藤の屋文具店

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未来に還る 前編



【未来に還る】

第一章

伊号四〇四潜


昭和18年2月3日

連合軍の侵攻著しいガダルカナル島の東方海域を、小さな影が四
つ、波をけたててゆっくりと西へ進んでいる。
海面の影は小さく見えたが、水平線さえ見渡せる程の南方の明る
い夜は、その下に潜む巨大な影を、紺碧の海にくっきりと浮かばせ
ていた。

四つの影は、白波をけたてて走る。やがて月あかりの海面に、そ
の巨大な影はゆっくりと姿を現した。
水面に現れた全長一二二米、基準排水量三六〇〇屯の巨大な船は、
一海里の距離をおいて海面を静かに並走し始めた。日本海軍が世界
に誇る海底空母、伊号四〇〇型の最新艦である。
しかし、敗色濃い戦況において、この画期的な攻撃兵器はその実
力を発揮する機会を見出し得ず、本「ケ」号作戦においてガ島守備
隊の撤収のための輸送の任に就いたのである。特殊爆撃機「晴嵐」
を三機収納すべく設けられた全長三〇余米の格納筒には、ガ島守備
隊のための救援物資が満載され、復路に於いては兵員を収容すべく
いくばくかの改造が施されていた。
さらに、艦の後方にはやや小さな影がぴたりと追尾して海面下に
あった。全長四十壱米の大型運貨筒である。動力を持たない水中コ
ンテナは、潜水艦に洩航されて四ノットの速度で自動的に潜行する。
内部には三五〇屯の救援物資が格納されている。

「敵影なーし」
見張員の報告に艦内の緊張が緩む。艦長の川上中佐は副長に命令
を伝えた。副長が伝声管にむけて叫ぶ。
「充電中に、各自交代で外の空気を吸ってこい」
前部甲板の各ハッチの下には、たちまち整然とした列ができた。
七七〇〇馬力の最大出力を誇るヂーゼルエンヂンは、どうどうとい
う音を立てて発電機を回し、潜行中に使用する二四〇〇馬力の電動
機のための蓄電池の充電を開始した。後部甲板脇の第一排出弁より
白い排気ガスがもうもうとたち昇る。
甲板に這い出した乗組員たちは、胸いっぱいに清浄な空気を吸い
込み、貴重な煙草をとりだして回しのみを始めた。重油の臭いと電
池室のガスで淀んだ艦内の空気は、潜水艦独特のものである。いつ
までたっても慣れられるものではない。

名残おしそうに艦内に戻る兵と交代して、若い兵が甲板に出てく
る。甲板に出るときはいつも夜である。彼は、出航以来一度も陽の
光を浴びた事がなかった。彼が知っているのは狭くて薄暗い艦内と
夜の海だけである。正確な戦況を知らされ得ぬ若い水兵達にとって
も、もはや帝国海軍の制海権が昔日の面影を持たない事は明らかで
あった。しかし、誰もその事を口に出すものはいなかった。
夜とはいえ、南の海は明るい。遮るものの何もない、見渡す限り
水平線のその果てまでも、南国の日差しの残照がはっきりと照らし
出していた。
と、その水平線の彼方に、何か黒い影がいくつか見えたような気
がした。目を凝らして見ようとする彼の耳に、見張り員の声が聞こ
えた。

「敵影はっけーん! 方位、ふたさんまるまる」

「総員、警戒態勢、潜航よーい」

甲板の乗組員たちは、失望と緊張で白くなった顔を月明かりに浮
かばせて、もくもくとハッチへ駆ける。

「駆逐艦、転針、向かってくる」

「機関停止、潜航急げ」

緊急ブザーが艦内に鳴り響く。
ヂーゼルエンヂンが急停止し、電動機推進に切り替わる。
艦橋の見張り員が飛び込んでくる。
指令室の警備灯が、通風筒の閉鎖を知らせる。
最後の信号員が飛び込んできて叫んだ。

「ハッチ、良し」

「急速潜航ーっ、ベント開けー」

四つの影はみるみる水面から姿を消し、わずかな航跡だけが、彼
らが現実の存在である事を示していた。

「敵影六、駆逐艦接近中!」
「潜望鏡さげーっ、深度一〇〇」
「深度一〇〇よろし」
「爆雷防御、防水扉閉め」

現代の潜水艦と異なり、水上航行を目的としたシップ型の船体は
水中航行に適さない。海上でヂーゼルエンジンによって充電された
蓄電池によって細々と回されるモーターは、長く持たせようと思え
ば3ノットでしか進めないのだ。
しかも艦内の空気は、どんどんと濁って息苦しくなる。駆逐艦の
爆雷におびえながら狭くて暗い艦内でじっと息を殺して待つのは、
学徒出陣で駆り出されてきた若い水兵たちにとっては地獄の苦しみ
であった。

「運貨筒を切り放しますか?」

副長がぽつりと言った。
艦長は答えずにじっと遠くを見ている。ワイヤーで連結された大
型運貨筒は艦の動きを制限する、制海権を奪われた海域で駆逐艦と
やりあうには、おおきな足かせとなるのだ。

「深度一六〇」

艦長がゆっくりと言った。

「深度一六〇」

操舵手が復唱する。この四〇四潜からは、艦内の圧力を上げて深
度を稼ぐ能力が装備されているが、それでも限界に近い深さである。
声にはださないが、指令室のなかには緊張がはしった。

「爆雷です、無数!」

聴音手が緊張した声を上げる。

「左舷後方、遠い!」

米駆逐艦の投下した爆雷は深度八〇で爆発した。ゆるやかな衝撃
が艦を何度も煽る。

「深度一六〇、停止します」
「敵艦、遠ざかっていきます、感三っつ!」

艦内の空気がゆるむ。このままじっとしていればやりすごせる。
艦内の全員が、息を潜めて時の過ぎ去るのを待った。と、そのとき、
遠くで爆発音がたて続けに聞こえた。

「方位一〇三三六、僚艦が攻撃されています」
「誰の艦だ?」
「四〇三潜、神宮寺大佐の艦です」
「神宮寺か・・・・」

艦長の顔が曇った。あの艦には、日本の運命を切り開く切り札が
託されているのだ。この作戦で失うわけにはどうしてもいかない。

「敵艦は7隻です」
「四〇三潜の深度は八〇、回避運動中です」

おそらく潜航装置に異常をきたしたのだろう、このままではやら
れる。しばしの躊躇の後、艦長は決断を下した。

「みんな、ゆるせ、あの世で詫びる」

全員の目がうなずいた。

「魚雷戦用意」
「タンク排水、潜望鏡深度まで浮上、方位、一〇三三五」
「モータ、微速前進」
「深度一〇〇、転針よし」
「運貨筒はどうします?」
「運貨筒、放棄準備」
「魚雷戦用意はまだか」
「三番管がまだです」
「いそげ」
「潜望鏡深度」
「潜望鏡上げ」
「止め」
「魚雷準備完了」
「方位角右三〇度、距離二五〇〇、敵速一八」
「方位盤よし!」

潜望鏡の十字マークに、駆逐艦の列が寄ってくる。指令室全員の
視線が艦長の口元に注ぐ。

「用意、射てっ!」

日本海軍が世界に誇る最新鋭酸素魚雷は、発射時の気泡も航跡も
残さずに、敵駆逐艦めがけて進んでいった。

「運貨筒放棄」
「運貨筒放棄よろし」
「潜望鏡下げ」
「ベント開け、深さ一二〇」
「取り舵いっぱい、進路反転!」

いきつくまもなく、次々と命令が走る。急速転舵のあおりをうけ
て艦体がみしみしときしむ。牽引索を解かれた運貨筒は、ゆっくり
と海面へ上昇を続けていた。二基の電動機はフル回転で、艦を安全
深度まで押し下げる。

「深度一二〇」
「機関停止、ツリムもどせーっ!」

轟音がぴたりと止む。聴音手はボリュームに右手を添えて、魚雷
の行方を追っている。

「爆発音確認、みっつです!」

だが、その朗報もすぐにかき消される。

「推進機音接近、感三つ」
「感四」
「感五!」
「爆雷防御!」

つぎつぎとばらまかれる爆雷は、深度一〇〇で破裂する。爆発に
よって生じた衝撃波は、水圧の波となって艦を襲う。深度一二〇の
水圧に耐えている艦体の一番弱い部分、排水パイプのバルブやパッ
キンが、衝撃波によってダメージを受け、艦内のあちこちで漏水が
はじまる。もちろん、艦は地震のように振り回されている。
天井の電球が衝撃で砕け散り、水圧計のガラスが割れる。

「艦尾に至近弾!」
「電池室浸水!」
「昇降舵破損」
「艦尾が沈みます」
「艦首注水二〇〇、メインタンク排水!」

そのとき、艦にものすごい衝撃が走った。全員がつんのめって床
に叩きつけられる。艦内の照明が消えた。

「艦首に命中弾」
「前部発射管室大破、閉鎖します!」

艦首を下にさげ、艦はゆっくりと沈降を開始した。

「浮力が戻りません!」
「重要配置以外のものは、機関室に集合」

艦首部の乗組員が艦の後部にある機関室へと移動する。艦首の下
がりが収まった、艦はほぼ水平になったまま沈みはじめる。

「どこでもいい、島の近くに寄せろ」
「左舷一二〇、棚があります」
「ようし、モータまわせ、そこへ着底させろ」
「了解!」

聴音機の反響音をたよりに、のろのろと進み、艦はゆっくりと深
度一四〇の海底に着底する。爆雷は容赦なく降り注ぐ。敵はこちら
の正確な位置がわからない。遠く、時には近く、音と振動が艦を襲
う。

どれくらい時間が過ぎただろうか、爆雷の間隔はしだいに長くな
り、精度もだんだん低下してきた。敵の聴音機から姿をくらますた
め、全ての機械を停止している。
艦内の温度は三六度を超えた。機関室は四〇度である。湿度はほ
ぼ百パーセント、吹き出す汗は蒸発する事が出来ずに身体をつたっ
て流れ落ちる。空気はどんよりと濁り、流れる事を知らない。
呼吸がだんだん荒くなる。酸素が少なくなってきたのだ。電池室
から発生したガスもまわってくる。通信員の若い兵が引き出しを開
けた。潜航前から閉じ込められていた新鮮な空気を吸うためだ。
各自が、めいめいの隠し場所をあけて、新鮮な空気をうまそうに
吸う。じっと我慢していたのが、ひとりが吸いだしたことでこらえ
きれなくなったのだ。

川上中佐は静かに目を閉じていた。こういう時にはじっとして酸
素の消費を抑え、ひたすら敵が去るのを待つほかはない。考えるこ
とさえ酸素を余計に消費する。

川上政利は、いつしか眠りに落ちていた。


第二章

我が心氷の如く


2002年10月

息が苦しい、身動きができない。暑い、汗が背中をつたう。じっ
とりと濡れた下着が身体に張り付き、ひざの内側がぬるりと滑る。
ベルの音がする。浸水警報か? まるで目覚まし時計のような音
だ。これが夢なら覚めてほしいものだ。目覚ましがなっている。目
覚ましだ。

浅岡正人は布団をはねのけた。朝だ。そうだ、夢だ、夢だったの
だ。ここは潜水艦の中ではない、俺の家だ。
跳ね起きて窓をあける。新鮮な、酸素に満ちた空気をむねいっぱ
いにすいこんだ。頭がすっきりしてくる。都心から少し離れた学園
都市の空は、秋にふさわしく高く蒼く、キャンパスから流れるコー
ラスの歌声を運んで来ていた。

ラッシュの人混みに揉まれながら、正人は夢の事を考えていた。
潜水艦のでてくる映画を見たおぼえはない。戦記小説も読まない。
どうして、あのような夢を見たのかわからなかった。今の仕事だっ
て、特に行き詰まりを感じているわけでもなかった。
吉祥寺についた。井の頭線のホームで始発に乗り込む。これで渋
谷までは一服できる。正人はカバンの中から本を取り出した。かな
り分厚いハードカバーの本をひろげて読み始める。第一章を読み終
えてどきりとした。謎の敵に攻撃されて沈没する原潜の話である。
この小説は800万部を越すヒットをとばし、日米合作で3時間
もの超大作に映画化された事もあるが、正人はいままで読んだ事が
なかった。作者が先日非業の死を遂げたので、ブームが再燃し、何
気なく買い求めたのだ。
独特の文体に引きずられながら続きを読む。海中の描写がでてき
た。この作家は、結局海の魅力にとりつかれてスキューバを始め、
ガラパゴスの沖で若い女流作家とともに消息を絶ったのだ。

渋谷駅についた。ひとの流れにうもれながら、道元坂へと歩く。
坂道の脇に、牛乳瓶に生けられた花が飾られている。正人の心を、
ちいさな悲しみがちくりと刺した。

「おはようございます」

若い事務員の出したコーヒーをひとくち飲んで、正人は本を広げ
た。ポケットから煙草を取り出して一服する。潜水艦の話が気にな
って続きを読むのだが、場面はかわってどんどんすすむ。SFとい
うと子供騙しの文学だと思っていたが、秘書が話しかけてくるまで
はすっかり没頭してしまっていた。

「部長、専務のお誘いはどうしますか?」

現実に戻るのに5秒ほどかかった。

「ああ、出席するよ。あほうと飲んでも楽しくないが、今夜はどう
せ暇だ」

秘書は、にこりともせずに「PM6:30 バロン あほうども
と飲み会」と記入した。

「場所はどこだ?」
「『バロン』です」
「そうか、バロンか、・・ところで、君はその名前の由来を知って
いるかね?」
「爵位の中で最低の位、金で買える名誉ですわ」
「わははは、君はほんとにいい女だな」
「光栄ですわ」
「ところで仕事の話だが」
「はい、ボス」
「ヌ176号の件はどうなった?」
「占有者が立ち退きに応じません」
「ふむ」
「おまえたちには人の心がないのか、と、抗議しています」
「ふむ」
「『パブリック開発』は人でなしの集団だと言い触らしているよう
です」
「企業に人のこころなどいらん、あるのは契約だけだ。彼らは銀行
との契約を破って、彼らの約束通りの方法で我々に土地と家屋を売
却する事になった。そして、我々は金を支払ってそれを購入した。
彼らの主張は人の善意にすがろうとする乞食と同じだ」
「おっしゃる通りです」
「乞食に他人の人格を非難する権利はない。自立できない甘ったれ
た人間のたわごとだ」
「論理的です」
「強制執行の手続きをとりたまえ」
「了解しました」

島田和代は、軽く会釈をすると部屋を出て行った。若いがなかな
かのやり手だ。小柄な身体をパンツスーツに包んで、並の男の倍く
らいの仕事量をこなす。正人は、彼女の瞳の奥の暗い光に、自分と
同じ匂いを嗅ぎとっていた。
正人の仕事は、お抱えの弁護士である。競売物件を購入した場合、
そこに人が住み着いている場合が多い。多くは債務者であり、何ら
かの理由で借金が返せなくなり、担保である土地家屋を競売で売却
されてもなお、そこに住み続けているのである。
法律的には、彼らには占有権はない。しかし、借家借地人法を素
人考えで勝手に解釈し、催告を無視して住み続ければ何らかの権利
を主張できると考えるものが後を絶たないのである。
もとより、一度や二度返済がとどこおったくらいでは、競売にな
どならない。債権者が見放すくらいだから他には方法がない状況な
のだが、当事者はそういう現実を直視できない手合いが多いのだ。

正人は、そういうひとびとに引導を渡す仕事を一手に引き受けて
いた。彼の仕事は完璧で、執行官とともに現地に赴き、まさに実力
行使によって債務者をたたき出すのである。
彼は、この不動産業界では「氷の浅岡」と呼ばれ有名である。し
かしまた、彼の存在があるので、パブリック開発は安心して占有者
がいたり難問のあったりする格安の不良物件を、安心して落札でき
るのである。

午後6時20分、正人は秘書の島田和代を連れてネオ109のエ
レベーターに乗った。ガラス張りのシャフトなので眼下に渋谷の街
が一望できる。エレベーターは12階でとまった。
大げさな造りのドアをあけ、ふたりは会員制のクラブへ入った。
乳臭い若い男がうやうやしく礼をする。中の客は、判で押したよう
にでくでくと肥えた成り上がりものばかりだ。退廃で擦り切れた男
特有の下卑た視線が、もの欲しそうに和代の全身をなめ回す。和代
は、まるで道端の猫の死骸をながめるような冷たい視線を彼らに与
えながら、正人を奥のボックスへと案内した。

「やあ、早かったな」

専務の内山と山田が、同時に顔をあげた。細身で神経質そうな山
田は、説教好きな親父といった風情の内山のとなりでタバコをふか
している。正人は、二人と向かい合う位置に腰をおろした。和代は
寄り添うようにとなりにかける。さっそく、内山がしゃべり始めた。

「いやぁ、いまも君の噂をしていたところだよ」
「は?」
「きみたち二人は最強のコンビだと、社内でも有名だよ」
「光栄ですわ」
「しかし、まぁ、ものごとにはほどほどということもある」
「ほぅ・・」
「いや、わたしはね、きみのことはよぉくわかっているよ、うん」
「あら、何がですの?」
「きみたちは真面目だ、うんうん。それはたいへんよろしいのだが、
なにね、社会では真面目だけではやっていけない部分があるんだよ」
「はぁ、そうですか」
「なんだな、その、周りとの協調というか、なんだ、ほら、ね、」
「まぁ、なんでしょう?」
「仕事ができるのはよいのだが、きみたちはその、少しやりすぎる
きらいがある。もうすこし、その、手加減してやれんもんかね」
「いい加減に仕事をしろと?」
「いや、なにもそんな事をいってるんじゃないんだ。ただ、同じ追
い出すにしてもだな、なんというか、もうちょっと優しくやる方法
があるんじゃないか・・・って、わたしは言っているんだよ」
「おことばですが」

正人は、いっさいの妥協を許さぬ毅然とした口調で答えた。

「わたしはわたしの方法で仕事をやります。気に入らないならわた
しをくびにしてください」

たまりかねて山田が口をはさむ。

「浅岡さん、そりゃないよ。内山さんはあんたのためを思って言っ
てるんじゃないか、彼はね、あんたが会社に利用されて憎まれ役を
ひとりでひっかぶってるのが悲しいんだよ。あんた、このままじゃ
いろんな人の恨みかっちゃうよ」
「わたしはべつにかまわん」
「わたしもかまいませんわ」
「いゃぁ、なんだ、その、そういう事をいいたいんじゃないんだよ」

内山は気を取り直してグラスを空けた。和代は若いボーイに持っ
てこさせたブランデーを浅岡につぐと、自分も飲みだした。

「なんだ、その、人間とはよわいものだよ。だから、もっとおおき
なひろーい心で、彼らの弱さを許してやって、もっと平和に話し合
いで事を運ぶこともできるんじゃないか・・・って、わたしは言い
たいんだよ」
「はっはっはっ、あんな甘ったれた連中にそんなことが通用するん
なら、あなたやってみたらどうですか!」
「浅岡さんー、だめだよ、そんな言い方しちゃぁ」
「わたしも部長に賛成ですわ、ああいう最低限の責任さえ果たせな
いような人間は、甘い顔をするとどこまでもつけ上がります!」
「ほう、ずいぶんかばうねぇ、ひょっとして彼とはいい仲なんじゃ
ないのかね、へっへっへっ」
「内山さん、わたしの秘書に対する侮辱はゆるさん」
「まあまあまあ、いまのは内山さんがわるかった、ね、感情的にな
っちゃだめだよ、内山さん」
「き、きみたちふたりはな、そんな意地ばっか張ってるから、社内
で孤立してしまうんだ」
「わたしは、仕事さえできればそれでいい。内山さん、わたしはあ
なたにたいして、ひとりの社員として以上の興味はまったくない。
わたしの事をどう思おうと勝手だが、理不尽な干渉はしないでくれ」
「わたくしも、女学生のような仲間に囲まれるよりは、嫌われてい
た方が良いですわ」

さして気負ったふうもなく言い捨てるふたりに、内山は言葉をな
くした。

「ね、内山さん、本人がああ言っているんだから、われわれにはど
うにもできないですよ、いいじゃぁないですか、ね、ひとに考え方
を押しつけるのは、良くないですよ」

山田潔は、なおも何かいいたそうな内山の背中を押すように、ふ
たりを残して次の店へと出ていった。

「こうやって飲むのは初めてだな」
「ええ」
「俺の事を冷たい男だと思うかね」
「はい」
「ははは、そのとおりだ」
「わたしも、冷たいおんなですわ」
「人間は、みんなできそこないのあほうばかりだ」
「甘ったれたなりそこないばかりです」
「自分の尻もふけんような奴に限って、ひとに説教たれる」
「内山さんは、部長にかまってもらいたいんですわ」
「願い下げだ、俺はボーイスカウトは好かん」
「あの人がわたしを嫌うのは・・・」
「うん?」
「嫉妬しているからですわ」
「きみにか?」
「ええ、あの人は、わたしが部長の事を理解して、信頼されている
事が羨ましいんです」
「俺は脳無しのじじいに興味はない」
「わたしも、女を物扱いするような老人は嫌いです」

正人は、この若い娘に、奇妙な親近感を感じていた。二度と人に
心を開く事などあるまいと思っていた彼だが、和代の、世間の男に
対する軽蔑と炎のようなプライドに共感し始めていた。

「君は恋人はいるのかね?」
「今はいません」
「そうか・・・・」
「部長は?」
「だいぶ前から・・・いなくなった」
「ときどき来られる、あの綺麗な方は?」
「俺のたったひとりの恋人の友人だ」

いつも強気な正人の目が、おそろしく無防備に曇った。

「その方はどうなさったんですか?」

一瞬、ふたりの視線が宙で絡む。

「死んだ」

和代は、視線をそらさずに正人を見つめた。

「飲酒運転のクルマに押し出されて、バイクもろともダンプに踏み
つぶされてな」

正人は淡々としゃべる。

「腹をぺちゃんこにされた。ちぎれた臓物が湯気を立てていた。腰
から下がひくひくとけいれんしていた。それでも・・・それでもあ
いつはまだ生きていた」

正人の目は、もう、何も見ていないようだった。和代の瞳の奥の、
彼にしか見えない何かにむかって語っていた。

「それだけの事をしておきながら、その男は自由に生きているんだ。
業務上過失致死だ。飲酒運転はもみけされ、補償金は保険会社が払
う。彼にはなんの罰も無いに等しい」

パチンという音がして、腕時計がテーブルに落ちた。強く握りし
めた正人の左手が、ものすごい力でテーブルを押さえつけて震えて
いた。顔は静かに和代の目を見つめている。

「その男に、復讐するのね?」
「もっとちからがついたらな・・・」

ブランデーを一気にあおると、正人は和代の目を見据えた。そこ
には明確な意志と透き通った憎しみがあった。

「俺は、ああいう無責任な男達を許さない。人の人生を踏みにじっ
てのうのうと暮らしていく、甘っちょろいガキのような大人を許さ
ない。自分の責任で約束をしておきながら、あたかも被害者のよう
な顔をして同情をかおうとする、卑しい根性を許さない」
「・・・・・・」

和代は、何か言いかけて途中でやめた。

「おかしいだろう? だけど、俺にはもう、こんな生き方しかでき
ないんだ。へらへらと肩を組んで唄を歌うような、無邪気なガキが
手をつないで生きていくような、そんな生温い生活なんかできない
んだ。俺は何かを憎み続ける事でしか、自分の人生を生きていかれ
ないんだ」

淡々と話す正人の言葉は、その静かさゆえに決意の堅さを感じさ
せた。

「部長・・」
「うん・・・・?」
「たとえ社内で味方がひとりもいなくなっても・・」
「・・・」
「わたしだけは、どこまでもついていきますわ」

和代は、初めて、自分の心を許せる男に出会ったような気がした。
背広に性欲をつつんでうごめくだけの、無知で幼稚で愚鈍で下品な
犬のような男達ばかり見てきた彼女にとって、正人は、初めて出会
ったまともな「男」だった。




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