黒光りする唇を、フロレスは冷徹に吊り上げた。
「好きなだけ撃ってくれば良い。
燃え上がる炎の分だけ、己が被害を蒙るのだ」
それから、最後の意地を見せんとばかりに、床を這いずりながらも再び各々の持ち場へと戻り行く水兵たちを炯々たる眼で見届け、フロレスは上方を高く振り仰いだ。
炎と硝煙の間から、僅かに紺碧の天空が覗いている。
己の血に濡れた指にガッチリと握られた愛剣が、マストの高みで深紅の焔を吹き上げている帆布たちを決然と指し示す。
「最大限に風をとらえよ!!
最大船速!!」
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第九話 碧海の彼方(11)
をご覧ください。◆◇◆
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