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買い付けミッション11986年の春にペルー大使館商務部からペルーへの買い付けミッションに参加してほしいと依頼がありました。買い付けミッションとは、大使館の紹介でペルーの企業の商品を日本の企業が買いに行く、国主催のお買い物ツアーのようなものです。そのため、現地でのお出迎えも桁違い、ペルー空港に到着すると軍人の高官が出迎えてくれ,我々全員のパスポートを一括して渡し、いとも簡単に税関を通過することができました。通常であれば考えられない、さすが政府主催のお買い物ツアーです。もちろん、参加者の顔ぶれも豪華でミッションの団長はある有名な飲料メーカーの社長で、その他香料、色素、繊維会社そして商社の人達で20名ぐらいでした。その後も、リムジンと高級バスが私たちを待っていて、実にVIP待遇なツアーでした。ペルーへ向かう、カナディアン・パシィフィクの機内で知り合ったチーフパーサーが偶然、ペルーの友人の知り合いで、これまた偶然に帰りの便でも同じパーサーに出会いました。すると、彼はこっそりと私の席をエコノミークラスからファーストクラスにグレードアップしてくれました。おかげで、とても快適な空の旅になりました。今回の話のメインである、ミッションにはたくさんのピスコ会社が参加していました。しかし、なかには輸出は初めてのところもあったり、自社のピスコのアルコール度数を知らなかったり、また、今にも抜けそうなコルク栓を使用している会社などもあり、日本の企業では考えられないアバウトさ、やはりペルーらしいなと思ったユニークな経験でした。
2010年10月31日
いつもラテンキッチンクスコをご愛顧いただきましてありがとうございます。下記のとおり、8月14日(土曜日)の営業をお休みさせていただきます。 ・8月13日(金曜日)・・・通常営業(ランチ/ディナ-)・8月14日(土曜日)・・・お休み・8月15日(日曜日)・・・定休日・8月16日(月曜日)・・・通常営業(ランチ/ディナ-)
2010年08月09日
25 インカの秘宝果実 ルクマ(LUCUMA)ペルーの食文化は豊富な食材によって、非常に発展しています。ペルーの太平洋沿岸を寒流のペルー海流(フンボルト海流)と暖流が流れており、二つの海流がぶつかることによってペルー沖は好漁場となっています。そのおかげで、ペルー沿岸では多種類の新鮮な魚介類が採れ、そしてペルー国内最大河川であるアマゾン川やアンデス山脈のおかげで沢山の農作物や豊富な種類のフルーツが栽培されています。私が初めてペルーを訪れたのは夏の暑い季節でした。その時、アイスクリーム屋で食べた「ルクマ」のアイスクリームが今でも忘れられません。「ルクマ」はペルーで人気NO1のアイスクリームです。口にした時、最初は粉っぽく不思議な味がしますが、一度食べるとこの味のとりこになり、魔法のアイスクリームともいわれています。「ルクマ」はペルー原産で、主に海岸砂漠地帯で1~5月に収穫される果物です。大きさは桃くらいで、外皮は緑色、果肉は濃いオレンジ色をしています。そしてその気になるその味は、なかなか言葉では上手く表現できませんが、栗と南瓜を合わせたような味で懐かしい日本の香りがするとても美味しいアイスクリームでした。(気になる方は、ルクマのパウダーをペルーから取り寄せ、自家製ルクマアイスとしてメニューに取り入れている「クスコ」にご来店ください。)この「ルクマ」に限らず、ペルーの食べ物に懐かしい昔の日本の味を感じる事があるのは、やはり大昔に大陸が繋がっていたという証なのかもしれません。
2010年07月15日
Internacional Pressに紹介いただきました。日本で編纂されているスペイン語新聞。週1回発行されています。パイオニア シェフ上岡清剛は、34年前から大阪でペルー料理レストラン「クスコ」を営んでいる。1973年、23才の日本人、上岡清剛は、イタリアン、フレンチ、中華料理のコックとして東京のレストランで働いていた。その時、一人の友人が、彼にペルー料理の魅力を教えた。同年、上岡は旅支度をし、ペルーの首都リマへ向かった。先ずは、レストラン「ス・カサ」で働き始めたが、その後、ケイタリングの世界では名が知れ始めた日系2世のシェフ、ウンベルト・サトウ氏にスカウトされた。上岡は、そこでペルー料理に大きな影響を受けた。それは、想像を絶した。アロス・コン・カルネ、パパ・レジェーナ、ポーヨ・ア・ラ・ブラサ等の美味で素朴な味に惹かれた。「一度に4羽のポーヨ・ア・ラ・ブラサを食べたこともあります。」と思い出して言う。帰国後、1976年3月4日、大阪にペルー料理レストラン「クスコ」をオープンした。今や日本で一番古いペルー料理レストランとして知られている。当時、オリジナルペルー料理を作るためには、想像力や適応性、それに大いなる努力が要求された。現在のように何もかもが手近に無く、手に入らなかったためである。それを調達出来たのはまさに奇跡だった。高島屋デパートで開催されていたペルー展でピスコ(ペルーの酒)を見つけたのは、当時としてはとても珍しく、幸運としか言いようが無かった。上岡は販売されていたピスコを全てそっくり購入し、それがレストランのメニューの中にピスコサワー(カクテル)が確立した好機となった。それを機に色んな製品のパイオニアと変貌し、ペルーを常に頭に置きながらグルメとしてのイニシアティブをとっている。彼の両親が酒屋を営んでいたお陰で許可がおり、ピスコ、タカマワイン等の酒類やアヒ・パンカ・セコ(乾燥とうがらし)までも輸入出来た。1979年、彼は再びペルーに渡り、日本で最初のチキンの丸焼きの機械を手に入れた。ウエイトリフティングの経験が功を奏したのか、重さ100Kgもあるその機械を手荷物として帰りの機内に持ち込んだのである。1984年、日本人のペルー移民を祝して、横浜の山下公園前に横付けされた氷川丸の船内においてペルー料理フェスティバルが開催され、そのシェフとなった。1988年、ポーヨ・ア・ラ・ブラサやパパ・レジェーナ、ソパ・ミヌータ等のファーストフード1号店を兵庫県にオープンした。だが、2年後それは閉店した。「ケンタッキーのような店にしたかったのですが、立地が悪かったことと資金不足でした。でも、夢は捨てませんでした。」と彼は言う。その後、ペルー料理の商品の独特なスタイルを作り上げた。アロス・コン・カルネ、パリウエラ、アヒ・デ・ガイ-ナ、ブラサソース等のレトルト商品である。その最たるものは、パック入りチチャ・モラーダ(バランス)である。上岡のビジネス形態として、今やインターネットは最良のものであると言う。(www.cuzco.co.jp) 1986年~2008年、大阪にある名の知れた辻学園のペルー料理部門では初めての講師として登録されている。それは、日本の料理学校においては類の無い試みであった。Internacional Press より
2010年06月01日
24氷川丸2ペルー展の開催日前日にうちのスタッフのハイメ.フローレス(ペルー人コック)と二人で新幹線の始発に飛び乗りました。新横浜までの道中、準備して持参しているアンティクジョス(牛ハートの串焼き)、セビッチェ(海の幸のレモン漬け)などは香辛料の臭いが強いので車両の一番後ろ席の裏側にその料理のベースを置いたまま、私達は中程の席でとぼけて座っていました。新横浜駅から山下公園の氷川丸まではタクシーで行き、岸壁の船まで二人で重い材料(二週間分)を苦労しながら運んだことが今でもハッキリ思い出せます。そうして始まったペルー展では、ランチの来客数が余りにも少ないので、船長に交渉し、夕方からデッキでオープンしていたビアガーデンに屋台を作ってもらい、余った料理をおつまみとして売る許可を得ました。ランチは船内のレストランで、夜はビアガーデンで営業をすることができるようになりました。それでも、まかないは毎日中華街に出て食べ歩いたため結局は大赤字になってしまいました。イベント最終日、ポールが「上岡さん、勝ったか?」と私に尋ねてきました。私にはポールが何の事をいっているのか、すぐには思いつきませんでした。しかし、よくよく考えてみると、スペイン語のGANAR(ガナール)は「儲かる」の他にも「勝つ」という意味があり、彼は「儲かったか」と言うのを間違えて「勝ったか?」と聞いていたのでした。ようやく質問の意味を理解した私は「負けた。」と答え、二人で笑いました。イベントもスペイン語も難しいものだとつくづく感じる出来事になりました。
2010年04月12日
(23)氷川丸1日本人が南米に最初の移民として移住をしてから今年で111年になります。そして、111年前に日本人が向かった国、それがペルーです。ペルーへの第1回契約移民船の佐倉丸は1899年2月27日に横浜を出発し、4月3日にカヤオ港(ペルー)に到着しました。移住者の出身県で一番多いのが、沖縄県、そして、続いて熊本県、広島県です。その移住者たちは、新しい環境の中でしっかりと根付き、現在もペルーはブラジルに次ぐ、第2の日系人口を誇っています。米国シアトル航路の移民船であり、現在は横浜港山下公園の岸壁に係留されている氷川丸で1984年夏、ペルー展が開催されました。そこで私は、当時のペルー大使館商務部代表であるポールの要請を受け、氷川丸の船内でペルー料理店を出店することになりました。私は早速、東京の大使館へ出向き、ポールと一緒に氷川丸を見るため横浜へ向かいました。総トン11622トン、全長163.3メートル幅20.12メートル深さ12.5メートルの大型客船の船内レストランで2週間ペルー料理をランチで提供して欲しいとのことでした。私は船のチーフと打ち合わせをし、すぐに挑戦することに決めました。厨房、客席、食器など必要な物を確認し、材料は開催日2日前に船に届けてもらい、1日前に仕込みをし、開催する事になりました。大阪~横浜間の交通費、宿泊代、その他の経費も私持ちで赤字必至でしたが、ペルー大使館から依頼されたペルー展での仕事、やりがいを感じイベントに協力することにしました。
2010年03月10日
22 ロコト「rocoto」南米には日本にはない珍しい野菜が数多くあります。その中でも代表的なのはロコトと呼ばれるナス科トウガラシ属に属する植物で、色・形は日本のピーマンとそっくりですが、種子はピーマンと異なり黒いのが特徴な野菜です。私がペルーでレストランの調理場に入った初日に、そのロコトをピーマンだと思ってスライスしました。その後、きれいに手を洗ったにもかかわらず手で顔に触れるとそこにヒリヒリと強い痛みがはしりました。ロコトはそれほどに辛みがあり刺激の強い野菜なのです。果肉は極めて辛いのですが日本のトウガラシとは違い、辛いだけではなく食欲をそそる風味があります。そのため、辛いものが好きな人には一度食べたら癖になりそうな魅力を持った野菜です。ペルーの大衆食堂ではテーブルにレモン(日本のライム)のぶつ切りとロコトのスライスが皿に入れて置いてあり、スープやセビッチェ(白身魚のレモン漬け)その他の料理にも辛さや酸味が足らなければ調味料のように好みによって入れる事が出来るようになっているところが多いです。またそのロコトを使った料理で一番有名なのがROCOTO RELLENOと言うピーマンの肉詰めに似た料理です。ロコトを半分にカットして中にミンチ、玉ねぎをにんにく、クミンなどで味付けした具を詰め、とき卵を付け、フライパンで焼き、卵で蓋をした料理ですが、当店ではそれをトマトソースで煮込んで出しています。私はペルーでこのロコトに出会って日本での食物に対する思い込みが大きく変わりました。国が変われば使われる食材も違い、新たな発見ができるのも海外での生活の醍醐味と言えるでしょう。
2010年01月11日
21出会い30年以上前のことです、ペルー大使館に勤める秘書の方から突然、「ペルー大使館商務部ですが、予約をお願いします。」と電話が入りました。ペルー大使館は東京都渋谷区にあるのですが、その日は大阪で商談があり、その食事場所として私の店が選ばれたのでした。当日、来られたのは商務部代表のポール具志堅氏と大阪に本社がある鉄鋼関係の会社社長でした。ポールはペルー生まれの日系二世でアメリカ生活が長くスペイン語と英語でしか話さなかったのですが、私とは片言の日本語とスペイン語でペルーの事や「何故ペルー料理店をオープンしたのか?」など楽しく会話を交わしました。それからは、大使館から定期的にペルーのスペイン語新聞や雑誌などが届き、店内に置くようになりました。その頃はまだまだスペイン語の書物など珍しかったのでお客さまには好評でした。又、毎年7月28日には東京で大使館主催の「ペルー独立記念日パーティー」があり、そのパーティーにも呼ばれるようになりました。その他にも、ペルー関係のイベント時には東京まで料理を作りに行ったり、ポールが仕事で来阪する時には、同行する事が多くなりました。そして、そんな時にはよく私がポールと勘違いされました。彼は日本的な顔立ちで、私の方が色が黒くラテン系の顔をしているので私がペルー人と間違われるのです。今でも私は、「日本語がお上手ですね。」言われることが度々あります。このブログの1「なぜ、ペルー料理?」に書いたように、もしも友人の「ペルー料理はすごく美味しいから現地に習いに行けば?」と言う一言がなければ私がポールと出会うことはなかっただろうし、その友人がもしアフリカに行っていれば私はアフリカ料理店を開いていたかも知れません。そう考えると、人との出会いは不思議で本当に大切なものだなあと感じます。
2009年11月24日
Carapulcra=カラプルカ(乾燥じゃがいもの煮込み)私はペルー滞在中、週に二度ほどmercado central(中央市場)へ仕入れに行っていました。八百屋の店頭には多くの種類のじゃがいもが並んでいました。その横にじゃがいもとは全く異質の固いものが置いてあり、私は八百屋に行くたびにそれが気になっていました。見た目にはコーヒに使うザラメ砂糖の様に褐色で小さく、手でさわった感触も固くザラメ砂糖そのものでした。しかし、それを口にしてみると味はまさにじゃがいもなのです。実はこの食物はpapa secaと呼ばれる乾燥じゃがいもで、れっきとしたじゃがいもなのでした。その見た目と味の違いに私は驚き、興味を持ちました。papa secaは、じゃがいもを細かく切り、天日で長期間乾燥させたものです。このpapa secaを水で一晩もどし、ベーコン、チキン、にんにく、クミン、アヒ(ペルーの唐辛子)などで炒め、水を加え煮込んだものがカラプルカという料理です。仕上げにミックスナッツと白ワインを加えることでまろやかになり、より一層美味しくなります。私は日本に帰り、開いたレストランで、このカラプルカをメニューに載せるため、自家製のpapa secaを作る事にしました。じゃがいもをきれいに洗い、冷凍し、後に自然解凍し、ブヨブヨになったじゃがいもの水分を取り除き、皮を剥いて3mm角に切り、低温のオーブンで長時間乾燥させて作ります。あえてこの乾燥じゃがいもを使うことが、長時間煮込んでも煮崩れしにくいじゃがいも料理を作る秘訣なのです。そしてこのカラプルカが私の得意料理のひとつとなり、お店の人気メニューとなっています。(現在は袋詰めされた乾燥じゃがいもを輸入して使っています。)ペルーという国は、アンデス山脈、アマゾン川、フンボルト寒流の海岸地帯などがあり、色んな気候に恵まれています。papa secaのようにペルーでは、恵まれた環境を生かした様々な食品の保存法があり、まさに食物の宝庫と言えます。このような食物をこれからも皆様にどんどんご紹介したいと思います。
2009年10月04日
再度ペルーへ1979年5月1日、私は5年ぶりにペルーに行くことになりました。目的は新しいレストランのための買出しでした。私の留守中、店はスタッフに任せることになりました。出発の日も朝から卸市場に買い出しに行き、7時頃になってようやく必要な材料が揃い、店に向かっていたのですが途中でメーデーのデモ隊に遭遇し、渋滞から抜け出せなくなってしまいました。そこで急遽、同乗していた妻に運転を変わってもらい、私一人自宅へ戻り、ペルー行きの用意をして旅立つという波乱の旅立ちとなりました。今回の渡航では、秋に新サンケイビルへの移転が決まった新店舗のために、ポーヨ・ア・ラ・ブラサ(鶏の南米風味焼料理)を焼くための機械を何としても手に入れたかった、そして新しい店の目玉にしたかったのです。その他にもテーブルクロス50mやもろもろの買物をする必要がありました。鶏を焼くための機械はあまりにも大きいので分解し、日本で調達可能なモーターと外枠以外を設計図とともに持ち帰ることにしたのです。それでも分解した機械は100kg近くありました。その上テーブルクロスもかさばり、飛行機に乗る際には、荷物として預けるととんでもない料金がかかると判断し、手が千切れそうな思いをしながらも手荷物として機内に持ちこんだのでした。こんなところで、昔重量挙げをしていた経験が役に立つとは夢にも思いませんでした。そして、次の難関は乗り換えのロサンゼルスでの税関でした。手荷物検査に、私は内心ビクビクしていました。ところが荷物を広げようとした係員は、鉄棒や鉄板であふれる荷物の中身に呆れ返かえって、後ろに並ぶ長い行列に目をやると迷惑そうな顔をして、「早く通れ!」と言ったのでした。ロスの税関は難なくパスしたものの、日本の税関は決して甘くはなかったのです。羽田で国内線に乗り換える時、その荷物分として一人分の運賃をちゃっかり加算されることになったのです。それでも何とか無事に持ち帰ることができ、今思えば「良くやった!」と自分を褒めてやりたい懐かしい出来事です。そうやって、新サンケイビルでの新しい「クスコ」の歴史が始まったのでした。
2009年07月10日
いつもお世話になっている方からご連絡がありました★日通ペリカントラベルネット・ペルー支店 がオープンされたそうです★↓↓↓日通ペリカントラベルネットhttp://www.pelican-travel.net/link.php?frCd=peruペルーの現地旅行会社。現地価格のホテル予約。 マチュピチュ、ナスカツアー、ペルー国内線・国際線の航空券予約。
2009年07月08日
Papa rellena(ペルー風コロッケ)ジャガイモはペルーが人類に贈った最大の贈り物です。日本のスーパーや八百屋で普通に並ぶジャガイモも、もともとはペルーで生まれたものなのです。そのためペルーではジャガイモを使った料理が多くあります。レストラン『クスコ』の一番人気メニューもpapa rellenaというジャガイモを使った料理です。papa(ジャガイモ)をrellena(包み込む)という意味で、ジャガイモをボイルし、細かくマッシュして塩コショウで味付けした生地の中に玉ねぎ、ミンチ、コミーノ(クミン)アヒ(唐辛子)ニンニクなどを炒めた具を入れ、さらにゆで卵、黒オリーブ、レーズンも加えてフットボール型に包み込み、油で素揚げしたコロッケのようなものです。ペルーでは普通に作っていたpapa rellenaも日本で作るとなると、フライヤーで素揚げした時に生地のジャガイモがバラバラになったりして上手く揚げることができませんでした。そこで、生地のつなぎにパン粉、卵の白身、片栗粉、コーンスターチなどを混ぜて試すなど、日々研究を重ねました。その結果、やっとコーンスターチが最適であることがわかったのです。それでも、ジャガイモの質によりコーンスターチの量を決めるのに何十回と失敗し、何度も調整してやっと、コーンスターチの量はジャガイモの1/10くらいが一番きれいに揚がると判明したのでした。この様に現地で習ったペルー料理を素材の違う日本で作るには色々と工夫が必要になり、「クスコ」でだしている料理の一つ一つがこういった研究の末に作られたものなのです。そういった経験が今だに良い勉強となって私を支えています。
2009年05月03日
いつもご愛顧ありがとうございます。クスコはゴールデンウィークも平常通り営業いたします。営業時間のご案内4月28日 11時~14時 17時~22時 29日 ディナーのみ 16時~21時 30日 11時~14時 17時~22時5月1日 11時~14時 17時~22時 2日 ディナーのみ 16時~22時 3日 定休日 4日 ディナーのみ 16時~21時 5日 ディナーのみ 16時~21時 6日 ディナーのみ 16時~21時 7日 11時~14時 17時~22時皆様のご来店心よりお待ちしております。
2009年04月27日
クスコより、お知らせです☆彡 今週の金曜日・20日は、 春分の日ですが クスコは、ディナータイムより開店しています。 開店時間 16時 閉店時間 21時 ぜひ、いらしてください(o^o^o) お待ちしております 今日は、黄砂がよく飛ぶらしいですね 花粉や黄砂。 大変ですが、おいしい料理を食べて、体力つけましょう!
2009年03月16日
私がペルー料理店「クスコ」をオープンして一ヶ月ぐらいたった頃、以前ペルーに滞在していたという商社マンのお客様が食べに来られ、お料理の感想をお聞きすると、『料理は美味しかったがピスコを置いていないのが残念だね。』と言われました。ピスコはペルー特産の葡萄から作られた蒸留酒で、日本ではホワイトブランデーの種類に入るお酒です。リマの南に位置する都市ピスコやイカなどの南海岸の谷間で多く生産され、ストレートで飲むほかにピスコサワー(卵白、レモン、砂糖で混ぜる)やアルガロビーナ(アルガロボと言う木の蜜を混ぜる)などカクテルとして飲まれています。私は早速、日本でピスコを販売している会社がないか探してみました。しかし、その頃の日本は今と違い輸入食品などが簡単には手に入りませんでした。案の定、ピスコを扱う会社は一社もありませんでした。そんな時、前年に高島屋で『ペルー展』があった折のピスコが残っていると聞き、在庫全部を買い占めることができたのです。その後は酒店を営んでいる実家を通じて、ペルーから直接ピスコ、ワイン、アヒ(唐辛子)などを輸入し、それを「クスコ」で利用していました。1986年にはペルー大使館の要請で買い付けミッションに参加し、ピスコを日本で広めるべく尽力しましたが、日本での酒税が余りにも高いため苦戦しました。現在の日本では、少し前のそんな苦労が信じられないくらい、簡単に外国の食材やお酒などが手に入るようになりました。また、日本在住のペルー人やペルー商品を扱う会社も多くなり、「クスコ」を取り巻く環境もだいぶ変化しました。
2009年03月16日
2月に入って直ぐにビール会社から立地の良い物件が見つかったと連絡がありました。そこは老松通りと言うところで、近くには弁護士事務所や広告関係の会社、骨董品屋、画廊などがある、大阪のど真ん中でも一風変わった町でした。8.5坪のドイツ酒場だったというその物件は、改装しやすい物件でした。早速、賃貸契約を交わし保健所の営業許可、税務署、銀行などの事務手続きを済ませました。ところが、肝心のメニューを作る段階になって頭を痛めることになりました。ペルーで普通に使っていたコミーノ、パリーオ、クランクトロなどのスパイスが日本では違う名前で売られているので、デパートのスパイス売場で家庭用の小さな瓶を色々買い求め、コミーノは日本名クミン、パリーオはターメリック、クランクトロはコリアンダーと言う名前で販売されていることを突き止めました。また、材料で一番困ったのはアーリレッド(赤玉ねぎ)で33年前の日本では特殊な野菜だったので卸市場の一部でしか売っておらず、価格も普通の玉ねぎの3倍でした。それでも、ペルーでは玉ねぎと言えばアーリレッドの事で日本のような玉ねぎはあまり見かけなかったのでこだわりました。そして、やっとの思いで1976年3月4日に南米ペルー料理店「クスコ」をオープンできたのでした。ここまで、帰国してからまだ一ヶ月余りというとても短い期間でしたが、これが大阪で初めてのペルー料理店の船出となったのでした。
2009年02月22日
今朝、 テレビで 栃木県の那須にある動物園の映像を見ました アルパカ。 あるCMの影響で すっごく人気みたいです アルパカの毛から編まれた 帽子やマフラーは 暖かくて、いいですよ! クスコの店内でも お取り扱いしております。
2009年02月06日
「クスコ」オープン(前編)1976年1月28日、自分の26歳の誕生日に私はハワイから帰国しました。サクラメント(カリフォルニア州都)では手に火傷を負い、ハワイでの自動車事故を切欠に帰国を決意しました。のんびりしたハワイ生活で自分自身の不注意からの事故が続き、このままハワイに居て良いのか?又、ペルーに戻ろうか?それとも日本に帰国しようか?と色々迷った結果の帰国でした。思い悩む私を決意させたのは、以前東京の社長に云われた「迷った時には原点に戻れ!」という言葉でした。私にとっての原点とは、「何のために日本を離れるのか?」「ペルー料理を学び、レストランを開くぞ!」と大きな夢を抱いて飛び出したこと。そうして再度日本へ戻る事を決意しました。レストランを開く為のマネージメント、資金調達、その他、調理以外の勉強をするために、私が大切にしているたった1本のペティナイフだけを残し、他のナイフはすべて友達に譲りました。自分のレストランを開く時まではナイフを持たない決心で帰国しました。大阪で酒店を営んでいる実家で以前から親しくしていたビール会社の課長に『折角ペルー料理を習って来たのだから、出店すれば良いのに!』とアドバイスを受け、おまけに場所、資金面なども色々と相談にのってくれると応援の言葉を頂きました。 また、東京のレストランの支配人からは「別会社で焼肉店をオープンしたいので責任者になって欲しい。」とのオファーもあったのです。自信を無くして帰国した私にとって、周りの人達の温かい励ましの心が大きな支えとなり、ペルー料理店を開くという決意をすることができたのです。人の出会いとは本当に大切なものだと感じることができた時期でした。そして、約1ヶ月後の3月4日オープンに向けて1日が24時間では少なく感じる日々が続くのでした。後編に続く。
2009年01月19日
ランチは 11時~14時 (ラストオーダー13:30) ディナーは 17時~22時 (ラストオーダー21:30) 昨日の ブログ記事の画像は チチカカ湖でした!
2009年01月05日
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!本年も、ラテンキッチンクスコをよろしくお願いします。本年は明日、1月5日のランチ11時よりオープン致します。皆様の元気なお姿を見ることを心よりお待ちしております。なお、ディナータイムの営業は17時からです。新年会の受付なども、しております。写真は新年のイメージにぴったりだと思って選んでみました。どこの湖でしょうか??正解は…
2009年01月04日
Feliz Navidad 今日は、クスコで フローレスデュオの クリスマスコンサートですねo(^-^)o ご参加下さる方は、ぜひお楽しみくださいね ☆画像はイメージです☆
2008年12月25日
暖かいクリスマスの日(ペルー・ハワイでのクリスマスは日本と違い、夏になります。)に私はお客様の前で愛用のペティナイフを使い、動物などの飾り剥き(食材で何かの形作りをすること。)をしていました。ハワイでは、時にウエイトレスが受け持ちのテーブルの取り合いで髪の毛掴み合いの喧嘩をするほど、レストランでのチップのウエイトが高いのです。ハワイで働き始めた頃は、そのチップの多さに驚きました。チップのおかげで生活が変わるほどです。それに伴い、始めはナイフを回す程度のパフォーマンスだったものが、この頃にはお客様を目の前にして5分以内に、人参をチェスの馬の形や置物の小鳥の形に飾り剥きをするなど、オリジナルのサービスでチップを稼ぐことを覚えていました。特にお客様の誕生日などには小さなまな板と人参、パセリ、竹串を持って客席ですばやく飾り剥きをしました。「マイ、プレゼント,フォーユー」と云ってプレゼントするとお客様は感激し、「サンキュウ」と握手を求められ、差し出されたその手の中には20ドル札が忍ばせてあったこともありました。こうして愛用のペティナイフは私と共に海外生活を渡り歩き、ハワイ時代の生活を文字通り支えてくれたのです。そして今でも大事な私の宝物です。
2008年12月16日
12月25日に行われる フローレスデュオのクリスマスのディナーショー 1・2部共に予約の空きは 2名様です ご予約がまだの方は、お早めに! 23日(火)は祝日ですが ラテンキッチンクスコは営業しておりますo(^-^)o ぜひ お越しください☆彡
2008年12月13日
12月25日は フローレスデュオの クリスマスコンサートを ラテンキッチンクスコにて 行いますo(^-^)o 1部、2部になっております 残席などの問い合わせは xxx-xxx-xxxxx お店まで お願いしますm(_ _)m
2008年12月13日
再び海外へ(ハワイ) 1974年の秋、私はギラギラ光る太陽に照らされたビーチで昼寝をしていました。午前中はマウイ大学のスペイン語講座をもぐりで受け、昼からはいつも車のトランク中にゴザを入れ、冷たい水とMACで買ったハンバーガーを持ってカナパリビーチで昼寝をしていました。気が向けばプカシェル(穴の開いた貝)を拾い集めてネックレスを作ったり、読書に耽って、とても優雅な生活を送っていました。そもそもなぜ私がハワイに来たのかというと、私がペルーから日本に帰国してすぐ、以前働いていた東京のレストランへ挨拶に行き、レストランの社長から「君がペルーに行っている間に、ハワイのマウイ島にレストランをオープンしたので手伝って欲しい。」と誘われたことが切欠でした。というわけでハワイに渡った私は、ペルーに飛び立った時とは違い、ワーキングビザ・仕事・保険・住宅の保証が整っているという最高の条件でのんびりとした生活を送っていました。仕事はディナータイムだけで、鉄板焼きの指導でした。先ず、お客さんを前に鉄板に置かれたシュリンプをナイフで身と尾に分け、肉は素早く一口大にカットし、塩・コショウは大きな胡椒引きでカチカチとリズムを取りながら腰を振り振り味付けし、最後にナイフをぐるぐると回すというパフォーマンスを全面に押し出した仕事でした。ある時、私は大きなグループ客を前に調理をすることになりました。はりきった私は、剣道着を着て鉢巻をし、大きなまな板に10キロぐらいのサーロイン肉と野菜を載せてお客さんの前に立ちました。そして、ウエトレスに英語で「日本では昔肉を食べる前にこのような儀式をしていた。」と通訳をしてもらい、出鱈目な祝詞をあげ、お払いのマネをして肉を「エイッ!」と言う掛け声とともに真っ二つに切り、ナイフを回して儀式を終えたのでした。日本人にしてみたらとんでもない、そのパフォーマンスもハワイのお客さんには大ウケで拍手が湧きました。その後、「It′s joke.」と白状すると、またまた笑いをとり、とても満足してくれたのでした。そんなハワイのレストランで学んだことは、料理とは味だけではなく演出も大切な要素であるということでした。
2008年11月12日
こんばんは日に日に寒くなっていますね皆様、元気に過ごされていますか?ラテンキッチンクスコではクリスマス期間中特別のクリスマスメニューが登場します!★メニュー内容★・ほうれん草のスープ・海の幸のレモン漬け・パーナ貝の野菜ソースかけ&ペルー風オムレツ・ペルー風コロッケ・ペルー風チキンシチュー・若鶏の南米風味焼き・ペルー風ブイヤベース・牛肉の香草炊き込みご飯・デザートとコーヒー(またはハーブティー)¥4000詳細は下記をごらん下さい↓http://www.cuzco.co.jp/infoxmas.html
2008年11月11日
日の入りも 早くなりましたよ! 寒くなってきましたので 皆様 体調を崩さないように、してくださいね
2008年10月28日
いつも、紫とうもろこしドリンクをご愛用いただきましてありがとうございます。お客様の声に答えて登場したシュガーレス チチャバランス★発売5周年を迎えました!!!!ありがとうございます★そこで!!5周年感謝パックをご用意しました!!!!なんと通常1200円かかる送料を 無料!2ケースセットでなんと 9800円 でお届けします。楽天ショップだけの限定!いつもブログを見てくださっている方限定です!お求めはこちら↓↓↓http://item.rakuten.co.jp/cuzco/c-2001-2008/数量限定です。お早めにお申し込みください★
2008年10月09日
12 一時帰国ブラジルからペルーに戻りいつもどおりの日々が続いていましたが、ビザの関係でそろそろ帰国しなければならなくなりました。その前にどうしてもペルー国土の50%を占めるアマゾン川を見ておきたくて、リマからイキトスへ飛行機で向かいました。空港に着き、拾ったタクシーの運転手に「安いホテルを紹介してください。」と言い、連れて行かれたホテルにチェクインして部屋に入りました。そして疲れていたのですぐにベッドに横たわると、何と天井には何百匹ものヤモリが張り付いていたのでした。いつそのヤモリが寝ている自分の上に落ちてくるかと思うと、気が気ではありませんでしたが、疲れのせいで眠ることができました。アマゾン川は川というより湖のような大きさで、川幅が15kmと聞き驚きました。又、船で川を下っていると、ジャングルから「キャキャ」という声がするので声の方を見ると、今まで見たことの無い金髪の猿が木から木へ跳んでいました。まさにターザンの映画を見ているようでした。アマゾン川は茶色く濁った水をゆるやかにうねらせながら、密林の中をブラジルの河口まで下っていました。イキトスからリマの空港に着いたのは夜遅くで、少し寒さを感じました。そしてタラップを降りた瞬間に背中の左半分が何かに叩かれたみたいに痛みが走ったのです。その原因は暑いアマゾンから急激に寒い夜中のリマに移動した為の温度差でおきるアイレと言う病気でした。その後遺症で33年たった今でも梅雨どきなどに背中が肉離れのように痛むことが時々あります。そんな波乱続きの海外生活も終わりをむかえ、とうとう帰国の日が来ました。リマからロサンゼルス、ハワイ経由で帰国する事になり、ハワイから久々に日本にいる母に電話をかけました。2年前、ペルーにむけ日本を発つ前に母は、「道楽息子のあんたはお金をもっていくと遊ぶので、料理の勉強でペルーに行くのなら、お金はあまり持たないで現地で仕事を見つけなさい!」と言いました。母にすれば無鉄砲な息子を止めるつもりで言った言葉であったのですが、私は本当に往復の航空券とたった100ドルの現金だけで日本を飛び立ったのです。意地でも親には頼りたくないという思いから2年余りで3回しか連絡を取らず、帰国する前々日になってやっと取った連絡も「明後日に日本に帰ります。」という事務的なものでした。今となっては、自分で考えても何と無鉄砲で勝手な息子だったのかと思いますが、母親にしてみればより一層、困った息子であっただろうと思います。
2008年10月06日
ペルー民芸品 冬物を入荷しました! 100%、アルパカです 帽子、靴下、手袋、マフラー 写真の アルパカちゃんも、商品です ぜひ 店内で手にとって ご覧下さい
2008年10月05日
先日 ミラバケッソのCMは リャマです と、記事を書きましたが アルパカらしいです (><) すみません! 今日から10月ですね 心機一転 今日からも 頑張りましょうo(^-^)o
2008年10月01日
おはようございます いま 成海璃子ちゃんと CMに 出てます ペルー出身のリャマです 仲間が クスコの店頭にいます また 見に来てください
2008年09月09日
内容充実(^^) アンデス特集です TRANSIST
2008年09月07日
11ペルーからの旅立ち続編当初の目的だった「リオのカーニバル」に行くため、ブエノス・アイレスからブラジルのサンパウロまで陸で行く予定でしたが、途中で山崩れがあり急遽飛行機に切り替えました。そしてたどり着いたサンパウロでは日本人町の宮本旅館に泊りました。旅館では久々に布団で寝る事ができて心が和みました。荷物を宮本旅館に預かってもらい長距離バスでリオネジャネイロに行きました。着いたのは午前4時頃でした。カーニバルで踊っている人たちは殆ど黒人、見物人も黒人で黒光りしている。同一人種(黄色人種)のみで形成された日本では、黒人に会うことはあっても周りを全て黒人に囲まれることは絶対にありません。夜明け前のリオでぼつんとたたずむ東洋人の私達、カーニバルの異様な雰囲気と相俟って感じたのはこの旅一番の恐怖でした。それでも無事にリオのカーニバルを見ることができた私らは、リオネジャネイロから一度サンパウロに戻り、また長距離バスでイグァスの滝を見に行きました。イグァスの滝はアルゼンチン・ブラジル・パラグァイ3国の国境に接する世界有数の滝です。滝の数は300以上、落差は数10m、滝全体の幅は約4km、流量はナイアガラ滝の1.5倍もあり、世界でも有数の絶景はまさしく「すごい」の一言でした。ホテルでは2年ぶりにクーラーの入った部屋に泊り、朝食はブッフェスタイル、アマゾンの色々なフルーツや沢山の焼きたてのパンなどもあり、豪華なひと時を満喫しました。特に朝食で飲んだオレンジジュースの美味しさは今だに忘れられません。その後、本当はブラジルからヨーロッパに渡り、そして日本に帰国しようと思っていたのですが、ホームシック(日本ではなくペルー)にかかりペルーに戻ることにしました。それ程私にとってペルーは大事な国になってしまっていたのでした。
2008年09月07日
こんばんは この蒸し暑さは何でしょうか 夏の疲れ 皆様、ぶり返さないようにして下さいね 今の時期 ペルーに旅行に行かれる方が 多いみたいです クスコでガイドをされていた方と話す機会があり 「9月は クスコに来る観光客多いのよ」 って教えてもらいました 気候が安定しているようですよ
2008年09月03日
おはようございます お盆がすぎ 朝晩は、涼しくなりましたね。 夜は、虫の鳴き声が聞こえ 風情を感じます 涼しくなってくると 夏の疲れが出やすいですが 体調崩されたりしていませんか?? 最近は バケツをひっくり反したように 雷雨を伴って降る雨が よくありますが あれを ゲリラ雷雨と いうようですよ! 来月も そんな雨が多くなるのでしょうか 来月は、9月だし 秋も近付いてきてますね
2008年08月23日
ラテンキッチンクスコは お盆も 営業しております 皆様のお越しを お待ちしております(^o^)/
2008年08月07日
8月7日は バナナの日です バナナには カリウムが豊富に含まれています 最近、本屋で バナナ1本でやせました など、そういう類の書籍をよく見掛けます 食物がもつ 効果はすごいですね 毎日 暑いですが おいしいものを食べて、乗り切りましょうね (^o^)/
2008年08月06日
ペルーからの旅立ちペルーでの生活も1年以上経ち、南米の他の国のことも気になり始めたので、ブラジルの「リオのカーニバル」に合わせて日本人の友人とペルーを旅立つ事にしました。リマからチリの首都サンチャゴへは飛行機に乗りました。サンチャゴは昨年アジェンデ大統領がピノチェトの軍事クーデターの為亡くなったばかりで、街なかは軍隊が仕切り、まだ壁などに銃弾の後が生々しく残っていました。その異様な街の雰囲気に、平和な日本の国で育った私はこれまでの人生観が変わってしまいました。サンチャゴの夜明けは遅く、朝7時発のバスでアルゼンチンのメンドーサに行く時にはまだ外は暗かった。バスでメンドーサに着いてホテルを探したのですが、殆どのホテルでは私の顔や覚えたてのスペイン語のせいで断られました。やっと泊めてくれることになったホテルの支配人に「何故、他のホテルは満室だと言って私を泊めてくれないのか?」と聞くと、支配人は「最近ヨーロッパから日本の赤軍派が流れてきて着ているので町中の人が警戒している。」と意外な言葉が返ってきたのでした。メンドーサは美しい田舎町でブドウ畑が多く、世界でも有名なワインの産地です。メンドーサから列車でブエノス・アイレスへ行く途中、車窓からの景色はパンパと言う平原が視界いっぱいに地平線まで続いていました。そのパンパの景色は一眠りして目を覚ましても眠る前と全く変わらぬ景色が続いている程、壮大で今でもはっきりと覚えています。 後編に続く
2008年08月04日
7月28日は ペルー独立記念日です 167年前に スペインから独立しました デカセギーゼがたくさんいる箇所では 日本でも この週末、独立記念日のイベント していたみたいですね ペルー料理の屋台が出たり フォルクローレの演奏などなど (場所によっては レゲトンやメレンゲのイベントもあったかもしれませんね) 本国ペルーでは 国旗の上で 全裸写真を撮り、それが表紙になった 週刊誌が話題だとか(^-^; なにはともあれ 明日は 独立記念日です
2008年07月27日
おはようございます 日々、暑いですが 皆様お元気ですか?? 先日 お休みを頂いて 富士山へ行きました。 写真は 富士山から見た日の出です
2008年07月13日
9「車の博物館ペルー」私がペルーに着いて最初に驚いたのは、古い車が多く、世界各国の車が揃っている事です。私が結婚式の料理をパーティー会場まで車で運ぶ時の相棒は常にマネージャーのセルヒヨでした。彼はユーゴスラビア系ペルー人で身長は1m93cm、頭は金髪で天然パーマ、そして口髭を蓄えた風体で機関銃のようによくしゃべる青年でした。リマのセントロ(中心街)では渋滞が多く、車が渋滞になると彼はいつも運転席側のドアを叩くので私は「クラクションがあるのに何故鳴らさないのか?」と聞きました。すると、彼は「一時期、皆がクラクションばかり鳴らし騒音が酷く法律でクラクションを鳴らすのを禁止した時期があり、皆はドアを叩くようになった。」と言います。本当かなあ?リマは雨が少ないのでワイパーを付けている車が少ないのですが、ある日、雨が急に大降りになったので、セルヒヨは一旦車を止め、ダッシュボードからワイパーを取り出しフロントガラスに取り付けて回しだしました。私が「何故、最初からフロントガラスに付いていないのか?」と聞くと「外に出していたらワイパーが盗まれてしまう。」という答えが返ってきたのでした。その他にも助手席のドアがない車や、へッドライトが片目の車、日本では完全に車検で不合格になるような車が多く走っていました。タクシーにも古い車が多く、殆どメーターが付いていません。料金は行き先を言って口頭で値段交渉するのです。私の友人は暇な時間にフロントガラスに「Taxi」と書いたシールを貼り白タクをしていました。いつでも「Taxi」のシールが買えるので便利だよと笑っていました。私がペルーに滞在して一年目ぐらいにガソリンの価格が上がり、法律でナンバープレートの奇数と偶数で運転できる曜日が定められた時期があったのですが、お金持ちは両方の番号を手配してしまい、日本では驚きの法律もあまり効果がなかったようでした。早朝に車を使うことがあり、前夜からダッシュボードに国際運転免許書を入れていたら盗まれてしまったことがありました。セルヒヨに相談したら「すぐに警察にいこう!」ということになり、最寄りの警察署に行って説明したら「今、時間がないので来週又来てください。」と無視されました。ところが、セルヒヨが急に警察官に親しそうな態度で「オイ、アミーゴ・・・・・」と早口で言って机の下からお金を出し渡した。私がビックリして見ていると警察官が「時間が空いたので申請用紙を持ってきた。」と言って紛失証明書をすぐに書いてくれたのでした。結局、私はペルーを出国するまでその証明書で運転を続けたのでした。このようにペルーでは日本では考えられないような何とも愉快な?不思議な?出来事が多く、色々と車に関してのエピソードも多い国でした。
2008年07月06日
お客様から先日 「け ブスか?」 と言われました。 ブスと言われた わけではありません(^_^;) アルファベットに直すと QUE BUSUCA? (本当は、Eの上にアクセント記号がいりますが) 何を探してますか? という意味です。 スペイン語です お客様、ご友人から 市場では、ブスって言われるらしい と聞かれたようです(^_^) 市場ならではの 会話だなーと思いました
2008年06月28日
皆さん、こんにちは じめじめして 梅雨らしい毎日が続きますね あの梅雨の晴れ間は、どこにいったのでしょうか 外は暑いですが わたしは、ホットコーヒーが好きです クスコのコーヒーは、ペルー式なので 濃くいれたコーヒーを お湯で割って頂くのです 最近 「濃さが自分好みだから、お湯で割らなくても 飲めるよ」 という方によく出会います まだ試したことのない方は 試して下さいね
2008年06月23日
アンデス高原では 幸せをもたらす人形として知られてます 店内にあった エケッコーさんが、割れたので わたしのエケッコーさんを 里子に出します 首にぶら下げているのは 人間の願望を表したものです 農作物、家財、現金 いらした際は、ぜひ見て下さい
2008年06月10日
クスコに来ています 今日、いらっしゃったお客様 占いができる方がいらっしゃったようです マスター、真剣ですね 何を聞いてるのですか???
2008年06月04日
マチュピチュ(Machupichu)ボリビアには3日間滞在してペルーに戻りました。入国管理事務所で「ただいま!」と言うと「早かったね!」と言葉が返ってきました。その時代に日本人がペルー料理の勉強に来たという事が珍しく、入国管理事務所の人も私の顔を覚えていたようでした。ペルーのプーノ(3800m)に戻り、世界最高地点にあるチチカカ湖のウロス島(植物の葦を積み重ねた浮き島)を見学し、プーノで代表的なTrucha(鱒)の料理を食しました。翌日は列車で11時間かけてクスコ(インカ帝国の首都)のある3400mまで下りました。またその翌朝は早くからアウトバゴンと呼ばれる列車で3時間半かけてプエンテルイナス駅のある2000m地点まで下り、再びバスで六甲山のようにくねくねした坂をジグザグに13回折り返してマチュピチュの入口がある2400m地点まで登りました。初めて見るマチュピチュは小雨のせいで少し霧がかかり「空中都市」と呼ばれるだけあって不思議な空間が漂っていました。何故この場所にこのような都市ができたのか、とても神秘的な遺跡でした。帰りのバスに乗り込むと、外でインディオの少年が手を振ってくれました。その少年はくねくね坂を1回下るたびに、バスより早く下って道端で手を振っていました。列車の駅がある所まで13回も手を振り我々のバスを迎えてくれた時、皆から拍手が湧きました。実はその少年は手にお土産品を持ち販売する、世界でも有名な「グッバイ・ボーイ」だったのです。クスコでの夕食は知り合いの家に招かれ、高級料理のCuy(モルモット)をご馳走になりました。リマでも2回ほど食べたことはありましたが、いつもカットされたものだったので特に違和感を感じませんでした。しかし丸焼きを目の前にした時には、そのグロテスクさに驚きました。それでも、味は美味しくウサギの肉に似ていました。国が変われば食べ物も変わると言いますが、その典型的な一品がこのCuyでした。
2008年06月03日
いま、友だちとごはんを食べに クスコに来てます 頂きます☆
2008年05月31日
こんばんは! 今日、23時からTBS系列で放送の 情熱大陸に ペルー クスコのサッカーチーム シエンシアーノで活躍する 澤選手が出るみたいです! クスコの街並みが見られるかもしれませんね お時間ありましたら、見て下さい
2008年05月25日
こんにちは ご無沙汰しておりました 皆様、元気にされてますか? マスターを含め、みんな元気です 先日、楽天ショップで店長を勤める『榎本』が クスコに食べに来ました! 実は、直接会うのは1年ぶりで… 榎本、元気でした。 楽天ショップ、また皆様もご利用下さいね!
2008年05月25日
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