全3件 (3件中 1-3件目)
1
政府は本当に戦争をしたことを後悔し、500万人余の国民が苦杯を舐めた敗戦を反省しているのかと言えば、はなはだ疑問である。敗戦を終戦とごまかし、立派な形だけの行事をおこなえばあとは知らない。東京裁判で敵国によって下された判決によって数十人が死刑になったが、その責任はどこにあるのか?戦勝国の連合軍が行った軍事裁判ははたして法的に成立していたのか?戦後の放送界も歴史学会もまともな統一見解を出したことはない。個々に思い々のばらばらな見解を述べているだけだ。まさに国家的欺瞞、ごまかしである。他国と比べるのは僭越だが、同じ軍事裁判の被告であるドイツは、連合国が一方的に行ったいわゆるニュルンベルク裁判と、ナチスが自国内で行った犯罪とは切り離している。片や日本は、連合国が一方的に行った裁判の結果をそのまま受け入れ、自国民による自国民への裁判を起こしていない。唯一、東京大空襲での死者遺族が国を訴えたが、国民は国のやることに受忍する義務があるということで却下されているだけだ。また戦死者には年金が支給されているが、一般国民の戦死者には支給されていない。わたしから言わせれば、赤紙もらって招集されて戦死したのと、意思に関わらず敵国の攻撃で死亡したのと、大した変わりはないと思うのだ。国は国民を守る義務があり、この逆もあり得るというのが国の言い分なのである。ドイツは戦没者には手厚い年金を支給しているが、わが国では、いわゆる銃後の守りで国のために戦った(国はこのようにキャンペーンを張っていた)国民は受忍限度内として支給していない。ドイツはニュルンベルク裁判が始まる前から戦争指導者の摘発を検事局が行い、逮捕者は数千人、そのなかに連合国から呼び出された二重被告もいたのである。またイスラエルが戦後建国され、ユダヤ人への虐殺を追求し始め、ドイツもこの行為に協力した。しかしあくまで逮捕と裁判はドイツ国内で行った。しかしイスラエルは重大犯には違法だがドイツ国内から誘拐して自国で死刑にしてしまったのもある。アイヒマンがその好例で、イスラエルの言い分は、彼はドイツにいたわけでなく、外国(アルゼンチン)に逃亡、そこで諜報機関が逮捕したのであってドイツの司法権は及ばないとしている。閑話休題日本は500万人以上の国民の財産、生命を損傷させた罪を連合国のいわゆる「東京裁判」でみそぎは済んだと考えているのだと思う。しかし東京裁判はわたしから言わせれば違法であり、全部事後法で成立しているのだ。連合国から裁判の結果を遵守するように指示された日本はそれを汲々として守り、もっとも大切な時期、終戦後直後の混乱期に最も必要だった旧軍将校たちの力を借りなかった。これがまず第一の失敗である。被占領された日本で軍隊は解散させられ、連合国の庇護に入ったからである。また戦争犯罪人とは敗戦国だけにしかいないのではなく、戦勝国にもいたはずである。例えば海軍関係者の戦後の著書によくある、撃沈された日本艦艇の漂流者を機銃で射撃した水兵、沖縄での戦闘で村落に放火して出てきた住民を射殺したなんてエピソードも検証されなければならない。またどさくさに紛れて逃げ遅れた満州での日本兵を拉致して重労働につかせた罪などは事後法でなく、れっきとした国際法で裁くことができる。8.15以降のソビエトの不法侵略もまた戦争犯罪である。また日本への航空機による爆撃は一般人の殺戮を禁じたハーグ陸戦条約にも違反している。これら一連の連合国が行った日本に対する戦争犯罪の可能性もまた検証されなければならない。また日本国民は自国が被った戦争の被害を他国だけのせいにせず、自国民にもまたその原因はあるという考えをもって、「自国民に対する犯罪」と「敵国民から被った犯罪」とを追及して初めて公平な国と言えるのだ。馬鹿の一つ覚えのように繰り返す戦没者慰霊行事はこれらの考えをもってすればまた違うものになるだろう。慰霊行事で語られるコメントは主語があいまいで誰が悪く誰が被害者なのかわからない。よく「戦争反対!」などが叫ばれるが、戦争そのものは行為であって全く無意味なスローガンである。言いやすいスローガンは言い換えれば全く無意味なものでしかない。主語と目的語を明快に我々は戦争を非難しなければならないのだ。かさねてそうなれば今の国民が遭遇している他国からの軋轢や脅しなど、また違うものになるだろう。日本人が国際的に堂々とできず、米国のプードルなどとされている現在、すべて戦後の処理のまずさから来ている。きちんとした自覚と歴史解釈があれば、日本は世界からも尊敬され、素晴らしい国になっていただろう。「自国民が自国民に対して行った戦争犯罪」についてはまたの機会に書きます。
2023.08.17
コメント(0)
「鎌倉殿の13人」終わりました。見ていたわけではありませんが、源義経を殺すために起きた奥州征伐のくだりは、東北が現代にいたる千年近い間他地方に比べて文化的にも人材的にも劣る地方として扱われることになりました。人口は少なく気候も厳しいという土地で、産業や文化の勃興するはずもなく、唯一中央に比肩した藤原氏は哀れ義経の巻き添えを食ってしまった格好です。藤原氏の滅亡以降、日本史から東北はほとんど抹消されたと思う。高校で習った日本史の教科書もそんな感じだったように思います。それから東北は歴史的に数百年後再び戊辰戦争を経験し、薩長の支配下にはいり、山県有朋によって「白河以北一山百文」というレッテルを貼られてしまいました。また薩長政治のなれの果て八紘一宇と言われた東南アジア征派事業では、多数の荘丁を満州に送り込み、挙句の果てに荒野に迷わせたという土地柄、2022年の今これをやっと覆す高校野球の優勝旗が白河の関を超えたということでお祝い騒ぎをぶち上げた東北、このことは見方を変えればニヒリズムと言うか自ら蔑視されていることを認めているということにもなります。ある農学者は、明治の北海道開拓に異論を唱えると同時に、東北を「日本のスコットランドたれ!」と檄を飛ばしました。当初は政府も東北をまず整備してそれから北海道という地勢的には正しい方針だったが、ロシアの干渉で北海道優先に切り替えた。福島県猪苗代湖からの「安積疎水」を皮切りに始まった東北への投資は中止され以後北海道に集中したのはあきらかです。東北は余りにも広すぎた(スイスよりもオランダよりもひろい)地域同士につながりが薄く管理しにくい今でもNHK東北のニュースで青森の名産品や温泉を福島の人間が見ても行きたいとは思わない。あまりに遠いから。飛行機でもあればいいがそれもない。具体的に上げると1.地勢的に東北は外国とのかかわりが浅かった?気候も厳しく海も荒れ気味で朝鮮、中国などとの往来には向かない。かといって半年のあいだ氷に閉ざされる北海道、北日本周囲の大陸側は往来極めて寡少だった(せいぜいロシア人がたびたび干渉していた)2.気候が峻厳で人の往来が少なく、交流できる時期が他地方に比べて少ない。ということは学びの場も少ないので、知識のレベルが低く、官の言いなりになるしかなかった。3.明治初期の戊辰戦争での敗北(会津藩)とその後の政府の東北蔑視最後に実体験を話しますが、安積疎水ってそんなに必要だったのか?ということです。水田に水を引くだけなら阿武隈川があったし、また中町、駅前周辺の土地は1mも掘れば地下水の水面が出ます。水質の問題などあったかもしれませんが、安積疎水の目的はほかにあったと思う。要するに敵性地帯だった東北に西側の人間を移住させてガラガラポンする民族混和政策だったと思われます。敵性人間同士でも婚姻が進み、世代が変われば感情的には融和されますからね。そのため、郡山市内の郊外には水田の一角に墓地が作られ、異様な光景を醸し出しています。鳥取、久留米、博多、鳥羽など移民部落ができ、地名は今でも残っています。最後に「東北」という言葉がいかにイメージを損なうかという実例を紹介します。栃木県は数十年前に県内を縦断する東北本線を「宇都宮線」と名称を変えました。これに東北六県を代表して福島県佐藤知事は抗議しましたが、栃木県知事はおかど違いと言うことではねのけたという経歴があります。確かに自分の県内ぐらいは県が自由に名称を付ける権利があります。ただ東北新幹線は名称はそのままで栃木県内を走っています(笑)そのうちこれも名称を変えてくれってJRに抗議されるかも・・・東北が明治以来の被差別を解消する方法は残念ながらないと思う。いちばんいいのは東北人自身がこんなひがみやあきらめを持たないのが一番いいと思います。もし差別的発言や扱いを受けたらその場で断固抗議するぐらいの気構えは必要です。
2023.02.24
コメント(0)
ハワイの王様は、実際に日本に保護を求めたという事実があるようなので、オアフ島の港湾を日本が租借するということで二枚目が始まります。米国太平洋艦隊はまだ創設したばかり、西海岸にはろくな港湾と造船所がなかったため、ほとんどの艦船は右回りでアジアと往復していた。アメリカはどうしてもハワイに港湾を確保し、同時に西海岸を太平洋航路の拠点として整備したかったが、日本に出遅れたことにします(汗)史実通り勃発した日清戦争は台湾併合とともに終了し、日本は遼東半島を租借地とした。英国の後ろ盾もあって、三国干渉は不調に終わり、日本は大連、長春などを手中にして満州経営の基礎を作ります。1898年、史実通り米西戦争が起きます。ここが大事なところで、日本はこの戦争に介入し、台湾保護を名目にマニラに進駐します。陸軍を敏速に輸送できないアメリカ軍は日本に対してフィリピンの統治を委託、スペインと休戦します。同時に日英同盟を締結、世界の最強国英国と同盟したことでアメリカの太平洋での影響力は薄れ、ハワイ諸島とフィリピンは日本とアメリカの共同統治となります。ここで実際の日米の太平洋戦略の違いを考察してみたいと思いますが、日本は長い惰眠から目が醒めて周囲の状況がやっとわかりえたのが19世紀末、アメリカは米英戦争と南北戦争を経て西部開拓史の世界、日本は大陸に気を取られて太平洋という資源には全く触れることができなかった。西欧に対して出遅れているアメリカは西海岸に達した勢いでそのまま飛び地のアラスカを入手、その勢いでアリューシャン列島を島伝いに子供の陣取りのように伸ばし、太平洋の北端を抑えたわけで、この勢いは続く米西戦争で決定的になったと思うんです。妄想年表では、この米国の勢いに新興国の日本が英国の助けを借りて横槍を入れると言うのが基本です。英国だってただ好意で日本を援助したわけではないが、それを単純に信じたという日本人の真心はある英国人には理解された形跡があります。造船所や砲の製造メーカーのような国防上重要な場所に素性も知れぬ日本人を出入りさせたのは、日本に融資したユダヤ系の金融筋だった。人種間の争いに全く白紙だった日本人が欧州の人間たちに新鮮な息吹を感じさせたのは確かです。妄想年表に決定的まちがいがあるのは、日露戦争の賠償としてロシアがアラスカを日本に割譲と言うのは時系列的に間違っています。1860年代にアラスカはロシアからアメリカに売却されていますからね。20世紀になってからの日露戦争の賠償でロシアから取れるはずはありませんね(汗)ただ日露戦争は英国以外の白人社会を中国から締め出すのに大いに貢献したのは間違いないです。 史実では世界の強国の仲間入りした日本は、中国に深く浸透して米英の資本を脅かしたためにドイツと手を結んで対抗する策を取り、ヒットラーとともに自滅しますが、妄想年表では英国と手を握って米国のアジアでの覇権を一掃します。ロシアからウラジオストックと尼港を入手した日本は日本海、東シナ海の制海権を手に入れ、片や英国は第一次大戦で負ったアメリカへの債務を日本と連帯保証として帳消しにするために対米戦争となり、フランスとともにカナダに進駐、アメリカは日英仏の三か国当時となります。(そんなバカな)さらに三枚目を執筆中です。
2022.10.13
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1