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それから、アパサは武器庫にアンドレスを連れていき、武器庫の奥の方から臙脂色のビロードの大きな包みを持ってきた。アンドレスの目の前で、その布の周りに丁寧に結ばれていた豪奢な紐をゆっくりとほどいていく。格調高く優美な、そして、重厚で厳(いか)めしい、輝くようなサーベルがそこにはあった。アンドレスは、息を呑んだ。サーベルがまるで生きているかのように、蒼く燃え上がるがごとくの気を発している、そのような激しい錯覚にとらわれる。アパサは捧げ持つようにして、アンドレスにそのサーベルを手渡した。彼は、興奮で震える両手で、がっちりとそれを受け取った。非常に厳(いか)つい棍棒で鍛え続けてきたアンドレスにとって、これほど重量感のあるサーベルでさえ、今や羽のように軽く感じられる。「それを、おまえにやる。持っていけ。」揺れる眼差しでアパサを見上げるアンドレスの瞳の中で、アパサは静かに笑っていた。「おまえはよくやった。」サーベルを掲げ持ったまま、アンドレスは深く頭を下げた。「本当に、何と御礼を申し上げたらよいのか…。」思わず涙が込み上げそうになるのを、彼はぐっとこらえた。アパサは静かな口調で続けた。「これまで敵を攻撃することばかりを言ってきたが、おまえに渡したこのサーベルは、ただ攻めるだけのものではない。そもそもサーベルとは、攻めるよりも守ることに優れた武器なのだ。サーベルには、敵のもつ銃や大砲には無いものが宿っている。それは、美しく、魂と呼ぶにふさわしい雰囲気とも言えるだろう。おまえには合っている。」アンドレスは、もはやこらえられず、男泣きに涙を落とした。恐らく、アパサも感極まっていたことだろう。しかし、それを悟られまいとするように、アパサは暫し下を向いて呼吸を整えた後、深く、響く声で言った。「アンドレス。これで己の身を守れ。おまえは命を落とすなよ。」アンドレスは、霞んだ視界で、アパサに深く礼を払った。アパサもそれに応えるように、深く礼を払って言った。「さらばだ、アンドレス。次は、戦場で会おう。」 ◆◇◆ お知らせ ◆◇◆本日もお読みくださり、誠にありがとうございます。この度、トゥパク・アマルのイメージ画を 真魚子様 が描いてくださいました。イメージ画は、フリーページ( 登場人物イメージ画 )をご覧ください。真魚子様に心から深く御礼申し上げますと共に、お読みくださり、また支えてくださっているすべての皆様に、厚く御礼申し上げます。明日から、「弟四話 皇帝光臨」に入って参ります。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
2006.05.04
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トゥパク・アマルがいよいよ反乱の決行を定めたとき、アパサの元にいるアンドレスも仕上げの時期に入っていた。既に、彼が当地に来て、ニ年の月日が流れていた。今や、アンドレスは18歳。どこから見ても、押しも押されぬ若武者としての風貌を備えていた。今、アンドレスは師を前に、険しい眼差しで、いつもの棍棒をサーベルのごとくに構えていた。アパサも獣のような獰猛な眼差しで、棍棒を手にアンドレスを睨みつけている。アンドレスは深く吸い込んだ息を腹部に落とし込み、丹田に己の気を集める。そして、その気を敵に悟られぬよう、至極自然に手首から棍棒に乗せていく。アパサの目の中で、アンドレスの持つ武器の先端から、回転する渦のような気がジワジワと発せられていく。次の瞬間、アパサはアンドレスの鈍器に激しく下から攻め上げられた…――かのような強い錯覚に襲われ、とっさに背後に飛び退った。が、実際には、アンドレスはその場を微動だにしてはいない。ただ、彼の棍棒の先から強い気が発せられ、それが武器の動きに見えたのだ。アパサは苦笑した。再び、互いに間合いを保ちながら、睨み合う。もはや、どちらにも一縷の隙もない。次に仕掛けたのは、アパサの方だった。アンドレスの急所めがけて電撃のような雷(いかづち)を連打し、獰猛な獣のように襲いかかる。しかし、アンドレスはいとも身軽にいなし、まるで宙を舞うかのごとくフワリとかわすと、再びアパサの正面にすっと身構えた。それは、あたかも舞の名手が舞うかのごとく、匂い立つような優美で華麗な動きだった。背筋を伸ばし、武器の先端まで神経を研ぎ澄ませる。そして、再び武器の先から輻射される澱みない気。さらに、背筋から後頭部を経由して頭頂から、まるでアパサに覆いかぶさるかのごとく発せられる気…――それは、宗教画の中に見られるような、まるで後光と見まごうばかりの輝くようなまばゆいオーラだった。それは敵を呑みこみ、包み込んでさえしまうような気だ。しかも、それは、明鏡止水のごとくに澄み切っている。その瞳には、蒼い炎…――理性の炎が燃えていた。アパサは目を細め、ゆっくり武器を下ろした。アンドレスもアパサの動きに合わせて、武器を下ろす。「今日、トゥパク・アマルの使者が来た。」アパサは、低い声で言った。「トゥパク・アマル様の?!」アンドレスの表情に、高揚感と緊張の色が走る。「いよいよのようだ。」アパサの顔も、興奮からか、微かに紅潮している。アンドレスは、力強く頷いた。ついに、その時が来たのだ…――!!二人は、暫し無言で、互いをまっすぐに見た。言葉にならぬ深い感慨の念が込み上げる。そして、再び、アパサが口火を切った。「おまえはトゥパク・アマルのもとに戻れ。そして、やつを助けろ。」「はい!!」アンドレスは、興奮に震える声で答えた。
2006.05.03
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トゥパク・アマルの漆黒の長髪は、まるで闇に溶けこむかのように、アレッチェの前に妖艶な気配を湛えながら浮き上がって見える。しかも、その薄闇の中で、インディオの全身からは青白い光のようなものが不気味に放たれているような錯覚さえ覚える。そのようないまいましい錯覚をいなすようにして、アレッチェは氷のような声で言った。「もし、何か事を起こせば、それは、逆賊として、インカ一族の合法的殺戮の理由を、我々スペイン側に与えることに他ならない。それをよく覚えておくことだ。」再び、不気味に静かな沈黙が流れる。やがて、トゥパク・アマルがゆっくりと振り向いた。それは、もはや感情のない、能面のような表情だった。「我々一族は、この地の民を守るためにある。結果、どのようなことになろうとも、それは自ずと覚悟の上。」そして、アレッチェの言葉を待たず、トゥパク・アマルはさっさと部屋を出ていった。アレッチェの中に不穏な感情が渦巻いた。何よりも、あの目に浮んだ狂気にも似た色…――何か、非常にまずいことが起こるのではあるまいか?!確かに、この日を境に、トゥパク・アマルはその動きの方向を明らかに変えていく。これまで流血を見ぬために、極力平和的な手段によって、懸命に敵方と交渉を試みてきた。だが、これからは違う。部屋を立ち去るトゥパク・アマルの目は、確かにアレッチェが見抜いたがごとく、この時、狂気の色をも孕んでいたかもしれない。もはや、立ちはだかるものは切り捨てる…――!!まさにアレッチェの予感は、まもなく現実のものとなろうとしていたのだ。
2006.05.02
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このインディオは危険だと…――かつて初めて、トゥパク・アマルに会った時、アレッチェは明確に直観した。しかし、今、目前にいるそれと同じインディオの目の色には、あの時以上の不気味な凄みが宿っていた。アレッチェの目は、それが何かを必死で探るように、釘付けられる。敢えて言葉にすれば、それは、狂気…――ではないのか?!アレッチェは、そのような己の想念を振り払うようにして、再びトゥパク・アマルを見た。一方、トゥパク・アマルはアレッチェの探るような眼差しを避けるように、「王陛下の御言葉は、承りました。それでは。」と、踵を返した。「待て!」すかさず、アレッチェが呼び止める。トゥパク・アマルは、振り向かずに、ただ足を止めた。「マキャベリズムの創始者の言葉を知っているかね?」どこから湧いてきたのか分からぬアレッチェの不意な発言だったが、もはやトゥパク・アマルは一切の感情を殺したように、重い沈黙を守っている。「彼は、被征服地の支配を安全にするためには、その国を支配していた王族の血統を抹殺することが必要だと述べている。四等身に至るまで絶滅すべき、とね。」相変わらずトゥパク・アマルは微動だにせず、聞いているのかいないのか、ただ、そこに後ろ姿のまま立っていた。西日はすっかり傾き、部屋は既に薄闇に包まれている。
2006.05.01
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「村で待て、と。王陛下の御言葉は、それだけだ。」冷たい声でアレッチェが言う。アレッチェは、じっとトゥパク・アマルの上に視線を向け、その反応を観察する。トゥパク・アマルは微動だにせず、変わらぬ姿勢のままだった。その気配も変わらない。暫し、沈黙が流れる。微動だにせぬまま、しかし、実際には、真紅の絨毯に視線を落とすトゥパク・アマルのその目は、引き裂かれぬばかりに険しく見開かれていた。鼓動が速くなり、己の手足が微かに震えてくるのが分かる。突き上げてくる憤怒、失望、悲愴、そして、最後の箍がはずれる感覚…――。様々な感情が混沌と渦巻きながら、トゥパク・アマルの心を掻き乱した。しかし、アレッチェに、それを悟られてはならぬ。トゥパク・アマルは、激情に翻弄されるもう一人の自分を押さえ込みながら、己の気を、呼吸を、声音を統制した。「王陛下へのお目通りは、叶わぬでしょうか。」トゥパク・アマルの声は、不自然なほど静かだった。だが、それ故、かえってその中に滲んでいる感情の色味を、アレッチェは決して見逃さない。さすがのトゥパク・アマルも、動揺しているのだ。アレッチェは、いっそうの冷ややかさで、「そのようなことが、一介のカシーケに叶うはずがあるまい。」と答え、トゥパク・アマルを睥睨したまま冷笑した。その瞬間を見逃さぬとばかり、トゥパク・アマルが顔を上げる。トゥパク・アマルの目の中に、冷たく笑う制圧者の表情がはっきりと映った。トゥパク・アマルもまた、冷徹に目を細めた。そして、すっと立ち上がった。すぐ直近の距離で、いきなり自分と同じ目線に立たれ、一瞬、アレッチェは身をひるませた。トゥパク・アマルは無言で、アレッチェの目を、あの射抜くような鋭い眼差しで睨み返す。その瞬間、アレッチェは、不覚にも固唾を呑んだ。
2006.04.30
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その一室は、さすがに副王による御言葉を伝えるに相応しい厳かな礼拝堂のような造りになっており、床には真紅の絨毯が、入り口から中央の祭壇風の壇上まで続いている。トゥパク・アマルの纏う黒ビロードの艶やかなマントが、真紅の絨毯にくっきりと映えていた。礼拝堂を模した優美な装飾を施された縦長の飾り窓からは、西に傾きかけた陽光がうっすらと差し込んでいる。その光は壇上に立つスペイン人、アレッチェの上にも斜めに注がれ、その影を黒々と長く引いている。アレッチェは壇上から、副王名代である自分の前に跪き、副王からの返答を待つトゥパク・アマルを、尊大な眼差しで睥睨した。彼の、いかにもスペイン人らしい彫りの深い横顔で、鋭い目が探るように光る。トゥパク・アマルは跪いたまま下を向いており、アレッチェにはその表情は読めない。一方、トゥパク・アマルは目を閉じたまま、じっと副王からの返答が伝えられるのを待った。副王からの返答如何によって、反乱を決行する…――!!その決意は、今や彼の中では明確だった。もはや、これ以上、時を失うことはできない。これ以上、理不尽に民衆を虐げられるままにしておくことはできないのだ。トゥパク・アマルはゆっくりとその顔を上げた。何かに憑かれたような危うい眼差しである。アレッチェもまた、あの射竦めるような眼光でトゥパク・アマルを見下ろしていた。「王陛下の御返事をお聞かせください。」トゥパク・アマルの、その不気味に流麗なスペイン語が、アレッチェの中のえもいわれぬ不快感を再び刺激する。トゥパク・アマルを前にすると、何故、このように不穏な、妙に落ち着かぬ気分になるのか、アレッチェ自身も理屈ですべてを説明できなかった。スペイン人としての高い誇り…――他のヨーロッパの国々さえ震撼させうる比類なき卓越した民族であるとの、その確固とした信念、己の自意識を、妙に引き下ろしてくるような、何か不気味に突き崩してくるものを、このインディオはもっているのだ。アレッチェは跪いているトゥパク・アマルのすぐ目の前まで、わざとらしく近づいてきて、そして、居丈高に腕を組みながら、いかにも蔑むような目つきで見下ろした。トゥパク・アマルは冷ややかに目を細め、それから、再び真紅の絨毯の上に視線を戻した。
2006.04.29
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その日を境に、これまでの特訓に加えて、いかに美しく見せるか、という研究がはじまった。果たして、美しく見えるとは、いかなることなのか。アンドレスは、人間の動きよりも、むしろ、自然界の野にいる動物たち、そして、空を舞う鳥たちの姿に、美しさの要素を見出していた。一縷の無駄もない動き。動物たちの、どのような他愛のない動きさえ、美しい。それは、とても合理的な動きとも感じられた。人の目、いや、脳というものは、合理的な動作を見ると美しいと感じるのではないか。故に、基本を叩き込まれたアンドレスの動きは、その素養を既にもっている。基本こそが奥義…――かつて、まだ訓練初期の頃のアパサの言葉が、アンドレスの中に甦る。その境地を、今、己の中に結実させようとしているのだ。実際、アパサのこれまでの特訓は、無駄の無い、まさしく合理的な動きをひたすら追求してきたものだった。合理的な動きであることは換言すれば、「理にかなっている」ということであり、理にかなっていれば、それは自ずと「強い」、つまりは「利がある」動きということにもなるのだ。美しさには「理」と「利」がある…――。そこを追求することで必然的に華のある美しい動きも生まれるに相違ない。それは、単なる表面的な動作に留まらず、当然ながら精神的な側面をも含むものである。こうして、強さと共に、美を追求する特訓が新たにはじまったのだった。 さて、この頃、かのトゥパク・アマルの動向はどのようになっていたであろうか。一旦、アンドレスのいるアパサの元を離れ、場面をトゥパク・アマルの周辺に戻そう。その日、トゥパク・アマルは首府リマのインディアス枢機会議本部の一室にいた。目の前には、あの男、植民地巡察官アレッチェがいる。トゥパク・アマルが随分前にしたため、副王ハウレギに提出した嘆願書への回答が、やっとこの日、伝えられることになっていたのだ。あのミタ(強制労働)の改善を訴えた、自らの渾身の思いを注ぎ込んだ嘆願書を提出してから、もう2年近くの歳月が流れていた。返答を得られぬまま、いたずらに時が過ぎることに堪り兼ね、トゥパク・アマルは再び数週間前より副王のいる首府リマを訪れ、副王との接見を願い出ていた。しかし、たとえインカ皇帝の直系の子孫とはいえ、今や一介のカシーケ(領主)に過ぎぬトゥパク・アマルには、当然のことながら、副王との目通りなど叶おうはずはなかった。その代わりに、副王の名代との接見が許された。だが、接見のこの日、副王の名代として現れたのが、よりによってこの男とは。トゥパク・アマルは、跪く(ひざまず)く己の眼前に立ち、腕を組んで睥睨(へいげい)しているアレッチェの気配を感じながら、既にその回答が決して期待できるものではないことを悟った。
2006.04.28
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「おまえの戦場での振る舞いの一つ一つが、いや、戦場だけでなく、人前に立ついかなる場面でも、インカ皇帝の血統として相応しくなければならぬのだ。」アンドレスは、ハッとした瞳でアパサの顔を改めて見た。アパサの目は、めったにないほど澄んでおり、どこか、まるで同情の念を宿しているかのような色さえ湛えている。「それが、おまえの宿命だ。アンドレス。おまえは、周りの者の心を惹き付け、奮い立たせ、士気を高める、そのための偶像にならねばならぬのだ。」そして、低い声で続けた。「今、トゥパク・アマルがやっているようにな。」アンドレスは、今や、はっきりとその意味を察した。そして、トゥパク・アマルがわざわざ自分をこのアパサの元にあずけた理由も、今、アパサの言葉で明確に認識した。確かに、銃や砲弾で応戦してくるスペイン兵に対して、アンドレスがいかに見事な剣裁きで立ち向かおうとも、そこには、さほどの大きな意味はない。むしろ、反乱軍の精神的支柱としての「インカ皇帝」つまりは「トゥパク・アマル」の属性の一部として、インカ族の人々の士気を高め、その魂を高揚させることにこそ意味があるのだ。それ故、「インカ皇帝」の側近、あるいは血統の武将として、いかに味方の心を打つ振る舞いができるのか、その見せ方が重要だと、アパサは言いたいのだろう。既に、辺りは澄んだ藍色に染まりはじめている。秋近い夕暮れ時の空気は、何とも物悲しい。足元のすぐ傍の草の中から、虫の鳴く声が響いてくる。アンドレスは、すっかり手になじんだ棍棒の感触を改めて確かめた。「わかりました。」「うむ。」と短く答え、アパサは館の方に消えていった。一人草地に立ったまま、アンドレスは宵の空を見上げた。ただでさえ乾いたこの土地の秋間近の空は、恐ろしいほどに澄んでいる。まだ微かに薄明るい空には、しかし、星々が既に秋の星座を描きながら、白く清らかに瞬きはじめていた。無性に故郷が懐かしく思えてくる。星の静かな瞬きが、今は、何故かとても切なく感じられる。すっかり夜の帳がおりても、アンドレスはじっと遠い星を見上げたまま、いつまでも冷たい風に吹かれていた。
2006.04.27
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やがて、アンドレスがこの地を訪れて2度目の春が過ぎた。この時、既にアンドレスは17歳。アパサの厳しい鍛錬のもと、彼は見違えるように逞しい若者に成長していた。そして、その年の夏も過ぎる頃、アパサの指導はそれまでとはやや趣を変えたものとなっていた。実際、ここにきてアンドレスの成長は目覚しかった。1年半に及ぶ過酷なトレーニングの継続により基礎的な身体能力は高められ、アパサが徹底的に基本を叩き込んだ成果も実を結び、今や彼は棍棒をまるでサーベルのごとく軽々と自在に裁きながら、複数の相手を同時に圧倒するまでになっていた。アパサが心理戦に持ち込もうとも、アンドレスはそれほど動揺することも、もはや無い。円陣訓練で、アパサの部下たちをまとめて片付け、丁寧に汗の処理をしながら呼吸を整えているアンドレスの傍に行くと、アパサはおもむろに言った。「これからは、美しく、ということを念頭に置いてやってみろ。」アンドレスは一瞬、耳を疑った。どちらかと言えば、いかに泥臭く、血生臭くとも、何が何でも敵を倒す、ということを叩き込まれてきたのだ。ましてや、「美しい」という単語がアパサの口から出たことに、まずアンドレスは驚いたし、決して嫌味な意味ではなく、意外でもあった。「美しく、ですか?」余計な質問をすることで、これまで幾度と無くアパサの罵声を浴びてきたアンドレスだが、この時は思わず口をついて、そんな言葉が出てきてしまった。アパサは、まじめな顔のまま「そうだ。美しく、戦え。」と繰り返した。「おまえは、ただ敵を倒せればいいのではない。美しく倒さねばならい。あのギリギリの泥沼の戦場の真っ只中でもだ。何故なら、おまえは、偶像にならねばならぬからだ。」二人の間を、砂の混じった一陣の風が吹き抜けていく。そろそろ夏の終わりも近い。既に冷気を帯びた風が、再びこの乾いた高地を吹き渡る季節になっていた。アンドレスは汗を拭く手を止めたまま、アパサの言葉の意味を何とか咀嚼しようとした。しかし、その意味がよく分からない。アパサは、「おまえの察しの悪さは相変わらずだな。」と嘯(うそぶく)くと、改めて真正面からアンドレスを見据えた。
2006.04.26
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火器が無い状態で、火器を大量に保持する敵といかに戦うのか…――そのアパサの問いに、アンドレスは、やはり普段から考えていたことをそのまま答えた。「奇襲です。」「奇襲?」アパサが、色の見えない声で応じる。「はい。」能面のような表情でアパサはアンドレスの目を覗く。しかし、すぐに、にんまりと、アンドレスには意味を解(げ)しかねる笑みを浮かべた。「おまえは真正面から行くタイプだと思っていたがね。」「ずるくなれと言ったのは、アパサ殿ではないですか。」思わず、アパサは苦笑した。が、すぐに冷ややかな眼差しに戻った。ふいに蝋の無くなった蝋燭が消え、真っ暗闇に包まれる。蝋の臭いが部屋の中に立ち込めた。「残念ながら、奇襲も、そう簡単ではないな。恐らく、火器を手に入れるよりも難しいかもしれん。」アパサが闇の中で話すのを聞きながら、アンドレスは席を立った。そして、既に我が家のように把握しているその部屋の棚の一角から、真新しい蝋燭を取り出し、火をつけた。再び、部屋の中が蝋燭の炎で照らし出される。「戦場で最も敵が弱点とするポイントを見抜いて奇襲をかけるには、天才的戦術を必要とするものなのだ。そして、かなりの強運もなければ駄目だ。わかっているのか、おまえは。」アパサは、溜息とも取れる息を吐いた。「奇襲を成功に導ける天才的な戦術家など、実際、何百年に一人出るか出ないかだ。残念ながら、トゥパク・アマルも、俺が見る限り、そこまでの戦術的天才ではない。」その声には嫌味な感じが全くなく、非常に冷静であっただけに、アンドレスの中にいっそう不穏な気持ちを掻き立てた。「トゥパク・アマル様では、駄目だと?」冷静を装うアンドレスの声が、しかし、微かに揺れている。「トゥパク・アマルが駄目というのではない。ただ、奇襲を成功させられるほどの天才は、極めて稀だと言っているのだ。だが…。」それから、酒を置いてアパサは真正面からアンドレスに向き直った。アンドレスも、つられるように姿勢を正す。「武器で著しく劣るインカ軍が勝つためには、奇襲が必要な時がくるだろう。残念ながら、我々は天才ではないかもしれん。しかし、的確な情報収集と正確な分析、時機の把握と正確で果断な行動、押さえるべき要点を押さえさえすれば、少なくとも奇襲の成功率を高めることはできる。」アパサのまるで未来を予見するかのごとく厳しくも真剣な眼差しに、アンドレスはその教えを深く我が身に落とし込むように、力強く頷いた。
2006.04.25
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アパサは腕を組みながら、椅子に反り返った。「仮に、逆にスペイン側が高地に陣を張り、我々インカ軍が低地を占拠したとしよう。恐らく、敵も同じように機先を返して下山を試みるだろう。だが、それと共に、奴らは背後の高地に砲兵隊を配置し、低地に結集したインカ軍を砲撃してくるだろう。火器の威力は凄まじい。恐らく、少数の砲兵隊に我々は蹴散らされ、たちまち戦況は奴らに有利になるかもしれん。」そして、アパサは考え込むように押し黙ってしまった。蝋の残りが少なくなった蝋燭の炎はひどく不安定に揺れながら、険しい表情で宙を見つめるアパサの横顔に深い影を落としている。アンドレスとて、火器がない状態でいかに戦って勝利に導くのか、そのことを考えない日はなかった。彼は、いっそう揺れの激しくなった蝋燭の炎を見つめた。「銃を手に入れればよいのではないですか。」不意に沈黙を破ったのは、アンドレスの方だった。「銃そのものは、この国にあるのです。スペイン人が持っているだけであって、それをうまく手に入れればよいのではないですか。」アンドレスは、思っていたままを、思い切って話した。「方法を考えればいいのです。手に入れるための方法を。」アパサに何を言われても構わない。アンドレスの眼差しには、覚悟の色が見える。だが、意外にもアパサの罵声は飛んではこなかった。「それはその通りだな。だが、実際には、かなり難しいだろうよ。それに、たとえ手に入っても、そう大量には無理だろう。だが、確かに、手に入れる方法を考える価値はある。」アパサは、いつものようにチチャ酒の樽の方に酒をつぎに立った。そして、二人分の酒をついできて、アンドレスの前に差し出した。「おまえも、たまには飲め。」アンドレスは、軽く礼を払って、波々と酒がつがれたカップを受け取った。チチャ酒とは、古来からアンデス地帯で愛飲されている、伝統的なトウモロコシを原料とする酒である。アパサはチチャ酒を一気に飲み干して、さっさと二杯目をつぎに立つ。アンドレスもカップを傾けて、まだあまり飲みつけぬ酒を喉に注ぎこんだ。口いっぱいに、酸味のある葡萄のような味が広がっていく。「いずれにしても、火器がない状態でいかに戦うかを考えておく方が先決だ。」二杯目をあおりながら、アパサは話の続きをはじめた。「地勢や気象条件をうまく使うこと。これは、当然のようだが、意外と侮れん。それから、接近戦に持ち込むとうい方法もある。他は?おまえなら、どうする?」再び、アパサが問う。
2006.04.24
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さらに、アパサの指導は、武術的な特訓に留まらなかった。もともとアパサは戦術に長けた武将でもあり、トゥパク・アマルがこの男にアンドレスを託した理由の一つはそこにもあった。火器を持つことを一切禁じられているインカ側の反乱軍が、鉄砲、大砲などの火器を多量に投入して対抗してくるスペイン軍にいかにして立ち向かうのか。実際、それは、トゥパク・アマルの頭を今も非常に悩ませていたことだった。しかし、いかに智略に長けたアパサと言えども、それは容易に回答を出し得ぬ難問だった。今、アパサにできることは、アンドレスが戦場で兵を率いる将となった暁に、澱みなく的確な判断と決断が行えるよう、アパサ自身の中に蓄積されてきた一般的な戦術を、最大限指南するのみだった。後は、その場の実際の戦況を緻密に分析しながら、臨機応変に、且つ、精緻な策略を練り、対応していくしかないのだ。毎晩、夕食後の時間、アパサはアンドレスを前に座らせて、戦術の指南を行った。今宵も、アパサは蝋燭の灯りの下に地勢図を広げ、武術指導と変わらぬ厳しい面持ちでアンドレスの前に座っていた。「平原における戦いでは、高地は常に戦略的要地となる。高地は敵陣地を瞰制できる上に、守備陣地としても、攻勢にでる際の発起点としても、有利だからだ。」アンドレスは、頷いた。アパサは、さらに続ける。「だが、この国はアンデス山脈が連なり、高地や山が連綿としている。こうした土地柄では、高地を占拠することが、逆に命取りになることもある。なぜか、分かるか?」アンドレスは再び頷いて、地勢図の中の一つの山脈の周りを指でなぞった。「高地の周りにあるこの低地を敵に占領されてしまったら、高地に陣を張った部隊は包囲されてしまいます。しかも、後方にも山々があり、かえってそれが障害物となって、退路を絶たれてしまいましょう。」「そうだ。そうなると、どうなる?」「味方の補給は絶たれ、降伏せざるを得ないと思います。」アパサは、冷ややかな声で問うた。「そうなったら、おまえは敵に降伏するのか?」アンドレスは蝋燭の向こうで、冷たい眼差しを向けている師の顔を見た。「実戦は必ずしも理屈は通らぬことがある。場合によっては、不利になることを承知で、この地形でも高地に布陣を敷かねばならぬ戦況も出てくるだろう。」アンドレスは息を詰めた。「まあ、いい。」と、冷たく言ってアパサは再び地勢図に視線を戻した。「もし高地にいて周囲の低地を優勢な敵に占拠されるようであれば、機先を制して下山し、後方陣地に撤退する必要がある。だが、それも、その土地の地形、敵の布陣にもよるのだ。」そう言いながら、アパサは地勢図を丸めて元の場所に戻した。「山岳戦をやるには、柔軟防御を実施できるだけの指揮能力が必要だ。つまりは、それだけ山岳戦は難しいということだ。」そして、いぶかしそうにアンドレスを見た。その目は、「果たして、おまえにそれが指揮できるのか?」と、言わんばかりの色だった。
2006.04.23
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そして、冬が訪れても、アンドレスの特訓は変わらず続いた。むしろ、その内容はいっそう熾烈なものとなっていた。この頃になると、アパサは自分の部下たちをも呼び寄せ、複数の人数での切り合いを行わせるようになっていた。中央にアンドレスを立たせ、その周りに円陣のごとく、腕の立つ部下たちを6~7名並ばせる。そして、周囲の者がランダムに中央のアンドレスに向かって切り込むというものである。すべての敵を倒すまで、アンドレスは戦い続けなければならなかった。しかし、相手はアパサのもともとの訓練下にある精鋭たちであり、そのような相手に複数でかかってこられては、太刀打ちのしようもなかった。闘っているうちに、次第にある種のトランス状態になってくる。そこまでくると、時に不気味なほど技が冴えることもあるのだが、ある点を超えるとついには意識がプツッと途切れてしまう。特訓中に幾度も意識を失いながらも、その過酷な円陣訓練は続けられた。さすがに、この頃になるとアンドレスも精神的に打たれ強くなっていた。もともと永きに渡り侵略者に理不尽に虐げられてきたインカに人々は、表に出す出さぬは別として、反骨精神が強かった。さらに、アンドレス自身その素養として、その純粋さが故に、己の信念に反するものには真っ向から立ち向かう闘争的側面を多分に有していた。それらが、アパサの指導によって、良くも悪くも刺激され、開花していった。今や、どれほど敵に倒されようとも、立ち上がっていく底力をいやがおうにも体得しつつあった。ところで、今でも、早朝の雑巾がけは変わらず続けられていた。冬の水は指がちぎれるほどに冷たかったが、この頃になると、アンドレスはこの作業に単なる手首の筋力強化に留まらぬ意味を見出していた。早朝のまだしんと静まり返った館で黙々と床を拭いているとき、不思議と彼の心は静かに澄んでいく。余計な複雑なこと、雑念は、どこか遠くに消えていく。頭も心も無になっていく瞬間だ。彼にとって、今やこの早朝の日課は、意図せずとも「無心」を体得するための、願ってもない自己鍛錬の場でもあったのだ。アンドレスは、そろそろ1年になるアパサの特訓を通して、自らの心の動かされやすさというものを嫌になるほど自覚していた。元来の感受性の豊かさは、これまで生きてくる中で、表面に隠された物事の本質を見極めるために大いに役立ってきたものではあった。しかしながら、それと共に、今やいかなる状況にあっても、常に己の心を平静且つ冷静に保つことのできることが必要でもあることを認識していた。人に勝つ理をいかに学ぼうとも、まずは己に勝てなければならない。そうした不動心を鍛えること…――アンドレスは身体的な技の向上と共に、そのことをこの後の訓練の眼目の一つと自ら定め、日々の訓練に臨んでいった。
2006.04.22
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さらに時は流れ、アンドレスがアパサの元に来て、はや半年が過ぎていた。最近では、アパサは自らも棍棒を手に、アンドレスの相手をするようになっていた。アパサの攻撃は常に、アンドレスにとって、単にその技術的な未熟さを突きつけるに留まらず、むしろ心理的に突き崩してくる種類のものだった。アパサは、アンドレスに対して、己の攻めが利く部分は敢えて攻撃してこなかった。そのかわりに、アンドレスが最も得意とする技や、最も強い部分、そして、アパサにとっては切り込みにくいであろう部分を、逆に狙って攻めてくるのだった。アンドレスにしてみれば、常に自分の自信のあるところを攻め立てられ続けるため、逆に、心を攻め込まれた状態になってくる。そのようなアンドレスの心の恐れや惑いをアパサは瞬時に読み、後は軽く裁いてあっさり勝利した。アパサは冷ややかな眼差しで、アンドレスを見下ろした。「単にやれと言われたことを言われた通りにやっているだけでは、強くなどなれないぞ。常に、頭を使え。技の問題だけではない。敵の心を攻め切って、勝て。」アンドレスは、幾度となく聞かされてきたアパサの言葉に、苦々しい思いで「はい。」と答える。「これは単に戦場だけのことではない。どのように強大に見える敵でも、常に隙が無いなどということは絶対に無い。相手の心を読み、相手の嫌がることをしろ。」アンドレスはアパサを、改めて見上げた。アパサの目は不遜ではあったが、ひどくまじめでもあった。「敵を切るには、何が必要か。それは、敵を崩すこと。では、どうすれば崩れるのか?常にそれを考えろ。いいか。これは、戦場だけのことではない。」そして、少し言葉を区切って、再び続けた。「おまえもだが…、トゥパク・アマルも、俺から見れば、あまりに真っ向からクソまじめにいきすぎる。時に、廉潔は命取りになる。それだけではない。味方さえ危険に晒しかねないのだ。」そして、アンドレスを改めて見据えて言う。「アンドレス、おまえはもっとずるくなれ。」アンドレスは返事に詰まった。が、何か、アパサは重要なことを言おうとしているのだ。武器を手にしたまま、アパサは空を見上げた。「そろそろ、また冬がくる。トゥパク・アマルはいつ動くのか…。」アパサは独り言のように呟いた。アンドレスも、つられるように空を見上げる。乾いたこの土地の秋空は、まるで吸い込まれそうに高く、眩暈を誘うほどに澄んでいた。
2006.04.21
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そこには、ドアを開けかけたまま、固まったようになっているアパサの姪、アンヘリーナの姿があった。床の上には、色とりどりの夏の野の花が、撒かれたように散らばっている。多分、彼女は摘んできた花を生けにきて、いるはずのないアンドレスと鉢合わせてしまったのだろう。アンドレスはすぐに状況を察して、「驚かせてすまない。怪我をしてしまって、手当てに来ていたのです。」と、アンヘリーナを気遣うように、優しい声で言った。「私こそ、すいません…。ノックもしないで…。いらっしゃると思いませんでしたので。」と、かすれた声で答えると、アンヘリーナは跪いて落とした花を拾いはじめた。彼女はすっかりびっくりしてしまったのか、まるで震えているかのように儚く見えて、アンドレスは心配になってしまった。彼はドアの方まで行って、一緒に花を拾った。「驚かせてしまって、すまなかったね。」アンヘリーナは殆ど顔も上げられないような状態で、「とんでもございません。」と、小さく呟いた。その時、彼女は、はじめてアンドレスの怪我に気付き、はたと顔を上げた。「アンドレス様、その腕…!」アンドレスは苦笑して、「情けないことです。自分で、自分の腕を打ってしまうとは…。」と、ありのままを話した。アンヘリーナは顔を上げたものの、逞しく鍛えられた上半身をはだけたままのアンドレスを直視できず、さっと恥らうように目をそらした。アンドレスも、アンヘリーナの様子にハッとして、急いで上着を羽織った。暫し、沈黙が流れる。「手当ていたしましょう…。」アンヘリーナは小さく呟くように言うと、アンドレスの左腕から丁寧に血を拭き取り、引き出しの中から薬草を取り出して塗ると、器用に布で巻いて仕上げた。彼はアンヘリーナの手際良さに感心しながら、「ありがとう。」と心をこめて礼を述べた。アンヘリーナは伏し目がちなまま、「いえ…、当然のことですわ。」と小さく答え、アンドレスからスッと離れると、先ほど落とした花を丁寧に整えて窓辺に生けた。「いつも、花を、どうもありがとう。」アンドレスの言葉に、アンヘリーナはうつむき加減なまま、しかし、そっと微笑んで、深く礼をすると急いで部屋を立ち去った。アンドレスは窓辺に生けられた花に目をやった。可憐な野の花が、夏の光の中でキラキラと繊細な光を放っていた。
2006.04.20
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実際、日々、何千本と振っているうちに、次第に体が勝手に動くようになっていく。アンドレス自身も、莫大な数をこなすうち、いちいちアパサの指導を待たなくとも、次第に自ら発見し、手応えをつかめるようになっていた。まず、瞼のスクリーンに敵を映し出す。棍棒を振り上げ、そして、振り下ろしてくるまでの間、その瞬間は手の内を緩めておき、切り込むまさにその瞬間、しかと手の内を締める。そして、武器の先端まで完全に意識し、神経を突き刺すように切り込む!――その時、非常に冴えある攻撃が生まれるのだ!!それは、まさに百錬自得の境地でもあった。アンドレスは、一本一本に渾身の思いを込めて振り切った。そうした彼の熱心な取り組みに、アパサの指導もさらに熱を帯びていく。だが、決して、アパサは甘い顔は見せなかった。アパサは、戦場での生死を賭けた戦いの、恐ろしいまでの緊迫感を認識していた。生死を分けるその場面は、互いにとって身体的にも、精神的にも、最も苦しいタイミングでやってくる。そこで切れるか切れないか、が生死を分けるのだ。常に「苦しい時の一太刀」を追求していなければ、実戦には役立たない。実戦経験の無いアンドレスに、その感覚をつかませるのは容易ではなかった。訓練を戦場のごとくに緊迫したものとするためには、訓練場面においても自ら緊迫感を捻出するしかない。一流戦士というのは、そうした自らのテンションの高め方が上手いのだ。「まだまだ、甘い!常に、己の持てる最大限のパフォーマンスで切っていけ!!」今日も、相変わらず、アパサの檄(げき)が館の裏手から響いていた。夏の炎天下の日差しの中での特訓は特にきつかった。高地で空気も薄いためか、紫外線もやたらと強く感じられ、正午すぎの光はまるで突き刺すかのようである。この季節のこの時間帯は、アパサは商用を都合よく理由にして、決して現われない。その代わり、アンドレスには、この時とばかりハードな訓練メニューを言い渡していく。アパサにしてみれば、適当に手を抜くことも覚えろ位の感覚だったろうが、アンドレスは健気にも、というか、手を抜くなど考えもせず、普通に見たら意地悪と思える程のハードなメニューをきっちりとこなしていた。だが、さすがにこの日の日照りは尋常ではなかった。素振り3000本の最中に眩暈を感じ、思わず手元が狂い、右手で振った棍棒で自らの左腕を打ってしまった。慌てて左腕を確認する。幸い、傷は浅いものの、意外と出血が多い。とりあえず、止血して応急処置をしておかねば。アンドレスは急いで自室に戻った。部屋の中は明るい夏の午後の光に溢れている。このような昼間の時間に自室に戻ってくるなど、この館に来て以来数ヶ月も経つのに、全く初めてのことだった。アンドレスは珍しそうに見慣れぬ真昼の自室を眺めながら、左腕の血をしっかり拭くために急いで上衣を脱いだ。その時だった。ドアの方でバサバサと何かが落ちる音と共に、人の気配を感じた。アンドレスはハッとして、そちらを振り向いた。
2006.04.19
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そして、翌日。いつもと変わらぬ厳しい特訓の日々は続く。なお、当然ながら、日々の走り込み、筋力トレーニング、素振りなども重要な訓練の一部であったが、アパサの課したそれらのメニューは、これまた尋常ではないハードなものだった。まずは、走り込み。これは、主に坂道を利用して、50メートル程の距離を50本のダッシュというもの。行きは全速力で坂道を駆け上り、下りはジョギングで呼吸を整えながら戻り、スタート地点にきたら再びダッシュ、というのを繰り返すものである。坂道走は、主に脚力を鍛えるためのものだが、その他、持久力やスピードを鍛えるためのランニングやインターバルダッシュも、当然、欠かせない。アパサの館があるシカシカの集落界隈は、標高3800メートルという世界で最高所にある湖、かのティティカカ湖の近隣の地である。アンデス地帯でも特に高地にある当地での薄い空気の中での走り込みは、決して楽なものではなかった。次に、筋力トレーニング。一言で筋力トレーニングと言えども、どこまで突き詰めるかによって、その奥は深く、はっきり言って切りがない。例えば、サーベルなり、棍棒なり、武器を強く速く振るためには、腕力や肩の筋肉をつけようと考えがちだが、今度はその筋肉を支えるための腹筋・背筋が必要になってくるし、さらには上半身を支える下半身の筋肉が必要になってくる。どこを鍛えるかによっても、腕立て伏せ一つさえ、その仕方が異なってくるのだ。単純に腕立てでも、やりようによって使う筋肉が違うため、当然鍛えられる場所も変わってくる。腕立てで腕を広く取れば胸筋が鍛えられ、狭く取れば腕力が鍛えられる。また、手のかわりに拳で付けば、手首を鍛えるのに効果的である。アパサは、筋力トレーニングにおいても、その内容はかなりハードながらも、日替わりでメニューを組み替えてアンドレスの実践の継続をさりげなく助けた。すっかり毎朝の日課となった雑巾がけでの雑巾絞りも、手首の筋力を高めるための有効な手段だが、それに加えて、棍棒の8の字回しも頻繁に訓練に使われた。それは、棍棒を片手で握り、「横倒しの8(∞)」に振り回し、そして、何度か振り回した後に相手の急所の位置でピタッと止めるという一連の動作を繰り返すものである。一見、単純な動作だが、4キロ程度の重量がある棍棒でそれを行うことは、決して容易なことではない。そして、もちろん、素振りは絶対条件である。諸手と片手とを合わせて、毎日、最低3000回の素振りを行う。はじめは、それこそ腱鞘炎にもなったアンドレスだったが、徐々に回数を増やしながら日々継続する中で、やがてそれほど難なくこなせるようになっていった。訓練とは、本気で取り組めば、実際にその身となり、血となるものなのだ。もちろん、ただ漫然と素振りをしていては、いくら数をこなそうとも上達などないわけで、攻め方、入り方、間合いの遠近も含めて常に工夫していかねば意味はない。仮想の敵を想定し、「一本一本、切りきれ!」が、アパサの口癖だった。
2006.04.18
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アンドレスの特訓は、アパサの指導から自主練習も含めて、毎日、早朝から夜遅くまで続いた。武術のみならず、夕食後にはアパサ直々に戦術の指南も行われた。殆ど息つく間もないほどハードなスケジュールではあったが、アパサの熱心な指導にアンドレスは次第に深い感謝の念を抱きはじめていた。実際、トゥパク・アマルの反乱の決行が、すぐそこまで迫っているかもしれなかった。残された時間は、決して多くはないと思われた。だが、まだまだ身につけねばならぬことばかりだった。アンドレスは夜遅く自室に戻ってくると、再び鏡の前で自分の動きを細かくチェックした。そして、一日の最後の残された時間を、書棚に山のように並べられた戦術の書物を読むことに費やした。いずれも、しっかりと読み込まれた形跡のある書物ばかりである。恐らく、かつてアパサが愛読した戦術の指南書なのだろう。アンドレスは机に座り本のページをめくりながら、しかし、大抵、すぐに睡魔に襲われて、たちまち深い眠りに落ちかける。今も、本に指をかけたまま朦朧としていたことに気付き、彼は睡魔を払うようにして首を振り、そして、何とか寝具に着替えた。しっかり寝ておかねば、ハードな明日の一日を乗り越えられない。蝋燭の灯りを消そうとして、ふと、彼の視線が窓辺の花にとまる。窓辺には、可憐な淡い色合いの野の花が、そっと飾られている。アンドレスは蝋燭を消すのを少し待つことにして、ベッドの端に腰掛け、その優しい花を眺めた。アパサの姪のアンヘリーナが、アンドレスが訓練中に部屋を開けている間、毎日摘んできては、そっと生けてくれているのだった。胸の内に、何か熱いものが込み上げる。アパサにも、アパサの妻にも、そして、アンヘリーナにも、そして、この館の他の人々にも、それぞれの形で、まるで包まれるようにあたたかく見守られていることを感じる。アンドレスは、心からありがたいと思った。明日も頑張ろう…、彼はその花に静かに微笑みかけて、蝋燭の灯りを消した。
2006.04.17
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アンドレスは自らの気力の高まりを実感していた。そんな彼が早朝の日課の雑巾がけを済ませると、アパサもまた、商用の客人のいない隙を見計らっては、アンドレスによくつきあった。「頭から突っ込んでるぞ!」「腰がひけてる!足が出てない!」「右手で棍棒を握り締めすぎっ!」「…ったく、何度も言わせるな!!」館の裏手の空き地の方からは、始終、アパサの厳しい声が館の方まで響いていた。そんな毎日のことに、アパサの妻も、アンドレスの護衛の者たちも、心配そうに遠巻きに見守っていたが、思いもかけず熱心なアパサにここは委ねようという空気になっていた。構えから、移動、そして仮想の敵を切る、その一連の動作をさせながら、「腰から移動!腰から前!」と、掛け声なのか叱責なのかわからぬ調子でアパサの厳しい声が飛ぶ。重い棍棒を手に、何十回となく移動しては切る、という一連の動作を繰り返すアンドレスの額からは幾筋もの汗が流れていた。息も荒くなっている。「止まれ。」アパサは、低い声で言う。ゆっくりと動作を抑えていくと、いっそう汗がほとばしり出る。アンドレスは額に張り付いた前髪の隙間から、アパサの方に視線を上げた。肩で激しく呼吸をしながらも、だが、まだその目は死んでいない。アパサは、アンドレスの目の色を確認するように見下ろし、「自分の右胸を突くようなつもりで、前に出てみろ。」と、静かな声で言った。アンドレスは、アパサの言葉通りに実行してみる。次の瞬間、棍棒が鋭い音と共に、火花を散らして宙空を激しく切り裂いた。アパサは深く頷いた。「よし。その感じだ!」アンドレスも、その瞬間、確かに手応えを覚えた。再び、構えから切り込みまでの一連の動作を繰り返すアンドレスの姿を、アパサは無言で見つめる。少しは形になってきたか。もともと、決して筋が悪いわけではないのだ。アパサは目を細めた。ただ、それ以上に、アンドレスの素直さと純粋さが、アパサの指導を、まるで海綿が水を吸い込むかのごとくに吸収していく素養となっていた。「止まれ!」アパサはアンドレスの動きを制し、それから、アンドレスの右手首を荒々しく掴んだ。「この右手で、棍棒を握り締めすぎている。もっと力を抜け。」「はい!」さっきから何時間位、宙空を切り続けてきただろうか。さすがに視界が霞んできて、朦朧とした意識のままアンドレスは返事をした。アパサは、そんなアンドレスの様子に頓着せぬふうに淡々と説明する。「手の先に頼るな。右腕の肩、ひじ、手首、その3つの関節をムチのようにしなやかに使うのだ。」そして、「そのためには、何が必要かわかるか?」と、さらに質問を投げてくる。アンドレスは既に思考力も無く、「それは…。」と、言葉に詰まる。「手首の筋力だ。おまえが毎朝していることだ。雑巾を絞るのは、手首を鍛えるのにはもってこいだ。」アンドレスは、霞んだ視界の中でアパサがいたずらっぽく笑うのを見た。それから、改めてアンドレスの目をまっすぐにアパサは見据えた。「可能性を信じきれ!それが、強くなるための第一の要件だ。」
2006.04.16
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切れ味のよい刃物のような鋭利な眼差しで、再びアパサがアンドレスを見る。「次!構えだ。」アパサの指示に従い、アンドレスは棍棒をサーベルに見立て、構えの姿勢をとってみる。今のアンドレスの筋力では、とても片手では扱いきれぬ代物だった。まだ、この異様に重い鈍器が手になじまない。アンドレスは、無意識に構えをつくり直した。その瞬間、アパサの険しい怒声が飛んだ。「一度決めた構えをつくり直すな!死ぬか生きるかという時に、構えをつくり直している暇などあるか。」そして、厳しい目でアンドレスを睨んだ。「いつでも、戦場にいると思え。」アンドレスの構えから切り込みに至る一連の動作を苦々しい表情で見ながら、「全く駄目!」とアパサは相変わらず手厳しい。確かに、口は悪いし、荒っぽい男ではあったが、しかし、アパサの指導は思いのほか丁寧なものだった。「腕を使って敵を切る、確かにそうかもしれん。だが、その腕を支える上半身を動かすのはどこだ?それは、下半身、足の力だ。地に正しく立ち、地を足が押し、そのエネルギーが武器の先まで有効に伝わるように振れ。さっき言ったのは、このことだ。それこそ、無駄の無い攻撃に通じる近道なのだ。」そして、言葉を継いだ。「足で、切れ!!」それから、さらに少し間を置いて、アパサは鋭い眼差しを向ける。「立ち方、足さばきが、どれほど重要かわかってきたか?まさに、基本こそが奥義なのだ!!おまえにもいずれ、そのことが分かる日がくるといいがね。」と、含みをもたせて言葉を切る。そんな風に言いながらも、自ら手本の動作をとって見せるアパサの一挙手一動を、一つも見逃さぬ、聞き逃さぬ、とばかりの真剣な眼差しでアンドレスは力強く頷いた。こうして、基礎の基礎から徹底的に叩き込むアパサの特訓がはじまった。基本こそが奥義…――アパサの言葉に、アンドレス自身の中でも、稽古への意気込みは高まっていく。その境地を己の体と心で、しかと体得してみたい!!
2006.04.15
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「サーベルは、この後、ここでは決して使うな!」最初に口火を切ったのは、アパサの方だった。「あんな軽い物を持っていたら、筋力がつかないばかりか、衰えるぞ。」なるほど、それでこの重々しい棍棒を使えと…アンドレスは、納得した。「これからは、その棍棒をサーベルだと思え。」アンドレスは頷き、改めて、アパサに与えられた棍棒を見下ろす。サーベルは、長さとしてはほぼこの棍棒と同じ位だが、重さはといえば、せいぜい重いものでも2キロ半…、それに比べれば、この手にあるものは随分重い「サーベル」だった。だが、アパサの意図についていくのみ。アンドレスは、がっちりと、その重厚な鈍器を握り締めた。「なぜ、おまえが弱いのか、わかるか?アンドレス。」アパサが初めて自分の名を呼んだことを、アンドレスは聞き逃さなかった。アパサはアンドレスの答えも待たずに、「基本が全くなっていないからだ。」と、あの冷ややかな声で続ける。そして、「武器を置け。」と指示して、アンドレスの1メートル程前に立った。「まず、立ち方からだ。構えるつもりで立ってみろ。」アパサの言葉に素早く応じたアンドレスの立ち姿を、アパサは厳しい目でじっと観察する。実際、アンドレスの場合、体型的なバランスはかなり良い。きちんと、左右の足に等分の力も入っている。アパサは頷き、「どうしたら、もっとバランスを高められると思う?」とおもむろに質問を投げてきた。「重心を低めることでは?」というアンドレスの答えを、手で振り払うようにして、「そんな抽象的な答えではない。」と制してから、息を深く吸い込んだ。「『気』を下に落とすのだ。いいか、息を深く吸う、それを丹田にスッと溜める。」アンドレスはアパサの指示のまま、実際にやってみる。確かに、重心、というか、自分の中心が、すっと体の中央におさまる感覚がする。アパサは再び頷いた。「そうだ!そして、地面をしっかりと足裏でとらえる。」それから、「どうだ?地中からのエネルギーが伝わってくるのが感じられるだろう。」と、輝くような力の漲る眼差しでアンドレスの顔を覗きこんだ。アンドレスは、これまでとは違うアパサの表情に、力強く頷いた。武将としての自信に溢れた声で、アパサが続ける。「そうだ!そして、そのエネルギーを攻撃のパワーに転化するのだ!!」
2006.04.14
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「ご案じなきよう。アパサ殿のお考えなれば、きっと意味のあることなのです。」放心しているバルトリーナにそう言って笑みを返すと、アンドレスは再び、その生まれてはじめての雑巾がけに意識を集中させた。『よおく、雑巾は絞って拭くんだぞ!』アパサの言葉通り、彼は念入りに雑巾を絞った。絞りながら、考えた。何か意味があるはず…そうアンドレスは信じようとしていた。というか、そうでも思わねばやっていられなかったのだ。自分のプライドのギリギリのところをアパサは非常に巧みに刺激してくる、そのこともアンドレスは既に察知していた。呑まれてなるものか!!アンドレスは、再び、ギュウウッと水を含んだ雑巾を両手で力強く絞った。彼の指の間から、汚れを含んだ水が、バケツの中にザーッと勢いよく流れ落ちていった。アンドレスが一通り館の雑巾がけを終わった頃、アパサは見計らっていたように商用を抜けて彼の前に現れた。そして、美しく磨き上げられた床を見渡しながら、「よしよし、綺麗になったな。」と、意外にも満足そうに頷いた。「よく絞って拭いたか?」「はい。」アンドレスはしっかりと返事をした。アパサは「よし。」と言ってから、「明日は、今日の倍の力をこめて、今日の倍位の回数は雑巾を絞って拭け。」と付け加えた。アンドレスは、もはやその理由などは聞かず、「はい。」と、ただ返事を返した。答えは、自分でみつけるものなのだ。それから、アパサは、恐らく本当に仕事が忙しいはずだったが、商用の客人のいない隙を見て、アンドレスを昨日と同じ館の裏手の空き地に連れていった。そして、昨日と同様、例の武器庫にアンドレスを連れていくと、今日はアパサ自ら武器を吟味して、一本の厳(いか)つい棍棒を抜き取った。それは1メートル数十センチは優にある、長めの鉄製の棍棒だった。見るからに危険な鈍器という印象で、先端の打突部には、棘付きの球体(星球)が1個ついている。アパサは武器庫の奥の引き出しから、さらに星球を2個取り出し、その棍棒の先端にしっかりと取り付けた。そして、その棍棒の全体的な長さや重さを暫し慎重に吟味した後、まるで捧げ持つかのようにして、それをアンドレスの前に差し出した。アンドレスも両手で恭しく、その厳しい棍棒を受け取った。ズシリとした重さが腕に伝わる。少なく見積もっても、4キロ程度の重量はありそうだ。それから、二人は再び武器庫を出た。そして、空き地の中央で対峙するように、立った。再び勝負をするつもりだろうか?棍棒を握るアンドレスの指に、無意識に力がこもる。
2006.04.13
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朝食をすませると、アパサは早速、アンドレスを館の隅にある納屋へと連れていった。そして、中に入ると、一組のバケツと雑巾を取り出した。「ほれ。」と、アンドレスの前にそれを突き出す。アンドレスは訳のわからぬまま、それらを受け取った。「俺は、お前のお相手ばかりしていられるほど、いい身分じゃあないんだ。家業の商売も、はっきり言って繁盛していて、十分に忙しい。だから、基本的には、自分で、自分を鍛えろ。」「それは、わかりますが…。」しかし、そのことと、これらバケツと雑巾が、一体どうつながるのか。そんなアンドレスの様子に、アパサは苛々しながら「お前は頭も悪いのか!」と、相変わらずひどく口も悪い。「これから、毎朝、館の床をそれで拭け。」アンドレスは耳を疑った。そんな様子にはお構いなしに、アパサはさっさと一人で館の方に戻りはじめる。バケツを手にしたまま、アンドレスは急ぎアパサの後を追う。「これは、どういう意味でしょうか?」アパサは例の冷ややかな眼差しで一瞥し、「それくらい、自分で考えろ。おまえ、さっき、何でもすると言ったろう。」と、感情の無い声で答えた。それから、「よおく、雑巾は絞って拭くんだぞ!」と、妙に力をこめて念を押し、それから、さっさと館の一角にある仕事場へと消えてしまった。仰天したのは、アパサの妻バルトリーナだった。ふっと家業の手を休めて顔を上げると、あの『トゥパク・アマル様、ならず、インカ皇帝様の甥であるアンドレス様』が、自分たちの館の床を雑巾で磨いているではないか。目を見張っていたのは、バルトリーナだけではなかった。アンドレスのおつきの護衛官たちは当然だし、アパサの部下たちさえも、『皇帝陛下からおあずかりした若様』が館の床を雑巾で拭いている姿に顔を青くした。アンドレスの護衛官たちなどは、昨日の無謀な挑み合いから、既にアパサへの不信感を募らせていたため、この期に及んでは、もうすっかり気色ばんで、客人と商談にいそしむアパサの方をはっきりと睨みつけていた。バルトリーナは、アンドレスの方に素っ飛んでいった。「アンドレス様、どうか、このようなことはお止めくださいませ!!」真っ青な顔をしているアパサの妻の方に顔を上げたアンドレスの表情は、むしろ落ち着いたものだった。「拭き方は、こんな感じでいいですか?」逆に質問されて、バルトリーナは言葉も失って、「はあ。」と気の抜けた声を漏らした。
2006.04.12
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アパサは再び酒をあおり、そのままカップを勢いよくテーブルに置いた。そして、まじめな顔になってアンドレスの目を見据えた。アンドレスも、アパサの目を挑むような険しい瞳で見返した。アンドレスのその瞳は怖いほどに純粋で、吸い込まれそうなまでに澄んでいる。アパサは、アンドレスの目を無言で見据え続ける。アパサの心の奥まで貫くかのごとくの真剣な眼差しで、しかし、深く瞳で礼を払い、アンドレスは言った。「アパサ殿。どうか、今後もご指導を、よろしくお願いいたします。」アンドレスの声は深く、低く響き、その決意の色がはっきりと見てとれた。アパサはアンドレスの瞳を見据えたまま、しかし、微かにその目を細めた。確かに、この若僧、トゥパク・アマルに、どこか似ている…――その内側にあるものが…。「どんなことでもするか?」おもむろに、アパサは言った。しかし、その声は、今までの皮相で茶化したものとは明らかに異なっている。「はい。どのようなことでも!」アンドレスは、きっぱりと答えた。アパサはアンドレスの目をまだ見据えたまま、再びカップを握りチチャ酒をすすった。「おまえをどうするか、決めるのは俺だ。おまえの出来次第で、いつでもお帰りいただく。」アパサの目はまじめだった。しかし、その返事は、とりあえずアンドレスを受け入れる内容には違いなかった。「はい!!ありがとうございます!」アンドレスは若者らしい元気な返事を返して、アパサの前で初めて笑顔を見せた。その笑顔には、周囲の空気を一変させてしまうような、あの湧き立つ華やかさがあった。
2006.04.11
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ちなみに、アンドレスにとって修行の場となるこのシカシカの集落は、かの有名なティティカカ湖近隣の地にあり、トゥパク・アマルらが住む「ペルー副王領」に隣接する「ラ・プラタ副王領」の、4026メートルという高所にある。同名のシカシカ郡の首府であり、南はペルーとの国境のデサグワデーロ、南東はオルーロ、パリア、東はコチャバンバ、北西はラ・パスの諸郡と接している。北から北東にかけて、東コルディエラ山脈に臨む方面は農産物がよくでき、果物、特に、葡萄、コカ、タバコ、木材の産地として知られる。酸素の薄い高地に住まうインカ族にとって、その鋭気を高めてくれるコカは当時から人々に愛用されており、シカシカはその産出のおかげで比較的裕福な地域であった。そして、アパサもまた、表面上はコカや服地を商う豪商を装っていた。かのトゥパク・アマルが商隊を組んで多数のラバを従えて旅をしていたことが、嫌疑の目を逃れて反乱を組織するのに役立ったのと同様に、このアパサも商人であったことは、その反乱準備をスペインの役人の注意を引かずに進める上で大いに役立っていた。アンドレスは身だしなみを整え、部屋を出て階下へと向かった。既にアパサは起きていて、広間のテーブルで朝食をとっている。「おはようございます。」アンドレスの挨拶に、アパサは黒っぽい麦芽の塊のようなパンを豪快にかじりながら、ちらりと目を上げた。「おはよう。」アパサも挨拶を返し、「座れ。」と、テーブルの向かいにアンドレスを座らせた。「アンドレス様、おはようございます。」ニコニコとアパサの妻バルトリーナが挨拶をしながら、新鮮な果物がふんだんに盛られた朝食を運んできてアンドレスの前に並べた。アンドレスもバルトリーナに挨拶を返す。アパサはチチャ酒を片手に、アンドレスに「食え。」と勧め、それから、「お前、これからどうする?」と問う。アンドレスはその問いの意味をにわかには掴みかね、朝から酒を呑んでいる眼前の男の顔を見た。アパサは酒をあおった。「ここを出て、故郷へ戻るか?」アンドレスは不審そうに目を細めた。「どういう意味です?」「いやなに、身の程を知ったかと思ってね。」アパサは、わざとらしくニヤリと笑う。アンドレスはやっと立て直そうとしている気持ちをまた突き崩そうとしている目の前の男に、険しい眼差しを向けた。「アパサ殿。俺は、武人としての技量を身につける覚悟でここに参りました。まだ何もしていないうちに、逃げ帰る気はありません!」それは、まるで自分自身に言い聞かせ、叱咤するような口調だった。アパサは両手を軽く上げて、おどけたような降参のポーズをとって、「まあ、そう堅苦しく考えるな。」と、ニンマリ笑う。「おまえ、そのクソまじめなところは、トゥパク・アマルにそっくりだな。」アンドレスは、アパサがトゥパク・アマルを呼び捨てにしたことに、怒りというより、唖然として、それから、「そっくり…?」という言葉を小さく反芻した。
2006.04.10
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翌朝、東側の窓からまばゆい朝日が差し込む頃、アンドレスは目を開けた。身を起こし、自分の体の様子を確かめる。さすがに若いアンドレスは、一晩しっかりと休養をとったおかげで、体の痛みも体力もかなり回復しているようだった。彼は勢いよくベッドから飛び出し、窓を開けて晩春の朝の風を吸い込んだ。そして、昨日は全くそんな余裕もなかったが、今は、与えれた部屋をゆっくりと見回すことができた。巨大な丸太を何本も組み合わせて造られた壁は堅固で重厚な雰囲気があり、部屋に置かれたベッド、机、本棚などの家具も、いずれも素朴な木造りながらも、どっしりとした重量感と格調高さを感じさせるものばかりだった。本棚の前に行ってみると、そこには戦術の書物がぎっしりと並んでいる。二階にあるその部屋は明るい陽光がふんだんに差込み、窓からは乾いたこの土地に所々林立する瑞々しい緑の木々が広々と見渡せる。多分、この館でも、特別に良い部屋に違いなかった。自分が大切な客人として礼をもって扱われていることを、アンドレスはこの時、はじめて認識した。この土地の有力な豪族でもあるアパサの館は、シカシカの集落の郊外にあり、広々とした敷地を有している。隣接する他の館までの距離も遥かに遠く、この館から臨む荒涼としつつも雄大な風景からは、このシカシカの集落が、実は商業の盛んな賑わいある町であることを忘れさせる。アンドレスは、早朝の爽やかな風を再び胸いっぱいに吸い込んだ。
2006.04.09
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「だって、アンドレス様の叔父上様のトゥパク・アマル様は、叔父様よりも、もっとお強いではありませぬか。」アンドレスは、アンヘリーナに改めて視線を向けた。「トゥパク・アマル様をご存知なのですか?」「叔父様からお話を聞かせてもらっただけですけれど。」「なんと聞いている?」アンドレスはやや身を乗り出すように、うつむきがちな少女の顔を覗き込んだ。「トゥパク・アマル様は、はじめて叔父様に会われた時、斧で果し合いをして、叔父様を負かしてしまったそうですわ。」「トゥパク・アマル様が、アパサ殿を?!」初耳だった。トゥパク・アマルから、アパサの元で修行してくるようにとは言い渡されていたものの、詳しい経過は全く聞かされていなかったのだ。思いに耽ったような目をしているアンドレスに、アンヘリーナは静かに礼をして「お食事をお持ちしますわ。」と言うと、淑やかな物腰で部屋を出ていった。アンドレスは蝋燭の影が揺れる天井を見つめた。トゥパク・アマル様は、あのアパサ殿に勝った…――。アンドレスの胸が熱くなった。彼の脳裏に、トゥパク・アマルの姿が甦る。最後に会った時、トゥパク・アマルはアンドレスをまっすぐに見つめて言った。『アパサ殿は、私が見込んだ、なかなかの優れた武将だ。そなたは、いずれ我々の反乱軍を率いる将となる運命にある者。その身に、そして、その心に、武人として相応しい技量をしかと身につけてくるのだよ。』(トゥパク・アマル様…!)アンドレスの天井を見つめる眼差しが鋭くなる。その瞳には、再び強い光が甦りつつあった。
2006.04.08
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アンドレスは痛みも忘れて、そちらを振り向き、釘付けられたようにその人を見た。「気がつかれましたか、アンドレス様。」安堵したように人影が言う。はっきりとしてきた視界の中で、彼をそっと見下ろす少女は…それは、全く知らない人だった。(こんなところに、コイユールがいるわけがないのに…。)アンドレスは、心の中で寂しく苦笑した。そして、改めて、目の前の少女に視線を向けた。アンドレスは静かに話しかけた。「介抱して…くださったのですか?」 先ほどアパサに何発も見舞われた拳のために、声が出にくくなっている。少女は、息を詰めたまま、小さく頷いた。自分よりも少し年下くらいの清楚な雰囲気のインカ族の少女で、控えめながらも、そこはかとなく漂う華やかな雰囲気がある。その気配は、アンデスの地に原生する、小さく可憐な見かけにもかかわらず強い生命力を宿し、淡い桃色の優しい花を咲かせるアルストロメリア(インカのユリ)を思わせた。確かに、雰囲気が、どこかコイユールに似ているのだ。少女は、恥ずかしそうに、少し伏し目がちなまま、アンドレスをそっと見た。「お加減は、いかがですか?」「あなたは?」「私は、アパサ様の姪、アンヘリーナと申します。叔父様から、アンドレス様のご滞在中のお世話をするようにと…。」そして、静やかに頭を下げた。「そうですか。いや…まいったな。」アンドレスは苦笑した。「あの荒々しいアパサ殿に、あなたのような姪御さんがいらしたとは。」それから「お世話になります。」と、首を動かしてアンドレスも丁寧に礼をはらった。それだけの動きでも、首から肩、そして背骨の方まで激痛が走る。「あなたの叔父上は、お強いですね。」アンドレスは苦々しい思いを噛み締めつつも、一方で、いや、俺が弱すぎるのか…と、心の中で虚しく呟いた。アンヘリーナと名乗ったその少女は、アンドレスの心の声を察するかのように、「叔父様は、武人としての腕だけは、このあたりでは右に出る者がないほどお強いのです。」と慰めるように答える。そして、優しく微笑みながら、控えめな声で続けた。「叔父様に武術を学ばれたら、きっとアンドレス様は叔父様を凌ぐような立派な武将になられますわ。」アンドレスは自分の心を見透かされたような、どこか決まり悪い気持ちで、「そうだろうか…。」と感情の無い声で答えた。
2006.04.07
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それから2~3時間が過ぎた頃だろうか。アパサの館の中に彼のために用意された一室で、ベッドの上に身を横たえたまま、アンドレスの意識はゆっくりと戻りつつあった。意識が戻っても、目を閉じたまま、身動き一つせずに横になっていた。実際、ひどく全身が痛んで、動く気にすらならなかった。しかし、そんな身体的な痛みなど、心の痛みに比べれば些細なことだった。何という過信…――!!アンドレスは、自らの内側に築き上げてきたものが、すべて音を立てて崩れていくのを感じていた。自分はこれまで一体、何をしてきたのだろうか。まるで井の中の蛙だったのだ。なんという愚かさ…!アンドレスの閉じた瞼が微かに震えている。その時、ふと近くに人の気配を感じた。アンドレスはゆっくりと重い瞼を上げていく。すっかり夜も深まった薄暗い室内を、数本の蝋燭の光が音も無く浮き立たせている。彼は痛みのために首を回せず、目だけ動かして、ぼんやりとした視界をたどっていった。ベッドから2~3メートル離れたドアの近くの椅子に、ひっそりと佇む人影が見える。まだ霞んだ視界の中で、しかし、アンドレスは目をこらした。その瞬間、彼は目を疑った。長く編んだ黒髪を華奢な肩の前に垂らして、涼やかな瞳に優しい眼差しを宿し、息を詰めてこちらを見守る一人の少女の姿がそこにあった。それは、コイユールの姿だった。「コイユール…?!」アンドレスは、かすれた声で呟いた。すると、その人影はハッとして椅子から立ち上がると、ゆっくりと、慎重に近づいてきた。
2006.04.06
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辺りは水を打ったように静まり返った。既に、茜色の空は、夜の群青色に変わりつつある。一陣の渇いた冷たい風が、二人の間を吹きぬけていく。肩で息をしながら呆然と地に落ちたサーベルを見下ろすアンドレスの額からは、玉のように汗が流れ落ちていた。一方、アパサはいっこうに息も上がっておらず、汗一つかいてはいない。アンドレスは混乱した頭で、アパサを見やった。そのアパサは、非情なまでに冷ややかな視線で、アンドレスを見下ろしていた。「スペイン人の神学校では、剣さばきの一つもまともに教えられていなかったようだな。それもそうだろう。スペイン人にしてみりゃ、インカの皇族に剣の技など覚えられては、己の首を絞めることになるだろうからな。」そう言って、鼻で笑った。アンドレスの耳がカッと紅潮する。そのアパサの言葉は、アンドレスの腕がいかにひどいものであるかを露骨に皮肉ったものだった。だが、冷静に考えれば、アパサの言葉にも、実際、一理あった。しかし、常に類いまれな優秀さと言われ続け、学業面でも運動面でも、何事においてもトップを走ってきたアンドレスにとって、このような屈辱は、全くもって初めての体験だった。半ば理性を失って、アンドレスは血走った目でアパサを睨んだ。アパサは面白そうに、「ほお、やるなら相手になるぞ!」と、両手をバンバンッと叩いてわざとらしく挑発してくる。「言わせておけば!!」ついに、さすがのアンドレスも、箍が切れたように素手のままアパサに襲いかかった。アンドレスに押し倒される形で、アパサはそのまま勢いよく仰向けに地にひっくり返った。殴りかかってくるアンドレスの手首を捕えながら、アパサはニヤリと笑う。「見かけよりは、力は、少しはあるようだな。」しかし、その次の瞬間にはアンドレスの腕を引くと、あまりにもあっさりと十字に固めてしまった。腕を十字に固められて、アンドレスは痛みに歯をくいしばったまま、しかし、決して降参の合図を発しない。しまいにはアパサの方が呆れて、アンドレスの腕を放した。「こんなところで腕を折られたら、世話をするこっちが厄介だ。」アパサが吐き捨てるように言い終わるか否かという間に、再び、アンドレスが素手のまま飛びかかる。そのまま、そんな取っ組み合いが幾度繰り返されただろうか。気づくと、日はとっぷりと暮れている。乾いたこの土地の、晩春の夜は冷え込みがはやい。「寒くなってきやがった…。」さすがに汗と泥まみれになったアパサは、草の上に座り込んだまま澄んだ星空を見上げて呟いた。それから、自分の横ですっかり地面の上に伸びてしまっている若僧の方を見やった。アンドレスは、汗と泥にまみれた肌に、ところどころ血を滲ませたまま、意識を失っている。アパサはピュッと口笛を吹いて、闇の中から部下の者を数名呼び寄せた。「この手のかかるお坊ちゃんを、館に運んでやってくれ。」そして、自らも少々足をひきずりながら、館へと戻っていった。
2006.04.05
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彼は、にじりよってくる眼前の「師」を見据えた。(この男には手加減不要!いつものように切り込んでいくのみ!)心の中でアンドレスは自らを奮い立たせるように叫んだが、既に、アパサの気に呑まれ、その地底から湧き出すようなモヤリとしたオーラの中に、すべての力を吸い取られていくような錯覚に襲われていた。体が、動かない…――!?アンドレスの額から、さらに油汗が流れた。「どうした、はやく来いよ。」アパサはさらに間合いを詰めながら、まるで侮蔑するかのような眼差しでアンドレスの方を眺めている。アンドレスの鼓動が速くなる。どう動こうとも、もはや全てアパサの読み筋にはまっている!…――アンドレスはそんな念に憑かれた。しかし、このまま何もせずには終われぬ!とばかりに、アンドレスは、突如、矢のように鋭く切り込んだ。それは、もはや素手の相手に向かう攻撃ではなかった。しかし、アパサはあっさりと刃をかわし、「おまえ、目をつぶっているのか?」と、馬鹿にしたように鼻で笑った。まだ殆ど動いていないというのに、アンドレスの息は既に上がっている。再び身構えるアンドレスの前に、愚鈍にさえ見える動きで、アパサはさらに間合いを詰めてくる。アンドレスの目が険しくなり、鋭い光を放った。その目の色の変化に、アパサもこれまでとは少し違う色で見返して言った。「そうだ。来いっ!!」その言葉が終わるか否かの瞬間に、アンドレスの放った剣は、確かに電光石火のように、宙に火花を散らすかのごとくの勢いでアパサの急所に襲いかかった。その瞬間、アンドレスは、アパサがそこに止まったまま動かずにいるかのような錯覚に襲われた。(しまった!!)と、瞬時にアンドレスは我に返った。自らの理性の箍を外して、武器も持たぬ師に、真剣で襲いかかるとは…――!が、アパサは、まるでスローモーションのように、ゆっくりとアンドレスの剣先を軽くかわすと、アンドレスの右手首をぐいと捕らえ、左手でサーベルの柄のあたりをトンッと叩いた。すると、そのままアンドレスの手から、あっさりとサーベルが地にこぼれ落ちた。
2006.04.04
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そして、再び、二人は空き地の中央で向かい合った。夕刻が近づき、空は茜色に染まりつつある。ひっそりとしたこの集落では周囲に人の気配もなく、ただ空き地を取り囲むように植わっている新緑の木々が夕刻の涼やかな風にそよぐ音が聞こえるのみである。「どこからでも、かかってこい。」アパサは淡々とした声で言った。「しかし…!」サーベルを手にしたまま、アンドレスはとまどった。アパサは武具を何も手にしていなかったのだ。アンドレスは、これでもクスコの神学校では、そのサーベルの腕は学内でトップレベルだった。というか、運動競技全般において、――唯一、かの親友ロレンソを除いては――他の学科同様に他者の追従を許さなかった。しかも、今、長身のアンドレスからは、アパサを見下ろすような形になっている。年齢を考慮しても、30歳にさしかかるアパサと、16歳という若さのアンドレスとでは、体力的な差も大きいはずである。いくら猛将と謳われるこのアパサでも丸腰では、自分が本気でかかっていけばいかなる目に合わせてしまうかわからぬ、と、この時はまだアンドレスは思っていた。「つべこべ考えずに、さっさと来い!!」アパサが叱責するように、がなり立てる。アンドレスは、サーベルの柄を握り締めた。師を危険に晒さずに勝つにはどうしたらいい…?アンドレスの瞳の色に迷いが生じている。アパサはその色を見透かし、射抜くような険しい表情で、氷のように冷たく言った。「己の力を過信するな。お前の思案など、全く無用なこと。」そして、不遜に笑う。アンドレスは改めてサーベルを構え直した。アパサは構えさえも、とろうとしない。その目は不気味な笑みを湛えてさえいる。アンドレスは唾を呑んだ。足で地を踏みしめるが、何か、いつものような安定感を得られない。アンドレスの額には既に汗が滲んでいた。身構えたまま動かぬアンドレスを挑発するように、アパサはゆっくりと前に出て、その間合いを詰めてくる。無構えのままジワリジワリと近づいてくるだけだというのに、しかも、特別な威圧感を発しているわけでもないのに、まるで全てを吸い込んでいくかのような不気味なオーラを発している。アンドレスの横顔を一筋の汗が伝った。
2006.04.03
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いきなりの腕試しに若干とまどいの色を見せるアンドレスを再び冷ややかに一瞥し、アパサは「はやくしろ!」と冷たく言い放った。すかさず、バルトリーナが鬼のような表情で割って入る。「あんた!アンドレス様はクスコからの長旅でお疲れなんだよ!!いい加減におしよ!」「うるせえ!!」アパサは妻の態度にいっそうふてくされた表情をして、妻を乱暴にどけると、ドカドカと外に出ていってしまった。アンドレスもすぐにその後を追う。アパサは広大な館の裏にある広々とした空き地にアンドレスを連れていくと、少し離れた場所に仁王立ちで腕組みしたまま、無言で目の前の若僧をジロリと眺めた。それから、空き地の一角にある倉庫にアンドレスを連れて行き、その中に入れさせた。倉庫の中は武器庫のようになっており、様々な武具がギッシリと並んでいる。オンダ(投石器)や戦斧はもちろん、棍棒、そして、どこから手に入れたのか、スペイン人しか持てぬはずのサーベルなどもあった。しかし、さすがに銃などの火器は見当たらない。それにしても、いずれの武具も、その大きさにしろ種類にしろ、実に多彩に取り揃えられており、アパサの外面的な粗雑な風貌からは想像できぬほど、整然と美しく並べられている。しかも、どれも新品のように、よく手入れされているのだった。それは、あたかも武器の「博物館」さながらであった。アンドレスは、見事に手入れされ陳列されたその様子に、まだ全く読めぬこの師となる人物の人柄の一端を、微かに垣間見た気がした。「好きな武器を選べ。」アパサが感情の無い声で言う。「はい!」と、いつもの堂々とした落ち着きを取り戻しつつある声でアンドレスは返事をして、それから、鋭い眼差しでそれぞれの武器を吟味するように見渡した。アパサは、アンドレスの横顔をじっと観察している。アンドレスはアパサの視線を感じながらも、意識を武具に集中し、一本のサーベルを慎重に選び取った。「これにいたします。」「サーベルが使えるのか?」アパサが相変わらず情を交えぬ声で尋ねる。「はい。クスコの神学校で、競技の学科の中で学びました。」「なるほどね…。」アパサの声は相変わらず冷ややかだった。
2006.04.02
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晩春の柔らかい午後の陽光の中、数名の護衛の者に伴われてアパサの館に到着したアンドレスを出迎えて、まだ20代半ばのアパサの妻バルトリーナは、すっかり舞い上がってしまった。彼女はいかにもインカ族の女性らしい風貌で、年齢にしては既にやや恰幅のよい体型に、つぶらで明るい瞳をした、なかなか気丈そうな女性であった。館に通すのも忘れて見惚れているバルトリーナに、アンドレスは「これからお世話になります。」と丁寧に礼をした。まるで神話の中から出てきたような麗しくも凛々しい美男子の来訪に、「どっ、どうぞ中にお入りくださいませ!」と素っ頓狂な声を出し、バルトリーナは有頂天で夫の部屋に素っ飛んでいった。「あんた!すっごいハンサムな若様ですよ!アンドレス様って!」すっかり舞い上がっている妻の様子に、「おまえは人を外見で判断するのか。」と言いながら、アパサはジトッと恨めしげな眼差しを向けた。「そんなこともないけど、でもね~!アンドレス様は、ちょっと尋常じゃないくらい、美しいお人なんだよ!」と、もともとテンションの高い妻のいっそうのハイテンションぶりに、アパサは辟易した様子で立ち上がった。アパサ自身はと言えば、身長は中位で筋骨逞しく、その相貌も、その目は小さいながらも深く窪み、活動性と意志の強さが漲っていたし、まもなく30歳に手の届こうという割には若々しく、それなりに人目を惹く雰囲気をもっていた。ただ、服装や髪型など外面的なことには全く頓着せず、豪族のくせに薄汚れた極めてシンプルな貫頭衣を着て、その上、妻がうるさく言わない限り、何日でも同じものを着ていた。妻の異常な舞い上がりように、既にかなり旋毛(つむじ)を曲げながら、アパサは広間で待つアンドレスのところに出向いていった。アンドレスはこれから師となるアパサとの対面に、大いなる期待と緊張で、その瞳を輝かせながら待っている。一方、アパサはと言えば、そのアンドレスを一目見ると冷ややかに目を細めた。(とんでもない、ぼんぼんが来たもんだ…。)アパサの第一印象は、そんなところだったろうか。「これからお世話になります!」アンドレスは、師となる眼前の人物に対して、丁寧に深く頭を下げた。実際、今回のアンドレスの来訪は、そう短期間の予定ではなかった。トゥパク・アマルの反乱準備の進み具合にもよるが、反乱決行までの期間、ほぼ無期限でアンドレスを預かり、武将としての力をつけること、それがトゥパク・アマルとアパサとの間の言い交わしだったのだ。もちろん、トゥパク・アマルからはそのアパサの労に報いるための、数々の珍重な品々が貢物として届けられていた。アパサは返事のかわりに、「外に出ろ。お前の腕がどのくらいか知りたい。」と無愛想に呟いた。
2006.04.01
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トゥパク・アマルが副王宛ての嘆願書をしたため、首府リマへ持参する準備を整えていた頃、この物語のもう一人の要となる人物、そう、かのトゥパク・アマルの甥、アンドレスは16歳になっていた。そして、その後、間もなくアンドレスはクスコの神学校を卒業し、そのまま故郷には戻らず、あのフリアン・アパサの元へと向かった。アパサは、トゥパク・アマルらのいる「ペルー副王領」に隣接する「ラ・プラタ副王領」の豪族で、その勇猛ぶりを広く知れらた武人である。もちろん、スペイン人の役人たちの目を逃れるために、彼もまたトゥパク・アマル同様、外面的には単なる豪商を装っていた。かつて、反乱の同盟を結ぶため、トゥパク・アマルが彼の元を訪れた時のことをご記憶の読者もおられるかもしれない。その時、トゥパク・アマルはアパサの武将としての腕を高く買い、自分の甥であるアンドレスの武術修行の師となることを依頼した。その後も、トゥパク・アマルとアパサは、反乱計画を秘密裏に進めるために、役人の目を逃れて数回の会合を行い、徐々に互いの絆を深めていった。アパサは清廉高潔なトゥパク・アマルとは性格がかなり異なり、良くも悪くも、豪放磊落で人間臭く打算的な人間であったが、その違いが陰陽のごとく、互いへの関心をいっそう惹きつけ合っていた。最初はアンドレスの受け入れなど、まともに考えてはいなかったアパサだったが、トゥパク・アマルという人物を知るにつれ、そして、命を半ば捨てたその覚悟を知るにつれ、その甥なる若者を武将として一人前に育てる、ということの意味を次第に認識するようになっていた。トゥパク・アマルにも息子はいるものの、まだ幼く、また、彼自身がかつて語ったように、息子ではスペインの役人の目にもつきやすいのは確かにその通りに違いなかった。アパサの目から見ると、トゥパク・アマルは命をいつ落としても不思議ではないような、際どい綱渡りを続けているように見えてならなかった。トゥパク・アマルは、この先どのようなことになるかわからぬ…――アパサの脳裏には、そんな不吉な予感が常にこびりついて拭えなかった。そして、結局、アパサは、アンドレスを自分の元に引き受けることを承諾したのだった。
2006.03.31
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以下は、歴史上の資料として残る、真にトゥパク・アマル自身の手による嘆願書の引用(抜粋)である。いかなる創作よりも、彼の渾身の思いが伝わってくるため、そのままここにご紹介したい。これは、1777年12月に副王ハウレギ宛てに提出された、トゥパク・アマル自身の手になる本物の嘆願書の内容である。『寛大なる王陛下に謹んで申し上げます。王陛下の御意図の中には、他でもなく、インカ族の者たちの妥当な扱いと保護の問題があるかと存じます。ミタ(強制移住労働)に関して申しますならば、鉱山の採掘、貴金属の抽出にも増して重要なことは、王陛下の御慈悲が行われることであります。わたしが申すまでもなく、もしインカ族の者が死に絶えてしまった暁には、もはや鉱山で働き、貴金属を抽出する者もなくなってしまいましょう。そうなってしまえば、幾ばくかの貴金属の生産すら、もはやかなわぬこととなりましょう。王陛下、あなた様はインカ族の民の窮状をご存知でしょうか。鉱山での強制労働を言い渡されたインカ族の者たちは、二度と故郷へ戻らぬために、つまり、死ぬために、故郷の家を売り、家財を売って旅立っていくのであります。インカ族の者たちは、故郷への思いも、これまで大切にしてきた家財その他への愛着も、可愛がってきた家畜たちへの情も、すべてを犠牲にして、強制労働を言い渡された鉱山へと向かうため、その僅かな旅費を捻出するために、それらを売り払い、旅立っていくのであります。妻と共に、息子と共に、あるいはただ一人、インカ族の民は故郷を捨てて強制労働へと旅立って参ります。そして、コルディエラ山脈の谷と高原の難路2百里の道を歩みはじめるのです。鉱山へと向かう道中が過酷であるとすれば、強制労働の期間を終えた帰路の道は、疲労と貧困のために、さらに難儀であります。もっとも、普通は、帰路につける前に、二度と帰れぬ死路に旅立っておりますので、帰路に苦しむこともないわけですが。それほどの状況が、永きに渡り続いているのであります。王陛下、このような状況がこれ以上続いてはなりますまい。何卒、その高貴な御配慮と御慈悲の下さらんことを、伏してお願い申し上げます。』この書面では、当初からトゥパク・アマル自身が最も心を痛めてきたことの一つ、あの鉱山でのミタ(強制移住労働)の改善が中心的に訴えられている。すべてのことを一度に訴えることは、もはや望めなかったのだ。せめて、最悪の部分から改善を求めていくしかなかった。この嘆願書に対する副王の出方によって、最終手段に打って出る!…――トゥパク・アマルは決意を秘めた、しかし、揺れる眼差しで、机上の不安定な蝋燭の光を見つめた。
2006.03.30
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トゥパク・アマルは自らのこれまでの軌跡を振り返った。これまで、幾多の人々に会い、直接交渉に踏み切ってきただろうか。反乱軍に同盟者として加わってもらうためのインカ族の者たちは当然だが、スペイン側の重要人物とも会うべき人間とは会ってきた。末端の代官はもちろん、植民地巡察官アレッチェ、そして、この国最高の司祭モスコーソにも会った。トゥパク・アマルは、水を打ったように静まり返った自室で、目を閉じた。じっと自らの心の声に耳を傾けてみる。残される相手は…――それは、この植民地最高の権力者、副王ハウレギ、その人である。しかし、さすがに副王との目通りなど、一介のインディオのカシーケ(領主)に許されようはずもなかった。トゥパク・アマルは、目を見開いた。そして、立ち上がった。決意を秘めた表情で、書斎に向かう。彼とて、いやでも多くの流血を免れぬ反乱行為など、真実は望んではいなかった。尊い命を一つでも失うこと、奪うこと、そのようなことは、真の意味での彼の信念に合致することではなかったのである。トゥパク・アマルは、机上の燭台に蝋燭を灯した。蝋燭の炎が不安定に揺れる。そのおぼつかない光が、トゥパク・アマルの瞳をも揺らした。彼はペンを握った。そして、自らの心の奥底から湧き起こる言葉を一つも漏らさず聴き取るかのように、全神経を集中させながら、紙にペンを走らせはじめた。それは、まさしく副王ハウレギ宛ての嘆願書であった。
2006.03.29
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一方、コイユールの背後から険しい眼差しで事の流れを見守っていた少年は、役人が立ち去るとすぐさま彼女の背後から飛び出し、その美しい女性の方に走り寄った。「母上!!」トゥパク・アマルの妻と名乗ったその女性、ミカエラは、少年をしっかりと胸に抱いた。「フェルナンド、心配しましたよ。お買い物の途中で勝手に離れてはいけないと、あれほど言っておいたでしょう。」それは、息子の身を心から案じる優しい母親の声だった。それから、茫然自失しているコイユールの方に向き、ミカエラは声の調子を和らげて話しかけた。「大丈夫ですか?」コイユールは、息を吸い込んでから、やっと頷いた。「怪我をしていますよ。」ミカエラは心配そうに、コイユールの額を見た。コイユールの額からはまだ血が流れ続けており、頬を伝って肩のあたりに血の雫が滴っている。コイユールは慌ててハンカチで額を押さえた。そして、深く頭を下げた。「助けてくださって、どうもありがとうございました。」本当は、少年の怪我のことなど説明しなければならぬことがいろいろあったが、何かひどく動揺していて、言葉にすることができなかった。そんなコイユールをミカエラは静かな眼差しで見つめ、それから、涼やかに微笑みながら諭すように言った。「お気をつけなさい。どんな無法なこともやりかねない者たちだから。」そして、その美しい女性は少年の手をしっかりと握り、露店への道を戻っていった。さて、ここで再び、話をトゥパク・アマルの反乱計画に戻そう。首府リマでの、あのモスコーソ司祭との目通りによって、この植民地の圧政は単に代官レベルの非道によるものではなく、この国の統治機構の頂点に立つ者たちの意図もが絡むものであることを、もはやトゥパク・アマルは明確に認識せざるを得なかった。トゥパク・アマルの訴えを副王に口添えするとのモスコーソ司祭の口約束も、所詮はあの場凌ぎのものにすぎなかった。敵は単に末端の代官だけではない。真の敵は、もっとこの国の中枢にいる絶対的権力者たちなのだ。それは受け入れたくない現実だった。そして、それは、トゥパク・アマルに最後の手段の選択を突きつけてくる現実でもあった。いよいよその計画を実行せざるを得ない局面に、刻々と近づいていたのだった。だが…――と、トゥパク・アマルは心の奥で呟いた。最後に、あと一つ、やっておかねばならぬことがある。
2006.03.28
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役人たちは、かなり気圧された様子になっていた。しかし、簡単に引き下がるわけにはいかぬとばかり、それでも相当頑張って去勢を張っているというのがわかったが、なんとか言い返してきた。「なんだ、お前は…!!余計な口出しをすると、お前も一緒にしょっぴくぞ!」しかし、その声には既に自信のなさが滲みはじめている。美しい女性は、目を細めながら冷ややかにその役人を一瞥した。「どのような事情があれ、そのように若い娘を傷つけ、幼い子どもを脅すなど、許されることではない。ましてや、その娘のことも、何か証拠がおありなのですか?いい加減なことで逮捕などしようものなら、あなた方の罪も問われますよ。」彼女は自国語であるケチュア語を愛しむように、毅然と澱みないケチュア語で語ると、コイユールの手首を掴んでいる役人の方に近づいてきた。何気ない動きの一つ一つさえ、優美である。そして、「お放しなさい!」と、最後通告を突きつけるかのごとくの気迫で、氷のように役人を睨みつけた。役人の手が、力を吸い取られたかのように、コイユールの手首からはずれる。役人は怯えを必死で隠すように、そのインカ族の美女を憎々し気に見やった。「おまえ、何者だ…。」女性は、まるでナイフの刃のような冷ややかな眼差しで役人を見下ろしたまま言った。「私は、ミカエラ・バスティーダス。この地のカシーケ(領主)、トゥパク・アマルの妻です。」役人たちは、さっと顔を青くした。そして、そそくさとその場を離れながら、それでも「次は、これですむと思うなよ!」と捨てゼリフを吐き、急ぎ足で消えていった。驚いたのはスペイン人の役人だけではなかった。コイユールもその場に固まっていた。(トゥパク・アマル様の、奥様…?!)
2006.03.27
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その時だった。役人たちの背後から鋭い声が聞こえた。「おやめなさい!」それは、凛と響く女性の声だった。役人たちはコイユールに掴みかかったまま、背後を振り返った。コイユールも、ハッとして前方を見る。そこには、一人のインカ族の女性が、役人たちを射竦めるような厳しい眼差しで立っていた。コイユールは目を見張った。その険しい表情にもかかわらず、まるで絵の中から抜け出てきたような、本当に、この世のものとは思えぬほどの麗しい女性がそこにいたのだ。男性を凌ぐほどのすらりとした長身に、ほっそりとした、それでいて、しなやかな手足。首は見たこともないほど細く、その上には、とうていインカ族とは思えぬ洗練された美しい顔があった。高貴で繊細な目鼻立ち、しかし、その眼差しには毅然とした強さと、凛々しさが漲っていた。いかなる悪行も許さない、そんな強い正義と信念に貫かれた瞳の色である。とても女性的でありながら、一方で、非常に男性的な印象をも与える。髪は流れるように長い黒髪で、それを背後に垂らし、一つにまとめて結んでいる。その耳元には、インカ風の華やかな黄金のイヤリングが輝いていた。そして、質の良い布地で仕立てられた、ただし、決して華美ではない西洋風の上品なロングドレスを纏っている。年の頃は、20代半ばくらいだろうか。褐色の肌も青銅色に輝くようで、そのあまりに美しくも凛々しい姿は、まるで戦の女神のブロンズ像がこの世に甦ったかのようだった。さすがのスペイン人の役人たちも、そのインカ族の女性の気高い美しさに目を奪われて、暫し言葉もなく息を呑んでいた。その女性は、まるで見下ろすようにして、役人たちに険しく厳しい声音で言った。「その娘さんをお放しなさい。」一つ一つの言葉に、力と魂が宿っているように、きっぱりとよく響く。
2006.03.26
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コイユールは本能的に、強い危険を感じた。彼女は少年をしっかりと背後にかくまいながら、息を殺して相手の出方に備えた。男の一人が一歩踏み出して、コイユールを上から下まで眺めてから、居丈高な調子で言う。「話は聞かせてもらった。おまえだな。あの、怪しげな治療とやらをやっている娘は。」コイユールは、息を呑んだ。まずいところを見られてしまった、と心の中で悔やむ。この界隈でも、キリスト教以外の教えに由来する土着の思想や自然療法などに対する取り締まりや弾圧は、年々、厳しくなってきていたのだった。コイユールの噂が、この辺りのスペイン人の役人たちの耳に入っていても不思議はなかった。スペイン人たちに取り囲まれているコイユールたちを、露店の通りにいるインカ族の者たちは息を詰めて遠巻きにしていたが、スペイン人の役人に物申せる勇気ある者は誰もいなかった。コイユールは内心動揺しながらも、改めて役人たちを観察した。役人は3人共かなり酒を飲んでいるようで、目つきがすわり、しかも、酒のためか絡みつくような視線を向けてくる。へたに刺激をしてはまずい、と思われた。まずは、少年の身を安全にこの場から解放してあげねばならなかった。コイユールは動揺を隠しながら、静かに役人たちに言った。「わかりました。お話はゆっくり、聞きます。でも、この子は関係ありませんので、この子だけは帰してあげてください。」コイユールは不安な面持ちで、背後にかくまっている少年をそっと見た。なんと、そのまだ幼い少年は、きっ、とした険しい目で、役人たちを睨むようにまっすぐ見据えていたのだった。役人たちは少年の眼差しに気付くと、鬼のように目を吊り上げて少年の方にズカズカと迫ってきた。「なんだ、その生意気な目は!!」役人の一人が、間髪入れずに、その頑強な靴を勢いつけて蹴り上げてきた。「危ない!!」瞬間的に、コイユールは少年の前に身を伏せる。役人の蹴りが、コイユールの顔面にざっくりと当たった。左目の上あたりの額が切れて、真紅の血が滴り落ちる。コイユールは少年を胸に抱くようにして、役人たちを見た。意図せずとも、その目は険しくなっていた。「何をするのです!まだ、こんなに幼い子どもではありませんか!」思わず喰ってかかったコイユールに、役人たちも気色ばんで迫ってきた。そして、コイユールの左手首を荒々しく掴むと脅すように言った。「お前、逮捕になっても、いいんだな?」役人の目が、ギラギラと憎悪と汚濁に満ちた光を放つ。
2006.03.25
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コイユールは再び少年に微笑みかけて、そっと傷口付近の血を拭きとった。こういう時は薬草などを持っていると役立つのだが、普段の施術時も薬を使わないコイユールは持ち合わせの薬草など持ってはいなかった。コイユールは心配そうに少年を見た。「痛い…よね?」少年はまだびっくりしたような表情をしたまま、無言で、まっすぐコイユールの方を見ている。「がまんできて、えらいね。強いんだね。」コイユールが笑いかけると、少年の瞳にはかえって涙がふくれあがってきた。少年が痛みを相当我慢していると見て取ると、コイユールは少年の傷口の血が止まってきたのを確認して、それから、再び少年に笑顔を向けた。「痛いのがとれる魔法をかけてあげてもいい?」「まほう?」少年がはじめて口をきいた。まだ幼い舌足らずのあどけない話し方だったが、少年の瞳には好奇心の色が浮び上がった。そして、「うん、やって!」と明るい笑顔を見せた。コイユールは少年に笑顔が戻ったことに安堵しながら、そして、感心して言った。「まほうって、でも、それって、ちょっとも怖くないの?」「僕、怖いものなんて、ないもの!」少年は輝くような自信のある瞳で、きっぱりと言った。コイユールはそんな少年の瞳に、やはりどこかで見たような、と感じながらも思い出すことができなかった。「そっかあ。よおし、じゃあ、やってみよう。」そう笑顔を返して、コイユールは人通りの邪魔にならぬように、道の端の柔らかい草の上に少年と腰を下ろした。「それじゃあ…。」と、コイユールは少年の瞳を優しく覗きこんだ。「これから私がこの手を君の傷口の近くに置いて、痛いのがなくなる魔法をかけるから、君はただ黙って目をつぶっていてね。」少年はキラキラと瞳を輝かせて、「うん!」と元気よく返事をした。少年の物怖じしない様子にまた感心しながら、「じゃ、目を閉じてね。」と促し、コイユールはそっと少年の傷口の近くに手を添えた。コイユールも静かに瞳を閉じた。そして、意識を少年の膝のあたりに集中する。が、その時だった。「おまえ、何をしている!!」いきなり、険しい、太い、咎めるような男の声がした。コイユールはハッと目を開いた。目の前に、スペイン人の役人とおぼしき男たちが三人ほど、険しい表情で立ちはだかっている。コイユールは、瞬時には、何が起こったのかわからなかった。が、彼女はすかさず少年を背後にかくまうようにして、身構えた。スペイン人の役人風の男たちは、コイユールたちの方にじわじわと近寄ってくる。きつい酒の臭いがした。
2006.03.24
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その数日後、コイユールは、再びアンドレスの館近くの集落の中心部まででかけていた。その日、コイユールはいつものように自然療法の施療を求められて、この近辺の住人宅まで出向いていたのだった。教会の傍のアンドレスの館の前を通りかかると、そろそろ暮れかけの夕闇の中に、ニ階のアンドレスの部屋の窓から柔らかな灯りがこぼれている。まだ休暇中のアンドレスが、自室にいるのだろうか。(何をしているのかしら…。)窓を見上げてそんなことを思いながら、しかし、今日はそのまま館の前を通り過ぎ、コイユールは家路を急いだ。間もなく夜の帳が下りてくる。彼女の住む貧しい農民たちの住まいは、ここからかなり先の辺鄙な地にある。ますます年老いた祖母を、長時間一人で残しておくことが心配だった。コイユールは半ば駆け足で、道を急いだ。ちょうど露店の並ぶ繁華街も終わりにさしかかった辺りだった。鮮やかな刺繍の布が並べられた露店の陰から、ふいに小さな男の子が飛び出してきた。コイユールが駆けてきたのとちょうど鉢合わせになってしまい、男の子はステンと前に転んでしまった。コイユールが「あっ!」と思った時には、既に子どもは地面に腹ばいに倒れていた。まだ4~5歳の、とても幼い少年である。コイユールは慌ててその場に跪いた。「ごめんね!私が…。」コイユールが助け起こそうとすると、少年はゆっくりと自分で身を起こした。少年は顔を下向き加減にしたまま、口をギュッと結んで、健気にも泣くのをこらえている。見ると少年の膝のあたりがすりむけて、血が滲んでいる。相当痛みがあるに違いないのに、その幼い子どもは黙って痛みを我慢していた。コイユールは息を呑んで、切ない思いと申し訳なさから、改めて謝罪の目で少年を見た。褐色の肌をしたインカ族のその少年は、あどけないながらも気品ある風貌をしており、身なりもかなり高貴な衣を着せられている。どこかの貴族の子どもかしら…。少女のようなサラサラの綺麗な黒髪と澄んだ黒い瞳、そして、年齢に似合わぬ、すっと切れ長の目元が印象的だった。(この男の子、どこかで見たことがあるような…。)ふとそんな気がしたが、それよりも、とにかく手当てをしないといけない。コイユールは急いで懐からハンカチを取り出して、少年に「ちょっとだけ、ね、触ってもいい?」と、少年の目の高さから優しく問いかけた。少年は泣くのをこらえてはいるものの、涙を潤ませた瞳で、少し驚いたようにコイユールを見た。が、コイユールの眼差しに安堵したのか、小さくコクンと頷いた。
2006.03.23
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そんなマルセラの様子を見て、コイユールはやっと合点がいった。マルセラはアンドレスに好意をもっているのかもしれない、多分、特別な感情を…。それで、あんなにムキになっていたのだわ。そんなマルセラの様子を何だか微笑ましく感じながら、コイユールはやっと間近で出会えたアンドレスを改めて見上げた。数年前は殆ど変わらなかった背丈も、今はすっかり差がついている。コイユールの目から見ても、アンドレスはとても素敵に成長していた。そして、また、アンドレスも、いつのまにか女性らしくなってきたコイユールを間近にして、一瞬、微かに視線をそらした。神学校の卒業年度が次第に迫り、いよいよ学業も大詰めになってきたアンドレスは、この1年間、寄宿舎で過ごしたまま、この故郷に戻ってくることができなかった。ほぼ1年ぶりの再会に、アンドレスもコイユールも、密かに胸を躍らせていた。「コイユール、マルセラ、二人とも元気そうでよかった。」「アンドレスも。」アンドレスとコイユールは、しっかりとその瞳で頷き合った。本当に、この時代、何が起こってもおかしくなかった。生きて再び会えたこと、その喜び、そのかけがえのなさ…――、それは決して大袈裟なものではなかったのだ。それから、コイユールは自分の後ろに身を隠すようにしているマルセラの方を見た。「アンドレスがいない間、マルセラがとっても良くしてくれたの。マルセラはいろんなことを教えてくれたわ。あ!ほら、アンドレスが以前くれたスペイン語の教科書も、マルセラが解説してくれたし、他にもいろいろ…!それで、今は、私もスペイン語、少しわかるようになってきたのよ。」アンドレスとマルセラの方を交互に見ながら夢中で説明するコイユールに、優しい眼差しを向けて、「それは、すごい!」とアンドレスは深く頷いた。そして、アンドレスは、マルセラにも「どうもありがとう。」と微笑みかけた。マルセラは火が上がるほど顔を赤らめて、「いえいえ、そんなこと…!」といったようなことを呟きながら、まだ顔を上げられぬまま首を振っていた。コイユールはそんなマルセラの様子を微笑ましく思いながら、自分の心の奥にも、何か似たような不思議な、どこか切ない感情が存在するのを微かに感じた。それは、一体、何だろう…。まだ、この時のコイユールには、それが何かは全くわからなかったのだけれど…。
2006.03.22
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炊事場では、インカ族の護衛官や召使いたちが仕事の手を止めて唖然と見守る中、マルセラがコイユールにいっそう詰め寄りながら、最後の確認をしているところだった。マルセラはコイユールの目をまっすぐ見た。「わかった?今日から、アンドレス様は『アンドレス様』だからね。」コイユールが改めて見つめ返すと、マルセラの瞳は意外なほど、真剣だった。コイユールが返答に窮していると、突然、炊事場にいた護衛官や召使いの者たちの間に張り詰めた空気が流れた。そして、皆、恭しく、炊事場の入り口の方に礼を払った。そんな様子には全く気づかぬまま、マルセラは最後通告のように、念を押す。「わかった?!」「マルセラ、どうしてそんなにムキになるの?」マルセラの真剣さに気づいたコイユールは、その真意を確かめるように穏やかに言った。「それは…。」と、マルセラは一瞬頬を染めたが、ハッと我に返ったように「そんなこと、ただ、おかしいから直した方がいいって言ってるだけだってば!」と、内心を悟られまいとするかのように早口で言い返した。「マルセラ、君も俺のことは、『アンドレス』と呼び捨てでかまわないんだよ。」ふいに背後からアンドレスの声がした。コイユールとマルセラは、突然のアンドレスの登場に身を硬くした。「アンドレス様っっ…!!」マルセラはギョッと目を見張って、コイユールの影に隠れるように身を寄せた。全く、普段の勇猛果敢なマルセラからは考えられない行動だった。「アンドレス…!」コイユールもふいをつかれて、目を見開いた。そして、はっと口に手を当てて、(『アンドレス様』だったっけ…。)と、マルセラの方に目配せした。しかし、マルセラはコイユールに対応する余裕など全くなくしたまま、完全に固まっている。そんな二人に、あの懐かしい優しい笑顔で、アンドレスは穏やかに言った。「コイユールは今まで通りでいいし、マルセラも、『アンドレス』でいいんだよ。」マルセラは首から上を真っ赤にして、言葉を失っていた。
2006.03.21
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「それじゃ、なんて呼べばいいのかしら…。」コイユールは自分の心にも問いかけるように呟いた。「そんなの、『アンドレス様』でいいに決まってるじゃないさ!」相変わらず、へんにムキになった口調でマルセラが言い放つ。「アンドレス…さま…?」と、小さく言ってみてから、「う~ん…。」と、今度はコイユールが複雑な顔をした。「やっぱり、なんだか違和感が…。」コイユールが呟くと、マルセラが怖い顔をして、さらにコイユールに詰め寄ってくる。「あ、それって、すご~っく失礼じゃないの?!じゃあ、なにさ、トゥパク・アマル様のことも、あんた、呼び捨てにできるの?」「ま、まさか!!」コイユールが目をみはって否定するのを、マルセラは一本取ったとばかりに強気で言った。「ほうらね!あんたがアンドレス様を呼び捨てにするのは、トゥパク・アマル様を呼び捨てにするのと殆どおんなじくらい、だいそれたことなんだから!!」マルセラの剣幕に押されつつも、コイユールは、はたと動きを止めてふと何かを思いついたように上目づかいで天井を見た。それを言ったら、平民のコイユールの立場からは、貴族のマルセラも本来『マルセラ様』となるのだ。コイユールはマルセラに視線を戻して、「マルセラ様…?」と、その響きを確かめるように呟いてから、再び複雑な顔をした。マルセラは耳を赤くして、「あたしのことはいいの!やめてよ~、気持ち悪い!」と、コイユールの呼びかけを振り払うようにぶんぶんと首を振った。「でも、それだと、なんか矛盾が…。」「とにかく!アンドレス様は、アンドレス様なのっ!!」そのマルセラの剣幕は、トゥパク・アマルらのいる広間の方までしっかりと響いていた。マルセラの叔父でもあるビルカパサは、苦虫を噛み潰したような顔になった。トゥパク・アマルらも、まじめな話をふと止めて、あっけにとられた様子で炊事場の方向に顔を向けた。「なにやら、もめているようだが…。」トゥパク・アマルの言葉に、「すいません、私の姪っ子が…。」とビルカパサは眉間に皺を寄せて、立ち上がりかけた。それを制するように、アンドレスが立ち上がった。「ビルカパサ殿、どうぞそのまま。」ビルカパサに笑顔を返して、アンドレスは炊事場の方に向かった。
2006.03.20
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「あっ!…つっう…!!」突然、背後の炊事場の方から悲鳴が聞こえた。「マルセラ?!」コイユールは慌ててそちらの方にとって返した。調理用の鍋の傍で、マルセラが右腕をおさえて半ベソのままうずくまっている。その辺りをインカ族の召使いたちが数名、心配そうに取り囲んでいた。恐らく慣れない調理などしようとして、火傷か何かしたのだろう。コイユールは周りのインカ族の人たちに頭を下げながら、心配なさらずお仕事の続きをなさってくださいと伝え、自分がマルセラの傍に膝をついた。そして、すらりと引き締った褐色のマルセラの腕を、そっと自分の手に取った。幸い、手首の少し下あたりに軽い火傷を負った程度である。コイユールはホッと息をつき、急いで冷水を運んできてマルセラの傷口を浸した。「たいしたことなくって、良かったわ。でも、どうしたの?炊事場になんて立ったりして。」コイユールは純粋に不思議そうに、首をかしげながらマルセラを見つめた。貴族の娘のマルセラが調理など縁の無いことは知っていたし、それ以上に、女性的なことには全く無頓着で、むしろ少年のような志向のマルセラには、炊事場に立つなど考えられないことだった。そんなマルセラは、年頃になった今も、相変わらず短く切った黒髪を無造作にターバンでまとめ、以前にも増してすらりと伸びた手足を、ただ動きやすいという理由のために、露(あらわ)にしたままの格好でいた。しかし、成長と共に女性らしさが備わり、本人の意思とは無関係に、むしろその中性的な美しさが周囲の目を惹いていた。コイユールは冷水で浸したマルセラの傷跡に、そっと自分の手を当てて、治療のためにいつものシンボルを心の中で描いた。マルセラは無言のまま、かすかに頬を赤らめている。コイユールには平素と様子の異なる今日のマルセラの内心を測りかねたが、いずれにしろ、炊事場で何かをしようと思っていたのは確かだろう。「何を作ろうと思っていたの?手伝うわ。」と、笑顔でごく普通に声をかけたコイユールに対して、「いい、いい!ほんと何でもないんだから。」と、妙にムキになってマルセラが答える。「そ、そう…?」と、マルセラの調子に少々とまどいながらも、コイユールはもう一度、彼女の火傷の跡を確かめた。そして、大分腫れがひいている様子に安堵しながら、「そろそろ、アンドレスたちにお食事を出す時間かしら。」と、何気なく言った。すると、マルセラが突然つっかかるような調子で、コイユールの方に身を乗り出してきた。「あたし、前から、すっごく気になってたんだけど、アンドレス様のこと呼び捨てにするのって、それって、すっご~く、まずくない?」「え?」と、不意をつかれたようにコイユールは目をみはる。マルセラはコイユールの鼻先まで、にじり寄ってきた。「ほんと、よく考えてごらんよ!あんたとアンドレス様じゃ、身分も立場も何もかも、全然、全く、違うんだし!!」と、そこまで言ってしまってから、マルセラはハッと自分の口を押さえた。コイユールは固唾を呑んだ。マルセラは基本的に人を差別しないし、身分がどうのとか言う人間ではないことを知っていた。そもそも女性特有のあのドロドロした部分を嫌い、竹を割ったような性格のマルセラは、誰に対しても意地悪なことを言ったりすることのないのも知っていた。そんなマルセラの言葉だけに、妙にコイユールの胸に突き刺さってきた。そして、実際、マルセラの言う通りのようにも思えてくる。
2006.03.19
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そして、今、その館の一隅には、そんなアンドレスを優しい眼差しでみつめる少女、いや、少女から一人の女性へと成長しつつあるコイユールの姿もあった。アンドレスと同年齢の彼女もまた、この3年間でずいぶん変わっていた。風貌も、体つきも、女性らしく大人びてきたのは自然のことであるし、その場にいるだけで醸し出されるような柔らかい雰囲気は、その年代の女性たちに特有のものかもしれない。しかし、それだけではなく、コイユールの以前から変わらぬ涼しげな目元には、包みこむような深い優しさが宿っていた。それは、表面的なものとはどこか違った。彼女は、自らがこの国の社会の底辺を生きてきたと共に、その特有な自然療法の施術を求められ、この3年間に、はからずも数多くの底辺にいる人々と出会ってきた。そして、信じられぬような窮状を、その渦中に身も心も晒しながら、生(なま)の体験として目の当たりにしてきた。もともと洞察力が鋭く正義感の強かった彼女は、それらの過酷な現実に直面する中で、深い悲しみと絶望を、年齢に似合わぬ深い慈愛と、そして、強さへと変えてきたのだった。そうすることができたのも、アンドレスとの出会いがあり、トゥパク・アマルとの出会いがあったからこそ、だったかもしれない。二人の存在は、彼女にとって、暗闇を照らす光り輝く希望そのものだった。今は闇夜の中を彷徨うこの国の未来を、導きゆく光…――!コイユールは広間から少し離れた場所から、トゥパク・アマルと同じテーブルを囲むまでに成長したアンドレスを、そして、トゥパク・アマルを眩しそうに見つめた。
2006.03.18
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トゥパク・アマルたちが反乱準備を秘密裏に進めはじめてから、はや3年が経っていた。その間、自分の領地を治めながらも、彼は国中を旅し、息つく暇もないほど忙しく活動してきた。そんなトゥパク・アマルも、今宵は久しぶりに故郷の地で、心許せる同志たちと共にひとときの穏やかな時間を過ごしていた。とはいえ、そうした場でも話題といえば、やはりこの国の将来のこと、及び、今後の行動につてであったが。トゥパク・アマルは、かつてコイユールが彼と出会ったあのアンドレスの館で、あの時と同じように広間の中央に座し、その周りにはアンドレスの叔父ディエゴ、腹心のビルカパサ、やや神経質そうなフランシスコがいた。ただ、あの時の初老のインカ族の紳士、ブラスの姿はなかった。ご記憶の通り、3年前、ブラスはスペイン国王へ直訴の海路で、スペイン側の役人の手の者により虐殺されてしまっていたのだった。そして、今、あのブラスのかわりに、アンドレスがトゥパク・アマルらと同じテーブルについていた。あのまだ少年だったアンドレスも、今は15歳の青年に成長していた。この3年間で、彼はすっかり凛々しい若者になっていた。叔父である大男ディエゴほどではないが、彼に似て長身で、インカ族とスペイン人との混血児である彼はもともと美男子ではあったが、今はまるで神話の中から抜け出してきた若い軍神のごとく精悍で麗しい風貌になっていた。そして、今、成長した彼は、どこかトゥパク・アマルの雰囲気に似てきていた。もちろん、血がつながっているのでそれも不思議なことではないのだが、そうした血縁的なものだけでは説明しがたいもの、その身に宿る魂が似ているような…――、言葉で表現するとしたらそのようになるかもしれない。だが、トゥパク・アマルには深い影があったが、アンドレスには湧き立つような華やかさ、光、のようなものがあった。同じ魂の結晶のそれぞれの側面が顕れているような、そんな表現が適切だろうか。もちろん、15歳のアンドレスは、まだ少年のような面影も残してはいたが。彼はまだ神学校に在学しており、今日も、あの3年前のあの日と同じように、長期休暇のために帰省していたのだった。
2006.03.17
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司祭はまた細めた目で、今度は顔全体を歪めながら、すがるような目でトゥパク・アマルの方に身を乗り出した。「ひどいとは噂に聞いていたが、そこまで酷いのかね!!おお、そんなにか…。」一見、あまりにも白々しいと思われたが、トゥパク・アマルは言葉をぐっと呑みこんだ。そして、感情を抑えながら、応えた。「はい。何卒、実態をお調べになってください。そして、どうぞ副王陛下にお口添えを願いたいのです。このままでは、インカの民をはじめ、この国の虐げられた民衆は、本当に息絶えてしまいます。」トゥパク・アマルの前にすがるようにしていたモスコーソは、再び幾度も頷き、「わかった、わかった、そのようにいたそう。」と、あっさり同意した。そのモスコーソの様子に、かえってトゥパク・アマルは釈然としない思いに憑かれた。「トゥパク・アマル殿…。」モスコーソは弱々しい声を出した。「神の御前の子羊よ、この牧者の手の中から出てはならぬ。」トゥパク・アマルは、ひれ伏すようにしているその司祭の顔をハッと見た。「妙なことを考えてはならぬぞ。例えば、反乱行為など…。」モスコーソの目が、トゥパク・アマルの目を射抜くように光る。伏せがちだったその体をゆっくりと起こしながら、モスコーソはトゥパク・アマルの表情をあの舐めるような視線で見渡した。司祭の胸元の巨大すぎる十字架が、ゆらゆらと不気味に揺れている。そして、今までの不自然に下手に出ていた態度を翻すように、大きく反り返り、トゥパク・アマルを見下ろすようにして言った。「美しいインカの末裔よ。そなたが、かつてのインカ皇帝たちのように、あの処刑台に上るさまを見たくはないのだよ。」その目は完全に見開かれ、ギラギラと奇態な光を放っていた。トゥパク・アマルはその瞬間に至って、はっきりと悟った。この司祭も、完全にスペインの権力者側の人間なのだ…――と。
2006.03.16
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