藤の屋文具店

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恋愛実践講座 15~21



           【恋愛実践講座】

            恋愛の幸福


恋愛の幸福、というものを考えてみましょうか。ぽかぽと春の陽
を浴びて好きな男に膝枕をして耳くそをほじくってあげる、とか、
夏の夕暮れに裸足になって、ふたりで浜辺をかけめぐる、とか、し
ゃれたカフェテラスで紅葉を眺めてわたせせいぞうする、とか、い
ろいろありますね。男の子なんかだと、不死身の超能力者になって、
奇麗な女エスパーと仲良くタッグくんでくされ外道どもをぶち殺す、
なんてのもあるかも知れません。可愛い女の子の夢では、とっても
素敵な彼氏にエスコートさせて、パーティの注目を一身に浴びたい、
というのもありましょうか。

財産や職業というのは、あまり条件としてのウェイトが高くない
ようです。重要なのは相手の心ですね。でも、わりと見落としがち
なのは自分の心、自分の中にある相手を想う気持ちです。どんなに
大切にされても、自分が相手を好きでなくなってしまったら、あま
り幸福ではありません。
自分の視点から見ると、変わらぬ愛を与えてくれてなお、魅力を
失わない相手、となりますし、相手から見れば、愛されるに足る魅
力を維持しつつ、愛してくださいとなります。要するに、根性や義
務で愛しているだけでは駄目で、魅力を維持しなきゃいけないとい
うことになります。

中年のおっさんやおばさんなんかで、パートナーの悪口を言う人
がよくいます。愛情ゆえの照れでそうする人もいますし、相手をお
としめることで自分が偉く見てもらえると勘違いしたおまぬもいま
すが、ほんとうに冷めてしまっている場合もあるようです。
恋愛関係が長く続いた場合、いつまでも当初のるんたったが続く
ことは、あまり多くありません。ま、一緒に暮らし始めれば、休日
に気張っていた姿と違うものをたくさん見つけるわけで、押し入れ
の中まで応接間のように掃除している人が少ないように、いろんな
みすぼらしいものも見えてくるわけですね。
もちろん、そんなことは誰でも理屈では知っているのですが、知
っていると思ったことも現実になると、やっぱりインパクトがある
みたいです。「薔薇」という漢字は誰でも読めますが、いざ書いて
みようとしてじつは知っていなかったことに気付くように、知識と
現実の間には、ふかくてくらーい川が流れています。

また、人間は、どんな強い刺激でも、それが長い間続けばあまり
気にしなくなる性質があります。まぶしい光りの下でも眠れたり、
ジャズ喫茶で小説が読めるのはこのためです。
したがって、「変わらぬ愛」という言葉が指すのは、すぐに慣れ
て変質してしまうであろうマンネリのトライではなくて、「変わら
ずに存在する愛」を成立させるような、継続的なトライではないか
と思います。
たとえば川がそこに流れつづけているためには、新しい水がどん
どんと押し寄せてこなくてはなりません。川というのは水そのもの
ではなく、水の流れている状態を指している言葉だからです。水が
流れてこなくなったら、川はただの溝に成り下がりますね。
人を愛するという行為も、刻一刻と変化していく毎日の生活の中
での、ひとつひとつの言葉や行動が、その背後にあるそれを感じさ
せる、そんな性質のものではないかと思います。いくつになっても
同じ事を繰り返しているたけでは、愛はただの習慣におちぶれてい
くわけですね。

恋愛の幸福というものは、空を飛ぶ鳥のようなものなのかも知れ
ません。高く飛べたと安心して羽ばたくのをやめれば、いつしか地
上に戻ってしまう、まことにはかない幻のようなものなのかも知れ
ません。高く飛ぶことに生きがいを感じる人もいれば、軍艦鳥のよ
うに、どこまでもいつまでも、飛び続けることに生きがいを感じる
人もいることでしょう。いずれにしても、意識するにしろしないに
しろ、トライすることをやめれば、消え去ってしまうものだと思い
ます。


           【恋愛実践講座】

            恋愛の終わり


楽しい、あるいは悲しい小説や映画がいつか終わるように、恋愛
にも終わりが訪れてきます。相手を恋い焦がれて強く求め、愛し慈
しみながら包みこみたい、そんな熱情が恋愛のクライマックスであ
るとすれば、夕暮れの渚のような静かな心でお互いを見つめあうよ
うなエンディングもまた、いつか訪れる愛のかたちのひとつである
のかも知れません。

男と女の間に成立する関係は、恋愛だけではありません。信頼や
友情といった得難い関係ばかりではなく、親子や兄弟の間にあるよ
うな愛情やもっと別な愛情、必ずしも性愛とは分離されていないか
も知れぬ、しかし恋愛とは違う愛、机の前で考えるだけの人には認
めてもらえぬような関係が無数にあることは、真剣に生きてきた人
なら誰でも知っている、あたりまえのことです。
ちょっと気になる素敵な異性に心躍らせ、幾多のトライとエラー
と成果を重ねて恋愛を体験して、それでたとえば結婚、そして出産
へと発展したカップルは、やがて子供たちと暮らす事によって新た
な関係へと変遷していくこともありますし、結婚に至らずに別の関
係を築くこともあります。結婚しても子供をつくらない関係もあれ
ば、結婚せずに子供をつくる人もいます。
人生には正解などない、などと若い人に当たり前の事を説教する
じーさんは、なぜか結婚と出産の未来だけをえこひいきするもので
すが、近年、女性が単独で子供を産む事が、戸籍上の不平等から開
放されるように法律が改められたように、社会は少しずつ進歩して
いるようではあります。進歩のないのは、当たり前のことを理解で
きぬまま勘違いして後進に説教する、にんげんの残骸のような人た
ちだけですね。

恋愛の終わりには、別の形への変化の他に、物理的な別離や心理
的な別離があります。生活上の都合で逢えなくなったり、死亡によ
る別離、別の相手をより好きになったための別離や、相手を嫌いに
なったための別離など、さまざまです。
たとえば、若い頃は外見にひかれて有頂天で結婚した相手が、や
がて中年になり、華やかさの去った後には何も見るべきもののない
男であることが解ってくると、妻は夫をこっそりと見下して、子供
にすべての愛情を注いだりしがちですし、狭い世界に閉じ込められ
がちな女性の立場ゆえか、結婚してから社会に出た女性は、世間に
は夫よりうんと素晴らしい男性がいることに気付いて、じたばたす
ることもありますね。
結婚まで到達してしまったカップルは、社会生活のいちばん安定
した状態にあるために、なかなか行動に移したりはしませんが、そ
うでないカップルには、別離はかなり簡単に訪れます。床の上のボ
ールはたいして動けないけれど、机の上のボールはふとしたはずみ
で飛び回るし、棚の上にあったりすれば、弾んで窓から外へ飛んで
いってしまうかも知れません。ボールにしても、空気の抜けたボー
ルは動きにくいけど、びんびんに満タンだったら安心できませんね。

双方が納得して訪れる別離は良いのですが、一方が未練を残す時、
別離は寂しさだけではなくて悲しみを生みます。悲しみは、それを
受け止める心の強さがないと、時として憎しみを産み出すことにな
ります。爆弾で恋人をカタワにされた男が、すべての学生運動家を
憎むことで悲しみから立ち直るように、強い憎しみは、堪え難い悲
しみに沈む心を奮い立たせ生き直す力を与えてくれるものだからで
す。強い愛を失ったひとの心というものは、他人には理解できぬほ
どの大きな歪みを抱えます。
たかが恋愛じゃないかと慰める言葉が虚ろに響くのは、その程度
の体験しかない人の、それでも精一杯の同情のけなげさの故か、あ
るいは、草津の湯でも治せぬ病への無力感のせいか。人生には、解
ってはいてもどうにもならぬことが、いろいろとあるものなのです。
残されてとまどう者たちは、追いかけて焦がれて泣きくるうしか
ないわけで、それを回避するための便利なノウハウなんてのは、残
念ながらどこにもないわけです。

だから、傷つくのが嫌なら、恋愛なんてしないに限るのですが、
恋はするものではなくて「してしまうもの」だから、始末におえな
いのですよねえ。


           【恋愛実践講座】

             男尊女卑


男女同権という看板がインチキなのは、働く女性なら誰でも知っ
ている現実ですが、男にはなかなか実感としてピンとこないところ
があります。給料や役職などは、一見してその差別に気がつきます
が、男女の間の事になると、いろいろなことが見落とされがちです
ね。
たとえば恋人のいない女性が、相手のいる男性とちょっと遊びに
行く、なんてシチュエーションでは、たいていの男は、そのことに
文句つけたりはしません。ところが逆に、男性が、相手のいる女性
と何かしようとすると、うだうだ口出しする男は多いものです。ど
んなことを言うかというと、「女性の彼氏に許可を得るべきだ」と
いった意味のことです。

どうしてこのような差異がでてくるか、それは、彼らのアタマに
は、女性は男の財産であるという概念が、心の底の不可蝕領域にし
っかと腰をおろしているからです。いわゆる「俺の女」という感覚
は、フェミニスト気取りのお調子者なんかでは、かえってひどいも
のなのですが、それは、このような甘ったれは、人格を尊敬すると
いうことと、ちやほやしてご機嫌をとることとの区別がつかないか
らです。
この手ののび太くんは、口では女性の自由を認めますが、それは、
君が望むなら仕事をしてもいいよ、という自由であって、同じ様に
仕事を持ってはいても、炊事洗濯育児に掃除は君がやるんだよ、と
いった暗黙の期待が込められた、偽りの優しさなのです。

彼らは、たとえば仲間の誰かの女には手を出しませんが、フリー
の女性がいると、自分のパートナーのことは無視して口説いたりし
ます。ダチの女を盗るのはイケナイけれど、所有者のない女ならか
まわないという、一見紳士的でいてじつは女性の人格をまったく認
めず、あたかも犬かネコのようなペット感覚でしか女性を見ていな
い、とても傲慢な行動指標です。
ちなみに、いにしえの姦通罪という罪は、窃盗のバリエーション
として扱われていますが、ようするに、他人(男)の財産を横取り
した泥棒として罰せられるわけで、妻帯者が独身の女性と姦通して
も成立しないわけです。なぜなら、独身の女性は、所有権を主張す
る所有者がいないから、訴える権利を誰も持たないわけですし、妻
は夫を所有しているわけではないので、妻が訴える権利もないわけ
なのです。
男女同権の看板を掲げている以上、女は貞節に、とか、浮気は男
の甲斐性、とかいう言葉は、ほんとなら、めくらおしつんぼと同じ
レベルかそれ以上にひどい差別用語なのですが、それに気付きもせ
ずに得意になって使われがちなところに、根の深さがうかがえます
ね。

このような書き方をすると、人生の先輩のつもりでいる歳をとっ
ただけのぼうやは、浪花節をうなりながら女の道を語りだして嘆く
ものですが、もちろんそれは見当外れのクレームです。男女同権と
いうのは、男と女が同じ生き方をしなくちゃならないという意味で
は、決してないからです。

亭主関白というスタイルは、必ずしも男尊女卑ではなくて、それ
が本物なら男女同権に近いものがあります。家族としての決定権を
男性が得て、同時に全責任を負うなら、むしろ公平ですね。問題な
のは、家族の幸福な生活に無責任な能無しのあほんだらが、男であ
るということにあぐらをかいて威張り散らすケースです。
この手の男は、古い時代の男の権利だけを主張し、昔の男なら国
や村や家族のために死を覚悟して戦いに臨んだところを、コタツの
中でミカン食いながら自衛隊の悪口言って黄色い理屈こねているだ
けですから、同じレベルの女性以外には、とても尊敬してついてい
くだけの気持ちが持てませんよね。女性に山之内和豊の妻を求める
ならば、自分がまずそれだけの覚悟を持つ必要があるわけです。あ
たりまえじゃろが。


           【恋愛実践講座】

           本当の人それぞれ


人は、自分の少ない体験をもって世界を類推する傾向があるもの
です。この世にはいろいろなものの見方があるのです、なんてわか
ったようなことを言う人は、じつは単に自分の意見をゴリ押しして
いるだけだったりしますね。わたしもそうです。
男女の違いはわりと注意してチェックする人でも、男は、とか、
女は、とかいう乱暴な分類をして、ひとまとめにできないようなパ
ーソナルなことがらさえも、わずかなサンプルでもって過剰に一般
化して、お味噌とうんちをいっしょくたにする不潔なことは、さほ
ど珍しいことではありません。

この手の乱暴な分類でよく見られるのは、「男は性欲ギラギラ」
と「経験の浅い女性は性欲がない」という認識です。話しがわかる
ということと下品を取り違えたおばはんが、男はすけべなジョーク
さえ言えば喜ぶと考えたり、自己認識能力の欠落したおんさんが、
女性が寝てくれないのを、女の喜びをしらないからだと思い込んだ
りするのは、無責任に言いふらされたそれらを信じたための喜劇で
す。

男性には、エロと名がつけばうししと喜んでエンドルフィン全開
の人もいれば、好きなタイプの女性以外はひとかけらの興味もない
人もいますし、本気で好きなたったひとり以外は目もくれない人だ
っています。
女性にも、とにかく寝る相手がいれば、あまりうるさいことは言
わない人もいますし、好きなタイプでないならずーっと独りのほう
がマシという人や、好きな男となんとかして寝たいと願う積極的な
人だっています。もちろん、だしの素や味付け海苔のCMにでも出
てきそうな大和撫子のひとだっています。
ちょっと考えてみれば、こんなことは当たり前なんですけど、す
けべな男しか知らないおばはんは、そうでない男は我慢して気取っ
ているだけだと思い込んだりしますし、雑誌の恋愛特集でしか女性
のことを知らない男は、相手にしてくれない女性も、強くリードす
ればみんなおっけいだと思い込むことがあります。
勘違いしているだけなら良いのですが、それを正しいと思い込ん
で行動に移した時、本人は思いもしなかった、けれどもみんなは予
測していた、そんなトラブルを引き起こしてうろたえたりしますね。

ちまたにあふれる恋愛のハウツー本には、異性にもてるためのい
ろんなノウハウがテンコ盛りです。女性を対象にしたものだと、自
分の身体をエサにうまいこと大物を釣り上げる、みたいなテクニッ
ク、男性相手だと、「一発決める!」ための乳臭い先輩のアドバイ
スが並んでいますね。
こういうマニュアル本を読んでうまくいった人達は、じつは、相
手が見透かしていながら騙されてあげたというか、いわゆる「ノッ
てあげた」という状況だったりします。魚心あるから水心に飛び込
んでみたというわけで、問題外の相手に何故かひかれちゃったの、
なんてわけではありません。そんな素晴らしいノウハウが、せいぜ
い千円ちょぼちょぼの価格で書店に並んでいるわけはないですね。

異性にもてたい、うまいこと立ち回っていい思いをしたいと願う
人は、ゲームの必勝本のようなアンチョコを求めたりしますが、や
せる本がほとんどすべての女性をスマートにしてはくれないように、
この手の本が素敵な男やあるいは女をつくることは、まずありませ
ん。書いている人がたいしたことないからです。

易者は未来を予言して競馬で稼ぐことはできません。簡単に合格
してボロ儲けできるはずの司法書士の通信教育は、なぜか自分では
それをしない人によってしつこくセールスされます。身につけるだ
けで素晴らしい効果があるナントカペンダントがほんとなら、誰が
他人に教えるもんですかいな。


           【恋愛実践講座】

             己を知る


分析の好きな人というのはよくいますが、もっともらしい理屈を
ぺたぺたと貼りつけてえっへんしている人ばかり目立って、なかな
か本物にはお目にかかりません。この手の人たちは、やたら「科学
的」とか「心理的」とかいう言葉で、あてずっぽの妄想を権威付け
ようと努力しますけど、日本舞踊をまったく学んだことのない人の
踊りがどじょうすくいと選ぶところが無いように、団地のおばさん
の噂話よりマシなことなどまるでありませんね。学術的なトライと
いうものは、訓練をちょんぼしてあんちょこ本を読み漁った程度で
できるものではないからです。プロの訓練を受けていない素人がで
きる分析は、自分の体験の中からするのが精一杯なのです。

傍目八目という言葉があります。「おかめはちもく」と読みます。
将棋を見物している人は、対局者と同じ程度のへっぽこでも、八手
先まで局面を読む事が出来るという意味です。年寄りならたいてい
知っている諺ですが、将棋を裏の路地の縁台で指しているなんて習
慣がなくなった現代では、あまりピンとこない諺かも知れません。
勝負の当事者は、どうしても勝敗を気にします。よく、「僕は勝
ち負けなど気にせずにただ楽しんでいます」などとカッコつける人
がいますけど、そんなセリフは、勝敗にこだわっているからこそ出
てくる体面を取り繕うための保険で、言い訳の大好きな見栄っ張り
しか言わないものです。例外もあるでしょうが、わたしは48年間
の人生で、まだ出会ったことはありません。

勝敗にこだわる人は、目の前の世界がクローズアップされてしま
います。開始してから現在までの変遷や、これから先にどのような
影響を与えるかということよりも、たった今相手がとった行動に対
して、反射的な行動、それは論理の積み重ねというよりむしろ、感
情的な反応に近い、刹那的な対応をしてしまうわけですね。
それに対して傍観者は、どちらかに肩入れしているとはいえ、所
詮他人ごとですから、現在の局面に至るまでの盤面の変遷やふたり
の癖、これからとるであろう行動を、戦術としておぼろげに読み取
ることが、やりやすいものです。
なぜこのような傾向があるかというと、それはある種の恐怖とい
うか、失敗に対する恐れというものに関係しているようです。たと
えばレンガを一列に並べてその上を歩くことは、誰にでも簡単にで
きますが、平均台の上を歩くことは少し困難になります。そしてそ
れがビルの屋上の縁の上ならば、訓練を受けた者以外は歩けません。
これほどまでに、感情というものは、真実を見分ける力を阻害し、
行動を鈍らせ、判断を狂わせる強い影響力を持っていますから、何
かを正しく認識しようとする時には、感情を押さえて理性の目を見
開かねばなりません。

このような書き方をすると、感情を抑えることの不得手な人の中
には、自分が落としめられたと感じて、「人間的でない」とかいう
類の演歌を口ずさむ人も出てくるかも知れません。まったくその通
りです。動物としての人間として生きるには、弱いものを食い殺し
て強いものがすべてを得ればいいわけで、サルが腕力でそうするよ
うに、社会的な地位や経済力でメスを手に入れればすむことです。
強い人なら簡単ですし、弱い人はうだうだと愚痴をこぼして同類と
慰めあうしかないですね。
それが嫌な人は、プライドのつもりの実はただの見栄を、自分の
力でそっと剥ぎ取り、そこにある、情けない、みすぼらしい、けれ
どもいとおしくて逃げることのできない本当の自分のことを、誰に
自慢するためでもなく卑下して甘えるためでもない、自分のこれか
らの人生を少しでも良くしていくために、知るしかないでしょう。
そしてそこに見えてきた自分の姿は、そのまま、あなたの好きに
なる誰かの姿と、基本的な部分ではさして変りのないものでもあり
ます。残虐な殺人鬼も聖人君子も人に変りはないという宗教ちっく
な言葉は、こういうことを教えているわけです。


           【恋愛実践講座】

            下手の横好き


たとえば猫と仲良く暮らしたいなら、猫の好きな事と嫌いな事と
を知るべきです。どんなに合理的な理由があろうとも、嫌いな事を
されれば猫はいやがります。それを打ち消すほどの好きな事があれ
ば仲良くしてもらえますが、なければあなたは阻害されます。
猫の好きな人は、よほどのことがない限り、嫌がることをしませ
んから、仲良くやっていけるものですが、それは、自己満足のため
の干渉をしないからです。言葉にするとしゃっちょこばっています
が、別に猫好きの人がそういう理屈を振り回して生きているという
ことではありません。好きだから無意識のうちにそういう対応をし
ているだけです。猫に限らず、犬や馬や猿や鳩の好きな人もまた、
同じ様にうまくやっています。

ああそれなのにそれなのに、何故に人間同士だと不幸なケースが
増えるのでしょうか。君のためなら死ねるよなんでもできるよと百
万本のバラを抱えた岩清水君のような人が、こともあろうに相手か
ら変態呼ばわりされることすら珍しくありません。言葉の通じない
動物ですら、好意を伝えることは可能であるのに、万物の霊長たる
愛情あふるる人間同士の間に、このような悲しい行き違いが起こる
のはなぜなのでしょう。

動物であれ人であれ、好きな相手に好きになってもらうには、ま
ず、相手のことを理解する必要があります。そして同時に、自分の
ことについても正確に知る必要があります。自分の行動が相手にと
ってどういう意味をもつのか、とか、自分は相手に対してどういう
ことを期待しているのか、とかいうことをきちんと把握していない
と、あなたの意図に反して相手はどんどん態度を硬直させていくこ
とがあります。そういう時には誤解を解きたいと考えて、いろいろ
と説明することと思います。
でも、説明して理解してもらえる程度のことは説明しなくても理
解してもらえるものですし、説明しなければ理解してもらえないこ
とは、たとえ説明したとしてもなかなか理解してもらうことは困難
なものです。
これは、人には、自分の信じたいことだけを強引に信じたいとい
う性質があるからです。たとえば先輩後輩という関係でしか人間関
係を築けないタイプ、いわゆる脳味噌筋肉症候群の方々は、自分よ
り年齢の少ない人は自分より未熟であると信じたがる傾向が強力で
すから、この絶対定理に反することは心が受け付けません。
同様に、不揃いのリンゴの大好きな愛に満ちた仙人コスプレタイ
プ、言うなれば無印良品絶対主義の方々は、ブランドでないという
事それ自体に歪んだ執念を持っているため、地道に努力を積み重ね
て王道を歩く人の意見には、無条件で反対してしまいます。

愛する相手にその気持ちが拒絶される人というのは、ようするに、
相手に信頼されていないということなのでしょう。危害を加えない、
嫌なことをしない、そういう基礎的な部分で、相手に不安を与える
ような、そのような言動や行動をとっていることだと思います。こ
れは、必ずしもその行動そのものが良いとか駄目だとかではなく、
その特定の相手にとって受け入れ難いという意味です。熱帯魚にと
って快適な水槽は、氷の張った湖に住むワカサギにとっては息苦し
い拷問部屋になるわけです。

ただ長い間生きてきただけなのに、あたかも人の心のすべてをわ
かっているかのように思い込む人たちは、どんなにわかりやすく説
明しても、人にはそれぞれの好みや価値観があるということを、わ
かろうとはしてくれません。付き合う前に決めたシナリオを絶対だ
と信じ、そこからはみ出した部分に奇妙な理屈をこじつけ、虚像の
相手にしか通じぬ好意を得意げに押し付け、受け入れられぬと相手
をなじります。

悪意は怒りだけを生みますが、無知と傲慢は絶望と悲しみを、当
事者の全てに広げます。


           【恋愛実践講座】

              実践


宝くじを買わなければ、損もしないかわりに賞金が当たることも
ありません。入学試験を受けなければ、落ちて恥をかくこともない
かわりに新しい教育を受ける権利も得られません。自分の望む何等
かの成果を得るためには、うだらうだらと愚痴こぼしたり他人の悪
口を言ったりするだけの仲間から飛び出して、そのために必要な行
動を起こさねばなりません。

為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さざるなり
けり。

オリンピックで金メダルをもらうとかいう類の例をだして、この
ことわざを茶化すことは簡単ですが、おしりの青いぼっちゃんじょ
ーちゃんでないあなたには、先人の言いたかった意味は理解できる
ことと思います。散歩のついでに富士山に登った人はいないように、
何かをしようと思うなら、明確な意志としかるべき努力は必要であ
るという意味ですね。
学歴偏重主義への反省からか、世間で価値があると思われている
ことだけが全てではないという思想が流行していますが、それは決
して、ゲーセンでうんこ座りしてタバコふかしていれば、少年に素
敵な未来が約束されるという意味のつもりではないと思います。や
りたいことを貫くために世間の常識をあえて破るということは、い
やなことや面倒なことを避けた逃げ道を、とぼとぼと愚痴こぼしな
がら歩くのとは違うわけです。財産や職業は親に恵んでもらうこと
ができても、人の心に関することは、自分で努力して手に入れるし
かありません。

よく、田舎の公民館なんかで恋愛についての演説なんかを企画す
ることがあります。商工会議所なんかで「近代経営」についての勉
強会なんてのもあります。そこそこのせんせーが素晴らしい理論を
おもしろおかしく教えてくだすって、聞いていると、おおそうだ、
なんて納得して賢くなったような気持ちになれる、ほんとに有意義
な講演会が多くて、素晴らしいと思います。でも、ほとんどすべて
の場合、一晩寝て起きたとたん、昨日までのありきたりの自分にも
どってしまっているものです。
そう、所詮他人の経験なんぞ、いくら聞いても役には立たないも
のなのです。本に載っている情報をスクラップして貯えても賢くな
った錯覚しか持てないように、水泳の理論書を暗記してもそれだけ
では泳げないように、自転車の組み立て説明書と走行原理を学んだ
だけでは乗れないように、自分でやってみようとしない人は、腰が
曲がるほど長生きしたって何もできたりしないのです。

あなたが、恋をしたい人を愛したいと思うなら、あなたの想いを
相手に伝えることからしか、何も始まりません。言葉にせよ態度に
せよ、目に見えない心の中の好意を相手の心に伝えて初めて、何か
が動きだすわけです。
こんなことのわからない人はいないわけで、それなのに何もせず
にうじうじしている人が多いのは、打ち明けて拒絶されてゼロにな
るよりは、何もしないほうがマシ、みたいな感覚があるわけです。
どうして打ち明ける前にはゼロではないかというと、そこには一
方的な期待があるわけで、受験しなければ一流校でも不合格にはな
らないけれど、受験したらはっきりしてしまうのと似ています。つ
まり、駄目だと言われるまでは夢を見ていられる、プライドを傷つ
けずにぬくぬくしていられる、何というか、ガンと診断されるのが
恐くて集団検診を受けたくない人の心理と似ていますね。
その程度の気持ちなら、無理に恋愛なんてすることはありません。
立身出世や高学歴が人生の全てではないように、恋愛が全てでもな
いわけで、法律を守って生きている限りは、何かをする自由ととも
に、何かをしない、あるいは何もしない自由だってあるわけです。

そして、どうしても気持ちを伝えたい、言い出せずに暮らして後
で後悔するくらいなら、拒絶されたほうがまだましだと思う人は、
やっぱり、一歩踏み出すしかないですね。がんばってください。き
っと傷ついたり失望したりするでしょうけど、悟ったふりして安全
地帯でお鼻ぴくぴくしてるだけの「若い老人」より、はるかに充実
した人生を送れることを、わたしは保証いたします。

闇を照らすは叡智、傷を癒すは愛、いざゆかん、無限の闇に向か
いて。。。。







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